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エルサレム神殿の構造、しきたり、歴史を紹介

1.エルサレム神殿の構造

 

ソロモン神殿(第一神殿)

紀元前10世紀、ソロモン王が建設した神殿を、後代では第一神殿と呼ぶ。神殿は長さ約26.4m、巾約8.8m、高さ約13.2mの大きさで、手前に玄関、側面には脇屋が設けられ、建物の外には内庭があった。神殿内部は手前の2/3が本堂、奥の1/3が内堂(至聖所)。神殿の床はもみの木の板、天井と壁は杉の木の板、本堂の入口はもみの木の扉、至聖所の入口はオリーブ材の扉、壁と扉には彫刻が施されて、床から天井に至る内側はすべて純金で覆われ、至聖所におかれたオリーブ材で作られた2体の天使ケルビムも純金で覆われていた(契約の箱)。その大きさは、高さ4.4m、その翼の大きさがそれぞれ2.2mで両翼が壁に届いてたと言われる。BC586年、バビロン帝国ネブカデネザル王によりユダ王国ゼデキヤ王はバビロンに連行され、神殿も跡形もなく破壊された。

第二エルサレム神殿

BC587年、南ユダ王国がバビロニアに滅ぼされ、王や有力者たちは家族・使用人共々捕囚として連れ去られたが(バビロン捕囚)、BC538年にペルシャ王キュロスがイスラエルを解放し、エルサレム神殿の再興を布告する(エズラ記1章2節)。神殿基礎工事は近隣の住民(サマリヤ人)との共同建設を断った事で反感を持たれて、総督の妨害で工事が一時中止される。18年後、ようやくダレイオス王治世下で神殿工事は再開された。神殿再建の背景に、ダビデ王家再興という政治的独立が企まれていた事で、責任者(シェシュバツァルだったと言う説もある。第二イザヤの苦難の僕のモデル、反逆事件の秘匿として匿名になっている。ダビデ王朝再興は挫折した)は殺されたようだ。

ダレイオス王治世6年、紆余曲折した城壁を伴った神殿はようやく完成をみた(BC515年)。待望の神殿完成を祝い、盛大な奉献式と過越しの祝いを行っている。ついで、ペルシャ王アルタクセルクセスⅠ世の宮廷書記官として、ユダヤ人問題担当のエズラは王の親書を受けてエルサレムに帰還する(BC458)。律法を中心とした民族の秩序化がその使命だった。続いてネヘミヤの宗教改革が始まる。総督ネヘミヤのもと、書記官・祭司のエズラは律法の書(おそらく、捕囚の地で書かれた原モーセ五書)を広場で公開し、レビ人がアラム語に翻訳・解説して読み上げると、民は律法の言葉を聞いて感泣し、七日間にわたり仮庵祭を祝ったとある。最後にネヘミヤの改革の総括として、混血者と異邦人実力者の追放と排除、レビ人の生活保証と安息日の厳守、雑婚者の追放などの民族浄化(注)を行っている。

(注)民族の浄化、地の民と絶縁(エズラ記10章29節):当時「地の民」と呼ばれる残留ユダヤ人は貧民化し律法祭儀を守れない事、また混血したとされたサマリヤの影響で異教化されていたおそれがあり、ネヘミアは民族浄化作戦を行った。古代ユダヤ教は捕囚帰還民が形作った事が分かる。この時代よりイエスの時代まで、地の民は「アム・ハ・アレツ」と呼ばれ、律法の外の下層民として差別の対象となった。また、サマリアはBC200年頃エルサレム教団より独立分離し、モーセ五書のみを正典とするサマリヤ教となる。サマリアはイエス時代にもエルサレム・ユダヤ民から敵視されていた。

 

 

 

2.エルサレム神殿の一日

  拡張前の神殿構造、拡張後も形式は同じだが周囲に部屋が追加されている

 

神殿での日々の礼拝は夜明けと共に始まる。係りが「祭司たちよ、礼拝へ。レビ人よ、高台へ。イスラエル人よ、代表(神殿で奉仕するために定期的に全国各地からエルサレムにやってくる奉仕者・マアマドート)たちのもとへ」と大声で告げる。その声で地下の炉床の間で休んでいた祭司達は目覚め、生贄の準備を行う神殿監督者の到着を待つ。その間、夜間燃え尽きた犠牲の生贄の灰を取り除く者をくじで決め、次に炉床の間から祭司の庭に出て、二組に分かれた祭司達は什器が所定の場所にあるかどうか、不浄な骨や汚れが無いかを確認し、祭壇の灰を取り除き、木材の束を置く。そして祭壇の南側に隣接する切石の間に集合し、その日の犠牲の祭儀の分担をくじで決め、くじに当たった者は、手足を洗い潔め、礼拝が始まる夜明けを待つ。監督者が到着し「夜が明け一日が始まった」と告げると、礼拝が開始となる。聖所を清掃し、燭台の手入れをし、香の祭壇の灰を掃除し、聖所の扉を開け、他の者は犠牲の小羊を取りに行く。聖所の扉が開かれる事は、全焼の犠牲が屠殺される礼拝が始まった合図であった。この後、祭司は香をたく役を決めるくじを投げ、香がたかれる間、人々は聖所の前にあるイスラエル人の庭に集まって祈りを捧げる。香をたく儀式が終わると、全祭司が聖所に入って平伏し、ついで外に出て、人々に祝禮を授けるために入り口の段の上に立つ。その後、犠牲の動物の肉の一部が奉献され、大祭司の奉献物として供えのパンが捧げられ、二人の祭司が二回ラッパを吹き鳴らし、祭司が献酒を用意すると布切れを振って合図が送られ、レビ人たちが楽器に合わせて詩篇の一つの章を歌う。雄羊の角笛を吹くので、吹かれるたびに人々は平伏する。献酒が終わって朝の礼拝は終了。午後も同様に、生贄の子羊を祭壇で全焼にする。その間、自発的な生贄、義務付けられた犠牲が捧げられる。生贄の動物を屠殺する作業は忙しく、おびただしい血が流れる排水溝が設けられていた。異邦人の庭ではトーラーを教える者、それを聞く者がいたし、聖書塾(ベイト・ミドラシ)が内庭と王の柱廊の間に置かれていて、塾外でもファリサイ派の賢者などがこの広大な内庭で教えを説いていた。

3.都市としてのエルサレム

 

エルサレムは、ユダの丘陵地帯に聳え立つエブス人が住む丘に、ダビデ王が拡張して町が造られ、標高約750mもある高原都市となった。地中海からは60km、死海(海抜マイナス)からは西20kmに位置し、緯度で言えば鹿児島市あたりに位置する。丘陵の地質は淡黄色の石灰岩、土壌は赤味を帯びている。夏は乾期で気温は28度、冬(11月~3月)は雨期に当たる。南にはネゲブ砂漠が迫り、死海周辺は砂漠や荒野が広がる乾燥地帯であったので、古代から地下貯水槽に水を貯蔵したり導水管などが作られた。数カ所に泉が湧いている。紀元前後の城壁に囲まれたエルサレム市街は、現在の旧市街に比べて南側に大きく広がっていた。南北約1.5km、東西約1kmくらいだったと推定される。ヘロデ大王(在位BC37~BC4年)は、民の歓心を買うために市街地や神殿の大改修を計画し、イエスが亡くなった後でも拡張が続けられ、人口も6万人までに増えている。東側にキドロンの谷、南から西側にヒンノムの谷が深く囲んでいたので、天然の要塞でもあった。市街地の中央には、南北にテュロペオンの谷が走っていた。その東側に神殿の丘とダビデの町があったオフェルの丘、西側にはシオンの丘があった。シオンの丘の最も高い所に「ヘロデ王の宮殿」が建設され、宮殿北側には45mの「ファサエル(兄の名)の塔」、4mの「ピッピコス(友人の名)の塔」、35mの「マリアンメ(妻の名)の塔」が要塞の役目を果たしている。宮殿の門前に広場(市場、アゴラ)が設けられ、これを囲んで上流階級の邸宅が建ち並び、南側に大祭司カイヤファの官邸があったが、マルコの実家とダビデの墓がこのすぐ南側にあった、これら一体は「上の町」と称された。庶民の住む町は、中央のテュロペオン谷に沿った場所で「下の町」と称され、その北側には市場があり、南側には庫群や職人の町などと共に、通用門として糞門があった。

 

ヘロデが大改修した神殿の丘は、高い石垣(西側485m、南280m、東460m、西315mの四角形)の上に構築された。現在でもその区画だけは残り、一部残った南西部の石垣が「嘆きの壁」としてユダや教徒の祈りの場になっている。神殿は四方に種々の門があり、西側には二つのアーチ橋が架けられ、ここからも出入りができた。神殿は列柱回廊で囲まれ、南を除く三面が「ソロモンの回廊」と呼ばれ、南の二階建ての回廊だけが「王の柱廊」と名付けられていて、イエスが商人を追い出したのはこの柱廊の地下と推定されている。紀元70年のユダヤ戦争で破れ、ローマ軍がエルサレムを占領したために、神殿は徹底的に破壊されてユダヤ人が住めない時代が長く続いた。その後、エルサレムはローマ風の都市に造りかえられたが、ビザンチン時代になると大きな教会が幾つも建てられた。イスラム支配時代、何度も破壊と建設が繰り返されて、嘆きの壁以外はほとんど失われた。古い時代の地表は、現在より数メートルから十五メートルの地下に眠っている。

 

 

最後の晩餐があった場所は、伝承では福音書著者マルコの実家の2階とされる。上図(エルサレムの概略図)の赤い四角の所で、大祭司館とは目の鼻の先になる。クムラン宗団の建物が地震で倒壊した際、一時的にエルサレムに本部が置かれた邸宅が、マルコの実家だとされる。使徒言行録でペトロが逮捕され牢獄に入り脱出する話があるが、その時、脱出したペトロは、夜マルコの母の家に行っている。記述ではかなり大きな家のようで。多数の信徒が集まっていた。マルコの実家が、ペトログループ(使徒グループ)の集会所だった可能性が高い。マルコの実家の南に、後にエッセネの門と言われる門がある。名前の通り、この近くにエッセネ派のエルサレムでの集会所と墓があったようだ(死海文書からの推理)。エッセネ派とファリサイ派から、エルサレム・キリスト教団に参加した信徒がかなりいたと推測されるので、イエスの弟ヤコブグループ(律法を遵守する、母マリアとヤコブの兄弟を含む親族グループ)の集会所も、この門の近くだったと思われる。

4.エルサレムの人口

イエス時代のエルサレムの人口がどれほどであったかは学者により違いが大きいが、推定4~5万人であったと思われる(下の表を参照)。これから考えると他に日々の参拝人・交易商人・見物人や郊外に住む祭司などもいたから、通常の日中の人口は6万人前後と言ったあたりだろうか?祭司および神殿職員は7000人いたと言われる。ファリサイ派は4000人とも、在家のエッセネ派は千人弱とも。家族を含めれば、両者でエルサレムの人口の7~8割近くを占めた?まさに神殿都市、宗教都市で、しかも難攻不落に近い城砦都市であったわけだ。

B.C. 610年
バビロニアの征服以前のユダヤ人による統治時
20,000人
A.D. 10年
ヘロデ王のもとでのユダヤ人による統治時
35,000人
A.D. 65年
ローマによる征服直前のユダヤ人による統治時
50,000人
A.D. 638年
ビザンチン帝国下のキリスト教徒による統治時
60,000人
A.D. 1050年
イスラム教ファティマ朝の支配時
20,000人
A.D. 1180年
十字軍のキリスト教支配下時
30,000人
A.D. 1690年
オスマン=トルコによる統治の初期
10,000人
A.D. 1910年
オスマン=トルコ朝後期におけるユダヤ人移民時
75,000人
A.D. 1946年
イギリス委任統治末期(クリスチャンの支配)
165,000人
A.D. 1967年
エルサレムの統一(ユダヤ人支配下)
250,000人
A.D. 1999年 イスラエル国勢調査結果(ユダヤ人支配下)
633,700人

 

しかし、祭りとなると一変してしまう。民族の歴史として毎月のように祭りがあるが、三大祭時には、パレスティナ以外のディアスポラ(離散)ユダヤ人も訪れるので、その数は最大10万を超えるとも言われ、住民と併せるとおよそ最大時には15~16万近くの大都市に変化する。城壁都市なので、全部が宿泊するのは不可能で、近隣の村々や周辺の山間に天幕を設置して泊まった。 三大祭りである過越祭(ペサハ)、7週の祭(シャブオット、キリスト教ではペンテコステ)、仮庵祭(スコット)の時の神殿の手続きは、他の祭儀と異なり、全焼の犠牲や日々の決められた儀式以外に、巡礼者が犠牲を捧げる時間が設けられていた。巡礼者の犠牲は通常小羊だが、貧しい者や女性は鶏や鳩を捧げた。そのために、犠牲の灰を取り除くのは第一夜警時(ローマ風の時間の言い方。ユダヤ人は日没後からは翌日としていた。この場合は夜の夜6~9時頃を指す)で、真夜中に神殿の外門が開かれるので、夜明け前ごろ(ローマ風に言えば第四夜警時)には神殿の内庭はイスラエル人で一杯になった。広場の南側にある「王の柱廊」(恐らく地下)では、雄牛や羊、籠に入った鳩など犠牲動物を売る商人や、ローマ貨幣(皇帝の肖像が刻印されていて偶像とされた)をユダヤ貨幣に交換する両替商で混み合っていた。

神殿の庭には、イスラエルの町々と離散した地からやってきた賢者、思想家、自称預言者、幻を見る者などが人々に向かって訴えかける。誰かに何かを訴えたいものや、公共の場で話をしたい者はみなエルサレムに集まってきた。祭り日には、神殿の支配権がサドカイ派の大祭司の手から、ファリサイ派の指導者や賢者の教えに従う何千と言う人々の手に委ねられた観があったと言われる。またこの期間中は、町にいる人々と神殿にいる人々の間の接触が容易になり、巡礼者への配慮で律法の不浄に関する規定が幾分緩められた。イエスが祭りに際して神殿に乗込んだのは、多数の人々との接触が容易である、教えを説く事も十分出来る、律法の規定を厳格には押し付けられない、警備の目が届くにくい等、好条件が揃っていたからではないか。

5.神殿貴族の腐敗

大祭司・上級祭司一族は、更に神殿の奉仕に規定されている動物を売ることにより、更に富を蓄積した。大祭司などの神殿貴族の破廉恥ぶりは後のタルムードにもあり・・・祭司に支払われるべき十分の一税を手に入れようとして、あつかましくも奴隷を地方の脱穀場に送り込み、税を強制徴収して懐に入れた、その結果、貧しい祭司は飢えに苦しむ一方だったと。牛・小羊・家禽・その他の生物の大規模売買と囲い入れ、および神殿の大祭司に仕える収入役や管財人の支配下になった「王の柱廊」の地下での両替行為・・・つまり動物や両替をしていた商人=大祭司系の人間であったと言う(タルムード・メマホート)。

共感福音書の著者は、神殿についての確かな知識を持っていなかったと思われる。神殿の中(異邦人の庭)で両替商や動物を売っているようなニュアンスで記述しているが、これは勘違い。神殿の庭を含めて平地は神殿の一部であり、そこでの商行為は禁じられていた。ヨハネは神殿で、とだけ書いているが、これは神殿の王の柱廊の中(地下)でと言う意味だろう。柱廊の地下はギリギリ神殿外と見做されていた。エルサレムに関しての慣習や祭りの状況については、ヨハネ福音書の記述はかなり正確と思われる。エルサレムにおける大祭司寡頭政治、とりわけ神殿や一般の人々に対する厳しい支配についても、タルムード伝承が紀元後1世紀の2人の賢人の名で伝えている。

 

ボトニスの子アッバ・サウルにより、ヨナハンの子アッバ・ホセはよくこう言った。(括弧内は私のコメント)

ああ、悲しいかな、ボエトス家のゆえに。ああ、悲しいかな、彼らの杖のゆえに。(杖で民衆を叩き、殺害された者もあった)
ああ、悲しいかな、カトロス家のゆえに。ああ、悲しいかな、彼らの囲いのゆえに。(神殿商取引であくどく富を築いた)
ああ、悲しいかな、ハナン家のゆえに。ああ、悲しいかな、彼らのひそひそ話しのゆえに。(あくどい陰謀家、策士家)
ああ、悲しいかな、ファビの子イシュマエルのゆえに。ああ、悲しいかな、彼らのこぶしのゆえに。(民衆に暴力を振るった)
ああ、悲しいかな、大祭司とその息子たちは神殿の収入役であり、その義理の息子達はその管財人であり、その家僕は人々を杖で殴るからだ。(大祭司一族の腐敗を嘆く)


上記の歌の大祭司家に関する資料(とりあえず調べてみたが、正確かどうか・・・)

 

(エル)ハナン家
* アナヌス・ベン・セツ(アンナス、AD6-15):老練な陰謀家。巧妙な手段で、神殿経済体制を崩壊させる恐れがある洗礼者ヨハネとイエスの二人を葬る。ペテロたちを雑魚の集まりと思い込んだ事から歯車が狂う。イエス死後、強敵がいなくなっために監視体制が緩み、原始キリスト教団が生まれる結果を招いた。AD62年まで権勢を誇る。
* エレアザル・ベン・アナヌス(AD16-17):アンナスの5人の息子の一人
* ヨセフ・カイアファス(カヤパ、AD18-36):イエス時代の大祭司として聖俗双方の権力を握るが、実権は義父のアンナスが掌握していた。
* ヨナタン・ベン・アナヌス(AD36-37、AD44):アンナスの息子の一人
* テオフィルス・ベン・アナヌス(AD37-41):アンナスの息子の一人
* マッテアス・ベン・アナヌス(AD43):アンナスの息子の一人で、ユダヤの地がヘロデ・アグリッパ王の統治下に置かれた際に大祭司となる。アグリッパの命令を利用してエルサレム教会に迫害を加えようとした。
* アナヌス・ベン・アナヌス(AD63):アンナスの息子の一人。エルサレム教団首座のイエスの弟ヤコブを処刑

ボエトス家
* シモン・ベン・ボエトス(BC23-15)
* アザル・ベン・ボエトス(BC4)
* ヨアザル・ベン・ボエトス(AD6)
* シモン・カトロス(カンテラス)(AD41-43):サンヘドリン議会を牛耳るアンナス家にとって不倶戴天の敵であるボエトス家の当主。イエス死後の情勢の変化をボエトス家再興に向けた。
* エリオネウス・ベン・シモン・カンテラス(AD43-44)

ファビ家
* ヨシュア・ベン・ファビ(BC30-23)
* イシュマエル・ベン・ファビ(AD15-16)
* イシュマエル・ベン・ファビ(AD56-62中断あり)