日本人の源流を探して〜空白の4世紀のヤマト王権〜

倭国が歴史に記載されない空白の4世紀といわれる時代、中国は五胡十六国時代であった。

五胡十六国(ごこじゅうろっこく)とは、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。

また朝鮮半島は強大な高句麗と馬韓(→百済)、辰韓(→新羅)、弁韓(→伽耶(かや)の時代である。

古事記・日本書紀にはこの時代、神功皇后の業績が華々しく記述されているが史実であるかどうかははなはだ疑わしい。

また、朝鮮側の資料として三国史記(新羅本紀)の記載や三国遺事があるが、これらの下敷きとなった「旧三国史」など原本が現存しないこと、そもそも執筆が12世紀のことであり、4世紀の史実をどの程度正確に伝えるかは明らかでないこと等から鵜呑みには出来ない。

そうなると考古学的知見で歴史の隙間を埋めざるを得ない。

空白の4世紀を明らかにする遺物の数々

先に「邪馬台王権」は台与の死後衰え、「ヤマト王権」の時代に移ったのではないかとしたが、それを証明する遺物が釜山金海地区の遺跡から出土した。

2~3世紀の墳墓群が中心の良洞里遺跡から出土した倭系の遺物は小型仿製鏡や中広形銅矛など、弥生後期の北部九州で製作されたとみられるものが少なくない。

ところが同じ金海の大成洞遺跡や釜山東の東萊(とうね)の福泉洞遺跡の4世紀代の墳墓群からは倭系の遺物として、巴形銅器や碧玉製石製品、筒型銅器など、いずれも畿内のヤマトを中心に分布しているものが出土した。

韓国の考古学者シン・キョンチョル(申敬澈)は指摘している。3~4世紀にかけて朝鮮半島の伽耶地区との交流の当事者が、北九州の勢力から畿内の勢力へと急激に転換した結果だと。これは邪馬台王権の時代、外交・交易の利権を伊都国王が握っていたと考えられ、それがヤマト王権の時代となって外交・交易権も畿内に移ったと考えられることに合致する。

玄界灘に沖ノ島という絶海の孤島がある。ここには宗像大社の沖津宮が鎮座する。4世紀後半この沖ノ島で「海北道中(うみきたのみちなか)」の守り神の祭祀が本格的に行われるようになった。それも地元九州の豪族が独力で行えるレベルのものでなく、この祭祀にかかわる遺物8万点が国宝に指定され海の正倉院と呼ばれるほどである。

このことは4世紀半ばまでに朝鮮半島と倭を結ぶ最短ルート、「海北道中」をヤマト王権が掌握したことを物語ると考えられる。

更に重要なことは半島の金海や釜山、慶州や馬山で4世紀~5世紀前半、倭で日常的に使われていた土師器系の土器(縄文土器~弥生土器に連なる野焼き土器)が出土することである。
この項のテキストとしている熊谷公男(専門 日本古代史)「日本の歴史03」によれば、これは—ヤマト王権が半島との交流ルートを掌握したことにともない、交流の担い手として送り込まれたヤマトの人々と、半島に定着した彼等の子孫たちが残した土器であったと思われる。—としている。

これらの考古学的証拠から4世紀はヤマト王権が内政はもちろんのこと、外交・交易までその権力を掌中に収め、支配権を確立した時代であったということが出来るだろう。言い方を変えれば、ヤマトの勢力による列島主要部の政治的統合が実現した世紀であったということも出来るだろう。

半島ルート掌握の目的

ヤマト王権は沖ノ島の祭祀に膨大な財力を投入し、おそらく宗像族(海人、漁撈民の一大勢力)を支配下に置き、半島ルートを掌中にした。王権がそれほど拘った理由は「鉄の確保」であったと思われる。

3世紀頃のことを記した魏志弁辰伝に「国(弁辰のこと)は鉄を出し、韓・濊(わい)・倭、皆な従いてこれを取る。諸々の売り買いには皆な鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」とある。

倭人は弥生時代から鉄の原料を半島の資源に依存してきたことが判る。

この情況は古墳時代にあっても基本的に変わらなかったに違いない。古墳から鉄ていと呼ばれる短冊形の鉄素材が出土する。成分分析から金海・釜山地域からの搬入品である可能性が高い。右の写真の鉄ていはそれぞれ別の古墳から出土したものであるが、重さや形に一定の規格が認められるので、貨幣に代わるような機能を果たしていた可能性もある。

考古学の都出比呂志は—倭王権がこのような半島からの鉄素材供給ルートを掌握し、列島各地の首長への分配をコントロールすることを通して、覇権を握っていた。—と想定している。なかなか魅力的な見解である。

半島の動乱とヤマト王権の成長

このページの1番上の地図を参照いただきたい。半島ルートを掌握し、伽耶にはおそらく拠点まで確保したヤマト王権に建国後間もない百済が接近を図り、一種の軍事同盟が結ばれた。強国高句麗が南下策をとりはじめ、それに脅威を感じた百済は軍事的パートナーが必要だったからである。

一方、ヤマト王権にとっても百済は先進の文物の供給先として有用な存在であったに違いない。百済には高句麗に占拠された楽浪や帯方の遺民すなわち中国系人士が少なからず移住していたからである。

奈良県石上神宮に銘文の入った七枝刀という国宝が所蔵されている。

その銘文の大意は「泰和4年(369年)によく鍛えた鉄で七枝刀を造った。かってこのような立派な刀はなかったが、百済王の太子が倭王のためにわざわざ造ったものである。後世まで伝え示されたい。」というようなことである。

要するに七枝刀を倭王に贈ったということは、百済が倭王の地位を認めていたわけであり、倭国と百済の間にそういう緊密な国交が存在たということであろう。

そしてそれが軍事同盟にまで発展していたことは、やがて百済の要請を受けてその宿敵高句麗と倭が直接戦火を交えることになることで証明される。

それを伝えるのが広開土王碑(好太王碑とも言う)で資料の乏しい4世紀、半島での倭の動向を記した貴重な資料である。

この碑には「倭」は強国として現れる。そして本質的にはその強国を打ち破った高句麗国の広開土王の武勲は素晴らしいものである、という顕彰碑である。だから多少、誇張もあるであろうことは想像に難くない。しかし根も葉もない虚構と見てしまうことはもちろん出来ない。

簡単にその内容を拾うと

391年倭が百残(百済の蔑称)、新羅を「臣民」とした。

396年広開土王みづから、倭の「臣民」となった百残を討った。

399年新羅に倭兵が侵入したと聞いて新羅の救援を約束した。

400年新羅救援のため5万の兵を派遣し、逃げる倭兵を追って任那加羅まで追撃した。

404年倭の水軍が帯方界にまで侵入したので、広開土王みづから兵を率いて倭に壊滅的打撃を与えた。

この碑文を裏側から読むと、ヤマト王権が力をつけ百済や新羅とは比較にならぬ強国として4世紀の朝鮮半島に登場してきたことがわかる。巨万の兵を渡海させたり、大水軍を帯方方面まで侵攻させたり国力の急拡大には眼を見張るものがある。

これは中国が五胡十六国時代の混乱期にあり、ヤマト王権としても中国(東晋)の後ろ盾は当てに出来ないという時代、むしろ軍事力を強化し自立して伽耶だけでなく百済や新羅を擁して半島経営に当たろうとした思惑が感じられる。あるいは高句麗の強い南下意欲に対し百済新羅を緩衝勢力として援助し、伽耶の鉄利権を守ろうとしたのかもしれない。

さらに直接的な利益としては、軍事援助の見返りとして従来以上に多くのヒト資源やモノ資源がこの列島にもたらされたと考えられる。これらの知識人や技術者、鉄素材や先進文物を独占したヤマト王権はその再配分を通して各地の首長たちへの支配力を更に強めていく。

この時期、4世紀末葉、大王の墓がもっとも大型化する古墳時代中期を迎えることになる。

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