【日本近代史を知る】世紀の言論弾圧「白虹事件」を解説

大阪朝日新聞(大朝)の記事の中に、寺内正毅内閣批判の一部として「白虹、日を貫けり」という不吉を表す文言があったことを理由に大朝は処罰され、長谷川如是閑らのジャーナリストが退社を余儀なくされた事件。一般に言論弾圧事件として評される。

超然内閣として成立当初から批判に晒されていた寺内正毅内閣は、米騒動に際会する。米騒動は富山の女房一揆を皮切りに瞬く間に全国へ広がったが、当局者が想起したのは、ロシア革命も食糧危機から発生した事実であった。内務省警保局や警視庁がその取締に当たる一方で、政府はマスコミに対して米騒動に関する報道を一切禁じる旨を内相水野錬太郎の名で報道各社に通達した。政府はマスコミに異常なほどに神経をとがらせた。特に、当時最大手新聞社であった大阪朝日に対する目は厳しかった。大朝も挑戦的に、内相通達後にその通達全文を掲載し、
「斯くの如き理由の下に各地の米騒擾に関する一切の記事掲載を禁止せり」

と報じた。政府と大朝の反目は年来のものであったが、それはいよいよ先鋭化した感があった。

その後、寺内内閣を指弾する関西新聞人の会合が大阪中之島のホテルで開かれた。「白虹事件」の発端は、この会合を報じた八月二十六日付夕刊の記事による。曰く、
「食卓に就いた来会者の人々は肉の味酒の香に落ち着くことができなかった。金甌無欠の誇りを持った我大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判の日に近づいているのではなかろうか。『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆が黙々として肉叉を動かしている人々の頭に雷のように響く」

問題となったのは「白虹日を貫けり」という字句であった。この字句は、中国古典からの引用で、白い虹が太陽にかかるのは兵乱が起る不吉な前兆であるという意味である。これに治安当局は噛みついた。大阪府警察部新聞検閲係はその日の大朝を発禁処分にし、この記事を書いた記者大西利夫らを大阪裁判所に告発した。

九月二十五日、第一回公判が大阪区裁判所で開廷された。検察側は大朝の発行禁止処分を求める意向を明らかにし、それに対して大朝は江木衷などの当代一流の弁護士を集めた弁護団を以て対抗した。だが、第一次公判の三日後の二十八日、大朝社長村山龍平が黒龍会系の暴力組織に暴行された上、「代天誅国賊」の布きれを首に結ばれて石灯籠につるされる事件が起った。

同時に、大朝に対する不買運動の盛り上がり(虎ノ門事件の下手人難波大助は当時勤王思想のもちぬしであったが、父親とともに不買運動に参加している)や、諸雑誌の大朝攻撃のキャンペーンが巻き起った。特に「寺内系」と目される『新時代』からの攻撃は痛烈であった。ついに大朝は屈服し、村山社長のほか、鳥居素川編集局長、長谷川如是閑社会部長のほか、丸山幹治、花田大五郎など大朝のリベラル路線をつくってきた鳥居派の記者たちの総退陣となり(この人事の余波は東京朝日にも及んだ)、代って穏健派として傍流にあった西村天囚が編集局長となった。

また、法廷においても、記者大西利夫は禁錮二ヶ月の実刑判決を受けるに至った。しかし、大朝の発行停止処分という最悪の事態だけは避けることが出来た。というのは、第一回公判の直後、寺内内閣は米騒動の引責の形で総辞職し、原敬=政友会内閣が成立していたからである。原(首相兼法相)はかつて幾度も新聞経営に携わったことがあったから、それでこの判決が出たのかもしれないが、ともあれ、あのまま寺内内閣が続いていれば大朝はその生命をたたれた可能性も大いにあった。

その後、「朝日新聞編緝綱領」が大阪朝日、東京朝日に掲載された。また、司法次官と検事総長の合議の結果、検察側は控訴に及ばずとの決断を得て、原法相は上野理一新社長と会談、上野はほぼ全面的にこの事件の非を認めたので、原告・被告とも控訴なしで判決が確定した。

この事件はマスメディアの蹉跌となり、以後、経営者までが先頭に立った政府批判を行う新聞社は姿を消した。