将棋の歴史(2):明治から敗戦まで

前回は、江戸時代までの将棋の歴史をまとめました。今回は、明治維新を経て、将棋の世界がどのように発展していったかを、まとめてみました。

1.幕末から明治:

明治維新により幕府が消滅して、将棋家はなくなりましたが、将棋そのものは、お金持ちや名士のみならず、一般庶民にも広く愛されてたくましく発展していきました。

(1)幕末の将棋事情:

第十世名人「六代目伊藤宗看」が1843年に死去してから、名人位は空位のままでした。しかし、それにも関わらず、一般庶民の間では、将棋は着実に愛されていました。

①1857年(安政4年)に刊行された「将棋段式人名録」は、大橋家の門弟をほぼ網羅していますが、それによりますと、大橋家以外の有段者の数は、今までの最高で282人となっています。これを地域別にみますと、江戸71人、大阪25人、京都23人で、この3大都市で全体の4割強を占めています。次いで、伊勢23人、遠州16人、尾張13人、信州11人と続いています。また、これまで有段者のいなかった奥州二本松や羽州秋田、さらには、九州の筑前や薩摩に至るまで、ほぼ日本全域にわたっています。

②幕末近くになると、自発的な将棋会が各地で盛んに行われるようになりました。地方の強豪を1枚の刷り物にして、相撲の番付のように大関、関脇などの順位が示されたものが残されています。世話役や寄付金を拠出した勧進元も記されています。最も大規模な将棋大会は、和泉・河内合同で催され、河内方の指し手182人、和泉方は180人でした。このほかに、頭取、行司、世話役を含めると、436人もの名前が記載されています。

③この時の将棋番付を見ますと、大橋家から段位の免状を受けた者が極めて少なく、①で述べた「将棋段式人名録」に初段と記載されていた一人は、関脇となっており、もう一人の初段は勧進元になっていました。この二人以外に有段者として登録されていた人はいません。東西の大関二人は、「将棋段式人名録」に記載されておらず、初段の免状を受けた人より強い無段者がいた、という事がわかります。幕末には、大橋家の免状にこだわらない強豪が現れ、実力本位で評価するようになり、それだけ、免状の価値が下落していた、と言えると思います。

④有段者より強い無段者が生まれた大きな要因は、棋書が広く普及した事であろう、と思われます。1758年(宝暦8年)に刊行された「将棋独稽古」には、既に定跡化された各種の布陣が掲載されています。そして、1804年(文化元年)に刊行された「將棊絹篩」は、駒落ち戦と平手戦の戦法を網羅していて、実践に役立つものでした。これらのほかにも何種類かの棋書が出板されており、もはや、大橋家の道場を訪れなくても、巡回して来る高弟たちに習わなくても、ある程度、棋力を向上させることが出来るようになってきたわけです。

(2)将棋三家の消滅:

1867年(慶応3年)10月14日、徳川慶喜は大政奉還を願い出て、10月24日には将軍職の辞職を願い出ました。こうした大変動の中、将棋三家は消滅する事となりました。

①徳川慶喜が大政奉還と将軍職の辞職を願い出た翌月、11月4日に、大橋本家から寺社奉行に対して、5年前から中止されていた御城将棋を開催して欲しいと願い出ました。しかし、「公方様がお留守のため」、という理由で却下されました(この時、慶喜は京都に滞在中)。

②同じ年(1867年)の年末までに、4人いた寺社奉行のうち2人が辞職し、翌年(1868年)1月に鳥羽伏見の戦いが始まると、残りの2人も辞職しました。これで、将棋家(と囲碁家)を直接支配していた体制は崩壊してしまいました。4月には、200年続いた「お目見え」が廃止されました。これは、事実上の解雇を意味します。6月に、学問所頭取の林又三郎から、将棋家と囲碁家を支配する旨の通知があり、7月には、「碁将棋の者は、住所氏名禄高を書いて提出せよ」との命令が出されました。8月に入って、11代大橋宗桂は、拝領地を引き続き所有させてほしいとの願書を提出しました。9月になると、年号は明治に変わりましたが、新政府の行政機構はいまだ不安定のままでした。10月には、居住地を支配している役人から土地に関する願書を提出せよ、という命令が出されました。

③明治初期は混乱のさなかにありました。明治2年(1869年)6月、11代宗桂は家督を息子の宗金に譲りましたが、幕府がなくなったために、宗金は12代宗桂を襲名できず、幼名のまま家督を相続しました。なお、宗金の棋力は見るべきものがなく、将棋家としての権威は高弟たちによって支えられました。7月に、宗桂に拝領地を使用してもよい、地代は上納せよ、という通知がありました。これにより、家賃収入は継続され、生活は安定しました。

④1871年(明治4年)、いわゆる秩禄処分に準じて、東京府は宗桂に「2年分の禄高を下賜し、暇を申し付ける」という証書を下しました。翌年3月には、東京府から、「能役者、絵師、碁将棋の者は平民籍に編入する」という決定がなされ、御用達町人としての身分も終了しました。

⑤1873年(明治6年)、宗金の「将棋指南と共に膚着販売を兼業にしたい」という区務所へ届け出た書類が残っています。宗金は棋力が低く、高弟が補佐しても、将棋指南のみでは不安だったのではと想像されます。この他に、宗金は、将棋駒の製造販売も行っていました。とはいっても、生活が苦しかった、とは言えないと思われます。というのは、前のコラム(182.将棋の歴史(1))で述べたとおり、大橋家の収入の柱は、拝領地から入る地代家賃であり、それは、明治に入っても保証されていたからです。

⑥将棋家は、幕府の崩壊とともに消滅しましたが、それまでの儀礼的な束縛(冠婚葬祭への出仕、お目見え、お暇、各種のお礼参り等々)から解放されましたので、自由時間が増え、将棋大会への参加や、将棋関連事業も容易に行えるようになりました。このように、明治維新によって、失うものも多かったのですが、それを上回る自由を得ることが出来たのは、将棋界の将来にとっては、良かったと言えると思われます。

(3)明治前半期-伊藤名人襲位:

維新の激動期を過ぎると、将棋界も落ち着いてきて、長い間空位であった名人に、1879年(明治12年)、旧将棋三家の一つ伊藤家の当主八代目伊藤宗印が、十一世名人として襲位しました。将棋界は、多くの有力者に支えられ、旧将棋家を権威としてあおぎ、それなりに発展を続けました。

①大橋本家の家督を継いだ宗金が、整理した門人帳が残っています。表紙には明治3年10月吉日と書かれており、とりあえず、整理したものと思われます。明治6年(1873年)頃に作られた大橋家の「将棋段式人名録」には、小野五平6段(1898年(明治31年)に第十二世名人に襲位)を先頭に、初段まで総勢253人の名前が記されています。有段者が最も多いのは羽州(現在の秋田県と山形県にまたがる地方)で全体の約2割、次に多いのは、三河で1割強、そして、伊勢が1割弱、となっています。幕末には、有段者は江戸・大阪・京都に集中していましたが、維新の動乱で、分布状態は様変わりとなりました。

②1877年(明治10年)11月の将棋番付「東都将棋鑑」(右の図1)には、東の大関大矢東吉7段、西の大関小野五平(左下の図2)(将棋鑑では「尾野五平」と記されています)6段を筆頭に、東西の指し手、行司、年寄を含め310名の名前が記されています。中央下部には勧進元伊藤宗印と大きく書かれ、横に小さい文字で差添大橋宗金と書かれています。宗金の棋力は低いので、伊藤宗印が中心となってまとめたものと思われます。この「東都将棋鑑」には、大橋家の門人以外にも多数の指し手が記されています。東京に限ったとはいえ、旧将棋家の消滅にも関わらず、将棋愛好者が着実に増加している事がみてとれます。

注: 小野五平は、青年時代は「土井喜太郎」と名乗っていましたが、その後、家業を継いだ時に「尾野五平」と名乗りました。そして、1879年(明治12年)に「小野五平」と改名したのです。

③1879年(明治12年)、八代目伊藤宗印が、十一世名人として襲位しました。江戸幕府が健在であれば、将棋三家の談合で決められたのですが、今回は、有力な支援者の話し合いで決められ、政財界の有力者による名人決定の第一歩となりました。宗印は、弟子達を中心に魁進社という団体を創り、「将棋新報」を創刊しましたが、わずか5年で挫折しました。。

④1881年(明治14年)大橋分家の当主九代大橋宗与が罪を得て投獄中に獄死するという事件が発生し、大橋分家は断絶しました。なお、1877年の東の大関大矢東吉七段は、大橋分家の門人でした。

⑤1890年(明治20年)10月に、愛知県豊橋町の成田屋を三日間借り切って将棋大会が催されました。会主は大橋本家の高弟で、案内状には、東京の大橋宗金が当地に来る機会をとらえて開催云々、の記述があります。棋力の低い宗金でしたが将棋家としての権威がまだ残っていたのでしょう。

⑥のちに十三世名人となった関根金次郎は後年、「明治14・15年頃、東京には将棋会所がたくさんあって、私はあちこちの会所をぐるぐる回って歩いた」、と回想しています。明治前半期は、旧将棋家の動向にかかわらず、江戸時代後半に大衆に深く根を下ろした将棋が、維新という社会的大変動に影響されず、盛んになってきた時代と言えます。

(4)明治後半期-小野名人襲位と関根金次郎の登場:

明治も後半になりますと、富国強兵策が奏功し、日清・日露の戦勝により、日本の対外進出が活発になってきましたが、国内的には戦乱が及ぶこともなく、将棋もまた、順調に普及していきました。1898年、十二世名人として、将棋家となんの関わりのない小野五平が襲位し、旧将棋家は次第に過去のものとなりましたが、その権威はまだまだ健在でした。

①1893年(明治26年)、十一世名人伊藤宗印が死去し、伊藤家の血筋は断絶しました。そして、名人位は再び空位となりました。5年後の1898年(明治31年)、小野五平が、政財界の名士たち(つまり、旧藩主や大名で明治政府により貴族に列せられた人たち)の推挙により第十二世名人に襲位し、旧将棋家以外から初めての名人となりました。なお、もう一人の名人候補は関根金次郎(下右の図3)でしたが、小野が名人に推挙された後、関根は、大橋家の門人となりました。門人帳には七段と記されています。また、小野五平は、十一世名人伊藤宗印が名人に就く前に、左香落とされで対局して、差し掛けとなりましたが、名人襲位後に再開して勝利し、自分が次期名人候補であることを世間に印象付けました。

②小野の名人披露の招待状が、当時、小野に匹敵すると噂されていた関根金次郎にきませんでした。これに立腹した関根金次郎は、小野に挑戦状を送りましたが、政財界の名士たちが間に入ってとりなし、小野の次は関根にする、という事で決着する、というハプニングがありました。この時、小野五平は67歳、関根金次郎は30歳で、小野は全盛期を過ぎてはいましたが、関根では若すぎるし、小野に花を持たせよう、という配慮もあったのではないでしょうか?
なお、小野は大方の予想を超えて91歳まで長生きし、このため、関根が名人となったのは、全盛期を過ぎた53歳の時でした。(この辺りの事情は、第2項でまとめます)。

③1900年(明治33年)に東北地方で将棋番付「荘内三郡将棋有名鑑」が刷られました。これは大橋本家の門人が選者になって刷ったものですが、そこには「将棋家元大橋宗金先生承認」と大きく書かれています。地方では、まだまだ大橋家の権威が認められていたのでしょう。この番付には、荘内三郡(鶴岡、酒田など)に住む棋士が284人、行司と年寄を含めると総数340人の名前が記されています。ただ、誰も段位は記載されておりません、ただ、大関・関脇といった記載があるだけです。

④大橋家最後の門人帳の表紙には、明治38年(1905年)と書かれています。67歳になった宗金が家督を長男の五郎に譲ったので、慣例に従い、五郎が代替わりの門人帳を作成したものと思われます。この門人帳は、段位に関係なく、入門順に書かれており、8月に総数264名で締め切られていますが、その後、84名が追加されています。なお、その門人帳には、五段坂田三吉(左の図4)、三段木見金次郎といった名前が記されています。

⑤宗金の長男五郎は、将棋の道を選ばずに別の人生を歩みましたが、最後の門人帳を作った頃に、関根金次郎と契約を交わしています。宗金の代から関根は大橋の門人の取次ぎをしていますが、五郎の代になって明文化したものと思われます。前述の門人帳で後から追加された84名は、実質上関根の弟子と思われます。関根との契約書は、関根金次郎が将棋に未熟な大橋五郎の後見人になるというもので、以下のような取り決めがなされました。

1)大橋家は棋道の統一および免状の発行などを関根金次郎に嘱託する。

2)関根は、棋道の発展研究に精励して、大橋家の名誉を汚さない。

3)大橋家発行の免状の技倆詮衡は、後見人の関根が専掌する。

4)関根は免状の発行毎に、大橋家に相当の敬意を表する事。

つまりは、将棋家としての権威は関根が引き継ぎ、そこから上がる収入の一部を大橋家に上納する、といった意味だと思われます。

2.明治末期から大正:

将棋三家が将棋界を統括していた時代は完全に過ぎ去りましたが、まだまだ、それに代わる中心が育っておらず、様々な動きがあった時代でした。

(1)明治末期-新聞の将棋掲載と棋士の派閥誕生:

明治前半期の将棋界を支えたスポンサーは、政財界の著名人をはじめ、地方の豪商、資産家、といった個人がほとんどでした。しかし、明治も後半になってくると、将棋普及の立役者として新聞が登場してきました。発行部数は少なかったのですが、読者を獲得するツールとして、棋譜を掲載する事が広まっていったのです。これは将棋界にとっては、宣伝になるとともに、収入にもなる、という一石二鳥の有り難い話でした。

①新聞に初めて棋譜が掲載されたのは、小野名人の襲位直前の1892年(明治31年)の「萬朝報(よろずちょうほう)」紙と「時事新報」紙であった、とされています。その後、1907年(明治40年)には、神戸新聞と大阪朝日新聞も棋譜を掲載するようになりました。

②この当時、関根は棋譜の掲載について新聞社に大きな影響力を持っていました。弟子を新聞社にあっせんすることによって、棋譜掲載の収入が得られるようにしてあげていたのです。弟子たちの収入を左右できることが、師匠の大きな権威とされていましたから、関根の弟子のみならず、関根の弟子との対局によって棋譜が掲載できるようになった棋士と関根との間には、いわば、親分子分のような結束が生まれました。

③関根以外の強豪棋士も、自分の力で、新聞に棋譜を掲載させることが出来ましたから、いつの間にか、こうした棋士たちの間で派閥のような対抗組織が形成されていきました。そして、明治の末期には、こうした新聞社系列ごとに棋士たちがはっきりとした派閥を創るようになりました。1909年(明治42年)、萬朝報紙が後援して、関根ら23名が参加して「将棋同盟会」が結成されました(後に、「将棋同盟社」と改称)。その後、井上義雄八段を含む数名が脱退して、井上義雄八段を会長とする「将棋同志会」を立ち上げました。これを受け、関根らは、改組して「東京将棋倶楽部」と名乗りました。

④この頃、関東を中心に将棋界には大きく四つの派閥(関根八段の「東京将棋倶楽部」、土居八段の「将棋同盟社」、大崎八段の「将棋研究会」、井上八段の「将棋同志会」)が出来上がりました(小野名人は、老齢のためか、こうした動きにはかかわっていません)。なお、関西では、1910年(明治43年)、坂田三吉を盟主とする「関西将棋研究会」が発足しました。

⑤新聞の棋譜掲載は、棋士にとって収入増に直結する有り難い存在でした。食事付きで、一局ごとに対局料が入りましたから、強豪ほど、勝ち進むことで、収入が増えていったのです。これにより、棋士の生活が安定しましたが、その反面、新聞社系列毎の棋士グループが作られ、派閥化してゆく、という弊害も生み出されたのです。

⑥将棋家が消滅した一つの弊害として、段位の規定が曖昧になり、師匠が勝手に弟子の段位を認定する、という事態も起きました。また、逆に、段位そのものの価値を疑って、免状を無視する、という棋士も現れました。さらに、賭将棋も一向になくならないばかりか、盛んになるという風潮もありました。「将棋指し」と呼ばれていた時代の名残りが、まだ色濃く残っていたのです。

(2)大正時代-関根名人の襲位と坂田三吉の登場:

大正に入っても、棋士たちの小派閥は継続され、関西には関西名人を自称していた坂田三吉らの一派があり、群雄割拠と言った時代が続きました。1921年(大正10年)、小野名人が死去すると、次の名人を巡って、関根を推す関東と坂田を推す関西で、多少のいざこざがありましたが、関根が十三世名人に襲位しました。

①坂田三吉が関根金次郎と初めて対戦したのは、1891年(明治24年)で堺の料亭で対決しました。関根は、修行遊歴中で大阪に来ており、贔屓筋から「まだ素人だが滅法将棋の強い男ががいるから対戦してみたら」、と言われて、その人に連れられて堺までやってきました。その時、関根は24歳で4段、一方、坂田は22歳、まだ無段、そこで、角落ちで対戦し、関根が勝ちました。関根の自伝によると、風変わりな力将棋で、勝てて良かった、と述懐しています。坂田は、この敗戦により、本物の将棋差しの強さにふれ、必死の修行を重ねるきっかけになったともいわれています。この二人は、その後、関東と関西を代表するライバルとして、将棋史を飾る名勝負を繰り広げました。

②1913年(大正2年)4月、坂田は初めて上京し、関根(この時は八段となっていた)と対戦し(関根の香落ち)勝ちました。この結果、正式に七段として認められました。この勝負は、“銀が泣いている”、という言葉を残した「泣き銀の一局」として有名ですし、また、この勝利により、次回の対戦は平手戦で行われる事となりました。直後の7月、大阪で関根と坂田は平手で対戦し、坂田が勝利しました。しかし、翌年大阪で対戦した時には関根が勝っています。

③1917年(大正6年)に、坂田は八段となり、翌年にかけて、関根と平手で6局対局し、四勝二敗と勝ち越しました。こうした戦績により、坂田は関根に匹敵する関西の雄としての地位を確立した、と言えるでしょう。1919年(大正8年)には、坂田は、関根の弟子である土居七段と対局して勝ちました。関根はこの頃には50歳を過ぎて、そろそろ全盛期を終わっており、一方弟子の土居七段は32歳の円熟期を迎えており、関根以上という評判もありました。その土居を破ったことで、坂田の評判はますます高まった、というわけです。

④1921年(大正10年)、小野名人が91歳で死去しました。次の名人は、小野が名人に襲位した時の経緯から、当然、関根金次郎となるべきでしが、小野が予想を超えてあまりに長生きしすぎたために、全盛期を過ぎた関根を名人に推すのに異議を唱える人もいたようです。実力的には坂田ではないか、あるいは、土居ではないか、といった意見も出されたようです。しかし、こうした異論はやがておさまって、関根金次郎が十三世名人として襲位しました。

3.大正から昭和初期:

関根名人が誕生してから、小さな集団に分かれていた棋士グループを混合した棋戦が新聞社によって計画され、対局数も増えてきて、この結果、棋士たちの生活が安定し、「将棋指し」時代が終わりを告げました。そして、関根名人の大英断により、現代に続く一年(一期)毎の実力名人制度への大改革がなされたのです。

(1)大正から昭和初期-職業として確立した時代:

①1923年(大正12年)、報知新聞が発行部数を伸ばすために新しい棋戦を企画しました。当方の東京将棋倶楽部、西方の将棋同盟社と将棋研究会で、5人抜きには賞品も出る東西対抗戦でした。この企画は順調に推移しましたが、この動きを見て、かねてから棋士の小派閥への分裂を危惧していた雑誌「ダイヤモンド」の社長石山賢吉らの仲介により、これら三派が合同して「東京将棋連盟」が誕生した。

②東京では大多数の棋士が一つにまとまりましたが、大阪では朝日新聞が「坂田三吉名人」と報道するようになりました。これは、1925年(大正14年)に京阪神の財界を中心にした有力者たちが、坂田を名人に推薦すると決めたからでした。東京への対抗意識が将棋にも影響を広げてきたと言えます。

③こうした棋士たちの離合集散とは関係なく、将棋は一般庶民の間に広まっていきました。その例を書きします。

1)1928年(昭和3年)12月、大阪朝日新聞主催の歳末同情週刊の一環として、朝日会館で将棋のイベントがあり、1,000名を超す愛好家が集まる盛会となりました。

2)大阪には著名なアマチュア団体が多数あり、例会は常に盛況でした。こうした基盤があったので、「素人将棋大会」が大阪の二会場で開かれ、合計で3,000名近い参加者がありました。

3)1929年(昭和4年)3月、上野寛永寺で青少年専門棋士講演会発会式が開催され、460名が来会し、主催者側と合わせると、500名を超す盛況となりました。

4)日比谷公園での将棋野外講演に、5,000人が集まりました。

④ただし、この時代は、各新聞社と系列化された棋士との関係は依然として密接で、棋士たちも新聞社に依存しなければ、生計が成り立たない、という状況は相変わらず続いていました。

⑤将棋愛好熱をさらに高めたのは、1933年(昭和8年)から始まった将棋のラジオ対局でした。東京放送局と大阪放送局が共催で行ったので、関東・関西対決という話題が生まれ、熱狂的に歓迎されました。というのも、それまで、東京の連盟側は、非連盟側との対局を禁止していたために、大阪の坂田三吉等との対局を拒んでいたのですが、ラジオ対局では、こうした禁止は有名無実化したからです。

(2)実力名人制度の誕生:

1935年(昭和10年)3月、関根は明後年の70歳を機会に名人を退くと発表し、江戸時代から約300年ほど続いた「終生名人」は廃止されることとなりました。

①関根は、自分が名人になったのは全盛期を過ぎてからでしたし、また、65歳を過ぎた頃から、自分の棋力の低下を自覚するようになり、名人即第一人者とは言い切れない現行の終身名人制度に疑問を抱いていました。そこで、自分が70歳になった時に引退する旨を将棋連盟顧問の中島富治氏に秘かに相談しました。事の経緯を知った関根門下の棋士たちは、こぞって反対しましたが、関根は「男と男の約束だ」と言い切って、反対する門人たちを説得しました。

②1935年(昭和10年)3月26日、関根と将棋連盟は、それぞれ声明書により、昭和12年に関根名人が退位し、その時点で、終生名人制度を廃止して短期名人制度を導入する事を発表しました。それと同時に改革案も発表され、名人選定制度の案も提示されました。

1)第一期実力名人の選定方法: (二年間にわたって全八段と七段によるリーグ戦の結果で決める)

・ 全八段の先後二局宛の特別リーグ戦を行い、その平均点に100分の55をかけたものを各人の得点とする。

・ 特別リーグ戦以外の対八・七段戦の平均得点に100分の45をかけたものを各人の普通棋戦の得点とする。

・ 特別リーグと普通棋戦の得点を合計して成績順位を決め、第一位と第二位の得点差が8点以内の場合、二人で先後6回の決勝対局をして勝者を名人とする(3勝3敗の時は、一位の者が勝者となる)。第一位と第2位の得点差が8点以上の場合は、第一位の者が名人となる。

2)第二期以降の名人の選定: (第一期名人を選定したのと同じ方法で挑戦者を決める)

・ 名人と挑戦者で、平手先後7番勝負を行い、勝者が名人となる。敗者は八段として次期特別リーグ戦に参加する。

(このほかに、成績により、特別リーグに参加できる棋士、出来なくなる棋士等々細かな規定がありますが省略します。

③この案に従って、同年6月から7名の八段による特別リーグ戦が始まりました。ところが、11月に、関西の神田辰之助七段を八段に昇段させるか否かを巡って、連盟の分裂という最悪の事態となってしまいました(神田事件)。両派ともに、関根名人の門下であり、関根は両派をとりもつべく、伊藤宗印名人門下の兄弟子で、伊勢で余生を送っていた小菅剣之助八段に仲介を依頼しました。小菅翁は、72歳になっていましたが、両派の中に入って和解させることに成功し、翌年6月に上野公園「精養軒」で手打ち式が行われました。

注: 神田事件とは、神田七段を八段に昇段させるべきだと花田長太郎と金子金五郎が、連盟を脱退し、神田七段らと「革新協会」を設立した事件です。これは、神田七段のバックにいた大阪朝日新聞と名人戦を企画した毎日新聞の代理戦争といわれています、

④この和解により、1936年(昭和11年)に全国組織としての「将棋大成会」が誕生しました。この会の名付け親は、関根名人と小菅翁であり、この会が、戦時中の中断を経て、1949年(昭和24年)に社団法人日本将棋連盟に改組され、2011年(平成23年)に公益社団法人となって、現在に至っています。

(3)第一期実力名人の誕生:

①大成会が発足して、万々歳となるはずでしが、関西名人を自称していた坂田三吉が参加できない事が大きな問題となりました。坂田は、関根の名人襲位を巡る混乱を契機に、16年の長きにわたって中央期界と絶縁状態となっていたのです。実力名人制度に基づく名人戦は毎日新聞がスポンサーであり、一方、坂田の後援者は読売新聞でした。いろんな経緯がありましたが、最終的に、坂田が木村義雄八段、花田長太郎八段と対局することで決着を見ました。

注: 木村は、大成会に一本化される前の連盟側の第一人者、花田は脱退側の第一人者と目されていました。

②この対局は、結局、坂田が連敗して、新しい名人戦の価値を不動のものとしましたが、万が一、坂田が勝っていたら、折角の関根の大英断も無に帰するところでした。第一期の実力名人となった木村義雄は、後年「あの時の一戦は、私にとって一世一代の大勝負だった。もしも敗れたら、たとえ名人に推挙されても辞退する覚悟だった」と述懐しています。なお、この戦いで、坂田は、二戦とも初手で端歩を突く、という奇策を用いましたが敗れました。

注: 木村と坂田の対局は南禅寺で、花田と坂田の対局は天龍寺で、それぞれ、7日間(持ち時間30時間)にわたる決戦で、それぞれ「南禅寺の決戦」「天竜寺の決戦」として大注目を集めました。

③第一期名人決定戦リーグは、こうした波乱はあったものの、順調に進み、その最終戦は、それまでトップの木村と、2位の花田との戦いとなりました。もし、花田が勝つと、両者の点数差は8点未満となって6番勝負にもつれ込みますが、もし、木村が勝てば、得点差が8点以上に開くので、決勝6番勝負を行わずに、木村義雄が第一期実力名人となります。この戦いは、最初は千日手で無勝負となりましたが、再戦で木村が勝ち、第一期実力名人の栄誉は木村八段が獲得しました。

④1938年(昭和13年)2月11日の紀元節の日、東京赤坂の大成会本部で、木村新名人の襲位式が盛大に挙行されました。昨年の紀元節の日は、奇しくも南禅寺の決戦で坂田三吉を破った日であり、木村新名人にとって、紀元節は、心に残る記念すべき日となりました。

(4)終身名人制度を振り返る:

実力名人制度が誕生したこの時に、終身名人制度を振り返ってみましょう。歴代の名人を下左の表1にまとめて示します。

①表を見ればわかるように、名人空位の時期が4回ありました。

1)最初は、八世名人が生まれるまでの空白期間は、名人と呼ばれるにふさわしい棋力を持った後継者が、将棋三家に育っていなかったため、と思われます。大橋本家の嫡男が、1785年、41歳で八段に昇段し、その4年後に名人の襲位が認められました。

2)2回目の空位の時も、名人にふさわしい棋力を持った後継者がいなかったため、と思われます。六代目伊藤宗看は、九世名人が死去した時はまだ七段でしたが、1815年頃には、八段に昇段したものと思われます。そして、大橋本家、分家のライバルとの戦いにも勝ち、1825年に名人位を襲位しました。

3)3度目の空位は、幕末の混乱期だった、という事情もありました。明治に入ってからは、将棋三家も消滅しましたが、後援者たちの推挙により八代目伊藤宗印が名人となりました。

4)十一世名人が死去した後もしばらくは後継名人が決まりませんでした。候補者としては、小野五平八段がトップでしたが、関根金次郎を推す人もあり、しばらく様子見となったと思われます。小野五平が名人位を継いだ時に、関根が招待状を巡って文句を付けた、という件はすでに述べましたが、後年、関根はその件について「生涯の一大過失」として後悔しています。

②13人の名人を眺めた場合、以下のように分類する事が出来ると思われます。

1)技術的に非常に傑出し、将棋界に貢献した人: 三世名人初代伊藤宗看、七世三代目伊藤宗看、九世六代目大橋宗英、十世六代目伊藤宗看。

2)将棋界内部の組織作りに貢献した人: 一世名人初代大橋宗桂、二世二代目大橋宗古。

3)衰退した将棋界を上流社会に推し進め将棋界の社会的地位を高めるのに後継した人:十二世名人小野五平。

4)最後の十三世名人関根金次郎の場合は、多くの有為な弟子を持ち、大正・昭和初期の将棋界に前代未聞の隆盛期をもたらしたことで、歴代名人とは異色の貢献をした名人でした。さらに、終身名人は自分を最後として、一期ごとの実力名人制への切り替えを成功させたわけであり、現代将棋の隆盛の基礎を築いた最大の貢献者といえるのではないでしょうか。

③また関根名人を最後として、いわゆる「将棋指し」の時代が終わりを告げた、と言えるでしょう。関根名人は、若い頃、師匠の十一世名人八代目伊藤宗印の勧めもあり、全国を遊歴して将棋の修行を積みました。この頃は、ほぼ無一文で旅をし、旅先で金持ちの将棋ファンに将棋を教えて謝礼をもらったり、愛好家と賭将棋をしたりして、暮らしていたのです。坂田三吉と運命的な出会いをしたのも、こうした旅先での出来事でした。

④なお、賭将棋は、将棋三家も門人に対して厳しく禁止していましたが、ほとんど守られていなかったようです。と言いますのも、将棋だけで生活ができる人は、ほんの一握りにすぎなかった、という厳しい現実があります。前回のコラムで述べましたが、1855年(安政2年)2月に、大橋門下筆頭の天野宗歩(後年、棋聖と呼ばれたほどの強豪)が、二人の高弟と組んで賭将棋をして露見し、大騒ぎになりかけたことがありました。その時は、奉行所の手先になっていた、宗歩の親戚が奔走して公にならずにすみましたが、筆頭の門弟でも師の目を盗んで賭将棋をしていたのですから、他の門人は言わずもがな、だったのではないでしょうか?。

⑤しかし、実力名人制度の導入により、プロの棋士は、賭将棋に頼らなくても生活ができる道が開けたわけであり、この意味でも、関根名人は将棋界の恩人と言える、と思われます。

4.昭和初期から敗戦まで:

名人戦を契機として、各新聞社の棋戦も注目を集めるようになり、新聞社は読者が増えるし、将棋界は愛好家が増える、といった「ウィンウィンの関係」が生まれました。昭和初期は、新聞社がスポンサーとして、将棋の発展に大きく貢献した時代と言えます。ところが、日中事変から太平洋戦争へと戦火が拡大すると、将棋界も暗黒の世界へと転落してしまいます。

(1)第二期(1940年)・第三期(1942年)名人戦:

①第二期名人挑戦者を決定する八段リーグには、坂田三吉も参加する事となり、新たに八段に昇段した者も加えた9名で、1938年(昭和13年)から1940年(昭和15年)5月まで順調に推移していきました。このリーグ戦を勝ち抜いて、木村名人への挑戦者と決定したのは54歳の土居八段でした。

②第二期名人戦は、1940年(昭和15年)6月から始まりました。第一、第二局は木村名人が勝ち、第三局は二度の千日手のあとをうけて、北海道の定山渓で戦われ、土居八段が勝ちました。この戦いは、「定山渓の戦い」として、名を残しています。続く第四局と第五局は、木村名人が勝ち、4勝1敗で名人位を守り抜きました。

③第三期名人挑戦者を決定するリーグ戦は、新たに七段リーグ戦の勝者も加えた12名を3組に分けて予選を行う、という方式で行われ、神田八段が挑戦者に決定しました。神田八段は、関西が拠点であり、東西対抗という意味で、従来にない興味を引き起こしました。

④ところが、この戦いは、1942年7月に木村名人の4連勝というあっけない結果に終わってしまいました。実は、木村名人も挑戦者の神田八段も病をおかしての戦いだったのです。二人とも、今の常識で言えば、「瀕死の重病で対戦不能、対戦は当分延期」とされるのでしょうが、二人とも勝負師であり、戦いの延期は望まなかったのです(木村名人は敗血症で17貫の体重が11貫にやせ衰え、神田八段は胸を病んで20貫近くから12貫までに激やせしただけでなく、病気進行中だったのです)。実力名人制度の導入を巡るイザコザが、二人から延期という選択肢を奪ってしまったのでしょう。

⑤神田八段は、この戦いに全力を傾注しすぎたのか、戦いが終わった後、いっそう病が進み、1943年9月、51歳の若さで帰らぬ人となってしまいました。神田八段の人生は、ある意味、劇的な人生でした。

1)神田八段は、5歳の時(1898年)に将棋の指し手であった死別し、伯父のところに養子に出されます。家業を手伝う傍ら、将棋や浪花節に夢中になったそうですが、23歳の時(1915年)に養家を飛び出して坂田三吉の下で将棋に打ち込みました。しかし、26歳(1918年)で養家に戻って、郵便配達夫となり、将棋から足を洗いました。

2)母を亡くした30歳の時(1922年)に、再び、養家を飛び出して木見金次郎八段の門人となりました。ところが、1926年、木見門下を去って、坂田の「関西将棋研究会」に移ります。この頃から、関西の次代のエースとして、大阪朝日新聞の庇護を受けるようになりました。1928年、7段に昇段します。

3)1932年、坂田が、嘱託料を巡って大阪朝日新聞と揉めた時に、大阪朝日新聞は坂田を切って神田と嘱託契約を結び、神田を盟主とする「十一日会」を結成しました。1933年、大阪朝日新聞は、「神田七段対全七・八段戦」を企画し、神田が90点以上の成績を上げれば、八段に昇段させる、という約束を東京連盟側と結びます。結果は、神田が10勝4敗で、92.8点となりましたので、当然、神田を八段み昇段させるように要求したのですが、連盟側は、神田は、八段戦では7戦全勝ながら、七段戦では3勝4敗と負け越した、という理由で難色を示したのです。これが、前記の神田事件を生み出す原因となったのでした。

(2)新聞棋戦:

①昭和10年代に入って、新聞棋戦が次々と現れてきて、昭和16年(1941年)頃には、下記のごとき盛況を呈するようになりました。

1)毎日新聞: 名人戦

2)朝日新聞: 番付将棋

3)読売新聞: 名人対八段選抜指しこみ戦と七,八段勝継戦

4)報知新聞: 昇降段戦

5)都新聞:  六、七段戦と、四、五段勝継戦

6)国民新聞: 同上

7)大陸新報: 四、五、六段トーナメント。

②上記7紙の他に、地方各紙による「土曜会」「四社連合」「学芸通信」など、ほとんど全国各紙がこぞって将棋欄を設け、空前の活況を呈していました。この結果、当時の棋士たちの生活も恵まれ、月渡し金制度が確立されて、八段300円、七段200円、六段135円、五段100円、四段45円と毎月定収があり、その他に名人戦、昇降段戦以外に対局すると、また別に対局料がもらえる、という有り難い時代でした。

注: 昭和16年頃の大卒銀行員の初任給は70円~75円、小学校教員の初任給は50円~60円でした。

(3)戦争の影:

こうした活況も戦争が拡大し、段々と負け戦になるにつれて、将棋界も苦しい時代に入っていきました。

①1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争が始まった頃は、戦勝気分で浮かれていられましたが、次第に負け戦になると、棋士も応召、徴収されるようになり、じっくりと棋戦を戦う、というムードではなくなっていきました。

②将棋に打撃を与えたのは、新聞の紙面から将棋欄が消えた事でした。最初に朝日新聞が、1942年(昭和17年)から囲碁将棋欄を休載し、次いで毎日新聞、読売新聞からも将棋欄が消滅しました。新聞は、戦争報道と、戦意高揚のための軍国美談が数多く載せられるようになり、娯楽や遊戯は戦争を続けるのに無益なものとされたのです。物資の不足から新聞用紙も統制され、1部当たりのページ数もどんどんと減少していきました。戦争末期には新聞は見開き四頁となり、敗戦直後には表裏二頁だけのビラのようになってしまいました。

③新聞の将棋欄が廃止されると、当然、棋戦そのものがなくなり、対局料の消滅など棋士たちの生活に大きな影響を与えました。若い棋士達は召集されて兵士となり、中高年の棋士達は「将棋報国隊」に組織されて、軍需工場や戦地に派遣されました。そして、高齢の棋士達は、戦火を避けて地方に疎開し、棋士の団体も事実上の解散となりました。

④将棋普及のために将棋大成会が発行していた「将棋世界」誌も、1945年(昭和20年)2月から休刊となってしまい、「将棋月報」誌も同年2月に「廃刊記念号」を出して消滅しました。こうして、将棋愛好家は、新聞、雑誌から将棋についての情報を得ることが出来なくなりました。もっとも、将棋愛好家たちも空襲が激しくなるにつれ、いつ空襲で死ぬか、住宅が焼かれるかの不安の日々を過ごしていたので、将棋を楽しむ余裕などはなかった、と言えるかもしれません。

⑤1943年(昭和18年)秋から翌年1月末まで、陸軍は当時の名人木村義雄に中国北部の将兵への慰問を命じました。拒否することは不可能で、もし、拒否でもすれば牢屋に入れられたでしょう。木村は、若手棋士3人を引き連れ、4名の慰問団で出発しました。1944年(昭和19年)から翌年の敗戦直前まで、木村は軍の指示で国内の慰問旅行を行っています。ただ、木村によると、1945年(昭和20年)になると、空襲で列車が停止したり、運休になったりして、国内の慰問旅行も楽ではなかったとの事です。

(4)第四期(1944年)・第五期(1944年)名人戦:

前述したような戦時体制となって、名人挑戦者の決定方式も簡略化されるようになりました。

①第四期は、参加棋士16名がトーナメントを行い、上位4名が「予備資格者」として木村名人と三番勝負(平と香落ちの手合い)を行って、勝ち越した場合に挑戦者となる、という簡略なルールで行われました。ところが、「予備資格者」となった4名が、いずれも、3番勝負で負け越したために、正式な挑戦者たり得ず、木村が名人位を守りました。

②第五期は、予選を廃止し、直近の成績により7名を選んで、その7名での挑戦者決定戦が行われましたが、戦局の悪化により途中で中止となり、木村名人の名人位防衛という事に決まりました。

空襲が激化し、敗色濃厚となる中で、とりあえず、実力名人は第四期、第五期と決めることが出来ましたが、1945年(昭和20年)に入ると大成会の運営も難しくなってきました。そこで、大成会として、全会員に対して、それ相応の有金を全部分配して、事実上の解散となってしまいました。そうこうするうちに、8月15日を迎え、戦争がやっと終わりを告げました。

5.最後に:

将棋の歴史について、幕末から敗戦までの発展状況をまとめてみました。

将棋三家が消滅して、将棋界は大黒柱を失いましたが、多数の有志の努力で、新しい体制が生み出され、昭和に入ると、新聞棋戦も広まって、未曾有の盛況を呈するようになりました。とくに、実力名人制度の創設は、将棋界の将来を明るくするものでした。実力名人制度の立案者は、将棋連盟の中島富治顧問で、1年くらい前から当時の関根名人とひそかに打合せ、発表に至ったものです。こうした経緯を考えると、中島富治顧問が将棋界の発展に尽くした役割は極めて大きかった、と言えます。

折角発展した将棋界も、戦争によりほぼ壊滅状態になりました。しかし、大衆に愛されていた将棋は、終戦後、不死鳥の如く立ち直ります。

次回は、終戦後の回復から、大山康晴と升田幸三の対決、さらには、中原・谷川・羽生、と連なる将棋の発展を調べてまとめるつもりです。

参考文献:

1.「将棋の歴史」、増川 宏一、平凡社新書
2.「将棋の駒はなぜ40枚か」、増川 宏一、集英社新書
3.「昭和将棋史」、大山 康晴、岩波新書
4.「将棋百年」、山本 武雄、時事通信社
5.「昭和将棋風雲録」、倉島竹二郎、講談社
6.インターネットのウィキペディア

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