上杉氏ゆかりの武将・須田満親のプロフィールと略歴

歴代の松倉城主を語るとき、須田満親について語らなくてはならない。須田満親は、越中の最高指揮官として、松倉城の撤退戦を指揮した、武勇と知略に優れた武将であった。須田満親は、相模守を名乗り、上杉氏の部将として、天正9年(1581)から11年まで越中にあって、松倉・魚津城の防衛と羽柴秀吉との交渉に知略を巡らした。天正13年(1585)6月から海津城に於いて奥信濃四郡を統括し、検断権を含めた幅広い権限を委譲された。

海津城での知行高は12086石、信州侍中の筆頭である。慶長3年に上杉景勝は会津に移封となったが、跡目は次男長義に継がせ、自らは海津城で切腹したという気骨の武将であった。

上杉景勝は、天正13年5月に上洛、天正16年5月に再上洛し、聚楽第で秀吉と対面した。このとき須田満親も同道し、同行した直江兼続、色部長真らを含めて三名に豊臣の姓が授けられた。

天正17年(1589)10月3日に、長野県上高井郡高井村の高杜神社へ須田満親が奉納した願文が伝わる。ここで須田満親は、豊臣秀吉との謁見が大変満足の行くものであり、上洛の大任を果たした喜びを表している。同年12月30日に豊臣満親は、従五位下・相模守に叙任されている。

須田満親が活躍した、天正10年・魚津の役について見て行こう。この当時、須田満親が松倉城に在城していたという史料は無いが、魚津・松倉城は織田軍に包囲され、満親が上杉軍を指揮していたのは事実である。魚津城を囲んだ織田の部将は、総大将・柴田勝家以下、前田利家、佐々成政、佐久間盛政、不破光治、そして能登の長連竜や越中衆で、その兵力は三万八千と言われる。この織田軍の包囲遺構は松倉城を囲むように実見されるが、松倉城撤退は突如として行われ、松倉城兵二千を率いて、篭城の囲みを破って退却するのは並の部将ができることではない。

魚津城撤退作戦の概況について当時の状況を述べてみよう。天正9年4月に、上杉謙信・景勝の信任熱い越中新川郡松倉城主、河田長親が松倉城に於いて病死した。この当時は越中に、加賀一向一揆を制圧した織田方が着々と勢力基盤を固め、越中西部をほぼ制圧し、天正元年に河田長親が上杉謙信から得た富山市の南部、今泉城は放棄せざるを得ない状況にあった。同年七月には、越中砺波郡木船城主であった吉江宗信が海路退去した。

越中には、中条景泰、竹俣慶綱、三本寺景長ら越中在番の越後の諸将が魚津城を拠点としていたが、上杉景勝は、松倉城に楠川将綱、吉益清定、山田長秀、廣井忠家、黒金景信、松倉・魚津両城の横目付に大石芳綱を派遣した。

総大将・柴田勝家は、天正10年3月には角川の西岸に着陣した。上杉軍は、松倉・魚津両城の間に繋ぎの城を築いて連絡を取り合っていたが、柴田軍は徐々に包囲を固め、四月には堀際で合戦しているとの報が春日山にもたらされている。しかしこれも五月には届かなくなった。魚津の役戦闘経過要図を参照されたいがここに河田豊前出撃とあるのは誤りである。

上杉景勝は、魚津城救援のため5月中旬に春日山城から越中に入り、天神山城に着陣した。しかし織田の部将、森長可が信濃から越後深く進入し、この報に接した上杉景勝は春日山への退却を決意、松倉城の満親に伝達した。満親は、五月二六日に重包囲下の松倉城を撤退し、天神山で景勝と合流、同日の夜には景勝が越後に引き上げたのである。

織田軍は大砲をまでも用いて魚津城を攻めていた。六月三日、魚津城は落城し、大将分の十三名は討死した。しかし、六月二日未明には、本能寺の変で織田信長が最期を遂げていた。 明日が解らないのが歴史である。景勝は、上杉謙信以来係争の地である川中島に進出し、川中島四郡を手中に収めた。越中では、柴田勝家は越前に引き上げたため、魚津城・小出城は、満親率いる上杉軍が回復した。

織田家の跡目を巡り、羽柴秀吉と柴田勝家の両者の決裂は決定的となり、天正11年2月秀吉は景勝と和解し誓詞血判を交わした。そのときの秀吉との交渉は、上杉氏では満親が担当した。これに対して、2月上旬、佐々成政は境川に陣を引いて上杉の魚津城への後詰めを絶ち、魚津城を攻めた。3月下旬、包囲下にあった魚津城主須田満親は佐々成政と交渉し、魚津城・小出城を明け渡して海路越後に退去した。4月20日賤ヶ岳の合戦で柴田勝家は滅び、天下は秀吉のものになっていった。

以上が、天正9年から11月にかけての越中新川郡魚津城を巡る、一連の歴史である。

では満親はいつから上杉揮下に入ったのだろうか。須田満親の出身は、信濃国高井郡井上(須坂市)と言われ大岩城を本拠とした。武田氏の信濃侵攻により、弘治・永禄年間頃に須田氏も二分し、武田氏に属した須田信正の家系と上杉氏に走った満親の家系がある。

上杉謙信の馬下としての須田氏の名は、永禄11年(1568)8月10日の上杉景虎書状に須田左衛門大夫として現れる。そして須田満親が史料に登場するのは、天正9年4月の事である。菅屋長頼が、富山城主神保長住・佐々成政が上洛中に新川郡小出城を攻めたことに対して非難の書状を須田満親、上条宣順宛に出した。

また、越後の本誓寺には満親への本願寺光佐書状がある。その中で光佐は、「貴国門下之輩

連々宣様御取成本懐候」として、信濃での満親の影響力に期待を抱いている。

本誓寺は、浄土真宗大谷派の寺院で、上杉謙信の招きで永禄元年信濃から移ってきたと伝える。石山合戦では本願寺を支援し、上杉景勝は、天正10年5月2日に、本誓寺に越中に出陣するから、国中の諸坊主を集めるように指示している。

このような経緯から『日本城郭大系』では、「須田城」の項で、「須田郷が井上氏系の真宗寺院の発祥地」とし、須田満親は、一向一揆との関連が深く、このような経緯から越中松倉城の城将として、景勝の北陸一向一揆担当として派遣されたのではないかとしている。

しかし、謙信は永禄から天正の始めにかけて激しく一向一揆と戦った。特に、元亀3年(1572)、6月、加賀一向一揆が富山城を占拠した時、謙信は8月越中に出陣し延々と翌年まで続いた。一向一揆と命脈を通じていた松倉城を根拠とする椎名氏は没落し、一向一揆は敗北した。天正元年10月には、富山の地は河田長親に与えられている。

加賀一向一揆と上杉謙信が和睦したのは、天正4年になってからである。それ以前に、謙信が一向一揆に影響力のある武将を配下にしていたとは思えない。むしろ景勝の代になって非凡の才能を認めた景勝が、抜擢したとしか考えられないがどうだろうか。 須田満親の長男、光義は、直江兼継の娘婿となり、須田家は次男長義が継いだという。長義は、上杉景勝と会津に同道し、陸奥梁川城で二万石の知行を得た。関ヶ原の前哨戦となった慶長5年の役では、伊達正宗の軍を破る軍功を上げた。須田氏は上杉氏の重鎮であった。