将棋の歴史(1)江戸時代まで

中学生棋士、14歳の藤井4段の大活躍で、将棋への関心が一気に高まりました。私も、子供の頃に将棋を覚え、学生時代に定跡を勉強したりしましたが、社会人になってからは、すっかり忘れていました。しかし、藤井少年の活躍に刺激されて、AbemaTV やニコニコ動画で藤井4段の対局を視聴するようになり、将棋の面白さを再発見するとともに、将棋の歴史に興味を抱きました。そこで、インターネットを調べたり、最後尾の参考文献に記載した本を読んだりして、にわか勉強を始めました。そして、その第一弾として、とりあえず、明治維新までの歴史をここにまとめてみました。

1.将棋の起源と日本伝来:

(1)将棋の起源:

将棋がいつ、どこで、どのようにして生まれたのかについては、チェスの起源を調べていた西洋の学者により、ほぼ解明されました。

チェスも将棋も、北インドで5世紀頃に生まれた「チャトランガ」という二人で遊ぶ盤上ゲームから発展していったゲームだったのです。

「チャトランガ」が、アラブ経由でヨーロッパに伝わってチェスになり、アジア諸国を経由して日本に伝わって将棋になった、というわけです。なお、チャトランガは、中国では、「象棋」(シャンチー)となり、韓国では、「チャンギ」となって、楽しまれていますが、この両者ともに、日本の将棋とは似ても似つかぬものであり、日本の将棋に影響を与えてはいない、と考えられています。

「象棋」(シャンチー)と「チャンギ」については、日本将棋連盟のホームページで紹介されています。

(2)日本伝来:

将棋がいつ、どのようにして日本に伝えられたのか、いまだにはっきりしていない、というのが、正しい言い方のようです。

(2-1)日本伝来の経路:

将棋と共に日本人が楽しんでいる「囲碁」は、中国で生まれ、中国から日本へ伝えられました。このため、将棋も中国から伝えられた、という説もあるらしいのですが、その信憑性については、参考文献1の中で、否定されています。中国の「象棋」(シャンチー)も、韓国の「チャンギ」も、日本の将棋の源流とは考えられず、日本の将棋の原型は、海のシルクロード経由で、東南アジア諸国から伝わってきた、と考えられているのです。

(2-2)日本伝来の時期:

遣唐使が、中国から将棋を伝えた、という説もあるらしいのですが、以下の二つの傍証から、10世紀にはまだ「将棋」というゲームは、知られていなかった(つまり、伝わっていなかった)、と考えられています。

①奈良の正倉院には、将棋盤は残されていないし、「日本書紀」や「古事記」、「万葉集」にも将棋の記述はありません。また、10世紀の皇族や貴族の日記にも将棋は出てきません。

②日本で最初の漢和辞書と言える「和名類聚鈔」(10世紀前半に成立)に、囲碁は書かれていますが、将棋は書かれていません。なお、「象棋」(シャンチー)も記載なしです。

一方、11世紀には、将棋がゲームとして遊ばれていた、つまり、日本に伝わっていた、という事がわかる物証が発見されました。その物証を二つ、下記します。

③興福寺の旧境内跡から将棋駒等が出土しましたが、その中の木簡に「天喜六年七月二六日」という記述がありました。(天喜六年は1058年)。

④兵庫県の但馬国の国府跡と推定される深田遺構から、享保年間(1094~1096年)作とされる将棋駒が発見されました。

こうした状況証拠から、将棋が日本に伝わったのは、10世紀末から11世紀初め頃ではないか、と推測されています。

2.日本将棋の誕生:

現在、日本で普及している将棋は、9Ⅹ9の81枡の将棋盤に、それぞれが、20枚ずつの駒を置いて遊ぶ。そして、相手の駒をとると、それが再利用できる、というルールになっています。

日本で初めて遊ばれた将棋は、こうしたルールではなかったようです。将棋盤の大きさも、駒の数も違っていました。そこで、ここでは、今、日本で楽しまれている将棋が、どんな変遷をへて、現在のような形になったのかを、まとめてみます。

(1)将棋の種類と発展:

日本で最初に楽しまれた将棋が、どんなものだったのかを示す物証は残っていません。将棋を楽しんだ、と解読できる文書は残っていますが、道具類とか、手順を示す棋譜とか、に関する記述はほとんど残っていません。しかし、平安時代に始まった「将棋」には、大将棋、中将棋、小将棋等、いくつかの種類があったことがわかっています。そして、それらが、併存しながら発展し、戦国時代の頃には、現代の将棋と同じルールの将棋が生まれました。

(1-1)平安将棋(または、小将棋)(図1):

将棋に関する詳しい情報は、13世紀前半に編纂されたと推定されている「二中歴」という書物から得られます。「二中歴」とは、三善為康が選した「掌中歴」と「懐中歴」をもとに、1210年から1221年頃にかけて編纂されたと伝えられる習俗辞典です。このなかに、現在では平安将棋(平安小将棋)、および、平安大将棋と呼ばれている二種類の将棋の事が記されています。

このうちの、平安将棋(小将棋)の駒の配置図は、下の図1の様であったろうと推測されています。じつは、枡が8Ⅹ8だったのか、8Ⅹ9だったのか、それとも9Ⅹ9だったのかはっきりしていません。9Ⅹ9だった場合、現在と比べると、飛車と角行を除いたものとなっているだけで、極めて現代に近いものになっています。ただし、取得した相手の駒は再使用しない、という点が、現代との最大の相違点です。

(1-2)平安大将棋(図2):

平安大将棋の駒の配置図は、右の図2の様であろうと推測されています。13X13の将棋盤に、34枚X2の駒が配置されていますが、今では馴染みのない名前の駒がたくさんみえます。

この大将棋は、その後、様々なバリエーションが生まれて、発展(?)し、江戸時代まで、一部の愛好家に楽しまれていたようです。現代でも、鎌倉時代に完成した「鎌倉大将棋」をベースにした、大将棋ゲームをインターネットで楽しむ事が出来ます。

(1-3)中将棋(図3):

大将棋は、漢字で書かれた多数の駒を識別しなければならないので、知識層には向いているかもしれないが、一般層には複雑すぎて面白くなかったのかもしれません。そこで、考え出されたのが、マス目や駒数を減らして遊ぶ事であり、結果として「中将棋」が生まれました。

15世紀に遊ばれていた、と考えられている中将棋の駒の配置図を右下の図3に示します。12Ⅹ12のマス目に、46枚Ⅹ2の駒が配置されています。マス目は、平安大将棋よりは減っていますが、駒の数は増えています。

この中将棋にも様々なバリエーションがありますが、16世紀に入ってから、公家の間で大いに楽しまれるようになってきました。

なお、現代でも、日本中将棋連盟があって、中将棋は楽しまれています。

(1-4)小将棋(図4):

大将棋、中将棋と発展してきた将棋は、15世紀以降、「小将棋」という表示があらわれるようになり、16世紀に入ると、かなり頻繁に記録されようになりました。戦国時代になると、公家さんも京都にいるだけでは生活が成り立ちにくくなり、各地の戦国大名のもとへ伺候するようになってきたのです。そのためもあってか、16世紀には、将棋を愛好する層が、公家・僧侶・有力商人・庄屋と言った知識層のみならず、武士階級にも広がりました。

こうした過程の中で、将棋盤のマス目が9Ⅹ9、駒数は21枚Ⅹ2の小将棋が生まれてきました(図4参照)。
図4を見ると、「酔象」という駒以外は、現代の駒と同じである事がわかります。したがって、この小将棋から「酔象」を除いた将棋が、現在、私たちが楽しんでいる将棋、という事になります。

いつ頃から、「酔象」がなくなって、現代と同じ20枚Ⅹ2、合計40枚の駒になったのかは不明ですが、16世紀頃には、「酔象」を含む小将棋と、含まない現代将棋とが混在して、楽しまれていたと推測されます。

その根拠の一つが、戦国時代、朝倉氏が支配していた一乗谷の遺跡から、小将棋の駒174枚が発見され、その中に1枚だけ「酔象」という駒が見つかった事です。この駒の推定年は1560年代とされ、この事から、16世紀には、「酔象」を含む将棋と、含まない将棋が混在していた、と推定されます。

(2)現代将棋の誕生:

「酔象」を加えた敵味方合計42枚の小将棋から、「酔象」がなくなって、敵味方合計40枚の現代将棋に発展したのは確かであろうが、それが、いつどこでどのようなきっかけで起きたのか、という点は曖昧なままです。さらに、取った相手の駒を再使用できる、というルールの成立過程も不明です。

しかし、10世紀末から11世紀前半に日本に伝わった「将棋」が、5世紀を経る間に、以下のような変遷を経て、現代将棋と同じ将棋盤と駒数が生まれた、と推測できます。

①初期の小将棋で、玉将を中心に左右が対称形になった事。これにより、将棋盤のマス目は9Ⅹ9となった。図1-2のケースであり、この時点では、飛車と角行がなかった。

②大将棋から変化発展した中将棋の飛車、角行、酔象が、小将棋に付け加えられた。図4のケースであり、この時点では、酔象が余分であった。

③そして、酔象が取り去られて、現代将棋と同じ駒数になった。

④こうした変遷の過程で、取った相手の駒を再利用できる、というルールが生まれ、定着した。

3.室町時代から安土桃山時代:

室町時代後期、というよりは、戦国時代、といったほうがわかりやすい、16世紀の頃には、ほぼ、現代の将棋と同じようなルールが発生し、普及していったと考えられています。

一つの物証は、一乗谷から大量の将棋駒が発掘された、という事であり、もう一つの傍証として、16世紀初期の「厩図」があげられます。厩の前で、囲碁、将棋、盤双六が遊ばれている絵で、重要文化財になっています。この絵の中で、小将棋の対局者が、相手から取った駒を盤の傍に置いており、さらに、手に駒を3枚握っているのです。もし、駒が取り捨てで、再使用できないルールならば、取った駒を手に持つ必要はないわけで、この絵から、取った駒を再使用できる、というルールがあった、と推測できます。

さらに、この時代の武将や公家の日記等に、将棋を楽しんだ、という記述が多くみられます。

(1)宗桂登場(図5):

初代 大橋宗桂

図5 初代 大橋宗桂

将棋の歴史を語るうえで、欠かせない人物は、初代大橋宗桂(1555~1634)です。有名になったのは、ずっと時代が下がってからのせいなのか、初代大橋宗桂については不明な点がたくさんあります。まず、「大橋」という名字は、後からつけられたのであって、最初は名字は無く、単に「宗桂」とだけ記されています。宗桂は、囲碁も強かったらしく、本因坊算砂等の碁打ちとの交友記録が数多く残っています。

初代宗桂は、信長、秀吉、家康のいずれにも伺候し、将棋を披露した、と伝えられており、将棋は、囲碁、能楽等とともに、芸能として時の権力者に認知されていたと思われます。なお、「宗桂」という名前は、織田信長が、「宗桂」の桂馬の使い方がうまかったのでつけた、という説がありますが、真偽のほどは定かではありません。

徳川家康が征夷大将軍に任ぜられる前年の1602年(慶長7年)、初代宗桂は、後陽成天皇に詰将棋50番を記載した書物を献上しています。後陽成天皇は将棋好きで、側近の公家衆といつも対局していたそうです。初代宗桂は自分と親しかった山科言経を経由して、自分が考案した詰将棋を天皇に献上したい、と申し出て、首尾よく献上できたもので、大変名誉な事でした。

(2)将棋愛好家と庇護者:

初代宗桂が活躍していた頃には、多方面にわたって将棋の愛好家がいました。さらに、初代宗桂のような将棋指しを、様々な角度から援助する庇護者(スポンサー)も現れました。こうした人たちのおかげで、将棋指しを専業にすることも可能な状態がうまれてきたのです。

これら愛好者や庇護者は以下のように分類することができます。

①公家:

将棋が日本に伝来して以来、将棋は、貴族が学ぶべき教養の一環として認められていたようです。そのため、多数の貴族が将棋を学びました。前述の山科言経も、幼少の頃から父の言継に連れられて、公家の将棋の座で観戦していました。山科言継は、祖父が将棋の愛好家であった事もあり、殊の外熱心に将棋を好んだようです。この山科家は、江戸時代になっても将棋の普及に大いに貢献しています。山科家とは別に、将棋に寄与したのが水無瀬家です。水無瀬家は、将棋駒の制作に関わっており、ここで製作された駒は、足利義昭(室町幕府15代将軍)、後陽成天皇、関白豊臣秀次、徳川家康等々、時の有力者に献上されました。今でも、水無瀬駒は、高級駒の代名詞となっています。

②僧侶:

公家と並んで将棋の愛好家であり、庇護者であったのは、僧侶です。とくに、もとは足利義満の別荘であった鹿苑院の僧侶は、将棋を楽しんだようです。

③武将:

戦国時代から安土桃山にかけて、戦国武将の多くは、将棋を広く愛好したようです。最高級品とされた水無瀬駒の発注者のリストに、徳川家康、秀忠をはじめ、豊臣秀次、秀頼、細川幽斎、をはじめとして、35名の名前が確認できます。また、参考文献2には以下の事例も記載されています。

ⅰ)島津義久の武将で九州宮崎城の城主だった上井覚兼が残した天正年間(1573~1591)の日記には、自らも指し、近習や若党が将棋に興じた記述が多く残っています。

ⅱ)徳川家康の武将で武蔵国忍や下総国小見川の城主であった松平家忠も将棋を好んでいたようです。家忠は、関ヶ原の合戦の前哨戦であった伏見城の戦いで城を守って戦死しましたが、残された日記の中に、将棋の途中図が残されています。

④町人:

富裕な商人や職人も将棋の駒の購入者リストに名をつらねています。彼らは、華道や茶道に通じた文化人とも交際があり、公家とも交友がありました。公家文化を吸収する余裕のあった知識人と言えるでしょう。

(3)将棋駒の種類と購入者:

水無瀬家での駒造りの記録によると、天正18年(1590年)から慶長7年(1602年)までの13年間に、735組の将棋駒が製作されました。これを駒の種類別にみると、小将棋駒が618組、中将棋駒は106組、残りの11組が、装飾用とみなされる大将棋や摩訶大大将棋などになっています。このデータからも、安土桃山時代には小将棋が、将棋の主流となって、普及していた事がわかります。

中将棋駒の発注者のほとんどは、公家や公家出身の上級僧侶でした。そして、小将棋の発注者のほとんどは、武士と町人でした。この事から、広く一般大衆が楽しんでいたのは、小将棋であった、と推測できます。

4.江戸時代:

図6 徳川家康

安土桃山時代の終わりを告げて、新しい江戸時代を切り拓いたのは、徳川家康(図6)であり、そして、その徳川家康が、将棋の最大のスポンサーになってくれました。

関ヶ原の合戦で徳川家康が勝利し、長かった戦乱の時代が終わりをつげましたが、徳川家康は、囲碁や将棋に理解のある武将でしたので、江戸時代になると、将棋は、現代の将棋と同じルールで広く楽しまれるようになり、大いに普及しました。

(1)「将棋指し」の登場:

安土桃山時代の後半頃から、将棋指しを専業とするような人たちが現れ始めました。趣味として将棋を楽しむのではなく、職業として(つまりは、生きる手段として)、将棋を指す人たちが現れてきたのです。初代宗桂がその典型ですが、彼以外にも複数の名前が、あちこちで開かれた将棋や囲碁の会に招かれて対局した、という記録が残っています。この当時は、将棋の強い人は囲碁も強いし、囲碁の強い人は将棋も強かったらしく、同じ会に、将棋指しや囲碁打ちを専業としているとみられる人たちが招かれています。

(2)俸禄の支給:

1603年(慶長8年)、徳川家康は征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きました。その結果、家康は江戸にいることが多くなって、上洛の機会もめっきり減り、初代宗桂等の将棋指しや、本因坊等の囲碁打ちが、家康によって宴会に招かれる、という機会もほぼなくなってしまいました。しかし、家康は、20年以上にわたって、上洛するたびに宴席で奉仕してくれた「将棋指し」や「囲碁打ち」に報いるためか、1612年(慶長17年)、初代宗桂や本因坊等の「将棋指し」や「囲碁打ち」、8名に対して俸禄を与える事にしたのです。その時の俸禄(年棒)は次の通りです。

1)本因坊、利賢と、初代宗桂にそれぞれ五〇石五人扶持。
注: 「扶持」は、一日に米5合とされ、月棒は1斗5升、年に1石八斗と換算されました。

2)道碩に五十石。

3)六蔵に三十石。

4)春知、仙角、算碩に各々二十石

これらの俸禄は生活費というよりは、いわば、技芸奨励金と言えるものでした。

室町幕府以来、時の権力者は遊芸師に対する褒賞として俸禄を支給してきました。家康も前例を踏襲して、能役者、絵師などに俸禄を与えてきましたが、将棋や囲碁を新しい遊芸として認め、将棋指し、囲碁打ちにも俸禄を与えることにしたわけです。これは、結果として将棋や囲碁が市井の遊戯から幕府公認の技芸として認められたことを意味しており、社会的地位を高めるのに、役立ったのではなかろうか?

(3)将棋三家の誕生と江戸への移住:

俸禄は、元々本人一代限りのものですが、本因坊が1623年(元和9年)に亡くなった後、後継者にも俸禄が支給されました。これは、本因坊が、後陽成上皇の覚えめでたく、公家たちとも親しかった、という特別な人脈を思慮した政治的な決定でしたが、これにより、「本因坊家」は、代々、幕府から「家禄」が支給されることとなりました。

初代宗桂が、1634年(寛永11年)に80歳で亡くなった時、本因坊家の事例が前例となって、跡目を継いだ長男の宗古に対し、将棋の大橋家として家禄が支給されました。ただし、遊芸の家の相続は、慣例として「先代より技倆未熟」として減額される場合が多く、宗古の俸禄は二〇石に減額されました。こうした経緯を経て、将棋を家業とする世界でも珍しい「家」が誕生したのです。

さらに、宗古の異母弟の宗与が「大橋分家」を起こし、宗古の娘婿の宗看が「伊藤家」を作りました。大橋分家も伊藤家も、幕府から家禄が支給されましたので、17世紀の中頃には将棋の三家が成立して、江戸時代を通じて存続していきました。

なお、囲碁は、本因坊家のほかに、井上家、安井家、林家の三家が成立し、囲碁四家として存続しました。

17世紀中頃には、江戸幕府も四代将軍家綱の時代となって、幕府の基礎も固まり、様々な制度が整い、中央集権体制が完成していきました。将棋三家と囲碁四家は、寺社奉行の直轄でしたが、体制の完成に伴い、突然、京都から江戸への移住を命じられたのです。いつ移住したか、正式な年月は不明ですが、17世紀後半には移住を完了したと思える記録が残っています。

(4)将棋御三家の位置付けと責務:

寺社奉行の管轄下におかれた将棋家と囲碁家の当主達は、幕府の御用達商人に分類されました。つまり、菓子を献上したり、駕籠を製作したりする幕府指定の商人と同じ扱いにされたわけです。なお、江戸幕府には、文化や芸術活動をまとめて管轄する部署はありませんでした。絵師は若年寄、餝(かざり)職人は作事奉行、彫刻は腰物奉行、蒔絵や餝細工は御細工所という事で、別々の機関による統制をうけていました。要するに、江戸幕府として、統一した文化芸術政策を考える事は出来なかったし、考える気もなかった、という事です。

御用達町人は、苗字帯刀を許されたり、屋敷地や俸禄を与えられるなどの特権が与えられましたが、以下のような責務も生じました。

①勤務期間は、毎年4月の「お目見え」から12月の「お暇(いとま)」までですが、江戸城内に常勤するのではなく、在宅勤務です。この「お目見え」と「お暇」は、けっこう手間暇のかかる行事(?)だったらしいのです。いつ頃お伺いしたらよろしいか、2か月前くらいから、月番の寺社奉行に願い出て、何回もやりとりを重ねた後に、ようやく実現する、というしろものだったようです。12月から翌年の4月までは、勤務期間外であり、「湯治」と称して、各地を旅行したり、地方在住の弟子たちや将棋愛好家を訪ねたりしていました。

②徳川家の冠婚葬祭には登城して参列する事が義務付けられました。冠婚葬祭への参列というのも、かなりの負担になったようです。家康をはじめ代々の将軍の忌日だけでなく、それぞれの亡妻の忌日、将軍の子供たちの結納や婚礼、側室の出産と死産、その幼児の死亡等々、後代になるにつれて回数はさらに増えました。この参列は、公務として最優先しなければならなかったので、将棋家の当主にとって、極めて負担の多い行事でした。

③毎年、秋か冬に出仕して、将軍の御前で技芸を披露する。年に一度の技芸の披露は、俗に「御城将棋」と呼ばれているものですが、実際に将軍が観戦することは稀で、それも一瞥するほどの短い時間でした。しかし、老中や将棋好きの大名たちが列席しており、将軍がいなくなっても、勝負がつくまで続けられました。

④その他の行動は、すべて寺社奉行の指示に従う事。その他の事項は多岐にわたっており、封建制度の煩雑さを示す好例と言えます。たとえば、隠居願、転居願、居住増築願、相続、養子、婚姻、離縁、湯治願、等々、生活全般にわたって寺社奉行へ願い出なければばりませんでした。この他にも、詰将棋の献上願とか、御城将棋の際に足袋を着用する願書とか、かなりの負担であったろうと推察されます。

こうした願書の提出とか、寺社奉行との連絡は、将棋家と碁家の代表が担当していました。この代表を、将棋家は「将棋所」、碁家は「碁所」と自称していましたが、世間的には、「名人」と呼ばれていました。しかし、将棋所や碁所が、自らを「名人」という場合は稀でした。なお、将棋の名人は、三家の当主達の談合によって選ばれており、必ずしも、将棋の最強の者が名人になったわけではありません。また、「将棋所」や「碁所」は、幕府の正式な役職ではありませんでしたが、自称することは黙認されていました。

(5)御城将棋と「お好み」対局:

江戸時代の将棋家の様子は、大橋本家で代々伝えられてきた「大橋家文書」により、かなりの部分が明らかになりました。その文書の内容から、御城将棋の様子を概略します。

①大橋家文書で御城将棋の最も古い記述は、1682年(天和2年)12月22日で、宗桂が角行落ちで分家の宗与と対局して、宗与が勝ちました。この日は、将軍の上覧はありませんでしたが、老中4人、若年寄3人が出席しています。この対局当日、朝晩とも、豪華な食事が振る舞われたそうです。将軍に技芸を披露する遊芸師の待遇は、常の御用達町人とは異なる非常な厚遇をうけていたのです。

②初期の御城将棋には考慮時間の制限がなかったので、城中で決着がつかず、月番老中の屋敷に移って、勝負がつくまで対局した時もありました。日頃、多忙な老中から、こうした事態を避けるために、1692年(元禄5年)からは事前にある程度まで指して、最後の詰めだけを御城で行うように指示されました。しかし、それでも、1697年(元禄10年)には決着のつかない事がありましたので、翌年からは、事前に最後まで指しておいて、それを、当日、並べるだけ、と完全に形骸化しました。老中たちも、ごく短時間、立ち寄るだけとなってしまいました。

③事前に指した将棋をただ並べるだけになったので、御城将棋は短時間で済むようになりました。そこで、余った時間は、正式な対局者ではない「控」の者たちを交えて、非公式の対局が行われるようになり、「お好み」対局と呼ばれましたが、最初の「お好み」対局は、1709年(宝永6年)に記録されています。その後、「お好み」対局は、将棋好きの大名や旗本、および、城内勤務者への指導対局へと劇的に変化していきました。

④こうした形骸化の結果として、一定しなかった開催日も、八代将軍吉宗が就位した1721年(享保6年)頃から、家康の命日にちなんで11月17日(旧暦)と定められました。この事を由来として、1975年(昭和50年)に日本将棋連盟は、11月17日(新暦)を「将棋の日」と制定しました。(なお、御城将棋のある日には、囲碁も同じ日に江戸城で「御城碁」が開催されました。したがって、11月17日には、お城碁も行われましたが、将棋と同じように、事前に打った結果を並べるだけの形式的なものでした)。

⑤将棋だけでなく、囲碁も「お好み」対局が行われるようになり、11月17日の江戸城黒書院の間は、対局者、応援者、見物人を含めると、数十人が集まって、あたかも囲碁・将棋サロンの間と化したような有様だったようです。しかし、この「お好み対局」のおかげで、将棋が有力大名の間に広まるとともに、「寛政の改革」で、「御城将棋」を廃止しよう、という動きを封じることが出来た、と思われます。

(6)段位の制定:

将棋が普及するにつれて、どれくらいの棋力かを判断する指標が求められるようになりました。初期の頃は、名人との手相で評価されていましたが、そのうちに、段位が記されるようになりました。

①「象戯綱目」(1707年(宝永4年)板)という書物には、名人との手相(てあい)で、強弱のランクが記載されています。名人が駒を落として、ほぼ勝敗がつりあうという基準で、例えば、名人が香車を落として互角の場合は、「手相香車落」のように記されています。「手相角落」とあれば、名人が角を落として互角、という事になります。

なお、「象戯綱目」には、故人の将棋家19名と、当世の将棋家23名が記載されていますが、元祖本因坊をはじめ、多くの人の棋力は、は「手相しらず」と評価されています。この意味は、「名人と対局していないので、棋力を評価できない」、という事ですが、名人と互角の力量だった場合にも「手相しらず」と評価されました。

②将棋を強弱の基準は、将棋三家、とりわけ大橋本家の当主が定めるようになり、免状も大橋本家から発行されました。現在、最も古いとみなされる免状は、1696年(元禄9年)に五代大橋宗桂が発行したものです。それには、手相として「飛車と香車を落とす」と書かれており、段位はまだ用いられていません。名人と対局できない人に対しては、高弟たちが相手をして判断したものと思われます。香車落ち以下、駒落ちを基準として複数段階の基準を決めたのは画期的な発想だったと言えます。

③その基準をさらに明確にするために、数字で表す「段」が考え出されました。1717年(享保2年)に出版された「将棋図彙考鑑」は、全国の将棋の強豪をすべて段位で表しています。そこには、7段3名、6段1名、5段4名、4段17名、3段32名、2段20名、初段90名、合計167名の名前が記されています。この有段者を地域別にみると、江戸が40人と最大で、次が京都で28人、この二都市で、全体の4割を占めています。また、身分別にみると、有段者の8割は武士で、他は、僧侶や町人、医師等になっています。江戸は町人文化と言われますが、18世紀初め頃は、こと将棋に関しては、武士が主導していた様です。

④なお、この「将棋図彙考鑑」には、有段者ではないが、別に将棋に熱心な将棋愛好家たちの名前も記されています。有段者名簿と異なり、全体の8割が町人で、そのうちの3割以上が大阪在住、次が京都在住となっています。17世紀後半に、将棋三家が江戸へ移住した後も、町人が主体となって、将棋の普及に貢献した結果、と思われます。

⑤「段」と「手相」との関係については、明確に記載されてはいないようですが、名人が「飛車と香車を落とす」手相が「初段」であり、「香車落ち」の手相が「7段」と判断されたようです。名人一歩手前が「8段」で、名人に推挙されるためには、8段であることが暗黙の条件だったようです。8段と名人の間の技量と認められた場合には、「半名人」と呼ばれました。2段から6段については、この間の駒落ちの状況に応じて判定された、と思われます。

(7)名人の選定:

棋力判定の基準となる「名人」は、将棋三家の談合で決められました。将棋三家は元々が姻戚関係にありましたから、名人後継者の選定は比較的容易に決まりましたが、空位だった時もある事を考えると、それなりの棋力を備えている事が、最低条件であった、と推測されます。ところで、将棋三家の者に対して免状が発行されたのか、否かははっきりしておりませんが、これらの人たちが昇段すると、寺社奉行に届けることになっていました。そして、名人を選定した場合にも、その旨を届け出ています。

ここで、江戸時代の代々の名人を以下にまとめます。なお、名人は一旦選定されると、終身であり、死去するまでは名人のまま、というのが原則でした。

①一世名人: 初代大橋宗桂 「そもそも、最初の名人は、一世本因坊算砂と言われています。本因坊算砂は元々は囲碁の名人でしたが、将棋も強く、織田信長により前述の如く、1612年に幕府から俸禄が支給された時に、一世本因坊算砂から譲られました。1634年に死去により退位」。

②二世名人: 二代目大橋宗古(大橋本家) 「初代大橋宗桂の長男。1634年の一世名人の死去を受けて襲位、1654年に死去により退位」

③三世名人: 初代伊藤宗看 (伊藤家) 「1654年襲位、1694年死去」。初代伊藤宗看については、二つのエピソードがあります。

1)二世名人大橋宗古の娘婿ですが、18歳の時(1635年(寛永12年))に、宗古の計らいによって、新しい将棋家「伊藤家」を起こしました。ところが、それに対して、本因坊系の人たちが異議を申し出て対局を申し込んできたのです。宗看は、彼らと対戦して打ち破り、伊藤家を新しい将棋家として権威づけることに成功しました。この戦いの中でもっとも有名なのが「是安吐血の局」です。宗看に対局を申し込んだ是安が、死闘の末敗れ、精魂使い果たして血を吐いて死んだ、と伝えられた対戦です。ただし、7年後の是安の棋譜が残っていますので、是安は対局後に真だ、というのは誤りのようです。

2)1649年(慶安2年)、詰将棋百番「象戯図式」を献上しました。これにより、8段に昇り、次期名人と目された者が名人襲位前に詰将棋を献上するしきたりが始まりました。また、詰将棋の手余り(詰めの局面で持ち駒が余る)を廃した。

④四世名人: 五代目大橋宗桂 (大橋本家) 「三世名人伊藤宗看の実子だが、大橋本家の後継ぎがいなくなって断絶の危機に陥った時に、大橋本家の養子となって、本家を存続させた。1691年、名人に襲位、1713年死去」

⑤五世名人: 二代目伊藤宗印 (伊藤家) 「三世名人伊藤宗看の実子が大橋本家の養子になったので、伊藤家の養子となって、伊藤家を存続させた。 5人の息子を全員高段者に育て上げ、特に三代宗看は七世名人、看寿は八段・贈名人になった。史上最強の一家といえる。1713年、名人に襲位、1723年死去」

⑥六世名人: 三代目大橋宗与 (大橋分家) 「大橋分家で初の名人。御城将棋では五代宗桂と二代宗印に実力で圧倒されていたが、宗印が先に死去し、次に続くものが若すぎたので、76歳という高齢で名人に推される運に恵まれた。この時、将棋三家の談合がまとまらず、寺社奉行の裁定で決着した。1723年襲位、1728年死去」

⑦七世名人: 三代目伊藤宗看 (伊藤家) 「そのあまりの難解さから、「詰むや詰まざるや」として有名になった、献上図式「将棋無双」の作者である。兄が早逝したため10代で家督を継ぎ、23歳で名人に就いた。「鬼宗看」と言われるほどの実力で、江戸時代の歴代名人のトップクラス。1728年襲位、1761年死去」。

⑧八世名人: 九代目大橋宗桂 (大橋本家) 「七世名人の死去後、しばらくの間、名人に推すものが決まらなかった。この期間には、将棋三家のどこにも、8段級の実力者がおらず、名人にふさわしい候補者が育っていない不幸な時代でした。その中で、八代目大橋宗桂の嫡男が、八代目死去の後九代目を宗桂となり、1785年には8段に昇格しました。そして、1789年、それまで27年間空位であった名人位を継承しました。1799年死去。なお、名人空位の間も、時の将軍家治が将棋好きだったこともあり、御城将棋とお好み対局は続けられました」

⑨九世名人: 六代目大橋宗英 (大橋分家) 「家元制で最強の名人にして、「近代将棋の祖」と言われています。従来の戦術や大局観に新風をもたらした、と言われています。庶子として生まれたために里子に出されていましたが、抜群の将棋の才能を認められて呼び戻され、家督を継ぐことになりました。1799年襲位、1809年死去」

⑩十世名人: 六代目伊藤宗看 (伊藤家) 「九世名人の死去の後にも、しばらく、後継名人が決まりませんでした。この時も、適当な後継者が育っていなかったため、と思われます。1825年襲位して、江戸時代最後の名人となりました。1843年死去」

1843年(天保14年)に十世名人が死去した後、すぐには名人が決まりませんでした。江戸幕府が崩壊の危機を迎えており、将棋三家も存続の危機に立ち、名人云々どころではなくなった、と思われます。十一世名人が襲位したのは、明治維新後の1879年(明治12年)です。この間の事情については、次回のコラムにまとめようと思っています。

江戸時代に選ばれた10名の名人を、出身別にみますと、大橋本家から4名、大橋分家から2名、伊藤家から4名となっていますが、大橋本家から出た四世名人も、伊藤家の子供であり、養子として断絶寸前だった大橋本家を継いだ人です。したがって、将棋家の権威を保ったのは、初代宗桂の娘婿が起こした伊藤家であった、と言えると思います。

(8)詰将棋集の献上:

三世名人が名人襲位以前に「詰将棋百番」を献上したことから、次期名人と目された者が名人襲位前に詰将棋を献上するしきたりが始まりましたが、将棋家から勝手に献上するので、かなり煩雑な手続きを踏まなければなりません。まず最初に寺社奉行に「詰将棋集を献上したいと思いますので、お許しください」という願書を提出する。許可は数カ月ほど後になり、何月何日に登場せよという、という命令が来ます。その指定された日に登城して献上するわけですが、1787年(天明7年)の例は以下の通りです。

①登城したら、いつも将棋の者が控える場所で待機します。

②暫くすると、寺社奉行より「躑躅(つつじ)の間」へ詰将棋集を持参せよとの命令が下ります。

③ここで同座している坊主衆の組頭が罷り出て、詰将棋集を収めた箱の蓋を取って、寺社奉行に中味のあることを確認させるため、箱を差し出します。

④寺社奉行が一見してうなずくと、組頭は蓋を閉めて坊主衆の一人に渡します。

⑤これで、一旦寺社奉行は坊主衆と一緒に退出し、将棋の者もはじめの詰所に戻って待機するように命じられる。

⑥かなりの時間を経て、もう一度躑躅の間に来るように、と坊主衆から伝えられます。

⑦躑躅の間に伺うと、寺社奉行から「老中が、将軍にお前たちが持参した詰将棋集をご覧になり、首尾よくご上覧を賜った」と告げられ、有難うございました、とお礼を述べて退出し、再び詰所に戻ります。

⑧詰所からただちに老中、若年寄、他の寺社奉行達に、お礼のため参上し、それぞれの者に、詰所に置いてあった「台附きの図式箱」を進上します。この年は、16ヶ所に進上した、と記録されていますから、広い城内を歴訪して進上するのは大変な労力であったろうと推測されます。

⑨詰将棋集は、時には西の丸の老中や若年寄にも進上するので、20冊を超える場合もあります。老中や若年寄で留守の者には、後日にお礼のため参上しています。このように、献上は、早朝から完全に1日を費やす心身ともに疲れる儀式でした。

⑩しかし、これで終わりではなく、翌日も登城するように命令され、翌日、登城して躑躅の間に参上すると、そこに老中が出座して、「詰め物を献上したので、拝領品を下賜する」と告げられ、寺社奉行から時服二着をいただきました。

このように煩雑な手続きを経て献上された詰将棋集ですが、残念ながら、軽視されていたと思われます。進上された詰将棋集は総数ではかなりの部数になりますが、どれも残されていないのです。転封や昇進、左遷などの移動の際に廃棄されたのでしょう。旧大名家などに残されている可能性は皆無ではありませんが、今までのところ、献上された詰将棋集は見つかっていません。

(9)奥御用-将軍家治の将棋指導:

図7 徳川家治

10代将軍、徳川家治は将棋好きで、伊藤家5代目の宗印と、宗印の実子で大橋本家の養子となり、その後、八世名人となった九代目大橋宗桂から、直接、将棋の指導を受けていました。これが、「奥御用」といわれるもので、1768年(明和5年)正月4日より、家治が死去する2ヶ月前の1786年(天明6年)7月まで、19年間にわたって続きました。この期間は、田沼意次が実権を握っていた時で、家治は、事実上、政治活動を制限されていたので、画業や将棋に没頭した、と言われています。なお、奥御用を命じた将軍は、家治のみで、彼以外にはいません。

①奥御用を受けるにあたって、そこで行われたこと等について一切を誰にも口外しない旨の誓詞を提出させられました。このため、奥御用があった日付等は記録されているが、その中身(誰が立ち会って、どのように過ごしたのか、実際の棋譜等々)の記録は一切残っていない。このため、家治の死とともに、次第に人々の記憶から消え去っていったが、大橋文書の存在により、奥御用が行われたことだけは、明らかになったわけです。

②奥御用の回数は年月によって異なるが、最高は月に13回、普通は月に5・6回でした。奥御用に伺った日にちは、大橋文書に記録されていますが、その時の対局の手相とか、勝負とかについては一切記録が残っていません。。

③1783年(天明3年)正月21日、家治は七段に昇段し、そのお礼であろうか、白銀10枚を下賜されました。そして、その年の12月14日には銀50枚が下賜されましたが、通常の「お暇」の際のご褒美とは別の、奥御用に対する年末賞与のようなものと思われます。

④1784年(天明4年)7月には、家治が詰将棋集百番(今に残っている「御撰象戯技格図式」)を作った、という事で、銀7枚が下賜されています。「御撰」とあるところから、家治が、宗桂の指導や助言を受けて、詰将棋集を作成したので、その謝礼として銀が下賜されたのであろうと思われます。

⑤1785年(天明5年)11月、家治が8段に昇段したという事で、白銀20枚を拝領しています。実力はともかく、最高位の段位を献上したわけです。将棋家の家の者以外で、8段を贈呈したのは家治が最初にして最後です。

⑥奥御用の記録は、1786年(天明6年)5月3日が最終となっています。この4か月後の9月8日に家治は亡くなりました。そして、10月2日には「御役出精」として銀15枚が下賜されました。今でいう、退職金のようなものでしょうか。

⑦奥御用は、将棋家にとって、極めて名誉な事であり、臨時の収入もあって、財政的にも有り難い事ではありましたが、その反面、行動の自由が束縛され、迷惑な事でもありました。将軍の都合が優先されるため、いつ奥御用を命じられるのかわからないので、予定を立てる事ができず、常に待機状態で、外出もままならなかった。また、登城しても、家治の都合で長時間、待たされることもありました。そして、何よりも、他言無用という誓約に縛られて、精神的重圧が常に付きまとっていたことは間違いないものと思われます。。

(10)将棋家の収入:

将棋家は「御用達町人」という位置づけでしたが、このため、一般町人と比べて遥かに多くの支出がありました。いわば「身分的経費」で、たとえば、立場上、老中や若年寄、寺社奉行への時候の挨拶が必須であり、それに伴い特別の経費が発生しました。また、居住地における家主、地主としての交際費等の経費もありますし、直接支配をうけている寺社奉行や町方役人への接待等の経費もかかります。

こうした経費を賄うために、将棋家の収入はどうなっていたのか、大橋家文書に基づいて、その概要を以下にまとめます。

①大橋本家の家禄は、20石15人扶持でした。これを、金額換算すると、約31両となるそうですが、これだけでは、絶対的に不足です。その不足分を補ったのが、幕府から拝領した土地に建てた長屋と貸店舗から入る地代・家賃収入でした。この地代・家賃収入は、約100両弱だったらしいので、家禄の3倍以上であり、大橋本家は、現代風に言えば、不動産賃貸業で生計を立てていた、という状況でした。

②こうした一定の収入以外に、将棋指南役として、門弟やひいき筋への指導料、対局料、あるいは、棋力認定(段位)の免状の発行料等もありましたし、御城将棋やお好み対局、奥御用等からの収入もありました。その意味で、将棋家としての体面を保つに十分な収入はあったものと思われます。。

③ただし、将棋家としての家禄を継承するために、家の存続には万全の注意が払われました。将棋家の後継者は当然ながら、それだけの棋力を備えた人でなければならず、実子が無くて、養子を迎える場合には、棋力が重要な選定要件でした。また、一旦、養子を迎えた場合にも、病気で後継不能になった場合には廃嫡して、新たに養子を迎える、という事例もありました。

④家を継いだ証として、大橋家が代々受け継いできた品物があり、それを譲り渡していきました。その中には、家宝としての直筆の駒があります。これは、後陽成天皇か後水尾天皇の書いた可能性の大きい駒です。準家宝としては、水無瀬家直筆の小将棋の駒と中将棋の駒、さらに、三代将軍家光、初代宗桂、二代宗古の三幅の画像の掛け軸があります。

なお、明治維新で徳川幕府が崩壊した後は、家禄はなくなりましたが、拝領した土地はそのまま所有できたので、そこから上がる不動産収入で、維新の嵐を潜り抜ける事が出来ました。

(11)賭将棋の禁止:

①将棋家が発行する棋力を認定する免状には、初期の頃は、必ず、無段の素人と指すときは駒を落とすように、と書かれていました。これは、将棋の勝負には賭けるのが通例だったからです。もっとも、賭将棋については、16世紀の頃から、各大名が禁止の触書を回していたようです。一例としては、1597年(慶長2年)の長宗我部氏の掟書きがあります。

②将棋家の代々の当主も、賭将棋は家業を汚すものとして、門弟には繰り返し禁止してきました。大橋家の将棋道場に掲げられた作法を記した壁書の第一条には「賭将棋を禁ずる」と書かれています。この事は逆に、それだけ、門人の間でも、賭将棋が広く行われていた、という事を示すものと考えられます。

③さらに、九代宗桂(八世名人)は、1790年(寛政2年)、分家や伊藤家の門人を含め、すべての門人に対して、賭将棋を禁止し、もし、賭将棋をした者には段位の免状を取り上げて破門する、という通知を出しています。しかし、これだけ厳しく禁止しても、賭将棋がなくなる事はありませんでした。

④1855年(安政2年)2月に、大橋門下筆頭の天野宗歩(後年、棋聖と呼ばれたほどの強豪)が、二人の高弟と組んで賭将棋をして露見し、大騒ぎになりかけたことがありました。その時は、奉行所の手先になっていた、宗歩の親戚が奔走して公にならずにすみましたが、筆頭の門弟でも師の目を盗んで賭将棋をしていたのですから、他の門人は言わずもがな、だったのではないでしょうか?

(12)将棋の普及:

将棋の普及に貢献したのは、将棋三家とその門人ばかりではなく、いわゆる市井の将棋好きの人たちの功績も大きい。参考文献1や2に記載されているそのような事例を下記にいくつ掲げなます。

①大阪北西に位置する伊丹郷は酒造業の盛んな土地柄でしたが、18世紀以降、将棋好きの酒造業者や一族が多くいて、自分たちで集まって将棋会を開くばかりでなく、大阪や京都から有段者を招き、指導も頼んで将棋会を開いていました。参加者は、将棋を楽しむばかりでなく、指導も受けられるので、満足ですし、招待された有段者も謝礼が得られるので、喜んで参加しました。こうして、将棋は、一般大衆に普及していったのです。

②大橋家が、京都から江戸へ移った後も、京都に残ったいわゆる将棋指し達も、将棋の普及に貢献しました。京都には多数の将棋指南所が生まれ、その中には、幕末まで続いた指南所もありました。

③有段者が長期にわたって現れず、将棋が低調とされた東北地方でも、19世紀に入ると、将棋が日常的に指されるようになりました。秋田にある佐竹藩直営の院内銀山は、当時、大いに繁栄していましたが、そこには、大勢の将棋指しも訪れ、役所で将棋会が開かれていました。

④江戸の後半期から次第に明らかになってきたのですが、幕末になると、将棋の強豪でも段位を取得しない人が激増してきました。19世紀後半の和泉および河内地方に残されている一連の将棋番付を見ますと、番付に記載されている将棋愛好家は延べ千人(重複を除くと、半数の約500人)に達する膨大な人数です。この中で、大橋家から初段の免状を得ているのはわずか2名のみでした。そして、この2人と同等かあるいはそれ以上とされるものは確実に数名はいます。この事は、免状がなくても、地方では十分に大関や関脇と認められていて、免状は必要なかった、という事を示しています。

⑤幕末期には、将棋愛好家は将棋家の免状にあまり関心を持っていませんでした。それだからこそ、明治維新で将棋三家が徳川家の俸禄を失っても、一般の将棋愛好家には、ほとんど影響が及ばず、将棋が相変わらず広く愛好されていった、理由と思われます。

5.最後に:

将棋の歴史について、将棋の起源から江戸時代までの発展状況をまとめてみました。将棋については、あまり記録が残っておらず、どのような経過で現代のような「9Ⅹ9の将棋盤」で40枚の駒を使い、取った相手の駒を再使用できる等々のルールが確立したのかは、はっきりしていません。それでも、安土桃山時代から江戸時代にかけて、次第に現代将棋の原型が形作られてきた、と言えるでしょう。そして、江戸時代になって、将棋三家が確立した事により、将棋は伝統遊芸として確固たる地位を築きました。

今回のコラムの中の、江戸時代に関する記述の多くはは、参考文献1と2からの引用ですが、それらは、大橋本家に残されていた古文書類(「大橋家文書」と総称されます)からわかった事です。大橋家文書の存在は、1980年(昭和55年)頃、高柳8段が、大橋本家12代当主大橋宗金の孫井岡登喜子さんと偶然出会った事から明らかになりました。そして、井岡さんが、将棋の研究に役立てて欲しいと、文書類を一括して提供し、関西将棋会館内に設置された将棋博物館に収納される事となりました。なお、将棋博物館は2006年に閉館となり、所蔵品は、大阪商業大学アミューズメント産業研究所に移管されたそうです。

大橋家文書は、文書類としてはそれほど多くはありませんが、老中、寺社奉行やその他の役人の言動から町人の生活まで、碁打ちや将棋指しの生活も含めて、多種多様にわたる、極めて貴重な書類です。この書類を、明治維新の動乱から終戦の混乱を経て、きちんと保管されてきた、大橋本家のご子孫には感謝しなければなりません。

次回は、明治維新を経て、将棋三家が消滅し、本当の意味で大衆に支持され愛好される将棋へと変貌していった様子をながめてみたい、と思います。そして、芝居や演歌で取り上げられた坂田三吉と関根金次郎の戦い、さらには、大山康晴と升田幸三、といった群雄の世界を調べてまとめるつもりです。

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