三国志で知られる「十常侍」とはどのような存在か

俗に「前漢は外戚で滅び、後漢は宦官で滅んだ」と言われている。

宦官とは一体どういう存在であろうか。その起源は諸説あるが、殷代にはすでに存在していたと考えられている。非常にかいつまんで言うと、宮刑に処せられ(男子では去勢のことである、つまり男性器を切除すること)後宮の事務を委任された宮内官である。周代では寺人と呼ばれた使用人であった。このような存在であったが、権力者の近くにあるうちに次第に暗躍を始めるようになっていく。有名なところでは秦の趙高が挙げられるだろう。そして漢代であるが、漢の刑罰において宮刑は死刑に相当するものに適用された重い刑罰であった。だがこのころは権力者の側近となるために宦官になることは既知のことであった。

尚余談であるが、宦官は中国独自の文化でなく朝鮮、インド、イランにまで分布していた。さらには、聖書において天国に行くために”より身を清浄にした存在”として確認できる。

宮刑に処された男子は概ね生理的及び心理的な変化をきたす。

生理的変化は「体つきが丸くなる」、「体がぶよぶよしている」、「声が甲高い」、「ひげが生えない」などが挙げられる。これは男性器切除に伴うホルモンバランスの変化が原因と見てよいだろう。

さらに心理的変化であるが、宦官は先に説明したように元が犯罪者であったり出世欲に駆られた者達が大半であった。そのため、世間は宦官に厳しく、特に士大夫は宦官を忌み嫌ったものであった。そのため曹操は宦官の養子の子どもと度々罵倒されているのである。このような逆境の中で宦官達は宦官同士団結を図ることになる。まず、団結力の強さが特徴として挙げられる。逆に宦官でないもの(宦官にも?)に対しては異常なまでの猜疑心を示したようである。そして、出世欲に駆られた者達が多いことと、性を超越した反動として権力欲が肥大化していたため一般に極めて貪欲であった。

こう書くとろくなことがないようであるが、このような中謹厳実直さを示す場合もある。史記の著者司馬遷は前漢の武帝の不興を買ってしまい死罪になるよりはと恥を忍び甘んじて宮刑をうけている。また、オペラ歌手には声が高くなることを利用する例もある。

本題である後漢を滅ぼしたとも言える宦官集団のトップが十常侍を見てみる前に後漢でどのようにして宦官が勢力を伸ばしたかを説明しなければなるまい。前漢が外戚の王莽による王莽の乱で滅んだ後、光武帝が後漢を建国させた。光武帝は外戚勢力に権力を掌握されないように側近政治を抑え、これが功を奏し光武帝より三代は父子直系相続であったことから外戚が介入する余地がなく安定した政局が続いていた。ところが、四代皇帝和帝以降は傍系の王から多くの皇帝が出ることになった。さらに、和帝が二十七歳で早世したのを皮切りに短命皇帝が続くことになった。このため幼児や赤子が後継者となったのであった。

未成年の天子の場合先帝の皇后が皇太后として職務を代行する、臨朝称制という外戚による政治形態を取ることになる。こうして、外戚勢力の増長が再び始まったのである。

ところで、帝が未成年の場合はよいが成年に達すれば当然権力を握っている外戚勢力が疎ましくなる。そこで、自らの側近である宦官を利用して外戚勢力に対抗する必要性が生じたわけである。こうして、宮廷内部では外戚対宦官の泥沼の争いが展開されたわけであった。この争いは八代皇帝順帝の時に跋扈将軍と呼ばれた梁冀が宦官に滅ぼされたことで終焉を迎えた。だが、今度は宦官が政権中枢に入り込むことになったのである。そして、宦官自身の保身に都合の良い人事を行うなど腐敗政治を行っていったのである。

儒家官僚や在野の士大夫層は自らを「清流派」と称し、宦官と腐敗政治を行うものたちを「濁流派」と見做して政治批判を行っていた。だが、党コの獄に代表されるように甲斐なく弾圧された。

そのような腐敗した政治の後漢末期霊帝の時代に元肉屋の何進は宦官に賄賂を贈り美しい妹を後宮に入れた。何進の妹は霊帝の寵愛を受けて後の少帝弁皇子を産み、彼女は皇后にそして何進は大将軍に出世した。この霊帝の時の宦官のトップを十常侍という。後漢書では十二人いるが十常侍と呼ばれている。これは後漢書のなかの上奏文に見られる記述である。

以下に後漢書の十二人と三国志演義の十人をまとめる。

後漢書 三国志演義
張譲 張譲
趙忠 趙忠
段珪 段珪
夏惲 夏惲
郭勝 郭勝
孫璋 蹇硯
畢嵐 程曠
粟嵩 侯覧
高望 曹節
張恭 封ショ
韓リ
宗典

三国志演義の方に視点を移そう。

さて、十常侍のおかげで権力を握った豚殺し大将軍何進であるが宦官との蜜月状態もそう長くは続かなかった。

霊帝に気に入られ元師に就任した蹇硯は何進と仲が悪かった。霊帝没後、何進は自分の甥にあたる弁皇子を擁立したが、蹇硯らは王美人の子である協皇子を擁立したのであった。両者に緊張が走り、とうとう蹇硯が殺害されるという事件が発生したが、何皇后は宦官に妥協的姿勢を取り宮中に兵を入れないよう何進をたしなめたため一時動乱は終息した。その一方で何進は袁紹、袁術らと宦官撲滅を画策し軍閥を召集せんとしていたのであった。(この時曹操も何進の部下であったが、彼は「宦官に権力を渡すからまずい」という考えから何進をたしなめている)しかし、この計画は何皇后を通じて十常侍の知るところとなり何進は宮中に誘き出されて殺害されてしまったのである。

これを契機に袁紹が最早これまでとばかりに暴発し、配下とともに殴りこみをかけ二千人以上の宦官を皆殺しにしてまわった。

こうして、外戚何進と宦官十常侍は共倒れとなったのである。

だが、政局は安定するどころか最悪の方向に向かっていった。

十常侍の一人張譲(後漢書では段珪)は最後の手段とばかりに帝と協皇子を連れて宮中を脱出していたのである。そして、自分は自殺してしまったのである。さっぱり何がしたかったのかわからないが、お蔭で何進に召集されて都に来ていた董卓が棚ボタ式に帝を手中に収めたのであった。

さて、後は皆様ご承知の通りの運びと相成ります。そのようなところで今回はこれまで。