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なぜ日本人は宗教嫌いなのか?現代日本人の「無宗教」・「宗教嫌い」の理由を考える

現代日本人の「無宗教」と「宗教嫌い」

世界の宗教の信者の概数。一般にキリスト教・イスラーム・仏教は世界三大宗教、特定の地域や民族の宗教は民族宗教と呼ばれ、ユダヤ教・神道・ヒンドゥー教などがある。これら宗教には実際には様々な分派が存在する。また、現在においても新宗教(新興宗教)が起こっている。

キリスト教 約20億人(33.0%)「カトリック約10.2億人、プロテスタント約3.4億人、正教会約2.4億人、その他教派約3.9億人」
イスラーム約 11億9000万人(19.6%)
ヒンドゥー教 約8億1000万人(13.4%)
仏教 約3億6000万人(5.9%)
ユダヤ教 約1400万人(0.2%)
その他の宗教 約9億1000万人(15.0%)
無宗教 約7億7000万人(12.7%)

1.日本人の宗教

日本における宗教の信者数は、文部科学省の宗教統計調査で神道系が約1億700万人、仏教系が約9800万人、キリスト教系が約300万人、その他約1000万人、合計2億900万人で日本の総人口の2倍弱になる。統計調査はアンケートで行うため、自団体の信者数を多めに申告する傾向があるようだ。

神道・仏教

日本では神道・仏教の信徒が大多数を占め、七五三・初詣・季節の祭りを神社で行い、江戸時代の寺請制度の影響で葬儀を仏教式で行うなど、複数の宗教にまたがって儀礼に参加している。キリスト教では洗礼を受けた時点でその宗教の信者とされるが、日本ではその宗教の神を拝めば信者とみなされるようだ。一般的にどの宗教・宗派を信仰しているかはさほど重視されず、また個々人も信仰を殊更に意識する事が少なく、実生活上で不都合もほとんどない。日本では長く神仏習合が行われたため、明治初期に神仏分離がなされた後も、神道と仏教の間の区別には曖昧な面が残っている。例えば、神棚を祀っている家庭には仏壇がある事が多く、仏教寺院の檀家であると同時に神社の氏子でもある事が多い。神道を信仰する者と日本の仏教に帰依している者を合わせると2億人を超える理由のようだ。歴史的に見ても、神道と仏教はその機能を分担しており、両者を合わせて一つの宗教観を構成しているとも言える。

キリスト教

最初にキリスト教が伝わったのは、1549年のイエズス会のフランシスコ・ザビエルによる布教。カトリックがほとんどで、当時まだ新興であったプロテスタントはほとんどいなかった。各地の大名は、最新の知識や技術を持った彼らヨーロッパ人たちを基本的に歓迎し、キリスト教も比較的スムーズに広まり、大名の中にはこの新しい思想に惹かれて入信した者もいた。しかし、サン・フェリペ号事件などの事件を切っ掛けに権力者から忌避されるようになり、豊臣秀吉によって禁止された。江戸時代は鎖国政策が敷かれたため、国内のキリスト教は完全に衰退した。明治政府も当初は禁教政策を引継いだが、1873年制限付き布教が認められ、1889年大日本帝国憲法において信教の自由が明文化された。第二次世界大戦以降はほぼ完全な形での信教の自由が保証された。現在、キリスト教の文化は日本の文化に様々な影響を与えているが、キリスト教の実質信徒数はカトリック・プロテスタント・正教会の全てを合わせても、日本人全体の1%未満と推定される。欧米等のキリスト教文化圏と比較して著しく低く、近隣アジア各国と比較しても異例に低い(特にプロテスタント)。

儒教

宗教として意識されることは少ないが、葬儀・死生観を中心に大きな影響を残している。先祖霊などの観念は、現在では仏教に組み込まれているが、本来は仏教哲学と矛盾するもので、古来の民間信仰と儒教に由来する。位牌・法事など先祖供養に関わる重要な習慣が儒教起源。思想、道徳としての儒学は支配階級を中心に学ばれ、明治以降は一般庶民にも直接・間接に影響を与えた。

新宗教

明治時代および第二次世界大戦後に、日本国内で様々な新宗教・新新宗教が登場した。新宗教は現在においても新たに作られており、あまりに数多くの宗教が発生した為に、どの宗教も大量の信者を獲得しているとは言い難い。そうした新宗教の中には、一部の国からカルト宗教のレッテルを貼られ危険視されている宗教団体もあり、国内でもこうした新宗教団体や信者が関与していると思われる犯罪やトラブルが起こった。

その他の宗教

日本国内に外国人主体の宗教施設を持つ教団は複数確認され、それらの宗教を信じる人たちとの結婚などで改宗した人たちも存在する。世界的に有名な外来宗教では、イスラム教信者が約12万人、バハーイー教信者が約1万2000人、ヒンドゥー教信者が約5000人、ユダヤ教信者が約2000人、シク教信者が約2000人と言われる。日本は、韓国同様、アジアでは最もイスラム教が普及していない国のひとつであり、現地人(日本人)が主体になって運営されているイスラム教組織や、宗教施設はほとんど存在しないようだ。

 

日本において宗教団体は、宗教法人として法人格を得る事が可能。宗教法人の認証は、宗教法人法に基づいて行われており、主たる事務所の所在地を管轄する都道府県知事が行う。但し、他の都道府県内に境内建物を備える場合や他の都道府県内にある宗教法人を包括する宗教法人の場合などは文部科学大臣が認証を行う。認証の後、事務所の所在地において設立の登記をする事で成立する。ただし、民間信仰や新宗教などの宗教団体の中には法人格を得ていない場合も多い。2006年の時点で、日本には、神道系88788団体、仏教系85994団体、キリスト教系9330団体、諸教39858団体が存在している。

2.現代日本人の「無宗教」意識

2012年アメリカの調査機関「ピュー・リサーチ・センター」が発表した調査結果では、日本人の57%が無宗教で、36.2%が仏教徒、日本は世界4位の無宗教国家となっている。世界全体の無宗教11億人のうち中国が7億人を占めている。無神論・唯物論を国是とする中国(民間信仰21.9%、仏教徒18.2%)の無宗教52.2%よりも、日本の無宗教の比率の方が高い。無宗教は概して特定の宗教を信仰しない、または信仰そのものを持たないという思想・立場を指す。無宗教はしばしば無神論と混同されるが異なる。狭義の無神論は神が存在しないとする一種の思想であり、それを積極的に主張する。一方、無宗教とは宗教的主張がない事であり、神の存在を必ずしも否定しない。無宗教者の中には神に類する超越的存在を認めている者もいる。 日本においては神道における「八百万の神」が潜在的に根付き、いわゆる多神論的な環境となっているが、その中で「唯一の神」が存在しない事を積極的に主張する論理もある。無宗教が成立するには・・・(1)信仰を持たない自由を含めた信教の自由が保証されている国家で、居住環境周辺の共同体により特定の信仰を強制されない、あるいは回避しても社会的な制裁を科されない生活が保証され周知されている、(2)特定の宗教や信仰に傾倒ないし取込まれるのを能動的に避けるには、広範な知識や教養を得られる環境を必要とする・・・とする意見もある。

 

 

2005年の日本新聞社の宗教に関する世論調査では、「宗教を信じていない」が75%で「信じている」を選んだ人は23%だった。1979年の調査の「信じている」34%と比べて11%も減っている。「神や仏にすがりたいと思ったことがあるか?」に関しては54%の人が「ある」と答え、44%の人が「ない」と答えた(宗教を信じていないを選択した人でも47%があると答えた)。「幸せな生活を送るうえで宗教を大切に思うか?」に関しては35%の人が「大切に思う」を選び、60%の人が「思わない」を選んだ。現代の日本人の大多数は、実際にはいわゆる宗教儀礼に参加してはいるが、特定の宗教組織に対する帰属意識は薄く、自分のことを「無宗教」と考える日本人も多い。これは日本人が神や仏を否定しているわけではなく、何かしらそれなりに信じているが(何とはなしの信仰心)、特定の宗教組織に全人格的に帰属してはいないという事になる。平安時代から明治維新以前は、浄土真宗を除き神仏習合が一般的で、神道と仏教が分けられない場合が多かった。寺院内に鳥居があったり、八幡大菩薩と神社の神を菩薩の呼び名で呼ぶ例などに名残を見るが、どの時代にも熱心な仏教信者がいた。江戸時代にキリシタン取締と戸籍管理を目的とし、仏教宗派のいずれかの寺院か、神社への帰属が義務付けられ、様々な習慣が生まれたが、今は希薄となっている。七五三や結婚式が神社で行われるようになったのは明治以降。

二宮尊徳の話をまとめた「二宮翁夜話」に次の譬え話が書かれている。

世の中に本当の真理はただ一つしかないが、その真理に近づく入り口はいくつもある。仏教、神道、あるいは仏教でも天台宗、浄土宗、浄土真宗、禅宗などいろいろあるが、これらは何れも一つの真理へ到達するための道に付いている沢山の入口の名前に過ぎない。例えば富士山に登るのに、吉田から、須走りから、須山から、それぞれ登れるが、最終的に頂上に至れば同じ所である。これを、違う目的に到達できる別々の道がある、と考えるのは誤りなのだ。入り口が幾つかあっても、最終的に到達する場所は同じ一つの場所なのだ。ところが世の中では、これらを別々な道であると言い真理が幾つもあるかのように解釈されがちなのだが、もともと仏教思想は紀元前に一人のブッダ釈尊によってとかれたもので、そうして顕された沢山の教義のなかから根本経典を選び出し、それぞれの宗派に分かれて守り伝えていっているに過ぎないのだ

このように過去の日本には、多神教・多元主義が違和感がなく定着していた。

現在、日本人で自覚的に信仰を持っている大学生は数%しかいないとの集計がある。途上国ではキリスト教の宗教人口が増えているが、西欧では(宗教に無関心というわけではないが)教会離れがかなり進んでいる。日本人は習俗化した宗教行為とは深く関わっていて、年中行事や参詣は今でも続けられ、占いやお守りの効果を信じている人も少なくない。また、自然への畏敬の念は強く、原初的な自然信仰を持っている人もいる。 これらの事から、現代日本人は「何とはなしの信仰心」を持っている事が分かるが、多くの人が宗教に無関心であるか、宗教に悪いイメージを持っている。何故、現代日本人は自らを無宗教だと考えているのか。一つには、現代日本人の宗教性は古来からの自然宗教(自然発生した宗教)であり、宗教(religion)が前提としている創唱宗教(創始者がいる宗教)とは質が違うからだとも言われる。そのため、現代日本人は自然宗教には親しんでいても、創唱宗教とは縁遠くなっていると考えられているようだ。

3.日本人の「無宗教」・「宗教嫌い」の理由

芥川龍之介は、日本にいくら宗教を根付かせようとしても無理なのは、日本が古来から八百万の神を崇める神道などに見られる独特の宗教観を持つからで、釈迦もイエス・キリストも日本にくれば神々の一人という扱いになる、といった主旨を「神神の微笑」の登場人物に語らせている。また同時に、日本人が海外の思想に変化を加えて自分のものにする様子を「造りかへる力」とも表現している。

井沢元彦は、日本には無意識の強烈な「怨霊」信仰と、怨霊を発生させない「和」への信仰があり、神道はその上に成立し、仏教も結局は怨霊を鎮魂する為の道具として活用されたと解説している。来日した外国人や熱心な宗教信者となった日本人は、日本人が無意識の内に「和」を至上のものとする思想を持つと言う(和をもって尊しとする精神)。排他性が極めて強い宗教は、大多数の日本人には受入れられない。江戸時代における檀家制度(寺請制度、寺檀制度)により、血縁原理による結びつきで檀家とされるようになり、仏教の布教等の努力の要をなくし、僧侶の切磋琢磨する機会を奪った。僧侶は還俗するようになり、葬式仏教化も促進されたため、経済的基盤をそれに頼るようになって堕落を招いた。また、明治から昭和初期にかけての神仏分離令・国家神道により、地縁原理を担う神道として、国民が神社によって氏子とされるようになった。

 

 

こうした廃仏毀釈・僧侶の還俗・修験道の廃止などは、日本の宗教風景の激変を招き、国家神道・国民道徳は日本国民を戦争の悲惨へと導き、決して国民を幸福にはしなかった。また、宗教教育が避けられている事による無知や、マスメディアの「宗教および宗教教団は恐ろしいもの」という報道内容が多かった事も挙げられる。第二次世界大戦後には、宗教や崇拝心は争いを生む危険なものだというイメージが生まれた。海外での宗教絡みの紛争や戦争、カルト教団による社会的犯罪のニュースもそのイメージを増長させている。世俗主義・科学主義(非常に広い意味では無神的宗教と言えなくもないが)による宗教離れも大きなウェイトを占めている。宗教には当然良い面も悪い面もあるはずだが、現代日本人の多くは悪い面しか見ていないのが現状だろうか。

宗教の行方

宗教・哲学・医学では死生観を非常に重視している。死について考える事は無意味ではなく、死すべき者としての自己の存在を探求する、人生の意味を究明する事であるとされる。日本人の死生観は、自然の中で生を受け自然の中で散る、このように生と死を考える。しかし現代は、自然との一体感を喪失し、実利本位、欲望を満たす目的主義・物質主義となり、その信頼の根拠であった高度経済成長もバブル崩壊により失ってしまった。「あの世について語らなくなった現代人は、死についても語らなくなった。人類の思想において、死についての深い思弁はあの世についての教説と深く結びついている。あの世への信仰を失うことによって、死についての思弁も失ってしまう。それで現代人は死について深く考えることをやめ、つとめて死を忘れて生きようとしていると思われる。(日本人の魂・梅原猛)」。「死というものは実に不思議なもので、人間が経験する他の事とは根本的に違います。人間は死以外の事については、経験した事を客観化する事が出来る。ところが、死についてはそれができません。生きているあいだに自分の死を経験する事は出来ないからです。経験した時には、もうすでにその人はこの世にいないわけですから、死を経験する事は出来ない。したがって、他人の死についてはいろいろ論議できますが、その人自身の体験としては決して語れないわけです。(人生を考える・中村元)」

仏教の生死観は、誰も避けられない生老病死の四苦を問題にする。 この四つの苦しみに、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦あわせて四苦八苦となる。宗教は人間が生み出し、人間の幸福を実現するためであった。宇宙に生成と発展の法則があり、生老病死にも法則があり、人はそれを見つめ、その意味を考えながら生きて行かなければならない。また、日本人の宗教観はその国民性も深く関与している。小さな島国で稲作を中心とした生活風土、閉鎖的なムラ社会、世間を気にする恥の文化を形成している。和を尊ぶ国民性が育まれ、外面的秩序が重んじられる。理屈を嫌い、義理人情に弱いが、権力者には迎合しやすく、是は是・非は非とする論理を欠く。身近な人間関係だけという視野の狭さは欠点かもしれない。

宗教は精神性の根源と言われる。ゆえに、その宗教の内容は十分吟味しなくてはならないが、すべての人間に対しては寛容であるべきだろう。宗教は人間を救うものなのだから。「人間を服従させる神は死んだ(ニーチェ)」、「宗教が宗教心をつくり出すのではなく、むしろ宗教心が宗教をつくり出すのである(ジンメル)」と言う。多くの日本人の宗教は、思想性を備えない宗教・思想的基盤を欠いた宗教と言われ、科学信仰の比重が増した現在、精神の内実が希薄化している。自分を見つめなおし、人間のあり方を問い、宗教も改めて考えてみる必要があるのではないか。自分を見つめる事を放棄すれば、どのような思想・哲学・宗教であろうと人間は隷属的位置に落ちてしまう。「宗教はアヘン」と言ったマルクスの主義主張もイデオロギー信仰の一種と言える。民主主義と言えども、自己を放棄すれば衆愚政治の道具にされかねない。自力が人間の努力(俗の領域)とすれば、他力は人間を超えた超越的実在・真理・法則(聖の領域)に従う事とも言える。自力と他力との合一に、人間の生きる道、宗教の在り方が開けてくるようにも思えるが・・・イエス自身は、この世の不条理を原理として存在を認め、その不条理を別な意味で解消する共生社会を築いていく事(自力)で、神が支配する「神の国」の実現(他力)がもうすぐ訪れるだろうと告知したと考えるが・・・