前回、前々回と、平成元年(1989年)から10年(1998年)までの平成初期時代の将棋界の動向のうち、七大タイトルについてまとめてきました。そして、七大タイトル戦の結果に基づくランキングを試み、世代交代の動きを分析しました。その課k邸で、平成初期の象徴的な出来事である、羽生七冠誕生までの歩みと、逝去した大山康晴の足跡も辿ってみました。
今回は、平成元年(1989年)から10年(1998年)までに行われた優勝棋戦についてまとめる事にします。そして、その結果に基づくランキング作りにトライしてみます。
1.優勝棋戦
平成元年から10年までの間に行われた優勝棋戦について、各棋戦毎の優勝者の変遷をまとめたいと思います。記載順は優勝棋戦の創設年の古い順にしました。
(1) NHK杯争奪戦
「NHK杯」は、1951年(昭和26年)のラジオ放送で始まった、戦後の優勝棋戦では最も古く伝統ある棋戦です。対局者双方の持ち時間が少ない早指し戦であり、トーナメント方式で争われます。テレビ放送は第12回(1962年度)から行われています。
1989年(平成元年)39回から1998年(平成10年)48回までのNHK杯争奪戦の優勝者と準優勝者を右下の表1にまとめて示します。表中の丸数字は段位を表します。(段位の表示は6段以下の場合のみにしました。タイトル保持者、または、7段以上の場合には表記がありません)
表1 平成元年~10年 NHK杯争奪戦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
①平成元年から10年までの、NHK杯争奪戦10年間で複数回優勝保持したのは、中原誠(2回)と羽生善治(3回)の2人だけである。タイトル戦では将棋界の覇権争いに加わっている谷川浩司は、この10年間、NHK杯争奪戦に於いては、優勝者はおろか、準優勝者の中にも登場していません。谷川が優勝したのは1985年(昭和60年)の一回だけです。
②1989年度(平成元年度)第39回で優勝したのは櫛田陽一四段です。四段がNHK杯争奪戦で優勝したのはこの時だけです。櫛田陽一四段は、この年の2年前(1987年)3月に22歳で四段となり、プロ棋士になりました。彼の戦績は、この優勝以外、パットしたものは無く、2012年に六段で引退しました(タイトル戦への登場はありません)。なお、この時の、準優勝は、島朗で、羽生に敗れて竜王位を奪取されたばかりでした。
③1990年度(平成2年度)第40回で優勝したのは先崎学五段、羽生より3ヶ月だけ年長の1970年6月生まれです。現在、九段ですが、優勝はこの時と翌年の第14回若獅子戦だけです(タイトル戦への登場はありません)。
④1995年度(平成7年度)第45回の優勝は羽生善治ですが、準優勝は、
⑤1997年度(平成9年度)第47回の優勝は羽生善治ですが、準優勝は、村山聖八段。決勝の最終盤で村山聖にミスが出て羽生に逆転で負けてしまいました。準優勝のインタビューでは、村山らしく笑顔で「優勝したはずだったんですが」とおどけてみせたそうですが、病気のため1998年4月から全ての棋戦を休場し、復帰を果たせないまま8月に死去してしまいます。現役でA級在籍のまま死去したのは、大山康晴、山田道義に続き3人目です。なお、村山聖八段は、1990年度(平成2年度)13回の若獅子戦と、1996年度(平成8年度)30回の早指し選手権戦の二回優勝しています。また、タイトル戦では、1993年(平成5年)42期の王将戦に挑戦者として登場しましたが、谷川浩司王将に4戦全敗で負かされてしまいました。
⑥1998年度(平成10年度)第48回の優勝は、やはり、羽生善治ですが、準優勝は、堀口一史座四段、羽生より5歳若く、現在は七段ですが、優勝は2001年度の朝日オープン戦が一回あるだけです(タイトル戦への登場はありません)。
⑦1993年度(平成5年度)第43回の優勝は加藤一二三九段、準優勝は佐藤康光前竜王、そして、1996年度(平成8年度)第46回の優勝は森内俊之八段、準優勝は屋敷伸之七段でした。
(2)天王戦
「天王戦」は、1985年(昭和60年)から1992年(平成4年)まで開催された優勝棋戦で、1993年(平成5年)からは、「棋王戦」に統合されました。なお、前身は、1968年 – 1984年に行われた日本将棋連盟杯争奪戦であり、さらにその前身は、1951年 – 1967年に大阪新聞主催で行われた東西対抗勝継戦です。
1989年(平成元年)5回から1992年(平成4年)8回(最終回)までの天王戦の優勝者と準優勝者を右の表2にまとめて示します。
表2 平成元年~10年 天王戦 | ||||||||||||||||||||||||||||||
|
①1989年(平成元年)から1992年(平成4年)までの4年間で、谷川浩司が2回優勝しています。谷川はNHK杯争奪では、長い歴史の中でたったの一回しか優勝していませんが、天王戦では2回優勝しています。1989年(平成元年)第5回では、中原誠棋聖を破り、2年後の1991年(平成3年)第7回には村山聖六段を破って、優勝しました。
②1990年(平成2年)第6回では森下卓六段が、阿部隆五段を破って優勝しました。
1)森下卓は、羽生より4歳年長、現在九段。17歳で四段になり、将来の名人候補と目されましたが、C級2組で5年も足踏みしてしまい、羽生に追い抜かれてしまいます。その結果、森下は現在まで6回タイトル戦に登場しますが、タイトル獲得はなりませんでした。(羽生に4回、谷川と屋敷に1回ずつ、挑戦しましたがすべて敗れました)。しかし、優勝棋戦では、現在まで8回優勝しています(全日本プロトーナメント1回、将棋日本シリーズ2回、新人王戦1回、勝抜戦5勝以上3回、天王戦1回)。
2)阿部隆は、羽生より3歳年長、現在八段で、1993年(平成5年)第12回全日本プロ将棋トーナメントと、第20回勝ち抜き戦(1999~2000年)で、合わせて2回優勝しています。また、トータル戦では、2002年(平成14年)第15期竜王戦で挑戦者として登場しましたが、羽生竜王に敗れてしまいました。
③1992年(平成4年)第8回、最後の天王戦で優勝したのは高橋道雄九段、準優勝は塚田泰明八段でした。
(3)新人王戦
新人王戦は、日本共産党の機関紙「赤旗」が主催する棋戦で、1970年(昭和45年)から始まりました。年齢30歳以下、段位は六段以下(タイトル戦経験者は除く)の棋士などが参加する優勝棋戦です。決勝は三番勝負で、例年10月から11月にかけて行われます。優勝者(新人王)はタイトル保持者と記念対局を行う事になっています。 新人王が後にタイトルホルダーやA級棋士などの強豪になったケースは多く、有望な若手の登龍門であるとされています。なお、2006年(平成18年)からは、参加年齢が26歳以下へ引き下げられました。
1989年(平成元年)第20回から1998年(平成10年)第29回までの新人王戦の優勝者と準優勝者を左の表3にまとめて示します。
表3 平成元年~10年 新人王戦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
①平成元年から10年までの、新人王戦10年間で、2回優勝したのは森内俊之、丸山忠久、藤井猛の3人です。この3人は、いずれも羽生と同じ1970年生まれであり、生れ月も、丸山と藤井は羽生と同じ9月であり、森内は10月ですが、わずか13日遅いだけです。そして、3人ともに、下記するごとく、タイトルを多数獲得しており、優勝も何回か重ねています。
1)森内俊之: 現在までに、名人位8期を含め、合計で12期(竜王位2期、棋王位1期、王将位1期)タイトルを獲得しており、タイトル戦には25回(竜王5回、名人12回、王座1回、棋王3回、王将2回、棋聖2回)登場しています。なお、名人位を通算5期以上獲得していますので、永世名人の資格を取得しています。また、優勝棋戦でも、13回(全日本プロトーナメント2回、NHK杯3回、早指し選手権1回、早指し新鋭戦2回、将棋日本シリーズ1回、新人王戦3回、勝ち抜き戦5勝以上1回)優勝しています。
2)丸山忠久: 現在までに、名人位2期、棋王位1期、合わせて3期タイトルを獲得しており、タイトル戦には10回(竜王3回、名人3回、王座1回、棋王2回、棋聖1回)登場しています。また、優勝棋戦では、12回(全日本プロトーナメント1回、NHK杯1回、早指し選手権2回、将棋日本シリーズ2回、新人王戦2回、勝ち抜き戦5勝以上4回)優勝しています。
3)藤井猛: 現在までに、竜王位を3期獲得しており、タイトル戦には7回(竜王3回、王位1回、王座2回)登場しています。また、優勝棋戦では、8回(銀河戦1回、早指し選手権1回、早指し新鋭戦1回、将棋日本シリーズ2回、新人王戦3回)優勝しています。
②1989年(平成元年)第20回の優勝は日浦市郎五段、準優勝は中川大輔四段でした。日浦市郎は、森下卓と同じ年の生まれで、現在は八段ですが、優勝はこの一回あるだけです(タイトル戦への登場はありません)。中川大輔については既に述べました。
③1990年(平成2年)第21回の優勝は森下卓六段、準優勝は大野八一雄五段でした。大野八一雄は、谷川より3年年長ですが、2009年に七段で引退しました。引退までに、優勝はゼロ、タイトル戦にも一度も登場できませんでした。森下については既に述べました
④1992年(平成4年)第23回の優勝は佐藤秀司四段、準優勝は石飛英二三段でした。
1)佐藤秀司は、羽生より3歳年長で、現在は七段ですが、優勝はこの時の一回だけです(タイトル戦への登場はありません)。
2)石飛英二は、まだ三段で新人王戦で優勝しますが、ついに四段に昇段できず(つまり、プロ棋士になる事ができず)、奨励会から退会させられてしまいます。石飛英二の退会までの通算成績は63勝52敗で勝ち越しています。通算成績で勝ち越しながら、四段に上がれなかった棋士は6人しかいないそうですが、石飛英二はその中の一人なのです。
⑤1998年(平成10年)第29回は、三浦弘行六段が畠山成幸六段を破って優勝しました。
1)三浦弘行は、羽生より3歳半若く、現在九段、タイトルは、羽生を七冠から六冠へ後退させた第67期棋聖戦(1996年(平成8年))に勝利した時の一回だけタイトルを獲得しました。タイトル戦には現在まで5回(名人1回、棋王1回、棋聖3回)登場しています。また、これまでに3回(NHK杯、将棋日本シリーズ、新人王、各1回)優勝しています。
2)畠山成幸は、羽生より1歳年長で、村山聖とは12日だけ年長、現在は八段ですが、優勝は1994年度の早指し新鋭戦が一回あるだけです(タイトル戦への登場はありません)。
⑥表3で初めて名前が出て、ここまで説明の無いのは、1997年(平成9年)第28回準優勝の畠山鎮五段、畠山成幸と全く同じ生年月日で、現在は七段ですが、優勝は一度もありません(タイトル戦への登場もありません)。
新人王戦は、若手の登竜門とされていますが、新人王戦の決勝進出者15名のうち、現在(2017年年末)までにタイトルを獲得したのは7名(森内俊之、佐藤康光、丸山忠久、郷田真隆、深浦康市、藤井猛、三浦弘行)、獲得していないのは8名(日浦市郎、中川大輔、森下卓、大野八一雄、佐藤秀司、石飛英二、畠山鎮、畠山成幸)となっており、半数弱が将来タイトルを獲得しています。
(4)早指し将棋選手権戦
「早指し将棋選手権戦」は、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)が1972年(昭和47年)8月に放送を開始し、以降、日曜の早朝番組として2003年(平成15年)まで続きました。テレビ放映用に、持ち時間は原則として1手30秒以内という早指しルールでした。初期の頃は1年度に2回の開催でしたが、1978年(昭和53年)より年1回の開催となりました。なお、この棋戦は、2002年(平成14年)第14回をもって終わりました。
1989年度(平成元年度)第23回から1998年度(平成10年度)32回までの早指し将棋選手権戦の勝者と敗者を右の表4にまとめて示します。
表4 平成元年~10年 早指し将棋選手権戦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
①平成元年から10年までの、早指し将棋選手権戦10年間で、複数回優勝したのは2回優勝の羽生善治だけです。羽生は、準優勝も3回あり、10年間の間に半分の5回も決勝戦まで勝ち進みました。羽生は、早指しでも強かったのです。
②1989年度(平成元年度)第23回の優勝は南芳一棋王、準優勝は中原誠棋聖で、タイトルホルダー同士の決勝戦という豪華な戦いでした。南は羽生より1歳若く、現在九段、タイトルをを7期(棋王2期、王将3期、棋聖2期)獲得しており、タイトル戦には16回(棋王5回、王将5回、棋聖6回)登場しています。また、優勝棋戦では、6回(早指し選手権1回、勝ち抜き戦5勝以上3回、若獅子戦2回)優勝しています。
③1990年度(平成2年度)第24回は、加藤一二三九段が、羽生善治前竜王を破って優勝しました。(羽生は1990年末の竜王戦で谷川浩司に敗れて竜王位を失い、無冠になりました)。
④1991年度(平成3年度)第25回、加藤一二三九段が前年に引き続いて決勝戦に進出しましたが、森内俊之六段に敗れて準優勝に終わりました。
⑤1992年度(平成4年度)第26回の優勝者は羽生三冠(竜王・王座・棋王)、準優勝は脇謙二七段でした。脇は、現在八段、優勝棋戦では1983年度の若獅子戦で1回、1984・85年度の早指し新鋭戦で2回、合わせて3回優勝しています(タイトル戦への登場はありません)。
⑥1993年度(平成5年度)第27回は、羽生四冠(王位・王座・棋王・棋聖)と深浦康市四段との決勝戦になりましたが、深浦四段が勝って優勝し、羽生の連続優勝は成りませんでした。深浦は、屋敷伸之と同年齢で羽生より1歳半ほど若く、現在は九段、王位を3期獲得しており、タイトル戦には8回(王位5回、王将1回、棋聖2回)登場しています。また、優勝棋戦では、9回(朝日将棋オープン戦1回、銀河戦1回、全日本プロトーナメント1回、早指し選手権1回、早指し新鋭戦4回、勝ち抜き戦5勝以上1回)優勝しています。
⑦1994年度(平成6年度)第28回では、小林健二八段が谷川浩司王将を破って優勝します。小林は、谷川よりは5歳年長で、現在九段、優勝棋戦では1977年度の若獅子戦で1回、1994年度の早指し選手権戦で1回、合わせて2回優勝しています(タイトル戦への登場はありません)。
⑧1995年度(平成7年度)第29回の決勝戦は、羽生六冠(竜王・名人・王位・王座・棋王・棋聖)と南九段との戦いとなりましたが、羽生六冠が勝って2度目の優勝を勝ち取りました。
⑨1996年度(平成8年度)第30回、村山聖八段が田村康介四段を破って優勝します。
1)村山は、羽生よりも1歳年長で、前回のコラム(HP-189)でも触れましたが、腎臓の難病「ネフローゼ症候群」のために、29歳の若さでA級在籍のまま死去します。名人になりたい、という希望を達成できないままの無念の死去でした。タイトル戦では王将戦に一度だけ登場しましたが、タイトル獲得はできませんでした。若獅子戦と早指し将棋選手権でそれぞれ一回ずつ、合わせて2回優勝しています。
2)田村は、羽生よりは6歳若く現在七段、優勝棋戦では2003年度の新人王戦で1回優勝しています(タイトル戦への登場はありません)。
⑩1997年度(平成9年度)第31回では、郷田真隆六段が羽生四冠(王位・王座・棋王・王将)を破って優勝しました。郷田は、羽生より半年若く、現在九段、タイトルを6期獲得(王位1期、棋王1期、王将2期、棋聖2期)しており、タイトル戦には18回(名人2回、王位4回、棋王3回、王将3回、棋聖6回)登場しています。また、優勝棋戦では、7回(NHK杯1回、早指し選手権1回、将棋日本シリーズ3回、大和証券杯ネット将棋1回、勝ち抜き戦5勝以上1回)優勝しています。
⑪1998年度(平成10年度)第32回では、土佐浩司六段が森内俊之八段を破って優勝しました。土佐は、中原と谷川のほぼ真ん中に当たる1955年生まれ、現在八段、優勝はこの1回のみです(タイトル戦への登場はありません)。
(5)早指し新鋭戦
早指し新鋭戦は、早指し選手権戦の予選的位置づけで、1982年(昭和57年)からスタートしました。30歳以下の棋士の成績優秀者15名と女流棋士1名でトーナメント「早指し新鋭戦」を行います。早指し選手権戦は前回ベスト4・新鋭戦決勝進出者2名・タイトル保持者・過去10年の早指し選手権戦優勝者・過去1年のタイトル戦登場者および棋戦優勝者・竜王ランキング戦1組在籍者・順位戦上位者16名・永世称号呼称者・1年間の成績優秀者という基準で選抜された計36名でトーナメントを行う、という事になりました。
1989年度(平成元年度)第8回から1998年度(平成10年度)第17回までの早指し新鋭戦の優勝者と準優勝者を左の表5にまとめて示します。表5に記載された名前を見ると、その後(または、既に)タイトルホルダーになられた棋士が大半を占めており、若手棋士の登竜門としての重要な棋戦であったことがみてとれます。表5に出てくる棋士15名の現在までの活躍状況を1989年度(平成元年度)から順番に見てゆきたいと思います。
表5 平成元年~10年 早指し新鋭戦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
①森内俊之: 新人王戦のところでまとめましたが、すでに、永世名人の資格を得ています。
②羽生善治: 今更、説明を要しない、将棋界の第一人者で、永世七冠を契機に国民栄誉賞の受賞も決まり、大山康晴をしのぎ、いまや将棋界の歴史上、第一人者と言えるのではないでしょうか?。羽生永世七冠の今までのタイトル獲得状況を右の表6にまとめます。あと一回、タイトルを獲得できれば、史上空前の100回に到達します。
表6 羽生永世七冠の戦績 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
③佐藤康光: 森内、羽生と共に、「伝説の島研」のメンバー。現在までに、合計で13期(竜王位1期、名人位2期、棋王位2期、王将位2期、棋聖位6期)タイトルを獲得しており、タイトル戦には37回(竜王5回、名人3回、王位5回、王座3回、棋王6回、王将8回、棋聖7回)登場しています。なお、棋聖位を通算5期以上獲得していますので、永世棋聖の資格を取得しています。また、優勝棋戦でも、12回(銀河戦3回、大和証券杯最強戦1回、NHK杯3回、早指し新鋭戦2回、将棋日本シリーズ2回、勝ち抜き戦5勝以上1回)優勝してます。
④森下卓: 新人王戦のところでまとめましたが、タイトル獲得はまだです。
⑤小林宏: 谷川より8ヶ月若い1962年生まれ、現在七段で順位戦はフリークラス、優勝はこの1回のみです(タイトル戦への登場はありません)。。
⑥深浦康市: 早指し将棋選手権のところでまとめましたが、今までに王位を3期獲得しています。
⑦豊川孝弘: 羽生よりは3歳年長、現在七段、棋戦優勝もタイトル戦登場もありません。
⑧畠山成幸: 新人王戦のところでまとめましたが、棋戦優勝が一回あるだけで、タイトル戦には無縁です。。
⑨丸山忠久: 新人王戦のところでまとめましたが、現在までに、名人位2期、棋王位1期、合わせて3期タイトルを獲得しています。
⑩行方尚史: 羽生より3歳若く、現在八段、タイトル戦には2回(名人と王位)登場しましたが、まだタイトルは獲得していません。棋戦での優勝は2回(早指し新鋭戦と朝日杯将棋オープン戦)です。
⑪鈴木大介: 羽生より4歳若く、現在九段、タイトル戦には2回(竜王と棋聖)登場しましたが、まだタイトルは獲得していません。棋戦での優勝は2回(NHK杯と早指し新鋭戦)です。
⑫阿部隆: 天王戦のところでしましたが、まだタイトルは獲得していません。
⑬藤井猛: 新人王戦のところでまとめましたが、現在までに、竜王位を3期獲得しています。
⑭野月浩貴: 羽生より3歳若く、棋戦での優勝は2回(早指し新鋭戦と勝ち抜き戦5勝以上)、タイトル戦とは無縁です。
⑮久保利明: 羽生より5歳若く、現在九段、タイトル獲得6期(棋王3期、王将3期)、タイトル戦登場は12回(王座2回、棋王5回、王将5回)、棋戦優勝は6回(銀河戦1回、大和証券最強戦1回、NHK杯1回、将棋日本シリーズ2回、勝ち抜き戦5勝以上1回)です。
この15名のうち、現在(2017年年末)までに、タイトルを獲得したのは7名(森内俊之、羽生善治、佐藤康光、深浦康市、丸山忠久、藤井猛、久保利明)、タイトルを獲得していないのは8名(森下卓、小林宏、豊川孝弘、畠山成幸、行方尚史、鈴木大介、阿部隆、野月浩貴)です。半数弱が、タイトルホルダーになったわけであり、早指し新鋭戦は、新人王戦と並んで、まさに若手の登竜門、と言えるでしょう。
(6)若獅子戦
若獅子戦(わかじしせん)は、1977年(昭和52年) から 1991年(平成3年)までに近代将棋社主催で行われた、将棋の若手プロの公式棋戦です。12人の優勝者のうち8人は、その後タイトルホルダーやA級棋士になっており、これも、若手の登竜門と言える棋戦でした。当時四段以上の棋士の中から、年齢の若い順に13人を選抜して行われ、将棋会館の特別対局室を使い、タイトル戦に近い形で行われたので若手棋士は緊張しきっていた、と言われています。
表7 平成元年~10年 若獅子戦 | ||||||||||||||||||||
|
1989年度(平成元年度)第13回と1990年度(平成2年度)第14回の若獅子戦の優勝者と準優勝者を右の表7にまとめて示します。
①1989年度(平成元年度)第13回の優勝者は村山聖五段、準優勝は佐藤康光五段、二人とも、その後、大活躍します。。
②1990年度(平成2年度)第14回の優勝者は先崎学五段、準優勝は村山聖五段です。先崎学については、NHK杯のところで述べたように、タイトルは獲得できていません。
③若獅子戦は、1990年度で終了し、1991年以降は行われなくなりました。
(7)全日本プロトーナメント
朝日新聞社は、1977年(昭和52年)に名人戦を失って以来、日本将棋連盟と冷戦状態になりましたが、6年経ってようやく、朝日新聞社の主催で、すべての棋士が参加する公式棋戦が開催されるようになりました。それが、1982年(昭和57年)から始まった「全日本プロ将棋トーナメント」です。この棋戦の特色は以下の3点です。
1)トーナメント: 名人から四段まで横一線に並んでスタート、ゴルフのマッチプレイに似て「ゴルフ方式」と呼ばれました。。
2)賞金制: 対局料を含む賞金がタイトルや段位に関係なく、一定額が決められ、勝ち上がれば、どんどんと増えていきました。
3)持ち時間: 一回戦から決勝3番勝負まで同じ3時間と決められました。
第1回~第19回まで「全日本プロ将棋トーナメント」として開催。第9回より、決勝五番勝負となりました。
このトーナメント戦は、賞金額がタイトル戦並みの高額のおかげか(契約金額は、竜王戦・名人戦・棋聖戦に次ぐ第4位の棋戦)、若手の活躍が目立ち、「荒れる全日本プロ」とも「朝日新人王戦」とも揶揄(?)される棋戦です。
1989年度(平成元年度)第8回から1998年度(平成10年度)第17回までの全日本プロトーナメント戦の優勝者と準優勝者を右の表8にまとめて示します。
表8 平成元年~10年 全日本プロトーナメント | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
①1989年度(平成元年度)第8回: 1989年末に竜王位を奪取した羽生善治竜王と、谷川浩司名人との決勝戦となりました。谷川が先勝しましたが、第二局・第三局は羽生が勝ち、初めてトーナメントを制しました。
②1990年度(平成2年度)第9回: 第9回からは大シードが設けられ、決勝戦は5番勝負となり、優勝賞金も1500万円にアップしました。前年優勝の羽生は準々決勝で24歳の森下卓六段に敗れ、竜王を羽生から奪取していた谷川は準決勝で43歳の桐山清澄九段に敗れました。五番勝負となった初めての決勝戦は、森下と桐山の戦いとなり、森下が3勝1敗で桐山を降して初優勝を飾り、賞金1500万円を手に入れました。なお、勝負の決着がついた第四局は、平成3年4月5日に行われましたが、その日の早朝、升田幸三実力制第四代名人が亡くなりました。桐山は、関西奨励会入りの前には升田の内弟子だったそうですから、勝ちたかったでしょうが、勝負の世界には私情が入り込む余地などは無いのです。
③1991年度(平成3年度)第10回: 羽生棋王と森下六段の決勝戦となりましたが、羽生が3勝2敗で大激戦を制して、2度目の優勝に輝きました。
④1992年度(平成4年度)第11回: プロ棋士になって1年半、21歳の深浦康市四段が決勝戦まで勝ち上がり、もう一方の山から勝ち上がってきた米長邦雄九段と対戦しました。結果は大方の予想を裏切って深浦四段が3勝2敗で優勝しました。なお、米長はこの時、久しぶりに名人戦の挑戦者に決まっていました。このトーナメント戦では敗れましたが、名人戦では見事勝利し、悲願の名人位奪取に成功します。、
⑤1993年度(平成5年度)第12回: 「荒れる全日本プロ」の象徴ともいえるような「六段同士の決勝戦」となりました。最終局までもつれる戦いを制したのは阿部隆六段でした。準優勝の中田宏樹六段は、谷川よりは2歳半若く、現在八段、棋戦では勝ち抜き戦5勝以上2回の優勝歴があり、王位戦で1回挑戦者として登場しましたが、タイトル獲得はありません。。
⑥1994年度(平成6年度)第13回: この回から女流棋士代表の参加が決まり、女流三冠(名人・王位・倉敷藤花)の清水市代が参加しましたが、初戦で敗れてしまいます。決勝戦は、谷川王将と深浦五段の戦いとなりましたが、谷川の3勝1敗の貫録勝ちで終わりました。
⑦1995年度(平成7年度)第14回: 1996年2月、羽生がついに七冠を独占しました。その羽生が準決勝で屋敷伸之七段に敗れてしまいます。屋敷は羽生を破った勢いそのままに藤井猛六段を3連勝で破り、初優勝しました。
⑧1996年度(平成8年度)第15回: 今まで、一度も優勝した事のない中原誠永世十段は、準決勝まで進みましたが、そこで森下八段に敗れて、決勝への進出はなりませんでした。決勝戦は、谷川九段と森下八段との戦いとなり、谷川がこの棋戦最多となる六回目の優勝を遂げました。
⑨1997年度(平成9年度)第16回: 竜王と名人を奪還した谷川が早々に敗退し、準決勝に進出したのは、佐藤康光八段と羽生善治四冠(王位・王座・棋王・王将)、屋敷伸之棋聖と森内俊之八段、の「20代A級四天王」。決勝戦は、羽生と森内の戦いとなりましたが、羽生が3連勝で森内を降して3度目の優勝を勝ち取りました。
⑩1998年度(平成10年度)第17回: この年の順位戦で2位だった森内俊之八段と、3位だった丸山忠久八段の決勝戦となりましたが、丸山が3連勝して優勝しました。
(8)JT将棋日本シリーズ
将棋日本シリーズ(しょうぎにっぽんシリーズ)は、1980年に創設された棋戦で、日本将棋連盟と開催地新聞社が共催、JTが特別協賛しています。毎年6月から11月にかけて、全11局が全国各地の都市において公開対局で1局ずつ行われます。参加棋士は、右記の順に従って選抜された12人で、トーナメントで対局します(12名のうち出場順位上位4名が2回戦シードとなります): 1.前回優勝者、2.タイトル保持者、3..獲得賞金ランキング上位者
表9 平成元年~10年 JT将棋日本シリーズ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
持ち時間は10分で、切れたら1分単位で合計5回の考慮時間が与えられます(考慮時間を使い切ったら1手30秒未満)。この他観客向けに「次の一手」クイズを行うため、対局途中で解説者の要請により封じ手を行い休憩(10分間)が挟まれます。2015年現在、優勝賞金500万円、準優勝賞金150万円。また副賞として、トーナメントで1勝する毎に勝者にJTグループの製品1年分(2014年まではジェイティ飲料の飲料類、2015年以降はテーブルマークのインスタントライス)が贈られます。
1989年(平成元年)第10回から1998年(平成10年)第19回までのJT将棋日本シリーズ戦の優勝者と準優勝者を右の表9にまとめて示します。
①1989年(平成元年)から1998年(平成10年)までの10年間で、優勝したのはわずか3人です。準優勝者を加えても、9人に過ぎません。全日本プロトーナメントとは、大きな違いがあります。これは、全日本プロトーナメントは全員が参加できる棋戦であるのに対し、JT将棋日本シリーズは、選ばれた12人による棋戦、という参加者枠の違いのためであると言えるでしょう。
②この10年間で優勝した3人とは、優勝回数が多い順に、谷川浩司(5回)、郷田真隆(3回)、羽生善治(2回)です。谷川と羽生は、将棋界の覇権を争っていた二人ですが、そこに郷田真隆が割って入ったわけです。なお、優勝回数最多の谷川浩司は、さらに、準優勝が1回あります。この棋戦が谷川の性分に合っていたのでしょう。
③準優勝者をながめると、米長邦雄が2回登場しています。その2回とも、郷田真隆と対戦して敗れています。なお、3回優勝した郷田真隆が決勝戦で破ったあと一人は、谷川浩司ですので、郷田は、この棋戦ではかなりの大物食い、と言えるでしょう。
④米長邦雄、谷川浩司以外の準優勝者は、島朗、中原誠、有吉道夫、南芳一、村山聖、森内俊之、佐藤康光の7人ですが、このうち、タイトルを獲得できなかったのは難病のため早世した村山聖だけです。村山聖も一度だけですが、王将戦に挑戦者として登場した事があります。
2.優勝棋戦の結果に基づくランキング
平成元年度(1989年度)から平成10年度(1998年度)までの10年間の優勝棋戦の状況をここまで述べてきましたが、ここで、その結果に基づいてランキング表を作ってみました。
注: 非公式戦としては、銀河戦や富士通杯達人戦がありますが、ここでは対象にしません。
(1)ランキング表
優勝棋戦に於いて、平成元年度(1989年度)から平成10年度(1998年度)までの10年間、誰が何回優勝したかを一覧にしたものを、下の表10として示します。
棋戦によっては、全棋士に門戸が開かれているわけではないのもありますから、このランキングは、前回のタイトル戦に基づくランキングとは違ったものではありますが、一応の評価基準にはなると思われます。なお、表9の右側の列に記載した「新人王戦」「早指し新鋭戦」「若獅子戦」の3棋戦は出場対象者が若手だけですので、そこでの優勝回数は、他の棋戦よりも低く評価しています。
表10 平成元年~10年 優勝棋戦に基づくランキング | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
表10には28名の棋士が記載されていますが、このうち、2回以上優勝した棋士は、その半分以下の13名でした。1回しか優勝した事が無い15名のうち、7名は、全棋士(またはトップ棋士)が参加する棋戦での優勝ですが、8名は、若手棋士のみを対象とする棋戦での優勝です。
(2)ランキングについて
優勝回数が二桁なのは、羽生だけですが、二位の谷川との差はわずか2回ですし、三位の森内の優勝回数はトップの羽生の半分以下ですから、優勝棋戦でも羽生と谷川の二人がトップを争った、という事がみてとれます。つまり、タイトル戦と同じように、平成の将棋界は、優勝棋戦でも羽生と谷川を車の両輪として動いていた、という事がよくわかります。
①優勝回数のトップは、その羽生善治です。総計66回のうち、その6分の1にあたる11回優勝しています。タイトル戦でもダントツのトップでしたが、優勝棋戦でも、トップの座は譲りませんでした。羽生が優勝した棋戦は、NHK杯(4回優勝)と全日本プロトーナメント3回優勝)、それに、早指し将棋選手権(2回優勝)とJT将棋日本シリーズ(2回優勝)の4棋戦ですが、JT将棋日本シリーズ以外の3棋戦では、優勝回数がトップです。
②羽生に続く第2位は、谷川浩司です。優勝回数は9回、タイトル戦でも2位でしたが、優勝棋戦でもやはり2位であり、平成初期の両横砂といったところです。谷川が優勝した棋戦は、JT将棋日本シリーズ(5回優勝)、天王戦(2回)、全日本プロトーナメント(2回優勝)の3棋戦ですが、JT将棋日本シリーズと天王戦では、優勝回数がトップでした。
③ランク3位は、森内俊之。優勝回数は5回ですが、そのうち3回は若手棋士だけを対象とした棋戦(新人王戦2回、早指し新鋭戦1回)です。タイトル戦では、名人戦で一回だけ挑戦しましたが敗れています。羽生と同年に生まれた森内ですが、タイトル戦や優勝棋戦では、羽生に大きな差を付けられてしまいました。
④ランク4位は、郷田真隆。優勝回数は4回、タイトルも王位と棋聖を一回ずつ獲得し、タイトル戦のランキングでは6位でした。羽生より半年ほど若い羽生世代の代表的棋士の一人です。
⑤ランク5位は、優勝回数が3回の深浦康市と森下卓。全棋士対象棋戦で2回、若手限定の棋戦で1回、合わせて3回優勝しています。
1)深浦康市: 早指し選手権戦と全日本プロトーナメント、それに若手のみの早指し新鋭戦でそれぞれ一回ずつ優勝しています。タイトル戦では、王位戦に一回だけ挑戦しましたが、敗れています。羽生より一歳半ほど若い羽生世代の代表的棋士の一人です。
2)森下卓: 天王戦と全日本プロトーナメント、それに若手対象の新人王戦でそれぞれ一回ずつ優勝しています。タイトル戦では、合わせて5回(名人戦、竜王戦、棋聖戦でそれぞれ一回ずつ、棋王戦で2回)挑戦しましたが、敗れています。羽生と谷川のちょうど中間で生まれており、両者の谷間の世代と言えるでしょう。
⑥ランク7位は、全棋士対象棋戦の全日本プロトーナメントで1回、若手限定の新人王戦で2回、合わせて3回優勝の丸山忠久です。タイトル戦への登場実績はありません。
⑦ランク8位は、若手限定の棋戦で3回(新人王戦で2回、早指し新鋭戦で1回)優勝の藤井猛です。タイトル戦では、竜王位を1回奪取しています。
⑨ランク9位から13位は、優勝回数は2回で同じですが、全棋士対象の棋戦か若手限定の棋戦かでランク付しました。
1)ランク9位は、全棋士対象の棋戦で2回優勝した加藤一二三と中原誠です。加藤は、NHK杯と早指し選手権戦で1回ずつ優勝しましたし、中原は、NHK杯で2回優勝しました。加藤と中原のタイトル戦での活躍は、いまさら言うに及ばないと思います。
2)ランク11位は、全棋士対象の棋戦と若手限定の棋戦で1回ずつ優勝した先崎学(NHK杯と若獅子戦)と、村山聖(早指し選手権戦と若獅子戦)。先崎学は、この10年間、タイトル戦への登場はありませんが、村山聖は、王将戦に挑戦者として登場して敗れています。
3)ランク13位は、若手限定の早指し新鋭戦で2回優勝した佐藤康光です。佐藤は、この10年間で、名人と竜王を1期ずつ獲得しており、また、このほかに6回タイトル戦で敗れています。
⑩ランク14位から21位は、優勝回数は1回ですが、全棋士対象の棋戦か若手限定の棋戦かでランク付しました。
1)ランク14位: 全棋士対象の棋戦で1回だけ優勝した右記の7名を同順で14位としました: 阿部隆(全日本プロトーナメント)、小林健二(早指し選手権戦)、櫛田陽一(NHK杯)、高橋道雄(天王戦)、土佐浩司(早指し選手権戦)、南芳一(早指し選手権戦)、屋敷伸之(全日本プロトーナメント)。この7名のうち、タイトル戦でも活躍したのは、下記3人です。
A.高橋道雄: 名人戦と棋王戦で、1回ずつ挑戦しましたが、いずれも敗れました。
B.南芳一: 王将2期、棋王2期、棋聖1期、合わせて5期、タイトルを獲得し、それ以外に、王将戦で2回、棋聖戦で2回、棋王戦で3回、タイトルに挑戦して敗れています。
C.屋敷伸之: 棋聖を3期獲得し、その他に、棋聖戦で3回挑戦して敗れています。
2)ランク21位: 若手限定の棋戦で1回だけ優勝した右記の8名を同順で21位としました: 三浦弘行(新人王戦)、畠山成幸(早指し新鋭戦)、日浦市郎(新人王戦)、行方尚史(早指し新鋭戦)、小林宏(早指し新鋭戦)、佐藤秀司(新人王戦)、鈴木大介(早指し新鋭戦)、野月浩貴(早指し新鋭戦)、このうち、タイトル戦でも活躍したのは、三浦弘行だけです。三浦は、棋聖を1期獲得し、それ以外に棋聖戦で2回挑戦して敗れています。
3.順位戦の状況
棋士の実力を客観的に表示する方法の一つに「段位」があります。そして、その段位を決める重要な棋戦が「順位戦」です。1989年(平成元年)から1998年(平成10年)までの順位戦の動向と主要なエピソードをここにまとめます。なお、段位は、順位戦のみでなく、他の要素でも昇段できますが、一旦昇段すると、その後、降段する事はありません。
将棋連盟では、4月から翌年3月までを年度としており、順位戦の「期」の区分もそうなっていますので、表11には、年度表示も併記しました。つまり、第47期は、1988年(昭和63年)4月から始まり1989年(平成元年)3月までの1年間です。
表11 平成元年~10年 順位戦参加人数の推移 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
3.1 順位戦参加人数の推移
1989年(平成元年)から1998年(平成10年)までの順位戦の参加人数の推移を左の表11にまとめて示します。順位戦に参加できることがプロ棋士の証明ですから、この表に記載されている合計人数は、その年のプロ棋士の総数を示しているといえます。(ただし、「予備クラス」(フリークラス)にいる棋士もプロですので、全体のプロ棋士数はこれより増えます)。
①順位戦における、A級10人、B級1組13人という定員は病気休場等の例外を除けば厳守されましたが、B級2組以下は、降級点によって降級するという制度の結果、B級2組以下の人数は、年度によりかなり変動しています。なお、プロ棋士と言えるのは、四段になった時ですが、C級2組からスタートします。左の表からもわかりますように、棋士の総数は、年度によって変動します。
注: 合計参加人数には、名人(1名)を加えてあります。
②棋士の総数は120名前後ですが、将棋界は棋戦の充実等もあって、財政的には安定していたようです。
3.2 A級棋士の変遷
120名前後のプロ棋士の中で、トップクラスと言える棋士は、A級に籍を置いている棋士です。そのA級棋士が、1989年(平成元年)から1998年(平成10年)までにどのように変遷していったかを、下の表12にまとめて示します。
表12 平成元年~10年 A級棋士の変遷 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
3.3 A級棋士のランキング
1989年(平成元年)から1998年(平成10年)までの10年間、A級在籍回数、名人在位回数、名人位に挑戦して敗退した回数を、棋士別に集計してランク付けしたものを右下の表13にまとめて示します。
表13 平成元年~10年 A級棋士ランキング表 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
注: 「名人在位」は、表12には表れませんが、表13では、「A級在籍」とみなして、A級在籍年数に加えました。
①1989年(平成元年)から1998年(平成10年)までの10年間、A級に在籍した棋士はのべで25名でした。その25名の中でトップは中原誠です。10年間を通して名人3期、それ以外はA級に在籍していました。名人在位3期は羽生善治と並んでトップです。この間、名人戦で一回敗退しています。
②ランク2位は、中原のあとを追って、新たな覇権者として名乗りを上げた谷川浩司です。10年間を通して名人2期、それ以外はA級に在籍していました。名人在位2期は中原誠、羽生善治に次いで3位です。この間、名人戦で2回敗退しています。
③ランク3位は、中原のライバルとして、昭和40年代末期から中原と覇権争いを演じていた米長邦雄です。10年間を通して名人1期、それ以外はA級に在籍していました。名人在位は1期ですが、この間、名人戦で3回敗退しています。
④ランク4位は、A級在籍8年の高橋道雄です。名人にはなれませんでしたが、一度だけ名人に挑戦し敗れています。
⑤ランク5位はA級在籍7年の塚田泰明と南芳一です。二人とも、名人戦に登場する事はありませんでした。
⑥ランク7位はA級在籍6年の加藤一二三と有吉道夫です。二人とも、名人戦に登場する事はありませんでした。
⑦)ランク9位はA級在籍5年の羽生善治。A級に昇級した1993年度(平成5年度)第52期にいきなり挑戦権を獲得し、米長名人から名人位を奪取しました。その後、3期連続して名人位を保ちましたが、第55期名人戦で、挑戦者の谷川浩司に敗れてしまいます。
⑧ランク10位は、A級在籍5年の大山康晴。表12の注記で述べましたが、第51期順位戦のさなか、1992年7月26日、ガンのために69歳で死去します。なお、平成に入ってから、大山が名人戦に登場する事はありませんでした
⑨A級在籍4年は下記3人ですが、名人戦に登場したか否かにより、ランクに差をつけました。
1)ランク11位は、森下卓、タイトル奪取はなりませんでしたが、一回だけ(第53期)羽生名人に挑戦しましたので、他の二人より上位にランクしました。
2)ランク12位は、内藤國雄と島朗、ともに、名人には挑戦していません。
⑩A級在籍3年は下記5人ですが、名人戦に登場したか否かにより、ランクに差をつけました。
1)ランク14位は、佐藤康光。第56期(平成9年度)に名人挑戦者となり、谷川名人を破って名人位を奪取しました。
2)ランク15位は、森内俊之。第54期(平成7年度)にA級に昇級していきなり名人挑戦者となり、羽生名人に挑戦しましたが敗れてしまいます。
3)ランク16位は、田中トエ亜彦、青野照市、小林健二の3人です。誰に、名人には挑戦していません。
⑪ランク19位は、一度も名人に挑戦できませんでしたが、A級在籍2年の右記3人です: 桐山清澄、真部一男、村山聖。
⑫ランク22位は、A級在籍が1期のみで、一度も名人に挑戦できなかった右記の4人です: 森雞二、井上慶太、石田和雄、田丸昇。
⑬1年でも、A級に留まるのは大変な事なので、表13に記載された25名の棋士は、平成元年から10年までの10年間を代表する一流棋士である、と言えるでしょう。
3.最後に:
平成元年から10年について、タイトル戦での状況に続いて優勝棋戦の状況をまとめてみました。ここでも、タイトル戦の時と同じように、将棋界の覇権が、中原から谷川、谷川から羽生へと移ってゆく状況が反映されています。天才谷川の時代が意外と短かったのですが、それは、その後を、大天才とも呼ぶべき羽生が追っかけ来たからだと言えるでしょう。その意味では、谷川は不運だった、と言えるのかもしれません。
次回は、平成11年以降の歴史をまとめる前に、羽生善治が達成した永世七冠までの歩みをまとめたいと思います。
参考文献
1.「将棋の歴史」、増川 宏一、平凡社新書
2.「将棋の駒はなぜ40枚か」、増川 宏一、集英社新書
3.「昭和将棋史」、大山 康晴、岩波新書
4.「将棋百年」、山本 武雄、時事通信社
5.「昭和将棋風雲録」、倉島竹二郎、講談社
6.「将棋 八大棋戦秘話」、田辺忠幸 編、河出書房新社
7.「中学生プロ棋士列伝」、洋泉社
8.「将棋年鑑 2017」、日本将棋連盟
9.「最後の握手」、河口 俊彦、マイナビ
10.「覇者の一手」、河口俊彦、NHK出版
11.「棋士という人生」、大崎善生編、新潮文庫
12.「棋士の一分」、橋本崇載、角川新書
13.「決断力」、羽生善治、角川oneテーマ21
14.「大局観」、羽生善治、角川oneテーマ21
15.「集中力」、谷川浩司、角川oneテーマ21
16.「プロ棋士という仕事」、青野照市、創元社
17.「将棋タイトル戦30年史 1984→1997編」、週刊将棋編、日本将棋連盟
18.「将棋タイトル戦30年史 1998→2013編」、週刊将棋編、日本将棋連盟
19.「大山康晴の晩節」、河口俊彦、飛鳥新社
20.日本将棋連盟のホームページ
関連記事
将棋の歴史(6):中原世代を巡る覇権争い(昭和50年~63年)
藤井聡太物語(3): 衝撃のプロデビュー(2016年度の戦績)