騎馬民族征服王朝説について解説

太平洋戦争終結後まもない1948年、「空白の4世紀」「謎の4世紀」と呼ばれる、中国の史料から姿を消したこの日本列島に、突然いままでになかった馬具が大量に古墳に副葬され始めた、といった僅かな考古学情報を手掛かりとして構想された壮大な仮説、

正式名称は「東北アジア騎馬民族系王朝の日本征服・統一国家(大和朝廷)樹立説」が、少壮の東大教授であった江上波夫から提起された。

戦前の皇国史観からようやく解放されて、実証的歴史観をどのように打ち立てようかと学界が暗中模索の頃のことであった。

万世一系の天皇家が日本古来の出自ではなく、4世紀に日本を征服した東北アジア騎馬民族系の出自だったという破天荒な新学説はさぞかし当時の人々を驚かせたことだろう。

江上は言っている。

こういう学説というものは多くの裏づけがあって提起できるものではない。僅かの事実から深い洞察で構想されるものであると。従って、ミッシングリンクが数多くあると。

この砂上の楼閣ともいえる学説は、その後の新たな遺跡の発掘や遺物の出土によって裏付けられ、ますます確かなものになったと江上本人は言う。

そして最終的には、この説に反対する佐原真と江上波夫との「騎馬民族は来た、来ない」という大論争にまで発展した。

それだけに考古学に普段は興味のない一般の人々にまで常識として知られる学説となったのである。

江上は騎馬民族説を提示して19年後の1967年、「騎馬民族国家」(中公新書)を著し、更に24年後の1991年改訂版を出している。

司馬史観と称される独自の視点で、幾多の歴史小説の名作を生みだした作家・司馬遼太郎は、江上波夫を“最も敬愛する人”と言い、「独自の仮説なくして学問なし」という信念の司馬は“日本の考古学者で、40年の時に耐えうる仮説を提示し得た学者”として江上に対し最高の評価をし、敬意を払っている。

騎馬民族説の骨子

江上の著作、「騎馬民族国家」によって騎馬民族説の骨子を再確認しよう。

1)江上はまず弥生時代から古墳時代全体を俯瞰して、

・前期古墳文化は鏡や剣や玉の副葬など多分に弥生式文化の要素を保っており、“すこぶる呪術・宗教的色彩が濃く”その担い手の社会は魏志倭人伝に見る倭地の状態からあまり遠くないと想像されるとする。

・ところがその後の後期古墳文化(一般には中期古墳文化、後期古墳文化に時代区分されている時期)は前期のそれとは根本的に異質な文化が現れる。しかもその変化がかなり急激で、そのあいだには自然な推移を認めがたいと、江上は強く主張する。

その考えを一覧表にすると次のようになる。

2)後期古墳文化で副葬されている武器・馬具・服飾品の大部分は、–形象埴輪によってみられるところも同様であるが–3世紀ころから5世紀にかけて、満蒙・北シナ方面に大活躍した東北アジアの騎馬民族、いわゆる胡族のそれと殆ど全く同類である。

即ち、この大陸北方系騎馬民族文化複合体は、あるものが部分的に、あるいは選択的に列島に受け入れられたとは認められない。

言い換えれば、この文化複合体は、一体として、そっくりそのまま、何人かによって持ち込まれたものであろうと解される。

3)従来、馬牛の少なかった日本列島に、後期古墳時代になって急に多数の馬匹を飼養するよ
うになった。(下図参照)

これは馬だけが大陸から渡来して、人は来なかったとは解しがたく、どうしても騎馬を常習とした民族が馬を伴って、かなり多数の人間が大陸からこの列島に渡来して来たと考えなければ不自然である。

4)後期古墳の濃厚な分布地域が軍事的要地と認められるところに多い。
(筆者注:森浩一は前方後円墳は港の見える交通の要所に、とくに中期以降位置してるといっている。これも江上と同じような見方であろう。)

5)一般に騎馬民族は陸上の征服活動だけでなく、海上を渡っても征服欲を満足させようとする例が少なくない。(筆者注:蒙古襲来すなわち元寇はその良い例だろう。中国王朝の中で日本列島にはるばる侵攻したのは、騎馬民族であるフビライ汗の元朝だけである。)

したがって南部朝鮮まで騎馬民族の征服活動が及んだ場合、日本列島への侵攻もあり得ないことではない。

江上は以上の理由を挙げて騎馬民族説の正当性を次のように主張する。

—私は前期古墳文化人なる倭人が、自主的なネ立場で、騎馬民族的大陸北方文化系文化を受け入れて、その農耕民的文化を変質させたのではなく、大陸から朝鮮半島を経由し、直接日本に侵入し、倭人を征服・支配したある有力な騎馬民族があり、その征服民族が、以上のような大陸北方系文化複合体をみずから帯同してきて、日本に普及させたと解釈するほうが、より自然であろうと考えるのである。—

騎馬民族説と記紀の伝承との接合

江上はこの騎馬民族説と記紀の伝承とを結びつけ、次のような絵を描く。

そして、第1次の日本建国の立役者は崇神天皇であったとする。

崇神天皇は、呼び名は御間城入彦(ミマキイリヒコ)であり、その意は「任那の宮城に居住した天皇」ということであり、そう解することで任那が日本の肇国(はつくに、ちょうこく)の天皇の居城の地、その本拠とすればそこに天皇の直轄領-宮家-があって当然であろうし、またそこが日本国発祥の地として、そこにあった政庁が日本府と呼ばれていたとしても不思議ではないと説明する。

そうして『旧唐書』(くとうじょ)の日本国の条にある「日本もと小国、倭国の地を併す」とあるのは、渡海によるこの1回目の日本征服・建国の事実を指したものに違いないと江上は言う。

つぎに第2次の日本建国の主役を応神天皇に当てる。

応神天皇が記紀の伝えるところでは筑紫の生まれであり、かつ陵墓の方は畿内の河内にある。だから応神こそ北九州から畿内に進出し大和朝廷を創始した天皇に符合すると言うのである。

そして天孫降臨神話こそ第1回目の建国を記したものであり、神武東征神話が第2回目の建国を反映したものという。

すなわち騎馬民族は、記紀の伝承との照合によっても、4世紀初頭に筑紫を侵寇し、4世紀末ごろ北九州から畿内に進出し、そこに強大な勢力を持った大和朝廷を樹立した。それは応神・仁徳両陵墓に代表される、古墳時代後期の開幕に相応する、と江上は説明する。

倭の五王と騎馬民族説

4世紀、中国の史書から消えた倭は、4世紀末広開土王碑に登場し、5世紀にまた中国史書「宋書」に5人の倭王、讃・珍・済・興・武が登場する。

この時代の「記紀」に記載の大王と比較したのが下の表である。

誰が誰に相当するのか、いろいろな説があるが、一般的には「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇と言われている。

他に「讃」→仁徳天皇、「珍」→反正天皇とする説や「讃」は応神天皇で「珍」を仁徳天皇とする説などがある。

この時代、宋王朝の時代を含め、前近代の東アジア世界の国際関係は、中国王朝を中心とした冊封(さくほう・・官爵を授ける)という形式で秩序付けられていたとして、中国史学の西嶋定生は「冊封体制」という概念を提唱した。

すなわち中国に朝貢して来る夷狄(いてき)は、皇帝の徳を慕ってやって来たのであるから
遠来の夷狄の朝貢は、皇帝の徳の高さの証明とされ、皇帝の権威を高めた。一方、周辺諸国の王も、皇帝の冊封を受ければ、王としての地位を盟主である中国王朝に承認されたことになるから、国内の権威が高まり、周辺諸国との外交関係でも優位に立つことができた。

宋書の倭の五王の記述が重要な意味を持つのは、彼等が宋王朝に“執拗に”“異様な官爵”を求めたことであり、またその外交的意味である。

倭国王は珍から武まで一貫して、何故かしら、当時すでに存在しない秦韓と慕韓を軍政権の範囲に含めるよう求めている。また「百済」も軍政権の範囲に含めるよう強引に求めている。

“強引に”という意味は、百済は倭より早く宋王朝に朝貢していて、すでに宋から「使持節、都督百済諸軍事、鎮東大将軍、百済王」という立派な独立国としての冊封を受けている存在であったからである。これを百も承知で、宋王朝に求めたのは何故か。

これらのことについて各学者がいろいろな説を唱えている。

一つの説として、いまテキストとしている熊谷公男の説を見てみよう。

1.倭王が高句麗を除く半島全域を軍政権に求めたのは、倭国こそ反高句麗勢力の盟主なのだという主張を宋王朝および当時の東アジア國際社会に認知させようとした。その範囲を誇大に見せるため百済・新羅建国後、両国に服していなかった旧秦韓と旧慕韓の一部のクニをも「国」として軍政権の範囲に含めた。

2.倭国は宋王朝の支配する天下を認め、みずからその冊封を受けながら、一方で宋の天下から独立した倭の小世界を構想していたのではないか。

だから宋による百済の冊封とは別に倭国の軍政権下に百済を含めよ、と要求したのである。

大略このように熊谷は説明するが、一国の外交政策としてこれをみると、

1.は、いかにも姑息であり、

2.は、あまりにも自分勝手で国際的に通用する話とは思われない。

一般にこのような説明がなされるが説得力に乏しいと言わねばならない。

これに対し、江上の騎馬民族説による説明は、より説得力があるように筆者には思われる。

江上はまず以下のように疑問を呈する。

1)軍政権の及ぶ範囲に既に存在しない国、秦韓(=辰韓)、慕韓(=馬韓)が入っていること、その2国はそれぞれ新羅と百済の建国前にあった国で、宋に遣使した5世紀にはもはや全く存在しなかった国である。まことに異様としか言いようがない。しかも不思議なのはその2韓と並存した弁韓は加えていない。

ただ倭王が誇大な称号を欲したのであれば、弁韓を加えれば6,7国ではなく8国にでもなったのに、である。

2)次に注目されるのは、倭国は宋王朝の立場を無視して百済を軍政権の及ぶ範囲に加え続けたことである。宋は百済王に対し倭王より早くから冊封しており、百済を倭の軍政権に含めることは決して出来ないことであり、倭国も当然知っていたことである。そのような現実を頭から無視して強談し続けたのは何故だろうか。

この倭王の称号に関する2つの疑問、これらを一挙に氷解させうるような解釈があるのか。

江上は次のように説明する。やや長くなるが原文のまま引用する。

— それは、当時の倭王は.現実には朝鮮で任那(伽羅)一国だけを直轄領にしていたにすぎないが、かつて馬韓・弁韓・辰韓の三韓時代に、その支配権を三韓全体に及ぼしていたという事実、ないしそのような有力な伝承があって、したがって倭王は、現在でも南部朝鮮のすべてを支配する歴史的根拠・潜在的権利を保有している、という立場をとっていたのではないか。
そうして、その立場を明確にするために、新羅も百済も、そのもとになった秦韓・慕韓におよぶまで、過去から現在にいたる南部朝鮮の・・ただし弁韓をのぞく・・国々の名を列記し
て、南部朝鮮の支配権を過去にさかのぼって宋に追認させようとしたものではあるまいか。

また百済について強硬に要求したのも、同様な理由からで、現在百済は独立国であっても、他の南部朝鮮諸国と同様.本来倭国に属すぺきものであるということを、宋に確認させようとしたのであろう。

こう解釈すると、秦韓・慕韓や百済の問題が氷解するばかりでなく、弁韓をなぜ、倭国の一国としてあげなかったかという疑問も、容易に理解されるのである。すなわち任那は、倭王が現実に領有しているところであるから、そのもとの国の弁韓の支配権を宋に追認してもらう必要は今更、”ない”からである。

しかしこのような解釈には、三韓時代、倭王の祖先が真に南部朝鮮を支配した事実があったか、あるいはそのようなことを物語る有力な伝承があったか、どちらかでなけれぽならないという前提があるわけで、そのような前提が、事実として証明されてはじめて、決定的なものとなるであろう。–

江上は以上のように説明している。

筆者は宋書における倭の五王の狙いを説明するには、江上のような考えに立つことが最も合理的ではないかと思のである。

辰王と征服王朝説

上記のように、江上の説が成り立つためには三韓の時代、南部朝鮮を広く支配したなんらかの王がいなければならない。そうしてその王と、いま問題にしている日本列島と南部朝鮮との連合王国の王、すなわち江上が言うところの倭王とが関係づけられなければならない。

「魏志韓伝」によると三韓の時代、辰王という王がいて馬韓に属する月氏国に於いて治していた。辰韓、弁韓合わせて24ヵ国のうち半分の12ヵ国も服属していた。辰王は三韓以外の地(扶余・高句麗)から流移してきた人だったので、馬韓諸国の承認を得なければ、自ら立って王となることは出来なかったが、事実上王位を世襲していた最有力の支配者であり、征服王朝的性格の強い王であった、3世紀頃のことだ、と江上は言う。

その後、3世紀後半、魏の半島南下政策と衝突し辰王の勢力は衰えて、4世紀前半には百済が建国され、後半には新羅が成立する。支配地域が弁韓(=任那)だけに縮小した辰王あるいはその系統は打開策として、海を渡って倭国(筑紫)に進出し、いわゆる倭王、倭韓連合王国の王になった。

そうしてそのことが,『旧唐書』「東夷伝」の日本国の条に「或は言う、日本旧(も)と小国、倭国之地を併す」とあるのにも合致する、と江上は説くのである。

筆者は、倭王自身が辰王の子孫であったか、辰王の権利の継承者であったのか、この件に関しては甚だ疑問である。江上は考古学的証拠ですでに証明されたといっているが、筆者には説得性は低いと思われる。

ヤマト王権(大和朝廷)を征服王朝と捉えるよりも、たとえば倭王の側近、或いはブレーンに辰王系の人々が主要な位置を占めて外交政策を推し進めていたとも考えられるのではないか、その人たちが立案した、上記のような外交ストーリーを倭王は採用・推進したのではないか、そう解釈した方が納得性がはるかに高いと筆者には思われるのである。

辰王の血脈であったり、あるいは伺候していた人々が、馬韓(百済)や弁韓(任那)から招聘されたり逃避したりして倭国に入り、ヤマト王権の側近として重用され、国際社会の情報蒐集や外交政策の立案に力を振るったという想定は十分納得が得られるものと考える。

筆者も江上波夫の気宇壮大な仮説とその論理展開のうまさに、すっかり魅せられて随分詳しく騎馬民族説を検討して来た。次項で佐原真との騎馬民族は来た?来なかった!論争を検証し、渡来人(帰化人)の実態を把握したい。

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