将棋の歴史(7):平成の覇者(平成元年~10年)(1)

前回は、昭和50年から昭和63年まで、ちょうど、昭和が終わる直前までの14年間の将棋界の動向をまとめました。つまり、彗星のごとく現れて大山独走時代の終焉を告げた「若き太陽」中原誠が、その覇権を確立した昭和50年代と、その中原の良きライバル米長が活躍した昭和50年代末から60年代始めの状況をまとめたわけです。米長の活躍とほぼ時を同じくして、史上2人目の「中学生プロ棋士」谷川浩司が、名人戦に登場して名人位を奪取し、中原時代の終焉と谷川時代の幕開けを告げました。さらに、谷川と中原が名人戦で争っていた頃、史上3人目の「中学生プロ棋士」羽生善治が、誕生しました。一方、こうした新しい力が生まれてくる中で、戦後の将棋界を大山と共に盛り上げた、升田幸三が引退しました。

今回は、平成元年から10年までの平成初期時代の将棋界の動向をまとめます。この時代は、中原から谷川への覇権交代に絡んで、中原のライバル米長と、谷川からの覇権奪取を目指す羽生善治、及び、「羽生世代」と総称される羽生とほぼ同時期に生まれた若手棋士の活躍が中心となります。結論を先に述べれば、平成元年からの10年までの間に、トップ棋士の座は、谷川から羽生へ移ったと言えます。その象徴的出来事が、1996(平成8年)年初頭に羽生が史上初の七冠王に輝いたことです。

こうした若手の台頭の中で、戦後の将棋界を引っ張て来た升田と大山が、相次いで亡くなりました。1991年(平成3年)4月5日、升田が先に旅立ちました。享年73歳。大山が亡くなったのは、その翌年の7月26日。享年69才。大山は、69歳でA級棋士のまま、ガンでなくなるという壮絶な最後でした。二人の死去は、戦後間もなく、坂田三吉と関根金次郎が亡くなって新しい時代が生まれたように、今度も一つの時代が終わって、新しい時代の到来を告げる出来事となりました。

今回は、七大タイトルの動向を述べた後、象徴的な出来事である、羽生七冠誕生までの歩みと、大山康晴の足跡を辿る事にします。

1.七大タイトルを巡る戦い

タイトル戦は、昭和50年代に、「名人、王将、竜王、王位、棋聖」の五冠に加えて、「棋王」と「王座」が加わり、七大タイトルとなりました。

タイトル戦が行われる時期は、まず最初が「王将戦」(1~3月)、ほぼ同じ時期に棋聖戦後期と棋王戦、次が「名人戦」(4~6月)、その後、王位戦(7~9月)、それとほぼ同じ時期に棋聖戦前期が、その後に、王座戦が行われ、最後が「竜王戦」(10~12月)となっています。棋聖戦だけが、前期と後期で年2回争われます。なお、王座戦、棋聖戦と棋王戦は5番勝負ですが、その他の4個の棋戦はすべて7番勝負です。

注1: ここでは、年単位(1月から12月まで)で記述しましたが、日本将棋連盟では年度単位(4月から翌年3月まで)なので、それにならうと、最初に行われるのが名人戦、最後が、王将戦・棋聖戦後期・棋王戦となります。

注2: 1996年(平成8年)以降、棋聖戦は、他の棋聖戦と同じように年一回の棋戦へと変わりましたが、タイトル戦の実施時期は6~7月に決められました。従って、棋聖戦は、名人戦と王位戦の間に行われます。

(1) 七大タイトル獲得者の推移

1989年(平成元年)から1998年(平成10年)まで、各タイトル棋戦でタイトルを獲得した棋士がどのように推移していったかを下の表1にまとめます。

棋聖戦は、1996年(平成8年)以降、前後期制から一期制へと変更になりました。

 表1 七大タイトル獲得者の推移(平成元年~10年)
西暦 平成 名人戦
(4~6月)
王将戦
(1~3月)
竜王戦
(10~12月)
王位戦
(7~9月)
棋聖戦(前期)
(7~8月)
棋聖戦(後期)
(1~2月)
棋王戦
(2月~3月)
 王座戦
(9~10月)
名 人 王 将 竜 王 王 位 棋 聖 棋 聖 棋 王 王 座
1989 平 1 47 谷川浩司 38 南 芳一 2 羽生善治 30 谷川浩司 54 中原 誠 53 中原 誠 14 南 芳一 37 中原 誠
1990 2 48 中原 誠 39 米長邦雄 3 谷川浩司 31 谷川浩司 56 屋敷伸之 55 中原 誠 15 南 芳一 38 谷川浩司
1991 3 49 中原 誠 40 南 芳一 4 谷川浩司 32 谷川浩司 58 南 芳一 57 屋敷伸之 16 羽生善治 39 福崎文吾
1992 4 50 中原 誠 41 谷川浩司 5 羽生善治 33 郷田真隆 60 谷川浩司 59 谷川浩司 17 羽生善治 40 羽生善治
1993 5 51 米長邦雄 42 谷川浩司 6 佐藤康光 34 羽生善治 62 羽生善治 61 谷川浩司 18 羽生善治 41 羽生善治
1994 6 52 羽生善治 43 谷川浩司 7 羽生善治 35 羽生善治 64 羽生善治 63 羽生善治 19 羽生善治 42 羽生善治
1995 7 53 羽生善治 44 谷川浩司 8 羽生善治 36 羽生善治 66 羽生善治 65 羽生善治 20 羽生善治 43 羽生善治
1996 8 54 羽生善治 45 羽生善治 9 谷川浩司 37 羽生善治 67 三浦弘行 21 羽生善治 44 羽生善治
1997 9 55 谷川浩司 46 羽生善治 10 谷川浩司 38 羽生善治 68 屋敷伸之 22 羽生善治 45 羽生善治
1998 10 56 佐藤康光 47 羽生善治 11 藤井 猛 39 羽生善治 69 郷田真隆 23 羽生善治 46 羽生善治

(2)10年間を通じて言える事

上の表1を概観すると、以下の特徴がみて取れます。

①七冠すべてに名を残しているのは羽生善治だけです。羽生は、1996年2月14日、第45期王将戦で谷川浩司から王将位を奪取し、ついに史上初の七冠王となりました。そして、直後の第21期棋王戦でも防衛に成功し、1995年度(平成7年度)を通じての七冠王を達成しました。しかし、1996年(平成8年)7月30日、第67期棋聖戦で挑戦者の三浦弘行五段に敗れて棋聖位を失い、七冠独占は、167日で終了しました。

②羽生に次いで、谷川浩司が棋王を除く6個のタイトルに名を残しています。昭和50年代に誕生した「棋王」と「王座」の二冠については、羽生が圧倒的強さを発揮しています(延べ20回のうち15回もタイトル獲得)が、それとは対照的に谷川は、両者合わせても一回しかタイトルを取れませんでした。

③五冠、四冠に名を残している棋士はいません。三冠に名を連ねているのは、中原誠と南芳一の二人です。そして、二冠に名を連ねているのは、米長邦雄、佐藤康光、郷田真隆の3人です。そして、一冠だけに名を残しているのは、藤井猛、三浦弘行、福崎文吾の3人です。

④棋聖戦が1995年まで年に2回タイトル戦がありましたので、平成元年から10年までのこの10年間でのべ77回のタイトル獲得チャンスがあったわけですが、タイトル獲得に成功したのは、わずか10名に過ぎません。タイトル獲得がいかに難事であるか、これを見るだけでお分かりいただけると思います。そういう中で、羽生善治が半数弱の36回もタイトル獲得に成功しているのをみれば、この10年間は羽生の時代であった、と言えると思われます。

⑤しかし、その10年間を、5年ずつ、二つに分けて眺めると、それとは若干違った風景が見て取れます。

(3)前半の5年間(平成元年から5年)を通じて言える事

平成元年から5年までの5年間のタイトル獲得回数でランク付けしたものを右の表2としてまとめました。獲得回数が同じ場合、タイトルの序列に応じて、竜王や名人の獲得者を上位にしました。

表2 前期(平成元年~10年)のタイトル獲得回数
ランク 氏 名 名人 王将 竜王 王位 棋聖 棋王 王座 合計 獲得率
1 谷川浩司 1 2 2 3 3 0 1 12 30.0%
2 羽生善治 0 0 2 1 1 3 2 9 22.5%
3 中原 誠 3 0 0 0 3 0 1 7 17.5%
4 南 芳一 0 2 0 0 1 2 0 5 12.5%
5 米長邦雄 1 1 0 0 0 0 0 2 5.0%
6 屋敷伸之 0 0 0 0 2 0 0 2 5.0%
7 佐藤康光 0 0 1 0 0 0 0 1 2.5%
8 郷田真隆 0 0 0 1 0 0 0 1 2.5%
8 福崎文吾 0 0 0 0 0 0 1 1 2.5%
合 計  5 5 5 5 10 5 5 40 100.0%

①前期のトップは12回タイトルを獲得した(獲得率30.0%)谷川ですが、圧倒的とは言えない数字であり、中原時代が終わった、とは言えても、谷川時代が来た、というには物足りない数字です。ただ、1991年(平成3年)から1992年(平成4年)にわたって、王位、竜王、王将、棋聖の四冠を獲得し、史上4人目の「四冠王」に輝き、谷川時代の到来を告げる成績を上げました。

②2位は、タイトル獲得9回(獲得率22.5%)の羽生善治です。名人と王将を獲得できませんでしたが、タイトルの序列トップである竜王位を2回獲得しており、将棋界のトップの座を巡って谷川を追っている、という事を世間に知らせる成績でした。

1)前回のコラムでも触れましたが、羽生は史上3人目の中学生プロ棋士であり、1986年にC級2組でプロデビューして以来、昇級は先輩の加藤一二三や谷川浩司ほど順調ではありませんでしたが、優勝棋戦やタイトル戦では徐々に頭角を現わしてきました。

2)1989年(平成2年)、デビュー5年目の羽生六段は初めてのタイトルとして序列第一位の竜王位を獲得します。若干19歳2ヶ月でのタイトル獲得は、この時点では史上最年少の記録でした。なお、この後、羽生は常に一個以上のタイトルを把持しており、羽生がタイトル名以外の「六段」という肩書で、タイトル戦に登場したのは、この時の竜王戦のみです。

③3位は、タイトル獲得7回(獲得率17.5%)の中原誠。名人を3回獲得しているのは流石ですが、竜王位は獲得できませんでした。中原時代は終わりましたが、まだまだ健在であることを証明する戦績です。

④4位は、王将と棋王を2回ずつ獲得し、合計で5回タイトルを獲得した(獲得率12.5%)南芳一です。南芳一は、1963年6月生まれ、谷川よりは2歳若いのですが、谷川世代の強豪の一人です。

⑤5位は、名人と王将を各一回獲得した米長邦雄。昭和の50年代から60年代にかけて、中原の良きライバルとして活躍し、史上3人目の四冠王にも輝きましたが、当時、序列トップだった名人位だけは獲得できませんでした。しかし、1993年(平成5年)、ついに中原名人を破って念願の名人位を奪取しました。

⑥6位は、棋聖を二回獲得した屋敷伸之。屋敷が、1990年に中原棋聖を破り、初めて棋聖を獲得した時は18歳6ヶ月で、これはタイトルホルダーとして史上最年少記録です。屋敷は、羽生より1年4ヶ月若いのですが、いわゆる「羽生世代」の強豪です。

⑦7位は、タイトル戦序列1位の竜王を一回獲得した佐藤康光、羽生より1年だけ年長ですが「羽生世代」に属します。郷田真隆と福崎文吾も一回だけタイトルを獲得しましたが、竜王でも名人でもないので、ランクとしては、佐藤より下の8位としました。郷田は羽生より6ヶ月若い「羽生世代」の一人、一方、福崎は谷川より2年6ヶ月年長ですが「谷川世代」に属します。

⑧前半5年のタイトル獲得実績は、中原世代が二人、谷川世代が3人、羽生世代が4人で、将棋界の覇権を巡る世代交代が着実に進んでいる事を示す結果となりました。

(4)後半の5年間(平成6年から10年)を通じて言える事

平成6年から10年までの5年間のタイトル獲得回数でランク付けしたものを左の表3としてまとめました。獲得回数が同じ場合、タイトルの序列に応じて、竜王や名人の獲得者を上位にしました。

 表3 後期(平成6年~10年)のタイトル獲得回数
ランク 氏 名 名人 王将 竜王 王位 棋聖 棋王 王座 合計 獲得率
1 羽生善治 3 3 2 5 4 5 5 27 73.0%
2 谷川浩司 1 2 2 0 0 0 0 5 13.5%
3 藤井 猛 0 0 1 0 0 0 0 1 2.7%
4 佐藤康光 1 0 0 0 0 0 0 1 2.7%
5 三浦弘行 0 0 0 0 1 0 0 1 2.7%
5 屋敷伸之 0 0 0 0 1 0 0 1 2.7%
5 郷田真隆 0 0 0 0 1 0 0 1 2.7%
合 計  5 5 5 5 7 5 5 37 100.0%

①後期のトップは、羽生善治、獲得回数27回、獲得率73.0%で、圧倒的な成績です。とくに、王位、棋王、王座の三タイトルについては、5年間を通じて独占しています。谷川時代が終わり、羽生時代が到来した事を示す成績です。しかも、記述のごとく、1996年には史上初の七冠に輝いています。この後、七冠に輝いた棋士は、現在までいません。羽生善治が、七冠王になるまでの歩みを次項でまとめます。

②2位は、谷川浩司、獲得回数は5回(獲得率13.5%)ですが、タイトル戦序列トップの竜王を2回、序列2位の名人を1回獲得しています。羽生が七冠王になるか否かの戦いは、谷川王将と挑戦者羽生の間で、1995年と1996年の王将戦で2回にわたって戦われました。この戦いは、将棋界の覇権を巡る戦いであり、最初は谷川が勝ちましたが、二度目には羽生が勝ち、ついに、タイトルのみならず、将棋界の覇権も谷川から奪取したのです。詳しくは、次項で述べる羽生の歩みの中で述べます。

③3位以下は、獲得回数は一回ですが、竜王と名人を獲得した棋士を上位にランクしました。

1)3位は、竜王を獲得した藤井猛、羽生より誕生日が2日遅いだけのピカピカの「羽生世代」の俊英です。

2)4位は、名人を獲得した佐藤康光、羽生より1歳年長ですが、やはり、「羽生世代」の俊英です。

3)5位は、棋聖を獲得した三浦弘行、屋敷伸之、郷田真隆の3人が同列で並びます。三浦弘行は羽生より3年5ヶ月若い、屋敷は1年4ヶ月若い、郷田は6ヶ月若い、この3人ともに羽生世代の俊英です。

④後半5年のタイトル獲得棋士は、谷川を除けばすべては「羽生世代」の強豪ばかりで、中原世代は皆無です。将棋界の覇権が、谷川世代から羽生世代へと移りつつあることを示しています。

2.羽生善治、七冠王の歩み

将棋界の覇権が羽生世代に移ったことを示す象徴的な出来事が、1996年(平成8年)の羽生善治の七冠独占です。ここでは、羽生善治が、七冠王になるまでの歩みをまとめます。その歩みの概況を右の表4にまとめましたので、その表を参照しながらお読みください。

 表4 羽生善治、七冠王までの歩み
 西暦  昭和
平成
 出 来 事 
1970 45 9月27日、埼玉県所沢市に生まれる
1977 52 近所に住む同級生から将棋を教わる
1982 57 4月、小学生名人戦に優勝、6級で奨励会に入会
1985 60 12月、史上3人目の中学生プロ棋士となる
1986 61 4月、C級2組で順位戦に登場
1987 62 12月、全棋士参加の天王戦で、17歳2ヶ月、四段で優勝
1988 63 4月、C級1組に昇級
1989 平 1 2月、NHK杯で、五段で、現役の名人経験者4人をすべて破って優勝
12月、19歳2ヶ月、六段で竜王位を獲得
1990 2 4月、B級2組に昇級
12月、竜王位を失い、無冠となる
1991 3 3月、棋王位を獲得
1992 4 4月、B級1組に昇級
王座、竜王を獲得して、棋王と合わせ三冠となる
1993 5 4月、A級に昇級、翌年名人挑戦者となる
棋聖、王位も獲得して、王座、竜王、棋王と合わせて史上3人目の五冠となる
1994 6 名人を獲得、竜王にも復帰して史上初の六冠となる
1995 7 3月、谷川王将に敗れ、七冠王ならず
1996 8 2月、谷川王将を破り、史上初の七冠王となる
7月、棋聖戦で挑戦者三浦五段に敗れ、六冠に後退
12月、竜王戦で挑戦者谷川に敗れ、五冠に後退

(1)プロデビューまで

①羽生は、1970年(昭和45年)9月27日、埼玉県所沢市で生まれましたが、幼稚園に入る頃に東京都八王子市に移りました。

②1977年、羽生が小学1年生の時、近所に住む同級生が羽生に将棋を教えました。羽生は、将棋の面白さに夢中になり、その姿を見た母親が、羽生が小学2年生の時に将棋道場「八王子将棋クラブ」に通わせるようにしました。

③羽生は、「八王子将棋クラブ」入会後、急速に棋力を向上させ、小学4年生の時に「第一回小田急将棋まつり小学生大会」で優勝します。この時の準決勝で、その後、良きライバルとなる森内俊之と対戦して勝ちました。

④小学5年生の時に奨励会の入会を志し、道場の師範代中島克安指導棋士(二上達也の最初の弟子でしたが、家庭の事情で奨励会を退会しました)に相談しました。中島は、「小学生将棋名人戦で優勝する事」という条件を付けましたが、小学6年生の春(1982年4月3日)、羽生は見事優勝し、条件をクリアしました。

⑤1982年、奨励会の入会試験に合格し、以降、破竹の快進撃で昇級・昇段を重ね、1985年4月に三段に昇段します。

⑥三段に昇段後、13勝4敗の成績をあげて四段に昇段し、1985年12月18日、15歳で史上3人目の中学生プロ棋士となりました。

(2)初タイトル獲得まで

①羽生の初対局は1986年1月、デビューから6連勝し、3月末で終わる初年度の戦績は、8勝2敗、という素晴らしい成績でした。(因みに、藤井四段は、2016年12月に加藤一二三元名人との対局がデビュー戦でそこから連勝を重ね、2017年3月末で終わる初年度は10戦全勝でした)。

②羽生の2年度目(実質初年度目)、1986年4月から1987年3月までの戦績は、54局指して40勝14敗、いきなり勝率第一位に輝いた。しかも、この年度は3人のタイトルホルダー、1人のA級棋士と戦い、全勝したのです。(因みに藤井四段は12月6日現在で41勝8敗ですが、タイトルホルダーとの対局はまだありません)。

注: 3人のタイトルホルダーは以下の通りです。

1)新人王戦: 対 中村修王将

2)早指し選手権戦: 対 谷川浩司棋王

3)NHK杯: 対 米長邦雄十段

③デビュー3年度目(1987年4月~1988年3月)は、50勝11敗で、最多勝数と勝率第一位を記録しています。タイトルホルダー、A級棋士とは7局戦って4勝3敗と勝ち越しています。なお、この年、前述のごとく、1987年12月3日、17歳と2ヶ月で天王戦で優勝し、全棋士が参加する棋戦で史上2番目の最年少記録を打ち立てました(1位は、加藤一二三の17歳0ヶ月)。

④デビュー4年度目(1988年4月~1989年3月)は、今までの戦績をさらに上回り、64勝16敗で、対局数、勝利数、勝率、連勝(18連勝しました)の4部門でトップとなり、将棋大賞の最優秀棋士賞を、史上最年少の18歳で受賞しました。なお、記録4部門を独占したのは、今回の羽生が初めてで、その後も、羽生だけが3回達成していますが、羽生以外には誰も達成していません。この年度で、特筆すべきは、NHK杯で、五段の羽生青年が、4人の名人経験者(大山康晴、加藤一二三、谷川浩司、中原誠)をすべて破って優勝した事です。テレビ棋戦でのこの活躍で、羽生は一気にスターダムにのし上がりました。

⑤デビュー5年度目(1989年4月~1990年3月)、53勝17敗で、対局数、勝利数、勝率の3部門でトップに輝きました。そして、この年、ついに初タイトルを獲得します。1989年12月、第2期竜王戦で伝説の『島研』で師匠格だった島朗竜王を4勝3敗1持将棋で破って竜王位に就いたのです。19才羽生六段の無欲の勝利と言えるのではないでしょうか。この時、島朗竜王は26才、挑戦者は19才、両者合わせて45才というのもタイトル戦史上最年少記録でした。7番勝負は、前半、島が2勝1持将棋と優位に立ちましたが、羽生がそこから3連勝、その後、島が勝って3勝3敗1持将棋という大熱戦になりました。最終第八局で勝利した羽生は、対局直後、「大変な事になってしまいました。(竜王)の責任の重さについてゆけるかどうか」、と語ったそうです。

(3)七冠王まで

①6年度目(1990年4月~1991年3月)の1990年12月、羽生竜王は挑戦者の谷川浩司に敗れ、無冠となってしまいます。しかし、翌年の3月、第16期棋王戦で挑戦者となり、南芳一棋王を3連勝で破って棋王のタイトルを獲得し、再び、タイトルホルダーに返り咲きます。羽生は、この後、現在(2017年12月)まで、無冠になった年度は一度もありません。つまり、26年間連続してタイトルホルダーだったわけであり、これは、現在も継続中の大記録です。なお、羽生は、この後、2002年まで12年連続して棋王位を保持し続けます。

②7年度目(1991年4月~1992年3月)には、棋王の防衛に成功します。1991年(平成2年)3月、第17期棋王戦では、前回タイトルを奪われた南芳一が挑戦者となって、羽生棋王に雪辱戦を挑み、第一局こそ南が勝ちましたが、その後は羽生が3連勝して、初めてのタイトル防衛に成功したのです。

③デビューから8年度目(1992年4月~1993年3月)、王座と竜王を獲得して、三冠となりました。また、順位戦では、B級1組に昇級し、A級が目前となりました。

1)王座戦: 1992年10月、第40期王座戦では、羽生が挑戦者となって、福崎文吾王座に挑み、3連勝で王座を奪取し、2冠になりました。

2)竜王戦: 1992年12月、第5期竜王戦で、挑戦者となった羽生二冠(王座・棋王)が、谷川三冠(竜王・棋聖・王将)を4勝2敗で破り、3年前のリベンジを果たすと共に、三冠目を獲得しました。この竜王戦は、将棋界の覇権が谷川から羽生へ移った象徴的な一戦と位置付けることが出来ます。

④9年度目(1993年4月~1994年3月)。第62期棋聖戦(1993年度前期)で、羽生三冠(竜王・王座・棋王)は谷川二冠(棋聖・王将)に挑戦し、棋聖を奪取して四冠となります。さらに、引き続き、第34期王位戦に始めて挑戦者として登場し、郷田真隆王位を4連勝のストレートで破って、22才で史上最年少の五冠王になったのです。その後、王座と棋王の防衛には成功しますが、1993年12月、第6期竜王戦で、挑戦者の佐藤康光に2勝4敗で敗れてしまい、四冠に後退しました。なお、この年の4月から、羽生はついにA級棋士の仲間入りを果たします。そして、順位戦では、谷川浩司と並んで7勝2敗の同率トップとなり、プレイオフで谷川を破ってA級1年目で名人挑戦者となりました。

⑤10年度目(1994年4月~1995年3月)。23才の羽生四冠が50才の米長名人に挑戦する第52期名人戦は、1994年4月11日、岡山県倉敷市で始まりました。羽生が初戦から3連勝しましたが、その後、米長が連勝して盛り返します。羽生は、この時、米長が、その後4連勝する自信があるからこそ、わざと初戦から3連敗したのではないか、と疑心暗鬼になった、と著書(参考文献13「決断力」)の中で述べています。そこで、羽生は第六局を最終局と思う事で、疑心暗鬼を克服したそうです。それでも、勝利が近づくと手が動かなくなり、食欲もなくなったそうです。名人位の持つ伝統の重みに押しつぶされそうになりながら、羽生は何とか勝利して名人位を奪取して、再び、五冠王に返り咲きました。

⑥1994年6月に五冠王になった後、6月の第19期棋王戦で谷川、7月の第64期棋聖戦で谷川、9月の第35期王位戦で郷田、同じく9月の第42期王座戦で谷川、と次々に破って五冠を維持します。そして、10月から第7期竜王戦で挑戦者として佐藤竜王にリベンジを挑みました。結果は、12月9日に4勝2敗で羽生が勝利し、ついに前人未到の六冠王となりました。

⑦羽生の七冠王への期待が高まる中、羽生は第44期王将戦の挑戦者となって谷川王将との決戦に臨みました。1995年(平成7年)1月12日、滋賀県彦根市で注目の第一局が始まりました。第一局は谷川が勝ちましたが、第二局までの間の1月19日、阪神淡路大震災が起きて、谷川の神戸の自宅マンションも被害に遭い、一時避難を余儀なくされました。しかし、対戦は予定通り進み、第二局も谷川が勝って優位に立ちます。しかし、第三局第四局は、羽生の勝ちでタイになり、結局、3勝3敗で第7局までもつれ込みました。

最終局は、青森県の奥入瀬渓谷のホテルでの対戦となり、千日手で指し直しの大熱戦でしたが、谷川が勝利して、羽生の七冠を阻みました。羽生がタイトルに挑戦して敗れたのは、これが初めてでした。第七局の2日目(3月24日)には、羽生七冠の誕生を期待して、150名ほどの報道陣がホテルに押し寄せていました。敗れた羽生も、周囲も、これで当分、七冠のチャンスは巡ってこないだろう、と思っていました。

⑧11年度目(1995年4月~1996年3月)。ところが、それから1年間、下記するごとく、羽生は王将戦第7局の前に既に防衛していた棋王戦(対・森下卓)を含め、名人戦(対・森下卓)、棋聖戦(対・三浦弘行)、王位戦(対・郷田真隆)、王座戦(対・森雞二)、竜王戦(対・佐藤康光)と六冠の防衛に全て成功し、さらに、、第45期王将リーグでは前年に引き続いてトップとなり、2期連続で谷川王将への挑戦権を勝ち取ったのです。

1)棋王戦: 1995年(平成7年)3月、第20期で、森下卓八段を3勝零敗で破って、棋王戦5連覇を達成し、「永世棋王」の称号を獲得しました。羽生が、永世称号を獲得したのは、これが初めてです。

2)名人戦: 1995年5月、第53期で、森下卓八段を4勝1敗で破って、防衛に成功します。

3)棋聖戦: 同年7月、第66期で、新鋭三浦弘行五段を3勝零敗で破って、棋聖位5期保持を達成し、「永世棋聖」の称号を獲得しました。羽生が、永世称号を獲得したのは、これが二つ目です。

4)王位戦: 8月、第36期で、郷田真隆五段を4勝2敗で破って防衛に成功します。羽生が、初戦から連敗した時は、羽生敗れるか、と心配させましたが、第3局から4連勝して、34期から3期連続した郷田真隆の挑戦を退け、3連覇しました。

5)王座戦: 9月、第43期で、森雞二九段を3勝零敗で破って、4連覇を達成するとともに、1日制タイトル戦17連勝という偉業を達成しました。

注: 七大タイトル戦のうち、棋王戦、棋聖戦、王位戦、王座戦、の4タイトル戦は、1日で勝負を決めますが、名人戦、竜王戦、王将戦は、二日制となっています。

6)竜王戦: 12月、第8期で、佐藤康光前竜王を4勝2敗で破って、六冠の堅持に成功します。最終第六局は、161手までもつれた大熱戦で、羽生の指が震えた名局でした。(羽生の「駒を指す指が震える、というのは、今では、羽生が勝利を確信して指す時、として有名になりましたが、20年以上も前のこの頃から始まっていたんですね。羽生の指が震えたために、盤上の駒を弾き飛ばしたこともあったそうですから、対戦相手はさぞ驚かれた事と思います)。

⑨1996年(平成8年)1月11日、いよいよ、羽生の二度目の七冠挑戦が始まりました。今回は、前回と違い、あっさりと決着がつきました。初戦から、羽生が3連勝し、2月13日・14日、山口県の「マリンピア・くろい」での第四局には、初日から170名を超す報道陣が詰めかけ、二日目には250名近くが押し掛ける大騒ぎとなりました。

第四局は82手で羽生が勝利し、4戦全勝という完ぺきな成績で七冠王を達成しました。タイトル戦が6個以上になった1975年以降、全冠制覇は初めての快挙でした。この快挙にマスコミは大いに沸き、スポーツ新聞のトップ記事で、羽生の七冠誕生が報じられました。

⑩直後の第21期棋王戦(七冠王としての最初の防衛戦)では、高橋道雄の挑戦を退けて防衛に成功し、同一年度を通じての全冠制覇を達成します。この年度は、テレビ棋戦のNHK杯戦、早指し将棋選手権でも優勝しました。また、年度勝率は、タイトル戦の番勝負での対局が主であったにもかかわらず、当時歴代2位の0.8364(46勝9敗)という成績でした。

⑪12年度目(1996年4月~1997年3月)。七冠王として2つ目の防衛戦は、第54期名人戦。挑戦者は、小学生時代からのライバルでタイトル戦初登場の森内俊之でしたが、4勝1敗で防衛に成功しました。これで名人戦は3連覇となりました。

⑫七冠王としての3つ目の防衛戦は、2期連続で三浦弘行五段を挑戦者に迎えた第67期棋聖戦でした。最初から羽生が連勝した時は、誰もげ羽生の勝利を疑わなかったのですが、その後連敗して、フルセットの戦いとなりました。そして、最終第5局で、若干22歳の三浦五段に敗れ、七冠独占は167日で幕を降ろしました(1996年2月14日=王将奪取日から7月30日=棋聖失冠日まで)。しかし羽生は、「通常に戻れるのでほっとした」と語ったそうです。

⑬この後、第37期王位戦で深浦康市を、第44期王座戦で島朗を、それぞれ退けて六冠を維持します。しかし、1996年12月、第9期竜王戦で谷川に敗れて五冠に後退しました。それでも、1997年初頭(1996年度末)、第46期王将戦では谷川を、第22期棋王戦では森下卓を、それぞれ破って、五冠(名人・王将・王位・棋王・王座)の維持に成功します。

(3)平成9年・10年の羽生の状況

①平成9年(1997年)初頭、前述のごとく、羽生は、王将と棋王の防衛に成功しますが、4月から始まった第55期名人戦では2勝4敗で谷川に敗れて四冠に後退してしまいます。しかし、その後の第38期王位戦では佐藤康光を、第45期王座戦では再び島朗を、それぞれ破って四冠(王将・王位・棋王・王座)を維持しました。なお、残りの二冠(竜王・棋聖)では、挑戦者になれませんでした。

②平成10年(1998年)、まず2月に第47期王将戦で佐藤康光を破り、3月に第23期棋王戦で郷田真隆を破り、9月に第39期王位戦で再び佐藤康光を破り、10月には四冠目の第46期王座戦で谷川を破って、四冠を維持しました。なお、残りの三冠(名人・竜王・棋聖)については、挑戦者になれませんでした。

③このように、平成元年(1989年)には羽生は初めてタイトルを取り、その後、着実にタイトルを奪取して、平成8年(1996年)2月、ついに七冠を独占しました。しかし、独占状態は長続きせず、7月に棋聖位を失冠して、七冠独占は167日で幕を閉じました。その後、名人と竜王も失いましたが、残りの四冠は維持し続け、平成10年末には、羽生は四冠(王将・王位・棋王・王座)でした。

3.巨星墜つ: 大山康晴の戦死

平成になって最初の大きな出来事は、平成4年(1992年)7月26日、大山康晴がガンとの戦いに敗れて69才で亡くなった事です。1992年(平成4年)度の順位戦も休場せずに生涯現役を貫き、A級の地位を守ったまま旅だったのです。なお、A級在籍のまま死去したのは山田道美に続き史上2人目です。(後に村山聖もA級在籍のまま死去しました)。大山が死去した前年には升田幸三が73才で死去しています。戦後、昭和の将棋界を牽引してきた二人の棋士が相次いで亡くなり、新しい時代が到来した事を告げる象徴的な出来事と言えるでしょう。ここでは、大山の戦績を振り返り、晩年(平成年間)の活躍ぶりをまとめる事にします。そのために、大山康晴の歩みを右下の表5にまとめます。

表5 大山康晴の歩み

西暦年 年号年  出 来 事
1923 大正12 3月13日、岡山県浅口郡河内町西阿知(現・倉敷市)に生まれる
1935 昭和10 12歳で岡山県出身の木見金治郎八段(当時)に入門し、内弟子となる
1940 15 四段
1942 17 大阪毎日新聞(戦後の毎日新聞大阪本社)の嘱託
1943 18 六段
1944 19 召集されたために、七段に昇段できず
1945 20 九州で終戦を迎える
1947 22 七段
1948 23 高野山の決戦、八段
1950 25 初タイトル「九段」獲得
1952 27 初めて「名人」となる
1953 28 初めて「王将」となる
1959 34 大山康晴、史上二人目の三冠王
1962 37 大山康晴、史上初の五冠王(名人、九段、王将、王位、棋聖)
1973 48 16年ぶりの無冠、現役のまま永世王将を名乗る事を許される
1976 51 将棋の日(11月17日)に特例として十五世名人を襲位
1977 52 日本将棋連盟会長に就任
1980 55 56歳11ヶ月で王将位を奪取(史上最年長のタイトル獲得)
1982 57 59歳0ヶ月で王将位を防衛(最年長のタイトル防衛)
1980 58 56歳11ヶ月で王将位を失冠し無冠となる(史上最年長のタイトル失冠)
1986 61 63歳2ヶ月で史上最年長の名人挑戦
1990 平成2年 66歳11ヶ月で史上最年長のタイトル挑戦(棋王戦)
1992 4 7月26日、A級在籍のまま、69歳で逝去

(1)大山康晴: 戦前の歩み

①大山は、1923年(大正12年)3月13日、岡山県倉敷市で生まれました。7歳で将棋を覚えると、近くの将棋の先生につき、木村名人の『将棋大観』を教材にして教えてもらいました。大山の両親は、升田の両親と違って将棋に理解があり、小学生時代に早くも専門棋士になる事が既定の事実になっていたそうです。

②小学校の卒業が決まると、卒業式を待たずに木見八段の下に内弟子として入門しました。その出発に際しては、近所の人々や先生に引率された同級生が「祝大山少年木見八段入門」と書いた幟を押し立てて、駅まで送ってくれたそうです。

③木見門下には、升田幸三、大野源一といった兄弟子がいました。木見八段は、本当に名伯楽で、性格も棋風も違う升田と大山のいずれも認め、長い目でみて二人の天分を伸ばしてくれました。はじめは兄弟子の升田幸三が受け将棋で大山は攻め将棋でしたが、二人で数多く対局するうちに、升田は攻めが強くなり、大山は受けが強くなったと言われています。

④1942年(昭和17年)、升田が徴兵されている間に、大山は師匠の推薦を受けて大阪毎日新聞の嘱託になります。これが、升田と大山が宿命のライバルとなった最初の行き違いだったと思われます(以前の「185.将棋の歴史(4)」で記載しましたように、升田は除隊後、自分がこの嘱託になれると思っていたようなのです)。

⑤1944年(昭和19年)、あと4勝すれば七段に昇段できる、という時に、大山に召集令状が来ます。召集された棋士は申請すれば自動的に昇段できたのですが、大山は、申請せず、師匠に頼んで、招集日までに4局の対局実現をお願いします。そこで、3日間で4局指しますが、3勝1敗で4勝に足りなかったために、七段に昇段できませんでした。この時、大山は自分が仲間に嫌われていること、勝負は油断してはならないことを身にしみて感じた、と思われます。そして、この事が後の大山の生き方に大きな影響を与えたのは間違いありません。

⑥軍隊では、大山は幸運にも内地勤務となり、囲碁好きの師団長の相手として、司令部付きで極めて恵まれた軍隊生活を送ることが出来ました(大山は、趣味として囲碁を楽しんでおり、これが役立ちました)。そして、九州にいる時に、終戦を迎えたのです。

(2)大山康晴: 名人位獲得と挫折

①大山は1946年(昭和21年)から新たに始まった順位戦で、B級六段で参加し、翌年七段に昇段します。そして、1948年(昭和23年)、木村名人への挑戦権をかけて、升田幸三と「高野山決戦」へ臨みます。(この間の経緯は、以前の「185.将棋の歴史(4)」で詳しく述べましたので、ここでは省略します)。高野山決戦は、今から思えば、大山と升田の対立を決定的にするとともに、「将棋の神様に愛された大山」と愛されなかった升田の今後の運命を決定づけた、一大決戦でした。

②大山は、高野山決戦では勝って名人挑戦権は獲得しましたが、木村名人には敗れ、名人位の奪取はできませんでした。

③1950年(昭和25年)、大山は再び名人挑戦者となって木村名人に挑みますが、再び、敗退しました。しかし、この年から新設されたタイトル戦、「九段戦」で勝利し、見事、初タイトルを獲得します。

④1952年(昭和27年)、大山は三度(みたび)名人挑戦者となって木村名人に挑み、三度目の正直、ついに名人位を奪取します。敗れた木村名人は、「私は、常々自分がそう老いぼれないうちに、自分より強い立派な棋士をつくることが自分に課された責任だと考えていましたが、このたび大山さんのようなよい後継者を得て、責務の一端をはたし得たと満足に思っております。大山さんは将棋も人間も実に立派になられました。」、と淡々として感想を述べました。

⑤こうして、木村時代が終わり、ついに大山時代が来たかと、世間が思い始めた時に、升田幸三が待ったをかけます。名人獲得後、翌年王将戦でも勝利し、1955年(昭和30年)まで、名人と王将の二冠を取り続けますが、九段位だけは取れませんでした。ところが、1956年(昭和31年)、升田は、王将戦で大山王将・名人を「香落ち」に追い込んで、その香落ち戦も含めて五連勝して、王将位を奪取します。引き続き、九段戦で塚田九段を破って、九段位も奪取し、王将と九段の二冠を獲得します。

⑥そして、1957年(昭和32年)、名人戦で大山を破り、史上初の三冠王(三冠独占)に輝きました。世間は、これで、大山もついに升田に抜かれ、いよいよ升田時代の到来か、と沸き立ちました。

(3)大山康晴の全盛時代(三冠王から五冠王へ)

①大山は、香落ちに追い込まれて敗れ、名人位も奪取されて、無冠となり、どん底に落ち込みます。しかし、無冠の二年間、今までの「守備力無類」と言われた棋風の殻を破るべく、必死の努力を重ねます。その努力は間もなく実を結び、1958年(昭和33年)、王将戦、九段戦で升田を破り、二冠を奪取します。そして、1959年(昭和34年)6月、升田から名人位を奪取して、史上二人目の三冠王(三冠独占)となりました。

②そこから、大山の快進撃が続きます。1960年(昭和35年)に新たに創設された王位戦でも勝利して、四冠王(四冠全て独占)となり、さらに、1962年(昭和37年創設の棋聖戦にも勝利して、史上初の五冠王(五冠全て独占)にも輝きました。

③大山の全冠独占(五冠王)の状況は以下の通り続きます。

1)全冠独占は、1959年(昭和34年)6月の三冠独占に始まり、1963年(昭和38年)3月の王将戦で二上達也に敗れて、五冠王から四冠王に後退した事で、一旦途切れます。この3年9ヶ月の間、五冠すべてを独占したのですから、まさに、独占禁止法違反、と言った状態でした。

2)翌年(1964年)2月、すぐに王将位を奪還して、再び、五冠王に復帰しますが、1966年7月、棋聖戦第8期で、またしても、二上達也に敗れて五冠王から四冠王に後退します。二度目の独占は2年5ヶ月続きました。

3)その半年後の1967年1月、棋聖戦第9期で棋聖位を奪還して三度(みたび)、五冠王に返り咲きます。しかし、それも長く続かず、半年後、1967年7月の棋聖戦第10期で山田道義に敗れて棋聖位を失い、四冠王に後退しました。三回目の全冠独占はわずか半年しか続きませんでした。

4)この後、1970年7月、棋聖戦第16期で棋聖を奪取し、四度(よたび)全冠独占の五冠王となります。この時も、半年後の1970年12月、十段戦第9期で挑戦者中原誠に敗れ、わずか5カ月で四冠王に後退させられました。中原が、大山からタイトルを奪取したのはこの時が初めてです。

④その後、全冠独占こそありませんでしたが、毎年、ほとんどすべてのタイトル戦に登場し、活躍し続けました。

⑤こうした輝かしい成績は、今までの私のコラム(HP-184から186)の中で述べてきましたが、全盛時代のタイトル獲得状況を各棋戦毎にみると以下の通りです。

1)名人戦: 1959年(昭和34年)から1971年(昭和46年)まで13連覇。

2)王将戦: 1958年(昭和33年)から1972年(昭和47年)まで、15年間のうち、1963年(昭和38年)を除いて14回制覇。

3)九段戦(1962年から十段戦): 1958年(昭和33年)から1969年(昭和44年)まで、12年間のうち、1968年(昭和43年)を除いて11回制覇。

4)王位戦(1960年創設): 1960年(昭和35年)から1971年(昭和46年)まで、創設以来12連覇。

5)棋聖戦(1962年創設、年2回): 1962年(昭和37年)から1966年(昭和41年)までの9回のタイトル戦で、1966年前期を覗いて、8回制覇。1974年(昭和49年)から1977年(昭和52年)まで、2度目の7連覇。

⑥このように、昭和30年代半ばから40年代にかけては、大山の独壇場と言った感じで、まさに大山の全盛時代でした。

(4)大山時代の終焉

大山康晴が、初めてタイトルを取った1952年(昭和27年)から無冠となって、その後、タイトルを奪取できなくなった1983年(昭和58年)までの、タイトル獲得者を下の表6にまとめて示します。

表6 大山康晴のタイトル戦の記録
西暦 昭和 名人戦
(4~6月)
王将戦
(1~3月)
九段戦⇒十段戦
(10~12月)
王位戦(7~9月) 棋聖戦(後期)
(12~1月)
棋聖戦(前期)
(6~7月)
名人 王将 九段(十段) 王位 棋聖 棋聖
1952 27 11 大山康晴 1 升田幸三 3 塚田正夫
1953 28 12 大山康晴 2 大山康晴 4 塚田正夫
1954 29 13 大山康晴 3 大山康晴 5 塚田正夫
1955 30 14 大山康晴 4 大山康晴 6 塚田正夫
1956 31 15 大山康晴 5 升田幸三 7 升田幸三
1957 32 16 升田幸三 6 升田幸三 8 升田幸三
1958 33 17 升田幸三 7 大山康晴 9 大山康晴
1959 34 18 大山康晴 8 大山康晴 10 大山康晴
1960 35 19 大山康晴 9 大山康晴 11 大山康晴 1 大山康晴
1961 36 20 大山康晴 10 大山康晴 12 大山康晴 2 大山康晴
1962 37 21 大山康晴 11 大山康晴 1 大山康晴 3 大山康晴
1963 38 22 大山康晴 12 二上達也 2 大山康晴 4 大山康晴 1 大山康晴 2 大山康晴
1964 39 23 大山康晴 13 大山康晴 3 大山康晴 5 大山康晴 3 大山康晴 4 大山康晴
1965 40 24 大山康晴 14 大山康晴 4 大山康晴 6 大山康晴 5 大山康晴 6 大山康晴
1966 41 25 大山康晴 15 大山康晴 5 大山康晴 7 大山康晴 7 大山康晴 8 二上達也
1967 42 26 大山康晴 16 大山康晴 6 大山康晴 8 大山康晴 9 大山康晴 10 山田道美
1968 43 27 大山康晴 17 大山康晴 7 加藤一二三 9 大山康晴 11 山田道美 12 中原 誠
1969 44 28 大山康晴 18 大山康晴 8 大山康晴 10 大山康晴 13 中原 誠 14 中原 誠
1970 45 29 大山康晴 19 大山康晴 9 中原 誠 11 大山康晴 15 内藤國雄 16 大山康晴
1971 46 30 大山康晴 20 大山康晴 10 中原 誠 12 大山康晴 17 中原 誠 18 中原 誠
1972 47 31 中原 誠 21 大山康晴 11 中原 誠 13 内藤國雄 19 中原 誠 20 中原 誠
1973 48 32 中原 誠 22 中原 誠 12 大山康晴 14 中原 誠 21 有吉道夫 22 米長邦雄
1974 49 33 中原 誠 23 中原 誠 13 中原 誠 15 中原 誠 23 内藤國雄 24 大山康晴
1975 50 34 中原 誠 24 中原 誠 14 中原 誠 16 中原 誠 25 大山康晴 26 大山康晴
1976 51 35 中原 誠 25 中原 誠 15 中原 誠 17 中原 誠 27 大山康晴 28 大山康晴
1977 52 (中止) 26 中原 誠 16 中原 誠 18 中原 誠 29 大山康晴 30 大山康晴
1978 53 36 中原 誠 27 中原 誠 17 中原 誠 19 中原 誠 31 中原 誠 32 中原 誠
1979 54 37 中原 誠 28 加藤一二三 18 中原 誠 20 米長邦雄 33 中原 誠 34 中原 誠
1980 55 38 中原 誠 29 大山康晴 19 加藤一二三 21 中原 誠 35 中原 誠 36 米長邦雄
1981 56 39 中原 誠 30 大山康晴 20 加藤一二三 22 中原 誠 37 二上達也 38 二上達也
1982 57 40 加藤一二三 31 大山康晴 21 中原 誠 23 内藤國雄 39 二上達也 40 森 雞二
1983 58 41 谷川浩司 32 米長邦雄 22 中原 誠 24 高橋道雄 41 中原 誠 42 森安秀光
 注: 「九段戦」「十段戦」は、現在の「竜王戦」の前身となったタイトル戦です。

①この大山時代に終止符を打ったのは、将棋界の「若き太陽」中原誠です。全盛時代でも、二上達也や加藤一二三、山田道義、内藤國雄、といった面々に苦杯をなめさせられた時もありましたが、彼らが、タイトルを長期的に保持する事はありませんでした。ところが、中原は、大山からタイトルを奪取するとその後、連続して保持するようになり、大山時代が終わって中原時代に移った、という事を世間に広く実績で示したのです。

②大山がタイトルを失うようになった状況は以下の通りです。

1)王将戦: 大山が五冠から四冠に後退したのは、前述の通り、まだ全盛期の1963年(昭和38年)、挑戦者の二上達也に敗れて王将位を失った事が最初ですが、その翌年に直ちに王将位を奪還し、1972年(昭和47年)まで9連覇します。しかし、1973年(昭和48年)、中原に4連敗して失冠して以降、1980年(昭和55年)第29期王将戦で復帰するまで、7年間王将位に復帰できませんでした。復帰後、1982年まで3連覇しますが、1983年(昭和58年)に失冠して以降、王将位に復帰する事はありません。。

2)棋聖戦: 大山が五冠から四冠に後退したのは、前述の通り、棋聖位を失った事が最初です。その後、棋聖位への復帰、失冠を繰り返して、五冠と四冠・三冠を行き来しますが、1978年(昭和53年)の第31期棋聖戦で中原に敗れて失冠して以降、棋聖位に返り咲くことはありませんでした。

3)十段戦: 1958年(昭和33年)に升田から十段位を奪取して以来、1968年(昭和43年)に加藤一二三に3勝4敗で敗れて失冠するまで、10連覇します。1969年、すぐに復位しますが、その翌年に中原に敗れて1年で十段位を失います。中原は3期連続して十段位を保持しますが、1973年、大山が中原を4勝3敗で破って、再び十段位を奪取します。でも、それもつかの間、翌年に中原に敗れて、その後、十段位を取り戻すことはありませんでした。

4)名人戦: 1952年(昭和27年)、大山は木村名人から名人位を奪い、名人位が初めて箱根を超えました。1957年(昭和32年)、升田に名人位を一旦奪われますが、2年後(1959年)に升田から奪取し、1972年(昭和47年6月)、中原に3勝4敗で敗れるまで、13年連続して名人位を保持し続けます。この時、中原は十段と棋聖の二冠を保持しており、大山は残りの三冠(名人・王将・王位)を保持していましたが、この敗戦で最も権威のある名人を失って二冠となり、逆に、中原は名人を含めた三冠となりました。王者の交代を告げる象徴的な出来事でした。大山はこの後、名人に復帰する事はありませんでした。

5)王位戦: 1960年(昭和35年)の王位戦創設以来、大山は連覇を続け、1971年(昭和46年)、王位戦第12期で中原の挑戦を退けるまで、12連覇という偉業を達成します。しかし、その翌年、内藤に敗れて王位を失い、その後、返り咲くことはありませんでした。

③大山が最終的にタイトルを失った年を棋戦毎にみてゆくと以下の通りとなります。

1)名人戦: 1972年(昭和47年)第31期、6月に中原誠十段・棋聖に3勝4敗で敗れて、王将・王位の二冠となります。しかし、名人位を失冠以降、順位戦では、A級に在籍し続けました。大山は、もし、自分がA級から陥落したら、その時点で引退する決意でいたようです。

2)王位戦: 1972年(昭和47年)第13期、内藤國雄八段に1勝4敗で敗れて、王将のみの一冠となります。

3)十段戦: 1974年(昭和49年)第13期、中原誠三冠(名人・王将・王位)に1勝4敗で敗れ、棋聖一冠のみとなります。

4)棋聖戦: 1978年(昭和53年)第31期、中原誠四冠に2勝3敗で敗れて、無冠となります。中原はこの時、史上二人目の五冠王となりますが、この時には「棋王戦」が新しいタイトル戦として加わっており、全冠独占とはなりませんでした。

5)王将戦: 1973年(昭和43年)2月、第22期王将戦で大山は中原に4戦全敗で敗れて王将位を奪取され、無冠となりました。これだけの実績を持つ大山を、単に「九段」という肩書で呼ぶのに躊躇した日本将棋連盟は、特例として大山が現役棋士のまま「永世王将」を名乗る事を認めました。その後、1980年(昭和55年)に不死鳥のごとくよみがえり、王将位を奪還して、無冠から立ち直りますが、3年後の1983年(昭和58年)第32期、米長棋王に1勝4敗で敗れて、再び無冠となります。この後、大山が、タイトルを奪取する事はありませんでした。なお、王将位を失冠した時、大山は59歳11ヶ月であり、史上最年長の失冠記録として、いまだに破られていません。

④1976年(昭和51年)11月17日の将棋の日に、大山は特例として、現役のまま「十五世名人」を襲位しました。

⑤大山は、1975年にタイトル戦として創設された「棋王戦」では、後述のごとく、2回、挑戦者となりましたが、タイトル奪取はなりませんでした。また、優勝棋戦だった「王座戦」が、1983年(昭和58年)からタイトル戦に格上げされましたが、挑戦者になる事すら一度もありませんでした。ただし、優勝棋戦であった時には、9回優勝しています。この新しいタイトル戦は、大山が全盛期を過ぎてから創設されたため、大山は、タイトルを取る事が出来ませんでした。

(5)大山の晩年

大山は、名人位を失冠して以降、他のタイトル戦では相変わらずの強豪ぶりを発揮し、中原時代への移行を少しでも遅らせるべく頑張りましたが、棋戦ばかりではなく、将棋連盟の運営面でも大きく貢献するようになりました。前項とも時期的に若干ダブりますが、大山の晩年の活躍をまとめます。

①1974年(昭和49年)には「将棋会館建設委員長」となって日本将棋連盟本部である「将棋会館」の建設に大いに尽力します。さらに、1977年(昭和52年)には「関西将棋会館建設副委員長」として「関西将棋会館」の建設にも尽力しました。

②1976年(昭和51年)12月から1989年(昭和64年)5月まで、第一線のA級棋士でありながら日本将棋連盟の会長に就任し、プレイングマネージャーとして将棋界総本山の運営にも精力的に従事しました。そして、会長に就任した頃から、将棋の普及活動に、ひときわ熱心に取り組むようになってきたのです。

③大山は、少なくとも名人でいる間は、悪役で、棋士の大半は、大山に好感を持っていませんでした。大山は、いわゆる盤外戦で、対戦する棋士達をやりこめていたのです。しかし、50歳を過ぎ、将棋連盟会長になってからは、人間が少し変わってきました。ファンに誠意を持って接し、サービスの限りを尽くしたのです。晩年にファンから、大山の悪口を聞いたことはありませんでした。

④1983年(昭和58年)12月、大山は59歳11ヶ月で完全に無冠となりましたが、その後も、A級棋士として存在感を示しました。なお、各タイトルを失冠して以降、挑戦者としてタイトル戦に登場したケースは、下記の通りです。王将戦と王座戦は、失冠以降、挑戦する事はありませんでした

1)名人戦: 1974年(昭和49年)と1986年(昭和61年)の2回、ともに、中原名人に挑戦しました。1986年の挑戦時、大山は63歳2ヶ月であり、「名人戦最年長挑戦記録」となっています。

2)十段戦: 1975年(昭和50年)、中原十段に挑戦しました。

3)王位戦: 1978年(昭和53年)と1981年(昭和56年)の2回、ともに、中原王位に挑戦しました。

4)棋王戦: 1983年(昭和58年)には米長邦雄棋王に、1990年(平成2年)には南芳一棋王に、それぞれ挑戦しました。南棋王への挑戦は、66歳11ヶ月の時であり、これは、「タイトル戦最年長挑戦記録」となっています。

⑤晩年の大山は、将棋のみならず、ガンとも戦いました。1984年(昭和59年)、大山は大腸ガンの手術をして、その後1年間休場します。ところが、復帰するとその年(1986年)には名人挑戦者となって世間を驚かせます。大山は、こうした経験から、人一倍健康に気を配りますが、1990年(平成2年)11月、ガンの転移が見つかり入院します。ここで、大山はA級棋士として残るために、残りの順位戦を、ガン治療をしながら戦う事に決めました。そして、ガン治療中の身でありながらも名人挑戦権を争い、残り1局の時点で単独トップの谷川浩司四冠王(当時)を破り、6勝3敗の4人(谷川浩司、南芳一、高橋道雄、大山康晴)でのプレーオフになりました。プレーオフはパラマストーナメントのため、リーグ表で下位の大山は3連勝をする必要がありましたが、初戦の対・高橋道雄戦で敗れてしまいました(勝勢になったが、手を見逃して敗局)。これが、大山がフル出場した最後の順位戦となりました。

⑥1972年7月7日、大山はガンのため、緊急入院となり、7月26日、A級棋士のまま、ついに帰らぬ人となってしまいました。緊急入院の前日まで、順位戦を欠場することなく、大山は全国を駆け巡って将棋の普及活動に専念していました。A級在籍のまま死去したのは山田道美に続き史上2人目です(後に村山聖もA級在籍のまま死去しました)。

(6)大山の記録

大山は、昭和の将棋界を代表する大棋士であり、数々の記録を打ち立て、勲章等の栄誉に輝きました。その一端を以下にまとめます。

(6-1)タイトル獲得記録(表7)

大山のタイトル戦での獲得記録を下の表7にまとめました。

表7 大山康晴のタイトル獲得の記録

タイトル 登場 獲得期数 獲得年度 連覇 永世称号
名人 25 18期 (歴代1位) 1952~56, 59~71 13(歴代1位) 十五世名人
九段 8 6期 (歴代1位) 1950~51, 58~61 4 (歴代1位タイ)
十段 14 8期 1962~67, 69, 73 6(歴代1位タイ) 永世十段
王位 15 12期 (歴代2位) 1960~71 12 (歴代1位) 永世王位
棋王 2
棋聖 22 16期 (歴代1位タイ) 1962後~65後,66後, 70前, 74前~77前 7(歴代2位)(2度達成) 永世棋聖
王将 26 20期 (歴代1位) 1952~54, 57~61,63~71, 79~81 9 (歴代1位) 永世王将
合計 112 80期(歴代2位)
登場回数合計112、 獲得合計80期 (歴代2位)

①表7を見ればわかるとおり、タイトル戦における大山の記録は、圧倒的です。とくに、名人戦と王将戦における戦績は他の追随を許しません。登場回数、獲得期数、連覇、のすべてで歴代一位となっています。この二つの棋戦は、現在ある八個のタイトル戦の中で、最も伝統と権威を誇るものです。

②名人戦の登場回数2位は中原誠で18回、獲得期数2位も中原で15期、連覇の2位も中原で9期。中原はすでに引退しており、現役トップの羽生善治は、すべての部門で3位以下、大山のこの記録には遠く及びません(名人戦登場回数13回、獲得期数7期)。

③ただし、大山の全盛期を過ぎてから創設された「王座戦」では、羽生善治が大山の名人戦の記録を上回る記録を打ち立てています。羽生の王座戦登場回数は25回、獲得期数は24期、連覇は19期、であり、登場回数と獲得期数はこれからも伸びる可能性があります。王座戦はまるで羽生のために創設されたタイトル戦と言った感じです。

④タイトル戦の登場回数トップは、羽生善治で133回、獲得期数のトップも羽生で99期、来年は100期の大台に乗せるだろうと期待されています。

(6-2)一般棋戦での優勝記録(表8)

大山の一般棋戦での優勝記録を下の表8にまとめました。

表8 大山康晴の一般棋戦での優勝の記録
棋戦名 優勝回数 優勝年度 備考
王座戦 9 1953~55, 59, 64, 66, 68, 80,81
NHK杯 8 1954~55, 61, 64, 70, 72, 79, 83
早指し将棋選手権 4 1973前期, 74前期, 75後期, 76後期 歴代1位タイ
日本将棋連盟杯争奪戦  4 1972, 75, 78, 79 歴代1位
高松宮賞争奪選手権戦 2 1960, 61 歴代1位タイ
産経杯争奪トーナメント 1 1953
早指し王位決定戦 4 1954~57 歴代1位
名将戦 1 1979
JT将棋日本シリーズ 1 1982
オールスター勝ち抜き戦5勝以上 1 1985(5連勝)
全日本選手権戦名人九段戦 4 1950, 51, 53, 55
名人A級勝ち抜き戦 4
全八段戦 1
合計 44 歴代1位タイ

一般棋戦でも、大山は素晴らしい記録を残しています。合計優勝回数44回は、現役の羽生善治と並ぶトップタイの記録です。大山が全盛だった頃は、羽生が全盛だった頃ほど、一般棋戦が多数あったわけではなく、そうした状況でのトップタイですから、誇らしい記録と言えます。

(6-3)大山の主要記録(表9)

大山が生涯に打ち立てた記録のうち、主要なものを下の表9にまとめます。

表9 大山康晴の主要記録
連番 項目 成績 備考
1 生涯戦績 1433勝781敗 勝率0.647
2 通算勝利数 1433勝 歴代1位
3 通算優勝回数 124回(タイトル80回、棋戦44回) 歴代2位
4 タイトル獲得 80期 歴代2位
5 タイトル連続獲得 19期(1963年名人戦~1966年名人戦) 歴代1位
6 タイトル戦連続登場 50回(1957年名人戦~1967年十段戦) 歴代1位
7 同一タイトル戦連覇 13期(名人戦) 歴代2位
8 同一タイトル戦連続登場 21期(名人戦・王将戦) 歴代2位
9 タイトル最年長奪取 56歳11ヶ月(王将戦) 歴代1位
10 タイトル最年長防衛 59歳0ヶ月(王将戦) 歴代1位
11 タイトル最年長失冠 59歳11ヶ月(王将戦) 歴代1位
12 タイトル戦最年長挑戦 66歳11ヶ月(棋王戦) 歴代1位
13 名人最年長防衛 48歳3ヶ月 歴代1位
14 名人最年長挑戦 63歳2ヶ月 歴代1位
15 順位戦A級在籍・名人在位 連続45年(44期) 歴代1位
16 最年長A級 69歳4ヶ月 歴代1位

①歴代トップの記録のうち、最年長記録については、そのほとんどが当分破られることは無いだろうと思われます。とくに、60歳を過ぎてからのタイトル戦挑戦は、驚異的であり、さらに、69歳4ヶ月で亡くなるまで、A級棋士のままであった、というのは「凄い」という言葉を超越する凄さです。

②現代の将棋は、パソコンやIAI 技術の進歩で、若手の進出が著しく、20代後半で強さのピークを迎える、とまで言われています。そうした中で、今後、60歳を過ぎてなお、タイトル戦に登場したり、A級棋士として在籍し続けたりできるような天才が出てくるか、興味津々です。

③とりあえずは、現在のトップ棋士である羽生善治が、60歳過ぎまで、トップ棋士として活躍できるか否か、注目していきたい、と思います。

④通算勝利数1433勝は、羽生善治が1391勝で追っており、早ければ、来年中には抜き去る可能性があります。

⑤しかし、タイトル連続獲得19期と、タイトル戦連続登場50期は、羽生でも抜ききれないと思われます。この二つの連続記録は、全盛期を長続きさせない限り不可能であり、すでに、全盛期を過ぎたと思われる羽生には無理だろうと想像するからです。

⑥ただし、羽生は「王座戦」で19連覇を果たしており、タイトル連続獲得では、大山とトップタイとなっています。

⑦また、タイトル戦連続登場の第2位は、やはり、羽生善治で、23回(1994年6月~1997年6月)となっています。

⑧今後、こうした記録への挑戦は、渡邊明前竜王(すでに永世竜王の資格を取得)を筆頭とする若手棋士や、更には、藤井四段と言った新しい天才の責務となっていくのでしょう。

(6-4)大山の顕彰記録

これだけの大記録を樹立した大山ですから、様々な機会に何回も顕彰されています。そのうち主要なものを下記にまとめます。

①大山は、出身地である倉敷市からは、1953年(昭和28年)に倉敷市文化賞を、1970年(昭和45年)には倉敷市名誉市民の称号を贈られました。さらに、没後の1993年(平成5年)には「倉敷市大山名人記念館」が建てられ、同じく1993年に女流棋士のタイトル戦として「大山名人杯倉敷藤花戦」(倉敷市ほか主催)が創設されました。

②1978年(昭和53年)4月、55歳の時に、将棋普及のために青森県の百石町(現・おいらせ町)を初めて訪れ、それ以来、大山は同町を繰り返し訪問し、「第二の故郷」と呼ぶほどの深い交流を続けました。1989年(平成元年)には百石町名誉町民の称号を贈られ(2005年(平成17年)に「おいらせ町」が発足してからは、おいらせ町名誉町民)、没後の2004年(平成16年)には、大山を顕彰する町立の施設「大山将棋記念館」が建てられています。

③上記のほか、NHKや東京都、更には国から、下記のごとく、様々な表彰をうけています。

1)1979年(昭和54年) NHK放送文化賞、紫綬褒章

2)1987年(昭和62年) 第3回東京都文化賞、 菊池寛賞

3)1990年(平成2年)には、将棋界から初めて文化功労者に選ばれました。

4)1992年(平成4年)には、正四位勲二等瑞宝章をいただきました。

4.最後に:

平成は、1989年1月8日から始まりましたが、昭和から平成へと移行した時期は、中原誠の絶対的王者としての地位が揺らぎ、将棋界の覇権が、中原世代から谷川世代、更には、谷川世代から羽生世代へと移り変わっていた時期でした。そうした混沌とした時代を横目に見ながら、戦後の将棋界をけん引してきた「升田・大山」という宿命のライバルが相次いで他界します。

今回は、時代の動きを追う前に、羽生七冠誕生と大山康晴の足跡、を中心にまとめました。

次回は、七大タイトルを巡る中原世代、谷川世代、羽生世代の争いををまとめたいと思います。とくに、米長の名人位奪取や、米長と中原のライバル物語、さらには、「聖の青春」で映画にもなった異色の天才村山聖の死去、といった話題を取り上げるつもりです。

参考文献:

1.「将棋の歴史」、増川 宏一、平凡社新書
2.「将棋の駒はなぜ40枚か」、増川 宏一、集英社新書
3.「昭和将棋史」、大山 康晴、岩波新書
4.「将棋百年」、山本 武雄、時事通信社
5.「昭和将棋風雲録」、倉島竹二郎、講談社
6.「将棋 八大棋戦秘話」、田辺忠幸 編、河出書房新社
7.「中学生プロ棋士列伝」、洋泉社
8.「将棋年鑑 2017」、日本将棋連盟
9.「最後の握手」、河口 俊彦、マイナビ
10.「覇者の一手」、河口俊彦、NHK出版
11.「棋士という人生」、大崎善生編、新潮文庫
12.「棋士の一分」、橋本崇載、角川新書
13.「決断力」、羽生善治、角川oneテーマ21
14.「大局観」、羽生善治、角川oneテーマ21
15.「集中力」、谷川浩司、角川oneテーマ21
16.「プロ棋士という仕事」、青野照市、創元社
17.「将棋タイトル戦30年史 1984→1997編」、週刊将棋編、日本将棋連盟
18.「将棋タイトル戦30年史 1998→2013編」、週刊将棋編、日本将棋連盟
19.日本将棋連盟のホームページ

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