南北朝時代の怪僧・文観(もんかん)の略歴と評価を紹介

1はじめに

14世紀において天皇による専制政権を夢見た後醍醐天皇。その後醍醐に対し宗教勢力を用いて支援したのが文観である。邪教と称される立川流を駆使した怪僧と言われることもある彼の生涯を概観し、この時代の宗教勢力についても可能な限り見て行きたい。

2当時の情勢

我が国において8世紀初頭に完成した中央集権的な統一政権は、早くも9世紀に崩壊の兆しを見せた。生産力の向上に伴い貧富の差が拡大し、貧困層が没落する一方で富裕化した地方豪族により自給体制が各地で形成されていく。中央政府(朝廷)は豪族達の利権を黙認せざるを得なくなり、人口把握して人頭税をとる方式から土地単位で税収入を確保する体制に方針転換した。こうして大土地所有者、すなわち有力貴族・寺社や地方豪族による連合体の盟主として政府(朝廷)が推戴される「王朝国家」が10世紀から11世紀前半にかけて成立。

やがて、地方豪族の実力向上に伴い彼らを支配下に組み入れた軍事貴族が台頭。12世紀末には軍事貴族の代表者である源氏・平氏による内乱を経て、東日本に軍事政権である鎌倉幕府が成立した。幕府は従来の政府(朝廷)の宗主権を名目上は認めつつも東日本を中心とした独自の支配体制を確立。朝廷が西日本、幕府が東日本を支配する形が出来上がる。特に13世紀前半の承久の乱以降は軍事力に勝る幕府が圧倒的な優位に立ち、次第に西日本も含めた広い地域に支配権を広げた。13世紀末のモンゴル帝国(元)の来襲(元寇)を契機として幕府は国防の必要性もあり全国規模で支配権を強化、発達しつつあった商業勢力を把握する事で専制化を進めていた。

一方で、従来より幕府に従属していた豪族達は分割相続による支配領域の零細化、商業発達に伴う貧富の差の拡大、元寇やその後の海岸警備による経済的負担もあって幕府に不満を募らせていく。また、経済先進地域であった畿内を中心に、貨幣経済発達に伴い非農業民を束ねる新興豪族が台頭し伝統的勢力としばしば衝突、「悪党」と呼ばれ朝廷・幕府も統制しきれなくなっていた。幕府は彼ら非農業民の組み入れに腐心していたが、西国の非農業民は伝統的に朝廷と深い繋がりがあった関係もあってか、「悪党」らは寧ろ自らの活動への障壁として幕府を捉えるようになる。

一方、承久の乱以降弱体化した朝廷は更に皇室や有力貴族が地位をめぐって分裂するようになっていた。皇室は持明院統と大覚寺統に分かれ、摂関家は五摂家に分裂して対立。中でも皇位や「治天の君」(皇位を退いた上皇の中でも天皇の保護者として実験を握った者をこう呼ぶ)をめぐっての両統の対立は深刻で、幕府による調整を必要としていた。これが、思い通りに行かなかった陣営による幕府への遺恨を生む火種ともなるのである。

経済発達を背景に専制化を進める幕府であったが、その一方で各階層から反発を買い孤立化も進んでいた。人々の不満や社会不安も高まりつつあり、幕府は火薬を満載した導火線の上に座しているような状況であったのである。

3真言僧「弘真」

文観の青年期については不明であるが、成人後の文書から逆算すると弘安元年(1278)の生まれであるようだ。伝承では播磨の農民の子として生まれ、幼少時に天台宗の僧に130文の銭で買われたされるが真偽は定かでない。西大寺の末寺である北条寺で修行し、一条寺で天台宗を学んだと推定されている。そして、西大寺の文殊菩薩像胎内に正安二年(1302)の叡尊十三回忌の奥書に「西大寺殊音文観坊」と記された文書が見られることから、遅くともこの年には既に大和に行き、西大寺に入っていたと考えられる。西大寺は8世紀に道鏡により建立された寺院であるが、一時期は衰微していたのを13世紀に叡尊の手で再興され元寇の際には異国降伏の祈祷で厚い信任を受けるようになった。これを契機にして寺社権門の有力な一員となり「西大寺光明真言縁起」によればこの頃には末寺の数が千五百以上に上ったと伝える。その中には般若寺・吉野如意輪寺といった著名な寺院も含まれていた。文観はこの西大寺で真言律を学んだようだ。そして興福寺の良思に法相宗を学び慈真に律蔵を教えられ両部灌頂を受けている。正和五年(1316)には文観は大和国生駒の竹林寺長老となっており、更にこの年には醍醐寺の道順から真言宗小野派の伝法灌頂を受けている。これが可能となったのは、法流継承権を巡る争いにおいて文観が六波羅探題要人である伊賀兼光との繋がりを利用して道順を勝訴に導いたためであると推定されている。

こうして文観は真言宗の法統に連なる存在となり、「弘真」と名乗るようになった(ただし本文では世に知られた「文観」の呼び名で統一する)。

4後醍醐天皇

この頃、大覚寺統から即位した後醍醐天皇は親政を行い京都周辺の商業勢力を保護して彼らを支持基盤に取り込もうと図る。そうした中で、後醍醐は幕府の打倒を目論むようになる。傍流であった己の血統に皇位を受け継がせ、皇位継承に干渉する幕府を倒し天皇による専制政権樹立を志向したためである。

その後醍醐に文観は護持僧として近侍するようになった。護持僧とはその法力により天皇を守護する役割を果たす僧侶であり、「功を積み、歳月を経、法験無双の仁なり」と評された文観は能力的に適任であるといえたであろう。

倒幕計画は、後醍醐側近の日野資朝・俊基により主に進められていた。彼らは儒教の勉強会や無礼講と称する宴会を催して計画について密談を進めていたとされる。「太平記」では、彼らはそこで薄物の着物を着せた美女達を侍らせて騒いだとされ、「花園院宸記」からも実際にそうした宴があったことが知られる。また「宸記」からは「或る高貴の人」、恐らく後醍醐その人も席に加わっていた事が知られる。遊雅という僧侶が参加していたことも知られており、文観も姿を見せていた可能性は高い。

また元亨四年(1324)には文観は伊賀兼光らと共に般若寺に文殊菩薩像を納めている。この時は後醍醐が最初の倒幕計画に失敗した正中の変直前に相当し、倒幕への祈りを込めていたと思われる。六波羅要人を門下として味方に引き入れる文観の人脈は後醍醐にとって大きな力となったであろう。
その後も後醍醐の倒幕への意思は変わることはなかった。そうした中で文観は嘉暦元年(1326)に権僧正に任命され、浄土寺の忠円や法勝寺の円観、南都の知教・教円らと共に「中宮安産の祈祷」を行っている。この祈祷は翌年十月まで16ヶ月にわたり持続したことから、幕府は疑惑を抱き後醍醐は弁明を余儀なくされている。実際、中宮の懐妊は虚偽であり実際には関東調伏の祈祷であったと言われる。この後も少しの期間をおいて再び「安産の祈祷」がなされており、後醍醐の倒幕への執念が知られる。青蓮院の慈道法親王を中心とし七仏薬師法・冥道法(安産祈願・調伏共に利用される)を行う。更に元徳二年(1330)には文観により後醍醐に瑜伽灌頂が伝授された。天皇は自ら悪人退散の効能のある大聖歓喜天浴室油供を行ったとされる。同じ年、東寺宝蔵から十二天屏風を借り出しており、祈祷に用いられたようだ。また、後醍醐は上述の僧たちの他にも叡山の光林坊律師源存・笠置山の成就坊律師・般若寺の本性坊律師といった西大寺系僧侶との関係も強く、文観によって仲介された可能性が考えられる。

時期を同じくした嘉暦三年(1328)には後醍醐の皇子・尊雲法親王(護良親王)が天台座主として送り込まれ、更に後醍醐自身がしばしば奈良や叡山に行幸するなど、寺社勢力を引き入れる努力がなされていた。

5「邪教」立川流

少し話が逸れるが、文観は古来より真言宗の一派「立川流」の大成者として名が知られている。ここで立川流について少し語っておくことにしよう。

立川流は、12世紀に醍醐寺の仁寛により創始されたと伝えられる真言宗の一派である。仁寛は後三条天皇の皇子・補仁親王の護持僧であったが、その即位を成就させるため白河天皇を暗殺しようとしたとして伊豆に配流された。その時に武蔵立川の陰陽師と知り合い、現地の信仰を混交して立川流を開いたと言うのである。以降、関東を中心に広がり、13世紀には浄土真宗の異端・秘事法門がこの立川流から影響を受けたと伝えられる。そして高野山の宥快が著した「宝鏡抄」によれば、これを大成したのが文観であり、当時の真言宗信者のうち立川流を奉じる者が九割に及んだと言われる。

立川流の教えを要約すると、智者・行者・国王・将軍・大臣・長者・父母など何れかの髑髏を本尊としてその魂を呼び戻すことで、全世界の知識が得られるとされている。そのために取られる手段が男女交合であった。髑髏に漆を塗り歯を付け、予め打合せた美女と交わる。そしてその際の「和合水」を髑髏に120回塗付け、壇上に据えて山海の珍物を備えて子丑(午前一時頃)に反魂香を焚いて祀り、真言を千回唱える。更に「和合水」で髑髏に曼荼羅を描き、卯の時(午前六時ごろ)に錦の袋を七重にしていれ、以降は開いてはいけない。その上で夜は行者の肌で温め、昼は壇上に据えて祭祀を行うのを七年間続ける。そうすれば魂が呼び戻され真理を告げるというのである。

立川流は、「理趣経」で性の快楽を菩薩の位と譬えていることを基に理論的正当化をしている。該当部分を引用すると、「所謂妙直(男女交会の悦楽)清浄の句、是れ菩薩の位なり。欲箭(欲望への刺激) 清浄の句、是れ菩薩の位なり。觸(男女の抱擁) 清浄の句、是れ菩薩の位なり。受縛清浄の句、是れ菩薩の位なり。」これはこの世の一切が清浄であることを述べたものであるが、性的な民俗信仰と交じり合った時にそれを理論化することとなった。関連の注釈書を引用すると、「理趣経釈」には「二根交会して五塵の大仏事を成す」とあり、「大仏頂首楞厳経」には「口中好みて言う、眼耳鼻舌は皆浄土たり、男女二根は即ち是れ菩提涅槃の真処なり」と記されている。更に、「受法用心集」からも引用しよう。「此経の文には女犯は真言一宗の肝心即身成仏の至極なり、若し女犯をへだつる念をなさば成仏の道を遠かるべし。肉食は諸仏菩薩の内証利生方便の玄底なり、若し肉食を嫌う心あらば生と死を出る門に迷べし、されば浄不浄をも嫌うべからず。女犯肉食をも択ぶべからず。一切の法皆清浄にして速かに即身成仏すべき旨を説く。」とある。また一説では狐の精でタントラにおける性の女神である荼吉尼天を崇拝し呪術を行ったともいう。現地の民俗信仰のみならず、元との交易を通じてチベット仏教の影響を受けた可能性を指摘する説も見られる。

徹底した現世肯定・人間賛歌の思想とも言えるが、俗世の欲望・堕落の正当化と見ることも出来る。事実、後世からは邪教として激しく忌み嫌われ、特に前述の宥快は激しくこれを攻撃し文献・経典を破却したと言われる。そうした状況下では立川流の実情について詳細に知ることは困難で、これを非難する側の資料から推測するほかはないのが現状である。そのため、その記述は割り引いて考える必要もあり、特に仁寛や文観の立川流への関与については、これに言及するのは彼らへの個人攻撃目的と思われる文献がほとんどであり、明確な関与を証明するのは難しい状況である。

しかし、文観が明確な立川流大成者ではないとしても、この時代に立川流が隆盛を極め真言宗の大半を席巻したのは動かせない事実である。更に同時期に天台宗にも玄旨帰命檀と呼ばれる摩多羅神を祀っての性的信仰が広まっていたという事例は、民衆の社会的実力向上を背景に真言宗のみにとどまらず宗教全体に性信仰を含む民族的信仰を取り入れた流派が広がりつつあった事を示している。そして片手に三鈷杵、もう片手には二鈷杵と立川流独特と言われる金剛杵を手に持った後醍醐像の存在や、男女交合を象った歓喜天を祀る儀式を行った事実からは後醍醐の下にそうした時代の風潮が入り込んでいた事もまた疑い得ない。そしてそれに大きく文観が与っていたこともほぼ間違いないであろう。

6寺社勢力

後醍醐が寺社勢力を味方に引き入れることに熱心であった背景には、当時においては寺社勢力がそれぞれ大きな経済力・軍事力を有する独立勢力であったためである。ここで、再び本題から離れるが寺社勢力の社会的実力やその基盤についてみる事にする。尤も、ここで「寺社」と言っているが当時の神社は寺院に従属する形をとって寺院の権威を助ける役割をしている事が多かった(というより、神社のほとんどが神仏習合により「寺」扱いであった)ようである。

寺社は当初、国家鎮護の名の下に国家の管理下にあったが、中央集権体制が崩壊し豪族・貴族が自給体制を築き始めた10世紀初頭には同様に自立・自給体制化を進め独自の権門として成長していた。権門となった各寺社は、独自の財源と権益を守るための武力とを保有するようになる。

また、独立した権門勢力として、僧侶の間にも出自に基づいた階層が存在した。まず支配階層として学侶が存在。彼らは各寺院を巡り各宗派を学ぶ「兼学」を行うのが通常であった。今回の主人公である文観も律宗・法相宗・真言宗などを学んでいる。親鸞や日蓮が非難されたのは「兼学」を排して「専行」を唱えたのも大きな理由であった。学侶の内部にも階層が存在し、例えば叡山の場合には皇族か摂関家出身者から首領である「座主」が任命される。皇族・上級貴族出身者は「貴種」と言われ彼らの住む僧坊は12世紀頃から「門跡」と称されるようになった。そしてその下の中級貴族出身者は「良家」と呼ばれた。こうした人々には、権門として権威を保つための飾りとしての役割もあった。そして、エリート階層である学侶の下に行人と呼ばれる人々があり、彼らは寺内の雑務をこなすものとされた。また、抗争が生じた際には権益を守るために武装して戦いに望んだのも彼らである(ただし、学侶も戦いに参加することはあった)。彼らの人口比は、14世紀初頭の高野山を参考にすると学侶が400人に対して行人が2600人程度であるという。他に、寺に所属はしているが定住せずに各地を旅する聖(遊行僧)と呼ばれる人々も存在した。彼らは全国で呪いや祈祷だけでなく「何でも屋」と言うべき役割を果たしていた。国家からの正式な僧侶認定である「受戒」を上級の学侶のみであり、行人や聖らは国家からの認定を受けず所属寺院独自の認定を受けていたのである。俗世から逃れた「出家」の身という名目とは裏腹に、俗世間での出自を背景に階層が形成される新たな「俗世間」と言うべき存在であったのである。そのため、切実に俗世から離れる事を望む人々は、寺からも離れる「遁世」を行って山野に隠れ住むことが多かった。この様にして「別所」が数多く形成され新たな寺院として発展する事例が多数認められている。

これら有力寺院は、経済基盤として広大な荘園を所有していた。信仰を集める貴族や有力豪族から寄進を受け、寺院自身も様々な手段で所有地を広げようとしていた。こうした所領の管理をするため寺家政所・公文所などが設置され世俗的な事務を担当していた。これには実務に長じた大衆、すなわち行人が中心となって動かしていたようである。また、当時は所領を巡っての争いが日常茶飯事であったが、俗世勢力に対しては王法(朝廷)・仏法の相互依存関係を引き合いに出し、国家安泰のために仏法守護者(すなわち寺院)が安定であることが必要と主張してしばしば優位に立っていたのである。また、望みどおりの進展を見せない場合は後述のような「強訴」に出ることも多かった。当時、仏のものには神聖視して手を出さないという「仏陀法」が慣習として重んじられており、大寺院はこれを国家権力との関係を有利に運ぶために最大限に利用していた。一方で寺院同士の争いの場合は、しばしば武力抗争に発展している。その際の武力としては、上述の行人たちだけでなく勢力圏内の土豪と主従関係を結んで彼らも利用している。また、末寺・末社もまた大寺院にとっては領地と同様の存在であった(宗派が異なる寺院が末寺となっている例も珍しくなく、宗教的な関係でなく世俗的な主従関係であったことがわかる)。

また、自給体制をとっている関係から様々な職種が寺内には存在していたようだ。堂を建立するため檜皮職人・大工、仏事用の道具を作るため金物工、日常生活のため家具調度や服飾職人、大炊承仕ら食物担当者、寺院内で奉納するための白拍子・田楽師ら芸能者などである。彼らの多くは僧形をしており、僧侶が即ち宗教者とは限らなかったのである。エリートである学侶もまた職種としてみた場合、学問・弁舌に長じた能力を活用して寺院の利害を正当化するために利用された(それを補強するために偽経・偽縁起などが作成・利用されている)。こうした状況から、寺で様々な生産活動・経済活動がなされ新たな経済基盤となっていった。その中で最大のものが金融。寺社が金融に関係する記事は古代の「日本霊異記」に早くも見られているが、13世紀頃には日吉上分米・高野山奥之院銭などの貸付がなされるようになっている。神仏の持ち物を貸借するため返済を怠ることによる仏罰・神罰を恐れ返済率は良かったようだ。他、軍需産業も大々的に行っていた。有名なところでは祇園社の犬神人が弓のつるを製造し、南都では刀・甲冑の製造を行い根来寺では弓・矢・楯を製造で名が高かった。これらの大規模な製造・販売もまた寺院の財源となっていた。更に、海外との交易も寺院により施行され外国語や国際情勢に通じた人材が抱えられた。また、建設技術を利用しての勧進による用水池・農地開発も盛んに行われた。知られたところでは重源による狭山池修造や往阿弥による鎌倉築港がある。そして年貢や物資の輸送を担う問丸も支配下に収めていた。寺院は当時として質量とも最高級の技術層を抱えており、それが商業発達と共に様々な職種による財源発達に繋がった(そしてそれが商業発達に拍車をかけた)のである。朝廷・幕府にも持ち得なかった瓦葺の建築物が寺院にほぼ集中していた事、本格的城郭建築が12世紀段階で叡山に設けられていた事からも大寺院の持つ経済力や技術力が伺えるであろう。更に言えば、叡山は、末寺である祇園社の境内が鴨東に広く及んでいるほか、材木上人など多くの商工業・運輸業者や土倉(金融業者)を支配するなど京の都を実質的に門前町状態にしていたである。

こうした商業発達は、行人の寺院内での発言力向上に繋がった。彼らは主に金融・運輸を中心として経済力をつけていたのである。寺院の政治的決定は学侶の意志によってではなく彼らの集会によって行われるようになった。行人らが集会を開き、その決定により発向(武力攻撃)・強訴など方針が決定された。ただし、彼らは決して一枚岩ではなく寺院内での行人同士の武力抗争も慢性的に存在した。上述の寺院内城郭もそうした中で建築されたのである。

彼らは朝廷や幕府をも脅かすに足る強大な経済力・軍事力を保有し、寺院は弁論・呪術的圧力・軍事力という三段構えの強制力を持って社会に君臨していたのである。しかし彼らは寺院自身の権益を守ることで自己完結しており、寺院間や寺院内で抗争し決して一枚岩でなかった。彼らにとって名目的盟主として、中立的調停者として朝廷の存在意義は大きかったのである。

後醍醐は、この強大な実力を持つ寺社勢力を味方に付けることで弱体な朝廷の武力を補うとともに、これを何とか支配に組み入れることで強力な支配体制を実現しようとしていたのである。

7倒幕へのうねり

後醍醐が文観らを通じて期待したのは寺社勢力そのもののだけではなかった。まず、寺社と深い繋がりを持つ修験道の情報能力も強く求められた。天台宗系の本山派修験道本拠地である聖護院門跡には後醍醐の皇子・尊珍法親王が任じられていた。そして、真言宗系の当山派根拠地が、文観のいる醍醐寺にあった。三宝院である。その三宝院を中心として、金剛寺・信貴山・高天・吉野・根来・粉川・伊勢世儀寺・甲賀飯道寺といった寺院が繋がっていたのである。三宝院門跡にも聖尋という後醍醐の息がかかった僧侶が任じられている。

また、前述した寺院勢力と現地豪族との関係を利用し、新興豪族を味方に引き入れる上で有利に働かせようともしていた。例えば、河内の金剛寺との繋がりで楠木正成が、故郷播磨との縁で赤松円心が文観によって後醍醐に仲介されたと考えられている。

こうして寺社勢力や新興豪族を中心として根回しをした上で、後醍醐は再び倒幕を目指して準備を進めていた。しかし元弘元年(1331)、倒幕計画が再び露見し、日野俊基や文観らは捕縛された。俊基は鎌倉で処刑され、文観は硫黄島に流罪とされている。「太平記」によれば、文観が水責めなど多くの拷問にも耐えて白状しなかったが、これを見て怯えた忠円が全ての計画を自白したと伝えられる。また、「太平記」は当初、幕府は文観を処刑する予定であったが幽閉された文観の影が不動明王の形に見えたため恐れをなして処刑を取りやめたという話も記している。事実かどうかは不明であるが、文観という僧の豪傑性・怪物性を示唆するような逸話ではある。

さて、計画の露見を知った後醍醐は御所を脱出して笠置に逃れて挙兵。同時に叡山で尊雲法親王が蜂起した。これは短期間で失敗し後醍醐は捕われて隠岐に流されたが、楠木正成が赤坂城で幕府軍を苦戦させた後に尊雲と共に姿をくらましている。正成は大阪平野各地で幕府方を翻弄して京を脅かした末に千早城に篭った。一方で尊雲は般若寺に一時期身を隠した後に山伏に変装して吉野山系を放浪し、山岳民を味方に付けて吉野山で挙兵した。般若寺・吉野とも醍醐寺系列であり、文観を通じて後醍醐方に好意的となっていたようだ。正成ともども、ここで文観の人脈が大きくものを言っている。

正成らの活動に脅威を感じた幕府は、大軍を動員して千早・吉野を攻撃。吉野は陥落させたものの千早城攻略はできないでいた。それを受けて播磨で赤松円心が挙兵し京への攻撃にかかる。更に、後醍醐は伯耆の名和氏と連絡して脱出し船上山に立てこもった。幕府軍の第二陣として関東から京に入った足利高氏は、後醍醐と連絡して京を陥落させ幕府方の拠点・六波羅探題を奪う。時を同じくして関東では上野の新田義貞が挙兵し、鎌倉を攻め落とした。こうして鎌倉幕府は130年余りの歴史を閉じたのである。

8建武政権

後醍醐の手による統一政権が樹立されると、文観は流罪地から召し返され功臣として篤く処遇されました。まず僧正となり東寺大勧進に任じられた。建武二年(1335)には東寺一長者や醍醐寺座主に任命されている。ただし、これは必ずしも真言宗全体の賛同を得られなかったようで、高野山大衆から東寺一長者解任要求が出されている。ともあれ、後醍醐による建武政権においては、楠木正成・名和長年・結城親光・千種忠顕が目覚しい立身出世を遂げて「三木一草」と呼ばれたが、文観も彼らに劣らず羽振りの良さを誇り豪壮に飾り立てた行列や武者を従えたと「太平記」は伝える。

建武政権は、当時台頭しつつあった商業勢力を基盤としつつ専制的な政治志向を示していく事になる。しかし、恩賞処理への人々の不満と急進的な改革に伴う混乱が広範な強い反発を招いた。特に恩賞処理に関しては、後醍醐が権力基盤確立のため広大な旧北条氏領を自身たちのものとした事や倒幕戦中に乱発した領地安堵が相互に矛盾する事例が続出した事、恩賞事務が混乱した事などが不満を強いものとした。不平を抱いた各地の豪族達は名門・足利尊氏(高氏、後醍醐より御名「尊治」の一字を賜った)に期待を抱くようになり、同様に新興豪族を糾合しようとしていた護良親王と激しく対立。この対立は勢力に勝る尊氏の勝利に終わり、護良を危険分子と看做していた後醍醐が尊氏に妥協して護良を捕縛。建武政権への不平分子の糾合先は尊氏に絞られた。

建武二年(1335)に東国で北条氏残党が挙兵し足利直義(尊氏の弟)が守る鎌倉を落すと、その奪回のために尊氏が独断で出陣。鎌倉を再び手中にした尊氏は、独自の論功行賞を行う。実質上の朝廷からの自立である。これに対して朝廷は最終的に新田義貞を大将として討伐軍を派遣した。新田軍は緒戦こそ優勢に戦いを進めるものの、竹ノ下で尊氏に敗北して撤退。上洛する足利軍を相手に朝廷側は防衛戦を行うが、「太平記」によれば文観もこの時に脇屋義助(義貞の弟)の指揮下に手勢を派遣し山崎防衛に参加している。しかし山崎の防衛軍は弱体な混成軍でありここから赤松軍により突破され京は陥落した。この時、文観は宮中の真言院で正月八日から十四日にわたり鎮護国家を目的とした後七日御修法の途中であったが、この戦乱のため中断を余儀なくされている。この際は新田軍・北畠軍・楠木軍などの活躍で一旦京を奪回しているが、西国に落ち延びた足利軍は多々良浜で菊池軍を破って再上洛し、延元元年(1336)五月には湊川で楠木正成を討ち取って京に入った。尊氏は持明院統から光明天皇を擁立(北朝)し自身の政権を樹立する(足利幕府)が、後醍醐は吉野に逃れて自らが正統な朝廷であると主張した(南朝)。こうして六十年にわたる南北朝の動乱が幕を開ける。

9南北朝の争乱へ

朝廷が南北に分裂した後も、文観は引き続き後醍醐に護持僧として近侍し続けたようである。延元二年(1337)、その功により観心寺に阿闍梨三口の設置が許されている。文観の他にも、性円・道祐・顕円・実助らが護持僧の役割を勤めたと推測される。

さて、後醍醐は北陸の新田義貞や奥州の北畠顕家らに命じて京奪回を目論むが、彼らは相次いで足利方に敗れて命を落とす。失地回復を目指して北畠親房が関東に入り経略に苦戦する中で後醍醐は延元四年(1339)八月に崩御し子の後村上天皇が即位した。文観は、後村上にも引き続き護持僧として仕えたと想像される。吉野や観心寺は南朝の拠点としてその後も重要な役割を果たすのであり、文観による人脈がここでも大きくものを言っている。

さて、優勢に戦いを進め体制を確立しつつあったかに見えた足利幕府であったが、主従関係・恩賞を主に担う将軍・尊氏と平時の政務や裁判を担う副将軍・直義の間に徐々に齟齬が生まれ始めていた。加えて、尊氏の執事・高師直は機内を中心に新興豪族を配下に組み入れて伝統的価値観に対して破壊的な行動が目立つようになっていた。これが、伝統・慣例を重んじて大豪族など保守勢力に支持された直義と対立を深めていた。これが幕府内の内紛に発展し、師直のクーデターで直義が引退を余儀なくされたのに始まり、直義が南朝と結んで尊氏・師直を破った末に師直を殺害。今度は正平五年(1350)に尊氏が南朝と手を結んで直義を討ち果たすと言う事態に到る。こうした中で、北畠親房を中心とした南朝方はこの時期には自力で戦局を打開する力は既に失っていたもののこれに乗じる形で京の奪回に成功。正平一統である。京に入った文観は再び東寺一長者に任命され、嘗て建武三年(1336)正月に中断せざるを得なかった後七日御修法を約十五年の時を経て成就させている。その感慨は察するに余りある。

しかし、この京奪回は内紛の間隙を縫った一時的なものに過ぎず短期間で再び撤退する事となった。正平十二年(1357)八月、文観は後村上の勅命により理趣経の大綱釈書を作成。老いてもなおその存在感は十分であった。しかし文観はこの頃既に病に侵されていたようで、同年十月九日に金剛寺大門往生院で入寂。享年八十歳の長寿であった。

その後も南朝は足利方の内紛に乗じて何度か京奪回を果たしているが、足利政権が安定に向かう中で頽勢を挽回する事は難しくなり、遂に北朝側に神器を譲渡する事をやむなくされている。明徳三年(1392)の事であった。

10終わりに

文観が生きた時代は、呪術的なものがまだまだ信じられていた社会であった。そうした中で、彼の呪術的能力は高く評価され、また寺社勢力の社会的実力とその中での彼の人脈もまた後醍醐にとって貴重なものであった。正成や義貞、顕家などと比べると派手な功績がないように見えるが、後醍醐にとってはまたとない功臣の一人であったと言え、その信任もむべなるかなと思われる。

それにしても、淫祀邪教の代名詞のように言われる立川流の大成者という説は真偽が不明であるが、そうした説がささやかれるだけの不気味さ・破天荒さが彼にはあったとはいえるようである。彼もまた紛れもなく未曾有の混乱を示した時代における「魑魅魍魎」「怪物」の一人であった。その足跡が定かならないところも彼の場合は逆に不気味な存在感を増しているように思われる。

さて、彼がその人脈によって活用した寺社勢力であるが、その制御には足利政権も苦慮したようである。国ごとに安国寺・利生塔を設置し京・鎌倉に五山を制定するなど禅宗を優遇しつつ中央の管理を強める事で制御を図ろうとしていたようだ。各地の荘園が現地豪族により侵食が徐々に進められていった事や貨幣経済発達に伴い現世中心的な価値観が広まっていった事、それに伴い彼らの間で念仏・題目など新たな「専修」を旨とする宗派が力を伸ばし始めた事もあって、寺社勢力は徐々に力を弱めていく(一方で、衰微した朝廷との繋がりを弱め独立性をいっそう強めてもいる)。これが完全に姿を消すのは織田信長・豊臣秀吉らにより強力な集権的統一国家が建設されていく16世紀の事であった。