徳川秀忠の側近・土井利勝(どいとしかつ)のプロフィールと略歴

土井利勝(どいとしかつ)
天正元年(1573)~寛永21年(1644)
官位(大坂の陣時点) 大炊頭

[秀忠の側近第一号]

「家康二十将」の一人。「寛永の三輔」の1人。土居利昌の長男とされるが正確には不明。水野信元(家康の叔父)の遺児で、信元失脚時に不憫に思った家康が土居の養子にしたとも(そうなると家康の従兄弟となる)。徳川家康の落胤とする説が根強い。幼名は松千代。幼少の頃から家康に仕える。天正7年(1579)の秀忠誕生とともに7歳で彼の小姓となった(禄2百俵)。同19年(1591)1千石を拝領。豊臣秀次失脚の際には秀忠まで累が及びそうになったが「伏兵は間道にいる」と深読みして、あえて本道を使って京都から伏見まで安全に護送したという。関ヶ原の戦いでも秀忠に従って使番と殿を務めて5百石の加増。その後下総小見川1万石、同佐倉3万2千4百石、4万3千5百石と累進。慶長10年(1605)に秀忠が征夷大将軍に就任すると、利勝も年寄(後の老中)に就任。江戸で幕政に参画する。

[逃げ大炊頭]

大坂の陣では秀忠麾下に属して参戦。酒井忠世とともに全軍の参謀となり、主に二人が全体に号令をかけた。また利勝は秀忠の使いとなり家康との連絡係も務める。夏の陣では本軍第一左備の主将として戦い、天王寺・岡山の戦いでは忠世とともに秀忠麾下の中核を形成する。だが、先走り過ぎた二人は麾下から離れているところを背後から大野治房に衝かれ、大混乱を来している。この時の混乱での秀忠麾下の指揮系統の乱れは「かかれ対馬(安藤重信)、逃げ大炊(利勝)、どっちつかずの雅楽頭(忠世)」と揶揄された程であったが、中でも一番最初に崩れた利勝の狼狽ぶりが酷かったという。しかし、一方で敵首98を挙げる活躍で猿毛の朱槍を拝領するとともに2万石余を加増されて6万5千2百石に累進する。戦後、家康・秀忠は青山忠俊に加えて酒井忠世と利勝を家光の守役に任じたと言う。後世、忠俊は「勇」忠世は「仁」利勝は「智」をもってそれぞれ補佐したと言われ「寛永の三輔」とは彼等三人のことである。家康は遺言で利勝と堀直寄に幕府の軍陣を託した。

[天下と共に利勝を譲る、利勝は天下を治むる宝である]

元和2年(1616)大御所・家康が没し、名実ともに秀忠が天下人となると、いよいよ利勝の権勢は絶大なものとなる。元和9年(1623)に秀忠が没して、三代将軍・家光の時代に移り、幕閣が世代交代する中、秀忠の遺命を受けた利勝はなおも幕政の中心に居続けた。次代の幕閣の人材育成にも努める。翌年には2万石の加増で下総古河16万石に転封され、名実共に幕閣のトップ。寛永14年(1637)には病を理由に辞職を願い出たが、その才を惜しんだ家光に引き留められた。だが翌年、ついに家光も高齢の利勝の負担を気遣い、政務の中心から外す一方で酒井忠勝(雅楽頭系。忠世の従弟)と共に大年寄(後の大老)の名誉職を与える。そして「智の大老」「三代の名相」などと利勝は称された。同21年(1644)死去。家光は臨終前の利勝を気遣って、お盆を延期して利勝の後生を願い、土井家の存続を願った。

[コメント]

徳川三代の信頼すこぶる高かった土井利勝。家柄も譜代の中では新参にあたり、井伊家のような格別な武功も無いにも拘らず、16万石は一代で成したものであり、その異様な出世ぶりがより「家康実子説」を高めるものになったそうです(本人はそういった風評を酷く嫌ったらしいが)。かと言って、本多正純のように独断専行に走って失脚にも陥らず…人望も厚かったとか。老獪な一面もあり「正純を失脚させたのは利勝の陰謀だ」と見る向きもあります。他にも坂崎直盛・松平忠直・徳川忠長・加藤忠広の改易にも利勝が裏から手を回したとする説もあったり…。ある意味、ライバルの正純より怖いかもしれない(例えば坂崎直盛の騒動では正純は堂々と武力をもって討伐することを主張し「政道に反し、天下の信を失う」と騙し討ちにあくまで加担しなかった策士なしからぬ逸話がある。それは柳生宗矩に評価されたらしい)。そのせいか、家光の時代には「改易されるんではないか?」と噂されたそうです(古河への転封も実質はかなりの減封で左遷だったとも。政治的にも独走を封じられた)。あと利勝は領国経営にも大変力を発揮し古河では城代を置いたもの「花見ができる→散れば実が出来る→副収入にもできる」一石三鳥と江戸で収集した桃の種を農村に配り、現代にまで続く桃の産地とするなど古河の町の基盤を築いています。