柳生宗矩(やぎゅうむねのり)のプロフィールと略歴

柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)
元亀2年(1571)~正保3年(1646)
通称(大坂の陣時点) 又右衛門

[警護役]

「徳川二十将」の一人。柳生宗厳の五男。「兵法家伝書」の著者。文禄4年(1594)隠田の罪で失領して浪人中の父が「剣術の指南に」と徳川家康に招かれたのだが、宗厳は老齢をもって辞退、宗矩を推挙した。宗矩は家康の側近となり、関ヶ原の戦いに従軍。大和の勢力を動かし、西軍の動静を探る。後に家康と合流して、本戦に参加した。戦後、旧領の大和柳生庄2千石を回復。翌年、徳川秀忠の兵法指南役となり、1千石を加増される。大坂の陣には秀忠麾下に従軍して、道案内を務める。夏の陣の天王寺・岡山の戦いで、秀忠本陣が崩れたった際には、来襲した朱槍の精鋭部隊を率いる木村主計(重成の一族)ら7人を続けざまに秀忠の馬前で斬って警固する活躍を見せる。戦後は佐野道可・坂崎直盛の究明にもあたる。

[幕閣の実力者]

元和7年(1621)徳川家光の兵法指南役となる。寛永9年(1632)3千石を加増され、幕府初の総目付(大目付)に列し、諸大名の監視役となった。彼等、総目付には幕閣の首脳陣も恐れた。島原の乱に際しては、板倉重昌の戦死を予言して家光に反発し、実際に重昌が戦死したので周囲を驚かせたという。同13年(1636)4千石が加増されて、1万石の大名となり、その後の加増により1万2千5百石の大名に。当時の剣客は基本的にはせいぜい4~5百石の禄高であるというから、異例中の異例である。正保3年(1646)死去。戦うための剣でなく、精神修行を旨とした宗矩の「新陰流」は時流にかなっており、将軍家の御流儀となった。酒井・鍋島・細川家にも師事し門弟から大名の師事役になる者もいた。宗矩は剣のみでなく茶や華道など文化面にも励んでいた。内政手腕・情報分析など政治手腕に長けていたとされ、家光は「余は天下の政治を宗矩に学んで大要を得た」と言い、その死を大変惜しみ、後々まで嘆いたという。