『富嶽三十六景』にも影響を与えた?葛飾北斎と「波の伊八」の関係とは

浮世絵版画/富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」葛飾北斎  

浮世絵版画/富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」葛飾北斎

北斎の「富嶽三十六景」

かってアメリカのライフ誌が過去1000年の世界の文明に最も影響を与えた偉大な人物100人を選んだことがあった。その中にダ・ヴィンチ、ニュートン、ベートーヴェンなどと並び日本人としてただ一人北斎の名があった。

葛飾北斎は、ここで改めて紹介するまでもなく江戸末期の偉大な画家で、その最晩年は信州に深い関わりを持っていたことはよく知られている。

特にその名を高めさせたのが版画「富嶽三十六景」であった。この「富嶽三十六景」は大胆な構成と優れた描写によって、国内に留まらず広く世界で有名になった。

「富嶽三十六景」は北斎の死後、ヨーロッパの絵画、音楽などの芸術家たちに衝撃を与え、なかんずくゴッホ、モネ、ゴーガンなどフランス印象派と称される人たちに強い影響をもたらし、その後の世界芸術界を革命的に変革したのであった。

作曲家ドビュッシーは、その中の一枚「神奈川沖浪裏」を見たことによって、あるインスピレーションが湧き、交響曲ラ・メールを作曲したと語っている。

上記の芸術家たちはみな北斎が世を去った頃生まれたいわば孫の世代であった。

恐らく明治維新後、文明開化の掛け声により、いままでの既存文化の遺産を捨てた日本から大量に流れていった旧文化財の中に、歌麿や北斎の版画などが二束三文の山となって入っていたものであろう。絵画のなかでも民衆的な風俗画は肉筆画や版画として美女、役者の似顔絵、歴史、風景、花鳥におよんでいる。なかでも版画については一括して浮世絵と呼ばれる。北斎は明治維新のほんの18年前に世を去った。

東洋の小さな島国からはるばる運ばれた収集品を見て世界の人たちは、ヨーロッパとは全く異質なしかも高度な文化に驚愕した。

絵画については喜多川歌麿、東洲斎写楽、歌川広重など多くの作家も有名であったが、北斎はとりわけ「富嶽三十六景」によってヨーロッパの芸術家の心を掴み、最も持て囃されることと成った。

文学で言えば俳句のように、一瞬の景を切り取る浮世絵の風景画は、ヨーロッパの人たちの度肝を抜くものであった。江戸期の芸術家たちは、まさに瞬時の印象を大胆に、迫力を以って描いて見せたのである。

「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」図

「富嶽三十六景」の名をいやがうえにも高めしめたのはなかんずくその中の一枚「神奈川沖浪裏」図である。この絵の眼目は大波の立ちあがった一瞬を写実的に捉え、しかもその裏側をも画ききったところにある。大波の裾に小舟を置き、波間遠くに富士を配した構図の大胆さは一度見た者の心を捉えて放さない。

いままで此の様に、つまりは大波の変幻自在な一瞬を描いた者はいなかった。片時も留まらず、しかも決して同じ形には現われないこの水の流動そのものを筆に表すことは影像技術のない当時としては至難の技であったのである。

いままでに波をことさら横波を描いた者が居なかったから当然見習う作品もなかったのであろう。参考になるものは実際の波しかなく、そのためには大波の立つときに海へ行って見ることしかなかった。

北斎は浦賀から房総に渡り「富嶽三十六景」46図のうちの二枚「登戸浦(のぶとうら)」と「上総の海路」を描いているが、房総へはその途次のほか何回も来ているといわれる。

浦賀と金谷を結ぶラインは古来海の東海道といわれて主要な航路であったが、江戸開府以後は木更津港が整備され、江戸と房総は短絡されこの間の物的・人的交流は大変賑わっていた。北斎は海に臨んで波の研究を熱心にしたらしい。事実銚子の当時の名所であった犬吠崎の胎内潜りや女夫ヶ鼻(めどがはな)での波のスケッチが残っている。しかしこのスケッチはみな波を前から捉えたもので、全く平凡なものであった。あの版画の横波は一枚も描かれていない。ならば北斎はあの素晴らしい写実技法を一体何処で手にしたのであろうか。

上の写真は、太東岬の波。

(神奈川沖とは当時、東京湾側の横須賀沖のことを言ったという。北斎の浪裏図は房総海岸から見た構図と云われる)

先ずはここで広辞苑による葛飾北斎のプロフィルを紹介したい。

江戸本所に生まれる。初めは勝川春章に弟子入りし春朗と号した。そののち宗理・画狂人・戴斗・為一・卍など画風の変化とともに号を変えてゆく。洋画を含む色々な画法を学び、優れた描写力と大胆な構成を特色とする様式を確立した。

版画では風景画や花鳥画、肉筆画では美人画や武者絵に傑作が多く、北斎漫画などの絵手本や小説本の挿絵にも意欲を示した。代表作は「富嶽三十六景」。

高井鴻山と北斎

「富嶽三十六景」は北斎の72歳ころの発表であった。北斎は現在の尺度でも驚異的な長命者で90歳の天寿を全うしている。

彼が信州小布施の豪商高井鴻山の招きにより始めて信州を訪れたのは亡くなる7年前の秋のことであった。既に83歳になっていた。

鴻山は北斎のためにわざわざアトリエを建てて厚く遇したのであった。亡くなるまでの僅か数年間に北斎は小布施へ4回来訪し、数多の作品を残している。鴻山は北斎の技に心酔し、よき理解者・パトロンとして晩年の北斎を支援したのであった。今でも鴻山家の建物・蔵などと共に北斎のために建てられた住居兼アトリエの建物などがしっかりと残り見学もできる。

鴻山は豪商であったほか豪農であり、酒造業も営んだが小布施の村役人をも兼ねるなど幅広く活躍した人物である。佐久間象山も鴻山邸に出入りしていた。

当時小布施は東西交易の一大拠点であり、信州でも屈指の繁栄を誇っていた。鴻山は財力を持つ文化人として、自らも学問・芸術に関わりつつ北斎や象山たちを援助した指導的先駆者であった。

北斎が小布施で描き残したものは、花鳥・風景・美人画などの多岐にわたる肉筆画である。さらに祭屋台の天井画2基分と岩松院本堂の天井画を描いた。

祭屋台天井画のうち東町のものは、北斎の2回目の来信のときに約半年かけて描かれたもので「鳳凰」と「龍」が対におかれている。北斎85歳の作である。

上町のそれには「男波」と「女波」がやはり対に描かれている。これはさらに翌年3回目の来信のときに製作された。但し上町のものは北斎の下絵を鴻山が彩色したものである。

北斎が小布施で描いた40枚の肉筆画と2基の祭屋台は、小布施町小布施の北斎館で展示されている。肉筆画についてはいずれもかなりの出来栄えである。85歳過ぎていても筆の衰えは一切見えない確かな筆致というべきもので、さすが北斎と肯く。いま北斎館ではここで描かれた物のほか多くの作品を蒐集して展示している。

岩松院の「八方睨み鳳凰図」

上図は北斎の岩松院天井画「八方睨み鳳凰図」。

祭屋台の天井画のうち鳳凰図はその構図と色彩に見るべきものを感ずる。北斎の果てない挑戦と彼の円熟した極致が同時に読み取れるのである。この絵は結果的にこの3年後の岩松院本堂の天井に描かれた鳳凰図の習作というべきものであった。

竜図については北斎の描かでもの作品である。北斎は龍を不得手としていた。北斎はそれを知っていたから岩松院では描かなかったのではないか。男波・女波図についてもさほど評価されるものではない。北斎は実際には波を得意としていた訳ではなかったのである。

しかし岩松院本堂の鳳凰図は特筆に価する。この絵は本堂大間天井いっぱいに画かれており、4回目の来信時、約一年を掛けて製作されたもので、北斎の88歳から89歳に到る時期の大作である。

この絵は「八方睨み鳳凰図」と称され、北斎画業の集大成と云われている。

私はこの絵に接したときは、その大きさと共に精緻極めた美しさに圧倒されてしまった。そして五色絢爛たる画中に鳳凰の鋭い眼を見たときに思わず身震いして仕舞った。その眼はまさに睨みであった。

睨みといえば市川団十郎家のお家芸ともなっているが、この絵の迫力はかつて京都に臨済宗大本山妙心寺を訪ね、法堂(はっとう)の天井画の雲龍図を仰いだときに覚えたそれであった。

妙心寺法堂の龍は350年前狩野探幽が55歳のときに8年がかりで描き上げたものである。やはり活きた眼が鋭く、奔放に胴体をくねらせて見た者を威圧する。

岩松院のこの絵は畳21畳分の大きさという。この天井画は剥落防止などの見地から、静かに座って拝観することが求められているが、何箇所かに座を移さないと全体が鑑賞できない。

驚くことにこの絵は中国から輸入した辰砂(しんしゃ)、孔雀石、鶏冠石などの鉱石粉と植物油を混ぜた岩絵具で、当時の価額で150両もしたといい、別に金箔を4400枚使用したといわれる。いまの価額にしたら恐らく億円の単位であろう。

北斎が製作して150年以上経っているが、絵はなおも仕上がった直後の光を放ち、活き活きと鮮やかである。いままで色を塗り替えたことはないという。

([註]この天井画については、吐く息が絵に微妙な影響を与えるため、立ったままでは拝観出来ないなど文化財保護に充分な配慮がなされている)

私はこの天井画は北斎の最後の傑作と云うべき作品であると共に、北斎が最晩年に当って自身を鳳凰と化して荘厳し、この世に残し去ったものであると確信している。

北斎は自ら鳳凰となって永遠の魂を岩松院に宿し、いまなお世の中を睥睨しているのである。

同時に北斎は最も敬愛した鴻山と小布施に不朽の名作を贈って己が蒙った恩義に報いたのであろう。

北斎はこの絵を完成して江戸へ帰った翌年90歳の生涯を終えた。

岩松院は小布施町雁田にある曹洞宗の古刹である。小林一茶がこの寺院の池で「やせ蛙まけるな一茶これにあり」と詠んだことは知られている。この句が作られた26年後にこの天井画が完成した。

さて「富嶽三十六景」に戻ろう。北斎が世界を驚ろかしたあの「神奈川沖浪裏」図の真迫描写に話を戻さなくてはならない。

私はここ房総へ越してきて今年で早や11年になるが、爾来この土地を知って好きになるために夫婦で到るところを飛びまわり、訪ね歩いた。土地の風俗、歴史、景観を求めたその旅はまだ終点が見えない。

いままで歩いて見ての結果はいまや房総は故郷信州に次ぐ愛すべき国になったという認識である。房総の歴史は深く、いまなお古き佳き文化が薫っている。

行元寺と伊八の彫刻「波」

上図は伊八の欄間彫「波」。

さて私が千葉へ越してきて間もなく夷隅市にある行元寺(ぎょうがんじ)を訪ねたときのことである。

お参りのあと境内を歩いていてふと「見学入り口」という小さな張り紙を見つけた。それは本堂に隣接した藁屋根の古びた建物のいちばん奥の端であった。

靴を脱いで上へ上がるとピンポンと鈴が鳴ったがそのまま廊下を奥へ行くと、開いた部屋があり薄暗い中へ入ったところに住職が現われて建物などの説明を頂くこととなった。

その建物は200年前に建立された旧書院で、なかの三間だけが見学出来ることになっていた。住職の説明は、各部屋を区切る5枚の欄間と1枚の戸襖絵であった。

天台宗行元寺は、1150年前に開山の古刹で、江戸時代には寛永寺傘下にあって10万石の処遇を受け、末寺96ヶ寺をもつ大寺院であった。本堂は420年前に建てられ、その後300年前には改修改築されて房総壇林講堂として活用されたという。

欄間のうち2枚は松竹梅の彫り物であるが、後の3枚はいずれも躍動する大波を掘った波物である。うち2枚には大波の間に宝珠が浮き、他の1枚には日の出に鶴が舞っている。

波は大きく立ち上がってまさに崩れかかろうとする刹那のあらあらしい情景そのものであった。何たる彫刻であろう。これは怒涛の逆巻く一瞬を鑿1本を以って切り取った至芸の表現である。それは絵に勝る立体的彫刻の極致というべきものであった。

私は今までこのような真に迫る写実彫刻を見たことが無かった。

「ちょっとこちらへ来て見て下さい」と次の間から住職が欄間の反対側を指して言った。「如何ですか、この景色をどこかで見たことが有りませんか」と見上げている。

そこに見えたのは、なんと北斎の「神奈川沖浪裏」図そのものではないか。

つづいて住職はさっきの戸襖(杉戸絵)の前に移り、描かれている「白鷹と老梅」と併せ欄間についての詳しいお話をして下さった。

この欄間が彫られ、ここへしつらえられたのはこの書院が建てられたときである。欄間の銘には、「彫物大工房州長狭郡打墨産 武志伊八良信由作 弟子久八 文化6年4月吉祥日」となっている。文化6年と云えばいまから200年前(1809年)である。伊八58歳の時であった。

その時点の北斎は50歳、宗理から葛飾北斎と改号して風俗や美人画を盛んに描き、色々の狂歌絵本に新技法の挿絵を発表して注目され、ようやく円熟期を迎えていた。かの「神奈川沖浪裏」図を描く20年以上前のことであった。

では一体伊八とはどんな人物であったのか。またこの絵が何故北斎のあの浪裏図に瓜二つなのか。そして戸襖の「白鷹と老梅」の作者は何か関係ある人物だったのか。

伊八(武志伊八郎伸由)

伊八は波を彫っては当代一と称され、この話は広く関西・上方にも及んで、彫師たちの間では関東へ行っても波だけは彫るな、彫ったら笑われると語られていたという。

伊八の彫物は房総を中心として神奈川、東京、埼玉と一都三県にまたがり、およそ百ヶ所の寺社に残っている。

最初の彫刻は20歳のときの東京堀之内(現杉並)の妙法寺祖師堂の龍五態とされる。伊八は波と共に龍を最も得意としていた。夷隅市太東崎上にある飯縄寺(いいずなでら)の本堂外陣欄間の「波と飛龍」2面は遺憾なくこのことを物語っている。但しここでは「牛若丸と天狗」の大作がメインとなって真中に置かれている。伊八54歳の作である。

下図は伊八の飯縄寺「波と龍」欄間彫左右二面のうち一面。

その後三芳村智蔵寺の「波と龍」、千倉町徳蔵院の「龍」、さらに館山市の瑞龍院の「龍と波」とつづき、そのあと行元寺の「波」に到る。伊八が最も精力的に活躍した時代であった。

飯縄寺は1200年前、慈覚大師の創建といわれ、「飯縄大権現」を祀って中世・近世にかけてはかの成田山を凌ぐ賑わいを誇り、それは江戸末期まで続いていたという。

伊八の最大作は上総の古刹源祥寺の「龍三態」である。

この彫刻は本堂外陣の高さ6尺・3間通しの欄間をはみ出る大作で、怒涛に洗われながら昇り竜・降り龍三頭が咆哮し躍動しているさまが見事に具現されている。龍という想像上の動物が、荒れ狂う嵐の海という写実世界に睦んでまさに活写されているのである。

この作は北斎の「八方睨み鳳凰図」と同様、伊八の魂の宿りを感じさせるが、その波といい、龍といい、彼の終生の最高傑作と云えるものであろう。これは伊八最晩年の作で実に10年の歳月をかけて完成したものであった。72歳であった。伊八はこの2年後に生涯を閉じる。墓は生家近くの鴨川市鏡忍寺に建っている。

私は今春この龍三態を初めて拝見したとき、余りの見事さに声を失い、只おののき見入るばかりであった。かって台北の故宮博物院で、先年はイタリアの古都に遊んで数多の芸術品と共に彫刻美術に接したが、その時に劣らない驚きを覚えたのであった。恐らく日本でいや世界でこれに匹敵する「動」の彫刻は何処を尋ねても見得ないではないか。

惜しむらくはこの「龍三態」は寺で観光見学など一切の見学をお断りしていているため、一般には拝観できない。(私の場合は何回か足を運んだ末、檀家役員の集まりの際に短時間拝観を許されたが、もちろん写真は禁ぜられた。ご迷惑を慮って、寺の名もここで特に仮の名としたことお許しを請いたい)

伊八がいつも生家である自宅から馬に乗って近くの鴨川海岸に行き、海の中へ入って、立ち上がり崩れる横波をひねもす観察していた話は地元で有名である。

行元寺の「波」の欄間を彫るに当っても、伊八は依頼を受けた後、可なりの準備期間を取って波を研究したらしい。行元寺界隈では未だに、伊八がいつも瓠に酒をいれ、来る日も来る日も住職の馬に乗っては九十九里浜や太東崎をめぐっていた話が伝わっていると云う。

北斎と伊八の関係

さて先に紹介した太東崎上の飯縄寺(いいずなでら)の欄間のある本堂外陣天井には、香煙で真っ黒になっているが、龍の絵が描かれているという。それは平成五年に調べられた結果、筆者は三代堤等琳(つつみとうりん)であることが判明した。さらに本堂内陣の天井を調べたところ、やはり香煙にすすけた天井の一枡ごとに五十数枚の花鳥図が描かれていて、全て等琳筆であることが判った。

伊八と等琳は共に飯縄寺で欄間を彫り、片や天井に絵を描いていた。

三代堤等琳は雪舟十三世を名乗った雪舟派の有名な浮世絵師であった。等琳の作として知られているのは、浅草寺の「韓信の股くぐり」の大絵馬でこれは圧巻といわれる。

この等琳の弟子の一人が北斎であった。そしてさらに弟子の一人に五楽院等随(ごらくいんとうずい)という者がいた。この等随こそ行元寺の書院の戸襖絵「白鷹と老梅」の作者であった。

北斎の兄弟弟子等随が、行元寺で戸襖絵を描き、同時に伊八が欄間の「波」を彫っていたのである。寛永寺にも出入りしていた北斎は、寛永寺と人的交流が深かった行元寺の事情を佳く知る立場にあった。伊八の波の彫刻のことは北斎に間違いなく伝わっていたはずである。

北斎は技を磨くことについては他の誰よりも貪欲であった。それは彼が、春章から浮世絵を習って以来、狩野派、西洋画風とあらゆる伝を使って多くの絵師に会い、いろいろな技法を修業したことからも伺える。北斎が「富嶽三十六景」を発表した頃伊八は既に世にいなかったが、北斎はそれに先立ちこの彫刻を行元寺で見ていたことであろう。

和歌・連歌などで、また俳句でも本歌取(ほんかどり)といって、先人の作の用語・語句などを意識的に取り入れて、作歌・作句することが行はれる。これは読み手もそのことを充分理解して、先人の歌や俳句をその奥に重ねながら、鑑賞するのである。これは古来(新古今和歌集)から認められ、行なわれてきた日本独特の文化である。

北斎は、伊八の彫刻の波を本歌取り(本家取り)して、「神奈川沖浪裏」図を描き上げたと理解すべきではないか。本歌取(本家取)によって伊八の宝珠は白富士に昇華され、舟が足されて絵は一層リアルになり、味が倍加したのである。本歌取は、本歌を凌駕することでより評価されるものである。この意味で北斎の絵の技が伊八の彫刻を超えたことで更なる評価につながるのではないか。

伊八の波は寺院の書院にはまことに佳く似合うが、そのままを絵にし、浮世絵としても決して喝采を受けることはなかったであろう。

伊八の波は、北斎に本歌取(本家取)されたことによって、何倍も大きなものになり、ついにはヨーロッパから世界に飛躍して、さらに大きな花を咲かせたのである。

「神奈川沖浪裏」は伊八という不出世の彫刻家を土台にし、北斎という希代の絵師によってアレンジされ、完成したと云うべきであろう。我々はこの事情を佳く理解して鑑賞しなくてはならない。「神奈川沖浪裏」は伊八の存在を知っている者には、見る味わいが倍加しよう。

北斎は「富嶽三十六景」の中で同じような本歌取(本家取)をこのほか幾つか試みているようだ。遠江山中の木挽図、深川万年橋下からの富士図、尾州不二見原のたる図などに他人の絵の真似ものだという論が当時からあった。

文学やその他全ての文化は、多かれ少なかれ先人の模倣があって進歩してきたものであろう。文化とは既存の文化を土台として、その上にさらに重ねて行くものである。北斎は偉大な芸術家であると共に、いまや偉大な本歌取(本家取)の名手としても再認識されるべきではないか。

北斎は南総院奇誉北斎居士の戒号を授かり、浅草誓教寺に眠っている。