蜂須賀家政(はちすかいえまさ)のプロフィールと略歴

[豊臣恩顧の土豪大名]

蜂須賀正勝の長男で蜂須賀至鎮の父。通称・彦右衛門。初名は一茂。キリシタン大名。父に従い、豊臣秀吉に仕える。初陣は姉川の戦い。播磨平定戦で軍功を挙げ、名を挙げた。特に長水城攻めでは城主の宇野一門の重清を捕獲する軍功で馬を拝領した。黄母衣衆となり山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いでは秀吉の側近くに従軍する。天正13年(1583)からの大坂城築城に父の正勝が工事に加わると、国許の播磨龍野5万3千石を統治。小牧長久手の戦いでは大坂の留守居役に加わり、中村一氏ら3千人が籠る岸和田城が雑賀・根来衆の大軍(一説に2~3万)の攻撃に合うと、前野長康・生駒親正・黒田孝高・長政らとともに4千の兵で援軍に赴き撃破した。戦功で播磨にて3千石を拝領。四国征伐に従軍して功があった。戦後の論功行賞では隠居する父の願い出で、正勝が拝領する予定の阿波徳島17万5千7百石を拝領、大名となる。九州征伐では日向口先鋒の一翼を担った後に肥後代官を務める。小田原征伐にも従軍して韮山城攻めに参加した。

[阿波の古狸]

朝鮮出兵では軍奉行も務めたが、慶長の役の蔚山城救援の追撃の不十分を黒田長政とともに「臆病者」と秀吉から叱責をくらう。その後の宇喜多秀家・毛利秀元らの蔚山・順天城などの勝手な放棄案にも同調したため、阿波にて謹慎。領国の一部を豊臣蔵入地に取り込まれた。石田三成・福原長尭らと対立し、一方で徳川家康に接近。嫡男・至鎮と家康の養女で縁組みを結び、さらに前田利家が没すると福島正則・加藤清正らとともに三成を失脚に追い込み、大老連署で朝鮮での罪の帳消しを認められた。会津征伐には至鎮を従軍させ、自身は大坂に留まるが、そこで西軍が挙兵する。家政は西軍に呼応するが、代理を従軍させたのみで自身は領国と大坂の屋敷を返上し、諱を秋長に改めた後「蓬庵(ほうあん)」と号して高野山へ出家した。関ヶ原の戦いは東軍が勝ち、所領は至鎮に安堵される形で蜂須賀家は生き残る。罪を許された家政は領国に戻り、至鎮を補佐した。

[名君]

蜂須賀家は徳川家に忠誠を尽くすが、豊臣家との交友も続け、隠居地に豊国神社を建立。そうしたことで大坂の陣では豊臣家から招かれるが、徳川方へ加担することを決める(個人の立場で大坂に入城しようとしたが至鎮に止められたともいう)。従軍を許されずに江戸留守居を命じられるが、至鎮の活躍で面目を施す。夏の陣には至鎮に遅れて従軍し、戦闘終了後に家康・秀忠に謁見。金5百両を拝領した。長宗我部盛親を京都八幡で捕られたのは家政の手の者であり、蜂須賀家は冬の陣の戦功で淡路一国7万石を加増される。しかし安堵する間は無く、元和6年(1620)に至鎮が病没すると幕府の命で嫡孫・千松丸(忠英)を後見することになる。藩政の確立と特産品の奨励、領民にも慕われる善政を敷いた。寛永15年(1638)死去。

[コメント]

加藤清正・石田三成たちの対立は「乱世に武官、治世に文官」という確執で起こったわけでなく、朝鮮出兵での蔚山城の攻防についての確執という話もあります(軍監と実戦指揮官の対立)。処世に長じた家政の智謀は伊達政宗をして「阿波の古狸(ふるだぬき)」と言わしめる程だったそうです(さながら家康の地方版…;?)。その本領は関ヶ原にて発揮され、一説に「命令に従わず暴走した」と家康に言い訳した上で重臣の高木法斎を大谷吉継麾下に派遣したあげく、ついには後難を逃れるため彼を追放の処分に追いやっています。ちなみに徳島で有名な「阿波踊り」ですが、家政が徳島城完成を記念して領内総出で始めたのが紀元だそうです。