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中国の王朝の呼び名に関する知識を実例を挙げて解説する【中国歴史用語の解説】

中国の封建王朝は易姓革命(※)によって治める君主の姓が何度も代わったが、それと同時に王朝名(国号)も改められた。現在では、当時の国々が使用した国号をその王朝の名として用いている。問題は同じ国号を使用した王朝が複数存在したことである。そのため、区別して称するためにいくつかの方法がある。多く用いられるのは、国号の前に時間詞の“前後”や、方位詞の“東西南北”などを冠する方法であるが、以下に実際の適用方法を例を挙げて説明する。

劉邦が中国を統一し建てた王朝は国号を漢という。漢は、外戚の王莽の簒奪により一時中断したという認識から、その中断期を境として前漢と後漢に分けて称している。また、のちの五代十国のときにも漢を国号とする国がいくつかあった。その中にも後漢という国が存在するため、前漢を西漢、後漢を東漢といい、五代十国の後漢を“こうかん”と読んで区別する場合もある。漢を東西で表すのは、前漢が長安を都とし、後漢が洛陽に東遷したことに由来する。

同様に、西周・東周や西晋・東晋、北宋・南宋などのケースも遷都したことに由来するが、三国とも遷都後は統一王朝としての正当性こそ認められたものの、実質的には領土の半分以上を失ない、その権威も失墜した王朝であった。

王朝が滅びた時に降伏せず、亡命して王朝を建てるケースもある。大都が陥落して元が滅び、明が天下を治めたが、元の皇帝は北に逃げて王朝を建てた。その政権は子によって受け継がれ二十年ほど続いた。通称北元と呼ばれる。清が明を下した後、中国南方に明の皇族による亡命政権ができたが、これは南明と呼ばれている。

分裂期には国号の同じ国が多数存在している。春秋戦国期に国号のレパートリーがほぼ出尽くしたために、その後同じ国号を使った王朝は、方位詞や時間詞を冠して呼ばれる。三国時代にあった呉は、国の位置から東呉とも呼ばれる。劉備の建てた国は事実上国号を漢としているが、通称は蜀漢と呼ばれる。この“蜀”は地名であり、一文字で書く時は漢ではなく蜀と書くのが通例である。五胡十六国時代に涼を国号とした国は五つありそれぞれ、前涼・後涼・南涼・北涼・西涼と区別されている。また五代十国時代の五代と呼ばれた国は後を冠して、後梁・後唐・後晋・後漢・後周と呼ばれている。

三国時代では曹魏・孫呉と呼ばれるように、国号には皇帝の氏名を冠する方法もある。南北朝時代に存在した宋は、趙匡胤によって建てられた統一王朝の宋と区別するために劉宋と呼ばれる。五胡十六国時代に後趙を滅ぼし、前秦に滅ぼされた国は国号を魏と称していたが、他と区別するために皇帝の姓を冠して冉魏と呼ばれている。

国号に朝・代・国をつけて呼ぶのにもそれぞれ決まりがある。

“朝”は統一王朝・正統政権のニュアンスがあり、地方政権に用いることはしない。唐を唐朝と呼ぶが、後唐を後唐朝と呼ばないのがこれに当たる。

“代”は時代を意味する。普通は統一国家の国号を時代名として使用し、秦代や漢代などと呼んで治世時期を表す。

“国”を後続させて呼ぶ場合がある。地方政権に対して呼ぶ場合は、統一前の秦を秦国などと呼び、統一後は秦朝を用いる。五代から宋の時代にかけて北方にあった遼は遼国、西夏は西夏国などと呼ばれるが、これは非漢民族政権に対する「外国」意識から来たものである。

※ 易姓革命

易姓革命とは、儒教の政治思想の基本的観念の一。万物には、木火土金水の徳があり、王朝もこの中のどれかの徳を持っているとされ、天は己に成り代わって王朝(天子の家または姓)に地上を治めさせるが、現在の王朝に不徳の者が出れば天が見切りをつけ、天命は別の有徳者に移って革命(命が革まる)が起き、王朝は交代するとされた。後漢末期を揺るがした黄巾の乱では、「蒼天已死、黄天当立」とのスローガンが掲げられた。これは、漢が火の徳を持って治めているとされ、漢に代わる王朝は土の徳を持って治めるという意味である。