縄文稲作はあったか

縄文の前~中期にヒプシサーマル(気候的最適期)と呼ばれる時代があった。6500年前から4000年前のことである。その当時の気温は現在より、東日本で2度、西日本で1.5度ほど高かった。その温度上昇は海水面を現在より2~3mから4m押し上げていたといわれる。

当然のことながら、たとえば上図のように関東平野などでは、海水が栃木県上都賀郡藤岡町のような内陸まで侵入した。これは「縄文海進」と呼ばれている。
その様子は貝塚遺跡が数多く内陸に分布していることから実証される。

この時代、縄文文化は最盛期を迎える。三内丸山の大規模集落があったのもこの時期であったし、八ヶ岳山麓に環状集落が繁栄したのもこの時期であった。

しかし、4000年前ごろから徐々に冷涼化が始まり、縄文文化の繁栄にも陰りが見えてくる。それはまた、次の時代・水田稲作を迎える序章の始まりとも言えるのである。第1部-10節、照葉樹文化圏とナラ林文化圏と一部ダブル面があるが、ここでは縄文稲作について少々詳しく調べたい。

(閑話)

地球の温暖化が問題となっている。これが長期的な自然現象によるものか、CO2など温室効果ガスの影響によるものか、いずれにしろ急速に地球の平均気温は上昇している。

そうした状況下で、縄文海進の事実は我々に大きな示唆を与えてくれる。少なくとも我々は人類の我が侭で“21世紀海進”を起こしてはならないと、銘記すべきであろう。

プラントオパール分析法

ある年配以上の方々は子供のころ、野原や川辺でススキの穂を採ろうとして、剥き出しの腕や足の脛などを鋭利な刃(葉)でスッパリ斬られた経験をお持ちだろう。これが所謂プラントオパールと呼ばれる物質の仕業なのである。

ススキをはじめ、イネ、ムギ、キビ、トウモロコシなどのイネ科植物は吸い上げた水分の中の珪酸という物質を、機動細胞という細胞に蓄積する性質がある。機動細胞に溜まった珪酸は細胞内で一つの固まり、珪酸体となる。

イネ科植物が枯れたとき、有機物は分解されて土に還るが珪酸体はガラス質であるため腐ることなく、そのまま1万年でも土の中に残留することになる。

その珪酸体というガラス成分が掘り出されたものがプラントオパールと呼ばれるのである。プラントオパールは植物の種類によってその形状が違う。事前にその形状を把握していれば遺跡などから出たプラントオパールがどういう植物に由来するものか分かるわけである。

土中から検出されるプラントオパールを定性的に或いは定量的に分析して、その植物の属や種を特定したり、野生か栽培かなどを判別する所謂「プラントオパール分析法」を確立したのは、農学者 藤原宏志である。

藤原の著書「稲作の起源を探る」から引用した次のイネのプラントオパールの顕微鏡写真をみると、イネのジャポニカとインディカの違いがよく判別出来る。

このプラントオパール分析法が開発されることによって、栽培や農耕の遺跡が発掘されなくとも、米粒や籾殻が検出されなくとも、イネのプラントオパールが認められれば稲作の可能性を考えることが出来るようになった。

しかも炭化米や籾殻、籾痕が認められても、他所から持ち込まれた疑いが拭えないが、プラントオパールは葉や茎がなければ発生しないものであるので多量のプラントオパールが検出できれば、少なくともそこにイネが生育していたと考えてよいのである。

遡る縄文稲作の年代

このプラントオパール分析法の開発によって日本列島に於ける古代イネの研究は急速に進むことになった。

1999年時点でプラントオパールが出土した遺跡は、農学者佐藤洋一郎によれば次の31例に及んでいる。

さらにその後、2005年2月には、岡山県の灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、イネのプラントオパールが大量に見つかった。その量は土1gあたりプラントオパール2000~3000個という大量のもので、上表の縄文前期の遺跡・朝寝鼻貝塚の数千倍の規模である。これはただ単にイネが何らか理由で持ち込まれたという規模ではなく、まさに栽培されていたというレベルである。

さらに小麦・キビ・ヒエやアフリカ原産のシコクビエ、コウリャンなども少量ながら発見されている。
今後縄文稲作の年代はもっと遡る可能性があるが、現在最も古い朝寝鼻貝塚の6400年前という年代測定が正しければ世界最古級の稲作遺跡である河姆渡遺跡からわずか600年でこの列島に伝播したことになる。

稲作は弥生時代から、せいぜい譲っても縄文晩期後半からという定説に相変わらず固執する学者もいるが、以上のように各地でプラントオパールが検出され、かつ大量出土する遺跡が現れてくれば、縄文稲作の存在自体を否定することはもはや出来ないであろう。

みえてきた縄文稲作

プラントオパールの検出状況からみるとかなり活発な稲作が推測できるのに、不思議なことに考古学的な直接の証拠、たとえば耕作の跡やそれに使う道具類が出てこないというのも事実である。 これは何故であろうか。

まず上表の31例の遺跡がある地形を見てみよう。大きく分類すると次のようになる。

・沖積低地  9例 (29%)

・台地及びその縁辺 18例 (58%)

・山間・山麓 4例 (13%)

現代の日本列島に住む我々にとって稲作とは無意識のうちに水田稲作をさす。しかしこの分類でみると、水田に向きそうな沖積低地は30%に満たない。

つぎにイネのプラントオパールに随伴して検出された雑穀や雑草について調べてみよう。
藤原宏志の「稲作の起源を探る」から調べると、

・岡山県南溝手遺跡出土の土器の胎土からイネとともにキビ族植物のプラントオパールが検 出された。
・上表よりやや遅い縄文晩期の遺跡、都城市黒土遺跡でもイネにくわえてアワ、ヒエ(キビ族植物)など雑穀類が検出された。

佐々木高明の「日本史誕生」によれば

・生物考古学の第1人者笠原安夫が岡山県の遺跡で、おびただしい炭化種子を調べた結果、縄文晩期の層から焼畑によく生えてくる畑雑草を大量に検出した。
・福岡市の四箇(しか)遺跡からヒョウタン・マメ・ごく少量のハダカムギとアズキの炭化粒、焼畑やその周辺に生育する雑草や樹木類の炭化種子が数多く検出された。

先述の彦崎貝塚の例や藤原、佐々木の叙述から見えてくるのは縄文のイネは主穀物ではなく雑穀の中のひとつとして位置づけられたのであり、且つ水田稲作ではなく、焼畑乃至畑作農耕が営まれていたと推定されることである。

佐藤洋一郎はこの辺りについて次のようにまとめている。

1.現在の東南アジアの焼畑(筆者注・・近世の日本の焼畑もそうだが)と縄文の焼畑との相 違点は、縄文時代の焼畑が平らな土地に開かれていたのではないかという点である。すなわち、人口密度の低かった縄文時代は土地も十分にあり、現在のように急な斜面などで焼畑をする必要はなかったのである。(筆者注・・沖積低地であろうと台地およびその縁辺であろうと焼畑の可能性が大きいと佐藤は指摘しているのである。)

2.1の地形と関連して縄文時代の焼畑には水が豊富にあったのではないかという点である。春先の水位の低いときに草原や隣接する森を焼き払い、夏の間は高くなった地下水位に支さえられて稲作を行う。渇水の年にはイネに代わってアワ、キビなどの乾燥に強い雑穀の収穫を見込む。反対に雨が多く湿った年にはイネが多く収穫出来たであろう。その意味では、縄文時代の稲作環境を「焼畑の稲作」と呼ぶことは誤解を生じるかもしれない。かって渡部忠世先生が言われた「水陸未分化」の稲作というのがより適切なようにも思われる。

このようにまとめている。(筆者注・・典型的な焼畑というイメージではなく、焼畑の土壌改良方法を取り入れた平地での畑作農耕があったと読める。)

縄文の稲作が低湿地での水田ではなく、やや高い台地のようなところでの焼畑のような稲作であったとすると、これからも畔のような遺構はもとより鍬などの道具も出土することは期待できないと言わねばならない。何故なら焼畑なら道具は棒杭1本でこと足りるからである。

縄文の稲作がプラントオパールなどの状況証拠ばかりが出て耕作跡などが出てこない原因がかなり明らかとなった今、縄文の稲作を否定する事由はなくなったと言ってよいだろう。

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