弥生渡来人の再整理
縄文時代晩期、逼塞状態にあったこの日本列島に、朝鮮南部から水田稲作農耕技術が伝播した。
その最初期の農耕技術をもたらしたのは実は縄文人自身だったという見方があるが、朝鮮半島南部や、もっと遡れば山東半島・遼東半島などからの渡来人が、農耕技術の伝播・実地指導に関わったことは確実である。それは石製の農具などの伝播ルートで確認される。
ただし、この菜畑曲り田段階の渡来は、唐津平野や糸島平野という比較的狭い範囲に、数百人の規模であったとされる。
微妙なのは糸島半島の新町遺跡の支石墓から出土した人骨である。その人骨が、新来の文化であった支石墓という墓制をいち早く採り入れた縄文人自身であったか、支石墓が盛行していた朝鮮西南部から移住した低身長・低顔型の渡来人であったか、このあたりはいまだ結論が出ていない。
ただ、礼安里古墳人や無文土器時代の少数の出土人骨の研究から、櫛目文土器時代(朝鮮の新石器時代)には、縄文人に似ていた朝鮮半島南部の人々も、すでにこの時代・無文土器時代中期以後の人々は、高顔、高身長の集団に変貌していたという見方が、最近強くなって来ている。
次の渡来の波は約200年後、板付遺跡を初めとする福岡平野への渡来である。この渡来も環壕集落というような新しい概念を伴い、かつ松菊里型竪穴住居という朝鮮の土着技術を持ち込んでいることから、朝鮮半島南部からということがほぼ確実であるが、規模はかなり大きく福岡平野から北部九州を埋め尽くした。
そして、彼等渡来人の無文土器技術を基に作られた初期の弥生土器、板付Ⅰ,Ⅱ式土器は、一般的には遠賀川式土器と総称されて、西日本各地へ稲作と共に伝播した。
その後おそらく2、300年の間に、次の、長江中・下流域ないし江南地方からの直接の渡来があったと考えられる。
それを端的に現すものが高床倉庫すなわち高床の穀倉である。その渡来の影響がいかに大きいものであったかは、伊勢神宮の神殿が高床倉庫の形をそのままに、今に伝えていることからも推測できる。
さらに土ヘンの環壕集落が先行する中、水ヘンの環濠集落が西日本地域の各所に出現してい
ることも長江中・下流域からの文化の伝播を裏付けるものである。
下の写真は、堅田遺跡の見事な環濠の跡であるが、環濠集落の概念が、有明海沿岸地方から時を措かず、急速に近畿地方にまで広がったことを示している。
また、甕棺墓が北部九州に限って隆盛することについて、朝鮮半島にその痕跡はなく、長江中流域の石家河遺跡から北部九州と同様の大人用の甕棺が発掘されている事が注目される。さらに前節のタミル語の検討でも触れたように、南インドのタミル地方などでも大規模な甕棺墓群が認められる。
こういうことから筆者は、長江中流域を発進地として、遺体を大型の甕に密封し、死者の魂を安んじ、現世への祟りを納めるというような葬送思想が、水稲文化と共に東西に伝わったのではないか、と推測している。
また、前原平野、福岡平野、佐賀平野、嘉穂盆地にのみ、この墓制が地域限定的に隆盛し、期間的にも上のグラフに見るように、弥生時代中期初めから後期前半までに限定されること、他地域には殆ど伝播していないことから筆者は、北部九州の最有力の首長(或いは王)がこの葬送思想に傾倒し、それがこの地域限定的な甕棺墓埋葬競争を惹き起こしたのではないか、と考えている。
人類学ミュージアム館長の松下孝幸も、甕棺思想(筆者の考えとはやや異なるが)が吉野ヶ里弥生人を衰退させた、と鋭く指摘している。
・・・佐賀平野の丘陵では、何千という甕棺が出土する。想像を絶するエネルギーが、この死者を納める甕棺作りに費やされている。
この甕棺が出土する様子を見ていると、彼らは復活することを信じていたのではなかろうか。あるいは不老不死の世界を信じていたのではないだろうか、と思ってしまう。・・・・
・・この死に対する考え方が、・・生きるために傾けるべき努力を、ひたすら死の世界に注いでしまったために、集団としての体力が衰え、簡単に畿内政権の進出を許す結果となったのではなかろうか。(松下孝幸「日本人と弥生人」p96)・・・
次の渡来の大きな波は、05.「青銅器文化をもたらしたのは誰か」で取り上げた、弥生前期末2,400~2,500年前、朝鮮半島北部から中国東北部の青銅器文化の影響を受けた人々の渡来である。
彼等は、中国東北部の東胡(のちの鮮卑、烏丸)の侵入を受け朝鮮半島で武力闘争が激化する中、戦禍を逃れてきた人々でありその集団の規模はそれまでの渡来人の規模と比べ、かなり大きかったと言われている。
以上の渡来人到来の波を一覧表にすると次のようになる。
縄文晩期、76,000人程度まで落ち込んだ日本列島の人口は、水田稲作農耕を中核とする弥生文化の導入により、弥生後期には約600,000人というかってない人口規模に拡大したと小山修三は算出している。
さらに、この日本列島は、西暦700年頃、すなわち飛鳥時代末・奈良時代初め頃には5,400,000人の大国に成長する。
一覧表にまとめると、次のようになる。
弥生時代の渡来人の規模
埴原和郎はかって「100万人渡来説」として有名になった渡来人数の試算を発表している。
これがその試算表である。ただしこの試算は当時の年代観のもと、弥生時代初め(紀元前300年)から飛鳥時代末期(紀元700年)までの1000年間の渡来人の試算である。埴原はこの間の人口急増は農耕社会に大転換したといっても、通常の農耕社会の人口増加率ではとても説明できない。
その不足分を補うには130万人~150万人、すなわち100万人以上の規模の渡来人を想定する必要があるとしたのである。
人類学者は出土人骨の分析から総じてこの見方に賛成である。下図のように関東地方でも渡来人の割合が6割を示し、北部九州では8~9割を占めることも事実である。
一方、考古学者はこれまでの発掘結果からみて、北部九州においても西日本全体でも在来の住民を圧倒するような規模の渡来を想起させるような遺跡や遺物が全く報告されていないことを理由に、埴原を初めとする人類学者の見解に否定的である。
この学界間のギャップを解消する説を提示したのは中橋孝博である。中橋は本来狩猟・採集民である縄文系弥生人と渡来系弥生人の人口増加率を分けて考えた。
既に縄文文化の崩壊で見てきたように、縄文人の人口増加率は縄文後・晩期、マイナスで推移しており、弥生時代に入っても特別の回復は考えられない。
したがって、中橋は縄文系弥生人が一部稲作農耕を取り入れても人口増加率は大きく見積もって年間0.1%を超えることはないと推定した。
これは下のグラフのような植物質の食料源という観点からも同意できる。
瑞穂の国、日本の稲作文化は弥生時代から始まった。しかし、現代のように水田が農地を埋め尽くすといった景色はおそらく室町時代からである。
少なくとも弥生時代の貯蔵庫の中は縄文以来のドングリが、コメ以上に主要な位置を占めている遺跡が多く、標準的農耕社会の人口増加率を適用するのは少々無理であることがわかる。
一方、渡来系弥生人について中橋は、上掲の隈・西小田遺跡の甕棺墓数の推移や永岡、金隈の同様なデータから人口増加率を算出し、彼等にはほぼ1%という高率の人口増加率を設定して良いとしている。
筆者はこの中橋の集団ごとに人口増加率が違うはずだと言う考え方を踏襲しつつ、歴博の新年代観を取り入れるとどうなるか、算出を試みた。それが次の表である。
試算は次のように行った。
1.弥生初期と終期の地域別人口は小山修三の人口推定によった。小山の年代観は新年代観に近く、縄文晩期を弥生早期と読み替えるだけで整合性を持ち得た。
2.それぞれの地域の縄文系と渡来系集団の割合は、いろいろな研究成果を参考に表の数値のように、東日本ではそれぞれ40:60、西日本では20:80と筆者が定めた。
3.その結果、縄文系の集団の年平均人口増加率が自動的に算出された。ピンク色で示した数値である。東日本の縄文系の人口増加率は0.054と低く、西日本の縄文系の人口増加率は、中橋のいう0.1%を上回る0.157という数値となっている。 ただ、これも西日本の縄文人が、稲作の恩恵を東日本よりかなり多く受けていたとすれば、十分ありえたことでなかろうか。
4.渡来系集団については人口増加率を埴原の言う“通常の農耕社会の人口増加率”の0.2と0.3においてシミュレーションを行った。弥生時代の期間が埴原の100万人渡来説を唱えた時代と異なり、新年代観によってほぼ2倍の期間になったこともあって、中橋が許容した1%というような高率を適用しなくても、いずれのケースも納得できる渡来人の規模となった。 1,100年間で列島全体で50,000人から120,000人、年平均50人から100人という渡来人の推定結果は、人類学会にも、考古学会にも受け入れられる数値ではなかろうか。
古墳時代以後の渡来人の規模予測
先にも述べたように埴原の100万人渡来説は、弥生時代から奈良時代までの間の話である。
したがって少々先走りだが古墳時代からの人口増加について、ここで検討して見通しを立てておくのも意味のないことではあるまい。
そういうことから同じく小山修三の人口推定を使い弥生後期から飛鳥末期までの550年間の 人口増加率と渡来人数のシュミレーションを行った。それが次の表である。
この検討は予想を上回る大変な数値を含んでいる。
1.まず埴原の言う“通常の農耕社会の人口増加率”の範囲内(0.1%~0.3%)では渡来人数はまさに100万人から300万人と言う結果になったのである。
2.古墳時代、朝鮮半島では国の消長が激しかったので、一国が国を挙げて日本に亡命するということがあったかもしれないが、それでも渡来人数の想定として100万人以上すなわち年平均約2,000人という規模は考えられないのではないか。
3.とすると人口増加率を0.35~0.4と設定しなければならないが、中橋が提示した右の表・世界各地各時代の人口増加率からすると、十分許容される数値と考えられるし、古墳時代も稲作の技術革新が進んでいたことを考慮すると、リーゾナブルな数値であろうと考えられる。
上表の人口増加率0.35、渡来人総数440,000人という数値が、歴史上の事実に対応するのか筆者に判断する能力はないが、上限としてそれほど的外れな数値ではないのではないか。
また、人口増加率0.4以上におくと、古墳時代に渡来人は来なかったという、事実に反する結論を導いてしまう。すなわち、年平均の人口増加率を1%というような高率を設定する必要はないということになる。
以上の、弥生時代から古墳時代の渡来人の流入は、概念的には、次図のような形で、渡来人の拡散と縄文人との混交が進んだと推定される。
渡来人が称した氏族と祖先伝承について
平安時代の初期、815年に編纂された「新撰姓氏録」という、祖先(出自)を記録した名簿がある。
現存の新撰姓氏録に記録された1,182氏族のうち、中国・朝鮮からの渡来系というのは約3割で、そのうち中国系は4割である。すなわち全体のうち、約1割強が中国系渡来人ということになっている。
“なっている”というのは、在来系(皇別、神別)という氏族もそのほとんどが、実は弥生時代の渡来人ではないかと、筆者が推測するからである。
渡来系(諸蕃)のうち、百済・新羅・任那を除く、中国系および高麗(高句麗)系の代表的な氏族の出身地を示すと、次図のようになる。
筆者が注目するのは、その中に、弥生時代に相当する秦の始皇帝の子孫と称する氏族、呉王の祖・夫差の子孫を称する氏族がいることである。
これはそれぞれの氏族が、黄河中流域からや、長江下流域から渡来したということを主張していることにほかならない。その氏族の申告が正しいかどうかはともかく、これは渡来人の故郷を図らずも暗示しているのではないかと考えるのである。
(なお、上図のピンク線の→は北部九州を経由した可能性が高いことを付記しておく。)
以上、弥生時代の渡来人について調べてきた。
弥生の渡来人は、この日本列島に、自然=人間循環系の、且つ共同・平等社会的な「縄文文化」に代わる、自然管理型の水田稲作農耕と社会的余剰の発生に裏づけされた階層支配的な社会構造の「弥生文化」を持ち込み、繁栄とその一方で戦争や貧富の差をもたらした。
同時に渡来人は、古モンゴロイドの体質を保持していた縄文人(=基層人)に、寒冷適応を果たした新モンゴロイドという新しい血を持ち込んだ。
この二つの血は、弥生時代の後期には混血が進み、正に二重構造の血を持った、紛れもない在地人として、「倭人」と呼ばれる人たちになる。
そして次の時代、古墳時代には、さらに新たな渡来人を受け入れることになるのである。
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