前回は、大山独走時代に果敢に挑んだ棋士たちの奮闘と、その中から彗星のごとく現れた「若き太陽」中原誠の活躍に沸いた昭和40年代の将棋界の歴史をまとめました。そうした戦いの結果、昭和40年代末には中原が一頭地を抜いて、中原時代の到達を予見させました。今回は、昭和50年から昭和63年まで(昭和が終わるまで)の間に、その中原と同世代の棋士たち、そして、大山に頭を押さえられていた中原世代の先輩棋士達、さらには、中原世代の後輩棋士達が、新しい王者中原にどのように、挑んだのか、その戦いを中心にまとめたいと思います。
この年代の動きを簡単に述べれば、前半は、中原が大山を圧倒していきますが、大山も、棋聖戦、王将戦で踏ん張って、中原のタイトル独占を許さなかった事です。そうした二人の戦いに、加藤一二三、米長邦雄、二上達也、等々の強豪が割って入り、後半になると、谷川浩司、高橋道雄等々の新鋭も加わって、群雄割拠の戦国時代の様相を呈してきました。そして、こうした棋士の戦いも、昭和が終わる頃には、谷川浩司が頭角を現わして、次は、谷川時代か、と思わせるにいたりました。
一方、棋士による盤上での戦いとは別に、昭和50年、名人戦の契約料を巡って、日本将棋連盟と朝日新聞社の話し合いが決裂し、名人戦の主催者が、昭和52年から、再び、毎日新聞に移りました。そして、この騒ぎのあおりを受けて、昭和51年の名人戦は中止となりました。
さらには、大山の良きライバルだった升田幸三が、1979年(昭和54年)引退しました。「新手一生」を掲げ、苦難の道を歩んだ棋士が去る日が来たのです。
ここでは、そのような盤外の出来事も含めて、昭和50年~63年までの将棋界をまとめてみようと思います。
1.七大タイトルを巡る戦い
タイトル戦は、昭和30年代に、「名人、王将、九段」に加えて、「王位」と「棋聖」の2個が増えて、五大タイトルとなりましたが、昭和50年代に入って、下記する二つのタイトル戦が加わり、「七大タイトルとなりました。
1)棋王戦: 1973年(昭和48年)まで続いた「最強者決定戦」は、B級2組以上の棋士が参加する棋戦でしたが、名人は参加できませんでした。そこで、主催する共同通信の社内や、共同棋戦契約社の中に、名人以下の全棋士が参加する立派な大型棋戦を作って公式タイトル戦の仲間に入るべきだ、との機運が高まってきました。そこで、契約金を一挙に二倍に上げるという事で、日本将棋連盟と交渉し、契約各社とも話し合いました。名称を「棋王戦」とする、というのはすんなりと決まりましたが、契約金がまだ少ない、という事で、公式タイトル戦とは認められず、とりあえず、優勝棋戦「第一回棋王戦」として、1975年(昭和50年)にスタートしました。同時に、下位棋戦も必要という事で、今まで、C級1組以下が参加していた「古豪新鋭戦」を廃止し、代わりに、B級2組以下による「名棋戦」を発足させました。翌年(昭和51年)、将棋連盟に対して契約金の増額を申し出て、棋王戦は晴れて六番目の公式タイトル戦として出発しました。なお、「名棋戦」は、1980年(昭和55年)まで続きましたが、翌年から「棋王戦」に統合されました。
棋王戦の特徴は、敗者復活戦が採用された事で、本戦の勝者と敗者復活戦の勝者が戦って挑戦者をが決められました。
2)王座戦: 1953年(昭和28年)に優勝棋戦としてスタートした「王座戦」が、1983年(昭和58年)の第31期から、七番目の公式タイトル戦として再出発することになりました。
タイトル戦が行われる時期は、まず最初が「王将戦」(1~3月)、ほぼ同じ時期に棋聖戦後期と棋王戦、次が「名人戦」(4~6月)、その後、王位戦(7~9月)、それとほぼ同じ時期に棋聖戦前期と王座戦が行われ、最後が「九段戦」(10~12月)となっています。棋聖戦だけが、前期と後期で年2回争われます。なお、王座戦は、31期だけは3番勝負でしたが、32期以降は5番勝負となりました。また、棋聖戦と棋王戦は5番勝負ですが、その他の4個の棋戦はすべて7番勝負です。
注: ここでは、年単位(1月から12月まで)で記述しましたが、日本将棋連盟では年度単位(4月から翌年3月まで)なので、それにならうと、最初に行われるのが名人戦、最後が、王将戦・棋聖戦後期・棋王戦となります。
1.1 七大タイトル獲得者の推移
1975年(昭和50年)から昭和の終わる1988年(昭和63年)まで、各タイトル棋戦でタイトルを獲得した棋士がどのように推移していったかを下の表1にまとめます。
上の表1を概観すると、昭和50年から54年までを前期、55年から59年までを中期、60年から63年までを後期、とした場合、概ね、以下の事が言えると思います。
①前期は圧倒的に中原がタイトルを獲得していますが、棋王だけは獲得できずに、五冠王にはなりましたが、六冠を独占した六冠王にはなれませんでした。
表2 前期(昭和50年~54年) のタイトル獲得回数 |
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1)最初の3年間(昭和50年~52年)、中原は、棋聖位を取ることが出来ず、四冠のままでした。その間、棋聖位を独占したのは大山でした。
2)そして、棋聖位を獲得した1978年(昭和53年)には、加藤一二三が棋王を防衛したので、五冠王にはなりましたが、六冠王にはなれませんでした。
3)1979年(昭和54年)、中原は王将と王位を失い、三冠王まで後退しました。この時、中原の好敵手「米長邦雄」が、王位と棋王の二冠を奪取し、中原の最強のライバルとして登場します。最後に別途まとめますが、米長は中原よりは4歳年上で、プロ入りも早く、将来を嘱望されていました。しかし、大山の壁を打ち破る事が出来ず、タイトル獲得回数で、中原に遅れることになってしまいました。
4)この時期、大山と米長以外に、中原の前に立ちふさがったのは、加藤一二三と大内延介です。加藤は、「時間病」という奇病(?)に悩まされて、なかなかタイトル奪取はできませんでしたが、この5年間で3度、タイトルを獲得しています。大内延介は、創設されたばかりの棋王戦で、栄えある最初の「棋王」に輝きました。
5)前期の5年間(昭和50年~54年)でタイトルを獲得した5人の棋士のタイトル獲得率は右の表2の通りですが、中原誠が全体の3分の2近くを占めており、他の4人を圧倒しているのがよくわかります。2位は、昭和20年末頃から昭和40年末頃まで、将棋界のトップをキープした大山康晴です。全体の2割弱を占めており、中原と大山の二人だけで、全体の8割強となっています。
②中期になると、タイトルの獲得棋士が増え、中原の獲得率も低下してきます。つまり、中原独走時代から群雄割拠する戦国時代へと変わり始めたのです。
表3 中期(昭和55年~59年) のタイトル獲得回数 |
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1)王座戦がタイトル戦となる前の最初の3年間(昭和55年~57年)、中原は、四冠から二冠、一冠へと年々タイトル獲得数が減少していきました。
2)同じ期間、大山と加藤一二三、二上、米長の4人が、中原の7回には及びませんが、それぞれ3回ずつタイトルを獲得しています。
3)残りの2回は、森雞二と内藤國雄が一回ずつ、タイトルを獲得しています。
4)王座戦がタイトル戦となった昭和56年と57年の2年間、中原のタイトル獲得回数は4回のみで、トップは米長の7回です。3番目は、谷川浩司の2回ですが、いずれも最も権威のある名人位であり、谷川浩司の名を天下に広めました。とくに、1983年(昭和58年)に始めて名人位を獲得した時は、まだ21歳であり、史上最年少の名人として大いに騒がれました。残りの3回は、高橋道雄と森安秀光、加藤一二三の3人が一回ずつタイトルを獲得しています。
5)つまり、中期の5年間でタイトルを獲得した棋士はのべ10人で、前期の5人と比べると倍増しており、それだけ、群雄割拠の様相を呈してきたのです。
6)以上をまとめて、中期の5年間(昭和55年~昭和59年)でタイトルを獲得した棋士を獲得回数順でまとめて左の表3に示します。中原がトップとは言っても、全体の3割弱で、2位の米長とは僅差です。しかし、二人を合わせると全体の6割弱となり、この期間は、中原と米長が中心となってタイトル戦が展開していた、と言えるでしょう。
③後期の4年間は、タイトルの獲得棋士がさらに増え、中原の独占状態が大きく崩れて群雄割拠の状況が顕著になりました。
1)トップは依然として中原ですが、獲得回数は7回にすぎず、獲得率も22%にとどまっています。。
2)2位は、獲得回数4回で、桐山清澄、高橋道雄、谷川浩司、米長邦雄の4人が並んでいます。この4人はいずれも、中原の後を追って、将棋界のトップ棋士を目指し、しのぎを削っている仲間です。ただこの4人のなかでは、最も権威のある名人位を1回獲得した谷川が一頭地抜きんでている、と言えると思います。
3)以上の5人に続くのが、南芳一と中村修で、タイトルを2回獲得しています。そして、5人(島朗、森雞二、田中寅彦、塚田泰明、福崎文吾)が、獲得回数一回ずつとなっています。
4)以上をまとめて左の表4に示します。表2、表3と見比べてもらえば、中原一強集中から、、中原と米長の二強競合に、そして、中原がトップではありますが、群雄割拠に移っていった状況がわかると思います。こうした争いの中、谷川が次世代のエースとして実力を蓄えていきます。
④昭和50年代の終わり頃までは、トップの座を中原に明け渡したとはいえ、大山が存在感を示して、中断はありましたが、タイトルを保持していました。しかし、1982年(昭和57年)の王将位を最後に、無冠になってしまい、その後、二度、棋王戦の挑戦者にはなりましたが、タイトルの奪取はできませんでした。一つの時代が終わり、新しい時代に移り変わった時代でもあります。
⑤大山の後継者中原の実績は、大山と比べると若干見劣りはしますが、他の棋士を圧倒する戦績を残し、中原時代の到来を実績で示しました。そうした中で中原に次ぐ成績を残した米長が、中原のライバルとしてしのぎを削りました。
⑥昭和50年代末頃から、中原の後を追う若い世代が次々に現われ、その中で、谷川浩司が名人位を3回獲得して次世代の派遣争いで一歩抜き出た印象を与えました。とくに、谷川は後の第3項「順位戦の状況」で詳述しますが、1976年(昭和51年)四段に昇段して史上二人目の中学生プロ棋士となり、世間の注目を一気に集めました。この頃は中原の全盛時代でしたが、中原の次は谷川だとみられるようになってきたのです。
1.2 昭和47年~昭和63年: 名人戦での戦い
この頃のタイトルでは、依然として「名人」がダントツの権威を誇っていましたが、その名人戦の主催社が朝日新聞社から毎日新聞社へ「先祖返り」する、という事件がありました。名人位を巡る戦いを述べる前に、その経緯を見てみたい、と思います。
(1)名人戦主催社の異動
①1975年(昭和50年)に囲碁名人戦の主催が読売新聞から朝日新聞に移ったことに端を発し、将棋連盟と朝日新聞の間で契約金を巡る紛糾が起きました。囲碁名人戦の契約料が1億1千万円プラスアルファーである事を知った将棋連盟が、朝日新聞に対して契約金の増額して囲碁名人戦と同額にするよう申し込みました。朝日新聞がその申し出を受け入れたので、昭和50年には一旦落着しました。
②ところが、昭和51年になって、将棋連盟側が再度の増額を要求した事から、朝日新聞との話し合いがこじれ、ついには、昭和51年度の順位戦と名人戦が開催が出来なくなりました。この間、毎日新聞が交渉に割って入り、最終的に毎日新聞が主催社として復活し、昭和52年度から再開する事になりました。交渉がこじれた原因として契約金の額が言われていますが、感情的な対立もあったようです。
③毎日新聞が名人戦も主催する事になった結果、王将戦をどうするのか、という問題が新たに起きましたが、毎日新聞の系列のスポーツニッポン社との共催という事で、王将戦は、今まで通り継続する事になりました。
④また、名人戦を失った朝日新聞は、1977年(昭和52年)から「朝日アマ名人戦」を、1982年(昭和57年)から「全日本プロトーナメント」(2000年以降は朝日オープン将棋選手権、2006年で終了)を主催しました。
(2)名人戦の状況
昭和47年から抜群の強さを発揮して名人位を保持していたのが中原ですが、昭和57年以降、加藤一二三と谷川浩司に名人位を奪取されるようになりました。とくに、谷川浩司には3回にわたって奪取されます。こうした昭和47年から63年までのの名人戦の勝者と敗者を右下の表5にまとめて示します。
①中原は、1972年(昭和47年)第31期名人戦で大山康晴から名人位を奪取してから、1982年(昭和57年)第39期名人戦で加藤一二三に名人位を奪取されるまで、9期連続で名人位を保持し、王将戦、十段戦、王位戦とも合わせて四冠を独占する時もあり、中原時代の到来を世に知らしめました。なお、第31期名人戦は、第七局までもつれる大接戦でしたが、第七局で中原が最後の一手を決める瞬間、「勝った!、という胸の高まりでなんともいえず気分が悪くなった」そうです。
②1975年(昭和50年)第34期名人戦は、中原より6歳年上で33歳の大内延介、1967年(昭和42年)第8期王位戦に続いて二度目のタイトル戦挑戦です。千日手指し直しと持将棋を含み、3勝3敗で、最終局までもつれこむ大熱戦になりましたが、大内が3勝3敗で迎えたその第七局目で大内が必勝の局面となった時、大内は「なにがなんだかわからなくなって」、思わず大悪手を指してしまい、持ち将棋にされてしまいます。そして、結局は名人位の奪取に失敗します。名人位を奪取する瞬間というのは、このように思わぬ展開を生んでしまうようです。
③中原の9連覇の間、3回(35期、37期、38期)挑戦したのが、最大のライバルとされる米長邦雄。第35期(昭和51年)では、第七局まで戦う熱戦だったが、4勝3敗で中原が勝ち、5連覇を達成して、大山に次ぐ第十六世永世名人の資格を獲得しました。第37期(昭和54年)では、米長が初戦から2連勝しましたが、その後、4連敗して敗れました。そして、第38期(昭和55年)では、前年の王位戦で米長が中原から王位を奪取したので、大いに期待されましたが、1勝4敗でまたしても敗れてしまいます。
④1978年(昭和53年)第36期名人戦の挑戦者は森雞二、前年の棋聖戦に続き二度目のタイトル戦登場です。「名人は強くない」と豪語して、頭を丸めて対局場に臨み、周囲をアッと驚かせました。そのかいあってか、初戦は勝利し、第3局まで2勝1敗とリードしますが、その後は3連敗して、敗れてしまいます。
⑤1981年(昭和56年)第39期名人戦では、中原と同じ昭和22年生まれの桐山清澄が挑戦者となりました。今まで、中原への挑戦者はすべて年上でしたが、今回始めて年下(1ヶ月違い)の挑戦者が現れました。しかし、33歳同士の決戦は結局は中原が4勝1敗で勝利しました。
⑥1982年(昭和57年)第40期名人戦の挑戦者は加藤一二三。加藤の名人挑戦は、この時が3度目で、最初は昭和35年(第19期)、20歳の時に大山名人に挑戦しましたが、4勝1敗で敗れました。二度目は昭和48年(第32期)に中原名人に挑戦しましたが4戦全敗で負けてしまいました。
1)加藤は、史上初の中学生プロ棋士として14歳でプロデビューし、その後毎年順位戦で進級し、18歳でA級になり、20歳で名人に挑戦するという最年少記録を次々と打ち立てて、「神武以来の天才」と称されましたが、大山という巨大な壁に阻まれてなかなかタイトル獲得までには至りませんでした。1968年(昭和43年)第7期十段戦で初めてタイトルを獲得し、その後、王将一期、棋王二期とタイトルを獲得しましたが、名人位はまだ獲得できませんでした。
2)加藤にとって、三度目の名人戦は、千日手2回、持将棋1回を含め、実質10局を戦うという史上最長の名人戦となりましたが、加藤が4勝3敗で中原を破り、初めて名人位を奪取しました。その最終局の最終局面で、秒読みに追われる加藤が絶妙の妙手を発見し、思わず、「ウヒョー!」という奇声を発したそうです。
⑦1983年(昭和58年)第41期名人戦には、若干21歳の谷川浩司が初めて登場しました。谷川はA級に進級したばかりであり、しかも同率決戦で中原を破っての名人戦初挑戦でした。結果は、4勝2敗で谷川が勝利し、史上最年少の名人が誕生しました。谷川は「実力もないのに地位が先行して・・・。1年間、名人位を預からせていただきます」と謙虚に語り、周囲から好感をもって迎えられました。若い名人の出現は、巷に格好の話題を提供し、将棋の人気も大いに高まりました。
⑧1984年(昭和59年)第42期名人戦に挑戦者として登場したのは森安秀光、谷川の師匠、若松政和の弟弟子にあたり、いわゆる「神戸組」同士の一騎打ちとなりました。
注: 若松政和と森安秀光の師匠、藤内金吾は坂田三吉の弟子ですが、神戸に道場を持っていたので、藤内の門下は「神戸組」と呼ばれました。内藤國雄も藤内の弟子で、神戸組の一員です。
1)森安秀光は、1983年(昭和58年)第42期棋聖戦で初めて棋聖位を獲得しましたが、43期には米長に敗れ半年で失冠しています。
2)坂田三吉の流れを汲む両者の対決は、谷川が4勝1敗で、同門の先輩を圧倒し、名人位を防衛しました。この時、谷川は「これで弱い名人から並みの名人になれました」と言ったそうです。
3)森安秀光は、活躍を大いに期待されて、その後、九段にまで昇段しましたが、1993年(平成5年)11月に自宅で長男に刺殺される、という不幸な事件で亡くなってしまいました。
⑨1985年(昭和60年)第43期名人戦に、中原が雪辱を期すべく挑戦者として戻ってきました。名人失冠後、王位も失いましたが、すぐに、十段、王座を取り返しました。その後、十段を失いましたが、王将を取り戻して、43期名人戦に登場してきたのです。37歳の中原と23歳の谷川の三度目の対戦は、大いに世間の注目を浴びましたが、中原が4勝2敗で谷川を降し、名人位を奪還しました。
⑩1986年(昭和61年)第44期名人戦に挑戦者として登場したのは、一年間の病気欠場から復帰した大山十五世名人でした。中原よりもちょうど二回り(24歳)年長の大山が12年ぶりに中原に挑みましたが、結果は1勝4敗で中原の軍門に下りました。63歳での名人挑戦は最年長記録であり、不死鳥大山の不屈な精神力を示すものですが、流石の大山も寄る年波には勝てず、これ以後、名人戦に登場する事はありませんでした。なお、大山は、この後、1990年(平成2年)第15期棋王戦の挑戦者として66歳で登場しましたが敗れ、それ以降は、タイトル戦に登場できませんでした。
⑪1987年(昭和62年)第45期名人戦には米長が登場し、中原に対して7期ぶり4度目の挑戦となりました。米長は、初戦から連勝して、今度こそは、と思わせましたが、その後4連敗して、またしても中原の軍門に降りました。
⑫1988年(昭和63年)、昭和最後となった第46期名人戦では26歳の谷川浩司が挑戦者となり、40歳の中原にリターンマッチを挑みました。そして、初戦に敗れはしましたが、最終的には4勝2敗で中原を破り、4期ぶり通算3期目の名人へと復帰しました。中原は、大山や米長には強いのですが、なぜか、谷川には簡単には勝てないようです。
(3)名人の推移から見える覇者交代
名人の推移を眺めると、覇者の交代具合がはっきり見て取れます。
①1959年(昭和34年)から1971年(昭和46年)までは、大山康晴が13連覇を達成して絶対的王者でした。大山のこの連覇記録は2017年(平成29年)の現在まで、誰にも破られていない不滅の大記録です。なお、大山の名人位通算18期という記録も誰にも破られていない大記録です。
②1972年(昭和47年)に中原誠が大山から名人位を奪取して以来、1981年(昭和56年)まで、中原は9連覇して、大山から派遣を引き継いだという事を証明しました。1982年(昭和57年)に加藤一二三に名人位を奪われてから3年間のブランクの後、1985年(昭和60年)に名人に復帰し、そこから3連覇して、中原時代が健在であることを示しました。
③そうした中、1983年(昭和58年)に谷川浩司が名人に就き連覇します。その後、中原に3連覇されますが、昭和の最後の年に再び、名人に返り咲き、次は谷川の時代かな、と思わせました。
④この間、米長邦雄が4回、名人に挑戦しましたが敗れてしまいます。この期間、他の棋戦でも中原になかなか勝てなかった米長のある意味不運な面が出ていると思われます。
1.3 昭和48年~63年: 王将戦での戦い
「王将」のタイトル戦としての「格」は、「名人」に次ぐ、と私は勝手に思い込んでいましたが、毎日新聞が名人戦の主催者になった事により、「王将戦」は、毎日新聞とスポーツニッポンの共催となり、「格」としては、十段戦より下になった、と思わざるを得なくなりました。
(1)王将戦の状況
「格」の問題は別として、1973年(昭和48年)に中原が大山から王将位を奪取してから、1988年(昭和63年)まで、王将位を巡る状況をまとめて左の表6にまとめて示します。表6を概観すればすぐわかりますが、名人戦では、活躍した谷川の名前が一つも出てきません。
①中原は、1973年(昭和48年)第22期王将戦で大山康晴から王将位を奪取してから、1979年(昭和54年)第28期王将戦で加藤一二三に王将位を奪取されるまで、6期連続で王将位を保持し、名人戦、十段戦、王位戦とも合わせて四冠を独占する時もあり、中原時代の到来を世に知らしめました。
②中原の6連覇の間、敗れたのは、大山、米長、有吉の3人で、それぞれが2回ずつ負かされました。
1)大山康晴: 1973年(昭和48年)に王将位を奪われた後、1977年(昭和52年)第26期で4期ぶりに挑戦者となりましたが、2勝4敗で中原を破る事はできませんでした。
2)米長邦雄: 1974年と1975年、2年連続して中原に挑みましたが、1974年(昭和49年)第23期では2勝4敗、翌年の第24期では第7局までもつれる接戦でしたが、3勝4敗で、中原に負けてしまいます。
3)有吉道夫: 1976年と1978年に中原に挑戦しました。1976年(昭和51年)第25期では1勝4敗、1978年(昭和53年)第27期では2勝4敗、いずれも中原には勝てませんでした。
③1979年(昭和54年)第28期の挑戦者は加藤一二三、今まで大山王将に3度挑戦して3度とも敗退しましたが、この時は、4勝1敗で中原を破り、初の王将位に就きました。王将位を決めた第五局で、加藤は、今では有名となっている「ヒフミンアイ」(相手の後ろに回って盤面を眺める)を見せています。
④1980年(昭和55年)第29期の挑戦者として、大山康晴が登場しました。大山は4勝2敗で加藤王将を破り、8期ぶりに王将に復帰しました。この後大山は、翌期(30期)の米長の挑戦を4勝1敗で、そして、31期の中原の挑戦を4勝3敗で、それぞれ退けて3連覇を果たしました。
⑤1983年(昭和58年)第32期に米長が4度目の挑戦者として登場し、ついに、大山王将を4勝1敗で破って王将位を奪取しました。米長は、翌期(第33期)も、挑戦者森雞二を4勝1敗で降して王将位を防衛しました。
⑥1985年(昭和60年第60期)の挑戦者は3期ぶりに中原誠。米長は、中原にはなかなか勝てず、今回も1勝4敗で敗れてしまい、中原は27期以来7期ぶりに王将位に返り咲きました。
⑦しかし、その翌期(35期)には、挑戦者中村修七段に2勝4敗で敗れてしまい、王将位の防衛はできませんでした。さらに、その次(36期)にも挑戦者として登場し、中村にリベンジすべく挑みましたが、再び2勝4敗で敗れてしまいます。中村は、2期連続して王将位に就きますが、現在まで、タイトル獲得はこの2回だけです。
⑧その中村を破り、王将位初の「箱根越え」を実現したのが、1988年(昭和63年)第37期に挑戦者として登場した南芳一です。南と中村の対戦は、3勝3敗で第7局までもつれる大接戦でしたが、南が最終局で勝利し、王将位を奪取しました。南は、同じタイミングで棋聖位も獲得し、2冠に輝きました。その後の活躍もあり、現在まで、タイトルの獲得回数は通算7期(王将3期、棋聖2期、棋王2期)となっています。
⑨名人位の場合、昭和50年から63年までの間、タイトルホルダーはわずか3人(中原、加藤一二三、谷川)ですが、王将位の場合には、タイトルホルダーが倍の6人(中原、加藤一二三、大山、米長、中村、南)となっています。これは、タイトルと言っても「格」の違いによって、そのタイトル戦での重圧が変わり、新進気鋭の若手の参入しやすさに違いがあるため、と考えられます。
⑩また、最初に述べましたが、名人戦を見る限り、中原時代が終わって次は谷川時代か、とも思えるのですが、この王将戦での戦績を見る限り、谷川時代はまだまだ先のように思えます。中原時代が終わると、群雄割拠の戦国時代、と言えるような気がしますが、他の棋戦ではどうなっているのか、さらに見ていきましょう。
(2)王将の推移から見える覇者交代
王将の推移を眺めると、名人戦ほどはっきりはしませんが、覇者交代の様子がうかがわれます。
①1973年(昭和48年)に中原が大山から王将位を奪取してから、1978年(昭和53年)まで6連覇して、王将戦でも大山時代の次は中原時代だという事をしましました。
②しかし、1979年(昭和54年)に加藤一二三が王将位を奪取してから、群雄割拠の時代に突入します。
③1980年(昭和55年)の大山康晴が加藤一二三から王将位を奪取して、その後3連覇し、大山の健在ぶりをアピールしました。
④しかし、4連覇はかなわず、その後、米長(2連覇)、中原、中村(2連覇)、南、と次々、入れ替わり、中原の次は誰が覇者となるのか、混迷を続けています。
⑤昭和51年以降、名人に4回挑戦するも敗れ去った米長ですが、ここでは、2回王将位を獲得し、中原の強力なライバルであることを示しました。
⑥この期間、王将位に挑戦しながら一度も王将位に就けなかった悲運の棋士は、有吉道夫(2回)と森雞二の2人です。
1.4 昭和49年~63年: 十段戦⇒竜王戦での戦い
(1)昭和49年~62年: 十段戦での戦い
十段戦での昭和50年以降の状況はどうであったのか、その状況を左の表7にまとめて示します。この表では、中原が大山から十段位を再奪取した1974年(昭和49年)から、昭和の最後63年までを示しました。なお、1988年(昭和63年)からは、十段戦は、「竜王戦」に衣替えをして、名人戦と同格のタイトル戦へと生まれ変わりましたが、それについては後述します。
表をみてもらえばわかるように、十段戦では、名人戦や王将戦とはまた一味違った様相を呈しています。最初は、中原が独占状態であったであるところは変わりませんが、中原の独走を止めたのは谷川浩司ではありません。最初は加藤一二三によって止められ、次は米長邦雄によって止められます。その後は、中原が竜王戦に登場する事はなくなりました。この15年の間、十段位を争う場に、中原は11回登場していますが、次は、米長の7回、加藤の5回と続きます。つまるところ、この15年の十段戦は、中原を中心に米長と加藤を加えた三強時代だった、と言えると思います
表7 昭和49年~63年 十段戦⇒竜王戦の状況 |
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①1974年(昭和49年)第13期から第18期まで、中原は6連覇しますが、7連覇は加藤一二三に阻止されます。その6連覇の間、大山、加藤、米長の3人が、それぞれ2回ずつ敗者となっています。
1)大山は、中原に十段を奪取された翌年(昭和50年)の第14期にも挑戦者として中原に挑みましたが、4戦全敗で良い処なく完敗してしまいました。
2)次に挑戦したのは加藤一二三、第15期(昭和51年)、第16期(昭和52年)と2年連続して中原に挑戦しましたが、いずれも第7局までもつれる大接戦となりましたが、3勝4敗で、2年とも敗退してしまいました。なお、第16期第二局の箱根対局では、対局室の敷物の色を巡って、加藤と中原が対立したそうです。加藤は、こうした、盤外のアレンジに極めて神経質で、対局室の温度や湿度、光線の具合、外からの雑音などに細かく注文を付けて、主催者側を困らせた、という逸話がたくさんあります。中原は、それほど、神経質ではありませんが、対抗上、自分の意見を主張しました。相手の言い分通りになる、という事は気合負けにつながる、とでも思っていたようです。。
3)第17期(昭和53年)、第18期(昭和54年)と連続して中原十段に挑戦したのは、ライバルの米長邦雄でした。結果は、第17期は4勝3敗、そして、第18期は4勝1敗で、いずれも中原の勝利となりました。
②1980年(昭和55年)第19期に挑戦者として加藤一二三が再び登場しました。加藤一二三は、これまで、前述の通り二回中原十段に挑戦して敗れていますが、今回は4勝1敗で勝利し、第7期(昭和43年)以来12期ぶりに2度目の十段位に返り咲きました。そして、その翌年も、挑戦者の米長を4勝2敗で退け、防衛に成功しました。
③1982年(昭和57年)第21期には、前々期に十段位を奪われた中原が挑戦者として名乗りを上げました。今度は、中原が4勝2敗で雪辱し十段位を取り返しました。そして、翌年も桐山清澄の挑戦を4勝2敗で退け、十段位を防衛しました。
④1984年(昭和59年)第23期には、米長が挑戦者になりました。この時、受けて立つ中原は十段と王座の二冠、挑戦する米長は王将、棋士、棋王の三冠でした。タイトル戦という大舞台ではなぜか中原に勝てなかった米長ですが、この時42歳、生涯で最も充実していた時期でした。結果は、大接戦の末、4勝3敗で中原を破って四冠王となりました。大山、中原に次ぎ史上3人目の快挙です。そして、その翌年(第24期)も、米長は中原の挑戦を4勝3敗で退け、十段位を防衛しました。
⑤1986年(昭和61年)第25期にはダークホースの福崎文吾が登場し、4勝2敗で米長から十段位を奪い取りました。福崎はこの時27歳で七段でしたが、1979年(昭和54年)、20歳でまだ四段の時に若手の登竜門と言われた「若獅子戦」で優勝した若手のホープです。
⑥1987年(昭和62年)第26期には福崎より1歳若い高橋道雄棋王が挑戦者となり、福崎を4連勝で破って十段位に就き、二冠を獲得しました。高橋はこれまでに、王位も獲得しており、福崎以上に若手のホープとして期待を集めていました。
⑦1988年(昭和63年)、十段戦は、竜王戦へと衣替えしました。その経緯と戦いの状況を次項にまとめます。
(2)昭和63年: 竜王戦の誕生と竜王戦での戦い
①1984年(昭和59年)秋、日本将棋連盟は、読売新聞社に対して十段戦の契約金を、読売新聞社が主催している囲碁の棋聖戦の契約金(将棋の十段戦の2倍と言われていました)と同じにして欲しいと要求しました。
②これに対し、読売新聞社は、「囲碁の棋聖戦は囲碁界の序列第一位であり、そのために契約金が高くなっている。将棋でも序列第一の棋戦であるならば、囲碁と同額にする用意はある」、と回答しました。これを受けて、収入増を望む日本将棋連盟は、この回答に沿うべく「新棋戦創設準備委員会」を発足させて、検討を開始しました。
③しかし、将棋界では、「名人」の重さは別格であり、「名人戦」を超える棋戦の創設はきわめて難しい問題で、喧々諤々、なかなか議論がまとまりませんでした。一方、読売新聞社としても、自列第一の要求を出した以上、引き下げるわけにもいかず、両者の話し合いは難航しました。
④最終的に、3年後の1987年(62年)、下記する妥協案で、両者は納得し、翌年から「竜王戦」としてスタートする事になりました。
1)契約金は、将棋界で最高の金額とする。
2)棋戦の序列は契約金額順なので、「竜王戦」を序列第一とするが、竜王と名人の棋士個人の席次については、先輩(棋士番号順)を優先する。
(これにより、将棋年鑑等で棋戦名を並べたり、棋戦の戦績を紹介したりする場合は、竜王戦が最初であり、次が名人戦となりました)。
3)さらに、囲碁の「棋聖戦」の各段優勝戦を参考にしてそれを改良、将棋ならではの昇降級制を取り入れ、ランキング戦と名付けて、各組ごとのトーナメント戦で優勝を争うようにしました。そして、各組からは成績に応じて3~4人が昇降する、という制度を作りました。各組の優勝者と上位者による決勝トーナメントで挑戦者が決まります。
4)第一期のみは、トーナメント決勝戦を7番勝負で行い、勝者が初代竜王位に就くことにしました。
⑤こうして、1988年(昭和63年)から竜王戦第一期が始まり、歴戦の強豪米長邦雄と新鋭島朗(この時、六段で25歳)との対決となりました。前評判は、圧倒的に米長有利だったのですが、結果は4戦全勝で島六段が勝利し、初代竜王の栄誉に輝きました。序列第一位のタイトル戦で優勝した事により、島の将来は大いに期待されましたが、残念ながら、その後の戦績はパッとせず、現在までに獲得したタイトルはこれだけです。なお、島は、1986年(昭和61年)夏(当時、24歳六段)、奨励会三段だった16歳の森内俊之と、奨励会二段だった17歳の佐藤康光を誘い、研究会を立ち上げました。1年後にはすでに四段になっていた羽生善治も加わりました。島研は、1990年(平成2年)頃まで続きましたが、そのメンバーは、全員が竜王位に就き、島を除く3人が名人位に就きました。「伝説の『島研』」と呼ばれる所以です。
(3)十段の推移と竜王から見える覇者交代
十段の推移と竜王を眺めると、名人戦、王将戦とは若干違った覇者交代の様子がうかがわれます。
①1974年(昭和49年)に中原が大山から十段位を奪取して以来1979年(昭和54年)まで6連覇して、ここでも大山時代が終わって中原時代が来た、という事を示しました。
②しかし、1980年(昭和55年)に加藤一二三が十段位を奪取してから、ここでも群雄割拠の時代に突入します。
③加藤が連覇した後、中原が返り咲いて連覇しますが、その後、米長が連覇して、目まぐるしく入れ替わります。
④1986年(昭和61年)に福崎文吾が十段位に就いてから、さらに目まぐるしく変わるようになり、1年毎に高橋道雄、島朗と入れ替わりました。もっとも、島は序列第一位の竜王戦になってからの覇者ですので、今後、平成に移ってからどうなるのか、興味津々と言ったところです。
⑤ここでも、米長が2回十段位を獲得し、中原のライバルとしての存在感を示しました。
⑥この期間、十段位に挑みながら獲得できなかった悲運の棋士は桐山清澄です。
1.5 昭和48年~63年: 王位戦での戦い
(1)王位戦の状況
名人戦、王将戦、十段戦は、大山から中原がタイトルを奪取して、その後、連覇を重ねる、というパターンでしたが、王位戦に限っては、大山からタイトルを奪取したのが内藤國雄でした(昭和47年、第13期)。その翌年、中原が内藤から王位を奪取し、その後、連覇を重ねました。その中原の7連覇を阻止したのが米長でした(昭和54年、第20期)。一旦、敗れた中原ですが、翌年、米長の連覇を阻止して「王位」に返り咲きました。この状況をまとめて右の表8にまとめて示します。
表8 昭和48年~63年 王位戦の状況 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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①中原は、1973年(昭和48年)第14期から1978年(昭和53年)第19期まで、6連覇しますが、この間、内藤と米長が2回、勝浦修と大山が1回ずつ、敗れています。
1)内藤は、大山を破って「王位」を奪取しましたが、最初の防衛戦(昭和48年、第14期)で中原に4戦全敗という屈辱的な戦績で敗れてしまい、防衛に失敗します。内藤は、その2年後(昭和50年、第16期)に、再び、中原に挑戦します。2勝はしましたが、この時も2勝4敗で敗退します。
2)米長は、昭和49年第15期と昭和52年第19期に登場し、中原に挑みましたが、いずれも2勝4敗で敗れ去りました。
3)1976年(昭和51年)第17期には勝浦修が挑戦しましたが、やはり、2勝4敗で敗れてしまいました。なお、勝浦は、1985年(昭和60年)第46期棋聖戦に挑戦者となりますが、タイトル戦に登場したのは、今回を含めても2回だけです。
4)1978年(昭和53年)第19期の挑戦者として大山が登場しました。大山はこの時55歳、タイトル奪還を目指して戦いますが、うち盛りの中原には及ばず、1勝4敗で退けられました。
②1979年(昭和54年)第20期の挑戦者は、中原のライバルと目され、今まで、何度も中原に挑んできた米長です。米長は中原より4歳年上で、大器、天才の評判は中原よりも先行していました。しかし、中原とのタイトル戦は、昭和49年(1974年)の王将戦での初対戦以来、今まで7連敗と負け続けでした。今回の挑戦が8度目で、両者一歩も譲らず、3勝3敗で第七局にもつれ込みました。この第七局で、米長は「6七金」という絶妙の鬼手を指し、ついに勝利して王位を奪取するとともに、中原とのタイトル戦8連敗をまぬかれ、「米中戦争」とも揶揄された「米長、中原並立時代」を築くきっかけとなりました。
③翌年(昭和55年)第21期に中原が挑戦者として登場し、今度は4戦全勝で米長を降して、すぐに、王位に復帰しました。その翌年(昭和56年)第22期、不死鳥大山が挑戦者となり、中原に挑みましたが、この戦いも、4勝3敗で中原が勝利し、王位を守りました。
④1982年(昭和57年)第23期は、内藤國雄が挑戦者として名乗りを上げ、今度は4勝2敗で中原を破り、1972年(昭和47年)以来10年ぶりに王位に復帰しました。
⑤1983年(昭和58年)第24期には、若干23歳の高橋道雄五段がタイトル戦の挑戦者として初めて登場しました。この戦いは23歳の高橋五段が4勝2敗で、43歳の内藤九段を破って、王位を奪取し、世間をアッと驚かすと共に、世代交代の始まりを感じさせました。
⑥1984年(昭和59年)第25期には、内藤と同じ世代の加藤一二三が王位戦では1963年(昭和38年)以来21年ぶりに挑戦者として高橋に挑みました。この戦いは、大熱戦の末、4勝3敗で加藤が勝利し、初めての王位獲得に成功しました。しかし、その翌年(昭和60年)第26期には、高橋が挑戦者として現れ、今度は4戦全勝で加藤から王位を奪還します。
⑦1986年(昭和61年)第26期の挑戦者は米長邦雄でしたが、4戦全敗という信じられない戦績で敗れ去りました。米長はこの時、43歳で棋聖と十段の二冠を保持しており、その米長を4戦全勝で退けたので、高橋の強さが光った王位戦でした。
⑧その高橋を4勝1敗で破って王位を奪取したのが、1987年(昭和62年)第28期に挑戦者となった谷川浩司です。谷川は、1983年(昭和58年)に若干21歳で名人位を奪取した期待の若手です。中原の後を引き継ぐのは谷川だと世間は見ていましたが、そう簡単には行きませんでした。
⑨1988年(昭和63年)第29期に中原世代の一人、森雞二が挑戦者となって、谷川を4勝3敗で破り、王位を奪取しました。
(2)王位の推移から見える覇者交代
王位の推移から見て取れる覇者交代の図式は十段戦と同じような状況です。
①1973年(昭和48年)に中原が内藤から王位を奪取して以来1978年(昭和53年)まで6連覇して、その後、一年だけ米長に王位を譲りますが、その後も2連覇して、ここでも中原時代の到来を示しました。
②しかし、1982年(昭和57年)に内藤國雄が王位を奪取してから、ここでも群雄割拠の時代に突入します。
③内藤以降、昭和が終わる昭和63年までの6年間に王位を獲得したのは、高橋道雄(3期)、加藤一二三、谷川浩司、森雞二の4名で、次の覇者は誰なのか混沌としています。
④この間、王位に挑みながら一度も王位を獲得できなかったのは勝浦修です。
1.6 昭和49年~63年:棋聖戦での戦い
(1)棋聖戦の状況
棋聖戦は、今までまとめてきた「名人戦」「王将戦」「十段戦」「王位戦」とはまた違った様相を示しています。1974年(昭和49年)第23期(昭和48年度後期)、内藤が米長から3勝2敗で棋聖位を奪いますが、第24期(昭和49年度前期)に、大山が内藤から3勝1敗で棋聖位を奪取し、その後、1977年(昭和52年)第30期(昭和51年度後期)まで7連覇します。そして、大山の8連覇を阻止したのが中原です。そういった状態を右の表9にまとめて示します。
表9 昭和49年~63年 棋聖戦の状況 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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①大山の7連覇の時に、米長と二上が2回ずつ、内藤と桐山清澄、森雞二が1回ずつ敗れています。
1)1974年(昭和49年)第24期(昭和49年度前期)に大山が挑戦者として内藤棋聖に挑み、3勝1敗で内藤を破って8期ぶりに棋聖に返り咲きました。数年前から大山は、タイトルを次々と中原に奪われており、昨年、十段位を中原に奪われてその時点で無冠になっていました。しかし、さすが、不死鳥大山、この棋聖戦で勝利し、無冠から1年足らずでタイトル保持者に戻りました。
2)第25期と第29期の挑戦者は米長。第25期は3戦全敗、第29期は2勝3敗で、いずれも大山に敗れました。
3)第26期と第27期は二上が二期連続して挑戦者となりました。二上は、大山よりは9歳年下ですが、打倒大山の第一人者として期待されながら、いつも、大山の壁に阻まれて、なかなかタイトルはとらせてもらえませんでした。今回も、1勝3敗、3戦全敗、という戦績で敗れ去りました。
4)第28期は桐山清澄。中原と生年が同じで、大山よりは24歳年下でした。優勝棋戦では前年の王座戦で、中原を破って優勝していますが、タイトル戦の登場は今回が初めて。結果は、大山の3勝1敗でした。
5)第30期の挑戦者は森雞二、中原より1歳年長ですが、タイトル戦に登場はこの時が初めてでした。大山には及ばず、1勝3敗で退けられました。
②1978年(昭和53年)第31期(昭和52年度後期)は、中原誠が挑戦者として大山棋聖に挑みました。最終局までもつれる大接戦でしたが、中原が3勝2敗で11期ぶりに棋聖に返り咲きました。中原は、この後35期まで5連覇します。
1)第32期の挑戦者は有吉道夫。大山の愛弟子で、優勝棋戦では何回か優勝し、タイトル戦にも度々登場していますが、ここまで獲得したのは棋聖位一期のみ(第21期)。今回も3戦全敗で敗れ、タイトル獲得はなりませんでした。これ以降、有吉がタイトル戦に登場する事はありませんでした。
2)第33期は二上が挑戦者でしたが、1勝3敗で中原に敗れました。
3)第34期は加藤一二三が挑戦者として挑みましたが、中原が3勝1敗で退けました。
4)第35期の挑戦者は淡路仁茂六段、この時が最初にして最後のタイトル戦となりましたが、3戦全敗で中原に敗れてしまいます。
③1980年(昭和55年)第36期(昭和55年度前期に挑戦者として米長が7期ぶりに登場します。米長は3勝1敗で勝利して14期ぶりに棋聖位を奪還しました。
④1981年(昭和56年)第37期(昭和55年度後期)は、二上が4期ぶりに挑戦者となりました。二上は、3勝1敗で米長を破り、第8期以来29期ぶりに棋聖位に返り咲きました。打倒大山を期待されて、何度もタイトル戦で大山に挑み、跳ね返されているうちに、中原、米長と言った後輩に先を越され、これがようやく三度目のタイトル獲得でした。この後、2回防衛に成功し、3連覇します。
1)第38期は中原の挑戦を3戦全勝で退けます。
2)第39期は加藤一二三の挑戦を、この時も、3戦全勝で退けました。
⑤1982年(昭和57年)第40期(昭和57年度前期)には、森雞二が二上棋聖に挑戦し、3戦全勝で勝利して棋聖位に就きました。
⑥第41期は、中原が森雞二棋聖に挑み、3勝1敗で勝って、6期ぶりに棋聖位に返り咲きました。
⑦第42期(昭和58年度前期)の挑戦者は森安秀光。3勝2敗で勝って、中原から棋聖位を奪取して棋聖位に就き、初めてのタイトル獲得に成功しました。なお、森安のタイトル獲得はこの一回だけです。
⑧1984年(昭和59年)第43期(昭和58年度後期)は米長邦雄が挑戦者になり、3勝1敗で勝って、7期ぶりに棋聖位に返り咲きました。米長は、ここから第47期まで7連覇します。
1)第44期には谷川名人が挑戦者となりましたが、3戦全敗で米長に敗れてしまいます。
2)第45期の挑戦者は中村修、これが初めてのタイトル戦登場です。結果は、3勝2敗で米長が勝ちました。中村は、その翌年に中原王将を破って王将となり、初めてタイトルを獲得します。その同じ年(昭和61年)に中村は再び米長に挑戦しますが(第47期、昭和60年度後期)、3戦全敗で敗れてしまいます。
3)第46期に挑戦者として登場したのが勝浦修。1976年(昭和51年)第17期王位戦以来、二度目のタイトル戦でしたが、1勝3敗で敗れてしまいます。なお、勝浦は、この後、タイトル戦に登場する事はありませんでした。
⑨1986年(昭和61年)第48期(昭和60年度後期)には桐山清澄が挑戦者として登場、3勝1敗で米長を打ち破り、初めて棋聖位に就きました。なお、桐山は前年棋王位を獲得しており、これが二度目のタイトル獲得となりました。桐山はこの後、第50期まで3連覇します。
1)第49期の挑戦者は南芳一、初めてのタイトル戦登場でしたが、1勝3敗で桐山に退けられました。
2)第50期は西村一義が挑戦者となりました。1969年(昭和44年)第10期王位戦に挑戦者として登場して以来、タイトル戦二度目の登場ですが、3戦全敗で敗れてしまいます。なお、西村がタイトル戦に登場したのはこの2回だけで、この後、タイトル戦への登場はありません。
⑩1988年(昭和63年)第51期(昭和62年度後期)に南芳一が再び挑戦者として登場し、今度は、3戦全勝で桐山棋聖を破って、棋聖位を奪取しました。この時、南は王将位も奪取しており、二冠王となったのです。
⑪しかし、南は、次の第52期で挑戦者の田中寅彦に2勝3敗で敗れてしまいます。田中は、初めてのタイトル戦登場でタイトル獲得に成功しますが、タイトル獲得はこれだけです。、タイトル戦登場も次期の防衛戦を含めての2回だけです。
(2)棋聖の推移から見える覇者交代
5番目のタイトルである棋聖の推移から見て取れる覇者交代の図式は、先行するタイトルの場合とかなり変わったものとなっています。
①棋聖位は、中原が最も早く獲得したタイトルです。中原は、1968年(昭和43年)第12期(昭和43年度前期)に山田道義から棋聖を奪って以来、3期連続して棋聖位を保持し、その後、2期の間隔を置いてから、また、棋聖位に復帰し、今度は4連覇しました。一方、大山は、1966年(昭和41年)第8期に二上に敗れて棋聖位を失ってしまい、その後、1974年(昭和49年)第24期(昭和49年度前期)まで棋聖位を奪還できず、棋聖戦に関する限り、大山時代は終わった、と思われていました。
②しかし、大山は、1974年(昭和49年)第24期(昭和49年度前期)に棋聖位を奪還してから、1977年(昭和52年)第30期(昭和52年度前期)まで7期連続で棋聖位を守りきり、大山の復活を世間に強烈に印象付けました。
③1978年(昭和53年)第31期(昭和52年度後期)に中原が大山から棋聖位を奪還し、そこから5連覇しました。つまり、棋聖戦は大山が棋聖位を独占して始まり、その後、他の棋士が入れ替わり棋聖位に就いた事はありましたが、この時までは、中原と大山という二人の巨人を中心にして回っていたのです。
④ところが、1980年(昭和55年)36期(昭和55年度前期)に米長が棋聖位に就いてから、その翌期から二上(3期)、森雞二、中原、森安秀光と次々と棋聖が変わりました。
⑤1984年(昭和59年)第43期(昭和58年度後期)に米長が棋聖位に返り咲き、その後5連覇します。その後、桐山が3連覇して、覇権を争いますが、昭和最後の年には、南芳一と田中寅彦が入れ替わりで棋聖位につき、戦国時代の訪れを思わせる展開となりました。
⑥この期間、棋聖位に挑戦しながら一度も棋聖位を奪えなかった棋士は、有吉道夫(ただし、第21期(昭和47年度後期)に棋聖についています)、淡路仁茂、勝浦修、西村一義の4人です。棋聖戦は年2回行われるタイトル戦なので、それだけ混戦になる要素があるのでしょう。
1.7 昭和50年~63年:棋王戦での戦い
(1)棋王戦の状況
1975年(昭和50年)、棋王戦が優勝棋戦として開始されました。そして、その翌年から、タイトル戦としての「棋王戦」が始まりました。一回だけ行われた優勝戦と、その後始まったタイトル戦としての棋王戦状態を昭和63年まで、左下の表10にまとめて示します。
表10 昭和50年~63年 棋王戦の状況 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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①1974年(昭和49年)秋、第一回棋王戦トーナメントが始まりました。決戦三番勝負は無敗の内藤國雄九段と敗者復活戦を勝ち上がった関根茂八段の対決となり、1勝1敗の後の三局が、翌年1月9日に行われました。この第三局は内藤が勝利し、代一回目の優勝者となりました。
②1975年(昭和50年)、いよいよ棋王戦がタイトル戦としてスタートしました。第一期棋王は、第一回優勝者内藤と、本戦トーナメント勝者、敗者復活トーナメント勝者の3人による総当たりの決勝リーグで定める事となりました。
1)本戦トーナメントは35人で争われ、高島弘光七段が勝利しました。一方、敗者復活戦では大内延介が勝ち抜きました。
2)決勝リーグ第一局は、1976年(昭和51年)1月、内藤と大内により、史上初めてハワイで行われました。第一局は91手目で千日手となり、指し直しで内藤が勝ちました。
3)三者によるリーグ戦は、内藤と大内が3勝1敗で並び、高島が4敗となりました。
4)そこで、4月6日、内藤と大内による同率決戦が大阪で戦われ、大内が勝って初代棋王に就任しました。
③1977年(昭和52年)第2期は加藤一二三が、挑戦者決定戦で敗者復活戦勝者の中原名人を降して挑戦者となりました。加藤は3連勝で大内を破り、二代目棋王となりました。
④その翌年(第3期)、中原が挑戦者として登場しました。中原は、すでに五冠王となっており、史上初の六冠王誕生か、と期待されましたが、加藤が踏ん張って3連勝で中原を降し、防衛に成功しました
⑤1979年(昭和54年)第4期の挑戦者は米長で、初戦から2連勝、棋王位をあっさり奪取すると思われましたが、加藤が粘って、そこから2連勝し、第五局までもつれ込みました。その第五局は、終盤まで加藤が優勢だったのですが、最後に秒読みに追われて大悪手を指して、負けてしまい、米長が棋王位を奪取しました。
⑥1980年(昭和55年)第5期は挑戦者中原が3勝1敗で米長棋王を破って棋王位に就きました。
⑦1981年(昭和56年)第6期には米長が挑戦者として登場し、中原を3勝1敗で破って前期の雪辱を果たしました。ここから第9期まで米長は4連覇を果たします。
1)1982年(昭和57年)第7期の挑戦者森安秀光を3勝2敗で降しました。森安は、1年明けて第9期(昭和59年)にも再登場しますが、今度は3勝1敗で退けました。
2)1983年(昭和58年)第8期には、大山十五世名人が挑戦者となりました。大山はこの棋王戦の途中で米長に王将位を奪われて無冠となってしまい、その雪辱を期した戦いだったのですが、3戦全敗で敗れてしまいました。大山が3敗目を喫したのは60歳の誕生日の2日前(3月13日)の事でした。
⑧1985年(昭和60年)第10期の挑戦者は桐山清澄。米長はここで勝てば、5連覇で永世棋王の称号を得るところだったのですが、1勝3敗で敗れてしまい、桐山が棋王位に就きました。
⑨1986年(昭和61年)第11期には谷川前名人が挑戦者として登場し、3連勝して、名人に次ぐ二つ目のタイトルを獲得しました。
⑩1987年(昭和62年)第12期の挑戦者は高橋道雄王位。3勝1敗で谷川棋王を破り、棋王位を奪取して二冠に輝きました。
⑪1988年(昭和63年)第13期には谷川が挑戦者として登場しました。谷川は、最初に2連勝、その後2連敗でタイとなりましたが、最終第五局で勝って、棋王位に復位しました。
(2)棋王の推移から見える覇者交代
棋王戦が発足した時、大山はすでにピークを過ぎていたので、これまでの五冠とは全く違った状況となっています。
①この期間、最も棋王位を獲得したのは米長邦雄で5回、次は、加藤一二三と谷川浩司が2回ずつ、そして、大内延介、中原誠、桐山清澄、高橋道雄がそれぞれ1回ずつとなっており、他のタイトル戦では中原に抑えられていた米長がここでは、中原を押しのけてトップになりました。
②この間、棋王位に挑戦しながら一度も棋王位を獲得できなかったのは、森安秀光(2回)と大山康晴の二人です。大山は、ピークを過ぎていたとはいえ、棋聖の時に棋王にも挑戦しましたが、叶いませんでした。
1.8 昭和58年~63年:王座戦での戦い
(1)王座戦の状況
王座戦は、1982年(昭和57年)までは優勝棋戦でした。しかし、1983年(昭和58年)からは7番目の公式タイトル戦となりました。優勝棋戦としての1975年(昭和50年)から1982年(昭和57年)までの状況は別途まとめますが、タイトル戦となった1983年(昭和58年)から1988年(昭和63年)までの状況を右の表11にまとめて示します。
表11 昭和58年~63年 王座戦の状況 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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この表を見ればわかるとおり、6年間のうち、5回王座を獲得しています。王座戦というタイトル戦は、
①タイトル戦として初めての1983年(昭和58年)31期の王座戦は、中原二冠(十段、棋聖)と内藤九段の戦いとなりましたが、中原が2勝1敗で勝利し、王座位に就きました。なお、中原は優勝棋戦の間に10回優勝しています。
②1984年(昭和59年)第32期から王座戦のタイトル戦は、今までの3番勝負から5番勝負へとかわりました。その32期にも中原は勝ち、31期から34期まで4連覇を達成しました。
1)第32期の挑戦者は森安秀光。第五局まで戦う接戦となりましたが、中原が3勝2敗で勝利しました。
2)第33期は谷川浩二が挑戦者として登場しましたが、結果は、3勝1敗で中原が防衛しました。
3)第34期には桐山清澄が挑戦者となって中原に挑みましたが、3戦全敗で退けられました。
③1987年(昭和62年)第35期の挑戦者は塚田泰明七段。中原との戦いは、第五局までもつれましたが、塚田は3勝2敗で中原王座を破り、王座位を奪取しました。
④1988年(昭和63年)第36期の挑戦者として前王座の中原が登場し、今度は3戦全勝で前回の雪辱を果たして、王座位を奪還した。
(2)王座の推移から見える覇者交代
王座戦は、1983年(昭和58年)からタイトル戦になったばかりですが、塚田泰明が一回王座に就いただけで、後の五回は中原誠が王座を獲得しています。今のところ、王座戦は、中原のためにタイトル戦になった、ともいえるでしょう。
1.9 昭和50年~63年:タイトル戦の結果に基づく棋士のランキング
七大タイトル戦に於いて、昭和50年から63年までに、誰が何回タイトルをとり、誰が何回敗れたかを一覧にしたものを、下の表12として示します。
なお、表中の項目の意味は以下の通りです。
(1)タイトル獲得率とは、タイトル獲得回数を総合計の98回で割った比率です。
(2)タイトル戦勝率とは、タイトル獲得回数を、タイトル戦参加回数で割った比率です。
(3)タイトル戦参加回数とは、タイトル獲得回数の合計値と、タイトル戦敗退回数の合計値との合計であり、その棋士が、98回あったタイトル戦に何回参加したかを示します。
(4)タイトル戦参加率と、タイトル戦参加回数を合計数の195で割って、2倍した比率です。実際に行われたタイトル戦に参加した比率を示します。
(5)タイトル獲得回数合計値が98回、タイトル戦敗退回数が97回、と食い違うのは、棋王戦の第一期では、三者リーグ戦で選ばれたため、獲得回数には加えましたが、敗退回数には加算しなかったためです。
ランキングはタイトル獲得回数の多い順でつけました。タイトル獲得回数が同じ場合は、タイトル戦敗退回数の多い順につけました。
①表12には22名の棋士が記載されていますが、このうち、実際にタイトルを獲得した棋士は、18名でした。タイトル戦に敗れ、一度もタイトルを手に入れる事が出来なかった棋士はわずか4名です。タイトル戦が3個から5個、7個と増えるにつれて、タイトル戦に参加する棋士数も増えますが、タイトルを獲得する棋士も増えてきました。それだけ、少数の棋士による寡占状態が起こりにくくなっている、と思います。寡占状態が起こりにくくなった原因としては、タイトル戦が増えたので、チャンスが広がり、トップ棋士は紙一重の実力差なので、混沌を生みやすくなった、からではないでしょうか?
②タイトル獲得回数のトップは、中原誠です。総計102回のうち、39回タイトルを獲得しています(獲得率38%)。また、17回タイトル戦で敗退していますが、タイトル戦参加回数は合わせて56回、タイトル戦参加率は55%です。個々のタイトルごとにみると、23人の棋士の中でただ一人、7冠すべてでタイトルを獲得しています。そのうち、獲得率が5割を超えているのは、名人(9回、獲得率69%)、十段(7回、50%)、王座(6回、83%)の3個、特に少ないのが棋王の1回です。敗退回数と合わせた「タイトル戦参加回数」を、個々のタイトルごとにみると、棋王戦はわずか3回であり、棋王戦への参加率も24%と最低となっています。中原にとって、棋王戦は苦手のタイトル戦だったようです。
③中原に続く第2位は、米長邦雄です。獲得回数16回(獲得率16%)、タイトル戦での敗退回数21回、タイトル戦参加回数は合計37回(参加率36%)。トップの中原には及びませんが、3位以下を大きく引き離しており、中原に次ぐ実力者であることを示しています。また、個々のタイトルごとにみると、名人と王座は獲得出来ませんでしたが、他の五冠は獲得しています。さらに、タイトル戦敗退回数をみると、王座戦以外の6個の棋戦すべてに参加しています。名人戦に4回も参加しながらすべて中原に敗れていますので、残念だったろうと推測されます。
④ランク3位は、大山康晴。タイトル獲得回数は9回(獲得率9%)ですが、棋聖(6回)と王将(3回)の二冠に偏っています。一方、タイトル戦での敗退回数は8回で、こちらは王座戦以外の6個に挑戦して敗れました。タイトル戦参加回数は合わせて17回(参加率17%)です。昭和40年代までは、大山がダントツのトップでしたが、昭和50年代に入って、トップから3位に後退しました。
⑤ランク4位は、加藤一二三。タイトル獲得回数7回(獲得率7%)、敗退回数は9回、タイトル戦参加回数は合計16回(参加率16%)。王座戦以外の6個のタイトル戦に参加し、さらに、名人位を1回獲得しています。名人戦の格の重みを考えると、大山と同等、あるいはそれ以上、と言えるかもしれません。
⑥ランク5位は、名人位の3回獲得を含め、タイトルを6回獲得(獲得率6%)した谷川浩司。タイトルに挑戦して敗退した回数は5回で、タイトル戦参加回数は合わせて11回(参加率11%)です。タイトル獲得数では、米長や大山、加藤一二三には及びませんが、名人位を3回獲得しているので、中原に次ぐ存在感を示しています。谷川がタイトル戦に初めて参加したのは、1983年(昭和58年)の名人戦で、当時の加藤一二三名人を4勝2敗で破り、若干21歳という史上最年少の若さで名人位に就きました。それから63年までの間に、名人を合計3回獲得し、中原の後継者である事をアピールしますが、名人戦以外のタイトル戦での活躍はまだ不十分と言わざるを得ません。しかし、谷川は中原より15歳も若い1962年生まれ、中原の後継者の最有力候補であることは間違いありません。
⑦ランク6位は、王位3回を含めタイトルを5回獲得(獲得率5%)した高橋道雄。敗退回数は3回で、タイトル戦参加回数は合わせて8回(参加率8%)です。高橋は1960年生まれで谷川と同年代、中原の有力な後継者候補の一人ですが、名人戦に登場していないのは、まだまだ力不足と思わざるを得ません。
⑧ランク7位は桐山清澄、棋聖位3回、棋王位一回、合計で4回タイトルを獲得(獲得率4%)しました。敗退回数は6回で、タイトル戦参加回数は合わせて10回(参加率10%)です。中原と同い年で、米長と同じように、中原に対抗したグループです。
⑨ランク8位は、棋聖を3回獲得し、同じく棋聖戦で4回敗退した二上達也。すでに述べましたが、大山より9歳若く、中原より15歳年長、ちょうど両者に挟まれる世代の代表格です。大山に頭を押さえられ、後ろからは中原に追い抜かれて、無念だったとな思われますが、「ナンバー2」であることを自覚して、それなりの生き方を貫いた名棋士であったことは間違いありません。
⑩ランク9位から11位はタイトル獲得回数は2回で同じですが、タイトル戦敗退回数の差でランク付しました。
1)9位は森雞二、王位と棋聖を一回ずつ獲得しました。そして、名人戦と王将戦で一回ずつ、棋聖戦で2回、合計4回タイトルに挑戦して敗れています。タイトル戦の参加回数は6回です。中原よりは1年年長で、中原に対抗したグループの一人です。
2)10位は中村修、王将位を2回獲得しました。敗退回数は3回(王将戦で一回、棋聖戦で2回)でタイトル戦参加回数は5回です。谷川と同い年で、中原の後継者候補の一人として名乗りを上げました。
3)11位は南芳一、王将と棋聖を一回ずつ獲得しています。敗退回数は棋聖戦での2回、参加回数は合計で4回です。谷川よりは一歳若く、中原の後継者候補の一人です。
⑪ランク12位から17位は7名います。タイトル獲得回数は一回ですが、敗退回数が違うので差を付けました。世代でみると、大山と中原の中間世代、中原とほぼ同世代、中原の次を伺う世代の三つに分ける事が出来ます。
1)大山と中原の中間世代(2名): 内藤國雄(13位、王位獲得、敗退回数は3回、参加回数は4回)。大内延介(14位、棋王獲得、敗退回数は2回、参加回数は3回)。
2)中原とほぼ同世代(1名): 森安秀光(12位。棋聖位獲得、敗退回数は5回、参加回数は6回)。
3)中原の次を伺う世代4名): 塚田泰明(15位)と福崎文吾(15位)は敗退回数も一回ずつで、参加回数は2回です。島朗(17位)と田中寅彦(17位)は昭和63年の初挑戦でタイトルを獲得しましたので、タイトル戦参加はこの一回だけです。
⑫ランク19位から21位は4名います。タイトルを獲得出来ませんでしたが、敗退回数が違うので差を付けました。世代でみると、大山と中原の中間世代、中原とほぼ同世代の二つに分ける事が出来ます。
1)大山と中原の中間世代(2名): 有吉道夫(19位、敗退回数は3回)、西村一義(21位、敗退回数は1回)。
2)中原とほぼ同世代(3名): 勝浦修(20位、敗退回数は2回)、淡路仁茂(21位、敗退回数は1回)。
2.優勝棋戦の戦績
昭和50年~63年、タイトル戦以外の優勝棋戦も多数あって、その覇権をめぐっての戦いがありました。これらの優勝棋戦の「格」は、タイトル戦よりは低いのですが、やはり、それに勝つ、という事は大変な事でした。昭和50年から63年までの、優勝棋戦の勝者を各棋戦ごとに表にまとめて示します。
2.1 NHK杯
戦後の優勝棋戦では、1951年(昭和26年)に始まった「NHK杯」が最も古く伝統ある棋戦であるといえます。その棋戦の昭和50年~63年の優勝者と準優勝者を右の表7にまとめて示します。
表13 昭和50年~63年 NHK杯 優勝者と準優勝者 |
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①昭和50年~63年で最も優勝回数が多かったのは、中原誠で3回(第27回、第32回、第37回)。この時、中原に負けたのは、加藤一二三、青野照市、中村修です。青野照市は、1974年(昭和49年)の新人王戦で三段で出場して優勝した(優勝時は四段になっていました)ほどの若手のホープでした。
②次に多かったのは、2回優勝の加藤一二三(第26回、第31回)と、大山康晴(第29回、第33回)。
1)加藤一二三は、準優勝も3回あり、さらに、昭和40年代には3回優勝していますから、NHK杯では強さを遺憾なく発揮できたようです。なお、加藤一二三に敗れて準優勝だったのは、米長邦雄と伊藤果です。伊藤果は、タイトル戦への参加はゼロ、優勝棋戦での優勝もゼロで、2011年に七段で引退しました。
2)大山康晴は、全盛期を過ぎたとはいえ、流石と思わせる戦績です。大山に敗れたのは森雞二と加藤一二三です。
③残りの7回は、下記の7名が一回ずつ優勝しています。
1)第25回: 優勝は大内延介、敗れて準優勝となったのは二上達也。
2)第28回: 米長邦雄が真部一男を破って優勝しました。真部一男は、1982年(昭和57年)第16回早指し将棋選手権戦で優勝しましたが、それ以外には優勝した事はありませんし、タイトル戦への出場もありません。
3)第30回: 優勝したのは有吉道夫、準優勝は中原誠でした。
4)第34回: 田中寅彦が加藤一二三を破って優勝しました。
5)第35回: 谷川浩司が初優勝、準優勝は内藤國雄でした。
6)第36回: 前田祐司が森雞二を破って優勝しましたが、これが、タイトル戦と合わせても唯一の優勝経験です。
7)第38回: 18歳の羽生善治五段が中原誠を破って優勝しました。この年、羽生は、3回戦で大山康晴、準々決勝で加藤一二三、準決勝で谷川浩司を破って決勝に進出し、決勝戦で中原を破ったので、世間の注目が一気に高まりました。なお、羽生は、後述しますが、前年に天王戦で優勝し、注目を浴びました。
④準優勝者を見ると、加藤一二三が3回で最も多く、次いで森雞二と中原誠が2回ずつで続いています。残りの7回は、右記の7人が1回ずつとなっています: 二上達也、米長邦雄、真部一男、伊藤果、青野照市、内藤國雄、中村修。
2.2 王座戦
日本経済新聞社主催の「王座戦」は、前述の通り、1983年(昭和58年)第31期からタイトル戦になりましたが、昭和57年までは優勝棋戦でした。昭和50年から57年までの優勝者と準優勝者を左の表14にまとめて示します。
表14 昭和50年~57年 王座戦 優勝者と準優勝者 |
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①昭和57年から57年までの8年間で、中原誠は4回優勝し、準優勝も2回です。つまり、6年間は決勝戦に進出しているわけであり、王座戦は中原のための優勝棋戦である、と言っても過言ではないと思われます。。
②1975年(昭和57年)第23回は、桐山清澄が中原を破って初優勝しました。
③その翌年の第24回からは、第27回まで、4回連続して中原誠が優勝しました。決勝戦で破った相手は第24回は桐山清澄で、前回の雪辱を果たしました。第25回から27回までは、3回連続して大内延介を破って優勝しています。
④第28回と第29回は、大山康晴が連覇しました。決勝戦の相手は、28回が中原、29回が勝浦修でした。
⑤優勝戦としては最後となった第30回は、内藤國雄と大山康晴の対戦となりましたが、内藤が2勝零敗で大山を破り、優勝しました。
⑥準優勝者を見ると、大内延介が3回で最も多く、次が、中原の2回となっています。残りの3回は、桐山清澄、勝浦修、大山康晴が1回ずつとなっています。大内延介は、この間、3回も決勝戦に進出しながら。一度も優勝できなかったのは。極めて残念であったろうと想像されます。
2.3 名棋戦
1974年(昭和49年)、「古豪新鋭戦」から「名棋戦」へと名称を変更し、参加可能選手の枠がB級2組まで広がりましたがましたが、若手の登竜門としての位置づけは変わっていません。1980年(昭和55年)までは、「棋王戦」の予選という形で続き、翌年に「棋王戦」へ統合されました。1974年(昭和49年)の第一回から、最終の第7回までの優勝者と準優勝者を右の表15にまとめて示します。
表15 昭和49年~55年 名棋戦 優勝者と準優勝者 |
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①表15をみればわかるように、毎回、優勝者が変わっています。さらに、優勝者と準優勝者を比べると、その両方に名前が出ているのは青野照市だけです(第3回五段の時に準優勝、第5回六段の時に優勝)。青野は、タイトル戦に一度だけ(第37期王座戦)登場しましたし、新人王戦でも2回優勝しています。
②優勝者の中で、後年、タイトルを獲得した棋士は、1979年(昭和54年)第6回の谷川浩司のみです。この時はまだ五段でした。谷川は、後で触れますが、1976年(昭和51年)、14歳で四段に昇段し、加藤一二三に次いで、史上二人目の中学生プロ棋士となって脚光を浴びました。
③1975年(昭和50年)第2回優勝の石田和雄六段は、タイトル戦への登場はありませんが、新人王戦で2回優勝しています。2012年、九段で引退しました。
④第3回は若松政和五段が優勝しました。若松は、1971年(昭和46年)第2回新人王戦で優勝しましたが、この2回の以外、めぼしい戦績はなく、2000年に七段で引退しました。しかし、谷川浩司は若松の弟子であり、谷川の師匠として有名になりました。
⑤第4回の優勝者は佐藤大五郎八段。王位戦の挑戦者になった事はありますが、タイトル戦への出場はその一回だけ、優勝も今回だけです。
⑥第7回は北村昌男が優勝しました。1965年に高松宮賞をいただいて以来の優勝ですが、この後は引退まで優勝とかタイトル戦出場とかありませんでした。。
⑦昭和49年から56年までの間に、準優勝者はしたが優勝はしたことのない棋士の中で、後年、タイトルを獲得した棋士は、1980年(昭和55年)第7回の福崎文吾五段のみです。1986年(昭和61年)第25期十段戦と、1991年(平成3年)第39期王座戦で勝利しタイトルを取りました。
2.4 日本将棋連盟杯争奪戦⇒天王戦
1974年(昭和49年)、「古豪新鋭戦」から「名棋戦」へと名称を変更し、参加可能選手の枠がB級2組まで広がりましたがましたが、若手の登竜門としての位置づけは変わっていません。1980年(昭和55年)までは、「棋王戦」の予選という形で続き、翌年に「棋王戦」へ統合されました。1974年(昭和49年)の第一回から、最終の第7回までの優勝者と準優勝者を右の表15にまとめて示します。
表15 昭和49年~55年 名棋戦 優勝者と準優勝者 |
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①表15をみればわかるように、毎回、優勝者が変わっています。さらに、優勝者と準優勝者を比べると、その両方に名前が出ているのは青野照市だけです(第3回五段の時に準優勝、第5回六段の時に優勝)。青野は、タイトル戦に一度だけ(第37期王座戦)登場しましたし、新人王戦でも2回優勝しています。
②優勝者の中で、後年、タイトルを獲得した棋士は、1979年(昭和54年)第6回の谷川浩司のみです。この時はまだ五段でした。谷川は、後で触れますが、1976年(昭和51年)、14歳で四段に昇段し、加藤一二三に次いで、史上二人目の中学生プロ棋士となって脚光を浴びました。
③1975年(昭和50年)第2回優勝の石田和雄六段は、タイトル戦への登場はありませんが、新人王戦で2回優勝しています。2012年、九段で引退しました。
④第3回は若松政和五段が優勝しました。若松は、1971年(昭和46年)第2回新人王戦で優勝しましたが、この2回の以外、めぼしい戦績はなく、2000年に七段で引退しました。しかし、谷川浩司は若松の弟子であり、谷川の師匠として有名になりました。
⑤第4回の優勝者は佐藤大五郎八段。王位戦の挑戦者になった事はありますが、タイトル戦への出場はその一回だけ、優勝も今回だけです。
⑥第7回は北村昌男が優勝しました。1965年に高松宮賞をいただいて以来の優勝ですが、この後は引退まで優勝とかタイトル戦出場とかありませんでした。。
⑦昭和49年から56年までの間に、準優勝者はしたが優勝はしたことのない棋士の中で、後年、タイトルを獲得した棋士は、1980年(昭和55年)第7回の福崎文吾五段のみです。1986年(昭和61年)第25期十段戦と、1991年(平成3年)第39期王座戦で勝利しタイトルを取りました。
2.4 日本将棋連盟杯争奪戦⇒天王戦
1968年から始まった「日本将棋連盟杯争奪戦」の昭和50年から63年までの状況を左の表16にまとめます。
表16 昭和50年~63年代 日本将棋連盟杯争奪戦⇒天王戦 優勝者と準優勝者 |
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この棋戦は、1985年(昭和60年)以降、「天王戦」となり、さらに、1993年(平成5年)からは、「棋王戦」に統合されました。「天王戦」となった時、九段から四段までの段位別予選を行い、各段2名ずつが本戦出場)となる方式でした。タイトル保持者も四段も優勝までの距離が同じなのは初めてのことでした。なお、天王戦第1回ではタイトル保持者全員が予選で敗れる波乱が起きました。
①表16を見て気が付くのは、タイトル戦では常連だった中原誠と谷川浩司の名前が見えない事です。しかし、昭和50年代前半は、大山康晴のガンバリが目立ちます。また、昭和60年代に入って「天王戦」に変わってから、平成に入って大活躍する「羽生善治」の名前が出てきます。
②1975年(昭和50年)第8回から昭和54年第12回まで、5年連続して、大山康晴が決勝戦に進出しました。このうち、3回優勝し、2回は準優勝でした。大山が優勝した時の準優勝は、大内延介(第8回)、内藤國雄(第11回)、米長邦雄(第12回)です。一方、大山が決勝戦で敗れた相手は、二上達也(第9回)、板谷進(第10回)です。
③1975年(昭和50年)から1985年(昭和63年)までの11年間にわたる連盟杯争奪戦で複数回優勝したのは大山だけですが、一回だけ優勝したのは以下の7人です。
1)1976年(昭和51年)第9回: 二上達也が大山を破って、日本将棋連盟杯争奪戦で初優勝しました。
2)第10回: 板谷進が、大山康晴を破って優勝しました。大山は前年に続き準優勝でした。板谷は、加藤一二三と同年の生まれですが、タイトル戦への登場はゼロ、優勝棋戦での優勝もこの一回限りです。1988年(昭和63年)に亡くなり、その年に九段に昇段しています。
3)第13回: 大内延介が桐山清澄を破って優勝し、第7回に続き2度目の優勝となりました。
4)第14回: 勝浦修が森安秀光を破り優勝を飾りました。勝浦は、タイトル戦に2度登場しましたが、タイトル獲得には至りませんでした。また、優勝棋戦での優勝もこの1回だけです。2011年に九段で引退しました。
5)第15回: 森安秀光が米長邦雄を破って優勝し、前年の準優勝の無念を晴らしました。
6)第16回: 米長邦雄が田中寅彦を破って、第2回以来の2度目の優勝を遂げました。
7)第17回: 田中寅彦が宮田利男六段を破って初優勝しました。
④1985年(昭和60年)から始まった「天王戦」では、以下の通り、第3回、第4回と羽生善治が連覇しました。
1)1957年(昭和60年)第一回天王戦: 加藤一二三が塚田泰明六段を破って、第一回目の優勝者となりました。
2)第2回: 高橋道雄が加藤一二三を破って優勝し、加藤の2連覇を阻止しました。
3)第3回・第4回: 第3回天王戦で、2年前(1985年(昭和60年))に史上3人目の中学生プロ棋士となったばかりの羽生善治四段が森下卓五段を破って初めて優勝しました。その翌年にも再び、森下卓を破り2連覇しました。なお、羽生は1987年(昭和62年)の第10回若獅子戦でも優勝しました。
⑤1970年(昭和50年)から1988年(昭和63年)までの14年間で、準優勝はしたものの、一回も優勝した事のない棋士は以下の5人です。。
1)内藤國雄: 昭和40年代の第4回と第6回で優勝していますが、昭和50年代以降は優勝から見放されたようです。
2)桐山清澄: タイトル戦を含め、他の棋戦では活躍していますが、この棋戦には向いていなかった(?)ようです。
3)宮田利男: とくに華々しい活躍の無いまま、今年の5月に八段で引退しました。
4)塚田泰明: 1987年(昭和62年)第35回王座戦で、中原を破って王座を獲得するという大殊勲を上げましたが、タイトル戦登場はその翌年に中原に敗れた時との2回だけです。優勝棋戦では、早指し新鋭戦で2回、新人王戦で1回、優勝しています。
5)森下卓: 羽生よりも4歳年長、タイトル戦には現在まで6回登場しましたが、タイトル獲得はなりませんでした。優勝棋戦での優勝は5回ありますが、羽生という大名人の壁に阻まれて頭を抑え込まれた世代、とでも言えるでしょう。
2.5 新人王戦
新人王戦は、日本共産党の機関紙「赤旗」が主催する棋戦で、1970年(昭和45年)から始まりました。年齢30歳以下、段位は六段以下(タイトル戦経験者は除く)の棋士などが参加する優勝棋戦です。なお、2006年(平成18年)からは、参加年齢が26歳以下へ引き下げられました。この棋戦の1975年(昭和50年)第6回から昭和63年第19回までの優勝者と準優勝者を左下の表17にまとめて示します。
表17 昭和50年~63年 新人王戦 優勝者と準優勝者 |
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①第6回(昭和50年)の優勝者は、森安秀光、決勝戦で敗れて準優勝となったのは桜井昇。桜井は1966年(昭和41年)第10回古豪新鋭戦で優勝していますが、これ以外めぼしい戦績はなく、2007年八段で引退しました。なお、森安は2年後の第8回でも真部一男を破り優勝しています。真部は、1982年(昭和57年)第16回早指し選手権戦で優勝していますが、これ以外めぼしい戦績はなく、2007年(平成19年)、八段の時、55歳の若さで亡くなりました。死後、九段が追贈されています。
②第7回は、石田和雄が優勝し、森安秀光が準優勝でした。石田は、タイトル獲得やタイトル挑戦はありませんでしたが、優勝棋戦では4回優勝しています。そして、2012年に九段で引退しています。
③第9回(昭和53年)の優勝者は小坂昇、準優勝は森安秀光。小坂は、タイトル戦に登場する事もなく、優勝もこの一回だけで、2010年(平成22年)に七段で引退しています。なお、小坂は同じ藤内門下の兄弟弟子である若松政和の依頼を受けて、若松の弟子の谷川浩司が入門したての頃に、毎週谷川の自宅に伺ってマンツーマンで将棋を教えたそうです。
④第10回(昭和54年)では、青野照市が優勝し、準優勝は坪内利幸でした。青野は、前述の通り、タイトル戦に一度だけ(第37期王座戦)登場しましたし、新人王戦でも2回優勝しています。優勝棋戦での優勝回数は4回、現在もB級2組で棋士として活躍しています。
⑤第11回(昭和55年)の優勝者は森信雄、準優勝は島朗でした。森は、棋戦の優勝はこの時だけで、これ以降めぼしい戦績はなく、七段で2017年に引退しました。しかし、映画化された「聖の青春」の主人公、村山聖(難病で29歳の若さで亡くなります)の師匠として有名です。
⑥第12回(昭和56年)は田中寅彦が、伊藤果を破って優勝しました。田中は、1988年(昭和63年)第52期棋聖戦でタイトルを取りました。タイトル獲得はこれだけですが、優勝棋戦での優勝は、今回を含めて6回あります。
⑦第13回(昭和57年)と第15回は小野修一が優勝しました。準優勝は、第13回が島朗、第15回が中村修です。小野は、1986年(昭和61年)第5回早指し新鋭戦でも優勝し、将来を嘱望されていました。しかし、健康上の理由で、2007年に現役を引退し、その翌年、49歳の若さで亡くなりました。
⑧第14回(昭和58年)は中村修が優勝し、宮田利男が準優勝でした。中村は、1986・87年(昭和61・62年)と2期連続して王将位を獲得し、その前にも棋聖位に挑戦したりして、この頃は若手として注目の活躍を示しましたが、その後は華々しい活躍は見られません。
⑨第16回(昭和60年)は井上慶太が優勝、森下卓が準優勝でした。井上は、翌年の若獅子戦でも優勝しましたが、現在までのところ、表立った活躍はここまでです。
⑩第17回(昭和61年)の優勝は塚田泰明、準優勝は脇健二でした。塚田については、天王戦のところで述べました。
⑪第18回(昭和62年)は森内俊之が優勝し、飯田弘之が準優勝でした。森内は、伝説の島研のメンバーで、タイトル戦で大活躍し、第18世名人の資格を獲得しています。
⑫第19回(昭和63年)の優勝は羽生善治、準優勝は森内俊之。後年のライバルが、新人王戦という舞台で初めて対決し、羽生が勝ちました。後年の二人の争いも、羽生が森内を圧倒していますが、この時の結果が、それを暗示しているのでしょうか?
⑬1975年(昭和50年)第6回から昭和63年第19回まで、準優勝どまりで、一度も優勝していない棋士は、以下の8名です。
1)桜井昇: 1966年(昭和41年)第10回古豪新鋭戦で優勝していますが、それ以外めぼしい記録はありません。2007年、八段で引退しました。
2)真部一男: 1982年(昭和57年)第16回早指し将棋選手権戦で優勝しましたが、それ以外には優勝した事はありませんし、タイトル戦への出場もありません。2007年11月に55歳で死去し、同日に九段が追贈されました。
3)坪内利幸: 優勝棋戦での優勝はなく、タイトル戦にも登場はしていません。2009年に七段で引退しています。
4)伊藤果: 優勝棋戦での優勝はなく、タイトル戦にも登場はしていません。2011年に七段で引退しています。
5)宮田利男: とくに華々しい活躍の無いまま、今年の5月に八段で引退しました。
6)森下卓: 天王戦のところで記載した通りで、優勝棋戦では5回優勝しましたが、タイトル獲得はできませんでした。
7)脇謙二: 若獅子戦で1回、早指し新鋭戦で2回、優勝しましたが、タイトル戦への登場はありません。今年の11月2日、順位戦C級2組で藤井四段と対戦し負けました。
8)飯田弘之: 棋戦での活躍はとくにありません。2014年に六段で引退しました。
2.6 早指し将棋選手権戦
「早指し将棋選手権戦」は、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)が1972年(昭和47年)8月に放送を開始し、以降、日曜の早朝番組として2003年(平成15年)ま続きました。テレビ放映用に、持ち時間は原則として1手30秒以内という早指しルールでした。初期の頃は1年度に2回の開催でしたが、1978年(昭和53年)より年1回の開催となりました。「早指し将棋選手権」の昭和50年(第5回)から昭和63年の第22回までの優勝者と準優勝者を右の表18にまとめて示します。
表18 昭和50年~63年
早指し将棋選手権戦 優勝者と準優勝者
実施年 | 実施年度 | 回 | 優勝 | 準優勝 | ||
西暦 | 昭和 | 昭和年度 | ||||
1975 | 50 | 49 | 後期 | 5 | 米長邦雄 | 高島弘光 |
50 | 前期 | 6 | 松田茂行 | 中原誠 | ||
1976 | 51 | 後期 | 7 | 大山康晴 | 大内延介 | |
51 | 前期 | 8 | 桐山清澄 | 関根茂 | ||
1977 | 52 | 後期 | 9 | 大山康晴 | 二上達也 | |
52 | 前期 | 10 | 加藤一二三 | 真部一男 | ||
1978 | 53 | 後期 | 11 | 米長邦雄 | 森雞二 | |
53 | 12 | 有吉道夫 | 大山康晴 | |||
1979 | 54 | 54 | 13 | 米長邦雄 | 森雞二 | |
1980 | 55 | 55 | 14 | 米長邦雄 | 加藤一二三 | |
1981 | 56 | 56 | 15 | 加藤一二三 | 高島弘光 | |
1982 | 57 | 57 | 16 | 真部一男 | 米長邦雄 | |
1983 | 58 | 58 | 17 | 桐山清澄 | 森安秀光 | |
1984 | 59 | 59 | 18 | 森安秀光 | 高橋道雄 | |
1985 | 60 | 60 | 19 | 中原誠 | 加藤一二三 | |
1986 | 61 | 61 | 20 | 田中寅彦 | 中原誠 | |
1987 | 62 | 62 | 21 | 有吉道夫 | 森下卓 | |
1988 | 63 | 63 | 22 | 森雞二 | 南芳一 |
なお第5回は年度でいえば、1974年度(昭和49年度)後期となります。
①第5回(昭和49年度後期)の優勝は米長邦雄、準優勝は高島弘光。米長は、第11回(昭和52年度後期)、第13回(昭和54年)、第14回(昭和55年)にも優勝しました。なお、その時の準優勝は、森雞二(第11回と第13回)と加藤一二三(第14回)です。
②第6回(昭和50年度前期)は、松田茂行が中原誠を破って優勝しました。
③第7回(昭和50年度後期)は、大山康晴が大内延介を破って優勝し、健在ぶりをアピールしました。大山は、第9回(昭和51年度後期)でも二上達也を破って優勝しました。
④第8回(昭和51年度前期)の優勝は桐山清澄、準優勝は関根茂。桐山は、第17回(昭和58年)にも森安秀光を破って優勝しました。
⑤第10回(昭和52年度前期)は、加藤一二三が真部一男を破って優勝しました。加藤は、第15回(昭和56年)でも高島弘光を破って優勝しています。
⑥第12回(昭和53年)には、有吉道夫が大山康晴を破って優勝しました。有吉は、第21回(昭和62年)にも森下卓を破って優勝しています。
⑦第16回(昭和57年)には、真部一男が米長邦雄を破って優勝しました。
⑧第18回(昭和59年)は、優勝したのは森安秀光、準優勝は高橋道雄でした。
⑨第19回(昭和60年)の優勝は中原誠、準優勝は加藤一二三でした。
⑩第20回(昭和61年)は、田中寅彦が中原誠を破って優勝しました。
⑪第22回(昭和63年)の優勝は森雞二、準優勝は南芳一でした。
⑫昭和50年(第5回)から昭和63年の第22回まで、準優勝どまりで、一度も優勝していない棋士は、以下の8名です。
1)高島弘光: 第5回と第15回の2回、準優勝でした。優勝棋戦での優勝はなく、タイトル戦にも登場はしていません。1996年、55歳で亡くなりました。
2)関根茂: 大山より6歳年下、棋聖位に一回だけ挑戦し、高松宮賞を一回だけ受賞した以外にはめぼしい戦績は残っていません。2002年に九段で引退し、今年87歳で亡くなりました。
3)大内延介、二上達也、高橋道雄、森下卓、南芳一: この4人はタイトル戦にも登場しています。
2.7 早指し新鋭戦
早指し選手権戦の予選的位置づけで、1982年(昭和57年)早指し新鋭戦がスタートしました。
30歳以下の棋士の成績優秀者15名と女流棋士1名でトーナメント「早指し新鋭戦」を行います。
早指し選手権戦は前回ベスト4・新鋭戦決勝進出者2名・タイトル保持者・過去10年の早指し選手権戦優勝者・過去1年のタイトル戦登場者および棋戦優勝者・竜王ランキング戦1組在籍者・順位戦上位者16名・永世称号呼称者・1年間の成績優秀者という基準で選抜された計36名でトーナメントを行う、という事になりました。
1982年(昭和57年)から1988年(昭和63年までの「早指し新鋭戦」の優勝者と準優勝者を左下の表19に示します。
表19 昭和57年~63年 早指し新鋭戦 優勝者と準優勝者 |
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①第1回の優勝は田中寅彦六段、準優勝は小林健二六段でした。
②第2回は、塚田泰明五段が優勝し、高橋道雄五段が準優勝でした。塚田は第6回にも優勝していますが、この時は七段に昇段していました。なお、第6回の準優勝は森下卓五段でした。
③第3回の優勝は脇謙二五段、準優勝は神谷広志五段でした。脇は翌年も優勝しましたが、この時は六段に昇段していました。この時の準優勝は、1988年(昭和63年)の第一回竜王戦でタイトルを獲得した島朗五段です。
④第5回の優勝は小野修一五段、準優勝は森下卓四段でした。
⑤第6回は、森内俊之四段が羽生善治五段を破って優勝しました。同じ年に行われた新人王戦では、羽生が森内を破って優勝していますから、二人はこの年、若手の登竜門と言われた棋戦で二回戦い、一勝一敗の引き分けだったわけです。後年この二人は名人位を巡って争い、森内が先に永世名人の資格を獲得しますが、若手の頃からこうして切磋琢磨する運命だったわけです。
⑥表19に出てくる優勝者、準優勝者の中で、今回初めて登場するのは下記2名です。
1)小林健二: 次にのべる第一回目の若獅子戦と、1994年の早指し選手権戦で優勝しています。ただし、タイトル戦への出場はなく、この2回の優勝がすべてです。
2)神谷広志: 優勝棋戦での準優勝2回以外、めぼしい戦績はありませんが、「28連勝」という連勝記録の保持者です。今年、藤井四段に破られるまでトップの連勝記録でした。
2.8 若獅子戦
若獅子戦(わかじしせん)は、1977年(昭和52年) から 1991年(平成3年)までに近代将棋社主催で行われた、将棋の若手プロの公式棋戦です。12人の優勝者のうち8人は、その後タイトルホルダーやA級棋士になっており、若手の登竜門と言える棋戦でした。当時四段以上の棋士の中から、年齢の若い順に13人を選抜して行われ、将棋会館の特別対局室を使い、タイトル戦に近い形で行われたので若手棋士は緊張しきっていたという。第一回の開幕カードでは、二週間後に早指し選手権戦で大山康晴棋聖(当時)に挑戦を控えた伊藤果が和服で登場、益々タイトル戦風だっそうです。
表20 昭和52年~63年 若獅子戦 優勝者と準優勝者 |
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①第一回目は、小林健二四段が宮田利男四段を破って優勝しました。小林は、1994年の早指し選手権戦でも優勝しました。
②第2回(昭和53年)は、谷川浩司四段が前田祐司五段を破って優勝しました。谷川は、昭和51年に四段に昇段して史上二人目の中学生プロ棋士となり、世間の注目を浴びました。
③第3回の優勝は福崎文吾五段、準優勝は田中寅彦四段でした。福崎は1986年(昭和61年)第25期十段戦と、1991年(平成3年)第39期王座戦で勝利しタイトルを取りました。ただし、優勝棋戦での優勝はこの時だけです。
④第4回は、大島英二四段が児玉孝一四段を破って優勝しました。大島はこの優勝が唯一の記録です。2015年に七段で引退しています。
⑤第5回と第6回は、南芳一が連覇しました。第5回の準優勝は中村修、第6回は島朗が準優勝でした。
⑥第7回(昭和58年)の優勝は脇謙二六段、準優勝は神谷広志五段でしたが、この組み合わせは翌年の第3回早指し新鋭戦の結果と同じです。
⑦第8回は、堀口弘治四段が優勝し、有森浩三四段が準優勝でした。堀口はこの優勝が唯一の記録です。2017年に七段で引退しています。
⑧第9回の優勝は井上慶太四段、準優勝は島朗六段でした。井上は、前年の新人王戦でも優勝しましたが、現在までのところ、表立った活躍はここまでです。
⑨第10回の優勝は羽生善治、準優勝は井上慶太でした。羽生は、第12回でも、村山聖五段を破って優勝しました。
⑩第11回は、中川大輔四段が。佐藤康光四段を破って優勝しました。
⑪準優勝者の中で、今回初めて登場したのは下記4名です。
1)児玉孝一: とくにめぼしい戦績を残さないまま、2011年に七段で引退しました。
2)有森浩三: 現在まで、とくにめぼしい戦績を残していません。
3)佐藤康光: 伝説の島研のメンバーで、名人位獲得を含め。タイトル戦で大活躍しています。
4)村山聖: 若獅子戦と早指し選手権戦で優勝していますし、王将戦でも一度挑戦者となりました。将来を嘱望されていましたが、難病のため29歳の若さで亡くなりました。その生涯は「聖の青春」という本で紹介され、映画にもなり、大きな反響を呼びました。難病と闘いながら、名人を目指して頑張ったのですが、やはり、病には勝てなかったのです。
2.9 名将戦
1973年(昭和48年)に週刊文春主催で始まった名将戦は、翌年は行われず、1975年(昭和50年)から1987年(昭和62年)まで毎年一回のペースで実施されました。名将戦の第一回からの優勝者と準優勝者を左の表21に示します。
表21 昭和48年~62年 名将戦 優勝者と準優勝者 |
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①一回目は、前回(HP-186)紹介したように、中原が大山を破って優勝しました。
②1975年(昭和50年)第2回も同じく中原と大山の対決となりましたが、再び中原の勝利となりました。中原が、名将戦で勝利したのは、この最初の2回だけです。
③1976年(昭和51年)第3回、大山が3回連続して決勝戦に進出しましたが、今回も有吉道夫との師弟対決に敗れて優勝できませんでした。
④第4回の優勝は内藤國雄、準優勝は米長邦雄でした。内藤は、第10回と11回にも連続して優勝しました。準優勝は、第10回が中原誠、第11回が加藤一二三でした。
⑤第5回は、森安秀光が石田和雄を破って優勝しました。
⑥第6回は、大山康晴と有吉道夫の、名将戦で二度目の師弟対決となりましたが、今回は大山が勝って第3回の雪辱を果たし、大山が優勝しました。
⑦第7回の優勝は米長邦雄、準優勝は大内延介。米長は、第8回、12回、13回にも優勝しており、名将戦では最多となる4回の優勝を達成しました。なお、準優勝は、第8回と12回は谷川浩司、13回は桐山清澄でした。
⑧第9回は加藤一二三が米長邦雄を破って優勝し、米長の3連覇を阻止しました。
⑨最後となった第14回(昭和62年)は、桐山清澄が米長邦雄を破って優勝し、前回のリベンジを果たしました。
⑩14回行われた名将戦で、最多優勝は米長邦雄が4回、次いで、内藤國雄が3回、中原誠が2回と続いています。複数回優勝したのはこの3人だけです。
2.10 JT将棋日本シリーズ
1980年(昭和55年)に創設された将棋大会であり公式棋戦です。日本将棋連盟と開催地新聞社(*)が共催、JTが特別協賛して毎年6月から11月にかけて、全11局が全国各地の都市において公開対局で1局ずつ行われます。双方の持ち時間が少ない早指しの棋戦です。持ち時間は10分です。(切れたら1分単位で合計5回の考慮時間が与えられ、考慮時間を使い切ったら1手30秒未満)。この他観客向けに「次の一手」クイズを行うため、対局途中で解説者の要請により封じ手を行い休憩(10分間)が挟まれます。なお、各々の大会ではこども大会も実施されます。
(*)開催地新聞社は右の通りです: 河北新報社、熊本日日新聞、西日本新聞社、静岡新聞・静岡放送、北海道新聞社、新潟日報、四国新聞、山陽新聞、中日新聞社、北國新聞、中国新聞社
1980年(昭和55年)の第一回から1988年(昭和63年)までの優勝者と準優勝者を右の表22にまとめて示します。
表22 昭和55年~63年 JT将棋日本シリーズ 優勝者と準優勝者 |
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①第一回目は、その時のタイトル保持者4人(中原誠名人・王位・棋王、加藤一二三十段、大山康晴王将、米長邦雄棋聖)
によるトーナメントで行われ、米長が加藤一二三を破って優勝しました。米長は第5回と第7回にも優勝しています。なお、この時の準優勝は2回とも谷川浩司でした。
②第2回からは、参加棋士が8名に増えました。決勝戦は中原と大山の戦いとなりましたが、中原が勝ちました。
③第3回の決勝は前回と同じく中原と大山の対決でしたが、今度は大山が勝って前回のリベンジを果たしました。
④第4回からは、参加棋士が以下の手順で選ばれる12名に増えました(12名のうち出場順位上位4名が2回戦シード)。ただし、一回戦4局は地方ではなく、将棋会館で行われました。
1)前回優勝者
2)タイトル保持者
3)獲得賞金ランキング上位者
12人のトーナメントの結果、第一回に引き続いて米長邦雄と加藤一二三の決勝戦となりましたが、今回は加藤が勝って前回の雪辱を果たしました。なお、加藤は、第8回で大山康晴を破って2度目の優勝を遂げました。
⑤第6回の優勝は森安秀光で、準優勝は谷川浩司。なお、谷川浩司は第5回から7回まで、3年連続で決勝戦で敗れてしまいました。
⑥第8回からは、一回戦の4局も公開対局となりました。
⑦第9回は、高橋道雄が加藤一二三を破って優勝しました。
⑧9回行われたうち、複数回優勝したのは、米長邦雄(3回)と加藤一二三(2回)の二人です。
2.11 全日本プロ将棋トーナメント
朝日新聞社は、1977年(昭和52年)に名人戦を失って以来、日本将棋連盟と冷戦状態になりました。そのような冷戦が解決するには年月が必要で、6年経ってようやく、朝日新聞社の主催で、すべての棋士が参加する公式棋戦が開催されるようになりました。それが、1982年(昭和57年)から始まった「全日本プロ将棋トーナメント」です。この棋戦の特色は以下の3点です。
1)名人から四段まで横一線に並んでスタートするトーナメントで、ゴルフのマッチプレイに似て「ゴルフ方式」と呼ばれました。第一回目は108人が参加し、20人はシードされて二回戦から出ました。
2)賞金制。対局料を含む賞金がタイトルや段位に関係なく、一定額が決められ、勝ち上がれば、どんどんと増えていきました。これは上位棋士には不評でしたが、若手には好評だったそうです。
3)持ち時間。一回戦から決勝3番勝負まで同じ3時間と決められました。
1982年(昭和57年)の第一回から1988年(昭和63年)までの優勝者と準優勝者を左の表23にまとめて示します。
表23 昭和57年~63年 全日本プロ将棋トーナメント 優勝者と準優勝者 |
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①昭和57年6月からスタートした第一回は、大山、中原等の有力棋士が初戦で次々に敗れる大波乱となりました。最終的に決勝戦に勝ち進んだのは桐山清澄八段と青野照市七段、桐山が2勝1敗で青野を破って優勝しました。
②昭和58年6月、谷川浩司八段が加藤一二三名人を破って、史上最年少の21歳で名人に就位しましたが、第2回プロ将棋トーナメントでも、谷川はその勢いを持ち込んで決勝戦に勝ち進みました。相手は、田中寅彦で、「あの程度で名人か」という過激発言で谷川を怒らせた、という因縁の対戦でした。結果は、2勝1敗で谷川が優勝し、名人位獲得以来初めての棋戦での優勝を飾りました。
③第3回も谷川は決勝戦に進み、森雞二を2勝ゼロ敗で破って連覇しました。
④第4回でも、谷川が加藤一二三を2連勝で破って3連覇を達成し、「全日本プロは谷川のためにある」、と言われました。谷川は、この3年間では第3回の決勝戦初戦で田中に敗れた以外、勝ち続け、通算21勝1敗という圧倒的強さを発揮しました。
⑤第5回では、谷川は三戦目で敗れて決勝戦進出はできませんでした。決勝戦は、45歳の大内延介九段と、24歳の中村修王将の対戦となり、大内が2戦全勝で中村を破って優勝しました。
⑥第6回、再び谷川が勝ち進み、準決勝で中原を破って決勝戦に臨みました。対戦相手は、初参加の櫛田陽一四段でした。櫛田は、アマ強豪から奨励会入りした晩学組で、年齢は谷川より2歳若い23歳、大内、大山、高橋十段といった強豪を破っての決勝戦進出でした。谷川は2戦連勝で櫛田を破り、4度目の優勝を遂げました。
⑦1983年(昭和63年)の第7回は、再び名人に返り咲いた谷川浩司が決勝戦に勝ち進みました。対戦相手は準決勝で島朗竜王を破った森内俊之四段。結果は2勝1敗で、新鋭の森内俊之四段が名人に勝ち、大きな衝撃を与えました。なお、既に説明したように、この年には同じ18歳の羽生五段がNHK杯で、大山・加藤・谷川・中原の名人経験者を次々に破って優勝しており、十代世代が一気に花開こうとしていた時代でもありました。
2.12 優勝棋戦の結果に基づく棋士のランキング
第2項でまとめた11個の棋戦で優勝した棋士をベースにしたランキングを下の表24にまとめて示します。棋戦によっては、全棋士に門戸が開かれているわけではないのもありますから、このランキングは、表12のタイトル戦に基づくランキングとは違ったものではありますが、一応の評価基準にはなると思われます。
表24 優勝棋戦に基づくランキング
連番 | ランク | 名前 | 合計 | NHK 杯 |
王座 戦 |
名棋 戦 |
将棋 連盟杯 ⇒ 天王戦 |
早指し 選手権 |
名将 戦 |
JT将棋 日本 シリーズ |
全日本 プロ将棋 トーナ メント |
新人 王 |
早指し 新鋭戦 |
若獅子 戦 |
生年月日 |
1 | 1 | 米長邦雄 | 13 | 1 | 1 | 4 | 4 | 3 | 1943.06.10 | ||||||
2 | 2 | 大山康晴 | 11 | 2 | 2 | 3 | 2 | 1 | 1 | 1923.03.13 | |||||
3 | 3 | 中原 誠 | 10 | 3 | 4 | 1 | 1 | 1 | 1947.09.02 | ||||||
4 | 4 | 加藤一二三 | 8 | 2 | 1 | 2 | 1 | 2 | 1940.01.01 | ||||||
5 | 5 | 谷川浩司 | 7 | 1 | 1 | 4 | 1 | 1962.04.06 | |||||||
6 | 6 | 森安秀光 | 6 | 1 | 1 | 1 | 1 | 2 | 1949.08.18 | ||||||
7 | 7 | 羽生善治 | 6 | 1 | 2 | 1 | 2 | 1970.09.27 | |||||||
8 | 8 | 桐山清澄 | 5 | 1 | 2 | 1 | 1 | 1947.10.07 | |||||||
9 | 9 | 田中寅彦 | 5 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1957.04.29 | ||||||
10 | 10 | 有吉道夫 | 4 | 1 | 2 | 1 | 1935.07.27 | ||||||||
11 | 10 | 内藤國雄 | 4 | 1 | 3 | 1939.11.15 | |||||||||
12 | 12 | 大内延介 | 3 | 1 | 1 | 1 | 1941.10.02 | ||||||||
13 | 13 | 森内俊之 | 3 | 1 | 1 | 1 | 1970.10.10 | ||||||||
14 | 14 | 塚田泰明 | 3 | 1 | 2 | 1964.11.16 | |||||||||
15 | 14 | 小野修一 | 3 | 2 | 1 | 1958.02.12 | |||||||||
16 | 14 | 脇 謙二 | 3 | 2 | 1 | 1969.10.01 | |||||||||
17 | 17 | 高橋道雄 | 2 | 1 | 1 | 1960.04.23 | |||||||||
18 | 18 | 青野照市 | 2 | 1 | 1 | 1953.01.31 | |||||||||
19 | 18 | 石田和雄 | 2 | 1 | 1 | 1947.03.29 | |||||||||
20 | 20 | 井上慶太 | 2 | 1 | 1 | 1964.01.17 | |||||||||
21 | 20 | 南 芳一 | 2 | 2 | 1963.06.08 | ||||||||||
22 | 22 | 板谷 進 | 1 | 1 | 1940.12.10 | ||||||||||
23 | 22 | 勝浦 修 | 1 | 1 | 1948.05.08 | ||||||||||
24 | 22 | 北村昌男 | 1 | 1 | 1963.02.19 | ||||||||||
25 | 22 | 佐藤大五郎 | 1 | 1 | 1936.10.19 | ||||||||||
26 | 22 | 森 雞二 | 1 | 1 | 1946.04.06 | ||||||||||
27 | 22 | 二上達也 | 1 | 1 | 1932.01.02 | ||||||||||
28 | 22 | 松田茂行 | 1 | 1 | 1921.06.28 | ||||||||||
29 | 22 | 真部一男 | 1 | 1 | 1952.02.16 | ||||||||||
30 | 22 | 若松政和 | 1 | 1 | 1939.08.10 | ||||||||||
31 | 22 | 前田祐司 | 1 | 1 | 1954.03.02 | ||||||||||
32 | 32 | 大島英二 | 1 | 1 | 1957.06.06 | ||||||||||
33 | 32 | 小阪 昇 | 1 | 1 | 1950.02.18 | ||||||||||
34 | 32 | 小林健二 | 1 | 1 | 1957.03.31 | ||||||||||
35 | 32 | 森 信雄 | 1 | 1 | 1952.02.10 | ||||||||||
36 | 32 | 福崎文吾 | 1 | 1 | 1959.12.06 | ||||||||||
37 | 32 | 中川大輔 | 1 | 1 | 1968.07.13 | ||||||||||
38 | 32 | 中村 修 | 1 | 1 | 1962.11.07 | ||||||||||
39 | 32 | 堀口弘治 | 1 | 1 | 1961.05.16 | ||||||||||
合 計 | 122 | 14 | 8 | 6 | 14 | 18 | 13 | 9 | 7 | 14 | 7 | 12 |
①優勝棋戦で1回以上優勝した棋士は、昭和50年から63年までに39名となりました。しかし、複数回優勝した棋士は、全体の3分の2弱の21名でした。なお、11個ある優勝棋戦での、優勝回数は合計で122回となっています。
②ここでの、トップは米長邦雄で13回、2位は大山で11回、3位は中原で10回です。優勝回数が二けたを超えたのはこの3人だけです。タイトル戦に基づくランキング(表12参照)でも、順位は違いますが、この3人がトップ3を占めており、昭和50年かわ昭和の終わる63年までの時代は、この3人が将棋界をリードしていたのです。
③ランク4位は加藤一二三で優勝回数8回、5位は谷川浩司で優勝7回となっています。この順位は、タイトル戦に基づくランキングと同じであり、この時代のトップ5は、彼ら5人である、と断言できると思います。
④ランク6位は優勝回数6回の森安秀光、タイトル戦に基づくランキング(表12参照)では12位でした。
⑤ランク7位は、羽生善治で6回優勝しています。優勝回数は森安と同じですが、若手のみが参加する棋戦(新人王戦、早指し新鋭戦、若獅子戦)での優勝回数が3回と森安より一回多いので、ランクを下にしました。羽生は、1985年、史上3人目の中学生プロ棋士となり、翌年(1986年)から順位戦等の棋戦に参加しましたが、1988年までの3年間で、若手のみが参加する棋戦(新人王戦と若獅子戦)で3回、全棋士が参加する棋戦(NHK杯と天王戦)で3回、それぞれ優勝し、平成に入ってからの大活躍を予測させる華々しいデビューとなりました。そうはいっても、まだまだタイトル戦には登場できませんでした。
⑥ランク8位は桐山清澄、9位は田中寅彦です。優勝回数は5回で同じですが、若手のみが参加する棋戦(新人王戦、早指し新鋭戦、若獅子戦)での優勝回数が桐山の方が少ないので、ランクを上にしました。なお、タイトル戦に基づくランキング(表12参照)では桐山は4回タイトルを獲得で7位、田中はタイトル獲得1回のみで17位でした。
⑦ランク10位は優勝回数4回の有吉道夫と内藤國雄が同数で並びました。なお、タイトル戦に基づくランキング(表12参照)では、有吉は3回タイトル戦に挑戦しましたが、いずれも敗れて第19位、内藤はタイトル獲得1回、タイトル戦敗退3回で13位でした。
⑧優勝回数3回には下記の5人が同数で並びますが、若手のみが参加する棋戦(新人王戦と若獅子戦)での優勝回数の多寡を加味して以下のように順位付けしました。
1)ランク12位は大内延介。3回の優勝はすべて全棋士参加の棋戦なので、5人の中ではトップにランクしました。大内は、タイトルを一回獲得しており、タイトル戦に基づくランキング(表12参照)では14位です。
2)ランク13位は森内俊之。3回のうち2回が若手のみの棋戦での優勝です。森内は、タイトル戦での挑戦はまだありません。
3)ランク14位は、塚田泰明、小野修一、脇謙二の3人が並びました。3回すべてが若手のみの棋戦での優勝です。なお、塚田泰明はタイトルを1回獲得しましたが、小野と脇はタイトル戦での挑戦はありません。
⑨優勝回数2回には下記の5人が同数で並びますが、若手のみが参加する棋戦(新人王戦と若獅子戦)での優勝回数の多寡を加味して以下のように順位付けしました。
1)ランク17位は高橋道雄。2回の優勝はすべて全棋士参加の棋戦なので、5人の中ではトップにランクしました。高橋は、タイトルを5回獲得しており、タイトル戦に基づくランキング(表12参照)では6位です。
2)ランク18位は青野照市と石田和雄が並びました。2回のうち1回が若手のみの棋戦での優勝です。二人とも、タイトル戦での挑戦はまだありません。
3)ランク20位は井上慶太と南芳一の2人が並びました。2回すべてが若手のみの棋戦での優勝です。なお、南はタイトルを2回獲得しており、タイトル戦に基づくランキング(表12参照)では11位でした。井上ははタイトル戦での挑戦はありません。
⑩残りの18人は優勝回数1回のみですが、若手のみが参加する棋戦(新人王戦と若獅子戦)での優勝か否かで、以下のように順位付けしました。
1)ランク22位は右記の10人。1回の優勝は全棋士参加の棋戦なので、18人の中では上位にランクしました: 板谷進、勝浦修、北村昌男、佐藤大五郎、森雞二、二上達也、松田茂行、真部一男、若松政和、前田祐司。
1-1)上記10人のうち、二上達也と森雞二は、タイトルを獲得しているし、タイトルにも挑戦しています(詳しくは、表12を参照ください)。
1-2)また、勝浦修は、タイトルは獲得出来ませんでしたが、タイトルには2回挑戦しています(詳しくは、表12を参照ください)。
2)ランク32位は右記の8人。1回の優勝は若手のみの棋戦なので、18人の中では下位にランクしました: 大島英二、小坂昇、小林健二、森信雄、福崎文吾、中川大輔、中村修、堀口弘治。この8人のうち、福崎文吾と中村修は、タイトルを獲得しているし、タイトルにも挑戦しています(詳しくは、表12を参照ください)。
3.順位戦の状況
棋士の実力を客観的に表示する方法の一つに「段位」があります。そして、その段位を決める重要な棋戦が「順位戦」です。昭和50年から63年までの順位戦の動向と主要なエピソードをここにまとめます。
1976年(昭和51年)、名人戦・順位戦の主催が朝日新聞から毎日新聞社に戻りましたが、それに伴い、順位戦」の名称がなくなり、A級を「名人戦挑戦者決定リーグ」、B級1組以下を「昇降級リーグ(1組 – 4組)」と改称されました。しかし、1985年(昭和60年)には 「順位戦」の名称が復活し、A級からC級2組の5クラスの名称に戻りました。したがって、ここでは、便宜上、すべてに「順位戦」という名称を使います。また、順位戦の期数も名人戦に合わせられ、1976年(昭和50年度)の順位戦は第30期でしたが、再開後の順位戦は第36期となりました(従って、第31期 – 35期の順位戦は存在しません)。この時、挑戦者決定リーグ(順位戦)の開始が遅れ、11月となったため、翌1977年の名人戦は実施されませんでした。
3.1 順位戦参加人数の推移
昭和50年から63年までの順位戦(「挑戦者決定リーグ」と「昇降級リーグ(1組 – 4組)」)の参加人数の推移を下の表25にまとめて示します。順位戦に参加できることがプロ棋士の証明ですから、この表に記載されている合計人数は、その年のプロ棋士の総数を示しているといえます。(ただし、「予備クラス」(フリークラス)にいる棋士もプロですので、全体のプロ棋士数はこれより増えます)。なお、休場欄には、A級に在籍して、順位戦を病気休場した棋士だけを記載しました。(A級以外でも休場者はいますが、掲載はしませんでした)。
表25 昭和50年~63年 順位戦参加人数の推移 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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①順位戦における、A級10人、B級1組13人という定員は病気休場等の例外を除けば厳守されましたが、B級2組以下は、降級点によって降級するという制度の結果、B級2組以下の人数が次第に増え、棋士総数も増えてきました。左の表からもわかりますように、棋士の総数は、1975年(昭和50年)には80名でしたが、1988年(昭和63年)には124名となって、44名増加しました。
注:合計参加人数には、名人(1名)を加えてあります。
②棋士の総数は増えましたが、将棋界は棋戦の増加等もあって、財政的には対応できるようになってきたのです。とくに、C2が増えていますが、C2から降級するとプロでなくなる、つまり、失業しますので、財政面の充実とともに、降級しにくい制度になってきました。
③休場欄に記載されている棋士は、降級対象にはなりません。
④病気休場者をみると、升田が2回、大山が1回休場しています。やはり、高齢になるにつれて体力的に対応することが困難になってきた、という事が推測されます。なお、升田は、1979年に2年連続して休場した後、実践に戻ることなく、そのまま引退しました。
3.2 A級棋士の変遷
79名~123名のプロ棋士の中で、トップクラスと言える棋士は、A級に籍を置いている棋士です。そのA級棋士が、昭和50年~63年までにどのように変遷していったかを、下の表26にまとめて示します。
3.3 A級棋士のランキング
昭和50年から63年までの名人在位回数、A級在籍回数、名人位に挑戦して敗退した回数を、棋士別に集計してランク付けしたものを右下の表27にまとめて示します。
注: 「名人在位」は、表25には表れませんが、表26では、「A級在籍」とみなして、A級在籍年数に加えました。
表27 昭和50年代 A級棋士ランキング表 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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①昭和50年から63年までに、A級に在籍した棋士はのべで26名でした。その26名の中でダントツのトップは中原誠です。名人在位9期は2位の谷川浩司の3回の3倍です。。
②ランク2位は、平成に入ってから中原に代わって将棋界のトップとなった谷川です。1982年(第41期)にA級に昇級し、その期にA級トップとなって加藤一二三名人に挑戦し、史上最年少の21歳で名人位を奪取しました。二人目の中学生プロ棋士が、最初の中学生プロ棋士を破ってついに名人を獲得したのです。その後、名人在位3期、中原と熾烈な名人争奪戦を演じています。
③ランク3位は、「神武以来の天才」と謳われた加藤一二三です。13年間、常にA級に在籍しましたが、なぜか、名人からは遠く、なかなか名人挑戦者になれませんでした。第40期で三度目のの名人挑戦者となり、中原名人を破って名人に就きました。
④ランク4位は、中原の強力なライバルと目されていた米長邦雄。優勝棋戦では中原の10回を上回る13回の優勝回数であり、タイトル獲得数でも、中原の39回に次ぐ16回の多さなのですが、名人位だけは4回挑戦していずれも敗れてしまいました。
⑤ランク5位は大山康晴。A級の常連として、タイトル戦でも、優勝棋戦でも、大活躍ですが、名人位には一度だけ挑戦して敗れています。
⑥ランク6位は桐山清澄。A級には1976年(第30期)に昇級して以来、12期連続して在籍しており、一度だけですが、名人に挑戦しています。
⑦桐山に続くのはA級在籍9年の下記二人です。
1)ランク7位は森雞二。タイトル奪取はなりませんでしたが、一回だけ中原名人に挑戦しましたので、二上達也より上位にランクしました。
2)ランク8位は二上達也。名人に挑戦できなっかたので、森雞二より下位に判定しました
⑧ランク9位は、勝浦修と内藤国雄。ともに、7期A級に在籍しましたが、名人には挑戦していません。
⑨この二人に続くのは、A級在籍6年の下記3人です。
1)ランク11位は森安秀光。タイトル奪取はなりませんでしたが、一回だけ谷川名人に挑戦しましたので、他の二人より上位にランクしました。
2)ランク12位は、有吉道夫と板谷進。ともに、名人には挑戦していません。
⑩ランク14位は、大内延介。5期A級に在籍し、中原名人に一回だけ挑戦しました。
⑪ランク15位以下は、一度も名人に挑戦できませんでしたので、A級在籍年数に応じてランク付けしました。
1)ランク15位は、4期A級に在籍した青野照市と升田幸三です。
2)ランク17位は、A級在籍3期の石田和雄。
3)ランク18位は、A級在籍2期の南芳一。
4)ランク19位は、A級在籍が1期のみの8人です。
⑫1年でも、A級に留まるのは大変な事なので、表27に記載された26名の棋士は、昭和50年から63年までの14年間を代表する一流棋士である、と言えるでしょう。
4.昭和40年代の主要な出来事
昭和40年代に起きた、棋戦以外の主要な出来事についてここでまとめます。
4.1 升田幸三の引退
1979年(昭和54年)5月1日、戦後の将棋界を大山の良きライバルとして支え続けた升田幸三が引退を表明し、将棋会館で引退会見を開きました。陣屋事件を初め、数々のエピソードで世間を沸かせた名棋士も年齢と健康には勝てず、ついに引退したわけです。引退から9年後、1988年4月 実力制第4代名人という称号が与えられました。
升田幸三の戦績等は以下の通りです。
(1)通算成績
①生涯成績:544勝376敗(勝率:0.591)
②順位戦(A級)での勝率0.724(139勝53敗1持将棋)は2017年3月現在において歴代A級棋士の中の最高勝率です。
③歴代1位の記録:
·史上初の全冠制覇 三冠王(1957年)
(2)タイトル戦・優勝棋戦成績
①タイトル戦登場は23回、獲得は7回です。
②獲得したタイトル:
名人2期、九段2期、王将3期。
③棋戦優勝は6回:
NHK杯3回、九・八・七段戦1回、その他棋戦で2回。
(3)栄典
1973年11月3日、紫綬褒章をいただきました。
(4)大山康晴との比較
升田は、宿命のライバル大山とは、生涯にわたって167局戦い、升田の70勝、大山の96勝、1持将棋、という結果でした。升田は、史上初の全冠制覇の三冠王となりましたが、通算では大山に大きく離されました。両者の戦績比較については、概要を右の表28にまとめます。
表28 大山康晴と升田幸三の戦績比較 | ||||||||||||||||||
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注: 大山の成績は、1992年7月26日に現役のまま死去するまでの成績です。
①生涯戦績でみると、升田は 544勝376敗、勝率0.591 ですが、一方、大山は 1433勝781敗、勝率勝率 0.647 です。大山は升田の3倍近く勝っており、勝率でも大きく上回っています。この大山の生涯勝利数 1433勝は歴代トップです。ただし、A級順位戦だけに限ってみますと、升田は、139勝53敗1持将棋、勝率0.724で、これは2017年3月現在において歴代A級棋士の中の最高勝率です。
②タイトル戦に限ってみると、升田の登場回数は23回、タイトル獲得は合計で7期ですが、一方、大山の登場回数は112回、タイトル獲得は合計で80期と、圧倒的な差がついています。大山のタイトル獲得合計80期は歴代2位の大記録です。
③タイトルの永世称号については、升田は残念ながら一つも持っていませんが、大山は、5個(名人、王将、十段、王位、棋聖)持っており、ここでも升田を圧倒しています。
④一般棋戦での優勝回数を比べると、升田の6回に対し、大山は44回であり、7倍以上の差があります。
4.2 3人目の天才少年(谷川浩司)登場
①中原誠が打倒大山を成し遂げて中原時代を築き上げた1976年(昭和51年)、14歳の谷川浩司が四段となってC級2組に昇級し、加藤一二三に続く二人目の中学生プロ棋士としてデビューしました。谷川は、加藤とは若干違い、1977年(昭和52年)4月から始まった順位戦ではC級2組からC級1組へ昇級するのに2年かかりましたが、C級1組からは、毎年、クラスを上げていき、5年後には19歳でA級に昇級して八段になりました。そして、A級に昇級したその年度に、いきなりトップとなって名人挑戦者になったのです。そして、1983年(昭和58年)第41期名人戦で、20歳の谷川は加藤名人を破り史上最年少で名人位を獲得するという快挙を成し遂げました。この若き天才の出現に世間は湧き、空前の将棋ブームが起こりました。
②ただし、谷川は、中原と決定的に違って、順位戦・名人戦以外のタイトル戦や優勝棋戦においては、名人獲得まではさほど華々しい活躍は見せませんでした。谷川が奨励会入りしてから、名人位を獲得するまでの道のりを左の表29にに簡単にまとめます。
表29 谷川浩司の歩み | ||||||||||||||||||||
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1)谷川が将棋を覚えたのは5歳の頃、5歳年上の兄さんとの兄弟けんかをやめさせようと、父親が将棋盤と駒を買ってきて与えたのがきっかけです。
2)負けず嫌いの谷川は、すぐに将棋にのめりこみ、めきめきと頭角を現わしました。小学3年生で内藤國雄九段の指導を受け、「名人候補だ」というお墨付きを受けました。 3)谷川は、小学校4年生でプロになるという決断を降し、小学校5年生(11歳)で奨励会に入会しました。谷川の神戸の自宅から、関西将棋会館までは電車で片道約2時間かかるので、まだ小学生の谷川には母親が付き添いました。母親は、朝、谷川を送った後、いったん自宅に帰り、夕方、また迎えに来たそうです。母親の愛情が天才を育てたという事でしょうか。
4)小学生で天才の呼び声高かった谷川少年は、すでに有名人で、一門でも大事にされ、師匠の若松政和七段は、谷川がまだ級位だった時代、同門の小坂昇七段を家庭教師役にしたそうです。小坂は毎週1回谷川の自宅に行き、マツーマンでじっくり指導したとのこと。
5)こうした周囲の暖かい愛情に育まれて、谷川の棋力はめきめきと上達し、中学2年の12月、8連勝で四段に昇段しました(この当時は、三段リーグはなく、三段で8連勝すると四段に昇段できましたた)。そして、1977年(昭和52年)4月から始まった順位戦にC級2組でデビューしました。順位は33人中32位でした。初年度の成績は8勝2敗でしたが、順位が32位と低かったため、上位3人に入れず、昇級はできませんでした。
6)1978年(昭和53年)4月から始まった順位戦では、最終戦に勝って8勝2敗となり、昇級する事ができました。
7)C級1組に昇級してからは、天才ぶりを発揮して、3年連続のストレート昇級(C級1組では9勝1敗、B級2組では10戦全勝、B級1組では10勝2敗)で、A級に昇級しました。
8)1982年(昭和57年)4月から始まった第41期順位戦では、7勝2敗となって、中原誠十段とのプレーオフになりましたが、そこで中原を破って挑戦者となり、1983年(昭和58年)第41期の名人戦で加藤名人を破って、若干21歳で史上最年少の名人となったわけです。
9)谷川の名人襲位以降の戦績については、別途、まとめる事といたします。
4.3 若い力台頭の兆し
谷川名人の誕生によって、中原時代が終わり、谷川時代が始まる、と思われたのですが、その谷川を追う若い力が台頭の兆しを見せ始めました。その若い力とは、2.4項「日本将棋連盟杯争奪戦⇒天王戦」で解説した羽生善治です。羽生は谷川が生まれた8年後の1970年(昭和45年)9月27日、埼玉県所沢市で生まれた。そして、1985年(昭和60年)に史上3人目の中学生プロ棋士となりました。その翌年(1986年)に若手棋士の登竜門「若獅子戦」で優勝しました。さらに、1987年・1988年と2年連続で全棋士が参加する天王戦で連勝して、天才の片鱗を示したのです。
中原の次は谷川、と誰もが思っていた頃に、そのすぐ後を羽生が追い、さらに羽生と同世代の若手強豪棋士(「羽生世代」と総称された若手棋士です)が続々とデビューしました。その結果、谷川の時代は思われていたよりは短かかったのですが、それについては、次回で述べさせていただきます。
5.最後に:
昭和50年代の前半は、大山時代が終わって中原時代が到来した事をはっきりと示す結果となりました。しかし、大山も、王将戦と棋聖戦でその存在感を示しました。
その中原に挑んで、名勝負を繰り広げたのが米長邦雄です。米長は、中原より4歳年上の1943年生まれ、プロになった(四段に昇段した)のは、中原より3年早かったのですが、A級に昇級したのは、中原より1年遅れました。その後、二人は、あらゆる局面で熾烈な戦いを繰り広げます。中原と米長のライバル関係は、大山と升田のライバル関係とは、似通った面もありますが、かなり趣が違います。その詳細については、次回で解説する予定です。
昭和50年代の後半から、時代のエース「谷川浩司」が頭角を現わし、ついに名人位を奪取します。米長よりも若くて強力なライバルが現れ、中原時代の終焉が告げられたのです。しかし、中原時代の終焉が、即、谷川時代の全盛期とはなりませんでした。昭和60年代の初期の頃は、まさに「群雄割拠」の時代で、谷川とほぼ同じ世代の若手が次々とタイトル獲得を成し遂げたのです。さらには、中原、大山、加藤と言った古豪も頑張り、はたして、誰が時代の頂点を極めるのか、混沌とした「戦国時代」の様相を呈していたのです。
昭和64年が始まってすぐに、平成が幕を開けました。平成の覇者は、果たして誰になったのか、それを次回は取り上げます。
結論だけ先に言えば、平成の将棋界のトップに立ったのは、羽生善治です。次回は、谷川時代から羽生時代へ、そして「羽生世代」を交えた戦いの様子をまとめたいと思います。
参考文献:
1.「将棋の歴史」、増川 宏一、平凡社新書
2.「将棋の駒はなぜ40枚か」、増川 宏一、集英社新書
3.「昭和将棋史」、大山 康晴、岩波新書
4.「将棋百年」、山本 武雄、時事通信社
5.「昭和将棋風雲録」、倉島竹二郎、講談社
6.「将棋 八大棋戦秘話」、田辺忠幸 編、河出書房新社
7.「中学生プロ棋士列伝」、洋泉社
8.「将棋年鑑 2017」、日本将棋連盟
9.「最後の握手」、河口 俊彦、マイナビ
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