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光秀生存伝説にまつわる考察

通説によると、光秀は天正10年(1582年)6月2日、信長を本能寺で自刃に追い込んだ後、6月13日 羽柴(豊臣)秀吉と山崎で戦って破れ、近江坂本城で再起を図ろうと逃れる途中、京都 山科 小栗栖において中村の長兵衛という百姓の竹槍によって深手を負った後、自害したと伝えられている。

『太閤記』を基にした講談などでは

「小栗栖の竹藪の細道を一列になって進む光秀一行、突如、光秀の横腹に竹槍が繰り出された。光秀は竹槍を切り捨てて落馬、しばし苦痛に耐えたものの「もはやこれまで」と覚悟して、駆け寄ってきた溝尾庄兵衛にと介錯を命じて自害。進士作左衛門、比田帯刀 二名の家臣が殉死。

庄兵衛は光秀の首を鞍覆いに包んで近くの薮の溝のなかに隠し、坂本へと落ち延びていった。

翌朝、付近の農民が三つの遺体を発見、二体は面皮が削られ誰とも判別つけがたいようにされ、残る一体は首がなかった。が、桔梗紋のついた豪華な鎧を着しており光秀と推定された。

さらに付近を探索したところ、土中から光秀の首級が見つかった。この首はすぐに秀吉の元へ届けられ、3日後の6月15日首実検に供された後 本能寺に晒された。」

 

と語られている。

一方、これについては不可解な話も残されている。
一つは「光秀の首を届けた農民がその場で(秀吉に「嘘をつくな。」と言われて)殺された。」というもの

もう一つは「天正十年からおよそ六〇年を経た寛永年間、小栗栖に出かけて事件の聞き込みをした者がいたが、光秀の首を発見したとされる中村の長兵衛という男のことについて知っている村人は皆無であった。」というものである。

『川角太閤記』では「主従三騎になった光秀は、しる谷越えにかかったところを在々の百姓たちが先をさえぎられ、物取りの者たちに槍で突き落とされて三本松の下で仕留められた。」とある。

『言継卿記』(朝廷の経済を担当していた公卿の山科言継の記録)では、6月15日に光秀が醍醐(京都市伏見区)付近で郷人に捕らえられ、首が本能寺に届けられたと、次のとおり記述されている。

六月十四日 削除 空白
  
六月十五日
    一、惟任日向守、醍醐辺ニ牢篭、則チ郷人一揆トメ打之、
     首本能寺ヘ上了。

六月十六日 削除 空白

六月十七日 
    一、日向守斎藤内蔵助(斉藤利三)、今度謀叛随一也。堅田ニ牢篭、則尋出、京洛中車ニテ被渡、於六条河原ニテ被誅了。


『天正十年夏記』でも、同様のことが記されている。

六月十五日
  明智くひ勧修寺在所にて百姓取候て出申候。本能寺ニむくろト一所首おかれ候。

 

 

私は、

「6月15日に光秀らしき人物が醍醐付近(小栗栖を含む)で捕らえられ、この首が本能寺に届けられたのだが、首実検の結果、光秀のものとは明らかに違っていた。

しかし、山崎の戦いで既に勝利を得ていた秀吉は戦後処理を優先させるため、6月13日にさかのぼって、光秀が小栗栖で農民の竹槍によって殺されていたことにしてしまった。」

のではないかと解釈している。

光秀が討たれたとされる小栗栖は、本能寺の変当時、朝廷の武家伝奏の職にあった公家の勧修寺晴豊の領地である。

先にも紹介したように、光秀と公家の間で何らかの謀議があったことは明らかなことから、晴豊の領地内で光秀が殺されていたということからしても、その裏に何かがあるように思えてならない。


ここで、岐阜県山県郡美山町中洞に残る光秀生存伝説について紹介しておく。

「山崎の合戦で敗れ死んだのは光秀の影武者荒木山城守行信で、光秀は荒深小五郎(『兵家茶話』では荒沢又五郎)と名前を変えて中洞の地に隠れ住み時節の到来を窺っていた。

慶長5年、関ヶ原の合戦が勃発するやいなや、家康方に味方するため一族郎党を引き連れて出陣したのだが、途中、増水した藪(やぶ)川(岐阜県揖斐郡川合村)を馬で渡ろうとした際、馬もろとも流され溺死した。(行年75歳)」『兵家茶話』 『翁草』

 

というものだ。今日でも、中洞古屋敷白山神社の一角には光秀の墓が残されていて
光秀の末裔を名乗る荒深氏が位牌、系図などを守っている。