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猛将 斎藤利三が本能寺の変で果たした役割とは

天正10年、信長は対毛利・中国平定戦と対上杉・北国平定戦を大きな柱として戦っていたほか、新たに対長宗我部・四国平定戦を計画していた。

この年2月、信長は三男信孝を四国征討の方面軍司令官に任じ、四国平定の暁には讃岐の国を与えることを約束した。

本能寺の変の起きた6月2日は信孝の四国出兵予定の日でもあった。

四国征討軍兵力は本能寺に攻め込んだ光秀軍をわずかに上回っていたという。

しかし、変の報が届いたにもかかわらず、信孝は軍をまとめ光秀討伐に向かおうともしなかったばかりか、1万4千の兵たちもいたずらに混乱してパニックに陥り、あらかたが逃亡してしまい四国征討軍は事実上消滅してしまった。

余談になるが、信孝はこの後秀吉軍に合流し、山崎の戦いに望んでいる。
このときの兵力は約4千であったといわれている。

なぜ、6月2日に光秀が本能寺に信長を攻めたのかという意味で変を考えるならば、四国征討が中止になったという結果からみて、光秀の動機は長宗我部元親の窮地を救うためではなかったのかという説がある。

実は光秀、光秀の重臣 斎藤利三、四国土佐国 長宗我部元親は深いつながりを持っているのだ。
利三は斎藤伊豆守利賢の子として天文7年(1538)に生まれ(一説では天文3年)、はじめ美濃の斎藤義龍、次いで稲葉一鉄に仕えたが、元亀元年(1570)光秀に仕え、光秀の丹波平定後は一万石を与えられていた。

一説では、利三の父の妹が光秀の叔父に嫁ぎ、光秀の妹は利光の母であるとされている。なお、お福(春日局:利三の娘)にとって光秀は叔父ということになる。

一般的には斎藤利三は光秀の家臣とされているが、どちらかというと、利三は明智・斎藤「一族衆」というなかで、年上の光秀を支えていたのだろう。

本能寺の変及び山崎の戦いにおける利三の活躍は、並々ならぬものがあり、『言経卿記』や『天正十年夏記』には次のような記述がある。

「日向守内斎藤蔵助 今度謀叛随一也」(『言経卿記』)

『天正十年夏記』
  六月十七日 天晴。早天ニ済藤蔵助ト申者明智者也。武者なる者也。かれなと信長打談合衆也。いけとられ車にて京中わたり申候。

 

なお、これらを根拠として、本能寺の変=斉藤利三首謀説もあるほどだ。

利三は相当に優秀な武将であったようで、次のような逸話が残されている。

「利三ははじめ稲葉一鉄に仕えていたが、故あって光秀に仕えるようになった。そこで一鉄はこのことを信長に訴えた出たので、信長は光秀に利三を返すように言ったところ、光秀は「良い部下をもつことは私のためではなく、上様のためである。」と言ってことわった。

この理屈に信長は立腹して、光秀の額を敷居に押しつけて折檻した。

これ以降、利三は光秀に対し並々ならぬ忠義を尽くした。」というものだ。
さて、長宗我部元親と光秀の関係なのだが、両者に縁戚関係はないものの、光秀にとっては斎藤氏と旧室町幕府衆の石谷氏とのつながり、長宗我部元親にとってはこの石谷氏を通しての結びつきとなるものである。

斎藤氏と石谷氏は利三の兄が石谷氏の養子に入っているのだ。
また、長宗我部氏側は二代にわたって石谷氏と縁組みを成立させている。

こういった関係から、天正3年頃から四国全支配の野望を持っていた元親は信長との交渉については光秀を介し、信長に忠誠を誓っていたのだ。

当初、信長も元親に対して、悪い印象は持っておらず、元親と手を結んで四国に勢力を伸ばそうとしていたのだった。
ところがこの関係が崩れる変化が天正9年に発生した。

阿波・讃岐方面に進攻ししていた元親に対し、信長が「阿波の支配は三好氏に任せるので三好氏を援助しろ。」という一方的な命令を下したのだ。

その結果、元親が従わないと見るや四国征討準備を命じたのだった。
そして、信長と元親の仲介をしていた光秀は四国担当の任を外された。

『長宗我部元親記』に次のような記述がある。

「斎藤内蔵助は四国の儀を気遣に存ずるによって也、明智殿謀叛の事いよいよ差し急がるる」

先に紹介した利三に関する記述と合わせて考えると
変に関わる一連の流れの中で、利三の果たした役割の大きさが窺い知れる。

  

【長宗我部元親】(1538~1599)

四国土佐国(高知県)の豪族。土佐を統一後、四国制覇したが、豊臣秀吉の四国攻めで降伏し土佐国領主となる。
元親死後、関ヶ原の戦いでは西軍に属し、大坂の陣では豊臣方に従い破れて滅亡。