真田信吉(さなだのぶよし)のプロフィールと略歴

真田 信吉(さなだ のぶよし)
文禄2年(1593)?~寛永11年(1634)
官位(大坂の陣時点) 河内守

真田信之(信幸)の長男。孫六郎。母は真田信綱の娘ともいわれるが不明。信吉は長男ながら父が正室・小松(本多忠勝の娘)に遠慮して徳川家の手前、嫡男となれなかった。大坂の陣では父が病を理由に江戸城留守居となったため、弟・信政とともに本多忠朝の寄騎として参戦。冬の陣では今福から鴫野に移った佐竹義宣に代わって今福に布陣。後に鴫野付近に移る(一説に備前島)。夏の陣では河内第二番手右備に属す。天王寺・岡山の戦いでは天王寺口先鋒の右翼を務めて奮戦するが毛利勝永に苦戦。さらに浅井長房・竹田永翁の攻撃を受けて、本多勢に続いて戦線から離脱。この時、家臣を自分の身代わりに死なせてしまっている。29の敵首を挙げたが、32名の損害を受けた。戦後、父より上野沼田3万石を分封される。寛永11年(1634)死去。

[コメント]

大坂の陣では叔父が大坂に入城したせいで真田家には疑いの空気があったそうで、一層幕府に忠誠を尽くすべく戦意は高かったみたいです。ちなみに信吉の母は正室・真田信綱の娘(彼女の没後は新たに入った小松が信之の正室となった)ともいわれていますが、文中にもある通り嫡男にはなれませんでした。そんな経緯で信吉が立てた沼田真田家(分家)は子の信利の代に松代真田家(宗家)の家督を狙いましたが(松代藩の中にもこの経緯から信利を推す者もあった)、信之・信吉父子が手がけた実質6万石の沼田藩を14万石に仕立てて、松代藩10万石を抜こうなど思いついて領内で滅茶苦茶やったため即改易となりました。