藤井聡太物語(1):小学4年生で奨励会に入会するまで

平成11年以降の将棋の歴史をまとめる前に、現在、もっとも話題を集めている藤井聡太六段の歩んできた道をまとめてみたいなと思いました。

私は、すでに述べたように、藤井聡太少年の活躍に刺激されて、半世紀以上も前の学生時代にちょっとだけ勉強した将棋への関心が沸き上がり、その歴史を調べ始めました。平成11年以降の歴史をみると、まさに羽生善治の全盛時代と言えると思います。しかし、平成20年代後半からは若手が台頭して、羽生に挑戦するようになり、いよいよ戦国時代の到来かと、思わせるような状況になっています。そうした中で、藤井聡太少年が彗星のごとく現れて、将棋界への関心が社会現象となってきました。

そこで、今回は、平成11年以降の将棋の歴史をまとめる前に、藤井聡太少年の物語をまとめることにしました。今回は、その第一回目として、聡太少年が、日本将棋連盟のプロ棋士養成機関である「新進棋士奨励会」(一般には単に「奨励会」と呼ばれる事が多い)に入会するまでの出来事を中心にまとめていく事にします。

なお、ここで紹介した内容は、参考文献やインターネットで得られる記事が基礎になっています。

1.小学生になるまで(東海研修会入会まで)

プロの将棋指し、いわゆる「棋士」になるには、日本将棋連盟のプロ棋士養成機関である「新進棋士奨励会」(一般には単に「奨励会」と呼ばれる事が多い)に入会するのが第一歩です。ただし、現在は、東京・大阪・名古屋の3ヶ所に、奨励会の下部組織としての「研修会」があり、小学生の頃に研修会に入って、そこからプロを目指す、というのが一般的になっています。

藤井聡太少年も、まず、名古屋にある「東海研修会」に入会してプロを目指しました。最初に、藤井聡太少年が東海研修会に入会するまでの道のりを概観します。誕生から研修会に入会するまでの主要な出来事をまとめて右の表1に示します。

表1 藤井聡太、東海研修会に入会するまで
西暦 平成  出 来 事
2002 14 7 19  愛知県瀬戸市に生まれる
2006 18 4 1  3歳で「雪の聖母幼稚園」に入園
2007 19  5歳の夏に祖母から将棋を教わる
12  5歳の12月、文本将棋教室に入会
~~    20級からスタートして初段まで上達
2009 21 4 1  小学校に入学
10  小学1年生(7歳)、JT将棋こども大会
東海地区大会低学年の部で準決勝で敗れる
2010 22 3 7  小学1年生(7歳)で、東海研修会に入会

(1)幼稚園の頃(ふみもと将棋教室入会まで)

①藤井は、2002年(平成14年)7月19日、愛知県瀬戸市で生まれました。羽生が生まれた1970年(昭和45年)9月27日よりも31年10ヶ月遅く生まれたことになります。藤井は、とても重い赤ちゃんだったようで、生後4ヶ月の頃には8キロを超えていたそうです。幼い頃は、家の近くを走る名鉄線の電車を線路脇で見るのが大好きで、祖母は重いのを我慢して抱いてあげていたそうです。歩き出すのも、話し出すのも遅く、1歳3ヶ月でやっと歩き始め、との事です。

②3歳になった藤井は、「雪の聖母幼稚園」というキリスト教系の幼稚園に入園し、スクールバスで通園しました。この幼稚園では、モンテッソーリ教育を取り入れており、子供たちには字とか算数といった教育につながるものは一切教えずに、遊びを仕事と呼ばせて、幼稚園にいる間はひたすら遊ばせる、という教育でした。

③入園後しばらくして、藤井は、折り紙に夢中になり、「ハートバッグ」というハート形をしたバッグを仕上げる遊びにはまったそうです。また、母が、スイス製の木製知育玩具「キュポラ」が気になって、3歳の時のクリスマスプレゼントとして枕元に置いたところ、藤井はそれがすっかり気に入って、大人でも難しいと言われる組み立てに真っ向から取り組み、何時間かかろうが決してあきらめずに徹底して集中してやり遂げたそうです。このような集中力や根気は誰が教えたものでもなく、藤井の天性のものとしかいいようがありません。

④コツコツとハートバッグを作り続けたり、大人にも難しいキュポロを組み立てたりする孫を見て、祖母の育子さんは、この子はただ者ではない、と感じるようになりました。育子さんは大変な教育ママで、3人の娘には勉強以外にお稽古事にも真剣に取り組ませました。藤井の母、裕子さんは育子さんの三女で、小学校1年生から6年生までバイオリン教室に通わされました。裕子さんは、バイオリンが苦手で、練習は苦痛で仕方がなかった、との事でした。

⑤祖母の育子さんは、孫にも稽古事を習わせようと考えていて、男女を問わず孫には将棋と囲碁を教えました。聡太少年が5歳になった夏、祖母は孫に将棋を教えました。祖母の育子さんは、ほとんど将棋のことは知りませんでしたが、孫の聡太少年が将棋に夢中になる姿を見て、ほかの孫たちとは違う何かを感じたとの事です。そこで、子供用のスタデイ将棋の駒ではなく、普通の大人が使う将棋駒を買ってきて、聡太少年に与えました。そして、祖母ではなく、祖父の訓一が相手をして将棋を教えました(左の図1参照)。

⑥やがて、祖父も敵わなくなりましたが、孫が将棋を指したい、というので、相手を求めて近くの老人サークルで将棋をやっているのを聞いて連れて行きました。しかし、2回目に訪れた時に、ここは老人の集まりだから、という事でやんわりと断られてしまいます。母が、「あそこはおじいちゃんじゃないと駄目なんだっ」て、と聡太少年に伝えたら、「僕、早くお爺ちゃんになりたい」、と間髪を入れずに答えたそうです。

⑦なんとか孫の役に立ちたいと思っていた祖母の育子さんは、近くの美容院で将棋クラブを調べてもらい、同じ瀬戸市内に「ふみもと子供将棋教室」の存在を知って、早速、電話をかけました。この頃、将棋教室を運営していた文本力男さんは迷っていました。通ってくる生徒が減って、採算が合わなくなり、そろそろ教室を閉めようか、と悩んでいたところでした。それに、習いたいという子供はまだ5歳5ヶ月の幼稚園生です。しかし、文本は断りませんでした。「では、一度、体験に来てください」、文本さんは反射的にそう応えました。

⑧「おばあちゃんとお母さん、二人に連れてこられましてねえ。とにかく小さいので驚きました」、と文本さんは、当時の光景を思い出して懐かしそうに述懐しました。聡太少年は、教室の子供と指して勝ち、喜んだそうです。文本さんは、藤井の才能をすぐに認め、その日のうちに「20級」という級位で、入会が決まりました。

(2)ふみもと将棋教室時代(幼稚園年長組~)

①「ふみもと将棋教室」では、学習のためのテキストとして、所司和晴七段の著作「駒落ち定跡」を使って教えていました。聡太少年は、まだ字を読むこともできないのに、その本で一生懸命に学習したそうです。定跡並べが終われば、次は詰将棋の問題解き、解答を書く事が出来ないので、聡太少年が口で答え、それを母の裕子さんが書き込むというスタイルがしばらく続きました。ノートにはびっしりと母が代筆した詰将棋の答えが埋まっています。やがて、自分でも書けるようになりましたが、その詰将棋ノートを右の図2に示します。

②聡太少年は、読み書きよりも先に将棋を覚え、詰将棋をすらすらと解き、480頁もある定跡書を読み進め、二枚落ち定跡などをマスターしていったのです。文本は、読み書きが出来ないからといって手加減はしませんでしたが、詰将棋は大変だったそうです。何が大変かというと、聡太少年は、あっという間に問題を解いてしまうので、次から次へと問題を出さねばならず、問題を作るのが間に合わなくなるくらいだったからです。

③定跡を並べ、詰将棋を解き、次の一手問題を解き、それからやっと子ども同士の実戦始まります。そのどれもが聡太少年にとっては楽しくて仕方がない事ばかりでした。無我夢中で将棋に取り組む幼稚園児の姿を、将棋の神様が見ていて、この子こそ、とばかり、渾身の愛を注いだのではないでしょうか? 藤井聡太のこれまでの活躍を見ていると、そのような感慨が湧いてきます。

④聡太少年は、週3日の教室開催日はすべて通い詰めましたが、それだけでは飽き足らず、文本にお願いして、開催日をもう一日増やしてもらったそうです。月水金土、週4回の開催日すべてに、聡太少年は皆勤賞でした。1年経つと20級だった聡太少年は、なんと4級まで進級しました。1年間で16級進級というのは恐らく全国でもいないのではないでしょうか? まして、文本の昇級基準は他の教室に比べて厳しく、ここでの4級は町道場の初段に匹敵するくらいだそうです。

⑤ふみもと将棋教室では、年に2回一泊二日の予定で合宿をしていましたが、聡太少年からのたっての願いで、二泊三日になったそうです。幼稚園児で合宿に参加したのは、恐らく、聡太少年が最初で最後だったようですが、4歳上の兄さんが一緒に参加したので、彼が、いろいろと面倒を見ていたと思われます。

⑥ふみもと将棋教室では、将棋を教える事とそれ以外にも、下記のごとく、いろいろと工夫を凝らしていました。

1)自分が作成したテキストを使わせる: 文本は、プロ棋士達あるいは将棋界の先達が長年にわたり育んできた「本筋」というものを子供たちにも伝えたい、と思い、専門書を切り抜き、『将棋世界』をバラバラにして、自分のアイデアでテキストを作り、子供たちに与えました。

2)目隠し詰将棋: 生徒は目を閉じて座り、文本が詰将棋の初形を符号で読み上げていく。それをそのまま頭の中で解く、というやり方です。

3)プロレスごっこ: すべてのカリキュラムが終わると全員で正座して挨拶します。そして、その挨拶が終わると、生徒同士の取っ組み合いが始まります。畳の上で正座して3時間以上じっとしていた反動なのでしょうが、教室の恒例行事でした。

4)闘魂注入: ブルース・リーの映画『燃えよドラゴン』のオープニングシーンを生徒たちに見せて、闘魂を注入しようとしていたそうです。大会の前には母親たちも見せられたそうです。

⑦聡太少年は、このような環境の中で、めきめきと実力を蓄え、小学校1年生になった時には、オフィシャルの初段を超え、ふみもと将棋教室のルールにより東海研修会に入会する事になりました。研修会の中心は小学3年生、4年生でしたから、聡太少年が東海研修会の入会試験を受けた時は本当に小さくてみんな驚いたそうです。2010年(平成22年)3月7日、入会試験を受け、研修会員と平手で対局して1勝3敗でした。その結果、最下位のF2組に編入されました。

(3)負けず嫌い伝説(1)

藤井少年の大活躍が一般マスコミも取り上げるようになった結果、彼が、幼い時から、いかに負けず嫌いだったのか、そして、将棋の名人を目指していたか、いくつかのエピソードが紹介されました。ここでは、そのエピソードのいくつかを取り上げたいと思います。

①幼い頃、家族でトランプ遊びをすると、聡太少年は自分が勝つまでやめなかったそうです。家族は、聡太少年が勝つまで付き合わされました。このため、家族は早く終わらせたいために、聡太少年にわからないように手加減したりして、彼を勝たせたそうです。

②2008年7月19日、6歳の誕生日の時に、幼稚園で作られたお祝いの飾りの中に「おおきくなったら しょうぎのめいじん になりたいです」、という記述があります。聡太少年は、まだ6歳で、将棋を覚えたばかりだったのに、「名人」になりたい、という「大志」を抱いたのです。

③聡太少年も最初から強かったわけではなく、ふみもと将棋教室では、良く負けたそうです。そして、負けると、その度に号泣したそうです。その泣き方も中途半端なものではなくて、全身をふるわせて泣いたそうです。将棋盤をかかえて泣くときもあったそうで、母親がやむをえず将棋盤から引き離した時もあったそうです。しかし、彼が泣いている間、いくらうるさくても、周りの大人はとくに注意するでもなく、泣き止むまで放置しました。このように放任された事も彼の成長に大いに役立ったと思われます。

④2009年10月、小学1年生(7歳)でJT将棋こども大会東海地区大会の準決勝で負けた時に、余りにも口惜しがって表彰式に出れないくらい号泣したので、母親が代理で3位の賞状を受け取らざるを得ませんでした。

2.東海研修会時代(小学校1年生~4年生)

東海研修会に入会した事により、聡太少年は、週4回のふみもと将棋教室に加えて、月に2度、名古屋へ出て東海研修会に参加して将棋を指す機会を得ました。
それ以外にも、小学生が参加できる大会には出来る限り参加しました。聡太少年が研修会や大会に参加する時は、母の裕子さんが同行しました。

(1)研修会とは

研修会時代の聡太少年の歩みを述べる前に、「研修会」について、ウィキペディアからの引用で簡単にまとめます。

①研修会は日本将棋連盟が将棋を通じて健全な少年少女の育成を目指すことを目的として運営している組織です。1983年に発足し、現在は、関東、関西、東海、九州の4地区にあって、それぞれ毎月2回の例会(対局。原則として毎月第2、第4日曜日)が行われています。

②奨励会の下部組織と言われることもありますが、奨励会入会が基本的に19歳未満を年齢制限とし最低でアマ三・四段以上の実力が要求されているのに比べますと、ゆるく(アマ二段程度)、20歳までの在籍を認めるなど、必ずしもプロ棋士の養成を目的としていない、という事で「奨励会」とは異なっています。しかし、一方では、奨励会入会試験を突破できなかったプロ志望者の救済組織としても位置付けられています。研修会で実力を付けて奨励会入りを果たし、プロ棋士になった者もたくさんいます。

③研修会のクラスはS、A1、A2、B1、B2、C1、C2、D1、D2、E1、E2、F1、F2という構成です]。B1在籍者がA2に昇級した時点で15歳以下、またはA1からSに昇格した時点で18歳以下であれば、奨励会入会試験を経ずに奨励会6級に編入できます。また、昇級規定は下記の通りです。

1)A、Bクラスへ – 8連勝・12勝4敗・14勝5敗・16勝6敗・18勝7敗

2)C、D、Eクラスへ – 6連勝・9勝3敗・11勝4敗・13勝5敗・15勝6敗

3)Fクラスへ – 3勝3敗

④研修会への入会資格は以下の通りです。

1)「一般研修生」は、20歳以下のアマチュア有段者の少年少女

2)「女流棋士希望研修生」は25歳以下の女性で、女流棋士を志望する者(ただし、23歳以上の場合はD1以上に合格しなければなりません)。一般研修生とは異なり、師匠が必要です。

3)入会にあたっては試験が行われ、その結果に基づいて各クラスへの所属が決まります。

4)居住地による在籍研修会の制限はなく、入会希望者本人が合格後に在籍したい研修会の試験を受ける事になります。ただし、複数の地区を掛け持ちして在籍する事は出来ません。止むを得ず研修会を変更したい場合は移籍扱いとなります。

(2)東海研修会時代の活躍

表2 東海研修会時代の歩み
西暦 平成  出 来 事
2010 22 3 7  小学1年生(7歳)で、東海研修会に入会
21  杉本昌隆七段との初めての指導対局(4枚落ち)
4 29  岡崎将棋まつり大会低学年の部で優勝
5 5  全国小学生倉敷王将戦愛知県予選低学年の部で優勝
10 2  小学2年生(8歳)、JT将棋こども大会
低学年の部決勝戦で敗れる
11 7  イベントで谷川浩司から指導対局(飛角落ち)
2011 23 8 6  小学3年生(9歳)、全国小学生倉敷王将戦低学年の部でで優勝
(全国大会で初めての優勝)
10 29  JT将棋日本シリーズ子供大会低学年の部で優勝
6  小学4年生(9歳11ヶ月)、研修会B1に昇級
2012 24 9 22  小学4年生(10歳2ヶ月)、6級で奨励会に入会

聡太少年の東海研修時代の状況を、ここでまとめてみます。なお、主要な出来事については左の表2に示します。

①聡太少年は、東海研修会に入会して間もない3月21日、後に師匠となる杉本昌隆七段に四枚落ち(飛角香香)で対局しました。勝負は杉本七段が勝ちましたが、その時、彼は聡太少年の将棋のセンスに驚いたそうです。なお、杉本は名古屋出身の故板谷進九段の弟子で、板谷一門からにタイトルホルダーを出すのが悲願で、東海研修会の幹事役を務めています。聡太少年の才能に引き付けられた杉本は、この子は大切に育てなければと思ったそうです。

②聡太少年が、最初から研修会で圧倒的に強かった、という程ではなかったようで、最初は負けてはよく泣いていたそうです。東海研修会の棋道師範だった竹内貴浩も、最初はそれほど強い子供とは思っていなかった、と述べています。しかし、上達速度は圧倒的で、どんどんと昇級していきました。

③2010年(平成22年)10月2日、小学校2年生(8歳)になった聡太少年は、JT将棋こども大会で順調に勝ち進み、向かえた決勝戦でうっかりして角をタダでとられてしまい負けてしまいます。そして、いつものように大泣きします。表彰式になっても壇上で泣き続けた姿がテレビで放映されました。その時の敗戦がよほど悔しかったのでしょう。その日の事を歌にして書き残しています(右の図7参照)。

歌詞は以下の通りです。

1. お~らのはいちゃく2七角~  馬のラインに入っていた~  ただで角をとられては~  オーノー  オーノー

2. お~らはそのままボロまけに~  みんなのまえで  おはずかシー

3. お~らはそのままうつむいて~  小さく小さくなりました~  お~らはそれから5分かん~  な~きつづけました~。

実は、この歌詞は裏面にまで及び、4番、5番、6番へと続く嘆きの歌なのです。ラップ調の歌で、祖母の育子さんが、たしかこんな歌だった、歌ってくれたそうですが、この逸話を紹介した大崎善生さんは「その歌は私の頭にこびりつきしばらく離れなかった」、と書いています(『将棋世界』2017年10月号)。

④同じ2010年の11月7日、「将棋の日」のイベントで、聡太少年は憧れの谷川浩司九段に三面差し(一人の上位者が、3人の下位者を相手に三局同時に指すというスタイル)で対局しました。手合いは二枚落ち(飛車と角を抜いて対戦)でしたが、谷川の玉が藤井の陣に入って負けは無い(つまり、谷川の勝ち)、という形になりました。そこで、谷川が子供の心を思いやって「引き分けにしようか?」と提案したところ、聡太少年は「いやだ」といって、将棋盤にしがみついて泣き出したそうです。これには、谷川もその場にたまたま居合わせた杉本七段も困ってしまいました。聡太少年は、最後まで谷川と対局したかったのだろう、と後になって杉本は推測しています。その場は、母が表れて、周囲に詫びながら、息子を引きずるように会場外に連れ出して事なきを得たそうです。このように、負けて泣く聡太少年を、母がそこから連れ出してゆく、という風景はよくある風景だったそうです。母は、息子が落ち着くまで泣かせて、時々は、小言を言いながら、待っていたそうです。

⑤2011年(平成23年)8月6日、小学校3年生(9歳)の時、倉敷市で開催された第10回全国小学生倉敷王将戦に出場し、優勝しました(右の図8参照)。これまで地区大会や地方で開催される将棋大会では、何度となく優勝を重ねてきましたが、全国大会での優勝は初めてでした。この優勝は、聡太少年にとって大きな自信となったようで、「この大会で優勝した事で、将来プロ棋士になろうと思いました」、というコメントをしています。幼い頃に何となく思い描いていた「名人になりたい」という夢が具体的な夢へと変わった瞬間とでもいえるのではないでしょうか?

⑥聡太少年は、この後、瀬戸市の市長を表敬訪問していますが、その時の様子を、中日新聞は、2011年8月24日の名古屋東版で以下のように報道しています。

『増岡市長に「将来はプロ棋士かな」と聞かれ、恥ずかしげにうなずき全国トップを勝ち得て「うれしかった」と笑顔。(中略)史上最年少名人となった谷川浩司九段が目標という。

⑦2011年(平成23年)10月29日、小学校3年生(9歳)となった聡太少年は、昨年に引き続き、JT将棋こども大会低学年の部に出場します。そして、見事優勝し、昨年のリベンジを果たしました(右の写真9参照)。この時、中日新聞は、名古屋東版で「九歳天才棋士瀬戸に」と大きな見出しをつけた記事を掲載しました。これは、聡太少年が、公に「天才」と呼ばれた最初の記事かもしれません。その時の記事の一部を以下にこの時の記事の一部を以下に紹介します。

『家での空き時間はテレビやゲームはそっちのけで将棋本を読みふける。風呂ではタイルを将棋盤に見立て、湯気の後に駒を書く。(中略)評価の高い聡太君だが、対局で負けると悔しくて座ったまま動けなくなる一面も。(中略)目標は明快だ。「将来の夢はプロ棋士。名人になりたい』

⑧聡太少年が、小学4年生の時に、「将来の夢 名人をこす」と書いたメモが残っています(左の図10参照)。私がびっくりするのは、面白かった本として挙げている3冊の本です。小学生が面白く読むような本とは思えない書籍名が書いてあります。私は、テレビで放映されている聡太少年(中学生です)の受け答えに感心していますが、小学生の頃から、大人が読んで面白いと思うような本を読んでいた、という事であり、まさに、「天才」と呼ぶにふさわしい「こども」と呼べるでしょう。

⑨研修会時代、聡太少年の連勝記録は11連勝が最高との事、そして、5連敗した事もあるそうです。通算成績は139勝90敗、勝率は60.7%、プロ入り後の勝率(86.4%、70勝11敗: 2018年3月16日現在)と比べると、かなり低かった、と言わざるを得ません。研修会の指導棋士、竹内さんは、「藤井君に勝ち越した子もいるはずです」、と言っています。

⑩研修会での指導対局は、最初は四枚(飛角香香)落ちから始まります。聡太少年は、最初は勝てませんでしたが、そのうちに、2枚(飛角)落ち、飛香落ちへと進化していきました。そして、C1からB2へ昇級するという一番で、聡太少年は杉本七段を飛香落ちで破り、B2へ昇級しました。このように、聡太少年は、ここ一番、といったところではほとんど負ける事はありませんでした。

⑪2012年(平成24年)6月、聡太少年はB1クラスに昇級し、奨励会入会まであと一歩というところに近づきました。そして、いよいよ、奨励会の入会試験をうけるにあたり、聡太少年は、杉本七段に自分を弟子にしてください、とお願いします。杉本は、恋焦がれていた相手から好きです、と言われた時と同じような喜びを感じ、その願いを快諾します。杉本は、聡太少年と最初に対局して以来、その才能に驚き、何とかこの少年にはプロを目指して欲しい、と願っていたそうです。でも、将棋のプロになるまでの厳しさを知っているがゆえに、聡太少年に直接プロになるように勧める事は出来ませんでした。そして、聡太少年がプロになる時に、自分が師匠で良いのだろうか、と悩んていたそうです。

注: 奨励会の入会試験を受けるためには、プロ棋士の推薦が必要で、この時の推薦人が「師匠」となり、自分は「弟子」となるわけです。

⑫今となっては笑い話ですが、杉本は、師匠を引き受けるにあたり、一門に伝わる条件を伝えます。それは、「18歳までに初段、20歳までに三段にならなければ、プロの道は諦めてください」、というものです。将棋のプロになるためには、注記で述べるような厳しい条件があるのです。

注: 奨励会にはルールがあって、満21歳の誕生日までに初段、満26歳の誕生日を迎える三段リーグ終了までに四段に昇段できなかった者は退会させられます。これは、プロ棋士になるためは、四段にならなければなりませんが、26歳までに四段にならなければ、奨励会を退会させられます。つまり、プロ棋士を諦めて、棋士以外の道を選ばなければならないわけです。

⑬2012年(平成24年)9月22日、小学4年生(10歳2ヶ月)の聡太少年は、奨励会の入会試験に合格し、6級で奨励会に入会します。こうして、聡太少年のプロへの第一歩が始まりました。

(3)詰将棋

聡太少年は、詰将棋にも素晴らしい才能を発揮しており、小学校低学年の頃から詰将棋解答選手権に参加して、大人を驚かす活躍をみせていました。

①「江戸時代の天才詰将棋士」と謳われた伊藤宗看と看寿の兄弟が残した『将棋無双』(宗看作)と『将棋図巧』(看寿作)に小学校3年生の頃から挑戦し、奨励会に入る前にはほぼ解き終えたそうです。この二つの詰将棋集は、時の将軍に献上するためにつくられた詰将棋集で、詰将棋界の最高傑作として知られています。米長邦雄永世棋聖は、この2冊をすべて解ければ最低でも四段になれる、と言明しています。

②2010年4月、第7回詰将棋解答選手権の名古屋会場で行われた一般戦に7歳で初めて出場した聡太少年は、全問正解という驚異的な記録を達成し、並み居る大人を驚かせました。そして、翌年(2011年)の第8回で、初級戦とはいえ、6題の難問をたったの3分で解いて堂々の一位に輝きました。選手に与えられた制限時間は40分で、大人でさえ全問解くのに30分以上も要するような問題を3分で全問正解したので、将棋界に戦慄が走った出来事でした。続く一般戦で、60分の持ち時間のうち、わずか22分で解き終えましたが、一問、トリックにはまって不正解だったために5位に終わりました。

③翔太少年は、詰将棋を解くだけではなく作る事でも素晴らしい才能を発揮しています。小学校3年生(9歳)の時、『将棋世界』の「詰将棋サロン」で2作が詰将棋初入選を果たし、うち一作はで谷川賞を受賞しました。

注1: 詰将棋解答選手権とは、詰将棋の解答の正確さと速さを競う大会で、2004年から毎年行われ、2008年からは朝日新聞社が協賛しています。チャンピオン戦、一般戦、初級戦に分かれ、チャンピオン戦には多くのプロ棋士が出場しており、詰将棋の日本一を決める大会となっています。アマチュアの棋士は、初級戦や一般戦で腕を磨いてから、チャンピオン戦に挑戦します。7歳の少年が、一般戦にいきなり出場して、しかも全問正解するというのは、まさに奇跡に近い出来事だったのです。

注2: 『将棋世界』の「詰将棋サロン」とは、一般の読者から新作の応募を受け付け、入選作(7個)と優秀作(1個)を毎月発表しているコーナーです。一年間を通して、最優秀作品に贈られるのが「谷川賞」で、これを9歳で受賞した、というのは、まさに奇跡そのものと言えるでしょう。

(4)負けず嫌い伝説(2)

今までにも触れてきましたが、聡太少年の負けず嫌いを示すいくつかの伝説をまとめます。

①表彰式に母が代わりに出た: 聡太少年は、大会の準決勝や決勝で敗れると、悔しくて大泣きします。そして、表彰式が始まっても泣き止まないために、表彰状や賞品をいただく場へ出る事が出来ず、代わりに、母が受け取りに行ったそうです。

②谷川浩司九段に引き分けにしようと提案されて将棋盤を抱えて号泣した: 前述しましたが、聡太少年は、イベントでの指導将棋で勝ちが消えた時、同情した谷川が引き分けを提案します。普通の子供であれば、天下の九段と引き分けた、という事で大喜びするところですが、彼は、「いやだ」という意思を表すために将棋盤を抱えて号泣するのです。負けたことが口惜しかっただけでなく、最後まで指せなかった事を嘆いたのだろうと、杉本七段は推測しています。聡太少年は、とにかく将棋が好きで、勝負の決着がつく最後の瞬間まで憧れの谷川九段と指したかったのでしょう。

③指導将棋で負けて悔しがった: 奨励会の受験前、杉本七段は、二局指し(他の弟子と二人を相手に対局する)で指導対局をしました。聡太少年とは平手で指したのですが、聡太少年が勝ちました。ところが、彼は特にうれしそうな顔をしませんでした。当然のような顔をしていたそうです。そこで、もう一局指す事にして、平手で対局しました。今度は杉本七段が勝ちましたが、すると聡太少年は、ものすごく口惜しがって、この世の終わりという感じで泣き叫びました。平手で師匠に勝っても喜ばず、負けて悔しがる、この頃から、聡太少年の「勝負根性」は筋金入りだったのです。

④聡太少年は、負けるたびに号泣するので、周りは大変な迷惑だったと思うのですが、誰も、彼に「泣くな!!」とか「うるさい!!」とか言わずに、泣き止むまで、ほったらかしで、待っていたそうです。彼は、泣くだけ泣くと、ケロっとして次の対局に向かいました。この周囲の優しさと、彼の切り替えの早さが、天才の才能を順調に開花させていったのだろう、と推測します。

3.最後に:

聡太少年が、奨励会に入会するまでの歩みをここまでまとめてきましたが、主人公の藤井聡太をどう表現するかでかなり悩みました。今まで棋士は呼び捨てで名前(又は段位等)を書いてきましたが、彼の場合、まだまだ子供なので、なんとなく、藤井とだけ書くのがピンとこなかったのです。そこで、思いあぐねた結果、聡太少年と表記する事にしました。

ここまで書くうえで、参考文献を読んだり、テレビ番組で関係者が話したりしているのを聞いたりして、聡太少年は間違いなく、将棋の神様が、「ソフト不正事件」と「AI 敗戦」に揺れる将棋界を立て直すために、この世に送り込んだ「神の子」だと思えるようになってきました。師匠の杉本七段も同じ思いにとらわれたのではないでしょうか?

杉本七段は、聡太少年の師匠になりたい、と強烈に思うと同時に、自分で良いのだろうか、と自問自答したそうです。聡太少年は、その時はまだ小学4年生です。途中で、将棋以外の事に興味が移って、将棋のプロになれなかったら(つまり、26歳までに四段になれなかったら)、あるいは、別の道に進みたいと言い出したら、どうしようか? しかし、杉本七段は、これだけの将棋の才能を持った子供が、もし、将棋以外で生きてゆきたい、と思うようなことがあったら、その時は自分も将棋界を引退しよう、と決心する事で、悩みを断ち切ったようです。こうしたエピソードを今聞くと、まるで笑い話のようですが、聡太少年には、師匠をそこまで思い込ませるだけの何かを持っていたのでしょう。

杉本七段が、聡太少年をプロにするどんな努力をしたのか、また、聡太少年がそれにこたえてどのように進化していったのか、その話は次回以降でまとめたいと思います。

次回は、奨励会での活躍と史上最年少でプロ棋士となった経緯を眺めてみたいと思います。

蛇足: 聡太少年が、今までの常識をはるかに超えた天才である事は、参考文献10(「藤井聡太 名人をこす少年」)の著者「津江章二」は十分に認めていながら、聡太少年の今後の進歩について、早くも過小評価しています。この本は、2017年9月10日に出版されていますので、今から半年以上前の聡太少年の状況から以下のように予測しています。

『ズバリ10年後の藤井四段を想像してみよう。順位戦は「B級1組」と予想する。(中略)C級2組は50人の大所帯、この中からC級1組に昇級できるのはわずか3人という「超狭き門」である。』
津江は、聡太少年が一期でC級2組から昇級するとは予想だにしていなかったことが、この書きぶりから伺えます。でも、彼は、すでに六段にまで昇段し、10戦全勝という快記録を樹立してトップでC級1組への昇級を決めてしまったのです。

今後の楽しみは、聡太少年が、いつタイトルを取るのか、ですが、その前に、現在15連勝中の連勝記録をどこまで伸ばすのか、本当に目が離せません。

参考文献:

1.「神を追いつめた少年」(「将棋世界」(日本将棋連盟)、2017年8月号~2018年4月号、に連載されたドキュメント記事)
2.「中学生プロ棋士列伝」、洋泉社
3.「藤井聡太 新たなる伝説」、別冊宝島
4.「天才棋士降臨 藤井聡太」、日本将棋連盟
5.「藤井聡太 天才はいかにして生まれたか」、松本博文、NHK出版新書
6.「天才 藤井聡太」、中村徹・松本博文、文藝春秋
7.「等身の棋士」、北野新太、ミシマ社
8.「伝説の序章 天才棋士 藤井聡太」、田丸昇、清流出版
9.「弟子・藤井聡太の学び方」、杉本昌隆、PHP研究所
10.「藤井聡太 名人をこす少年」、津江章二、日本文芸社
11.日本将棋連盟のホームページ

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