将棋の歴史(3):焼跡からの再興(昭和20年代)

前々回は、江戸時代までの将棋の歴史をまとめました。そして、前回は、明治維新を経て、太平洋戦争に敗れるまでの時代、将棋の世界がどのように発展していったかを、まとめてみました。

今回は、戦争の廃墟から立ち上がって、将棋界がたくましく再興されていった時代(昭和20年代)における将棋の発展の足跡を辿ってみたい、と思います。

1.昭和20年代前半:

敗戦で何もかもがなくなりましたが、将棋は力強く復興への道を歩み始めました。敗戦から昭和24年(1949年)までの将棋界の歩みをまとめます。。

(1)ゼロからの出発:

①敗戦と同時に、娯楽に飢えていた国民は、食糧危機の中でも楽しむ事を求め、全国各地で夕涼みの縁台将棋が復活し、大人に混じって子供たちも観戦して楽しむ、という風景が、焼け野原となった街中で再び見られようになりました。こんな情勢を受けて、敗戦から3ヶ月後の11月には読売報知新聞が将棋欄を復活し、その一ヶ月後には、月刊「将棋研究」が創刊されました。

②兵士として召集された棋士や、軍需工場に徴用された棋士もまだ全員が復帰していませんでしたが、棋士の団体である「将棋大成会」も、素早く再発足して、1945年(昭和20年)11月、臨時総会が開催され、その席上、会長の木村義雄より、「今までのまでの段位制を廃止し、順位制を採用するという」爆弾動議が出されました。この動議は賛否両論の大きな議論を呼びましたが、とりあえず、委員会で詳細を検討する事となりました。この件については、次項で詳しく取り上げます。

③1946年(昭和21年)は、将棋界にとって、戦前が終わり、戦後再出発が始まった事を象徴する出来事があった年でした。

1)3月に関根金次郎が79歳で死去し、7月には坂田三吉が77歳で亡くなりました。二人は、宿命のライバルとして、戦前の将棋界を代表する存在でしたが、戦後間もなく、同じ年に相次いで亡くなるのも、何かの因縁と言えるでしょう。なお、坂田三吉には、1955年(昭和30年)、日本将棋連盟から「名人・王将」の称号が贈られました。

2)1月に対局のラジオ放送が復活し、月刊「将棋世界」も復刊されました。さらに、毎日新聞、新大阪新聞、夕刊連合も相次いで棋戦を掲載するようになり、次第に戦前の活況を取り戻すようになってきました。

④1947年(昭和22年)になると、8月には全日本アマチュア将棋選手権大会が復活しました。この大会は、いまでも続いており(「全日本アマチュア名人戦」と名称変更)、優勝者の知名度も高く、中には、プロ棋士になった人もいるくらいレベルの高い大会となっています。年末には、在京大学将棋リーグ戦も復活しました。読売新聞が新たな棋戦を始めたのもこの年でした。

⑤終戦直後、日本を統治していたGHQが、「将棋は相手から奪った駒を味方として使うことができるが、これは捕虜虐待の思想に繋がる野蛮なゲームである」として禁止しようとしました。将棋連盟の代表としてGHQと相対した升田は「将棋は人材を有効に活用する合理的なゲームである。チェスは取った駒を殺すが、これこそ捕虜の虐待ではないか。キングは危なくなるとクイーンを盾にしてまで逃げるが、これは貴殿の民主主義やレディーファーストの思想に反するではないか」と反論しました。この結果、将棋は禁止されずに済んだそうです。

(2)順位戦と新しい名人戦制度:

1945年(昭和20年)11月、木村名人が臨時総会で提案した爆弾動議をベースに、数次の委員会を重ね、現在の順位戦の原型となる順位戦決定戦が始まり、挑戦者も決まって、戦後初めての名人戦が挙行されることとなりました。

①今までの昇降段制度について木村名人は、大きな疑問を持っていました。それは、一旦昇段すると、各段の各グループは同じ実力を有する者として、手当、対局料、その他、すべて同等の待遇を受けることが出来ました。一応、降段の規定はありましたが、それに該当する事例は皆無で、どんどんと八段者が増えていったのです。当時で、すでに16名が八段でした。中には、八段に満足して努力を怠り、七段や六段に簡単に負けてしまうような八段がいたようです。こうした現状に危機感を抱いていた木村名人が、思い切って段位を廃止し、新たに順位戦で順位付けしようという提案でした。

②その後、数回の委員会を重ね、新制度の大要が固まりました。その概要を以下に記します。

1)五段以上八段までの段位を撤廃し、順位制を採用する。伝統の段位による昇降段制度を廃止し、棋士の各自の実力に応じた順位を与えるもので、大改革の骨子となっている。

2)名人を除く、第1位より第56位までの順位を制定する。第1位から第8位からまでをA級、第9位より第24位までをB級、第25位より第56位までをC級とする。

3)第56位以下は、四段より六段までとし、旧制度を適用する。つまり、従来の高段棋士に相当する第一線棋士の定員を56名とし、57位以下は、いわば補欠選手で、今でいう「奨励会」所属のようなものですが、当時は、まだ、そのような棋士養成機関はなかったので、とりあえず、旧来の段位制を使う事にしたのでしょう。

4)第二期目からは、A級の第一位を名人挑戦者とし、名人戦は今まで通り7番勝負、先に4勝した者が名人となる。敗者は、A級の第一位となって、時期のリーグ戦に参加する。(第一期目については、次項で説明します)。

5)順位戦、名人戦は一期を一年とする。従来の名人戦は、一期が二年。昇段制度は四段が1年以上3年間の成績、五・六・七段が二年以上、降段制度は3年以上でしたが、昇・降ともに大幅に短縮され、今まで、四段から名人になるのに最短が9年でしたが、新制度では、3年に短縮されました。逆に、名人から最短で4年で4段まで転落する、という事になりました。

6)持ち時間は名人戦は各8時間、順位戦を各7時間、一日指し切りとする。今までは、四段戦以外は、二日か三日の指し切り制でしたから、すべてを一日指し切りにしたのは大変更でした。とくに、名人戦は持ち時間各15時間で三日指し切りでしたから、木村名人にとってはつらい変更でしたが、当時の食糧事情や住宅事情、交通事情を考えるとやむを得ない変更でもありました。対局場所、食糧、宿泊場所をいかに確保するかがも大変だったのです。

7)すべての対局は、特別の例外を除いて平手戦とする。これにより、「平香交」「香香角」といった手合割が公式戦からなくなりました。

③第一回目の順位戦は、「新順位決定戦」といった意味合いが強く、今までの段位をベースに、以下の要領で実施する事となりました。

1)八段(16名)をA級、七・六段(18名)をB級、五・四段(34名)をC級と、「仮のクラス」を設け、それぞれでリーグ戦を行う。

2)勝局120点、敗局20点として、各級ごとに各人の平均点を算出する。

3)この平均点に、A級の場合は35点加算、B級はそのまま、C級は35点減算、して各棋士の持ち点を算出する。そして、この持ち点ごとに1位から56位までの順位を確定し、A・B・C級に分ける。(57位以下は「級外」としました)。

(3)第一期順位戦と第六期名人戦(塚田名人の誕生):

新制度も固まり準備はできましたが、問題点は、この棋戦の棋譜を掲載してくれる新聞社と、棋戦に必要な経済的裏付けをどうするのか、という事でした。しかし、「案ずるより産むがやすし」というか、この問題も間もなく解決しました。

実力名人制度が始まって以来、名人戦の独占掲載契約を結んでいた毎日新聞社との間に、名人戦を含む順位戦の契約が進み、棋譜掲載の新聞社が決まりました。そして、その将棋欄に広告を出すという事で、日本巴布(はっぷ)社がスポンサーとなり、「毎日新聞社」と「日本巴布社」が提携して実現する運びとなりました。

①1946年(昭和21年)5月から、以下のメンバーによって、第一期順位戦が開かれる事となりました。
1)A級: 14名(木見八段が老齢のため、そして、建部八段が満州から未帰還のため不参加)。
2)B級: 15名(升田幸三は七段で、大山康晴は六段でこのクラスでした)。
3)C級: 29名。

②対局場所の確保、東京と大阪の往来、といった問題点も何とか克服して、1947年(昭和22年)2月、第一期順位戦は無事終了しました。その結果、A級では、塚田正夫、大野源一、萩原淳の3名が、10勝3敗で同点トップとなり、3名で挑戦者決定リーグ戦が行われました。
③挑戦者決定リーグ戦の結果、塚田2勝、大野1勝1敗、萩原2敗となり、塚田八段が名人挑戦者に決まりました。
④戦後初の名人戦(戦前から数えて、第六期名人戦)は、1947年(昭和22年)3月から6月末まで戦われました。
1)第1局と第2局を木村が連勝した時は、世間は、このまま木村が名人位を守るだろうと考え、一気に名人戦への興味をなくしました。
2)ところが、第3局が162手にて持ち将棋となり、その後、第4局、第5局と塚田が連勝したので、俄然勝負の行方がわからなくなり、世間の関心も再び盛り上がりました。
3)2勝2敗1持ち将棋で行われた第6局は、千日手で指し直しとなり、塚田八段が勝ちました。第7局も再び千日手となりましたが、指し直しの結果、塚田八段が勝ち、名人位を奪取しました。
4)塚田名人の誕生を電話で知らされた、塚田の師「花田長太郎八段」は、その場で声を上げて泣き伏したそうです。思えば、最初の実力名人決定リーグ戦の最終戦で木村義雄に敗れて、名人になれなかったわけですが、自分の愛弟子が、その宿敵木村を破って名人位を奪取した事に、感極まったのだと思われます。
⑤塚田新名人は、自分は将棋一筋でいきたい、と申し出て、木村会長にそのまま会長位に留まることをお願いしました。その結果、会員には動揺もなく、将棋界は復興と発展を目指して進んでいくことができました。
⑥なお、木村名人が塚田八段と名人戦を戦う前に、新大阪新聞の企画で、升田幸三七段と木村名人との5番勝負が行われました。この戦いで、「平、香、平」の3局をすべて升田が勝ち、升田は、大いに名を上げました。一方、木村は、この敗戦のショックが尾を引いて、名人戦にも敗れたのではないか、とも噂されました。
⑦木村名人の名誉のために、ここで、敗因と思われる事柄を二つ上げておきます。
1)一つは食糧事情です。戦後間もなくのこの頃は、どのようにして食糧を確保するかが重要な課題でした。塚田には、新興勢力の後援者がいて、食糧には不自由しなかったそうです。一方、木村は、「名人」としての矜持からか、他人の支援を潔しとせず、食糧確保に苦労したようで、対戦時の健康状態には明らかに差があったそうです。
2)この名人戦は、持ち時間各8時間、1日指し切り制で行われましたが、木村は、この時間制で対戦するのはこの名人戦が初めてでまだ慣れていなかったのです。戦前は、持ち時間各15時間、3日間指掛け制でしたから、これと比べると、いかに厳しいかわかると思います。塚田は、順位戦で、1日指し切り制に慣れていたので、木村よりははるかに有利でした。実際、木村は真夜中の午前2時頃になると、頭がボーっとして思考力が大きく低下した、と述懐していたそうです。

(4)段位の復活と第二期順位戦:

一期目の順位戦は何とか終了しましたが、、会員の中には「メシが食えない」という声が大きくなってきました。対局料が少なすぎたのですが、新聞社もまだ苦しい時代で、スポンサーの日本巴布も今以上の出費は無理でした。そうなると、プロ棋士は対局以外で収入の道を探さなければなりません。その時に必要となるのが、一旦は廃止した「段位」です。たとえば、「A級3位」とか言うよりも、八段とか七段とかのほうがずっと、世間での通りが良いのです。「段位の権威」は、まだまだ十分健在でした。

①「段位を廃止して1年もたたないのに、段位を復活するとは何事か」、という意見もありましたが、将棋でメシを食ってゆかなければならないプロ棋士の立場を考えて、「段位」の復活が決められました。ただし、将棋界としては、段位と実力とを一致させる制度は捨てて、実力の表示は、A級、B級、C級、といったクラス制にする、という方針を決め、発表しました。

②名人戦が戦われていた1947年(昭和22年)4月、目黒の金八段宅に仮住まいをしていた「大成会」の本部が、石山賢吉氏の骨折りと後楽園の好意により、水道橋の後楽園球場の二階に移り、三階に待望の将棋道場を開設しました。後楽園球場の片隅に「大成会」(現在の「将棋連盟」の前進)の本部があった、というのは今から思うと冗談みたいな話ですが、当時は、「狭いながらも楽しい我が家」、やっと事務所を持てた、という事で、みなが再建の希望に燃えて頑張っていた時代だったのです。なお、この年の12月に、「将棋大成会」は、「日本将棋連盟」と改称し、会長に木村前名人を選出しました。

③第二期順位戦の開始に先立って、以下のように規約を改正しました。

1)A級: 10名とする(総当たり、先後二局)。

2)B級: 20名とする(各12局)。

3)C級: 二分して、上位20名を1組、下位を2組とする(東西二組に分け、各12局)。

出発当初と比べると、A級、B級、C級、すべてで定員を増やしており、結果として最初に決めた定員56名よりも大幅増員となっています。とくにC級を二組に分けて下位に優しい改正となっています。これは、不遇の仲間を切り捨てられない棋士仲間の善良さ、の表れとも言えますが、段位制の復活と合わせてみると、順位戦の意義は、爆弾動議で提唱された時よりも薄らいできた、と言わざるを得ません。

4)名人挑戦者は、A級1、2、3位にB級1位を加えた4人で争うという事に変更されました。B級1位とA級3位がまず戦い、その勝者がA級2位と戦います。そして、この勝者がA級1位と戦って、そこでの勝者が名人挑戦者となります。なお、それぞれの戦いは、3番勝負で行われ、先に2勝した者が勝ちとなります。

5)名人挑戦者決定戦にB級1位をくわえる、という改正案は、前回、B級1位だった升田七段が圧倒的強さで全勝したのに、挑戦者決定戦に参加できなかったのは不公平だという世間の批判を考慮して決められたものでした

④新編成の下での、第二期順位戦の結果、A級1位は升田幸三新八段、2位は大野源一八段、3位は花田長太郎八段で、B級1位は大山康晴七段でした。この4人のうち、花田八段を除く3人は、関西の木見門下の三羽烏と称された俊英です。この3羽ガラスに対抗する花田八段は、前述のように、木村名人と決戦で敗れて名人になれなかった強豪で、名人挑戦者決定戦の行方は大いに世間の関心をひきつけました。

⑤この4人による戦いは以下のような結果となりました。

1)花田八段は思いもかけず病に倒れたため、第一次戦は大山七段の不戦勝となりました。花田八段は、この病が悪化して、次項で述べる「高野山の決戦」のさなかに(2月28日)亡くなるという、悲しい出来事がありました。享年50歳。「せめてもう香車一本位強くなりたかった」と遺言したそうです。1962年(昭和37年)に九段を贈呈されました。

2)第二次戦は大山七段と大野八段が戦い、2勝1敗で大山七段が勝利しました。3羽ガラスの末弟、大山が、兄弟子の一人をまず破った一戦でした。

3)最終(第三次)戦の三番勝負は、大山七段と升田八段との戦いとなり、1948年(昭和23年)2月末から3月初めにかけて高野山金剛峰寺で行われました。これは、「高野山の決戦」と言われる名勝負で、大山七段が2勝1敗で勝利し、名人への挑戦権を獲得しました。升田は、木見門下で大山の兄弟子であり、常に大山の一歩先を行っていましたが、「高野山の決戦」で大山が勝利した事により、ここで、「初めて、立場が逆転し、大山が世間の注目を浴びる事となりました。

4)なお、1勝1敗で迎えた第三局(3月3日)は、最終盤まで升田の絶対優勢な局面だったのですが、升田が最後の最後で信じられないポカをして、頓死してしまったのです。そのポカの手を指した瞬間、升田は、「錯覚いけない、よく見るよろし」、とおどけていったそうです。自らの不覚をこんな言葉で後悔して見せたのでしょう。この1勝が、大山を後世、大名人にしたきっかけとなったのであり、また、逆に、升田が大名人にはなりえなかった1敗だったとも言える、と思いますと、人間の運命の不思議さに感慨深いものがあります。

5)さらに言えば、今回から改正された名人挑戦者決定戦のルールは、前回の升田の活躍の結果、生まれたのですが、その恩恵にあずかったのが弟弟子の大山であり、被害者が升田本人だった、というのも、なんとも言えない因縁なのでしょうか?(もし、ルール改正がなければ、4人による挑戦者決定戦は行われずに、A級1位だった升田がそのまますんなりと挑戦者になっていたのです)。

⑥「高野山の決戦」が決着して間もなく、1948年(昭和23年)3月6日、将棋界の良き理解者で後援者でもあった菊池寛が亡くなりました。享年59歳でした。菊池寛は、小説家として名を挙げた後、私費を投じて文芸春秋を創刊して大成功をおさめ、多くの富を手に入れました。彼は、その富を惜しみなく、貧しい文士や、棋士を応援するのに使い、慕われました。戦争中、翼賛運動の一翼を担ったために、戦後は公職追放の憂き目に遭い、好きな将棋で憂さを晴らしていましたが、狭心症のため急死しました。将棋界にとって、まさに痛恨の出来事でした。木村前名人は、弔辞を述べている途中で、感極まって、「先生、どうか将棋を楽しんでください」と叫んで絶句し、しばらく嗚咽したそうです。

(5)第七期名人戦(塚田名人連覇):

大山は関西の棋士だったので、大山が塚田名人を破って、名人位が、坂田三吉以来の悲願である箱根越えを叶えるか、世間が注目した名人戦となりました。1948年(昭和23年)4月から始まった対局は、以下の如く、塚田が防衛に成功して、第7期名人となりました。

①大山七段は名人挑戦者となった事で、1948年(昭和23年)4月1日に八段に昇段しました。第一局と第二局は伊豆の古奈温泉で行われ、大山八段が先勝しましたが、次には塚田名人が勝ち、一勝一敗のタイでスタートしました。

②第三局と第四局は、場所を紀州白浜温泉に移して戦われました。この時は、塚田名人が先勝しましたが、次には大山八段が勝って、戦績は二勝二敗となり、勝負の行方は混とんとして、将棋愛好家の興奮はいやがうえにも盛り上がりました。

③第五局と第六局は、5月に入ってから、石川県の山中温泉で行われました。第五局は、千日手で指し直しとなる熱戦でしたが、塚田名人が勝ちました。第6局も、あわや千日手かと思わせる局面がありましたが、塚田名人が巧みに戦機をつかんで、勝ちをおさめ、4勝2敗で名人位の防衛に成功しました。

④なお、この戦いについては、大山康晴氏が自著の参考文献3(「昭和将棋史」、岩波新書、1988年(昭和63年)刊行)の中で、次のように述べています。

『私は、何となく燃える気持ちになれなかった。(中略)。塚田名人には失礼な話だが、私は、「打倒木村名人」を目標にして自分をみがきつづけてきた。(中略)。それなのに、上座についているのは木村名人ではなくて塚田名人だった。(中略)。大きな勝負を戦うにしては、緊迫感の少ない雰囲気に終始したように思う。(中略)『五戦目、六戦目と私が負けてしまい、「名人位の箱根越え」の願いもむなしくなってしまった。(中略)。負けて帰りをいっしょにした樋口金信さんが、「大阪負けた、箱根を越せなかった。」と嘆き悲しんでいた顔がいまでもハッキリと浮かんでくる。こちらから、なぐさめの言葉をかけたことも思い出す。』

⑤このように、負けた本人よりも、周囲の関西人が口惜しがった名人戦で、東西対抗の気運が残っていた雰囲気をほうふつとさせる記述です。

(6)第三期順位戦と第八期名人戦(木村名人復活):

第三期順位戦では、木村前名人が名人挑戦権を得て、塚田名人に挑戦し、見事、雪辱を果たして名人氏を奪取しました。

①第三期順位戦に先立って、下記のごとき機構の大改革が行われました。

1)A級を8名から10名に増員し、各人1局ずつ総当たり戦、各9局。下位3名が次期にはB級に降格する。上位3名と、B級の優勝者の4名で名人挑戦者決定戦を行う。

2)B級全員を四組に分け、一組5名または6名の総当たり予選を行い、各組から上位2名を選抜して8名でB級リーグ戦(各人1局ずつ総当たり戦、各7局)を行う。優勝者は、名人挑戦者決定戦へ進む。また、上位3人は次期にはA級に昇級する。

3)C級もB級と同じ方法で行い、上位4名が、次期にはB級に昇級する。

4)個人も順位制度はA級のみに限り、B級以下は順位なし。

5)B級以下は降級制を行わない。

この改革のうち、大問題は5番目で、当初の理想とは大きくかけ離れており、後年、種々の弊害が生まれて、降級制が行われるようになり、B級も1組と2組に分かれるようになりました。

②こうして行われた第三期順位戦の結果、A級1位は木村前名人、2位は松田茂行八段、3位は大山八段で、B級1位は五十嵐豊一七段(24歳で最年少棋士)でした。この4人による戦いは以下のような結果となりました。まお、この年から、一次戦と二次戦は一番勝負となりました。

1)第一次戦は、1949年(昭和24年)2月に、五十嵐七段と大山八段で対戦し、千日手指し直しの熱戦のすえ、五十嵐七段が殊勲の勝利をかちとりました。

2)第二次戦、五十嵐七段と松田八段の戦いは、松田八段の快勝となりました。

3)最終(第三次)戦は、松田八段と木村前名人との三番勝負は、木村の2連勝で、前名人がリターンマッチ権を獲得するという劇的な結果となりました。この戦いは、別の意味でも劇的でした。というのは、第二戦では松田八段は病をおしての戦いとなり、この敗戦後、直ちに入院となって、以後順位戦を休場せざるを得なくなったのです。

③木村前名人は、塚田に名人位を奪われましたが、その2年後ついに挑戦権を獲得し、「木村いまだ老いず」の気概を天下に示して、塚田に報復の一戦を挑む事となりました。戦前の予想は、棋力をますます充実させてきた塚田の優位が圧倒的でしたが、人気は木村に集中しました。名人を失って2年、今まで頑張ってきた木村に有終の美を飾らせてあげたい、という「判官びいき」でもあったのです。

④第8期名人戦は、今までの7番勝負から5番勝負に短縮して(経済上の理由があったのですが、それについては後述します)、1949年(昭和24年)3月29日、湯河原温泉で幕を開けました。その勝負の結果は以下の通りです

1)湯河原温泉で行われた第一局は、挑戦者の木村が優位のうちに進みましたが、終盤で緩手が続き、塚田名人が劣勢を跳ね返して勝ちました。そして、第二局は、4月5日、豊川市の豊川稲荷で行われ、終盤までもつれにもつれましたが、木村が雪辱を果たしました。

2)第三局は、和歌山県和歌の浦で行われ、熱戦の末、塚田名人が勝ちました。この戦いでは、終盤、秒読みに追われて平静を失った木村が、塚田に「木村さん指してください」と言われるなど、「木村老いたり」、という印象を世間に与え、世の木村ファンをがっかりさせた、と言われています。

3)20日余りの休養期間をおいて、5月11日、湯河原温泉で第四局が行われ、172手の大熱戦を制したのは木村でした。木村は、後日、この第四局の事を聞かれ、「第四局は自分の最後の名人戦になるかもしれないので、せめて、最後にあんなみっともない将棋を指した、と物笑いにならないように、勝敗は二の次にして、立派な将棋を指そうと思った」、と述べています。

4)この第四局に木村が勝ったことにより、5月24日、皇居内の「済寧館」で行われた最終第五局で、勝利の女神は木村に微笑みました。この第五局で木村が勝ったことにより、2年前に自分から名人位を奪い取った塚田から名人位を取り返したのです。木村義雄、このとき45歳、塚田正夫は37歳の差し盛りの年齢でした。

5)名人位が決定した第五局は皇居内で行われたこともあり、「御城将棋」とも呼ばれたそうですが、これは、天皇家では代々将棋に興味を持たれており、昭和天皇も皇太子殿下(現在の平成天皇)も、将棋を非常に愛好されていたために、実現したそうです。

6)この御城将棋で、大いに話題となったのは、塚田名人の投了があまりに早かったことでした。塚田名人が投了した94手目の時点では、王手もかかっていないし、初心者はもちろん、相当な強豪もまだまだこれからだ、と思える局面だったからです。ちなみに、毎日新聞社の将棋好きがその後を指していったら塚田名人の方が勝ってしまったそうです。また、天皇陛下が侍従とその後を指し継いだら、やはり塚田側が勝ったとの事でした。このように、あまりにも早い投了に、世間は驚いたのでした。投了図を図9として左に示しますので、試してみてください。木村が2四歩と指したのを見た塚田が投了したのですが、塚田が投了しなかったら、貴方はどう指しますか?(正解は、最後の参考文献の前に掲載します。(棋譜は、参考文献5(「昭和将棋風雲録」)206ページから記載)。

7)局後、退出する際、木村は後ろを振り返り、うなだれ気味でついてくる塚田に、「塚田さん、勝負をする身はおたがいつらいものだね」と、しんみりと語りかけたそうです。その一瞬、二人の周りはシーンとなって、洟をすする音だけが聞こえた、との事でした。

⑤木村が名人に復帰したこの戦いの前に、木村の復活を願って、文壇愛棋家を中心として「木村後援会」なるものが結成されたそうです(参考文献5「昭和将棋風雲録」)。木村は、前述の如く、戦後は厳しい家計状況だったのですが、名人位を失った事により、さらに家計は厳しくなりました。ところが、他人の支援を潔しとしない性格から、本当に困っていたようです。そこで、木村が受け取りやすいように、彼らが「後援会」として、資金を集めて提供した、というわけです。

(7)名人戦主催新聞社の変更:

順位戦、名人戦が華々しく戦われている裏で、「日本将棋連盟」は重大な岐路に立たされていました。というのは、「日本将棋連盟」は任意団体であって、法人格を持っていなかったので、運営資金の融資などを銀行から受けにくかったのです。さらに、順位戦の棋譜も、A級以外はどこの新聞社も興味を示さず、収入の道も乏しかったのです。そのため、社団法人として再出発することにしたのですが、いかんせん、資金が足りません。そこで、名人戦を主催する毎日新聞に契約料の値上げをお願いしたのですが、それが、様々な手違いから、こじれてしまい、名人戦は、毎日新聞から朝日新聞に移転するという騒ぎになってしまったのです。

①任意団体だったので、銀行から運営資金は融通できない、という問題に直面し、対戦に伴う棋士への旅費・宿泊料の支給も難しくなりましたが、当面は、木村会長の努力でなんとか、切り抜けてきました。

②ところが、取引高税が導入されて、任意団体のままなら、収入から10%の税金がとられる恐れが出てきたのです。ぎりぎりの資金状況で運営している日本将棋連盟には、税金を払う余裕などありません。法人同志の取引であれば、取引税はかからないので、日本将棋連盟を法人化する事が喫緊の課題となりました。

③そこで、社団法人にしようという事になったのですが、お金がありません。毎日新聞社に名人戦の契約料の大幅値上げをお願いしましたが、毎日新聞社には、戦前の何が何でも名人戦の権利を獲得せよ、と厳命したようなトップは既におらず、様々な行き違いもあって、交渉は決裂しました。

④この交渉の途中から、朝日新聞社が契約獲得に乗り出し、ついに、名人戦は、第九期から朝日新聞が主催することになりました。そして、日本将棋連盟は、1949年(昭和24年)7月29日、社団法人日本将棋連盟として、再出発する事となったのです。

(8)全日本選手権戦の登場:

①戦前から将棋にも興味をもっていた読売新聞は、1948年(昭和23年)から全日本選手権戦を主催しました。第一回目の参加棋士は、塚田名人、木村前名人を筆頭に、升田・大山・土居・花田、と言った当時のトップ棋士8名を加えた10名で、トーナメント方式で行われました。そして、木村前名人が第一回目の優勝者となりました。

②翌年の第2回目は、塚田名人、A級全員、B級選抜の松田茂行七段、の合計12名で争われました。まず、4名ずつの3組に分けてトーナメントを行い、次に各組の勝者3名でリーグ戦を行う、という方式でした。

1)3組の勝者は、木村前名人(この棋戦の続行中に名人に復位)、升田八段、萩原八段の3名となり、この3人でのリーグ戦が始まりました。

2)ところが、3人がそれぞれ、1勝1敗の3すくみとなって、再度、リーグ戦が行われ、その結果、萩原八段が2勝して、第2回目の優勝者となりました。

③この最初のリーグ戦における、木村名人と升田八段の対局は、「ゴミとハエ」の問答で「金沢の決戦」として伝えられています。その経緯を以下に概説します

1)木村は東京、升田は広島が住所であり、対局場をどこにするかで、まずひともめがありました。結局、中間をとって、金沢が選ばれたのです。

2)対局の前夜、二人は関係者と会食しましたが、そこで、絹豆腐と木綿豆腐のどちらがうまいかで、二人は喧嘩腰の大激論を繰り広げました。

3)このようないきさつを経て、いよいよ対局となりましたが、殺気を感じるほどの凄まじい戦いで、総手数210手、入玉なしの大激戦、残余時間双方1分、勝負がついたのは夜が白々とあける午前4時26分、升田の勝ちでした。最終盤には、木村の駒を持つ手がブルブルと震えだし、升田八段も足が震えていたそうです。

4)局後の検討が終わり、疲れ直しの会食の席上、前夜の豆腐論争がむしかえされ、升田が「名人位なんてゴミみたいなもんだ」と言ったのです。さすがの木村もこれにはムッとして、「名人がゴミなら君は何だ」、と言い返したら、升田が、「ゴミにたかるハエみたいなものだ」、と冗談めかして答えました。すると、木村が、「えらそうな事ばかり言ってないで、一度くらいは名人挑戦者になったらどうだね」と、升田の一番痛い処を突いて席を立ちました。

④第3回目からは、優勝者に「九段」のタイトル贈与が決まり、戦いの方式が変わりました。詳細は、第2項で説明します。

(9)「王将」が生んだ坂田三吉の人気

①将棋の歴史の本筋とは離れますが、1947年(昭和22年)、劇作家「北条秀司」が発表した「王将」が、辰巳柳太郎主演で新国劇で上演され、大好評をえました。さらに、その翌年、坂東妻三郎を主役とする映画「王将」が上映され、これも大人気でした。その結果として、前年に亡くなった坂田三吉の人気が急騰し、将棋人気も大いに盛り上がりました。

②こうした、芝居と映画により、棋士の生活が広く知られるようになりましたが、戦前の独特な個性の持ち主を主題にしたために「将棋指し」のマイナスイメージも拡散してしまいました。一度拡散した「将棋指し」のイメージを克服するには、かなり長い年月が必要でした。

③ここでは、伝説の棋士「坂田三吉」にまつわるいくつかのエピソードを紹介します。

1)坂田が無学文盲であったのは、たしかで、将棋を親しく教わった升田によれば、生涯に覚えた漢字は「三」「吉」「馬」の3字だったと証言しています。なお、坂田は、65歳の時に16歳の升田が素人相手に稽古将棋を指しているのを見て、升田の才能を見抜き、可愛がった、と伝えられています。升田が、「なぜ、私なんかの将棋を見るんですか」、と尋ねたら、「あんたぁ、天下を取りまっせ。あんたの将棋は大きい、木村を負かすのはあんたや。木村の将棋は小さい」、と答えて、当時、「ホラ吹き」の異名を取っていた流石の升田もびっくり仰天した、という逸話が残っています。

2)坂田は、食堂に行っても、メニューが読めないので、テーブルを回って他の客が食べている物を見て回り、気に入った物をみつけると、「これにしてや」と二つ注文して、一つはボーイに「あんた食べなはれ」、とサービスしたそうです。

3)坂田はこの通り、気前が良くて、なにかと皆に振る舞ったそうです。大山も、戦前、自分がまだ若手で対局の記録係をしていた頃、一応若干の手当ては連盟からいただけるのですが足が出るくらいの少額だったそうです。ところが、坂田の対局の時には、坂田が必ず、相当のお小遣いをくれるので、とても有難かった、と後年述懐していたそうです。

4)坂田は、関西名人と称される頃には、耳学問等でそれなりの一般常識は身につけていたようですが、文字を読めないために、世間から見たら、「奇行」は相変わらずだったようです。記録係の大山が、算用数字で考慮時間を記録しているのを見て、「英語で記録しているのか」と尋ねたそうです。

5)若い頃は、、賭将棋で生活をしていたのは間違いなく、そこで鍛えた負けない将棋を指すコツが、後年、「泣き銀の一局」で生かされることとなりました。43歳の坂田が東京に乗り込んで関根と対戦した時(村田英雄の「王将」で “明日は東京に出てゆくからは、何が何でも勝たねばならぬ” と歌った一戦)、「8五銀」という大悪手を指してしまい、「銀が泣いている」の名セリフを残しましたが、この後、奇跡的な粘り腰で、関根の猛攻をしのぎ切り、ついに勝利しました。(この対局は、図11をみればわかるように、関根の香落ちでの対局でした。坂田は、この時、意地をはって、香落ちの側を攻めずに、香のある側を攻めました)。

6)お辞儀が非常に長い事でも知られています。坂田と交友のあった人は、皆さん口をそろえて、「坂田先生がお辞儀をした時、自分はもういいだろうと思って頭を上げると、先生がまだお辞儀を続けているので、慌ててお辞儀を継ぎ足した」、と述べています。

7)坂田の娘さんは、「晩年の父はおしゃれで身だしなみに人一倍気をつかっており、おしゃれでセンスのある人でした。ですから、事実と違う芝居や映画の『王将』は見たくありません」、と証言しています。

④坂田三吉は、いわゆる被差別部落の出身であり、家も貧しかったために、将棋を学ぶ事が出来ず、独力で(悪く言えば、賭将棋のおかげで)努力して、もしかしたら、関根を抜いて名人になったかもしれないレベルまで強くなりました。彼が、もし、金持ちの家に生まれて、思う存分、将棋を指せる身分であったら、どうなっていたのでしょうか?
人間は、生まれる場所と時期を選べませんが、これも運命というものなのでしょう。そして、彼が、幕末の不遇の天才「天野宗歩」の弟子の小林東四郎(後に小林東伯齋と名乗る)に教えを受けた、というのも、不運の天才の哀しい宿命のようにも思われます。

2.1.1950年(昭和25年)~1951年(昭和26年): 新しい新聞棋戦の開始

名人戦を後援する新聞社の変更とか、いろいろありましたが、昭和20年代も後半になると、新しい棋戦も生まれて、将棋界はようやく隆盛への道を辿ることが出来るようになりました。

1950年(昭和25年)は、名人戦の主催新聞社が、毎日から朝日に変わりましたが、毎日はその後、新しい棋戦(王将戦)を企画し、また、読売新聞も今までの棋戦(九段戦)をタイトル戦に格上げしました。

(1)第四期順位戦と第九期名人戦(木村名人連覇):

①社団法人への変更や後援新聞社の変更等、様々な問題がありましたが、第四期順位戦は、機構に若干の改正を加えた後、1949年(昭和24年)6月から開始されました。機構の改正点は以下の通りです。

1)A級は、第2位の松田八段の休場により欠員が生じたが、そのまま9名総当たりでリーグ戦を行う。下位の2名は、B級に降級する。名人挑戦者の選定は前年と同じ。

2)B級は、定員制ならびに各人の順位制は無し。参加者22名が抽選により相手を定め、各人8局宛の対局を行う。成績優秀者3名はA級に昇級し、トップの者は名人挑戦者決定戦に出場できる。降級制は行わないが、2勝せざる者は次期休場とする。

3)C級1組は、参加者21名を東西の二組に分けて、その中で各人が8局宛対局し、成績優秀者3名が(各組の1位2名と、2位同士は決戦の勝者)B級に昇級する。

4)C級2組も東西の二組に分けて、その中で対局し、各組のトップは、C1級に昇級する。

前年行っていた予選制を廃止したのは、予選で敗れると、わずか数局指しただけで、その年は対局の機会が無くなるので、対局数を増やして欲しい、という棋士からの要望に応えたからです。この頃は、まだ棋戦も少なく、順位戦以外では、ほとんど、対局の機会が無かったのです。(唯一の例外は、読売新聞社が1948年(昭和23年)に始めた全日本選手権戦です)。

②第四期順位戦の結果、A級第1位は大山、2位は升田、3位は丸田、B級トップは高柳七段。この4人で名人挑戦者決定戦が行われました。

1)第1次戦(丸田対高柳)は、1950年(昭和25年)1月25日、熱海での戦いで、丸田八段が勝利し、第2次戦に進みました。

2)第2次戦(升田対丸田)は、1月19日に大阪で行われ、升田が勝ち、第3次戦に進みました。

3)第3次戦(大山対升田)は、第二期順位戦と同じく大山対升田の戦いとなり、「高野山の決戦」以来の激突となりましたが、第1局・第2局ともに大山八段が勝ち、升田はまたしても、名人挑戦者になれませんでした。升田は、弟弟子の大山が苦手になったようでした。

③第九期名人戦は、毎日新聞から朝日新聞に移転した最初の名人戦となりましたが、対局方法が変更になりました。従来は持ち時間各8時間、1日の指し切り制でしたが、各10時間、二日の指し掛け制となりました。

④大山にとって、二度目の名人挑戦で、しかも、相手が今度こそ木村名人だったので、世間の関心も大いに盛り上がりました。その結果は以下の通り、4勝2敗で木村の勝ちとなり、大山は再び、名人には届きませんでした。

1)第一局は、1950年(昭和25年)3月21・22日、熱海で行われ、木村名人が勝ちました。第二局(4月5日)は名古屋に場所を移しましたが、木村名人の連勝で終わりました。

2)木村名人が連勝した事により、木村名人が楽々と名人位を防衛すると思われましたが、京都郊外で行われた第三局(4月17・18日)では、精彩を欠き、敗れてしまいます。実は、第二局に勝った直後、木村名人の次男が亡くなるという悲痛時があり、木村名人は落胆のあまり、闘志を失ってしまったのです。

3)福岡市での第四局(5月1・2日)も、大山八段が勝ち、2勝2敗のタイとなってしまいました。しかし、東京へ戻っての第五局(5月29・30日)は、木村が精彩を取り戻して勝ち、3勝2敗と一歩リードしました。

4)第六局(6月12・13日)は関西に舞台を移し、兵庫県宝塚で行われました。中盤までは大山有利の展開だったのですが、終盤で大山が悪手を指して形勢が逆転し、木村が名人位を守り抜きました。

5)大山が名人戦に挑むのは2度目で、しかも今回は目標としていた打倒木村を目指したのでしたが、及びませんでした。大山は自著の参考文献3(「昭和将棋史」、岩波新書、1988年(昭和63年)刊行)の中で、「技量及ばずではしかたがない。今後は一層の精進を続けるしかない」と書いています。こうした敗戦も、大山時代を築き上げる糧となったのでしょう。

(2)第一期九段戦開始(大山九段誕生)&第三回全日本選手権戦:

読売新聞が主催していた「全日本選手権戦」は、1950年からその優勝者に「九段」のタイトル贈与が制定され、新たに「九段戦」として再出発することになりました。名人戦の盛り上がりを見た読売新聞が、「全日本選手権戦」に箔をつけたい、と考えて、九段位争奪戦の新設を日本将棋連盟に申し出たのです。当時、九段位は存在せず、名人即九段と考えられていました。そこで、名人と九段を分けて、九段争奪戦を行う、というのが提案の趣旨で、連盟側も、名人戦とは格が違う、という事で受け入れたのです。

①九段戦の発足にあたって、将棋の深い理解者で愛好家でもあった秩父宮殿下から優勝杯(秩父宮杯)が下賜される事となり、錦上花を添える事となりました。

②第一期九段戦(第三回全日本選手権戦)のルールは以下の通りです。

1)全日本選手権戦には名人は参加せず、選手権戦の優勝者は九段となりますが、その後、名人と日本一をかけて5番勝負を戦う。

2)参加者は、A級全員と、予選を勝ち抜いたB級5人、前回優勝の萩原八段を加えた17人で、トーナメント方式で戦うが、最後の決勝戦は、3番勝負とする。

③こうして行われた第一期九段戦は、大山八段と板谷八段の決勝戦となりましたが、大山が連勝して、1950年(昭和25年)7月、第一期九段位と秩父宮杯を獲得しました。

④この後の、大山九段と木村名人による「実力日本一」を賭けた5番勝負は、大山の3勝1敗となって、大山が最初の「実力日本一」に輝きました。

注:九段戦(全日本選手権戦)は、1962年(昭和37年)からは、十段戦となり、7番勝負の勝者は十段と呼ばれて、タイトル保持者となりました(十段はタイトル名であって段位ではない)。さらに、1987年(昭和62年)からは竜王戦へと、改称発展していきました。

(3)毎日「王将戦」発足:

毎日新聞は、名人戦が朝日新聞に移転して以降、将棋欄を休止してしまいました。名人戦を奪われた怨み、という事なんでしょうが、読売新聞の九段戦の成功を見て、大山新九段が誕生して間もなく、「王将戦」を企画立案し、その実現を将棋連盟に申し入れました。

①王将戦のルールは、A級上位者5人を選抜してリーグ戦を行い、その優勝者と木村名人とで7番勝負を争い、勝者が「王将」位に就く、という提案でした。

②これだけならば、何ら問題は無いのですが、「三番手直り」の指し込み制度が付帯されており、大問題となったのです。「三番手直り」というのは、3勝差がついた時点で王将戦の勝負が決定し、次の対局から半香落ちの手合い割(香落ちと平手戦で交互に指す)で対戦し、必ず、第7局まで実施する、という制度です。つまり、指しこまれると格下げされるわけです。将棋連盟としては、毎日新聞には、名人戦を育てていただいたのに、朝日新聞へ移転した、という負い目があるので、対応に苦慮しました。

③三番手直りの問題点は、もし、名人が指し込まれたら権威にかかわる、という事でした。連盟内でいくら議論してもまかなか結論が出ませんでしたが、最終的に、毎日新聞の申し出を受け入れて、王将戦がスタートしました。ただし、この「王将」は賞品として勝者に贈るものであって、正式なタイトルとはしない、という事になりました。

④1950年(昭和25年)秋から、A級上位者5人(大山九段、升田八段、丸田八段、塚田前名人、高島八段)によるリーグ戦が始まりました。このリーグ戦の結果、丸田八段が3勝1敗でトップになりました。(大山、升田、塚田の3人はいずれも2勝2敗でした)。

⑤丸田八段と木村名人の7番勝負は、1951年(昭和26年)2月、木村名人の5勝2敗で終わり、丸田八段は、三番手直りのルールで、もし、次回以降の王将戦で木村名人と対戦する時は、木村名人が香を落として対戦する、という結果となりました。つまり、半香落ちに追い込まれる、という屈辱を味あわされたわけです。

王将戦7番勝負が争われていた1951年(昭和26年)1月7日、関西棋界の大御所、木見金治郎八段が、大山、大野、升田などの大勢の門下生に看取られて静かに息を引き取りました。享年74歳。木見金治郎は、関根名人門下で、大阪では大阪朝日新聞嘱託の坂田三吉に対抗して、大阪毎日新聞の嘱託としてスター棋士となりました。1925年(大正14年)に八段に昇段し、1935年(昭和10年)からスタートした実力名人を決める第一回目のリーグ戦に参加しましたが、高齢のため惨敗しました。木見八段は将棋の実力もさることながら、大山、升田をはじめとして多数の門下生を育成して、名実ともに関西棋界を関東期界に遜色なからしめた功績は多大と言えるでしょう。1962年(昭和37年)6月、九段位を追贈されました。

2.2.1951年(昭和26年)~1952年(昭和27年): 三大タイトル戦の誕生

昨年誕生した「王将戦」は、この年から「王将位」を争奪するタイトル戦となりました。この結果、朝日新聞の「名人戦」、読売新聞の「九段戦」、毎日新聞の「王将戦」、となって、三大新聞がそれぞれ主催する三大タイトル戦が生まれました。この他に、三つの新しい棋戦が生まれ、将棋界は、ようやく、戦後の窮乏気を切り抜けて、繁栄への第一歩を踏み出した年だと言えるでしょう。とくに、1952年(昭和27年)に起きた陣屋事件を考慮に入れると、新しい体制が整ってきた記念すべき年だった、という思いを深くします。

(1)第五期順位戦と第10期名人戦(木村名人3連覇):

①第九期名人戦が戦われている間に、第五期順位戦が始まりました。その開始に先立って、以下のように機構の改正が行われました。

1)名人戦は、前回通り、持ち時間各10時間、二日間指し掛け制とする。

2)名人挑戦者は、A級優勝者をそのまま挑戦者とする。ただし、同率者のある場合に限り、3番勝負によって決する。したがって、A級2位、3位、および、B級優勝者の参加はなくなる。

3)各クラスの対局数は、A級は総当たり、B級以下はくじ引きにより各12局とする。なお、持ち時間は今まで通り各7時間。

4)同率者の場合、今回に限り、最も簡便な方法で昇降級の決戦を行い、他は前年度の成績により上位者を優先とする。

5)昇降級について、従来、降級はA級だけだったが、今回から各級とも交流を行う。

5-1)A、Bの交流は3名宛

5-2)B、C1の交流は2名宛

5-3)C1、C2の交流は2名宛

5-4)C2の降級者は奨励会に参加して四段の資格で対局し、1年間指し分けの成績を納めた場合、C2に復活を認める。

6)全日本アマチュア名人戦大会の第1位より第4位ませのうち、希望により順位戦への参加が特典として認められていたが、本年度限りでその特典を全廃する。

7)前名人の称号は現名人(木村)の前の名人(塚田)に限りこれを認め、その資格を失った場合は八段とする。

②第五期順位戦は、A級は11名(ただし、松田八段は病気欠場)、B級は24名、C級1組は17名、C級2組は14名で戦われました。

③順位戦の結果、升田八段がA級で優勝者し、名人挑戦者に決定しました。升田と木村は、対戦に先立ってラジオで対談し、お互いに毒舌をふるって舌戦を繰り広げました。

④升田は、名人戦に備えて、それまで連日連夜、浴びるほど飲んでいた酒をやめ、さらに好きなタバコもやめて、体調の維持管理に努めました。

⑤名人戦は、1951年(昭和26年)3月末から5月末にわたって行われ、4勝2敗で木村名人が3連覇しました。

1)第一局は、3月19・20日と港区車坂で、木村名人の勝ち。第二局は、4月4・5日と港区白金で、升田八段の勝ち。この結果、注目の対戦は1勝1敗のタイでスタートする、という最高の形となりました。

2)第3局は4月18・19日と兵庫県宝塚で、そして、第4局は5月2・3日と大府住吉で、それぞれ行われ、いづれも木村が勝って、木村の3勝1敗となり、木村は3連覇に王手をかけました。

3)第5局は5月14・15日と渋谷での対局となって、升田が勝利し、2勝3敗と盛り返しました。

4)運命の第6局は、5月28・29日と代々木で対局し、大熱戦となりましたが、164手で木村名人が勝ちました。稀代の天才と謳われた升田も、木村名人の前に痛恨の涙をのんだのです。

⑥こうして、木村名人は戦前5期、戦後3期、合わせて8期13年にわたって名人位を掌中に握り、トップ棋士として将棋界に君臨しました。この偉業達成を機に、木村名人は現役を引退するのではないかと巷間噂されましたが、木村はNHKのラジオで次のように語って引退を否定しました: 「私はやっぱり堂々と負かされて引退するのが有終の美だと思う。私を負かして名人になるのでなければ、挑戦者も張り合いがないだろう。負かされて、私自身、納得がいかなければ、もう一度A級に入って戦いたい」: 堂々たる宣言であり、悲壮な覚悟でもあります。

(2)第二期九段戦(大山九段連覇):

①前年と同じく、B級全員での予選リーグを勝ち抜いた棋士と、A級の全棋士が参加して、まず挑戦者決定のためのリーグ戦が行われました。

②優勝候補だった升田と塚田が、B級の金高七段に相次いで敗れる、という波乱があり、同じくA級の丸田八段を破ったB級の南口八段との、B級同士の挑戦者決定戦となりましたが、南口八段が勝利して、大山九段への挑戦権を獲得しました。

③大山九段と南口八段との5番勝負は、大山九段の3連勝で、大山は二期連続して九段位を獲得しました。

④この後、行われた大山九段と木村名人との「実力日本一」をかけた5番勝負は、3勝2敗で再び大山九段が勝ち、二年連続して「実力日本一」の栄冠に輝きました。

(3)第一期王将戦:

前年、タイトルではなくて賞品としてスタートした「王将戦」が、今年からタイトル戦として認められ、ここに、「名人戦」、「九段戦」、「王将戦」の三大タイトル戦がそろいました。

①第一期王将戦は、1951年(昭和26年)12月から翌年4月にかけて行われましたが、その際、機構と顔ぶれに以下のごとき変更がありました。

1)第一期王将挑戦者決定リーグ戦には、A級棋士の上位5名(丸田、升田、大山、坂口、塚田)が参加し、各先後二局宛対局する(合計8局)。

2)このリーグ戦で1位となった棋士が、木村名人と7番勝負を戦って、勝った棋士が初代王将に就く。

②リーグ戦では、升田八段が7勝1敗でトップとなり、木村名人との王将決定戦に臨みました。このリーグ戦で、大山九段が塚田前名人に対して、前回の王将戦に続いて3連敗となり、「3番手直り制度」が適用されて、次回顔が合う時は「半香落ち」に手合を直されてしまいました。

③木村名人対升田八段の7番勝負は、将棋ファンが待望していた戦いであり、大いに盛り上がりましたが、思わぬ出来事で世間を騒がせることになりました。

④第1局、第2局と升田が連勝し、もし、ここで升田が勝てば、「三番手直り制度」によって名人が「半香落ち」に指しこまれる、という注目の第3局は、木村が勝って、どうにかカド番を切り抜けました。ところが、続く第4局、第5局と升田が連勝したために、升田と木村の勝ち星の差は3勝となって、「三番手直り制度」が適用される事となり、次の対局は、升田が香を落として名人と対戦する、という将棋史上かってない出来事が起きる事になりました。

⑤私達が知っている7番勝負は、先に4番勝った方が勝利して、それ以降は対局しませんが、王将戦の7番勝負では、勝敗差に関係なく、ともかく7番対局する事になっていました(7番勝負、ではなくて、7番将棋)から、次の第6局で、名人が相手に香を落とされて対局するという、空前の事態になったわけです。そのため、第6局はいやがうえにも世間の関心を集め、大いに注目されました。その対局は、1952年(昭和27年)2月18・19日の両日にわたり、神奈川県の鶴巻温泉「陣屋」旅館で行われることになったのですが、その前日に、前代未聞の「陣屋事件」が起きたのです。「陣屋事件」については、次項で解説します。

(4)陣屋事件:

①1952年(昭和27年)2月17日、升田八段は明日からの対局に備えて、陣屋旅館を訪れました。ところが、その日は陣屋旅館は多忙を極めており、仲居さんたちもバタバタしていて、升田がいくら玄関で呼んでも(呼び鈴を押しても)、誰も応対しませんでした。(新米の仲居さんがそんな升田を見かけて、升田は髭を伸ばして胡散臭い格好だったらしいので、今日は忙しいから、といって体よく追い払った、という説もあります)。

②そんな対応に怒った升田は近くの旅館に移って、将棋連盟の関係者に電話をし、対局場の変更と対局日の1日延長を申し入れます。この申し出に、将棋連盟と主催者である毎日新聞はびっくり仰天し、翌日の対局開始直前まで懸命に升田を説得しますが、升田は納得せず、ついに対局を拒否しました。

③事件後、将棋連盟では、渡邊会長以下全理事が集まって対策を協議し、升田の対局拒否を問題として、「向こう1年間、全ての対局に升田八段の出場を禁止する」という処分を下すことを決めました。これを知った反主流派の棋士達が「升田を救え」と立ち上がり、一時は、将棋連盟が分裂しそうな険悪な対立となりました。

④そこで、連盟の臨時総会が開かれ、その席上で、渡邊会長以下全理事が辞表を提出し、解決策を、もう一方の当事者である木村名人に一任することにしました。そして、次の臨時総会で木村名人の苦心の解決策が発表され、満場一致で採用されました。その解決策は以下の通りです。

1)対局拒否に関し、升田八段は遺憾の意を表する。

2)連盟理事会は行き過ぎの点について遺憾の意を表する。

3)升田八段は従前どおり、連盟会員として即日復帰する。

4)理事の辞表は受理しない。

⑤こうして陣屋事件は無事に落着しましたが、結局、第6局は升田の不戦敗として、第7局目は平手での対戦をして、升田八段が勝ちました。その結果、対戦成績5勝2敗(一つは不戦敗)で、升田八段が初代王将位に就きました。

⑥陣屋事件の背景は何だったのか、いまだに、はっきりしていないところがありますが、私の大胆な「下衆の勘繰り」は以下の通りで、二つの要因が絡んでいると思います。

1)無頼派と良識派の対立:言葉は適当ではないかもしれませんが、私は、升田は将棋一筋の無頼派、木村は社会性も重要だと考える良識派の、それぞれが代表みたいな存在だったのではないかと邪推(?)しているのです。その対立の現われの一つが、既述の「ゴミ・ハエ」論争であり、今回は、それが決定的となったのだと思うのです。升田は、後年、当時の連盟の理事連中が気に入らなかったから、説得に応じなかった、というような事を言っていたそうです。升田は、坂田三吉に可愛がられたところからもわかるように、自由奔放・傍若無人なところがあり、よく言えば「将棋一筋の職人肌」、悪く言えば「将棋バカ」のようなところがありました。それに対し、将棋連盟の理事たちは、木村名人を含め、「紳士」として振る舞う事を良しとしていました。関根名人の流れを汲む、と言った感じでしょうか。大山九段も同じ良識派で、彼は自著(参考文献3.「昭和将棋史」)の中で、升田の事をそれとなく批判しています。升田には、なにかにつけ「世間体」を繕おうとする良識派のやり口が元々気に入らなかったようです。

2)毎日新聞と朝日新聞の暗闘:実は、升田は朝日新聞の嘱託として、名人戦を毎日新聞から朝日新聞へ移転する際に、暗躍したとも言われています。(それに対し、大山は毎日新聞の嘱託でした)。朝日新聞は、坂田三吉を後援していましたし、そもそも実力名人戦創設時の分裂騒動の時(神田事件)、分裂派の「革新協会」を支援したりして、明らかに毎日新聞と対抗していたのです。朝日新聞が主催する事となってから2回目の第10期名人戦で、升田は木村名人に敗れてしまいます。木村名人は、良識派であり、どちらかというと毎日新聞よりでした。朝日新聞が主催する名人戦で木村に敗れ、逆に、毎日新聞が主催する王将戦で名人を半香落ちに追い込む、これは、「王将」の価値を高め、見方によっては、「名人」以上にしてしまう恐れすらあります。つまり、升田は、知らず知らずのうちに、朝日が主催する棋戦よりも、毎日が主催する棋戦の価値を高める働きをしていたわけです。その価値を高める働きに最も貢献したのは、「三番手直し制度」です。升田は、この制度に強硬に反対したそうです。彼は、「名人に香車落ちで勝つまでは故郷に帰らない」と物差しの裏に書いて家出をした、という逸話の主で、三番手直し制度は願ってもない制度のはずでした。その創設に反対する、というのは自己矛盾のようにも思えますが、これも、朝日新聞への義理立てだと思えば納得がいきます。

⑦陣屋事件は、木村名人のまさに良識あふれる解決策で無事おさまりました。そして、「雨降って地固まる」の言葉通り、この事件を契機に、将棋界は大きく発展します。陣屋事件は、当時のマスコミ(新聞、ラジオ、ニュース映画等々)で大々的に取り上げられ、「王将戦」のみならず、将棋への世間の関心を一気に高めたのです。そして、升田は、この事件を契機に人間的に大きく成長し、連盟側に協力するようになりました。その一つの証明が、平手戦で対局することとなった第7局は、東京赤坂の比良野旅館で行われましたが、大変な人気を呼んで早朝から多数のマスコミが待機し、升田八段の登場を待っていました。そして、升田が現れると、玄関先で大勢の仲居さんが迎えているところをカメラにおさめたい、と何回も入り直しを升田にお願いしたそうですが、升田は苦笑しながらもその要求にこたえていたそうです。以前の升田なら、想像すらできないような対応です。

⑧ずっと先になりますが、1956年(昭和31年)の第5期王将戦で、升田は時の名人大山康晴と対戦し、初戦から3連勝して香落ちに指し込み、その対局で勝利します。名人が香車を引かれて敗れる、という空前の出来事が起きたのです。その後も、こうした事態は起きていませんから、升田は、名人に香落ちで勝った唯一の棋士として、将棋史に燦然と輝く記録を残したのです。

(5)1951年(昭和26年)から始まった棋戦:

将棋人気の盛り上がりに応じて、1951年(昭和26年)から、下記の通り、三つの棋戦がスタートしました。

①NHK杯将棋トーナメント:ラジオ放送でスタートしましたが、1962年(昭和37年)からは、テレビ放送に変わり、現在まで続いています。第一回目は8人が参加して戦われ、優勝者は木村名人で、その木村名人に敗れた準優勝者が升田八段でした。この頃は、升田が何度も木村に挑んでは跳ね返されていました。ですから、ますます、陣屋事件の不可思議さに思いがいたります。なお、NHK杯の歴代優勝者と準優勝者とを、下の表1にまとめて示します。(1962年からは、テレビ放送に変わりましたから、またの機会にまとめます)。

②産経杯争奪トーナメント:産経新聞社が主催して1951年(昭和26年)から1953(昭和28年)年まで行われました。産経杯の歴代優勝者を下の表2に示します。

1)1954年(昭和29年)からは、「早指し王位決定戦」と変わって、1959年(昭和34年)まで続き、1960年・61年(昭和35・36年)は三社連合と共同開催の王位戦を経て、1962年(昭和37年)から棋聖戦へと移行しました。

注:王位戦、棋聖戦共に、現在は八大タイトル戦に加えられています。

③東西対抗勝継戦:大阪新聞社が主催して、1951年から1966年まで行われました。この勝継戦で10連勝以上した棋士が出たのは1953年(昭和28年)なので、その記録は2.4項で紹介します。

1)1968年からは、六社棋戦(棋譜を掲載した新聞社が6社だった)、1970年からは日本将棋連盟杯争奪戦、1985年からは天王戦、と名前と方式を変え、1993年以降、棋王戦へ統合されました。

注:棋王戦は、共同通信社が主催社となって1975年から開始された棋戦で、現在は八大タイトル戦に加えられています。

④この三つの棋戦は、名称や機構を変えたものもありますが、いずれも現在まで続いており、しかも、現在の八大タイトル戦の一角を占めています。つまり、1951年は、将棋界にとって、大きく発展する基盤が整ってきた年と言えるでしょう。

2.3.1952年(昭和27年)~1953年(昭和28年): 木村名人引退

将棋連盟が目指していた、三大新聞による三大タイトル戦が生まれ、さらにNHK杯等の新たな棋戦も生まれて、将棋界の前途は大きく開けました。こういう情勢を見て、戦争を挟んでここまで将棋界を背負ってきた木村名人がついに引退を発表しました。

(1)第六期順位戦:

①第五期順位戦が終わって間もなく、毎年増え続けるB級以下をどのようにするべきかについて、以下のように機構の改正が行われました。

1)A級の定員は従前どおりとする。

2)B級を二分し、上位13名をB級1組とし、下位をB級2組とする。(ただし、指し分け以上は定員を超過する場合でもB級1組とする). 。

3)各級の定員を13名とし、過不足の生じた級は漸次その線に進める。

4)B級2組の設定により、今年度に限りC級1組の第一位をB級1組に昇級させ、2・3位をB級2組に昇級させる。

5)C級1組の降級はなく、2組の昇級は2名とする。

②以上の改正を受けて、第六期順位戦は、A級11名(ただし、2名は病気欠場)、B級25名、C級1組は16名、C級2組は11名で戦われました。この結果は以下の通りです。

1)A級では、升田と大山が6勝2敗で同率トップとなり、挑戦者は両者の3番勝負で決せられる事となりました。また、下位2名がB級1組に陥落となりました。

2)B級では、上位3名までがA級へ昇級し、指し分け(6勝6敗)以上はB級1組という事だったので、14名がB級1組となり、8名がB級2組となりました。

3)C級1組では、同率トップが2名いましたが、決戦に勝った1名だけがB級1組に昇級し、敗れた棋士と3位の棋士の2名がB級2組に昇級しました。

③今期から、A級は八段、B級1組は七段、B級2組は六段、C級1組は五段、C級2組は四段と定めましたので、昇段の道は狭くなりました。これは、今までの昇段規定が甘すぎたので、段位がインフレ気味になったので、それを見直すためです。ただし、今までの段位はそのままですので、仮に八段の棋士がC級2組まで陥落したとしても、八段のままです。

④名人挑戦者決定戦は、升田八段と大山九段の対決となり、木見門下の兄弟弟子が争う事となりました。

1)第1局は、1952年(昭和27年)4月27日に大阪で戦われ、升田が勝利しました。

2)第2局は、5月2日に大阪の同じ場所で行われ、今度は大山が勝ちました。

3)決戦となった第3局は、5月6日に大阪府高石町で行われ、大山が勝って、名人への挑戦権を獲得しました。

⑤かくして、升田は、第七期、第九期に続いて、三度目も大山に阻まれて、名人挑戦者になれませんでした。順位戦に於ける升田の大山への苦手意識は、決定的なものになったようです。

(2)第11期名人戦(大山新名人誕生):

第11期名人戦は、1952年(昭和27年)5月19日から開幕しましたが、木村は、陣屋事件の前に升田に半香落ちにまで指し込まれた事で、勝負師としての魂がとられたような感じがあり、名人戦でも従来のような気迫が欠けていたようです。

①第一局は、5月19・20日、代々木の「初波奈」で行われ、木村名人が勝ちました。二日目(20日)の午後、将棋ファンの秩父宮殿下がなんの前触れもなくこっそりと観戦に見えられ、関係者は大いに感激しました。(左の図14)

②第二局は、6月2・3日、大阪・帝塚山「鉢の木旅館」で行われ、大山九段が勝って、対戦成績をタイに戻しました。

③第三局は、6月16・17日、場所を名古屋・八事「八勝館」に移して戦われ、大山九段が勝って、対戦成績を2勝1敗とリードしました。

④第四局は、6月30日・7月1日、再び、東京に戻って、第一局を戦った時と同じ代々木の「初波奈」での対戦となりましたが、ここでも大山が勝って、対戦成績を3勝1敗とし、初の名人位獲得に王手をかけました。

⑤運命の第五局は、7月14・15日、大阪市外高石の「羽衣荘」での対局となりました。大熱戦となりましたが、7月15日午後11時52分、143手目で木村名人が投了し、29歳の大山康晴が、実力名人制度が始まって以来3人目の名人位に就きました。

⑥この第五局では、木村名人は、疲労困憊に達していたようです。二日目の午後、ここが勝負どころとにらんだ大山は長考に入りました。すると、木村は疲労の色を示し、正座こそ崩さなかったものの、脇息にもたれかかることが多くなりました。それに気づいた大山が、「名人、ここはもう少し読ませていただきますので、どうかあちらで身体をお楽にしてください」、と声をかけたところ、木村は「それじゃ、失礼して・・・」と会釈して座を立ち、廊下に出て籐椅子にぐったりと身体を落としたそうです。

⑦最終場面では、大山の残り時間は4分、木村は1分だったそうで、隣室との仕切りが取り払われ、興奮が最高潮に達している中で、木村は、秒読みに追われ、最後に記録係から「木村先生、やってください」、と言われると、にっこり笑って「これまで」と、静かに駒を投じたとの事。その瞬間、カメラのフラッシュとライトが二人に注がれました。

⑧局後の感想を聞かれた大山は、特に何もありません、と答えるのが精いっぱいだったようで、代わりに木村が淡々と良き後継者を得たという満足感を、次のように語りました:
「私は、自分がそう老いぼれないうちに、自分より強い立派な棋士をつくることが自分に課された責任だと考えていましたが、このたび大山さんのような後継者を得て、責務の一端を果しえたと満足に思っております。」

⑨大山が木村を破って新名人になって、ついに、「名人の箱根越え」が実現しました。世間では、この関西の夢を実現するのは、升田だろうと思っていたわけですが、升田ではなくて大山が実現したわけです。升田は、戦後初めての名人戦直前の戦いで、木村に3連勝したり、陣屋事件を生んだ王将戦で木村を香落ちに追い込んだりして、圧倒的強さをみせつけていたのですが、名人戦では大山に先を越されてしまいました。升田と大山の運命的な戦いについては、また、別の機会でまとめたいと思います。

⑩木村は、自分から名人位を奪ったのが升田でなくて大山で良かった、とほっと安堵したのではないか、と推測されます。と言いますのは、木村はあえて言えば、「良識派」の代表であり、升田は「無頼派」の代表的存在だったからです。木村は、将棋界の将来のためには、トップたる者(つまり名人)は、将棋に強いばかりではなく、人格識見共にリーダーにふさわしい風格が必要だと思っていた、と考えます。これは、相撲界における横綱のあり方と共通する考え方だと思います。晩年の升田は別として、この頃の升田は、まだまだ「やんちゃ坊主」的な側面を持っていました。それに対して、大山は「紳士」であろろうと努力していて、そういったところが木村の眼鏡にかなって、「禅譲」ともいえる形で、トップの交代となった、というのはうがち過ぎでしょうか?

(3)木村名人の引退:

①1972年(昭和27年)8月14日、上野寛永寺での物故棋士追善将棋大会の席上、木村は、大要、次のように挨拶をして、自らの現役引退を発表しました:

「先の名人戦で敗れ、かねてからこの時期が来ると覚悟していた私は、じっくり考えた結果、将棋には盤上での勝負の他に『将棋道』という広い天地もあることに気づいた。そこで、この『将棋道』育成のために、一切のタイトルマッチから手をひく事を決めた。しかし、それ以外の将棋は要請があれば、大いに指してファンの期待に応えたい。」

②この挨拶を受けて、日本将棋連盟は緊急理事会を開き、木村義雄前名人を「第14世名人」に推挙することを決めました。(五期以上名人位にあった者を終生名人とする、という連盟規約に基づく決定)。

③なお、木村前名人が言った「タイトルマッチ」とは、名人戦・九段戦(全日本選手権戦)・王将戦等のタイトルをかけた棋戦をさしていったものです。これについて、将棋連盟の渡辺会長は、「木村14世名人は、連盟規約の新しい解釈で、終身現役の扱いを受ける。今後は、タイトルマッチ以外の模範対局等・指導対局を通じて将棋界で活躍してもらう」、と語りました。

④木村14世名人は、引退のあいさつで『将棋道』と述べたとおり、将棋を単なる勝負の世界の娯楽と終わらせてはならない、という強い信念を持っていたと思われます。明治時代には、柔術が柔道へ、剣術が剣道へと呼称を変えたように、次々と「道」という名称を使って、単なる技術ではなく、技術の向上を目指すことで、人生を生きてゆく「道」を究める、といった考え方が主流となりました。木村もそのような風潮の中で、将棋に強いだけではいけない、人間としても尊敬される棋士でなければいけない、という思いを強くしたのではないでしょうか?

⑤木村は1905年(明治38年)下駄屋の職人の子として東京に生まれました。11歳の時に、関根門下に入って、順調に棋力を伸ばし、22歳で八段に昇段しました。当時としては前例のない若さでの八段誕生であり、まさに、将棋の王道を歩んできました。その後の活躍は、私のコラム「将棋の歴史(2)と(3)」で述べたとおり、華々しいものがあります。木村は、将棋の不敗の王者として、双葉山と並び称され、多くのファンを引き付けていました。彼には、双葉山のような、勝負を超えた勝負師としてのオーラがあったのでしょう。

⑥木村は、連盟会長として、段級位の廃止や順位戦の創設等に辣腕をふるい、棋士同士の対立の原因ともなっていた古い師弟関係等のしきたりの排除に努めました。そして、1986年(昭和61年)11月17日、奇しくも「将棋の日」に81歳で亡くなりました。『将棋道』の確立に努めた一生だった、と言えると思います。

(4)第三期九段戦:

大山九段の連覇をうけた「第三期九段戦」は、C級2組以上の全員参加へとさらの構成を拡大しました。その結果、「名人戦」、「王将戦」と並ぶ三大公式戦となりました。

①さらに、準々決勝から挑戦者決定戦となる決勝戦まで、3番勝負となりました。ただし、九段位争奪戦は、従来通りの5番勝負のままで、変更ありません。

②挑戦者決定戦は、塚田、升田の戦いとなり、塚田が2勝1敗で升田を退けて、挑戦権を獲得しました。

③九段決定戦は、塚田と大山が、交互に勝ち負けを繰り返して、2勝2敗となり、九段位の行方は最終第5局にもつれ込みました。大阪府下高石町の「羽衣荘」で行われた第五局は、1952年12月19日、塚田の勝利で幕を閉じました。

④この結果、大山は「永世九段」の資格を取り損ねました(規定によれば、三期連続で九段位を確保した場合、永世九段位が得られたのです)。

⑤一方、名人位を失って以来、無冠だった塚田は、久しぶりのタイトル獲得で喜びも一入であったろうと推測されます。

⑥この九段戦の発足時、自身の意匠による優勝杯を下賜された秩父宮殿下が、年明けすぐの1953年(昭和28年)1月4日、永眠されました。塚田九段にとっては、九段位獲得を報告する前に亡くなられてしまい、残念だったと思われます。

(5)第二期王将戦:

これまではA級上位5名によって「王将位」が争われていた王将戦は、今期から、九段戦同様に機構を一新、C級2組以上の全員参加へと改正されました。。

①王将挑戦者は、以下のように一次予選、二次予選を経て行われるリーグ戦の優勝者に決められました。

1)B、C級の全棋士参加によるトーナメント戦で第一次予選を行い、勝者10名を選出する。

2)その10名とA級の下位6名を加えた16名で、第二次予選としてのトーナメント戦を行う。

3)勝ち残った4名とA級上位者でリーグ戦を行い、その優勝者を「王将挑戦者」とする。

②指し込み制度と、王将決定戦については、以下のように変更されました。

1)指し込みの挑戦を受けるのは、王将(升田)対名人(大山)の三番勝負の勝者とする。

2)その勝者と①で決められた挑戦者の間で、指し込み七番勝負を行い、勝者に『王将位』が贈られる。

3)ただし、一方が初戦から三連勝した場合、三連勝した棋士を勝者とみなし、第四局は行わず、別に、両者間で、香落ちを一局行う。

③王将戦の最大の魅力は、「王将位」よりも、「王将対名人」の苛烈な「指し込み制度」にあったのですが、その影響が大きすぎるという事で、大幅に変更されました。

④リーグ戦で優勝し、王将挑戦者になったのは、丸田八段。そして、被挑戦者決定三番勝負は、升田王将と大山名人とで争われましたが、2勝1敗で勝ち抜いたのは大山名人でした。

⑤大山名人と丸田八段の七番勝負は、1953年(昭和28年)1月19日から開始されました。戦いは、3勝3敗までもつれ込み、3月26日、東京芝の「佐々木旅館」で決勝の第7局が行われました。この第7局は、大山名人が勝利し、二冠に輝きました。もし、塚田との九段戦に勝っていれば、三冠を独占することになったのですが、この時は、二冠にとどまりました。

2.4.1953年(昭和28年)~1954年(昭和29年):大山時代始まる

この年、名人戦と王将戦の挑戦者は升田となり、大山・升田、という同じ組み合わせで、九段位以外のタイトル争奪戦を戦う、という事になりました。この年は、2回とも、大山の勝利に終わり、いよいよ、大山時代の到来か、と思わせる年となりました。大山の兄弟子、升田には受難の時代が始まった、とも言えます。

(1)第七期順位戦と第12期名人戦(大山名人連覇):

①第七期順位戦は、前期に決まったルールに従って、A級9名、B級1組17名、B級2組7名、C級1組13名、C級2組13名で行われました。

②A級では、升田八段、塚田九段、松田八段の3名が6勝2敗で同率トップとなり、3人による名人挑戦者決定戦が行われました。

1)第一次戦は、松田八段と塚田九段の一番勝負で、1953年(昭和28年)3月16日に幕を開け、塚田九段が勝利しました。

2)第二次戦は、塚田九段と升田八段の三番勝負、第一局は3月21日、第二局は3月25日に戦われましたが、いずれも升田が勝ち、名人挑戦者に決まりました。

③A級・B級・C級の昇級・降級は以下の通りとなりました。

1)A級からB級1組への陥落は2名、B級1組からA級への昇級は3名でした。

2)B級1組からB級2組への陥落は5名、B級2組からB級1組への昇級は2名でした。

3)B級2組からC級1組への陥落は1名、C級1組からB級2組への昇級は3名でした。

4)C級1組からC級2組への陥落は1名、C級2組からC級1組への昇級は3名でした。

④第12期名人戦は、大山と升田との戦いになりました。今までは、名人挑戦権を巡って三度戦い、いずれも大山が勝利しましたが、いよいよ、名人位を巡っての激突、となったわけです。

1)第一局は、4月13・14日、東京代々木の「初波奈」で行われ、大山名人の勝利、升田八段は、途中まで優勢でしたが、負けてしまいました。残り時間は、大山は21分、升田は1分の大勝負でした。

2)第二局は、4月27・28日、名古屋の「八勝館」に場所を変えて行われ、大山名人の連勝でした。升田八段は、この局も優勢だったのですが、途中から巻き返され、157手の大熱戦の末、敗れました。

3)第三局は、5月11・12日、別府の「杉の井」での戦いとなり、185手までで、升田八段が一矢を報いました。

4)第四局は、5月25・26日、仙台市「東華ホテル」で行われ、大山名人が快勝し、名人防衛に王手をかけました。

5)第五局は、6月8・9日、大阪阿倍野の「白良荘」で行われ、104手までで、大山名人が勝ち、二期連続で名人位に輝きました。

⑤升田は、またしても大山に敗れ、名人戦では大山に勝てない状態が続きました。

(2)第四期九段戦(塚田九段連覇)&第6回全日本選手権戦:

①1952年(昭和27年)末から、C級全員による第一次戦が始まり、上位2名が、引き続き第二次予選へと勝ち上がりました。

②第二次予選は、B級全員と、C級から勝ち上がった2名を加えて行われ、上位4名が挑戦者決定戦へと進みました。

③挑戦者決定戦は、塚田九段を除くA級全員(8人)と第二次予選を勝ち抜いた12名による、3番勝負によるトーナメント戦で戦われ、稀代の勝負師とうたわれた花村八段が優勝しました。

注:
大山名人は、この時、A級を超えていますから、このトーナメント戦には参加していません。

④大いに期待された花村八段でしたが、5番勝負は、塚田9段の3連勝であっけなく決着がつき、塚田九段が防衛に成功しました。

⑤この後、恒例により、塚田九段と大山名人による実力日本一をかけた五番勝負(第六回全日本選手権戦)が行われましたが、塚田九段がまったく精彩を欠いて3連敗してしまいました。

(3)第三期王将戦(大山王将連覇):

①王将挑戦者を決めるために、前回と同じ要領で、C級以上が全員(A級上位者5名は除く)参加した一次、二次、三次予選が行われ、そこを勝ち抜いた3名と、A級上位者5名を合わせた8名によるリーグ戦が行われました。

②王将挑戦者決定リーグ戦では、升田八段が、6勝無敗1持ち将棋、という圧倒的成績で優勝し、挑戦権を獲得しました。なお、今回までは、順位戦でA級の上位者から、本戦へのシード者を決めていましたが、次回からは、独自の体制を取る意味において、今回のリーグ戦の上位4名を次回のリーグ戦へシードする事になりました。

③王将位決定戦は、1953年12月2・3日、東京山王台の「星ケ岡茶寮」で始まり、翌年の2月12・13日の第六局ま戦われました。第一局と第二局は大山が勝ち、第三局で升田が一矢報いますが、第四局で、再び大山が勝ちました。土俵際に追い詰められた升田は、第五局は何とかしのぎましたが、第六局でついに力尽き、大山が王将防衛に成功しました。これで、大山は、名人戦に続いて升田を連破して、二期続けて名人と王将の二冠を獲得した事になります。

(4)新しい棋戦:

①この年(1953年)、日本経済新聞社により、「王座戦」が優勝棋戦(タイトル戦ではなく)として創設されました。

1)この優勝戦としての王座戦の決勝戦は、翌年以降3番勝負となりました。1983年(昭和58年)にタイトル戦に格上げされ、その年は3番勝負でしたが、1984年(昭和59年)以降は、5番勝負となりました。現在は八大タイトル戦に加えられています。

2)優勝戦時代の王座戦の歴代優勝者と準優勝者を、下の表3にまとめて示します。表2からもわかるように、最初の年(1953年)の優勝者は、大山名人で、その後、3連覇しています。

②三社杯B級選抜トーナメントが、ブロック紙三社連合(中日新聞社、西日本新聞社、北海道新聞社)の主催で、この年(1953年)から始まりました。

1)この棋戦は、1958年まで続き、1960年からは王位戦として、再出発しました。王位戦は、現在は八大タイトル戦の一角を占めています。

2)三社杯の歴代の優勝者を下の表4にまとめて示します。

(5)東西対抗勝継戦:

①1951年(昭和26年)から始まった東西対抗勝継戦は、今年で第3回目を迎え、松下力八段が12連勝という快挙を成し遂げました。この棋戦で10連勝以上が出たのはこの第3回目が初めてでした。

②この勝継戦は、1967年まで続きましたが、10連勝以上が出たのは、この後は、下記する3回だけでした。

1)第6回(1956年)
大友昇五段
14連勝

2)第15回(1965年)
内藤國雄七段
15連勝

3)第16回(1966年)
西村一義五段
11連勝

2.5.1954年(昭和29年)~1955年(昭和30年):

(1)第八期順位戦と第13期名人戦(大山名人3連覇):

①第八期順位戦は、従来のルールに従って、A級11名、B級1組13名、B級2組12名、C級1組13名、C級2組12名で行われました。

②A級は、升田八段と塚田九段が7勝3敗で同率トップとなり、名人挑戦者決定戦が3番勝負で行われました。1954年(昭和29年)3月に行われた第一局と第二局は、いずれも升田八段が勝利し、名人争奪戦は前年に続いて再び、大山と升田の対決となりました。

③A級・B級・C級の昇級・降級は以下の通りとなりました。

1)A級からB級1組への陥落は3名、B級1組からA級への昇級は2名でした。

2)B級1組からB級2組への陥落は2名、B級2組からB級1組への昇級は2名でした。

3)B級2組からC級1組への陥落は1名、C級1組からB級2組への昇級は2名でした。

4)C級1組からC級2組への陥落は2名、C級2組からC級1組への昇級は2名でした。

④第13期名人戦は、4月12・13日に始まった第一局、から5月10・11日の第三局まで、大山名人が3連勝し、あっという間に名人防衛に王手をかけました。しかし、第四局では升田が勝ち、土壇場で踏みとどまりました。第五局は、6月7・8日と渋谷の「羽沢ガーデン」で行われ、136手までで大山が勝ち、升田は再び、名人への望みを絶たれたのです。

⑤大山は、これで3期連続の名人となり、いよいよ「大山時代」がきた事を世間に示しました。

(2)第五期九段戦(塚田九段3連覇)&第7回全日本選手権戦:

①第五期九段戦は、従来の第一次、第二次予選を勝ち抜いた7名と、A級下位5名とで、第三次予選を行い、そこで勝ち残った3名が、最終の九段位挑戦者決定戦へと進みました。

②九段位挑戦者決定戦は、A級の上位5人と、三次予選で勝ち残った3人を合わせた8人で、3番勝負によるトーナメント戦で行われ、松田八段が升田八段を破って、挑戦者となりました。

③最近の他の棋戦で塚田九段が不調であり、一方、松田八段は升田八段を下しての挑戦でしたから、事前の予想では、松田八段がが圧倒的に有利でした。しかし、今回の九段戦で勝利すると、三期連続の九段となり、永世九段位を獲得できるので、塚田九段も必死の覚悟で臨みました。

④結果は、誰も予想だにしなかった、塚田九段の三連勝での防衛となり、永世九段位を獲得したのです。なお、最終の第三局は、1954年(昭和29年)11月27日、東京本郷の「龍岡旅館」で戦われました。

⑤九段戦の後、塚田九段と大山名人による実力日本一をかけた五番勝負(第7回全日本選手権戦)が行われ、、今度こそ、塚田九段が3勝2敗で大山名人を破り、初の実力日本一の栄冠を手にしました。

(3)第四期王将戦(大山王将3連覇):

①王将挑戦者決定リーグ戦は、8名で戦われ、松田八段が7戦全勝という偉業を達成して挑戦者となりました。なお、今年からは、王将と名人が別人の場合には、名人も予選から参加する事になり「被挑戦者決定戦」は廃止されました。今回は、王将と名人はともに、大山でしたから、予選には参加せず、王将決定戦で、大山と松田が7番将棋で対決する事になりました。

②7番勝負の第一局は大山が勝ち、第二局は松田が勝ちました。その後、第3局から第5局まで大山が3連勝して、4勝1敗となり、挑戦者の松田八段を退けて、王将位の確保に成功しました。それと同時に、松田を「半香落ち」に追い込んだのです。。

③タイトル戦の結果はすでに決まっておりましたが、規定により、第6局は大山王将の香落ちでの戦いとなり、松田が勝ちました。最後の第7局は、平手での戦いで、この時も松田が勝ち、通算戦績は、4勝3敗となりました。

④香落ち戦は、過去において、丸田八段が木村名人に、大山九段が塚田前名人に、木村名人が升田八段に指しこまれて手合いを直された例はありますが、実際に戦われたのはこの時が最初です。そして、この時の戦いでは、香を落とした方が勝ちました。

(4)早指し王位決定戦:

①1951年(昭和26年)から産経新聞の社の主催で始まった「産業杯争奪トーナメント戦」は、この年から「早指し王位決定戦」と名前を変えて再出発しました。

②この棋戦は、1959年まで続き、その後、三社連合(中日新聞社、西日本新聞社、北海道新聞社)と共同開催の王位戦を経由して、1962年に棋聖戦へ移行しました。

③早指し王位決定戦の歴代優勝者を下の表5に示します。

(5)新しい棋戦:

①1954年(昭和29年)から共同通信社が主催して「九、八、七段戦」が始まりました。これは、順位戦のA級とB級棋士全員を対象と棋戦で、1956年(昭和31年)まで続き、翌年からは「日本一杯争奪戦」と名前を変えて1960年まで続き、さらに、翌年からは「最強者決定戦」となって、1973年まで続きました。そして、1975年からは「棋王戦」となり、現在に至っています。

注: 棋王戦は、八大タイトル戦(名人、竜王、王将、棋聖、王位、王座、棋王、叡王)の一つです。

②「九、八、七段戦」の第一回の優勝者は、丸田八段でした。歴代優勝者を左の表6にまとめて示します。

3.昭和20年代の棋戦について:

昭和21年から順位戦が始まって、名人戦が新しいルールの下で行われるようになりました。その後、順位戦での順位を基準に新しい棋戦が続々と生まれ、棋士にとって、対局数も増え、経済的にも潤う、という嬉しい循環が始まりました。

(1)順位戦参加者数の推移:

1946年(昭和21年)5月から第一期順位戦が始まり、1947年(昭和22年)2月に終了しました。昭和20年代の順位戦の参加者数の推移を下の表7にまとめて示します。

①A・B・C級総勢59名でスタータした順位戦は、1954年(昭和29年)でも62名と、あまり大きな変化はありません(ただし、C級以下には「予備級」がありますが、その人数は不明)。

②各級ごとの人数の配分を均等化する、という意味も兼ねて、1949年(昭和24年)からはC級が1組・2組に分割され、さらに、1953年(昭和28年)からはB級も1組・2組に分割されました。そして、同時に、A級=八段、B級1組=七段、B級2組=六段、C級1組=五段、C級2組=四段、と、各級に始めて昇級した時に昇段する、というように昇段規定も明確化されました。

③予備級からC級2組に昇級して、初めてプロ棋士として認められます。

④A級に在籍している事が、一流棋士の証でもあります。

(2)三大タイトル戦と全日本選手権戦の優勝者の推移:

戦後のの「三大タイトル戦」と「全日本選手権戦」の勝者の推移を下の表8にまとめて示します。

①もっとも価値の高いタイトルである「名人」を獲得したのは、木村・塚田・大山の3名だけですが、升田幸三が3回挑戦して3回とも敗れているのをみると、まさに「悲劇の主人公」そのものと言えそうです。

②王将戦・九段戦・全日本選手権戦の勝者を眺めても、木村・塚田・大山の3名以外で、名を連ねているのは、升田幸三(王将で一回)と萩原淳(全日本選手権戦で一回)のみであり、木村・塚田・大山の3名の実力がいかに優れているかを示しています。

③九段戦と全日本選手権戦とは、複雑な関係がありました。まず、名人は九段戦に参加できないのです(したがって、名人が九段位を取ることはできない)。名人は九段と全日本選手権戦を戦うのですが、この戦いの意義が、あまり明確ではありませんでした。逆に、九段は名人挑戦者となれるので、名人にもなれる、という一寸不都合な関係があったのです。この不都合は、第七期九段戦から解消されました(名人も九段挑戦者決定リーグ戦に参加できる事となったのです)。

(3)その他の棋戦の優勝者の推移:

1951年(昭和26年)以降、新しく創設された棋戦の優勝者(と準優勝者)を下の表9にまとめて示します。

①この表9を見ると、表8でも良く登場する、木村、塚田、大山の3名と升田の名前が登場しています。この4人以外では丸田祐三の名前も見てとれます。

②表8、表9に名が出てくる棋士は、順位戦A級の棋士とともに、昭和20年代のトップ棋士、と言えると思われます。

4.最後に:

玉音放送に全国民が涙して、焦土と化した日本がたくましく再起していった昭和20年代、将棋界も同じようにゼロから再出発して、現在へとつながる隆盛への基盤を固める事に成功した、と言えると思いますが、それには、木村14世名人を中心とする、関係者の涙ぐましい努力があったものと推測されます。

①木村14世名人の大英断で始まった順位戦は、名人戦の価値を高めるのに大いに貢献しました。同時に、導入された段位制の廃止はすぐに撤廃に追い込まれましたが、当時の棋士の苦しい状況を考えれば、やむをえなかった、と思われます。実力を試し、同時に、対局料もいただける棋戦が、ほとんどない時代、「段位」という権威で、棋士の立場を守り、生活の糧を得る、というのは最後の手段だったのではないでしょうか?

②1949年7月29日、単なる任意団体だった「大成会」は、社団法人「日本将棋連盟」として再出発するのに成功しました。これにより、将棋連盟は、法人格を取得することができました。

③名人戦の主催者が、毎日新聞から朝日新聞へ移る、という思わぬ騒動がありましたが、結果として、読売新聞を含めた三大新聞がすべて棋戦を主催する事となり、現在へとつながる「三大タイトル戦」が生まれました。そして、このような棋戦の成功を見た各新聞社が、次々と新しい棋戦を企画してくれました。これにより、将棋連盟の経営基盤は、次第に固まってきました。そして、棋士たちもプロとして、将棋一本で生計を立てることが出来るようになっていったのです

④戦前の将棋界を支えた「関根」「坂田」の両巨頭はなくなりましたが、その後を「木村」が引き継ぎ、そして、「大山」へと引き継いでいった時代でした。しかし、事はそう単純ではなく、合間合間に、「塚田」や「升田」といった強豪が割り込んで、将棋界を盛り立てました。

⑤陣屋事件を、私は、「無頼派」と「良識派」の対立、といった側面から分析してみましたが、その面で眺めると、「関根⇒木村⇒大山」、と言った系譜が良識派の系譜であり、「坂田⇒塚田⇒升田」の系譜が無頼派の系譜だと思います(「無頼派」という言葉は不穏当ですが、お許しください)。穏当な言い方に変えれば、主流派と反主流派と言ったほうが良いかもしれません。

⑥主流派の源流は、「将棋三家」となりますが、反主流派の源流は、「天野宗歩」だと思います。「天野宗歩」の棋力は、将棋三家を凌ぐ、と言われましたが、彼はついに八段にはなれませんでした。そこで、彼は、大橋本家を離れて「一匹狼」として、実力で、将棋三家の権力に歯向かうわけです。天野宗歩の高弟(四天王の一人)小林東四郎は後に小林東伯齋と名乗り、関西名人(大阪名人)と呼ばれました。関根金次郎と争った坂田三吉は、小林東伯齋の弟子でした。一方、関根金次郎は、将棋三家の一つ伊藤家の門下生として地歩を築き、ついに名人に昇り詰めるわけです。

次回は、大山康晴の独壇場に待ったをかけた升田幸三の活躍、そして、その後の大山時代と発展していった、昭和30年代を中心に調べてまとめるつもりです。

参考文献:

1.「将棋の歴史」、増川 宏一、平凡社新書
2.「将棋の駒はなぜ40枚か」、増川 宏一、集英社新書
3.「昭和将棋史」、大山 康晴、岩波新書
4.「将棋百年」、山本 武雄、時事通信社
5.「昭和将棋風雲録」、倉島竹二郎、講談社
6.「将棋 八大棋戦秘話」、田辺忠幸 編、河出書房新社
7.インターネットのウィキペディア

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