兵法三十六 勝戦計 第二計 「魏を囲んで趙を救う(ぎをかこんでちょうをすくう)」の意味を、三国志を例に解説していこう。
囲魏救趙とはもともと戦国時代、斉の軍師であった孫子(孫ピンの方)が魏軍を撃退した際に用いた戦術である。
強大な敵に直接対決を挑まず、勢力を分散させる。その上で撃破すれば効率良く勝利を得られるのである。
三国志においては呉の荊州戦略が例として挙げられる。
赤壁の戦い以降、呉と蜀の間には荊州を巡っての外交的緊張があった。
もっとも対劉備強硬論者の都督周瑜は夭折し、その後任魯粛は親劉備外交を展開していたこともあり、孫権ー劉備の同盟は辛うじて保たれていたのである。
しかし、親劉備派の魯粛もまた早世し、その後任はもともと武官で強硬外交論者の呂蒙が就任する。
このような状況のもとで関羽は荊州北部襄陽の樊城を攻撃する。
この時の関羽の勢いは曹操も遷都を口にするほどのものであり司馬懿らの進言によって曹操は遷都を思いとどまったほどであった。そしてこの時関羽は後方の呉に対する備えの兵を江陵にわずかに駐屯させただけであった。
さて、呂蒙の方だが関羽をこれ以上増長させるのは当然面白くない。
そんな時に念願の荊州が関羽の不注意により得られるのである。
そこで魏と秘密同盟を結び江陵に進行したのである。後方が陥落し補給が滞っ関羽は追い詰められて捕縛される。
関羽はみすみす戦力を分散させてしまった、つまり囲魏救趙の計にかかったのであ
る。
この一連の戦争には後述するが多くの三十六計の戦術が用いられている。
このことは三十六計の有用性を武勇の誉れ高い関羽を破ることで証明したといえる。