蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)のプロフィールと略歴

[家督相続]

蜂須賀家政の長男。小六こと正勝の嫡孫である。幼名は千松丸。初名は豊勝・豊雄・豊任。8歳の幼少の頃より、豊臣秀吉に仕える。力が強く福島正則から目をかけられ、将来を期待されていたという。秀吉死後の慶長3年(1598)正則の仲介で徳川家康の養女・氏姫(小笠原秀政の娘。家康の曾孫)と婚約。関ヶ原の戦いでは父と別れて東軍に属して戦い、岐阜城攻めに参加。本戦では南宮山に備えた。戦後、父の旧領(西軍に属した家政が代理を従軍。高野山へ出家して豊臣家へ所領を返上していた)に1万石を加えられた阿波一国18万7千石を拝領して大名となった。

[若き英雄]

大坂の陣には阿波の水軍を率いて徳川軍として参戦。冬の陣では大坂湾の封鎖に努めた後、先鋒の一人として木津川口砦・博労淵砦を攻略して船場の攻略に深く貢献(木津川口砦の攻防戦・博労淵砦の攻防戦)。船場に布陣するが本町橋の夜襲戦で塙直之にしてやられ、先手の一人で老臣の中村重勝を失う。敗戦の隠蔽を計る程だったが一応敵を追い返したということで、和議後に家康・秀忠から感状と刀を貰い、松平姓まで賜った。夏の陣では海が荒れたため渡海を延期。和泉谷川にて紀伊一揆にも備えたため最終決戦に遅参。が、徳島藩の軍勢の強さは名高く、戦場未着にも拘らず味方の諸軍を勇気付けた。戦後、淡路一国(7万石)の加増で25万7千石の大名となる。藩法を制定し、塩田を興して塩の生産を行い、領国の発展に努めた。旧例を重んじた藩政を敷いたという。元和5年(1619)幕府の命で福島家の改易に立ち会い出陣。翌年死去した。

[コメント]

大坂の陣(冬の陣)での蜂須賀家の武功は余程のものだったらしく、徳島藩ではあらゆる行事や儀式の吉例や由緒を大坂の陣の武功に用いたそうです(例・江戸時代将軍家は正月の21日を具足鏡開きの日としていたが、三代・家光の忌日と重なるため11日とした。諸大名もこれに倣ったが、徳島藩は至鎮が松平姓を拝領した期日に模したとこじつけた)。参勤交代の時には必ず「阿波の七感状」と称された冬の陣の時の感状を持参したなど色々。しかし単なる藩内での誇大妄想(?)でもなく、多くの大名が至鎮所用の「唐冠形兜」を模した兜を使うようになったらしいです。至鎮自身にも超能力者の伝説があり、毒殺説(もっとも犯人は妻だった)まである程ですから、余程の名将だったのでしょう(一方で病弱だっとされますが)。