【日本近代史を知る】枢密院の概要を解説

Ⅰ:枢密院の地位・法的根拠

枢密院は、明治憲法第五十六条
「枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス」

にその法的根拠をおく。当初は憲法審議のために設けられたが、この条文によって憲内機関となった。これを推進したのは伊藤博文である。伊藤は、枢密院は憲法変更への障壁として、諸機関の摩擦を調停する際に天皇に助言する存在として、また元勲優遇者を官界にとどめるためのポストとして、枢密院を位置づけていたという。枢密院は天皇に直隷し、政治に関する事項を評議すると同時に、時として皇室内のことも諮詢に答える二面性を有していたことから、宮中職とみなされる。俗に「枢府」と呼ばれ、議長は「枢相」「枢府議長」とよばれた。

Ⅱ:枢密院の官制

条文内の「官制」は、明治21年四月末、
「朕元勲及練達ノ人ヲ撰ミ、国務ヲ諮詢シ、其啓沃ノ力ニ倚ルノ必要ヲ察シ、枢密院ヲ設ケ、朕ガ至高顧問ノ府トナサントス、茲ニ其官制及事務規程ヲ裁可シ、之ヲ公布セシム」

という詔勅とともに公布せられた。

枢密院は議長、副議長各一名、枢密顧問官十二人(のち二十四人となる)以上で構成し、いずれも40歳以上でなければ補任されない。また、閣僚は職権上、顧問官たる地位を持ち、評決に参与しうる。また、成年に達した親王(昭和期においては秩父、高松、三笠の三直宮と閑院宮親王のみであった)も評決に参加できた。

枢密院の事務を管掌するために置かれたのは枢密院書記官長、同書記官などである。

審議は顧問官十人以上の出席がなければ開催されない。

Ⅲ:枢密院の権能

まず、枢密院は「諮詢機関」であって、天皇から諮詢案件を下付されたものに関してのみしか討議することを許されない。

つまり自ら案件をたててこれを政府に執行させるという権能は持っていない。しかし、それでも枢密院は内閣にとって巨大な障壁でありえた。なぜなら内閣が提出した重要法案はほぼ確実に枢密院にかけられたが、内閣閣員が審議に参加できても多数は枢密顧問ら(24人)が握っており、数の上で内閣側がおされていたからである。つまり事実上、国務大臣の輔弼の権能が枢密院によってのど頸を押さえられている形となっており、この制度は批判が大きかった。

しかし、とにもかくにもこの障壁があったから、史上幾度も枢密院と政府は対立している。

もっとも有名なのが第一次若槻内閣の台銀救済勅令案である。伊藤巳代次顧問官は御前で諮詢案のみならず若槻内閣そのものを口をきわめて避難し、「知らぬは亭主ばかりなり」と俗悪な川柳まで引いて若槻ら民政党閣僚らを激怒させたほどである。

さて、枢密院が開かれるに値する憲法上規定されている事項は、

憲法とその周辺法の解釈問題とその他会計上の疑義に関するもの
憲法改正、また憲法周辺法の改正に関する草案
重要な勅令
新法の草案、また現行法の改廃に関する事項、条約の批准、行政組織の改組問題
上記以外に特に勅旨によって諮詢された事案


であったが、のちに、

皇室典範に於いてその権限に属せしめた事項
憲法の条項または憲法に付属する法律勅令に関する草案及び疑義
憲法第十四条戒厳の宣言、同第八条及び第七十条の勅令及びその他罰則の規定ある勅令
列国交渉の条約及び約束
枢密院の官制及び事務規程の改正に関する事項
前諸項に掲げるものの外、臨時に諮詢された事項

 

と改訂されたものの、最終項に関しては漠然としすぎているために、教育制度の基礎に関する勅令、内閣官制に関する勅令、各省官制通則に関する勅令、台湾総督府官制に関する勅令、高等官等に関する勅令、官吏服務規律に関する勅令、文官懲戒に関する勅令、文官試験に関する勅令、文官分限に関する勅令とされた(これは第二次山縣内閣期に政党人の猟官をおそれて行われた措置の裏付けとなった)。

また、枢密院は憲法上国の機関でありながら天皇を輔弼する役割をもつので、皇室の大事の際にも開催され、以下のような場合に皇室会議とともに審議に当たる。

皇位継承順序の変更
太傅の選任・退職(太傅は幼帝選立の際、特別に置かれて教育補導に当たる)
世伝御領に関する事項
皇室典範の改正
皇族の臣籍降下
元号の制定
摂政の決定(摂政は天皇が幼少、女性、病弱の場合に置かれて天皇を補佐する)

ただし、このうち摂政に関する事項は天皇からの下問諮詢がなくとも審議を開催し、決定することができる。

資料:枢密院議長一覧

  就任者名 任期 辞職理由
1 伊藤博文 1888.4.30-1889.10.30 宮中顧問官へ転出
2 大木喬任 1889.12.24-1891.6.1 文相任命
3 伊藤博文 1891.6.1-1892.8.8 第二次内閣を組閣
4 大木喬任 1892.8.8-1892.11.22 辞表奉呈
5 山縣有朋 1893.3.11-1894.12.17 監軍へ転出
6 黒田清隆 1895.3.17-1900.8.25 死没
7 西園寺公望 1900.10.27-1903.7.13 政友会総裁に就任
8 伊藤博文 1903.7.13-1905.12.21 韓国統監任命
9 山縣有朋 1905.12.21-1909.6.14 枢密顧問官任命
10 伊藤博文 1909.6.14-1909.10.26 暗殺
11 山縣有朋 1909.11.17-1922.2.1 死没
12 清浦奎吾 1922.2.8-1924.1.7 内閣組閣
13 浜尾 新 1924.1.13-1925.9.25 死没
14 穂積陳重 1925.10.1-1926.4.8 死没
15 倉富勇三郎 1926.4.12-1934.5.3 辞表奉呈
16 一木喜徳郎 1934.5.3-1936.3.13 辞表奉呈
17 平沼騏一郎 1936.3.13-1939.1.9 内閣組閣
18 近衛文麿 1939.1.5-1940.6.24 新党創立のため
19 原 嘉道 1940.6.24-1944.8.7 死没
20 鈴木貫太郎 1944.8.7-1945.4.7 内閣組閣
21 平沼騏一郎 1945.4.9-1945.12.3 戦犯指名、逮捕
22 鈴木貫太郎 1945.12.15-1946.6.13 辞表奉呈
23 清水 澄 1946.6.13-1947.5.2 枢府廃止