戦国武将の館・陣城の地図をまとめてみた

このページは館と陣城の解説です。城は平時においては平地に築かれ、付近の要害に詰城が築かれました。しかし、15世紀頃より居館を伴う山城が盛んに造営されるようになり、戦国時代に至っては合戦の陣城がたくさん築かれました。

武家の館

越中土豪の居館 森野新館(富山県滑川市森野新)

土豪の居館は、平地に方形の単純な構造の館が築かれる。

森野新館跡は富山県滑川市森野にあった館跡である。城主は不明。館の規模は東西150メートル、南北140メートル、面積21000㎡に及ぶ方形の館であった。明治の初めまで幅10メートル余りの土塁が残っていた。この図面は地籍図から推定したものである。

能登の土豪の居館 福水館(石川県羽咋市福水)

家臣団を収容する構えを備えた館。

福水館は、『長家家譜』によれば、天正8年9月1日、長連龍は、能登の上杉方を打ち破った恩賞として、織田信長から鹿島半郡3万石を知行地して与えられ、この地に留まるように指示され造営された館である。主郭は、古宮と称され神社であるが、主郭の北、東側に浅い堀を巡らし、西側の送電鉄塔が立つ尾根に、ここを断絶する空堀が残存する。

下図の縄張図を参照願いたいが、南側には、平坦面が広がりここが家臣団の屋敷跡とされる。長連龍は、天正6年には、氷見の久津呂城にあって、天正8年には、福水館に、その後は天正12年に徳丸城にはいる。この城は、現在は雑木が生える山であるが、天正8年当時は外郭を備え、ここに家臣団を収容する十分な容積を保有していたことがわかる。

大手門には、石垣さえも見られ、福水城の格式を見るが、加越国境佐々成政系陣城のように、虎口の発達等は見られない。

戦国武将の居館 清水城(山形県最上郡大蔵村)

戦国武将の居館として、権威を誇った城郭の典型を示す。

清水城は、山形県最上郡大蔵村比良にある城跡で、文明年間最上氏の重臣清水孫二郎満久が築城した。以来清水家は、7代にわたってこの城の城主であった。その間、絶えず庄内の大宝寺と戦ったという。

この城の特徴は、城の正面に開かれた、幅20メートルはあろう壮大な外堀である。この外堀から町屋が栄えたと思われ、この外堀は、城の防衛と同時に、この城の権威の象徴といえるものである。

武家の城

飛騨の城 高原諏訪城(岐阜県神岡町)

飛騨高原郷を治めた江馬氏の居城です。

高原諏訪城は、江馬氏の本城です。江馬氏は、飛騨高原郷を領した中世の国人で高原郷に多くの城館を築きました。江馬氏が高原諏訪城を居城としたのは、『高原郷土史』によれば、鎌倉時代、北条朝直の子朝方であるといいます。朝方は江馬二代目で旭高原太郎と称し修理亮の官途を名乗り、旭山に城を築いて諏訪城と称しました。江馬氏が史料に登場するのは、南北朝期の応安五年で、この頃高原郷は山科家領でした。

高原諏訪城の特徴は、山肌を切り裂く多くの縦堀でしょう。この堀は、下の下館にまで達していたと思います。このような縦堀を多用する山城の築き方は、上杉系の築き方とも類似します。

江馬氏が居館とした高原諏訪城下館には、近年の調査によって築地や庭園を備えた豪奢な殿舎が造営されていたことが確認されました。その成立時期は、美濃瀬戸や珠洲等の陶器の編年から、14世紀から16世紀にかけてです。

江馬輝盛が本領とした高原郷は、江戸期の検地帳を見ても石高は四千石に満たないのですが、なぜこのような豪奢な殿舎を構える事ができたのでしょうか。

それは、鉱山であると考えられています。寛永11年の「金森重頼軍役願状」にある金山領三万石の大半は、和佐保・茂住の両銀山でしょう。

和佐保銀山は高原川の東岸に位置し、銀山の始まりは、諸説があり、『高原郷土史』には、明応の頃(1492~1614)高原郷和佐保銀山を開くと伝とあります。文禄慶長の頃に、茂住銀山とともに、茂住宗貞が銀山を経営して最盛期を迎え、人家は茂住で千戸を数えたといい、和佐保銀山は、現在の三井鉱山神岡工業所です。『飛州志』には、「飛州鉱山の事、太古の事跡は詳ならず、近古金森氏領国の頃、天正晩年より鉱業盛んに起りて、其運上収入知行高三万石に相当するに至れりと云う」とあります。

加賀土豪の城 赤岩城(石川県江沼郡山中町菅生谷)

一向一揆旗本の城です。

武将の陣跡

上杉謙信の陣址

上杉謙信陣址は、山頂に本陣を置き、山麓の平坦面に幕営地を置いた。

上杉謙信陣址として、坪野城を標本とした。城の解説は、坪野城の事項を参照されたい。ここは、百間馬場という広い平坦面から城が出来る以前は寺院ではなかったかと思われる。

永禄12年、8月上杉謙信は松倉城を攻めた。陣址は、寺院を利用し、背後の山頂に本陣を置いた。そして、松倉城と相対したものと思われる。謙信は10月に撤兵するまで、40日間ここで指揮したと推定される。

構造的な特徴は、主郭に土塁や桝形構造の虎口など用いず、極めてシンプルである反面、上杉流の竪堀を取り入れていることであろう。

山頂の広い平坦面には、謙信やその幕僚がおり、下の百間馬場には、かつては「かまど」の遺構が多数あったと言われ、旗本の陣屋があったもであろう。

佐々成政の陣址

佐々成政陣址として、石川県押水町坪井山陣址を標本とした。天正12年、越中の佐々成政と加賀の前田利家の加越国境で合い争った合戦で、9月8日、富山城を進発した成政は、末森合戦を攻めた。

本陣は、末森城からかなり離れた坪山に置いた。この理由は、末森を救援する利家を待ち伏せ決戦を行うためであろうと考えられる。しかし利家はこれを察知し、11日その横をすり抜け佐々末森攻城軍を背後から攻め撃退し、末森城に入ったため決戦は行われなかった。同日、成政は坪井山から松根城に転進した。

坪井山の陣は、旗本700騎とここに着陣したと村の故老は言いう。本陣の東に旗本が詰めたそうである。成政は、3日間の在陣であったが、本陣ははっきり築城している。虎口は平虎口である。本陣の周囲には空堀を巡らし、その土を盛り上げて、土塁を築いている。おそらく、旗本衆が着陣後直ちに築城工事を行ったのであろう。この遺構は、まさに織豊武将の築城の考え方、様式を物語っている典型的な事例であろう。