文系の雑学・豆知識

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鎌倉時代の文化の特徴を解説

1:鎌倉文化の特徴

鎌倉文化は、平安時代までの文化とは180度異なる文化と言ってもよい。

それはなぜかというと、支配階層が180度変わったからだ。

平安時代までの支配階級は天皇を中心とした貴族なのだから、豪華ではなやかな文化(悪く言えば、華やか過ぎるなよなよした文化)であった。

しかし、鎌倉時代には、農民あがりの武士たちが支配階級になった。そのため、戦争を生業(なりわい。仕事のこと。)とする武士たちが豪華さを好むわけもなく、また小難しい文学作品を書くわけもなかった。だから、武士たちは、質素で力強い文化を好んだ。

鎌倉文化を学ぶ上で気をつけなければならないことがある。それは、2つの階層による文化があることだ。

1つは武士の質素で力強い文化

もう1つは落ちぶれた貴族が自分たちが栄華を極めた昔を思い出してつくった文化

である。2つ階層の文化を分けて考えるとわかりやすいでしょう。

2:鎌倉文化の作品

① 武士たちの質素で力強い文化

武士たちは、武家造という質素なつくりの家に住み、農業をやりつつ、剣術の練習をして暮らし ていた。

以下に武士たちの質素で力強い文化の例を挙げる。

東大寺南大門の金剛力士像(こんごうりきしぞう)(奈良市東大寺内)

盛り上がる筋肉ムキムキの仁王像(入り口を守る力強い神の像)で、運慶(うんけい)と快慶(かいけい)の作品。

流鏑馬(やぶさめ)・笠懸(かさがけ)・犬追物(いぬおうもの)

3つとも、武士の軍事訓練のために行った武芸のことである。流鏑馬(やぶさめ)は、馬に乗って走りながら的を矢で射るもの、笠懸(かさがけ)は笠(昔話『かさ地蔵』で地蔵がかぶった笠の方。雨のときにさすものでない。)を的にして、馬に乗って走りながら矢で射るもの。犬追物(いぬおうもの)は、馬に乗って走りながら放たれた犬を追って犬を矢で射るもの。現在でも、流鏑馬は、京都市の下鴨神社で行われる。

鎌倉新仏教

平安時代の末期から鎌倉時代にかけて戦乱が相次ぎ、人々は不安と世の中のはかなさを感じた。

文字を読めるのは貴族だけであったので、文字が読めない武士や農民には平安時代の仏教で行っている写経(しゃきょう:仏教の本を読んで、お経の文字を写す)などは難しい。そこで、武士や農民にもわかりやすい仏教の宗派(考え方)が編み出された。

・念仏(南無阿弥陀仏)を口で唱えれば極楽浄土(天国)に行ける。→浄土宗(法然)
・念仏(南無阿弥陀仏)を口で唱えれば極楽浄土(天国)に行ける。+悪を自覚することで救われる。→ 浄土真宗(一向宗)(親鸞)
・念仏を口で唱えれば極楽浄土(天国)に行ける。+ 念仏踊り(盆踊りのようなもの)をする → 時宗(一遍)
・念仏(南妙法蓮華経)を唱える。商人に支持される。 → 日蓮宗(法華宗)(日蓮)
・座禅をすることで自らのさとり(自分が何者か知る)を開く。→ 曹洞宗(道元)
・座禅をすることで自らのさとり(自分が何者か知る)を開く。+ 幕府の保護を受ける。→臨済宗(栄西)

円覚寺舎利殿(えんかくじしゃりでん)(神奈川県鎌倉市)

宋から伝えられた禅宗模様を施した舎利殿(しゃりでん:仏舎利(仏陀の骨)を置く場所)。円覚寺は、北条時宗が建てた臨済宗の寺。

②貴族が昔をしのんでつくった文化

武士による政治形態である鎌倉幕府が出来ても、貴族たちは京都に残りほそぼそと生きた。 貴族たちは平安時代までの貴族の優雅文化を誇りに思っており、昔を懐かしんだ文化をはぐくんだ。

新古今和歌集(藤原定家(ふじわらのさだいえ)たちが編集

後鳥羽上皇(承久の乱をおこしたことで有名)の命令を受けて、つくった勅撰和歌集。 日本人になじみが深い小倉百人一首の選者である藤原定家が編集した。 技巧をこらしたせんさいで優美な歌が多い。主な歌人に、藤原定家や西行(保元の乱の原因をつくった 鳥羽上皇に仕えた武士で後に出家した僧)、後鳥羽上皇などがいる。 

③軍記物&随筆

『平家物語』

語り:琵琶法師  作者:不明(信濃前司(しなののぜんじ)行(ゆき)長(なが)という説がある。)

平安時代末期の、平氏の栄華と衰退そして滅亡を描いた様子。 戦いに生きる武士の悲しさと戦いによって生き方を変えられしまう女性や 子供たちの悲哀を描いた情緒的な軍記物。戦争がおわり、今まで世界が一変した鎌倉時代に、 無常感(この世はつねに同じことが続かないという気持ち)を感じる人物が出てきて、それを随筆に 残すようになった。

『徒然草』吉田兼好(兼好法師)

天皇に仕え、天皇が亡くなった後で出家をした兼好法師が、 この世の無常感についての随筆を残した。

 『平家物語』について

一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦い・・・これらはすべて、源氏と平氏の戦いの通称です。平治の乱の後に平清盛は太政大臣になり、平氏は隆盛をほこります。

しかし1185壇ノ浦の戦いで、源氏によって平氏は滅亡にいたります。

一気にのし上がり、一気に滅亡した平氏たちにはどんなドラマがあったのでしょうか?1つのドラマを紹介します。

ある夜、遠くから美しい笛の音が聞こえてきました。源氏側についていた、熊谷(くまがい)という人物はこの笛の主にぜひ会いたいと思っていました。そして後日、熊谷はその笛の主に出会います。しかし、その笛の主は敵であった平氏の男性であったのです!熊谷は、その笛の主(平敦盛:たいらのあつもり)が自分の息子と同じぐらいの年齢であることを知り、彼を殺すか否か悩みます。普通なら命乞いをするでしょう。しかし、平敦盛は自分は戦いに負けたんだ、正々堂々と自分を殺せと言い放ちます。そして熊谷は泣く泣く敦盛を殺します。熊谷は、戦争の悲劇や矛盾を感じてその後出家をすることになりました。

こでだけでなく、『平家物語』には平氏・源氏たちのさまざまなドラマが描かれています。

戦争の悲しさ・人生の無常さを『平家物語』はドラマチックに表わしているのです。