「ベトナム」の正式名称は、日本語では「ベトナム社会主義共和國」という。
ベトナム語では、“Cong Hoa Xa Hoi Chu Nghia Viet-Nam”で、漢字表記では「共和社會主義越南」である。
“Viet-Nam”と書かれている語は、正式に発音すれば“ヴィエットナム”というところだろうか。
元は、清朝の頃に、「越(ヴィエット)南(ナム)」という國號を用いた事が始まりである。
清朝は、國號を「大清(ダーチン)」といい、1636年~1912年にかけて、中華帝國を治めた最後の帝國である。
満洲(マンジュ)族の愛新覚羅(アイシンギョロ)氏が治めた。
中華帝國で清朝が治めていた頃に、現在のベトナムを治めていたのは、黎(レー)朝(1532年~1786年)・西山(タイソン)朝(1786年~1802年)・阮(グエン)朝(1802年~1945年)等である。
(歴史の概要については、「ベトナムの歴史」の項目で説明する)
この中の、阮朝を創始した阮福暎(映)は、西山朝を倒した際に、介入してきた清軍を退けたにもかかわらず、どうしたわけか清に服属する事を決めた。
1803年、阮福暎は鄭懐徳を使節として北京に派遣し、清朝に対して冊封と「南越(ナムヴィエット)」という國號の承認を求めた。
これに対して、清朝は「南越」という國號を認めず、「越南」という國號を与え、阮福暎を越南國王として冊封し、「越南國王之印」を授けた。
この「越南(ヴィエットナム)」が、近現代にその地に興った「ベトナム帝國」「ベトナム國」「ベトナム共和國」「南ベトナム共和國」「ベトナム社会主義共和國」などの國名の由来となっている。
というわけで、上記の事項について不明な点の考察を書き留めておく。
〔阮朝の清朝への服属について〕
阮朝を創始した阮福暎は、西山朝を倒した際に、介入してきた清軍を退けている。
にもかかわらず、清朝への服属を決めたのは、やはり大國をずっと敵にまわすことを避け、ご機嫌をとっておくのが上策と考えたのだろうか。
それにしても、阮朝越南國は、清朝に朝貢して形式上の従属をしていたとはいえ、國内や周辺の諸民族・諸國に対しては皇帝を称し、独自の年號を使用し、自國の國是(「承天興運」)を持ち、國號・國是・年號を公文書の冒頭に必ず記載するなど、ある種の意地を見せている。
〔「南越」という國號について〕
別に「南越」がどうということはないのだが、どうしてこの國號を選んだのかなと気になった。
“越”という語は、先史時代に残された伝説から生まれた「百越」、また、春秋戦國時代にあった「越國」が由来であろう。
また、次項でも扱うが、前漢代に「南越(南粤)」という國が存在している。
しかし、1000年ごろから、阮朝がベトナムを統一するまでは、「大越」という國號が主に用いられてきた。
であれば、「大越」という國號を用いた方が、よさそうな気がするし、阮朝がベトナム史上の最大領土を統治していたことからして、「南越」よりは「大越」だろうと思うのだが、阮福暎の真意は如何に…。
〔清朝が「南越」という國號を拒んだことについて〕
調べてみると、清朝が「南越」という國號を拒んだ理由は、「「南越」はかって在った趙佗の南越國を思い起こさせるから」という事らしい。
趙佗の南越國は、南海郡の軍事長官であった趙佗が、前漢の時代に中華帝國南方の、南海郡・桂林郡・象郡を併せて建國した王國(帝國)である。
南越は漢に朝貢したり、反乱したり、服属したりを繰り返し、最終的に漢と全面的に戦争となったが、大國に勝てるはずもなく滅んだ。
確かに漢民族にとっては、嫌な名前なのかもしれないが、満洲族(女真(ジュルチン)族)であった清には、関係なかろうとか思うのだが、清が漢風に傾倒していた事を考えると、納得できなくもない。