弥生文化と渡来人の登場 〜タミル語とミッシングリンク〜

日本の各学問分野の排他的体質や閉鎖性はかなりなものだ。学際的研究の必要性や他分野との共同研究が、声高に唱えられる割には実態は遅々として進んでいない。

松本秀雄の「Gm遺伝子」の研究は、大変な労作で日本人の起源を論じる際決して無視してはならない秀逸な研究だと思われるが、松本が法医学の分野の権威ではあるが、遺伝学や人類遺伝学の分野の学者ではないということで、殆ど無視されているように感じられる。

また、この後取り上げる安本美典の「計量言語学による日本語の起源」の研究も、大変すぐれた研究だと思われるが、安本が本来統計学が専門の学者(筆者の見方)で、言語学者ではないということで、言語学界からは拒否され続けている。

しかし言語学に関係のない民族学の佐々木高明らは、公平な立場から安本の研究を高く評価していることを付記しておきたい。(「日本の歴史①日本史誕生」p256)

このような状況はまことに残念なことであるが、それだけに学界とは何の関係もない筆者のような立場のものが、その研究内容の素晴らしさを声を大にして喧伝する必要性を感じるのである。

これから取り上げる大野晋(2008年没)も国語学者が言語学に口を出すなと言わんばかりに不評である。もちろん不評な理由には比較語彙の取り扱いとか、歴史解釈の乱暴さなど正当な理由も存在する。

しかし研究の問題点の方を大きく取り上げ、それに加え日頃の本人の人柄を重ね合わせて葬り去る、という狭量さが罷り通っていては学問の進歩はありえない。

筆者はこの項で大野晋のタミル語同系説の中の有用な部分を指摘して、そういう風潮に一矢報いたい。

日本語・タミル語同系説

まず大野晋の説「日本語・タミル語同系説」を概観しよう。テキストは大野の著書・岩波新書の「日本語の起源」による。

インドは10億人を超える人口を擁し、多様な人種 、民族、言語、宗教によって構成されて
いる。日常の社会生活で使われている言語は850にものぼるといわれる。

語族で纏めると、インド・ヨーロッパ語族が74%(ヒンディー語・サンスクリット語系)、ドラヴィダ語族が24%を占めるといわれる。

そのドラヴィダ語族の一つがタミル語であり、右図はドラヴィダ諸語ごとの現代の使用地域分布である。

大野は日本語とタミル語が同系であるという、その証拠として次の5点をあげている。

1.すべての音素(a/i/u/e/oなどの母音やk/s/t/n/h/m/y/r/wなどの子音のこと)にわたって音韻の対応がある。

2.対応する単語が基礎語を中心に500語近くある。

3.文法上、ともに 膠着語 に属し、構造的に共通である。

4.基本的な助詞・助動詞が音韻と用法の上で対応する。

5.歌の五七五七七の韻律が共通に見出される。

以上の五ケ条は、日本語とタミル語が同系の言語であると考えることによって初めて理解出来ることである、と大野は記述している。

もちろん詳細は省くが、日本語とタミル語とで相違する点もある。

それは大野によれば、日本の地にタミル語が入ってくる遥か以前から使われていた言語、すなわち「基層言語」の古い性格が生き残ったためと説明する。

つまり、日本に非常に古く、基層言語としてポリネシア語族の一つに近い、音韻組織を持っていた何らかの言語があったところへ、タミル語が覆ったという事情が推測される。

ちょうどそれは、ケルト語という基層言語が使われていた地方に、ラテン語を伴ったラテン文化が進出してきてフランス語が成立したのと同じ事情であった、という。

農耕に関する言葉

筆者は、ここで日本語とタミル語が言語学的に同系であるという証明の当否を深く論ずるつもりはないし、またその能力もない。

筆者が注目するのは2.の対応する単語500語の中にある「農耕に関する言葉」である。

筆者は以前より言語学に不満を抱いていた。

それは日本語と同系の言語が近隣の民族に見出せない、あるいは言語学者が日本語の起源を探り当てることが出来ないからではない。

おそらくそれは現在ではなかなか困難な作業かもしれない。なぜなら同系と証明される言語はすでにこの地球上には存在していないかもしれないからである。また、日本語の基層に有った言語というのは、それほど古い言語かもしれないからである。

しかし、新しい文化や技術が日本に押し寄せた場合、すなわちラテン文化がフランス地方に押し寄せたように、それは新しい単語や語彙、文法体系を持ち込んだはずである。

このようなことは、例えばコンピューターなどの分野で現代の我々も、イヤというほど経験させられている。

これと同様なことが、たかだか、旧年代観でいえば2500、600年前、新年代観で言えば2800~3000年前に、本格的水田稲作農耕文化が渡来したとき、北部九州で引き起こされていたに違いないのである。

しかもそれは、自然循環系の生活文化を、農耕という人為的な生活文化に一変させたほど、強大な影響力を持つものであった。当然言語にも計り知れないほどの影響を与えた、すなわち基層言語の根幹に影響を与え、新しい語彙を大量に受け入れたに違いない。

農耕技術をこの日本列島に持ち込んだ人たちが在地の縄文人に技術や知識を伝えたり、農作業への使役ないし協力を求めたとき、彼等は彼らの農耕用語を現地語(縄文語)に織り交ぜながら使ったはずである。

筆者の不満は、これまで言語学の分野では、この日本列島に確かに外来語として持ち込まれたはずの水田稲作に関する用語、語彙をもつ言語を日本以外の地域に片鱗でも見出すことが出来ず、沈黙を決め込んできたことである。(筆者の不勉強かも知れないが・・・)

水田稲作農耕の伝播経路の地域に、より具体的にいえば、北部九州よりやや早い時期に水田稲作を受け入れ、北部九州への直接の伝播元となった南部朝鮮に、日本語の農耕用語と起源を同じくする語彙が残っているのではないか、このような想定は誰でも可能であろう。

大野晋は、「日本語の起源」のなかに「対応語と物の世界-稲作の始まり」という一項を設け、「農耕に関する言葉」を

・ 日本語とタミル語に共通するものとして27語 、

・ 日本語と朝鮮語に共通するものとして9語 、

・ 日本語、朝鮮語、タミル語の三言語に共通するものとして5語
を提示している。

次の表は、その大野が掲げている三つの表を筆者が一表に纏めたものである。

筆者にはこの表の語彙の対応が言語学的にどれほど正確なのか、論評する能力はない。

しかし、これほどの数の稲作農耕に関する言葉を提示しえたのは、大野晋が初めてだと思う。このことだけでも高く評価されてしかるべきだと考える。

新たな発見-水田稲作の第1次伝播と第2次伝播の痕跡-

さらに、三表を一表に纏めることによって、筆者には新たな発見があった。

上表の日本語に対応する朝鮮語は計10語であるが、そのうち7語が“農具を主とする道具”に関するものである。このことは次のような事情を推測をさせる。

筆者はこの第3部の04.で寺沢薫の弥生文化に関する“規定”を紹介した。
それは大略次のようなものであった。
・・・弥生時代の水稲農耕文化は、落葉樹林型と照葉樹林型の二つの重なりにある。前者は、朝鮮半島南部から玄界灘沿岸に伝わり、弥生文化の骨子となった。後者は照葉樹林帯を貫いて一歩遅れて伝播した水稲主体の文化で、弥生文化の肉になったといってもよい。・・・

この弥生文化規定の観点から、上の表を見ると、「農耕にかかわる言葉」のうち、耕作地や作物、食品など多くの農耕用語がタミル語から取り入れられているのに、一部の道具に係る用語は朝鮮語起源(おそらく長江中・下流域~山東半島起源)となっている。

これは、とりあえず大野のタミル語説を無視して稲作文化の伝播との関連を考えると、次のように解釈される。

水田稲作の第一波・朝鮮南部からの農耕文化が、高度に完成した包括的な水田稲作農耕の技術を伝えたことは間違いない。しかし当初は、農耕土木や農具など水田稲作を行うに当たっての必要最低限の具体的な“技術や道具”が特に重要であったと考えられる。

次に少し遅れて直接伝播した長江中・下流域からの水田稲作文化は、水田稲作の源流だけにとどまらず照葉樹林文化を基盤として発展した文化体系を持っていた。しかも照葉樹林文化は、すでに縄文時代に西日本に伝播し根付いていた。

すなわち北部九州ないし西日本人にとって、大変受け入れやすい性格を持っていた。

したがって、この第二波の水田稲作文化は第一波のそれを凌駕し、日本の稲作文化に現在に至るまで深く根付いてきた。

こうした時系列推移が考えられる中、農耕生活文化の大半の用語が第二波の言語から取り込まれて現在に至り、第一波の言語は農具などの技術的な用語を残すのみとなった。

こういうことが推定できるのではないかと考えるのである。

南インドの文化と弥生文化の同質性

大野は、南インドのタミル地方から遥々7,000キロを越えて伝来したタミル語を、基層言語である縄文語が受け入れ、同化したという雄大な、というより奇想天外な構想を説明するのに、言語学だけにとどまらず“南インドの文化と弥生文化”がパラレルに展開していたことをもって、その根拠としている。

それは新年代観を反映させるとさらに明確となる。なんと南インドの巨石時代と日本の弥生時代は3000年前、同時期に始まり、下図の青枠で囲んだ5項目すなわち、

①粟作・稲作の農耕が行われていた。

②墳丘墓・土壙墓・箱式石棺に加え、支石墓や甕棺墓まで存在する。

③土器に多種類の同じグラフィティ(考古学用語で、壁・土器などに刻まれた古代の絵画や文字)が彫りこまれている。

④青銅器・鉄器が同時に使われていた。

⑤機織が始まった。

が平行して存在した。

下表左側は大野が提示しているものであるが、右側の部分は新年代観で筆者が修正してみたものである。

なぜ日本と南インドにほぼ同時代、共通する文化が存在するのか。大野は自ら質問を用意しそれに答えている。(「日本語の起源-私の説に対する質疑」p223)

問1.7000キロも隔たった途中にこれらの文明的事象の平行の例があるのか。

インドのマイソール大学のラマンナ博士によれば南インドの巨石文化は東南アジアに広まり
フィリピンや台湾まで達しているそうである。この研究時点で日本と朝鮮の考古データが手
に入らず研究対象から外れているが、台湾から北九州、南朝鮮への流れは全く自然であると
言う。(筆者はこのラマンナ博士の見解には同意しかねる。フィリピン・台湾からの流れ、すなわ ち「海上の道」はこれまでの検討ではあまり機能してこなかった。このルートを辿る文化の流れは、断続的で、断片的で、かつ希薄である。フィリピン・台湾から南西諸島への強い文化伝播の痕跡はない。)

問2.タミルから文明が来たというが、タミル人が来た証拠があるか。

大野はこの問に「来た」と答える。その証拠としてタミル語の“pul-am”(村・区域)は日本書紀に出てくる“フレ(fure)(村)”に対応する単語であるという。そして現在でもそのフレを使う地域が長崎県壱岐に存在するという。東触、西触、・・仲触、大久保触・・・など100例に及ぶという。

(仮に、pul-am=fureという対応が正しいとして、地図で調べると確かにたとえば壱岐市郷ノ浦町 東触はじめ、いろんな“触”が島全体に実在する。しかしこの壱岐島だけの証拠でタミル人が来たと言えるだろうか。タミル人が言語にそれほど大きな影響を与えたとするなら、もっと広汎な地域に触という地名が残っていて良いのではないだろうか。)

問3.タミルと日本の間に両者の言語の仲介地となるような場所があるか。

タミル語や日本語に近い言語が話されている所は、いまのところ明らかなものはないと、大野は言う。そういうところはないけれども、タミル語は確実に朝鮮語にも約400の対応語を残しているとしている。

下表はそのうち農耕にかかわる単語で且つタミル語、日本語、朝鮮語に共通するものである。

南インドの文化が遥々日本に影響を与えたとすれば、同時に朝鮮半島に影響を与えたとしても不思議ではない。これは、問の「言語の仲介地」ではなく、朝鮮半島が日本列島と同時に同じ言語の影響を受けたという証明に過ぎないのではなかろうか。

要はタミルと日本の文化の平行について大野晋は、自ら言語学の範疇を越えて文化的側面から、その正当性を証明しようと試みたにも拘わらず、7000キロの距離を越えてタミルの文化が日本列島に到達したという、説得力のある説明が出来ないでいる。この点もタミル語日本語同系説が受け入れられない理由の一つであろう。

タミル語と日本語のミッシングリンク

筆者は、大野晋の稲作に関する同系の語彙の発見、この素晴らしい成果をタミル人が北部九州に渡来して稲作を伝え語彙を残したという、荒唐無稽な文化伝播説に埋もれさせてはならないと思うのである。

“南インドの文化と弥生文化”に共通する上記5項目のうち、筆者がとりわけ注目するのは甕棺墓が両方の文化で同時期に存在することである。

甕棺墓は幼い子供を葬るときに、しばしば各地で使われる墓制である。日本でも縄文時代から存在するし、東アジアや東南アジア各地で見られる。

しかし大人の墓制としての甕棺墓は必ずしも普遍的ではない。日本列島でも北部九州の、それも福岡・佐賀両平野に一時的に存在しただけである。

弥生前期末、突然北部九州平野部に出現し、弥生中期中葉に最盛期を迎え、その後弥生後期には衰微してしまう。

一つの集団墓地には甕棺墓が数百~数千の規模で埋まっている。

大野によると、これと同様の甕棺墓群が南インドでも見られるそうである。(下の写真は大野自身が撮影したものという)

南インドの甕棺は、インド巨石時代のはじめ、紀元前1,000年ごろから南インド全体に広汎に存在し、たとえばタミル州南端に近いアーディチャナルールという所には、何万という甕棺の原があるという。また大野が実見した上の写真のアミルタマンガラム遺跡も、数百規模の甕棺墓群があるという。

大野はこうした事実から、タミル人がタミル語とともに甕棺とそれを墓として使うという思想・習慣を北部九州に伝えたと言いたいらしい。

もしそうだとすると、甕棺の製作技術や埋葬の方法まで、北部九州のそれと南インド・タミル地方のそれが共通していることが必要である。

しかし事はそう簡単ではない。

人類学ミュージアム館長の松下孝幸は「日本人と弥生人」(p95)という著書の中で、
・・・この大型の成人用の甕棺がどこから来たのか、現時点では判明していない。中国はもちろんインドまで探しに行った学者もいるが、決定的なことはわかっていない。・・・
と著述している。すなわち、インドの甕棺と北部九州の甕棺が同じものだという確証はないと言うのである。

この甕棺墓は支石墓のように朝鮮から伝播した文化でもない。甕棺墓のルーツを探りかね、九州周辺の学者の間では、この甕棺は弥生文化に独自なもの、メイド・イン・ジャパンではないかと言う学者も少なくないくらいである。

そこで筆者は一つの仮説を提示したい。

それは南インドと日本列島の間にミッシングリンク(この言葉は、本来は、生物の進化・系統において、化石生物の存在が予測されるのに発見されていない間隙を意味する。)が存在したのではないか、という考えである。

仮説:3,000年前長江中・下流域に、先に大野が挙げた5項目の文化を包含した集団がいた。

彼らは、黄河流域から南下してきた集団との戦いに敗れ、一部は東に、一部は西に南に逃れた。

東に逃れたうちの一派は北部九州にたどり着き、弥生前期後半に甕棺墓の風習や弥生文化の多くを広めることになった。

一方西に逃れた一派は、雲南センターを経由して更に西に進みドラヴィダ族のタミル集団に稲作とやはり甕棺墓などの弥生文化に並行する文化をもたらした。

この結果、日本列島と南インド地方には、あたかも南インドの文化や言語が日本列島に伝来したかのごとく、同じ文化や言語がほとんど同時期に平行して存在するという状態を現出した。

こういう風に考えれば大野晋の日本語タミル語同系論は無理なく説明できると考えるのである。

長江中・下流域で日本語に取り入れられた稲作農耕用語を使い、成人の大型甕棺墓文化などを持っていた民族集団がミッシングリンクの候補となる。

その民族集団はすでに他の集団に吸収されるなどの理由で消滅してしまっているかもしれず、したがって数ある中国の少数民族のなかにも日本語の稲作用語の源流と考えられる言語が見出せないのかもしれない。(ミッシングリンクの発生を図示すると次のようになる。)

筆者はこれまで、縄文稲作から弥生の水田稲作まで、渡部忠世や王在徳、佐々木高明、安田喜憲、佐藤洋一郎等の説をかなり詳しく学んできた。それぞれ要約すると

渡部忠世・・・稲作はアッサム雲南センターで発生し、四方に広がったことを明らかにした。

王在徳・・・・河姆渡遺跡などの発掘を通じ稲作は長江中・下流域で発生し、次第に周辺に広がったとする説を提示した。今や主流である。

佐々木高明・・アッサム雲南センターを含む東亜半月弧を設定し、そこから照葉樹林文化が日本列島に伝来したとした。

安田喜憲・・・寒冷化という気候の変動が、黄河方面の畑作牧畜民の何波にも亘る南下を招き、長江の稲作漁撈民を侵略した。その結果、長江の民族集団は逃避し、四散することになったことを明らかにした。

佐藤洋一郎・・稲作の長江中・下流域発生説ををイネのDNA分析から証明した。

多数の学者の考えを融合し、まとめて図示すると次のようになる。

この図は上図のミッシングリンク仮説とピッタリと一致し、仮説の可能性・正当性を強く支持しているように思われる。

もちろんこの仮説の証明には各方面からの検証が必要であろう。

たとえば学者の意見を集約すると、北部九州の甕棺墓と南インドの甕棺墓、さらには石家河遺跡などの長江中・下流域の甕棺が、形状や製作技術に於いて、それぞれ異なっているようである。

とすれば、ミッシングリンクに当たる民族集団の、甕棺墓の思想や死者に相対する考え方だけが北部九州や南インドに伝わり、現地の土器製作技術や現地の従来からの土器形状と一体となって、それぞれの甕棺墓文化を創ったと考えなければならない。

このように今後多くの検証が必要であるとしても、大野晋のタミル語説が、数多くの稲作農耕用語を提示してくれたことによって、東アジアの広域に亘る文化伝播の構図が一層明らかとなり、且つ日本語の中の稲作語彙の起源を微かに示してくれたと、筆者は高く評価するのである。

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