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女官の呼び名と格付け【中国歴史用語の解説】

女官と題したが、実際後宮にいたのは皇帝の妻妾とその世話をする宮女である。皇帝の妻妾は一般的に后妃と呼ばれる。后は皇后、妃は妃嬪を表し、妃は側室、嬪は妾である。たてまえ的には王朝の子孫繁栄のため、実際は皇帝の色欲を満たすための制度である。

周代に周公旦が定めたのが后の下に三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一御妻(女御)を置く百二十一人からなる制度。これは男子官僚の三公・九鄕・二十七大夫・八十一元士に対応させたもので、「礼記」の近文派の三の倍数の思想を表しているようだ。

皇后はそれらの上に君臨する、いわば「大奥総取締」だった。皇后の地位は高く、その高貴さは他の妃嬪の比ではなかった。妃嬪には男子官僚と同じく爵位品等が与えられ、肩書きによって呼ばれたが、これは皇帝の寵愛の度合いを表していたと思われる。それ以外の数百数千人の女官は後宮の“備品”であり、そこにまた嫉妬の炎が渦巻くのである。

秦代には皇后・夫人・美人・良人・八子・七子・長使・少使という八等級に分けられていた。「史記」の中で司馬遷は項羽の愛姫を“虞美人”と記している。これは、彼女が美人であったと言うことではなく、項羽の妻妾の地位を表す呼称であったようだ。

漢代には、等級がさらに増え、皇后・ケイ(※1)娥・容華・充衣・美人・良人・八子・七子・長使・少使に分けられていた。武帝の頃には婕妤(皇后とケイ(※1)娥の間)、元帝のころには昭儀(皇后と婕妤の間)などが追加されたが、後漢においては後漢において後宮の号は改められ、皇后、貴人、美人、宮人、采女だけになっている。

晋代には、三夫人や九嬪の制度に戻り、それらが細分化された。三夫人は貴嬪・夫人・貴人であり、九嬪が淑妃・淑媛・淑儀・修華・修容・修儀・婕妤・容華・充華とされた。

唐代には夫人が一人増えて四夫人となったが、それぞれ貴妃・淑妃・徳妃・賢妃で一品、九嬪が昭儀・昭容・昭媛・修儀・修容・修媛・充儀・充容・充媛で二品、二十七世婦が婕妤が九人で三品・美人が九人で四品・才人が九人で五品、八十一御妻は宝林が二十七人で六品・御女が二十七人で七品・采女が二十七人で八品である。これによって、楊貴妃の階級も分かるだろう。

皇后と言う称号は、君主が皇帝と称されたことに対応して、秦代から正式に用いられた。それと同時に、皇帝の母を皇太后、祖母を太皇太后と称するようになった。皇太后は原則的に皇帝の生母を言うが、先帝の皇后に子が無かった場合は複雑である。清の九代咸豊帝の皇后には子が無かった為、帝位は貴妃の子が次いだ。これが同治帝と呼ばれるが、生母は通称西太后と呼ばれている。しかし、咸豊帝の皇后も皇太后とされるため通称東太后と呼ばれている。

先帝が早世し幼帝が帝位に就くと、皇帝が親政できるようになるまでの間、皇太后が摂政として政治の実権を握る事が多い。呂后や西太后が有名である。その為、皇帝の寵愛を受けて、わが子を皇太子にしようとする女同士の熾烈な戦いが中国史上数多く繰り返されてきた。清の康熙帝は後継者を指定する遺詔を生前に秘密にする制度を制定し、それを避けようとした。南北朝時代の北魏においては皇位継承者に指定された者を生んだ側室を抹殺するという制度を定めたほどである。

皇太子の妻妾は、漢代では妃・良娣・娥子の三等級があり、隋唐期には、妃・良娣・良媛・承徽・昭訓・奉儀の六等級があった。皇太子妃は皇太子の皇帝即位と同時に皇后となる。皇后を新たに冊立しようというときは、原則的に三夫人・九嬪以上の位が条件とされていた。唐の高宗は最初の皇后を王氏といい、王氏の廃位によって、昭儀であった武氏が皇后となった。自分の夫と息子を廃し自ら中国史上唯一の女性皇帝となり、武周王朝を建てた武則天である。

後宮の女性の数は時代と共に変化し、漢の武帝の時には数百人、元帝時代には数千人、隋の煬帝の時には数万人ともいわれている。そして、白居易が長恨歌で「後宮の佳麗三千人」と詠んだ唐の玄宗の時代には宮女だけで四万人にのぼったようである。宮女の集め方は、時代や皇帝によって違うが、城下で美しい女性を見つけて召抱えたり、強盗まがいの美女狩りが行われたり、試験を行って秀女を選んで採用した事もあるようだ。皇后の縁者は外戚として権威をふるい、漢代や唐代には多大な権力を保持し問題が多かった時代であった。