【立憲民政党・党史】創立から戦前まで

1:立憲民政党の創立

憲政会が政友本党との提携のもとに維持してきた第一次若槻内閣は、台湾銀行救済問題で枢密院と衝突して総辞職した。

元老西園寺公望の奏薦によって、後継内閣組織の大命は政友会総裁・田中義一に降下し、もともと憲政会内閣のあとに禅譲を期待していた床次竹二郎本党総裁の希望は挫かれた。挫かれたとはいえ、床次としては今さら政友会にすり寄って禅譲を求めるわけにも行かず、事ここに到っては憲政会との提携を今一歩進めて合同して、それによって政権を伺うほかないと腹を決めた。憲政会としては、

「次期政権は必ず憲政会に来る」

という見通しを持っていたために党幹部は気乗り薄であったが、安達謙蔵などが合同を推進していった。

昭和二(1927)年五月二日、憲政会・政友本党の両党は新党倶楽部を結成。合同への第一歩を記した。

とはいえ、新党倶楽部は明確に党名、綱領を決定し、両党間の意見調整をするための受け皿である。一ヶ月間の間にそれらの事項が検討されたが、大きな摩擦もなく大体において、憲政会の意向に政友本党が同意する形で合同作業は進められていったようである。

さて、もっとも困難と見られたのは、新党党首の選任である。

若槻礼次郎憲政党総裁に就任の呼び声が高かったが、もともと「金のできない総裁」を自認していた若槻はこれを頑なに拒んで、濱口雄幸を推薦した。

憲本両党の幹部もこれに同意し、濱口を説いたが彼は、「健康の面から第一の要素を欠いていると思う」と辞退。若槻もたびたび濱口の居宅を訪ね、

「自分が君を新党の総裁に勧めるのは、難きを避けて君に押しつけようとするのじゃない。新党を作る以上は、練達堪能の士をもって、人心を新たにしなければならないからだ。君を推すのは、全くこの意にほかならない。自分は総裁とならんでも、一党員として、自分のなし得ることは十分尽すから、ぜひ出馬してもらいたい」

と説いた。

また濱口とは高校時代の同級だった幣原喜重郎も、乞われて濱口の総裁就任を説得しに行った。濱口は、

「党の者がそういうなら、それはわかる。しかし君は子供の頃からの友達なんだ。その君がおれに総裁を勧めるのは意外千万だ。そういう不人情なことをいう君じゃないと思っていた」

と言うが、そこで幣原は声を励まして、

「いや、もうそれ以上は言ってくれるな。おれがここまで君にいいに来るには、退っ引きならん決心で来たんだ。君は受けなけりゃいかん!」

と説いた。濱口は数日考え、幣原に副総裁になってくれるなら、総裁就任を受けると話したが、幣原は

「ここでうんと彼をやっつけなければいかん」

と考え、

「そんな条件をつけるのは君らしくもない」と言って、断った。濱口はぶつぶつと怒ったような顔をしていたが、そのときには山本達雄や仙石貢にも総裁就任を説得されていたから、もはや心を決めていたのかも知れない。

同年六月一日、こうした紆余曲折を経ながら、上野精養軒で新党結党式が行われた。党名は「立憲民政党」。若槻、床次などの顧問を控えて新総裁として挨拶のために壇上に立ったのは、のちに「ライオン宰相」として廟堂に立つ、濱口雄幸であった。

2:床次竹二郎脱党、野党としての民政党

民政党が組織され、党機構の整備に忙殺されていた頃、田中義一=政友会内閣は次々といわゆる「積極政策」を実行していた。

まず、若槻内閣が倒れた要因である昭和恐慌に関しては、高橋是清が蔵相となって三週間のモラトリアムを断行、「日銀特別融通及損失補填法」を成立させて休業銀行を審査し、合格した銀行へは預金払い出し資金を日銀が融通する。焦げ付いた場合には政府が日銀に保証するという内容の法令であった。そのモラトリアムの間に大急ぎで大量の紙幣を刷って(そのために片面刷りの紙幣があったとまで言われる)、六億八千万円の特別融資を行い、かくして金融恐慌は一段落を告げた。

これが終ると、いつもの政友会の「積極政策」が開始された。

鉄道振興を軸とするばらまき財政と、対中強硬外交による日本権益の維持・拡大策である。

また、鈴木喜三郎内相による地方官の一掃が行われ、いわゆる親政友会知事が多く起用された。当時の選挙を含む地方政治活動には知事の裁量がおおきく、当時は民選知事でなく、内相が知事の任免権を持っていたから、中央で政友会内閣が成立すれば「我が党知事」を多く任命するのは党勢拡張の意味から言って当然であった。しかし、この鈴木内相のそれは数においてきわめて異例の措置であった。また、鈴木は買収工作にも余念なく、ために彼は「腕の喜三郎」と呼ばれることになる。

この上で政府は解散を打った。第一回普通選挙は民政党にとって相当に不利な情勢が進んでいたといえる。

普通選挙はこれまでの制限選挙とは明らかに違う。選挙権者が天文学的に増えるから、それなりの選挙対策が必要であった。

もちろん、「我党知事」の派遣による対策がもっとも有効であったが、これは与党にしかできない。野党にとっては、党首や幹部の遊説や、パンフレット(宣伝文書)を配布したり、また民政党はこのほかにも貴族院の非政友派(伊沢多喜男、川崎卓吉など)を糾合して「選挙革正会」を組織したりした。

その結果、政友会217議席、民政党216議席。
僅差であった。民政党は29議席減で敗北といえたが、政友会内閣の干渉のもとで善戦したと言える。そして政友会としては、安定した議会多数からはかけ離れた冷や汗ものの選挙結果であり、ここで民政党や中小野党に対する切り崩し工作が激化することになる。

この頃突発したのが、「満洲某重大事件(張作霖爆殺事件)」である。

日本軍の出先機関である関東軍の河本大作大佐が独断で、奉直戦争から敗走する張作霖の特別列車を爆破、張を抹殺したこの事件を公表するかどうかを巡り政治問題化したが、濱口民政党総裁はこの事件の真相をいち早く知っていた。というのも、松村謙三、岸衛らの民政党代議士のメンバーがちょうどそのとき済南方面の視察を終え、満洲に入っていたからである。

松村は林久次郎奉天総領事に会い、その後煙の立つ事件現場にも訪れてほぼ事件の全容を把握したあとで急遽帰国、濱口を訪れてその事件の内容を前後八時間近くに渡って聴取した。本来ならば、政府の隠しおおせたい事件であるからこれを暴き立て、大いに政府攻撃の具に饗すべきところであった
が、濱口はそれを押しとどめ、
「政党政派の間を越える重大問題であるから、この処理は自分に一任してほしい」

と要請した。これを見た桜内幸雄は、「えらいものだ」と感心したという。