ミトコンドリアDNAから見た日本人の祖先

ミトコンドリアDNA(mtDNA)の最新の研究から先祖集団の探索を続けていく。テキストは、篠田謙一の「日本人になった祖先たち-DNAから解明するその多元的構造-」(NHKブックス)である。

日本人の mtDNAは何型か

次の図は、篠田謙一が提示するmtDNAの亜型(ハプログループ)の系統関係図である。

アフリカのL3亜型集団から派生したM系統とN系統のグループが、出アフリカを決行?し、M系統のグループは、アジア地区の範囲だけで繁栄し、N系統グループの方は、分岐を繰り返しながらアジアからヨーロッパまで、いわゆるユーラシア大陸全体で繁栄している様子を見事に表している。

そして筆者が赤丸で囲んだ亜型が、日本列島に居住する三民族、すなわちアイヌ民族・本土日本人・琉球民族が保持しているmtDNAの亜型の種類である。

日本人は、無意識のうちに自らを単一民族だと考えがちであるが、実はDNAという観点から見ると、非常に多様な人々の集りであることが解る。

三民族別に、それぞれのmtDNA亜型の割合(頻度)をグラフ化すると次のとおりである。

1.このグラフを見ると、日本の3民族には全て、東アジア最大のmtDNA亜型、D亜型(Gを含む場合もある・・・mtDNAのDループ解析だけでは、DとGの区別がつかないからである。)の人々が4割前後の割合(頻度)で存在し、なかでも北方系のD4亜型が圧倒的多数を占める。また、アイヌは過って、コーカソイドではないかと云われたこともあったが、アイヌの集団もこのD亜型やG亜型を高頻度で保持することは、紛れもないモンゴロイドの集団であることを示している。

2.M7aは沖縄で最も高い集積を示す、南方系の亜型である。列島を北に行くに連れてその頻度が低下する傾向があることは、下のグラフから読み取れる。しかし現在でも北海道のアイヌにおいて、16%の頻度を保っていることは、筆者の見解では、かってアイヌの祖先が東日本縄文人として、中部地方まで分布していた時代、南方からの影響を強く受けていたからであろう。

3.北海道アイヌにおいて、Y亜型が大きな頻度を示すが、この亜型は本土日本人、沖縄人にはわずかしか認められない。このY亜型の分布は、北東シベリア、特に沿海州の先住民に限られる。最近オホーツク文化を担った人たちの人骨が調べられ、彼等がこのY亜型を保持していたことが確かめられた。すなわち、このY亜型は、5世紀末から10世紀まで北海道地区に大きな影響を及ぼした沿海州の“オホーツク文化”の名残が、アイヌの血液中にしっかりと残っていたのである。

縄文人と弥生渡来人のmtDNAの構成は

最近の豚インフルエンザのニュースでしばしばPCR法という言葉が取り上げられるが、実はこれは、DNAの増幅技術のことである。

この増幅技術のおかげで今や、ネアンデルタール人のmtDNAまで解析されている。

日本でも、縄文人や渡来系弥生人の古人骨からmtDNAが読み取られ、データベース化されており、篠田はそのデータを使って次のグラフを提示している。

ここで示された関東縄文人や弥生時代の渡来人というのは、下図の各遺跡から得られたmtDNAのデータである。

1.まず関東の縄文人は、現代日本人に多いD亜型の割合が小さく、さまざまな亜型が比較的均等に存在するというのが特徴といえる。個別に見ていくと、BやFは東南アジアを中心に分布している亜型であるが、一方M10のように中央アジアという遠方に見られる亜型もある。この結果から見て、関東縄文人の源郷としてアジアの狭い地域を特定することは困難である。

2.この解析対象の関東縄文人は、大部分が縄文中期以降の人骨であり、この時点でこのように多様なmtDNA亜型が存在しているということは、縄文人が単一あるいは少数の集団から形成された単純な集団ではなく、長い年月の間に幾重にも集団の流入と混交があったことを窺わせる。且つ、縄文時代が一般に考えられているような鎖国的且つ閉鎖的な時代ではなく、このストーリーの中で筆者が強く主張してきたように、開放的で交易なども盛んな時代であり“国際交流”なども盛んであったことを推量させるものである。

4.一方、渡来系弥生人は関東縄文人とは対照的に、D亜型やG亜型に分類される個体が、全数のうち約半分を占める。グラフから直ちに判断できるように、現代日本人のD,Gの頻度は関東縄文人と渡来系弥生人の中間の数値を示しており、混血の結果生み出されたものということが明らかである。

5.さらに、縄文人には見出されないN9aやZなどの亜型は、渡来人によって大陸からもたらされたと見て間違いない。このような縄文人と渡来人にみられる、明らかなmtDNA亜型の種類の違いは、それぞれが系統を異にする集団であったことを示す。そして、現代日本人が在来系の縄文人と渡来系の弥生人の混血によって成立したという、いわゆる二重構造論を強く支持する。

6.しかし篠田は、この問題はそれほど簡単に結論できるものではないと指摘する。それは、以上の篠田による研究が、“母系遺伝”をするmtDNAのデータに基づいているからである。九州大学の解剖学の金関丈夫によって指摘されたように、渡来人というのは一般的な侵入者の例から云えば、男性を主とした集団のはずである。彼等が地元の女性を娶り子孫を残したのが、渡来系弥生人とすれば、mtDNAは在地の女性のものということになる。そうだとすると、上のグラフの渡来系弥生人のmtDNAとは、論理的に北部九州の縄文女性のmtDNAということになってしまう。すなわち、いま渡来系弥生人と関東の縄文人を比較したつもりが、実は北部九州の縄文女性と関東の縄文女性の地域差の比較をしていたのかもしれないのである。データの性格をしっかりと見極めないと、誤った結論を導いてしまう可能性があると、篠田は警告しているわけである。

なお少々敷衍すれば、人類学ミュージアム館長の松下孝幸は次のように記述している。・・・土井ヶ浜弥生人の場合は、少し事情が違う。ここから出土する人骨は、男性も女性も顔が細長く身長が高い。・・・つまり渡来系の特徴だけしかないわけで、在来の女性と混血した可能性はきわめて低い。この傾向は吉野ヶ里でも認められる。だとすれば、彼等は最初から家族単位で移動して来たと考えられる。(「日本人と弥生人」P74)・・・と。

縄文人や渡来人のDNAを現代人に見出せるか

日本のmtDNA研究の先駆者宝来聡が、縄文人骨(浦和1号)のmtDNAのDループ領域の文字配列を解明し、現代東アジア人(121人)と比較して完全に一致する配列をマレーシア人とインドネシア人の2人に見出したことは、すでに第1部03節で述べた。

それからほぼ20年、いまや国際的なDNAデータバンク(日本DNAデータバンク-DDBJ)に登録されたヒトmtDNAの全塩基配列は、3,000名(2006年時点)の上るという。

それらのデータを使い、亜型グループに分けて仲間を見つけるのではなく、宝来が行ったと同じ方法で、直接的にDループのDNA配列を比較することによって得られた数値を纏めたのが次の図である。

縄文人のmtDNAのデータ(複数)と合致した各地の現代人は、黄色で示した円の中の数値である。弥生人のそれは、スカイブルーの円で示している。

1.まず黄丸の縄文人から見ていくと、現代日本人の中に縄文人と合致するヒトが多いのは当然であろう。ところが現代朝鮮人に、日本人以上の合致者がいることに驚かされる。これはおそらく、新石器時代の朝鮮半島には、縄文人と同じ形質の半島人が居住し、ほとんど同一の文化圏を形成していたことを窺わせる。これは、第1部11節で、西北九州と朝鮮半島の漁労文化が同一文化圏を形成していたとしたことと符合する。渡来人の故郷としての朝鮮半島に、縄文系ともいえるDNAを持った人が多数いるということは、これまで不思議としてきた、福岡県糸島半島の新町遺跡で、朝鮮系の支石墓の中に、縄文人系の人骨が葬られていたことの謎が、これで解けるのかもしれない。なお、朝鮮半島には、金属器時代ごろから顔の長い、高身長の集団が大挙して押し寄せ、在来人と置き換わり、弥生の渡来人のベースとなったと考えられている。
2.埴原和郎は、二重構造モデルの基層人の出自を、今はほとんど海の底に沈んでいるスンダランド(氷河時代、東南アジアに出現した巨大な大陸)としている。ところが上図によれば、意外にもスンダランドの残部である東南アジア島嶼部の合致数が少ないのである。(データバンクの標本数に偏りがある可能性もある)こういうことも、埴原説に対して遺伝学の分野からの賛成説が少ない一つの理由であろう。

3.遠くシベリアから→バイカル地方→中国東北部→朝鮮半島→日本列島という縄文人の祖先の一つの伝播ルートが上の分布図から読み取れるようである。これは、松本秀雄のGm遺伝子の分析からの推論を裏付けているように思われる。

4.雲南の少数民族に縄文人と合致するものが多い。これも少々驚くべき結果であるが、雲南の少数民族には、かって黄河地域やチベット地方など、より高緯度に居住していた集団も多いと聞いている。これも縄文人形成の複雑さを示唆するものかもしれない。

5.一方弥生人についてみると、朝鮮半島に相同のDNAが多いのは当然として、それ以外では東アジアの北から南までほぼ均等に分布している。これも予想外の結果であるが、もう少しデータ量が増えないと正確な判断が出来ないのかもしれない。

日本列島の周辺地域との近縁関係

さらに日本列島周辺の集団と比較して、日本人になった祖先を探求したい。

われわれは、第3章06節 「渡来人の故郷はどこか」で、朝鮮半島の礼安里人や、山東半島の付け根の臨淄(りんし)人、長江下流域の胡場人などの人骨標本を調べてきた。そして、かれらの頭骨計測値が北部九州の渡来人と似た値を示すことを確認した。

それをここでは、“mtDNA亜型の頻度”から同じ地域の現代人の集団同士で比べてみる。

1.このグラフからは、まず山東・遼寧の集団(臨淄人に相当)と韓国(礼安里人に相当)、本土日本の集団とが保持するmtDNA亜型の種類およびその頻度において、ほとんど差異がないことに驚かされる。つまり、この3地域の集団は、言語も、文化も違うが、DNAに関する限りは同じようなヒト達が、同じ割合で存在している。これは、山東、遼寧、韓国から渡来人が日本列島に押し寄せて形成された、mtDNA亜型であると考えれば、十分納得出来るものである。

2.また、M7aの頻度こそ独自性を持つが、沖縄の集団も基本的には本土日本の影響が強いことが読み取れる。

3.それに対し、台湾の先住民や広東の集団は、明らかな異質性を示す。それはD4亜型が比較的低い頻度を示すのに対し、B4亜型、F亜型が極めて高い頻度の集団である。このB系統のグループの特徴は、mtDNAの文字配列のうち、9文字が欠落しているのが特徴である。このB亜型は、中国南部で40,000年前に誕生したと考えられており、いまでは南太平洋の島々に分布する海洋民族と呼ばれる人々は皆がこのB亜型集団である。またF亜型は、地域的広がりこそ示さないが、東南アジア最大の亜型集団である。この台湾や広東の集団、これは照葉樹林文化や長江流域の稲作文化を直接持ち込んだ江南地方人に相当すると考えられるが、山東・遼寧、韓国、本土日本のmtDNAに、相対的に低い割合ではあるが、しっかりと混入していることは、かって南から北への集団の移動があったことを物語っている。

埴原和郎が二重構造モデルで主張する日本人の成立は、形質人類学の立場から、東南アジア島嶼部系の人々が南西諸島を伝って本土日本に至り縄文人になり、後から東北アジア系の弥生人がやってきて徐々に混血し現在に至るというストーリーであるが、上図のmtDNAの構成 は、そのモデルの可能性を示唆するものであろう。

以上は、母性遺伝のmtDNAからの検討であるが、そのデータからはいろいろな見方が出来、結論を直ちに求めることが困難であることが判った。したがって次はmtDNA分析を補う意味でも、父性遺伝をするY染色体からの検討を加えたい。

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