物部太媛と布都姫に関する考察

下記の文章はkituno作成のYahoo日本史トピック「聖徳太子と織田信長に恋しています」の中で、abenomaroさんの「物部太媛」についての一連の書き込みを整理したものです。

表題赤字はabenomaroさんの書き込み、緑字はkitunoの書き込み、黒字はその他の方の書き込みです。

物部太媛(1) 2004/10/22 0:14 メッセージ: 6134 投稿者: abenomaro

kituno_iさん。ひさしぶりにおしゃべりさせてもらいます。

古本屋で見つけた、歴史読本の昭和56年6月号の巻頭で佐伯有清氏が書いた「蘇我氏と古代大王国家」という論文を読んで思ったことです。

#6026 >abenomaro

>私は最近、穴穂部皇女というのは物部守屋の妹、つまり馬子の妻で蝦夷の母親がモデルだったのではないかと思っています。

蘇我馬子の妻は、『日本書紀』によれば物部守屋の妹であり、『紀氏家牒』という資料にもまた守屋の妹として登場し、その名前は「太媛(ふとひめ)」とされています。

ところが物部氏の書である『旧事本紀』では守屋の妹の「ふとひめ(布都姫と記述)」は「物部守屋公・・・・妹物部連公布都姫夫人。字は御井夫人。亦は石上夫人と云ふ。此の夫人、倉梯宮御宇天皇(崇峻天皇)の御世、立ちて夫人と為る。亦朝の政に参て、神宮を斎き奉る。」とあり、さらに「弟の物部石上贄古連公、此の連公は、異母妹の御井夫人を妻と為し、四児を生む」とあって、馬子の妻となったとは記されていないのです。『旧事本紀』で馬子の妻となっているのは「物部贄古」の娘の「鎌姫大刀自」で、彼女は守屋の妹ではなく姪にあたります。

このあたりの資料間の相違をどのように解釈するかですが、『日本書紀』『紀氏家牒』、さらに『石上振神宮略抄』の「神主布留宿禰系譜」という資料にも蘇我蝦夷の母親は守屋の妹の「太媛」とされており、また『日本書紀』においては「崇峻紀」に「蘇我大臣の妻は、是物部守屋大連の妹なり。大臣、みだりに妻の計を用いて大連を殺せし」とあり、「皇極紀」には「蘇我大臣蝦夷、病に拠りて、朝らず。私に紫冠を子入鹿に授けて、大臣の位に擬ふ。復其の弟を呼びて、物部大臣と曰ふ。大臣の祖母は、物部弓削大連の妹なり。」と二度までも馬子の妻に守屋の妹がいたことを記していることから、太媛が馬子の妻であった可能性の方が高いといえます。

『旧事本紀』は太媛と鎌姫をすり替えたのでしょう。その理由として考えられることは『日本書紀』、つまり正史において太媛の評判がすこぶる悪かったからではないでしょうか? 「崇峻紀」においては守屋を殺害を裏で計ったのは太媛であると言ってますし、入鹿の弟の物部大臣が勢いが強かったのは太媛の財産によっていると言い、暗に守屋の所有していた財産を奪った太媛への非難が感じられます。

こうした非難がもし本当にあったとしたなら、その息子の蝦夷に対してもなんらかの影響を及ぼしたのではないでしょうか?蘇我氏一族に対して馬子に比べて蝦夷が求心力がなかったことや、甘橿丘に砦のような家を作って兵士らに守らせるなどは、常に危険にさらされていた蝦夷一家を想像させます。

物部太媛(2) 2004/10/22 0:22 メッセージ: 6135 投稿者: abenomaro

ところで「崇峻紀」にある「蘇我大臣の妻は、是物部守屋大連の妹なり。大臣、みだりに妻の計を用いて大連を殺せし」という記事が気になります。『書紀』は蘇我・物部戦争の原因を仏教をめぐる対立にしていますが、もう一つの理由として馬子の妻の謀を挙げているのです。

この戦争については宗教対立よりも皇位継承をめぐる戦いであるとの見解があり、私もそのように考えますが、では誰と誰との間の皇位をめぐる争いだったのでしょう?

物部守屋の側ははっきりしています。後に別の人物にしようとした形跡もありますが、守屋が押していたのは穴穂部皇子です。では蘇我馬子は誰を押していたのでしょう?戦争前の状況からは彦人大兄皇子や竹田皇子が中臣勝海に厭魅されており、このどちらかとも思われますがはっきりしません。しかし戦争後に皇位についたのは泊瀬部皇子=崇峻天皇でした。すると馬子が押していたのは泊瀬部皇子だったことも考えられます。

ここで「妻の計」という記事がどういうものであったか想像が膨らんできます。ポイントは『旧事本紀』にある「物部守屋公・・・・妹物部連公布姫夫人。字は御井夫人。亦は石上夫人と云ふ。此の夫人、倉梯宮御宇天皇(崇峻天皇)の御世、立ちて夫人と為る。」という記事が関係しているように思われてきます。

ここからは全く私の推測です。

太媛は蝦夷の年齢を考えると蘇我・物部戦争の前には既に馬子の妻であったと思われます。しかし馬子の妻でありながら泊瀬部皇子と不倫の関係であったのではないでしょうか?用明天皇(私見では用明=敏達)崩御後の次期天皇候補として穴穂部皇子(私見では石上皇子)と泊瀬部皇子(私見では倉皇子)との争いがあり、物部氏は穴穂部皇子を、蘇我氏は泊瀬部皇子を押していたのでしょう。しかし年齢順からいって穴穂部皇子が天皇に着く可能性の方が高かったわけで、そこで太媛は情夫である泊瀬部皇子を皇位に着けるべく夫である馬子をそそのかし、穴穂部皇子とその後ろだてである物部守屋を殺害させたのではないでしょうか?

ところで、馬子が不倫関係にある妻と泊瀬部皇子の言うことを聞くのは変ではないかと思うかもしれません。しかし、馬子も自分の政治権力を維持するために物部氏に近い穴穂部皇子より泊瀬部皇子が皇位に着く方がよいと思っていたのでしょう。また泊瀬部皇子が私見のように倉皇子であるなら、彼は『古事記』では「宗賀倉王」と呼ばれていますから蘇我氏に近しい人物だった可能性があります。

後世ですが藤原内麿という人は権勢を伸ばすために自分の妻を桓武天皇の後宮に送り込んでいます。おそらく馬子は妻と泊瀬部皇子との関係については見て見ぬふりをしていたんではないでしょうか?後に『旧事本紀』が太媛(布都姫)を崇峻天皇の夫人としたのは二人の関係を暗示させつつ、さすがに不倫関係とは書けなかったからと思います。

さてこの推理どおりとすると、馬子が崇峻天皇を殺害した事件も太媛が原因だったと思われます。崇峻天皇殺害のきっかけは天皇が先に馬子を殺害しようとしたためです。この奇妙な三角関係において先に我慢が出来なくなったのが崇峻天皇ではなかったのでしょうか?そこで馬子を殺害しようとしたわけです。そのことを馬子に伝えたのが崇峻天皇の妃である大伴小手子であるのも何やら男女間のもつれを感じさせます。

不倫だけなら見て見ぬふりを続けようと思っていた馬子もさすがに自分が殺害されるとなれば見過ごすわけにはいきません。そこで先手を打って崇峻を殺害したというのが真相だと思われます。天皇を殺害したというのに馬子が非難された形跡が見あたらないのも、理不尽であったのは崇峻天皇の方だったからでしょう。

物部太媛(3) 2004/10/22 0:28 メッセージ: 6136 投稿者: abenomaro

さて太媛が穴穂部間人皇后のモデルという点について述べておきます。

この点についてはまず先に仏教に帰依した天皇である用明天皇が仏教を興隆させた蘇我馬子をモデルとして創作されたんだろうと思います。そしてその妻として太媛のプロフィールが穴穂部皇后になったと解釈しています。

先に触れたように『旧事本紀』では太媛について「御井夫人」または「石上夫人」とも呼ばれたとしています。「御井」は法輪寺がある「三井」でしょうか?法輪寺は山背大兄皇子の創建と言われます。また「三井」の北には矢田坐久志玉比古神社があり、物部の祖と言われる「ニギハヤヒ」を祀っています。このあたりはもともと物部氏の勢力圏であったことがうかがわれます。

「石上夫人」については前から述べてるように「石上=穴穂部」です。

以前、河内八尾市にある穴太神社には、幼かった穴穂部皇女がここで育ったという言い伝えがあるということを紹介したことがありますが、守屋の妹の太媛のことを指していると考えればそういう説話も残っていて不思議ありません。

法隆寺の釈迦三尊像の後背には穴穂部皇后が(鬼)前大后として崇峻天皇の宮にいて神を斎き祀ったと書かれていますが、これもまた『紀氏家牒』や『旧事本紀』に見える太媛の事績に大変似通っています。

ことわっておきたいと思いますが、穴穂部皇后の逸話と太媛の事績とがまるっきり同じというわけではありません。私見では穴穂部皇后の逸話はフィクションだと思ってますので、そのいくつかの参考に太媛のプロフィールが使われたという考えです。

>物部太媛 2004/10/27 21:26 メッセージ: 6179 投稿者: kituno_i

abenomaroさん、お久しぶりです。
書き込みをしてくださり、とてもうれしく思います。

馬子の妻である「物部守屋の妹」と『旧事本紀』の「布都姫」は別人ではないでしょうか。 「布都姫」は「石上夫人」と呼ばれていたなら「フトヒメ」ではなく「フツヒメ」と読むように思います。 「物部太媛」は馬子の妻で、「布都姫」は崇峻天皇の夫人だったのではないでしょうか。

古くから物部氏と蘇我氏は協力し合っており、物部・蘇我の戦いは氏族間の戦いではなく、物部守屋個人との戦いだったように思います。

>物部太媛 2004/10/28 19:40 メッセージ: 6182 投稿者: Kikkyow (男性/大阪府)

>古くから物部氏と蘇我氏は協力し合っており、物部・蘇我の戦いは氏族間の戦いではなく、物部守屋個人との戦いだったように思います。

でしょうね。

これ以後も、物部氏の支流の人たちが政権で活躍している事を考えると、 物部氏全体の勢力はあまり低下したわけではないのではないか、と思います。

まあ、大化以後も蘇我氏の人たちが政権内部で(それも中枢近くで)活躍している例もありますし。

>>物部太媛 2004/10/28 18:10 メッセージ: 6180 投稿者: abenomaro

>馬子の妻である「物部守屋の妹」と『旧事本紀』の「布都姫」は別人ではないでしょうか。

『旧事本紀』にも「物部守屋公・・・・妹物部連公布都姫夫人」とありますから「布都姫」も「物部守屋の妹」です。同一人物と考えてよいと思います。

「太媛」の名は『日本書紀』に出てきませんが「馬子の妻」として出てきます。書紀の印象からはこの人物に評判は良くないですね。その影響を子の蝦夷や孫の入鹿も被ってるような気がしています。

>古くから物部氏と蘇我氏は協力し合っており、物部・蘇我の戦いは氏族間の戦いではなく、物部守屋個人との戦いだったように思います。

蘇我蝦夷は父の馬子から蘇我氏の遺産を、母の太媛から物部氏の遺産を受け継いだことになり大変な勢力を保持したように見えますが、かえってそれがアダになったような感じですね。

太姫と布都姫(1) 2004/10/31 19:06 メッセージ: 6190 投稿者: kituno_i

「布都姫」は「フツ姫」と読むのが妥当だと書き込みましたがそれは次のような理由からです。 布都姫は「神宮を斎き奉る」人物と『旧事本紀』に書かれています。神宮とは石上神宮であり「布都姫」は別名「石上夫人」と呼ばれました。石上神宮は「フツ大神」を祀っているので、「布都姫」は「フツヒメ」であると思います。

私は太姫と布都姫は姉妹ではなかったかと疑っています。
『日本書紀』や『旧事紀』を読む限り、太姫と布都姫が姉妹である証拠を見いだすことは出来ません。物部守屋の妹はそれぞれ一人ずつしか書かれていないからです。しかし、『日本書紀』に書かれている「物部守屋の妹」は蘇我馬子の妻として、『旧事本紀』に書かれている「物部守屋の妹・布都姫」は崇峻天皇の夫人になったことが書かれていることから、別々の人物に嫁している「物部守屋の妹」は別人であり、姉妹の可能性を含んでいることは確かだと思います。

Abenomaroさんの書き込みから、馬子の妻である「物部守屋の妹」の名を「太媛」とし、太姫と布都姫を姉妹と仮定して、その姉妹の立場から「物部守屋殺害事件」(一般的には蘇我・物部の戦い)と「崇峻天皇弑逆事件」の再検討を試みてみたいと思います。

太媛と布都姫(2)ー守屋殺害 2004/10/31 20:58 メッセージ: 6191 投稿者: kituno_i

abenomaroさんも書き込まれていますが、『日本書紀』には物部守屋殺害に関して、次のような記事が載っています。

・時の人、相謂りて曰く、「蘇我大臣の妻は、是物部守屋大連の妹なり。大臣、妾に妻の計を用いて、大連を殺せり」といふ。
つまり、馬子は妻の策略により守屋を殺害したと当時の人は噂していたわけです。

守屋殺害の後、守屋が有していた財産の悉くが蘇我氏に帰しています。 当時物部氏の本拠地は河内でした。現在の八尾市渋川に物部守屋の邸宅跡だとされている場所があります。 物部守屋殺害の真相は、蘇我馬子が守屋の妹・太媛の進言を受け、物部氏が所有していた「難波ー大和の交通ルートを手に入れる目的が大だったのかもしれません。

>太媛と布都姫(2)ー守屋殺害 2004/11/ 2 1:04 メッセージ: 6195 投稿者: abenomaro

>守屋殺害の後、守屋が有していた財産の悉くが蘇我氏に帰しています。

>物部守屋殺害の真相は、蘇我馬子が守屋の妹・太媛の進言を受け、物部氏が所有していた「難波ー大和の交通ルートを手に入れる目的が大だったのかもしれません。

この解釈が一般的なようです。守屋の妹は馬子を使って物部の財産を手に入れたと。ただし『旧事本紀』によれば kituno_iさんが言うとおり物部氏には守屋以外の系譜がありそれらの家系は存続していたようなので、守屋財産だけが馬子の妻のところに入ったと考えられます。これもなぜそうなったのか不思議ですね。他の兄弟がいるのになぜそちらにも行かなかったのでしょう。

それと
>時の人、相謂りて曰く、「蘇我大臣の妻は、是物部守屋大連の妹なり。大臣、妾に妻の計を用いて、大連を殺せり」といふ。

という表現には単に財産を横取りしたことを非難しただけの意味なんでしょうか?私は一般的に言われてる解釈には前から何か釈然としない感想を持っています。この表現からは蘇我・物部戦争の黒幕は馬子の妻であったというニュアンスが感じられるのです。

太媛と布都姫(3) 2004/11/ 1 20:27 メッセージ: 6192  投稿者: kituno_i

さて、太姫と布都姫が姉妹だったとすると、どちらが姉でどちらが妹でしょうか。

馬子や推古・穴穂部皇女(穴穂部間人皇后)は叔父・姪の関係にあり、馬子の方が年上です。 泊瀬部皇子(崇峻天皇)は穴穂部皇女の弟であり、馬子の娘・河上郎女が崇峻天皇の后になっていますから、馬子と崇峻天皇は親子ほどの年齢差があったのではないかと推測できます。 布都姫はその崇峻天皇の夫人ですので、馬子に嫁いだ太媛の方が年長であると考えることが自然であると思います。

ここからは私の全くの憶測ですが^^;守屋と布都姫は同母であり、太媛は母親が違うのかもしれません。守屋や布都姫の母に比べると、太媛の母の出自は劣るのではないでしょうか。太媛の心に「妬み」のような気持ちがあったのではないかと思うのです。

太媛と布都姫(4)ー崇峻弑逆 2004/11/ 1 20:31 メッセージ: 6193  投稿者: kituno_i

崇峻天皇弑逆事件を、馬子の妻・太媛と崇峻天皇の夫人・布都姫の立場から考察してみましょう。

崇峻天皇には、大伴糠手連の女・大伴小手子と蘇我馬子の女・河上娘そして物部守屋の妹・物部布都姫の3人の妃がいました。 大伴小手子は、馬子による崇峻天皇弑逆事件発端とも言える崇峻天皇の「猪の首」発言を馬子に密告した人物として『書紀』に書かれています。何故密告したのか、その理由は大伴小手子への崇峻天皇の「寵(めぐみ)の衰へしことを恨みて」としています。

では、崇峻天皇は誰を寵愛ししていたのでしょうか。

河上娘は馬子の娘なので、その対象だったとは考えられず、さらに馬子が崇峻天皇殺害を命じた東漢直駒は河上娘を事件後略奪していることからも、崇峻天皇に可愛がられていたとは考えがたいのです。 そう考えていくと、大伴小手子の嫉妬の相手として残るのは「物部布都姫」しかいません。

さらに馬子の妻・太媛には、同じ守屋の妹なのに「崇峻天皇の夫人」となった布都姫に対してのジェラシーはなかったのでしょうか。 大伴小手子の嫉妬を利用し、崇峻天皇殺害をし向けたのは「太媛」だったのではないでしょうか。河上娘が崇峻天皇の寵愛を受けることができず、もう死んでこの世にはいないもののライバル守屋の妹・布都姫を崇峻天皇が寵愛していると知った馬子は、崇峻天皇後の天皇の座を「物部布都姫が産んだ皇子」に奪われてしまうという危惧に襲われ、布都姫に子が出来る前に崇峻天皇を弑逆してしまったとは考えられないでしょうか。

>太媛と布都姫(4)ー崇峻弑逆 2004/11/ 2 1:30 メッセージ: 6196  投稿者: abenomaro

>河上娘は馬子の娘なので、その対象だったとは考えられず、さらに馬子が崇峻天皇殺害を命じた東漢直駒は河上娘を事件後略奪していることからも、崇峻天皇に可愛がられていたとは考えがたいのです。 そう考えていくと、大伴小手子の嫉妬の相手として残るのは「物部布都姫」しかいません。

私は河上娘なんて人物が果たしていたのかと疑問を持っています。「石上夫人」を仮託した書紀の創作ではないでしょうか?「石上」を「河上」に変える。私小説なんかではよく使われる手法です。

東漢直駒も他の史料に見えない人物のようですね。坂上田村麻呂らの坂上系図には駒子直という先祖がいるようですが。

梅原猛氏の『聖徳太子』では、東漢直駒は穴穂部間人皇后に従って丹後半島の間人(たいざ)までお供した人物という当地の説話を載せています。ここでは穴穂部間人皇后との接点がありますね。

私はこの頃、この駒が河上娘を略奪したエピソードは崇峻天皇が太媛を馬子から略奪したということを暗示した記事で、馬子が駒を殺したというのも、馬子が崇峻天皇を殺したという意味ではないかと思っているのです。

>>太姫と布都姫 2004/11/ 3 10:50 メッセージ: 6198  投稿者: kituno_i

>河上娘なんて人物が果たしていたのかと疑問を持っています。「石上夫人」を仮託した書紀の創作ではないでしょうか?

創作かどうかは、想像するしかないですよね。
「創作」という言葉を用いれば、『記紀』などの史料の自説に都合悪い部分は「創作」とし、都合の良い部分は事実であるかのように自在に解釈することができますから。^^;;その「自在な解釈」を楽しむという楽しみ方もありますが。^^;

梅原猛氏の『聖徳太子』でも、大伴小手子の嫉妬をかったのは「布都姫」ではないかと考察されています。『日本書紀』では天皇の弑逆という断罪を犯したにも関わらず、馬子のことは悪く書いていないという感じがしています。 物部守屋殺害に関しても、「妻の計」という一文を読むと、「妻に焚きつけられた」という印象になり、馬子自身を決して責めてはいないようです。

>梅原猛氏の『聖徳太子』では、東漢直駒は穴穂部間人皇后に従って丹後半島の間人(たいざ)までお供した人物という当地の説話を載せています。 さっそくその部分を読み直してみますね。(^_^)

鎌姫大刀自 2004/11/ 2 0:53 メッセージ: 6194  投稿者: abenomaro

kituno_iさん。歴史談義する方が面白いですよね。

>『日本書紀』に書かれている「物部守屋の妹」は蘇我馬子の妻として、『旧事本紀』に書かれている「物部守屋の妹・布都姫」は崇峻天皇の夫人になったことが書かれていることから、別々の人物に嫁している「物部守屋の妹」は別人であり、姉妹の可能性を含んでいることは確かだと思います。

『旧事本紀』では馬子(正確には嶋大臣と表記されている)の妻は物部贄古大連の娘の鎌姫大刀自となっていて、豊浦大臣を生んだと書いてあります。もっとも豊浦大臣の名前は入鹿になってますが。 また「参政となり神宮を斎き奉る」とあり「布都姫」とよく似ています。このあたりが不可思議なところで、『旧事本紀』によれば「布都姫」が「神宮を斎き奉った」のは崇峻天皇の時、「鎌姫」が「神宮を斎き奉った」のは推古天皇の時です。

なお「鎌姫」は系譜上は守屋の弟の贄古の娘ですから姪になり、『日本書紀』の記述とは合いません。

太姫・布都姫・鎌姫 2004/11/ 2 23:31 メッセージ: 6197  投稿者: kituno_i

>kituno_iさん。歴史談義する方が面白いですよね。

はい!(*^_^*) 私は歴史談義をすることを目的にトピックを立ち上げましたから。
いつもabenomaroさんの書き込みは、私の古代史への想像力にすごく刺激を与えてくれて、疲れや眠気も吹っ飛んでしまいます。(^_^)/

>「鎌姫」は系譜上は守屋の弟の贄古の娘ですから姪になり、『日本書紀』の記述とは合いません。

「皇極紀」には蝦夷がひそかに紫冠を入鹿に与えていた記事に続いて、入鹿の弟を「物部大臣」と言い、守屋の妹が祖母(馬子の妻)であり、母方の財力によって勢威をふるったことが書かれています。 「母方の財力」ということは、入鹿の母も物部出ということかと思います。

abenomaroさんご指摘の「鎌姫」についてですが、これは、馬子の妻の太姫とは別人で、『先代旧事本紀』のいう「嶋大臣」は「蝦夷」のことではないでしょうか。

物部と蘇我の婚姻関係は蝦夷の代も続いており、蝦夷は守屋の弟・贅古の娘を妻にしていたのではないでしょうか。

『日本書紀』に書かれている入鹿や物部大臣を生んだのが「鎌姫」であり、『日本書紀』と『旧事本紀』に記述の混乱はあるものの、太姫・布都姫・鎌姫が別人であることは間違いないように思えるのですが・・・。

>参政となり神宮を斎き奉る

崇峻天皇時、「天皇の妻として」布都姫がその立場にあったのですから、馬子や太姫にとっては脅威だったように思います。皇子を産めば、物部系の有力天皇候補者になってしまうわけですから。 推古天皇時に「大臣の妻として」同様の立場にあった鎌姫ですが、その子は天皇にはなり得ません。物部に比べれば蘇我は優位な立場を維持することができていたということになるのではないでしょうか。