戦国武将・庵原朝昌(いはらともまさ)のプロフィールと略歴

庵原家は今川家臣の名門。朝昌の代に武田信玄に仕えるが、武田家滅亡後は戸田勝隆に仕える。やがて津田信成の仲立ちで1千5百石で井伊直政に仕えるが直政と喧嘩して出奔し、当時1千石で佐々成政に仕えていた水野勝成に2百石で仕える。時期は不明だが後に勝成の計らいで井伊家に帰参。家老となる。大坂冬の陣で武者奉行を務め戦功を立てる。夏の陣では井伊家左先鋒の一人となり若江の戦いで、冬の陣で負傷した藩の筆頭家老・木俣守安の代わりに兵を指揮。木村重成を破り、彼を十文字槍で一騎打ちの末に田圃(たんぼ)に倒す。郎党がすかさず首を取ったが、そこへ来た「本日まだ手柄を立てていない」と名乗る安藤重勝(直次の甥)という少年が手柄(首)を譲って欲しいと願い出るや心がけに感心して、これから全軍の指揮を執らねばならないことを理由に手柄を譲るという逸話が残っている。おかげで少年は5百石の加増を得たという。朝昌も4千石の身代となった。寛永17年(1640)死去。

昔「庵原助右衛門を載せて欲しい」と要望(?)がありましたので一応作るだけ作ってみたんですが年表がわかりませんでした。津田信成というのは信長の従兄弟の方じゃなくて関ヶ原で功を挙げた方だとは思いますが。あとあと井伊家帰参に口添えしたのは松平忠吉ともされています。あと井伊家に仕える前には北条家に仕えていたとも聞きます。余裕のある高い身分の人とはいえ手柄を譲っちゃうとは大したものだ(ただし自分が討ち取った証は残しておいたそうだ)。子孫の方は代々「助右衛門」を称し、彦根藩の5千石の二番家老として続いたそうです。武辺咄聞書によりますと庵原助右衛門物語なるものがあり(当時はメジャーだったんだろうなぁ)木俣家とは縁続きだったそうです。60近い年齢で豊臣家期待の若武者・木村重成に一騎打ちで勝つくらいなんだから、なかなかの殺り手だったんではなかろうか。