青銅器文化をもたらしたのは誰か

この日本列島に水田稲作文化が、高度な農耕土木技術や農具・工具などのクラスター(一塊のセット)として伝播し、弥生時代の幕が開かれた。そのルートは、

はじめに  ●(長江中・下流域→山東半島→西朝鮮→)朝鮮半島南部→北部九州

少し遅れて ●長江中・下流域→→→→→→(直接ルート)→→→→→→北部九州
この二つのルートが主であった。

水田稲作農耕の伝播には、当初、縄文人が主体的役割を果たしたとみられるが、縄文文化から弥生文化への大変革が起こった背景には、“渡来人”が集団で渡来しこの列島で生活を始めたことがある、と考えると自然である。

そしてその渡来人は、上の二つのルート上ないしはその周辺に彼らの故郷を持っていた可能性が強い。

しかし彼らの故郷は、さらに遡って探ると別の源流があるかもしれない。

たとえば水田稲作文化の伝播に同伴し、弥生文化に大きな影響を与えた金属器、とりわけ青銅器文化の源流などがそれに当たると考えられる。

青銅器文化の源流

日本列島に、はじめて青銅器がもたらされたのも北部九州であった。

福岡市の東郊、福津市津屋崎町の弥生前期初頭の遺跡・今川遺跡から、右の写真のような銅鏃と銅鑿(のみ)が出土した。

これらは実は、遼寧式銅剣という中国東北部を源流として、朝鮮半島全域に分布した特徴的な銅剣を再加工したものであった。

即ち、遼寧式銅剣の鋒部(きっさき)を銅鏃に加工し、茎部すなわち根元の方をを銅鑿として使ったものである。

遼寧式青銅器文化は、中原(黄河中流域の平原地帯)の青銅器文化をベースとし、北部の遊牧民の青銅器文化(更にいえば、青銅器発祥の地である西アジアから遥々遊牧民がもたらした青銅器文化)を融合した独特の文化といわれる。

この文化が、遼河流域から朝鮮半島全域を覆うには、ヒトの移動を伴っていた可能性が強い。(もちろん一方で、文化の伝播には、ヒトの移動を伴うこともあれば、文化だけが伝播することもありうるという、一般論をも考慮しておく必要があるが。)

したがって、朝鮮南部からの渡来人といっても、朝鮮南部の古くからの在地人もいれば、山東半島から稲作をもたらした移住民、そして中国東北部から青銅器文化を伝えた集団の一部であったかもしれない。こういうことを、想定しておかなければならないだろう。

今川遺跡出土の銅鏃・銅鑿に使われた遼寧式銅剣は、下図の松菊里遺跡の石棺墓出土のそれと同型の古式剣といわれ、更に、再加工された同じような銅鑿(下の写真の左下)も発見されていることから、朝鮮北部から中西部朝鮮を経て、南部朝鮮に至り、さらに海峡を越えてもたらされた舶載品であることは間違いないところであろう。

青銅器文化の本格的渡来

弥生時代の渡来人や文化要素は、全てがまとまって到来したわけではない。何回にも分かれて各地からやって来たものである。そのなかで青銅器をキーとしてとらえると、今川遺跡のそれを初期段階として、本格的渡来は、前期末から中期初頭にかけての時期である。

このころ、朝鮮半島は青銅器文化の第3期に入っており、銅剣は、遼寧式銅剣を祖形とする朝鮮化した細形銅剣に進化し、銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)が武器として加わり、さらに多鈕細文鏡、鈴などで構成されていた。

日本列島においても、この弥生前期末から中期初頭の時期は、弥生時代の重要な画期であっ
た。

・ムラはクニに成長し、弥生型(階級的)首長が誕生していた。

・この権力形成の動きは、必然的にこの列島で初めての“戦争”を惹き起した。

・福岡平野や佐賀平野では、地域限定的ではあるが甕棺墓が大流行し始めた。

など、水田稲作だけではなく、弥生文化が離陸期を迎えていた。

このような時代、朝鮮製の青銅器は、武器として使用されたことは勿論、首長等の墓に威信財として、副葬され始める。

朝鮮製の青銅器は、指導者のシンボルとして、社会編成の役割や政治的な意味を含めて、まさしく“渇望”されていたのである。

上の写真は、日本列島で最初の王国といわれる“早良王国”の首長の墓と目される、吉武高木遺跡の木棺墓から一揃いで出土したものであり、青銅器はすべて朝鮮製である。これこそ早良王の権威の象徴であったのであろう。

実は、玄界灘沿岸地方、すなわちこの早良平野を含む、唐津から福岡平野に到る地域では、クニの形成と首長間の熾烈な権力闘争が繰り広げられ、彼等は威信をかけて、朝鮮製の青銅武器や鏡を入手しようと努めていた、と考えられるのである。

その結果、舶載の青銅器は、玄界灘沿岸諸クニの首長が独占することとなり、南の佐賀平野や有明海沿岸の諸クニの首長たちは、入手が困難であった。

南の首長たちはこの事態に対し、時をおかずに対応した。そのことは、当時、青銅器が如何に重要な威信財であったかを物語っている。

南の首長たちは、弥生中期初頭(前期末の可能性もある)には、青銅器生産技術者を朝鮮から意識的に招聘し、中核的集落の渡来人居住区に生活の場を提供し、青銅器の現地生産にいち早く踏み切ったのである。

最大の中核都市、吉野ヶ里遺跡では、坩堝(るつぼ-溶解壺)や鞴(ふいご-送風装置)の羽口(送風口)などの精錬装置や、青銅器製作過程で出る銅滓(どうし-残りかす)や鋳バリが発掘されている。

また、次の図の青銅器鋳型の分布は、玄界灘沿岸地方のクニグニが朝鮮からの舶載品に依っていたのに対し、佐賀平野・有明海沿岸地域のクニグニが青銅器を自製していたことを、明快に示してくれる

これはおそらく、北部九州の中でも北と南とでは、集団の渡来時期の違いだけではなく、集団の出身地や系統が違う可能性を示しているとも考えられる。

なぜなら、玄界灘沿岸地域と佐賀平野・有明海沿岸地域とは、青銅器を融通したり、青銅器生産の共同化を図ったりする動き、すなわち同朋意識は感じられず、対立ばかりが目立つからである。

第二波の渡来人

では本格的青銅器文化を日本列島に伝えた、いわば大きな意味での第二波の渡来人とは、どういう集団、民族であったのだろうか。

朝鮮半島から渡来人は来たものの、それほど多い量ではなかったとする考古学分野の学者は、この時期の渡来を特別に取り上げることは少ない。

しかし、弥生時代、シベリアや中国から大量の渡来人の流入があったという見解に立つ、人類学系の学者は、この第二波の渡来を重視する。

たとえば人類学の池田次郎の、「日本人の来た道」(朝日選書614)によると、
・・・ 弥生前期末から中期初頭の渡来は、比較的短期間に衝撃的に起きており、渡来人の影響力の大きさは、渡来した集団の規模がそれまでの渡来人に比べればかなり大きく、その出発地がそれ以前の渡来人と違って朝鮮半島の南部ではなく、それより遠く離れたところだったことを示唆している。

弥生前期末といえば、北部九州に朝鮮系の青銅器がまとまって入ってくる時期であるが、そのころの遺跡から円形粘土帯土器という無紋土器時代後期前半の土器が出ている。

これらの文化要素の搬入に前3世紀ごろ朝鮮半島北部から南下した農民が絡んでいる疑いがある。・・・と述べている。

また、たとえば考古学者の中でも春成秀爾は、弥生前期末、匈奴(=胡)の東側に勢力を張っていた、東胡の一部が朝鮮半島西北部に進入し、それをきっかけとして朝鮮半島では各地で武力闘争が激化するようになり、農民の中には故郷を捨てて海を渡ったものがいた、と推量している。

池田次郎は、この春成の見解を敷衍し、朝鮮北部から南下した人たちが単なる移住者ではなく、戦禍を避けた難民、流民であったならば、彼等は玉突き式に移動したのではなく、朝鮮半島を長躯、縦断して南部に達し、大半はこの地に落ち着き、先住民と融和して礼安里古墳人(次節「渡来人の故郷はどこか」で触れる)の祖形となる集団を誕生させた。

そして一部の人たちは、海峡を
越えて北部九州に渡った、と考える。

彼等こそ、弥生前期末期に、北部九州に東胡-朝鮮系の青銅器や石槨墓、それに鉄器の文化を持ち込んだ人たちというのである。

この新来の渡来人を「技術者型」とよんだ本間元樹(大阪府文化財調査研究センター)によると、彼等は主として渡来人だけで集団をつくり、大陸から持ち込んだ様々な技術を周辺の在地人に伝えたという。

また片岡宏二(小郡市埋蔵文化財センター)は、青銅器生産は当初、渡来人集落で始まったが、中期後半になると弥生集落のなかでおこなわれるようになり、渡来人の伝統的無文土器文化は完全に弥生土器文化の中に吸収され、渡来人も弥生社会の中に取り込まれてしまったと述べている。

すなわち、第二波の渡来の大きな波が来て以後、弥生時代の渡来人は、現地人に次第に同化してゆく形で、本土日本人の形成に大きな役割を担ったということが出来よう。

以上、朝鮮半島南部からの渡来、中国大陸からの渡来、青銅器を伴う朝鮮北部からの渡来を、3節に亘り考察してきたが、その渡来人の故郷を、現地の人骨資料などで特定できるのか、それが次の課題となる。

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