戦国武将・渡辺勘兵衛了のプロフィールと略歴

渡辺 了(わたなべ さとる)
永禄5年(1562)~寛永17年(1640)
通称(大坂の陣時点) 勘兵衛

[槍の勘兵衛]

人呼んで「槍の勘兵衛」。諱は吉光ともいわれる。渡辺右京の子。渡辺任の養子となる。阿閉貞征に仕え、摂津吹田城攻めで一番首を挙げ、織田信長から武功を称賛される。阿閉家では屈強の家臣6~7人に「鶴の丸の母衣」を許したが、了もその中の一人である。天正10年(1582)から百人封持で豊臣秀吉に仕え、後に2千石で羽柴秀勝(信長の四男)付きとなる。山崎・賤ヶ岳の戦いなどで武名を上げ、石田三成の家臣の杉江勘兵衛・田中吉政の家臣の辻勘兵衛と並んで「三勘兵衛」と世に称されることになる(「三勘兵衛」は了・御宿勘兵衛・小幡勘兵衛を指す場合もある)。秀勝死去に伴って浪人。中村一氏に3千石で仕え、小田原征伐の伊豆山中城攻めで決死の者約50人を率いて中村勢の先鋒となり、一番乗りを果たす。秀吉から「捨てても1万石は取るべき者」と称賛された働きであり、6千石に加増された。しかし「一氏が駿河を賜ったのは自分の働きで、それは秀吉も存じている」と考える了は恩賞に不満を持って出奔する。

[忠義者]

その後、了は増田長盛に1万俵(3500石に相当)の客分待遇で仕えた。関ヶ原の戦いに際して主君の長盛が大坂城に詰めると、その居城・大和郡山城の留守を守る。戦後、藤堂高虎と本多正純が城接収のため来城したが「主君・長盛の命以外で開城はできない」と頑に拒否。この時、長盛は行方不明であった。結局、徳川家康が、高野山に登っていた長盛に開城を命じる書状を書かせるまで一戦も辞さぬ覚悟で城を守備し通し、城兵を守った。無事に開城の任もこなし、長盛は感激したという。

[破格の待遇]

浪人となった了は家康と堀尾吉晴から招かれたが、同郷出身の藤堂家に2万石で仕えることにした。息子の守も3千石の高禄を賜り、早速了は伊予今治城築城の奉行を務めた。次いで高虎が伊勢津24万3千石に転封されると、豊臣家包囲網の一角である、主君の有事の居城である伊賀上野城の城代となる。このような破格の人事に藤堂家譜代の重臣らは不満を持ったと思われる。

[高虎との対立]

大坂の陣では主君・高虎に従う。冬の陣では左先鋒を務めるが行軍途中に高虎と揉めて解任。また、高虎の不興を買った同僚を庇ったことで、了自身も高虎の反感を買う。谷町口の攻防戦では敗戦。和睦が結ばれると暇乞いをしたが許されなかった。夏の陣では先鋒を辞退して遊軍。八尾の戦いでは500人を率いる。長宗我部勢の撤退に目をつけ、ここぞばかりに追撃。敵に敗れて合流した息子の宗ら700~800人を引率して、殿(しんがり)の増田盛次(長盛の子)以下300余人を討ち取る。だが、軍勢の進退で高虎や譜代の重臣らと対立。何度も主君の命に逆い、自身の独断で手勢を進めて深追いした。最終的には高虎の命に従ったもの、高虎は八尾の戦いで友軍が敗退するのを了が助けなかったことを怒っていた。了は高虎の怒りに腹を立て、何度も暇を求め、元和元年(1615)9月に許可が下りた。しかし、藩はその年の了の知行を差し押さえてしまったために、郎党の扶養に困り、怒って武装して山城国へ去った。

[天下の浪人]

藤堂家から退転はできたもの、同時に「奉公構え」をかけられてしまう。その後は近江坂本にいた(高虎は坂本の住居を破壊させたことがある)。「奉公構え」の撤回活動を行うべく江戸に行ったが、幕府からは蒲生家・藤堂家・生駒家に仕えるように勧められた(蒲生も生駒も藤堂の縁戚。特に生駒家に仕えれば、2万石の他に寄騎を付けてもらえるはずだった)。寛永5年(1628)から了の子に2万石与えるということで藤堂家から誘いが来たが、理不尽だと拒絶。高虎の死後間もなく将軍から幕臣に取り立てられる内諾を得たが、その子・高次に妨害された。最後は堀直寄・徳川義直・細川忠興ら諸大名からの捨封持を受けて、京都で風呂屋を営みながら暮らしている。晩年「水庵(推庵)」と号す。同17年(1640)死去。