南北朝時代の有力守護・佐々木導誉(ささきどうよ)の略歴と評価を紹介

(1)はじめに

僕はこれまで南北朝時代に関していくつかのレジュメを作成してきたが、それぞれを性格づけると次のようになるだろう。南北の両巨頭である後醍醐天皇と足利尊氏、悪党代表の楠木正成、後醍醐没後の南朝代表・北畠親房、足利方の大立者で観応擾乱の一方の当事者である高師直、各地で勢力拡大に腐心なした南朝の皇子・宗良親王、九州の菊池氏。これらで触れられなかった有力守護の代表として、今回は佐々木導誉を取り上げたい。導誉は主要人物の中ではかなり長命であるだけでなく、晩年まで政局に大きく関わっているため比較的手薄であった南北朝後半についてもこれで述べる事が出来ればと思う。また、この時期の文化動向についても彼を通じて触れてみたい。

(2)佐々木氏

佐々木氏は宇多天皇の孫・源雅信の子である扶義を始祖とする。頼朝が挙兵した際には佐々木秀義がこれに呼応して一族で功績を上げ、長男定綱が近江総追捕使や近江・隠岐・石見守護、次男経高が阿波・土佐・淡路守護、三男盛綱が越後・伊予守護、四男高綱が備前・長門守護、五男義清が出雲守護を歴任するに至った。一族の本拠地は近江佐々木荘の小脇郷であった。定綱の子・広綱は承久の乱で朝廷につき没落、以降は信綱の三男・泰綱が六角氏を名乗り佐々木氏惣領・近江守護を継ぎ、その弟・氏信は京極氏を名乗り伊吹山を拠点とした。以降、六角氏が近江守護を務める一方で、京極氏は代々検非違使を務め鎌倉政権と朝廷に両属することとなった。

(3)14世紀初頭の時代情勢

鎌倉幕府の成立以降、西を朝廷が、東を幕府が支配する形が出来上がった。そうした中でも承久の乱の後は幕府の優位が確立される。そして元寇を契機にして防衛のため幕府は全国的に広範な支配を及ぼす必要を持つようになった。更にこの頃、朝廷は後深草・亀山兄弟の嫡流争いを基に持明院統・大覚寺統に分裂し、幕府の調停を仰がざるを得なくなる。そして幕府の統制強化の中、国司の権限であった田文作成が守護の手に移り土地把握力が低下。一方幕府は朝廷内の争いに巻込まれた上、西国の商業発展やそれに伴う「悪党」即ち非農業民の台頭に悩まされる。それに対応するため幕府の首班である北条氏は一族の総領・得宗の下で専制傾向を強化する。しかしこれは将軍体制化にある御家人達の反発を買うこととなり、更に朝廷や非農業民の不満も一身に負う様になった。一方非農業民も日本を背負える程の実力はまだなく、乱世到来の近さを思わせる状態であった。

(4)青年時代

京極高氏(佐々木導誉)は永仁四年(1296)に京極宗氏の子として生まれ、元亨二年(1322)に検非違使に就任。嘉暦元年(1326)には鎌倉政権の最高権力者・北条高時が病のため出家、高氏はそれに従って剃髪し法名を「導誉」とした。「太平記」などでは「道誉」とあり一般にはこちらの方が知られているが、本人の書状では「導誉」とあり、今回は「導誉」を使用する。これは北条氏への忠誠を示した行動であることはいうまでもない。前述のように佐々木氏惣領・近江守護はこの時点では六角氏の時信であり、導誉はこの時点では佐々木氏の傍流ではあったが六角・京極ともに京・六波羅探題に直属であったため六角の家臣化はせず相互に独立した存在といえた。

(5)倒幕

14世紀前半に天皇の位についた後醍醐天皇は親政を行いやがて鎌倉幕府の打倒を目論む。皇位継承に干渉する幕府を倒し傍流であった己の血統に皇位を受け継がせるため、そして全国支配権を朝廷に取戻し自らの統一政権を築くために。元弘元年(1331)、後醍醐は挙兵し笠置山に篭ったが笠置は幕府の大軍により陥落し持明院統の量仁親王(光厳天皇)に譲位させられ隠岐に流された。導誉はこの際、幕府方の一員として動いており、六条忠顕を自邸で捕虜として預かった他、翌元弘二年(1332)3月には後醍醐を隠岐配流する際の警固を担当した。同年4月には後醍醐の側近であった北畠具行を護送、幕府の命により柏原にて処刑している。この際、具行は導誉の心遣いに感謝の意を表したという。

しかし元弘三年(1333)に入ると、後醍醐の誘いに応じて河内で挙兵していた楠木正成が京都六波羅探題の幕府軍を各地で翻弄した上で金剛山の千早城に篭る。幕府は大軍を派遣してこれを囲むが攻めあぐね日々をすごした。これを見て、かねてから幕府に不満を抱く勢力が各地で立ち上がり、その最中に隠岐から後醍醐が脱出し名和長年の庇護の下、伯耆船上山に篭った。そうした情勢下の4月、足利高氏(尊氏)が鎌倉より六波羅への援軍として上洛。当時の六波羅は播磨で挙兵した赤松円心により繰り返し攻撃を受ける状況であった。さて、この時に導誉は番場宿で足利高氏と会見しており、恐らくこの場で両者の密約がなされたと考えられる。導誉は情勢を見て鎌倉方を見限っており、ここで足利氏と手を組んで功績を挙げようと図ったのであろう。導誉との協定で背後を脅かされる不安がなくなった足利軍は、入京後に幕府に反旗を翻し、六波羅探題を滅ぼす。六波羅探題の北条仲時らは二千騎を率い持明院統の光厳天皇・後伏見院・花園院を奉じて東国へと落ち延びようと図るが、近江番場宿で六角時信の援軍を待つ際に野伏ら数千に包囲され蓮華寺にて仲時ら432人は自刃、天皇・院らは捕らえられて京へ護送された。番場が導誉の勢力圏である事を考えても、これは導誉の諒解の下で行われたと考えて間違いない。時を同じくして関東では新田義貞が挙兵し鎌倉を攻め落とし、ここに140年の歴史を誇った鎌倉幕府は滅亡したのである。

(6)近江守護

鎌倉幕府を滅亡させた後、後醍醐天皇は京に戻り自分のみが正統な天皇であると宣言し翌元弘四年(1334)には元号を「建武」と改め、商工業の力を背景にして専制的・集権的な国家建設を進めていった。朝廷の当面の課題は、倒幕に貢献した豪族や寺社への恩賞であった。新政府は全国からの恩賞の要求に対応しきれず、この問題は土地所有に関する混乱を招いた。そうした中、新政府に登用されていた導誉は土地関連訴訟を扱う雑訴決断所の西海道担当する寄人となっていた。

恩賞業務の混乱、後醍醐による土地の集中的な所有、前例を無視した強権的な政策などが建武政権への不満を招いており、しかも政府やそれを支える商工業勢力にはそれを抑えるだけの社会的実力は不足している状態であった。そうした中で建武二年(1335)に鎌倉幕府の残党が蜂起し鎌倉を奪回したのをきっかけに足利尊氏が東国へ下向、反乱軍を鎮圧した後に鎌倉に留まって独自で論功行賞を行った。事実上の朝廷への反逆である。これに対し朝廷は新田義貞を派遣して尊氏を討伐しようと図った。しかし尊氏はこの期に及んでも後醍醐に弓を引く決断がついておらず寺に篭り出家して許しを請おうとする始末であったため、弟の足利直義が軍勢を率いて三河矢矧川で新田郡を迎え撃った。この時、導誉も尊氏に従って関東に下っており、直義が出陣した際も従軍して新田郡と戦っている。直義は新田郡と各地で戦闘するも敗走、導誉も12月5日の手越河原での戦いでは自身が負傷するのみならず弟・貞満を戦死させている。義貞が東へ軍勢を進める最中、導誉は新田に降伏しているが、尊氏が腹を決めて出陣し箱根・竹ノ下で新田軍に奇襲をかけ勝利した際には再び足利方に寝返って新田軍壊走の一因を担っており、機を見るに敏な出処進退を見せている。建武三年(1336)、足利軍は新田軍を追って上洛、一旦は京から追い落とされるが多々良浜で勝利して吸収を握り兵庫湊川で義貞・楠木正成を破り再び京を占拠。後醍醐天皇は比叡山に逃れて篭城戦を挑んだ。尊氏は後醍醐に対抗するために持明院統の光明天皇を擁立し自らの政権樹立を宣言している(北朝)。

こうした中で、導誉は小笠原貞宗らと共に園城寺と連携して東近江を固め叡山の糧道を絶つ役割を担うこととなった。しかし導誉は古くからの自分の拠点である近江の権限を他人と共有するのを嫌い、後醍醐に密かに降伏を申し出て条件として近江守護職への任命を勝ち取った上で近江に入国し、尊氏から近江守護職を拝領したと国中に触れ回ったため小笠原氏は恐れて逃げ去り、近江は導誉一人の手に落ちた。こうして、戦乱をうまく立ち回って導誉は六角氏から近江守護の地位を事実上奪ったのである。

近江は、京都に隣接し琵琶湖・淀川の水上交通や京都に隣接した陸上運輸の要衝であり、農業生産力も高い地域である。また、淡水漁業が盛んであることや古来より鉄生産が栄えている事、叡山が多くの職人を抱えている事、京に近接している事から早くから商業の発展が見られた土地でもある。まさに天下の動きに大きな影響を及ぼす要地と言えた。この地を拠点にして導誉は今後も足利政権における有力者として強い影響力を示す事になる。なお、導誉が尊氏から正式に近江守護に任命されたのは建武五年(1338)のことである。こうして導誉は佐々木氏の惣領に上りおおせたのである。

導誉は、多賀神社を保護し、神官を務める多賀氏・河瀬氏を用いて湖東・湖北の豪族を把握する事に努めた。また、暦応四年(1341)には雲海を開山として慶雲山勝楽寺を創建、同じ頃に勝楽寺城を築城し現地豪族の尼子氏を前衛として用いるなど国内豪族の把握に努めていた。

(7)ばさら大名

話は戻って建武三年(1336)、後醍醐天皇は、尊氏との和睦を経て吉野へ脱走し、自らが正統な朝廷であると宣言して抵抗を続ける(南朝)。60年にわたる南北朝の動乱がここに幕を開けた。尊氏は南朝に対し軍事的優位を保ちながら政権の安定化を図る。導誉はその中で近江守護としてのみならず内談衆として政権内でも大きな発言力を持つ存在となっていく。そうした時期に導誉は一つの事件を引き起こした。

暦応三年(1340)10月、宴の帰りに妙法院を通りかかった際、息子・秀綱の配下が妙法院敷地内の紅葉を手折ったため、宿直の山法師がこれを咎め追い払った。妙法院は比叡山の末寺にあたり、この時の門主は天台座主で光厳院・光明天皇の弟に当たる亮性法親王であった。秀綱らの行為は比叡山や皇室への不敬に当たったのである。しかし導誉はこれを聞いて怒り、妙法院御所を焼き討ちしたのである。当然、叡山は激怒し導誉父子の死罪を足利幕府や北朝に要求するが、尊氏・直義とも導誉の力が幕府に不可欠と判断したか判断をうやむやにしようとした。しかし叡山が強訴をちらつかせて処罰を強く迫ったため、導誉を出羽へ、秀綱を陸奥へ流罪とすることに決定した。導誉は「高氏」という名が将軍尊氏に通じることを憚り「峯方」と改名された上で暦応四年(1341)4月に京を出発した。「中院一品記」によれば導誉は近江国分寺まで若党300騎を引きつれ靭・腰当に猿の皮をつけ、それぞれ手に鶯の籠を持って道中に酒肴を儲け、宿所では遊女を揚げるといった有様であり、流罪というより物見遊山に行くような態であったという。因みに猿は叡山の鎮守である日吉神社の神獣であり、この振る舞いは今回対立した叡山の権威を嘲弄したものといえる。彼らは上総を経た上で配流地に向かうはずであったが、近江国分寺から先は行方知れずとなってしまった。そしていつの間にか近江に舞い戻っていたようで、同年8月には伊勢の南軍を攻撃する軍勢に加わって出陣している。

何とも人を喰った話であるが、当時はそうした振る舞いに及んだのは導誉一人ではなかった。派手な姿や遠慮のない振る舞いをし旧来の権威をものともしない風潮は「婆娑羅」と呼ばれ、導誉の他には土岐頼遠や尊氏の執事である高師直が知られている。「婆娑羅」の語源としてはサンスクリット語でダイヤモンドを意味する「vajra」がなまって強く強固な意味を持つようになったといわれるが明らかではない。有名な逸話としては、頼遠が康永元年(1342)に路上で光厳院の車と争論し「院と言うか、犬と言うか。犬ならば射てくれよう」と屋を射掛けたり、師直が「王というものがいるが王などいなくてよい、木や金で作ったものを変りに置けばよかろう」と放言した物があげられる。乱世に実力でのし上がったという自負を背景に、失墜しつつある権威を否定する傾向が顕著に見られるのである。

ところで、頼遠は院に矢を射掛けた罪で処刑され、師直は後述するように権勢を誇った果てに直義と対立して討たれるという非業の最期を遂げるのに対し、導誉は天寿を全うしている。この差はどこで生じたのであろう。思うに、足利政権にとって頼遠は切り捨てても問題ない小者に過ぎず、師直は権力が大きくなりすぎて危険な存在になっていた。一方で導誉は要地近江の守護として経済・軍事ともに重要な地位を占め個人的力量においても不可欠の存在であるが、飽くまで有力者の一人であり幕府を脅かすほどの危険な存在とまでは言えない。導誉の生き残りへの絶妙なバランス感覚が垣間見えるようである。

(8)観応の擾乱

妙法院事件の後も、導誉の足利政権内での重要性は揺るぎを見せなかった。康永二年(1343)には、一時的に南朝方に走った山名時氏に替わって出雲守護に任じられている。また、貞和四年(1348)には執事・高師直が四条畷で南朝方の主力武将・楠木正行を大軍で圧倒しその余勢を駆って吉野に攻め入っているが、この時も導誉は従軍して楠木勢包囲殲滅の一翼を担った。その後の追撃戦でも南軍の野伏の奇襲を受けた際には後陣として応戦、息子・秀宗が討ち死にし導誉自身も負傷している。尊氏・正成・義貞などの南北朝における著明な武将と比べると、導誉は戦場での活躍は目立たないものの、武将としても足利政権の軍事作戦において重要な手駒として機能していた事が分かる。

ところで、足利政権は、豪族たちとの主人関係や軍事的動因を受け持つ将軍尊氏と所領問題や一般政務を担当する副将軍直義の二頭体制で運営されていたが、やがて主に商業の発展を背景に台頭する新興勢力から擁立される尊氏と保守派豪族に支持される直義の派閥に分裂して対立するようになった。特に尊氏の下で手腕を振るう執事・高師直は前述のように権威を顧みない放縦な振る舞いも多く、鎌倉以来の名門豪族を中心に反発を抱くものも直義を中心に少なからず存在し、これも対立を激しいものにした。

貞和五年(1349)閏6月、師直は執事職を解任。師直もこれで大人しく引っ込んではおらず8月に軍勢を率いて直義襲撃を目論み、更に直義が逃げ込んだ尊氏邸を包囲して直義の追放を求める。師直の要求は受け入れられ直義に代わり鎌倉から義詮(尊氏の長男)が呼び寄せられ、直義は出家。直義の派閥に属していた人々も政権から追いやられる事になる。その中で中国探題に任じられていた直冬(直義の養子、尊氏の実子)も追討を受けることとなり観応元年(1350)6月には高師泰が出陣、10月には続いて尊氏・師直も中国地方へ発向した。こうした情勢下、導誉は目立った動きを示していないが、7月に師直に反発して挙兵した土岐周済と美濃・近江国境で戦闘しており、尊氏・義詮配下として活動していたようだ。なお、尊氏は中国への出陣前に導誉を光厳院に謁見させ共に中国に出陣する旨を奏上、この際に剣馬を賜っている。政権内の内紛である戦いに先立ち、導誉を自陣営に引き入れる目的での働きかけであろう。

尊氏出陣に前後して、直義が京より出奔し大和の豪族・越智氏を通じて南朝に降伏。直義派はこれを切っ掛けに勢いを増して各地で蜂起し直義は畠山国清らと共に八幡に進出、この時に導誉は仁木義長らと共に京防衛に従事している。更に北陸からは桃井直常も七千の軍勢を率いて東坂本に進出した。観応二年(1351)には尊氏自らが直常と戦闘、東山に陣取る直常を西から師直が攻撃し、尊氏が北白川から側面を、導誉が今日吉から直常の背後をつく作戦を取り直常を敗走させている。しかし結局は日毎に直義方の軍勢が増える状況のため尊氏らは敗走、同年2月には兵庫で直義軍と戦うも敗北し師直・師泰の出家を条件に和睦したが、結局師直兄弟は殺害されている。こうして直義派主導の新体制が開始され、4月には導誉は仁木義長・細川清氏ら尊氏派武将と共に所領を安堵されているものの出雲守護職は剥奪され直義派で嘗ての守護であった山名時氏に与えられている。こうして直義主導で尊氏を盛り立てる体制は緒についたかに見えたが、直義派と尊氏派の対立は当人たちの意思をも超えて不可避なものとなっていた。こうした中で7月、導誉は近江で城郭を設けて尊氏に反旗を翻し、時を同じくして播磨でも赤松則祐が反逆。これを受けて7月末には尊氏が近江に、義詮が播磨に出陣したが、双方とも睨み合いに終始して衝突には至っていない。実はこれは尊氏父子が両者と示合わせ京の直義を挟撃するための偽装で、それと覚った直義は8月1日に自己の党派を率いて味方の勢力が強い北陸へ向かっている。9月には、近江八相山で尊氏は一万の兵を率い直義軍二万と睨合いし、この時には導誉は尊氏軍の主力を成していた。この際の小競合で佐々木勢に直義方が敗れ、意気阻喪した直義方は鎌倉に向かっている。

結局は導誉の尊氏への反逆は偽装であったようだが、この時に南朝から尊氏・直義・義詮の討伐を命じる綸旨が導誉に実際に出されている。あわよくば機会を得て足利氏に取って代わろうという考えが導誉にあったのか否かは不明だが、キャスティングボートを握りうる有力者として南朝からも見られていたと思われる。

直義との戦いの中で今度は尊氏が南朝に降伏、11月2日に南朝がこれを受け入れると尊氏は軍勢を率いて関東へ向かい年末に直義を降伏させている。直義が急死したのは翌年2月26日、師直が殺害された丁度一年後の事であった。

(9)京都攻防戦

時を同じくして、畿内では尊氏の降伏を切っ掛けに南朝方が勢いづき閏2月には義詮を追いやって京を軍事占領、光厳院・光明院・崇光天皇を捕え河内に護送。義詮は近江に逃れた。3月、義詮は南朝への降伏を解消し元号を南朝方の正平七年から観応三年(1352)に戻し各地に動員を発した。佐々木・土岐・赤松に加え、旧直義派の山名もこれに応じて京を包囲し5月には後村上天皇が篭る八幡を攻め落とし後村上は辛うじて逃れた。こうして南朝の攻勢は挫折したが、幕府方も奉ずべき朝廷を失い困惑していた。結局崇光天皇の弟弥仁親王を天皇にすることにしたが神器も南朝に接収されており皇位を保証する「治天の君」(天皇家の惣領)もいない。そこで止む無く唐櫃(神鏡の容器)を神器に、親王の祖母広義門院を「治天の君」に見立てることにした。広義門院は当初、義詮を光厳・光明・崇光の仇として責任を追及し弥仁の擁立に反対したが、結局は譲歩し継体天皇を先例として弥仁は後光厳天皇として擁立され文和元年と改元した。これ以後の北朝はその正統性に問題が残り、幕府が南朝に対し一種の引目を感じる所以であり義満時代の南北合体までこの問題を引摺る事になる。京陥落時に北朝天皇を確保できなかったのは義詮の大きな失態と言える。

ところで、義詮がこの時に近江に逃れて以来、導誉は義詮と緊密な関係を保つようになる。要地を拠点に持つ有力者を繋ぎとめておきたいという義詮の思惑からであり、導誉もこれを利用して力を強めていくのである。

この年、兵糧を現地確保する目的で美濃・尾張・近江を対象に荘園からの年貢を守護が半分獲得できるという内容の半済令が出されている。都周辺での戦乱を反映したものであり、一年限りの方針であったが、長引く戦乱もありその後も継続され範囲も全国に広げられる。守護による荘園侵食を法的に裏付けるものとなり、当初は年貢のみであったのが土地支配権そのものも守護が半分握るようになっていく。

話を戻すと、文和元年に山名時氏が南朝と結び反旗を翻した。その原因として「太平記」は時氏の子・師氏が先の八幡攻撃の恩賞を得るために政所執事・引付頭人である導誉の取り成しを求め訪問したにもかかわらず導誉は「本日は連歌会席で今は茶会の最中」と称して面会せず、山名がその無礼に怒ったためであると述べている。確かに導誉との対立が反乱の原因ではあったが、本質的な原因は出雲守護職を巡っての長年にわたる争いである。ともあれ時氏は出雲・伯耆・隠岐・因幡を制圧し翌文和二年(1353)には京を占領。義詮は後光厳天皇を連れて美濃に逃れ、後陣を務めた秀綱(導誉長男)は近江堅田で戦死している。義詮は青海を中心に体勢挽回に努め尊氏も関東を制圧して上京したため山名勢は一旦撤退、尊氏らは京を奪回した。

翌文和三年(1354)12月、山名氏は直義の養子・直冬を大将に奉じ、南朝の綸旨を得て北陸の桃井直常ら旧直義派と共に再び京を攻撃した。尊氏・義詮は後光厳を連れ近江に逃れるが導誉らを主力に体勢を挽回、しばらくして直冬らは京を放棄し撤退した。その後はしばらく安定した情勢が続いていたが、延文三年(1358)4月30日に尊氏が病没、同年に義詮が将軍職を継承した。これを契機に再び政局の変動が起こる。

(10)政界の黒幕その一

義詮が将軍となった際、勅使から征夷大将軍宣下の宣旨を受け取る役割を果たしたのが導誉の孫・秀詮である。一族から犠牲を払いながらもほぼ一貫して尊氏陣営を支えてきたことが評価されたのだという。有力者・中小豪族を問わず変転常ないものが多い中、事情はともあれ有力者として危機においても将軍を支えてきた導誉は、足利将軍家にとって大きな存在であった事が知れる。

代替わりに従い政権中枢も変わり、新将軍を補佐すべき執事に就任したのが細川清氏である。観応の擾乱より尊氏方の武将として勇名を轟かせていた。足利一門の有力者の家柄であり、役職も足利家家政に留まらず天下の政務を預かる事が前提になっていたこともありこの頃から「管領」と呼ばれるようになる。

その管領清氏と、仁木義長の対立が尊氏没後間もなく、早くも表面化した。義長も清氏と同様に尊氏方の勇将として名を上げており、似たような立場同士で互いの存在が目の上のたんこぶであったのかもしれない。

延文四年(1359)秋、義詮は就任間もない自分の権威に不安があることを鑑みてか、南朝討伐の大軍を動因。軍事的な成果を挙げる事で権威確立を図ったのである。これに応じる形で関東から基氏の執事である畠山国清が上洛。ところがこの国清も義長と折り合いが悪く、連れてきた軍勢を利用して、清氏と組んで義長を追い落とそうと図ったのである。清氏・国清は南朝討伐において一定の成果を挙げるものの、義長が将軍義詮を軟禁し手中において反乱したため途中で撤退せざるを得なかった。

将軍が義長の手にある以上は名分として清氏らは不利であったが、導誉が義長と交渉し、その隙に義詮を女装させた上で脱走させたため状況は逆転。義長の弟・頼夏は悔しがり「日本一の頼りない男を頼ったのが間違いだった、我らが勝てば今度は我々に擦り寄ってくる事だろう」と義詮を罵るものの後の祭りで、仁木軍は京を追われ没落、一時は南朝に身を寄せるものの数年後には降伏を余儀なくされている。導誉が寝業師として本領を発揮したといえる。

(11)政界の黒幕その二

義長との対立においては協力関係であった清氏と導誉であるが、義長没落後には二人が対立状態となる。その背景として、太平記はいくつかの原因を挙げている。一つは加賀守護職を巡る争いで、守護であった富樫高家が死去し、導誉は娘婿である斯波氏頼を守護に望んだのであるが清氏は高家の子・氏春を引き続き守護に任命したため両者の対立が深まった。また、備前福岡荘をめぐる争いも二人の対立の種であった。福岡荘は頓宮四郎左衛門の所領であったが所領没収され赤松則祐に与えられていた。清氏は配下である頓宮にこの地を安堵しようとしたが、導誉の働きかけで娘婿である則祐に与えられた。加えて、摂津守護職であった導誉が孫・秀詮に同職を譲渡したところ、清氏は赤松光範に与えようと運動した。つまりは両者の勢力・派閥争いと言える。

こうした中で、清氏が義詮を招いて七百番歌合を開いたのと同じ七夕の日に、導誉は盛大な茶会を催した。それは七つの台子を飾って七番の料理を整え、七百の掛け物(闘茶の賞品)を用意し七十服の茶寄合を設けるという華やかなもので、義詮も予定を変更してそちらに赴いたのである。面目を潰された清氏は当然激怒したという。導誉による清氏への挑発行為であろう。

同じ時期、清氏は二人の息子の元服を石清水八幡で行い八幡大菩薩を烏帽子親に擬して兄を八幡六郎、弟を八幡八郎と名乗らせた。これは義詮に清氏の将軍に取って代わる志があるのではないかという疑いを抱かせるもので、不注意の謗りは免れなかった。導誉はこの機を逃さず将軍に清氏の逆心を訴え出た。すなわち、清氏が自らの天下取り・義詮の頓死・基氏の没落を祈った内容の願文を示したのである。これを受けて康安元年(1361)9月、義詮は将軍邸より出奔し今熊野に立て篭もって清氏討伐を発令。清氏は逆臣として領国若狭に落ち延びる事となった。今川了俊「難太平記」によればこの時に導誉が示した願文は偽物であったとのことで、今川氏がこの際に将軍に付き清氏と敵対している事からこれは信頼に足る話と思われる。それに導誉ならばやりかねない話である。管領として天下を動かす立場にあった清氏も、鎌倉末期より政界を泳ぎ抜いてきた古狸・導誉とは役者が何枚も違ったといわざるを得ない。

清氏は若狭で支えきる事は出来ず、以前に南朝に付いていた石塔頼房を通じて南朝に降伏。清氏は京の防備の薄さや義詮方が各地で適を抑えるのに精一杯の状況を説き京攻撃を南朝・後村上天皇に進言した。後村上は楠木正儀に京攻撃の件を相談したところ、正儀は以下のように答えたという。「京は攻めやすく守りにくい地です。京を奪うだけなら私だけでもやって見せますが、敵の大軍を相手に守り抜く事は難しいでしょう。」

しかし後村上や廷臣達はたとえ一日でも京の御所で過ごし後はその夜の夢を偲びたいと望んだため、正儀もそれに従い京攻撃が決定された。

12月8日、清氏は幕府軍を破り入京。将軍義詮は後光厳天皇を擁しつつ近江へ逃れ、義詮の嫡男・春王(後の義満)は播磨へと逃れた。導誉はこの際、自邸を敵方の有力者が占領するであろうことを考え、邸宅を飾り立てた。まず美しく清掃した上で、六間の客殿に紋付の大畳を並べ、中央と両脇に掛軸・花瓶・香炉・茶釜・盆に至るまで整えた。更に書院には王羲之筆の草書の偈、韓愈の掛軸を、寝所には沈香の枕、緞子地の夜具を用意。のみならず、十二間の夜警室には、鳥・兎・雉・白鳥の肉を3本の棹に懸け並べ3石の大筒に酒を満たし、その上に時宗僧二人を留め置いてもてなす様命じた上で退去したのである。

果たして佐々木邸を占領したのは楠木正儀であり、彼は時宗僧からあらましを聞くとその計らいに感嘆し、清氏が屋敷を焼き払うよう主張したにかかわらず邸を損なう事はなかった。結局、細川・南朝軍は京を確保する事が出来ず引き上げる事になるが、その際に正儀は返礼として、導誉が用意した以上の酒肴を用意し、寝所には秘蔵の鎧と銀製の太刀を残した上で饗応のため郎党二人を置いて立ち去ったのである。

導誉の当意即妙で粋な計らいが彼の屋敷を結果として守ったと言える。一方で「太平記」は正儀が古狸に図られて鎧と太刀を取られたと笑いものにしているが、こちらも粋に対して粋で返した見事な振る舞いというべきであろう。後述するが、導誉と正儀はそれぞれの陣営において南北和平派の重鎮であり、敵味方を越えた交流があったとしても不思議ではない。導誉の振る舞いも相手を謀るというより、撤退においてもみっともない姿は見せまいという心意気によるものであったろう。

京攻撃失敗後、清氏は四国に逃れ、従兄弟・頼之と戦い討ち死に。一時は天下に権勢を誇った男のあっけない最後であった。

(12)政界の黒幕その三

清氏没落後、新しい管領に任命されたのが同じく足利一門の有力者である斯波高経の子・義将であった。導誉は同じく高経の子で娘婿である氏頼を推薦したが、高経が三男の義将を強く推したため義将が任命された。高経が氏頼でなく義将を寵愛した結果と言われるが、寧ろ高経が導誉の影響力増大を嫌ったためであろう。義将は幼年であったため父・高経が実験を握る事(執事が管領と呼ばれるのはこの時からとの説もある)になるが、就任の経緯もあって導誉と高経の間にも対立が生じることになる。

高経は、諸国の守護・御家人に負担させる武家役を収入の五十分の一から二十分の一に引き上げ諸将の反感を買った。また、守護たちに厳格に接したことも有力者たちから反発を受ける原因となった。導誉も五条橋架橋の工事が遅延した際、高経が叱責の意味を込め独力で数日のうちに工事を終わらせたため面目を失っている。こうした対立はこれまでのような守護同士の勢力争いとは少し意味合いが異なる。高経の行動は中央政権の権力強化・権威確立を目的としたものであり、足利政権の集権化に対する守護の反発と捉えるべきであろう。

これに加えて高経を追い詰めたのが興福寺との対立である。高経は守護を勤める越前において河口荘を侵食して家臣の兵糧に当てた。これに対し、元来の領主であった興福寺が激しく反発、春日大社の神木を擁して朝廷に強訴するに至った。これも高経の立場を悪くした事は想像に硬くない。

貞治五年(1366)、高経が将軍邸にて花見の宴を催したのと同じ日に、導誉は洛中の芸能民を総動員して大原野の勝持寺で盛大な花見を行った。

その様を「太平記」は以下のように描写している。山麓から蔦蔓を伝って細い山道を登ると寺が花に埋もれているかのような景色で、手前の渓谷にかけられた橋は、欄干が金襴で包まれギボシには金箔が貼られており、橋板には舶来の毛氈や呉の綾、蜀江の錦が敷き詰められていた。橋を渡った先には茶席が設けられ、釜には名水が満たされその沸騰する音は松籟のようであった。更に周囲には名香が焚かれ、芳香が漂っていた。本堂の庭には4本の巨大な桜が花を咲かせており、その下には巨大な真鍮の花瓶がしつらえられ、脇には一対の香炉と机が置かれておりあたかも桜木を活けたかのようであった。桜の木陰には幔幕が引かれ、椅子が並べられて数多くの珍味・百種の茶と山のような賞品がしつらえられていた。加えて猿楽師・白拍子たちが華やかに歌舞を見せ花を添えていた。

この催しの前には、将軍邸の花見とて児戯に等しく、高経は面目を失う事になる。二人の対立は更に深まり、同年には導誉は赤松則祐・佐々木氏頼ら有力者を語らって義詮に高経討伐を求める。義詮はこれに抗することができず義将を管領から解任し高経討伐を命じた。高経は越前に没落し数年後に病没、義将が幕府に帰順し赦免されている。尊氏挙兵以来の古強者である高経でさえ、導誉には寝技でも風流でもかなわなかったのである。

ところで、こうした時期においても導誉は幕府の重鎮としても活動している。南朝方との戦いにも従事しており、貞治元年(1362)には摂津で孫の秀詮・氏詮が楠木勢との戦いで討ち死にしている。また、貞治五年(1366)、導誉は楠木正儀を相手に南朝との和睦交渉を行っている。尊氏時代以来、これまでにも何度か南朝との和平は話し合われてきたが、特にこの時は交渉が進展し翌六年には葉室光豊が使節として入京し将軍に後村上天皇からの親書が渡されるに至った。一見和睦成ったかに見えたのであるが、結局交渉は不調に終わった。後村上からの親書に義詮「降参」と書かれていたのが将軍の逆鱗に触れたのだという。導誉は義詮から譴責を受ける事と成ったが、考えればおかしな話である。仮にも下交渉を経て正式な使節が派遣されるに至ったからには、条件面も含め綿密に打ち合わせ・合意がなされた上でのはずである。数年後に後村上崩御・長慶天皇即位となっていることを考えると、交渉中に後村上が病か何らかの原因で影響力を低下させ南朝で主戦派が力を持った可能性が考えられる。南北和平は結局次代の課題として持ち越される事になる。

(13)守護の権力伸長

60年にわたる内乱の中で、守護の権限も以前とは比べ物にならないほど強化された。鎌倉政権においては、守護は飽くまで国内の軍事・警察を司る役目であり土地の掌握などは朝廷から派遣された国司の権限であったし、国内の豪族も守護と主従関係にあったわけではなかった。

打ち続く戦乱状態の中で、一時的に兵糧確保目的で近江・美濃・尾張に限定して出されたのが前述の半済令であるが、戦乱の慢性化に伴い半済も持続し範囲も全国に及ぶようになった。また、当初は年貢のみであったのが土地支配権にも及ぶようになったのも前述の通り。こうして荘園侵食の法的根拠を手に入れた守護は国内支配を強め、それを受けて年貢徴収においても守護請、すなわち荘園の年貢徴収を守護が請け負って決められた額を領主に送る方式が多く見られるようになった。守護による荘園侵食が進んだ結果であり、これによって更に荘園領主の力は弱められていく事になる。そうした中で14世紀末には大田文作成など土地把握の権限も守護に移り、また、使節遵行(土地関連の判決を実行に移す)の権限も守護に委ねられるようになった。

こうして経済力・土地支配力を持ったのを背景に現地豪族の家臣化を進め国の領国化を進めるが、これは一筋縄ではいかなかった。中小豪族たちも生産の増加を背景に自立傾向を強めようとしており守護の支配に甘んじる事を良しとしない向きが見られたのである。特に鎌倉期からの御家人の場合は将軍との直接の主従関係を強調して守護に対抗する例も多く、それ以外にも地縁・血縁などで豪族間の協力体制(一揆)を結成して対抗することもあった。守護はその中に食い込むように軍事的徴集をきっかけにして御家人の家臣化を図ったのは勿論であるが、中心的に支配下においたのは寧ろ荘園領主の支配が残る地域で荘官・名主を務める非御家人の豪族たちである。荘官たちも武力を握る守護と関係を結ぶ事で自分たちの発言力を強めようとしていた。

こうした関係で結ばれた守護と現地豪族の関係において、豪族の影響力は強いものとなり、守護は豪族たちの支持を得て初めてその国で権力を振るうことが出来た。前述の使節遵行も豪族の了解があって初めて可能になったのである。

導誉ら有力諸侯の力は、守護としての権限が強まり領国化を進めたことに一因があるといえる。また、守護は多くの荘園で地頭として権限を与えられた存在でもあり、導誉も近江を中心に中国から東国に至る多くの荘園で地頭を務めている。無論これも彼らの実力を支えていた。
将軍家といえども自身の直轄領は多くなく、守護が地方豪族の意向に左右されたように、守護を抑える事が出来ずその動向に左右される事がしばしばであったのである。

(14)文化保護者として

導誉は派手ないでたちや華やかな催しでしばしば人目を引き時には政敵を圧迫した。粋な振る舞いで敵将すらも感嘆させたこともあった。その背景には、当時台頭しつつあった新しい文化と導誉が密接な関係を持っていた事が見逃せない。導誉と関連したものを中心に当時の文化的な動向を見ることにしよう。

古代国家においては政府の支配下にあった芸能民であるが、貴族・寺社・豪族たちによる大土地所有の時代となると、政府の支配を離れた芸能民は主に寺社の支配下に入るようになった。滑稽な物真似に発する猿楽・豊作を祈る儀式に始まる田楽を演じる人々は同業者組合「座」を結成し寺社の儀式に奉仕するようになっていた。

また、鎌倉政権末期より、和歌の上の句と下の句を多人数で交互に作っていく連歌が流行するようになり、これまで卑俗とされていたにもかかわらず広い階層に普及するようになった。14世紀後半には洗練されたものも多く生まれるようになり、前関白二条良基らの働きかけで准勅撰連歌集「菟玖波集」が編纂されるに至る。導誉もこの動きを支援していたようで、「菟玖波集」にも導誉の作品が80余首掲載されている。

また、この頃は茶も禅寺のみならず俗界にも広がり始め、禅寺での台子を基本にした道具立て・礼式を重んじる茶と生産地を当てる賭け事としての闘茶との系統が生まれつつあった。導誉が前者の心得に長じていた事は楠木正儀を感嘆させた逸話で知られるし、闘茶を好んだ事も清氏や高経の面目を潰した話から察せられる。

連歌・茶とも人々が寄り合って交際したり結束を固めたりするのに利用されたと言われている。

仏前に花を供えるものであった立花も当時より一般でも楽しまれるようになり、大原野の花見で導誉が桜木を用いて人目を驚かせたのは前述の通り。

また、大原野の花見では多数の猿楽師を動員していたが、世阿弥「申楽談義」によれば田楽の一忠やその弟子・道阿を導誉が名人として保護し、中でも道阿の謡いぶりを訛りが多いが天下一と褒めていたという。根拠地の関係から近江猿楽に造詣が深いのは勿論であるが、また大和猿楽の名生という笙の名手を高く評価していた。能楽の完成は義満時代の世阿弥によるものであるが、その前世代の橋渡しをした存在といえそうである。

上記のような新しい文化だけでなく、従来の伝統文化にも心得があったようで、勅撰集「新続古今和歌集」に入首しただけでなく貞治六年(1367)の新玉津島社歌合に参加し今川範国と対決している。こうした古典教養の素養が、新しく台頭する文化を洗練されたものにすることを可能にしたといえる。晩年には導誉は立花の礼法を編纂したと言われるが、これは二条良基が連歌の規則を「応安新式」にまとめ、猿楽が観阿弥・世阿弥により将軍・伝統貴族の鑑賞に堪える能楽となったのと同様に、新たな文化を洗練・整備し支配層の権威を支えるに足る教養に昇華させる動きであると言える。安定へと向かう情勢下を反映した現象である。

導誉はこれらの文化を巧みに利用し乱世を泳ぎぬいたのである。そのパフォーマンス感覚は同時代でも随一のものといえよう。

(15)終焉

斯波高経が失脚した後は数年間平穏が続いたようである。長年、幕府と対立していた山名時氏や大内弘世らが既得権益を黙認する事を条件に帰順するなど情勢は安定に向かっていた。南北和平が不調に終わった後も義詮の導誉への信頼は揺るがなかったようで、貞治六年(1367)5月、鎌倉で足利基氏が没したため後継者選定の調停が必要となり、導誉は義詮の命を受けて鎌倉に向かっている。導誉の調停の下で基氏の子・金王丸(氏満)が鎌倉公方となった。政権樹立以来の重鎮として導誉の面目躍如といえる。同年末には義詮も病没、義満が家督を継ぎ細川頼之が管領となった。頼之は義満を補佐しつつも幕府の安定・将軍権威の確立に努める。導誉は頼之とは斯波高経・山名時氏を共通の敵としていた関係もあってか協力的関係であったようである。

文中二年(1373)8月25日、導誉は勝楽寺において78年の生涯を閉じた。徳翁と号され勝楽寺殿と謚された。同時代の多くの人物が悲運の最期を遂げたことを考えれば、権勢を保ったままで天寿を全うし大往生を遂げた導誉は異例な存在といえるかもしれない。彼を然らしめたのはその出処進退における巧みさによるものであること勿論であるが、導誉とて決して安泰な道を辿ったわけではない。同様な存在である有力守護も数多く没落の憂き目を見、導誉自身も多くの一族を失っている。その力量に加え強運も見過ごす事は出来ないであろう。その後、家督は高秀が継ぎ京極氏は北近江を拠点として侍所長官を務める家柄として足利政権で力を振るい、16世紀に豪族の浅井氏に取って代わられるまで栄えることになる。

導誉は、名門出身の有力者であり、伝統に拘らない価値観の持ち主であり、巧みな政界遊泳者であり、一級の文化人であった。政敵を挑発するとき、危機に陥ったときなど重大な局面で彼は最先端の文化人としての顔を鮮やかに見せる。戦国における細川幽斎父子の例を見ても、文化人という顔は出処進退の不透明さを隠す遊泳術の一つと言える。

当時、人々は自己に有利な陣営を見定めて時には自己の都合によって複数の陣営を遊泳することで生き残り、時には勢力を拡大してきた。何しろ将軍尊氏でさえ、必要に迫られて宿敵・南朝に一時的降伏した時代である。導誉はそうした中で最もうまく立ち回って力を着実に伸ばした一人と言えるだろう。しかし意外な事に、少なくとも形として導誉はほぼ一貫して尊氏・義詮陣営についており、転変常なきこの時代においてはやや特異にすら映る。将軍という権威を握り離さない事が政敵との争いに生き残る術と心得ていたのが大きな原因と思われるが、導誉自身の去就が勝敗の帰趨を握る局面も少なからずあった事を考えると、単なる打算だけとも言い切れないようにも思う。あわよくば天下を狙う気だった疑いが強いが、将軍父子に何ら忠誠心は抱いていなかったのかそれとも幾許かの思い入れを寄せていたのか、今となっては知る術はないが、歴史的事実として導誉は足利政権の安定化に「縁の下の力持ち」として大きな役割を果たしている。導誉と足利氏の関係は、いわゆる「腐れ縁」と呼ぶべきなのかもしれない。