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栗山大膳(利章)の黒田騒動に関する資料

寛永九年六月十五日に、筑前國福岡の城主黒田右衞門佐忠之の出した見廻役が、博多辻の堂町で怪しい風體の男を捕えた。それを取り調べると、豐後國日田にいる徳川家の目附役竹中采女正に宛てた、栗山大膳利章の封書を懷中していた。城内でそれを開いて見れば、忠之が叛逆の企をしていると云う訴であった。

當時忠之と利章とは、非常に緊張した間柄になっていた。年の初に前將軍徳川秀忠の葬儀が濟んで、忠之が下國した時、主立った諸侍は皆箱崎まで迎に出たのに、利章一人は病氣と稱して城下の邸に閉じ籠って出なかった。そこで忠之は利章の邸の前を通る時、山下平兵衞を使に遣って、容態を尋ね、全快次第出勤せいと云わせた。其後も忠之は度々見舞の使を遣り、又利章の療治をしていると云う醫師鷹取長松庵に容態を尋ねた。さて使や醫師の復命を聞くに、どうも利章は重病ではないらしかった。それから六月十三日になって、忠之は黒田市兵衞、岡田善右衞門の二人を利章の所へ使に遣って歩行の協(かな)わぬ程の重體ではあるまいから、たとい手を引かれてでも出て貰いたいと云わせた。利章は歩行が出來ぬから、いずれ全快した上で出仕すると答えた。忠之はすぐに黒田、岡田の二人を再度の使に遣って、たとい途中で眩暈が起っても、乘物で城門まで來て貰いたい。それもならぬなら、當方から出向いて面會すると云わせた。利章は又どうしても全快の上でなくては出ぬと答えた。忠之は二人の使に、利章の身邊には家來が何人位いたか、又武具があったかと問うた。二人の答は、家來は二十人ばかりいて、我等の前後左右を取り卷き、武具も出してあったと云うことであった。忠之は城内焚火の間で、使のこの答を聞いていたが、思い定めたらしい氣色で、とにかく栗山が邸へ押し懸けて往くから、一同用意せいと云い棄てゝ奥に入った。諸侍は家々へ武具を取りに遣る。噂は忽ち城下に廣まって、番頭組の者や若侍は次第に利章が邸の前へ詰め懸けた。此時老臣の中で、當時道柏と名告(なの)っていた井上周防之房と、小河内藏允との二人が、忠之の袂に縋って、それは餘り輕々しい、江戸へ聞こえてもいかがである、利章をば我々が受け合ってどうにも處置しよう、切腹させよとなら切腹もさせようと云って諫めた。忠之はようよう靜まった。井上、小河の二人は次へ出て、利章方へ一人たりとも參ってはならぬと觸れ、利章の邸の前に往っていた者共を、利章の姉婿で、當時睡鴎と名告っていた黒田美作が邸と、其向側の評定所とへ引き上げさせた。翌十四日に井上、小河は城内の事を利章に告げた。利章はすぐに剃髪して、妻と二男吉次郎とを人質として城内へ送った。人質は利章の外舅黒田兵庫に預けられた。利章が徳川の目附竹中に宛てた密書を、忠之が手に入れたのは其翌日の事である。

忠之も城内に出仕していた諸侍も、利章がこう云う書面を書いたのを意外に思った。徳川家に対して叛逆をしようと云う念が、忠之に無いのは言うまでもない。異心を懷かぬのに、何事をか捉えて口實にして、異心あるように、認められはすまいかと云うのが、當時の大名の斷えず心配している所である。慶長十四年に藤堂佐渡守高虎が率先して妻子を江戸に置くことにしたのを始として、元和元年大阪落城の後、黒田家でも忠之の父長政が、夫人保科氏に長女とく、二男犬萬、三男萬吉の三人を添えて江戸に置くことにした。保科氏は現に當主のよめ久松氏と一しょに江戸にいる。これもどうにかして徳川氏に対して他意のないことを示そうとする手段である。

それに、異心のない忠之を異心があると訴える人が利章だと云うのに、忠之と其周圍の人達とはあきれた。いかにも忠之と利章とは極端まで緊張した間柄にはなっている。今一歩進んだら忠之が利章に切腹を命ずるだろうと云う處まで、主從の爭は募っている。しかしそれは忠之の方で、彼奴どれだけの功臣にもせよ、其功を恃(たの)んで人もなげな振舞をするとはけしからんと思い、又利章の方で、殿がいくら聰明でも、二代續いて忠勤を勵んでいる此老爺を蔑(ないがしろ)にすると云うことがあるものかと思っての衝突である。忠之は憎みつゝも憚っており、其周圍の人達は憚りつゝも敬っておった利章が、どうして主君を無實の罪に陷いれようとするか、誰にも判斷が附かぬのである。

利章の密書はたゞ忠之主從を驚きあきれさせたばかりではない。主從は同時に非常な懼(おそれ)を懷いた。なぜと云うに、忠之が叛逆を企てたと云う本文の外に、利章の書面には追而書(おってがき)が添えてあった。其文句は、此の書面は相違なく御手元に屆くように、同時に二通を作って、二人に持たせて、別々の道を經て送ると云うのである。そうして見れば、黒田家でたまたま其一通をば押えたが、別に一通が無事に日田の竹中に屆いて、竹中から江戸の徳川家へ進達せられた事と察せられる。元來利章程の家の功臣を殺したら、徳川家に不調法として咎められはすまいかと云うことは、客氣に驅られた忠之にも、微かに意識せられていたが、此訴が江戸へ往ったとすると、利章はもはやどうしても殺すことのならぬ男になった。なぜと云うに、逆意の有無を徳川氏に糺問せられる段になると、其讒誣を敢えてした利章と對決するより外に、雪冤の途はないのである。


利章の父栗山利安は、もと播磨の赤松氏の支流で、小字は善助、中ごろ四郎右衞門と稱し、後に備後と名告った。天文二十年に播磨國淡河(あごう)の城に生れ、永祿八年に十五歳で、同國姫山の城主黒田官兵衞孝高に仕え、永祿十一年に孝高の嫡子松壽が生れてから、若殿附にせられた。孝高は忠之の祖父、後に長政となった松壽は忠之の父である。

天正六年に荒木攝津守村重が攝津國伊丹の有岡城に籠って織田信長に背いた。其時孝高は村重を諫めに有岡城に往って、村重に生け捕られた。利安は後但馬と云った母里太兵衞友信、後周防と云った井上九郎次郎之房等と、代わるがわる商人の姿に身を窶(やつ)して、孝高の押し籠められている牢屋の近邊を徘徊して主を守護した。中にも利安は伊丹の町の銀屋をかたらって、闇夜に番兵を欺き、牢屋の背後の溜池を泅(およ)いで牢屋に入り、孝高に面會した。翌年十一月瀧川左近一益が有岡城を攻め落した時、利安は番人の逃げ去った跡へ來て、錠を打ち破って孝高を連れ出し、有馬に往って湯治をさせて、ようよう足腰の立つようにした。

十年に信長が明智日向守光秀に殺された。孝高父子は此時から木下秀吉の下に附いて働き、十五年には孝高は豐前國六郡の主にせられた。此時利安は領地を分けて貰った。十七年に孝高は隠居して如水軒圓清と號し、黒田家は甲斐守長政の世となった。利安の妻森尾氏の腹に嫡子大吉が生れたのは、それから二年目の天正十九年正月二十二日で、此大吉が後の大膳利章である。文祿元年の朝鮮陣には、長政が利安、友信を連れて渡り、孝高は跡から豐臣秀吉の使として京城に入った。

慶長四年に徳川家康が會津の上杉影勝を攻めに關東へ下った時、長政は從軍したが、出發前に大阪天滿の邸で利安、友信、それから後に織部と云った宮崎助太夫重昌の三人を呼んで細かい訓令を與えた。留守中に豐臣方の亂が起ったら、城内へ人質に取られぬ内に、母と妻とを中津川へ連れて逃げてくれ。まだ亂の起らぬのに、早まって落ちさせてはならぬ。又其場合に誤って二人の女子を奪われてもならぬ。利安は友信と敵に當り、重昌は二人の女子の側に殘っていて、逃されぬと見極めたら、重昌は二人を殺して自殺してくれと云うのであった。暫くすると、果して石田治部少輔三成が佐和山城から出て來て、身方の諸大名を大阪へ集めた。利安等は四十八歳になった孝高の妻櫛橋氏と、十六歳になった長政の妻保科氏とを俵にくるんで、しかかごと云うものに入れ、浴室の壁の下を穿って持ち出し、商人に粧った友信に擔わせて、邸の裏の川端に繁った蘆の間を通り、天滿の出入商人納屋小左衞門方へ忍ばせた。これは豐臣方の遠見の番人に見付けられぬためである。さて納屋方では兩夫人を内藏に入れ、又家捜しをせられた時の用心に、主人小左衞門が寢所の板敷を疊一疊の幅だけ穿って、床下に疊を敷き、藏からそこへ移すことの出來るようにして置いた。それから小左衞門夫婦が奉公人に知らせぬように食事を運んだ。小左衞門の家には重昌が世話になっていて守護し、友信は其隣の家から見張っていた。

二三日立って、利安が東條紀伊守の邸へ樣子を伺いに往って、話をしていると、黒田邸へ軍兵が寄せると云う知らせがあった。利安は、これは存じも寄らぬ、いかなる仔細があっての事か、御存じかと云って、主人紀伊守の氣色を伺った。返答によっては紀伊守を討ち取って黒田邸へ歸ろうと思ったのである。紀伊守は一向存ぜぬと云った。利安は馬を飛ばせて天滿へ歸った。黒田邸にはまだ何事もない。そこへ郡主馬宗保の密使が來て、今軍兵が寄せると云った。間もなく騎馬武者五十人、徒歩の者六百餘人が鐵砲二百挺を持って黒田邸を取り卷いた。寄手の引率者は兩夫人がおられるかと問うた。利安は兩人共たしかにおられると受け合った。寄手は定番を殘して引き取った。次いで城内の使が來て、見知人をよこすから、兩夫人を見せてくれと云った。利安は一應、士(さむらい)の女房の面吟味はさせられぬ、とことわった。使は、外の大名の内室をも見ることになっているから、是非物蔭から見せてくれと云った。利安は甲斐守歸邸の上、いかなる咎めに逢おうも知れぬ事ではあるが、是非なき場合ゆえ、物蔭から見させようと云った。見知人が來た。一人は櫛橋氏の若かった時見たことのある女、今一人は保科氏の十二歳の時見たことのある女である。利安は信濃産れの侍女で、小笠原内藏助と云うものの娘に年恰好の櫛橋氏に似たのがあるので、それを蚊帳の中に寢させ其侍女の娘が一しょに奉公していたのを蚊帳の外にすわらせ、話をさせて置き、二人の見知人を一間隔てた所へ案内して覗かせた。幸に見知人は兩夫人に相違ないと云って引き取った。

利安等はどうかして兩夫人を逃がそうと謀った。黒田家の運漕用達に播磨國家島の船頭梶原太郎左衞門と云うものがある。此太郎左衞門をかたらって舟の用意をさせた。併し豐臣方では福島の下、傳法川と木津川との岐れる所に、舟番を置いて、諸大名の夫人達を逃がさぬ用心をしている。武裝した軍兵百人を載せた大舟と、二艘の小舟とから、此舟番は成り立っている。利安等は隙を窺っていたが、どうも舟番所を拔ける手段が得られなかった。

とかくするうちに七月十七日になった。いよいよ徳川方の諸大名の夫人を、人質として大阪城の本丸に入れることになって、豐臣方では最初に城に近い細川越中守忠興の邸へ人數を差し向けた。細川の家老がことわるのを聽かずに、軍兵は奥へ踏み込んだ。細川夫人明智氏は、城内に入って面(おもて)を曝すのがつらく、又徳川家に對する夫の奉公に障ってはならぬと云って、自刄した。家臣小笠原備前、河喜多石見等は門を閉じて防戰し、遂に火を放って切腹した。豐臣方ではこれに懲りて諸大名の夫人を城内に入れることを罷めた。

利安等はかねて福島の上流に小舟を出して、舟番所の樣子を見せて置くと、舟番の者共は細川邸の燒けるのを見て、多人數小舟に乘って火事場へ往った、其報告を得て、利安等は兩夫人を大箱に入れて、納屋の裏口から小舟に載せた。友信は穗の長さ二尺六寸餘、青貝の柄の長さ七尺五寸二分ある大身の槍に熊の皮の杉なりの鞘を篏めたのを持たせ、屈竟の若黨十五人を具して舟を守護した。舟が舟番所の前まで來ると、太兵衞は槍を手挟(たばさ)んで、かねて識り合いの番所頭菅右衞門八に面會を求めた。さて云うには、在所へ用事出來して罷り下る、舟のお改を願いたいと云うのである。友信が大兵で、ひどく力の強いことを右衞門八は知っていたので、いく地なく舟を改めるには及ばぬと云った。そこで傳法川を下って、待たせてあった太郎左衞門が舟に兩夫人を移した。其時保科氏の侍女の一人で菊と云うのが、邸を拔けて跡を慕って來たので、それをも載せた。此舟は友信が保護の下に、首尾よく四日目に中津川へ著いた。重昌は水路を和泉國境へ出て、そこから更に乘船し、利安は陸路を播磨の室まで行って、そこから乘船して中津川へ歸った。中津川からは、隠居孝高入道如水が、大阪の模樣を察して、兩夫人を迎えるために母里與三兵衞に舟を廻させたが、間に合わなかった。大阪天滿の邸には四宮市兵衞が殘って、豐臣方の奉行等に對して命懸けの分疏(いいわけ)をした。此後加藤主計頭清正の夫人を、梶原助兵衞が連れて、同じく大阪を拔け出し、これも中津川へ著いて、妻の兄梶原八郎太夫の家に泊まったので、如水は加藤夫人に衣類を贈り、保科氏に附いて歸った侍女菊を熊本まで附けて遣った。

翌慶長五年關ヶ原の功に依って筑前國を貰った長政は、年の暮に始て粕屋郡名島の城に入った。六年には一旦京都へ上って歸った如水と相談して、長政が當時那珂郡警固村の内になっていた福崎に城を築いた。これが今の筑紫郡福岡である。此時一しょに築かれた端城六箇所の内で、上座郡左右良(まてら)の城は利安、鞍手郡高取の城は友信、遠賀郡黒崎の城は之房が預った。七年十一月に福岡城の東の丸で、長政の嫡男忠之が生れた。小字萬徳である。本丸は警固大明神の社のあった跡なので、血の汚を避けて、これも利安に預けてある東の丸に産所をしつらわせたのである。九年には城の三の丸で、如水が五十九歳で亡くなった。十一年には長政の長女徳、十五年には二男犬萬、十七年には三男萬吉が生れた。犬萬は後の長興、萬吉は後の隆政である。

十九年から元和元年に掛けて、大阪に豐臣氏の亂があった。十九年の冬の陣には、長政が江戸を守り、十三歳の忠之が傷寒のまだなおらぬのに、押して福岡から上った。長政の下には利章がおり、福岡へは江戸から利安が下って留守をした。元和元年の夏の陣には、長政は江戸から、忠之は福岡から大阪へ出向いた。利安は筑前に殘って、利章は忠之の手に加わった。保科氏が徳、犬萬、萬吉の三人を連れて江戸に往ったのは大阪落城の直後である。

駿府で徳川家康の亡くなった元和二年に、黒田家では長政の三女龜が生れた。八年に將軍秀忠が久松甲斐守忠良の娘の十七歳になるのを、養女にして忠之のもとへ嫁がせた。九年は秀忠が將軍職を家光に譲った年である。秀忠親子は上洛する時、江戸から長政を先發させた。五十三歳になる長政は、忠之を連れて上り、二條の城にいて、膈噎の病で亡くなった。遺言は利章と小河内藏允とが聽いた。遺骸は領國へ運んで、箱崎の松原で荼毘にした。此時柩の先へは三十三歳になる利章が手を添え、跡へは二十二歳になる忠之が手を添えた。利安は長政の亡くなった時、七十三歳で剃髪して、一葉齋卜庵と名告った。

こうした間柄の忠之と利章とが、なぜ生死の爭いをするようになったか。これは利章が變ったのではなくて、忠之が變ったのである。

忠之は壯年の身を以て、忽ち五十二萬二千四百十六石の大名になった。生得聰明な人だけに、老臣等に掣肘せられずに、獨力で國政を取り捌いて見たかった。それには手足のように自由に使われる侍が欲しい。丁度先年中津川で召し抱えられた足輕頭倉八長四郎の子に、十太夫と云う怜悧な若者がいた。忠之はそれを近習に取り立てゝ、次第に任用して、短い月日の間に、秩祿を加えられる度數の多いので、心あるものは主家のため、領國のために憂え、怯懦のものは其人を畏れ憚り、陋(いや)しいもの、邪(よこしま)なものは其人にたよって私を濟そうとするようになった。

しかるに先代長政が臨終に、利章と小河とが聞き取った遺言には、國政萬端利章、一成、内藏允の三家老で相談し、重大な事は一應之房、利安の兩隱居に告げて取り極める筈になっている。そこで長政の亡くなった翌年、寛永元年四月に三家老は一枚の起請文を書いて忠之に呈した。第一に三人は忠之に對して逆意を懷かぬ事、第二に何人(なんびと)を問わず、忠之に背き、又は國家の害をなすと認めた時は、三人が忠之に告げて其人の處置を請う事、第三に三人を離間するものがあるときは、必ず互に打ち明けて是非を正す事、第四に三人は兄弟同樣に心得る事、第五に三人の中で讒誣に逢うものがあったときは、三人同意して忠之に告げる事、以上五箇條である。今異數の拔擢を蒙っている十太夫は、心底の知れぬものなので、もし右の第二に當るものではなかろうかと、三人は朝夕目を附けていた。

しかし十太夫の勤め振りにはこれと云う廉立った瑕瑾が無い。たゞ利章等が最初に心附いたのは、これまで自分等の手を經て行われた事が、段々自分等の知らぬ内に極まるようになると云うだけである。そう云う風に忠之と下役のものとが、直に取り計らう件々は、最初どうでも好いような、瑣細な事ばかりであったが、それがいつの間にかやゝ大きい事に及んで來た。利章等が跡からそれを役々のものに問うと、別に仔細はない、たゞ心附かなかったと云う。こう云う問答が度重なる。利章等は始終事件の跡を追って行くような傾になった。

利章等は安からぬ事に思った。そこで折々忠之に事務の手續が違ったのを訴えると、忠之も別に仔細はない、たゞ心附かなかったと云う。下に向いて糺しても、上に向いて訴えても、何の效果も見えなかった。

利章等はいつか、どうにかして此惡弊を改めたいと思った。此惡弊が暫時も君側を離れぬ新參十太夫の勤め振りと連係していることは、言うまでもなかった。しかし獨り十太夫に廉立った瑕瑾がないばかりでなく、政事向にも廉立った過失がない。利章等はたゞ殆ど本能的に形勢の變じて行くのを感ずるだけである。

利章等は眼を鋭くして見た。そして次第にその變じて行く形勢を見分けることが出來た。

先ず認められるのは政事向一般に弛みが出た事である。忠之の表へ出座する時刻が遲れ勝になり、奥へ引籠む時刻が早目になった。したがって役人等も遲く出て早く引くようになった。忠之は參府の間も此習慣の儘に振舞って、登城に遲れ、又早目に退出するのである。領國から江戸への使者、豐後におる徳川家の目附への使者なども、前々よりは日取りが繰り下げられるようになった。

次に認められるのは、とかく物事が輕々しく成り立って慌ただしく改められる事である。最も甚しい一例は、江戸への使者を、初に森正左衞門に命じ、次いで月瀬右馬允に改め、又元の森に改め、終に坪田正右衞門に改めたのである。人を任用する上にも、きのうまで目を懸けて使われたものが、俄に勘氣を蒙ることがある。

次に遊戯又はそれに近い事が、眞面目な事のゆるかせにせられる中で、活氣を帶びて行われ、それに關係した嚴重な、微細な掟が立てられるのが認められる。申樂(さるがく)の者が度々急使を以て召され、又放鷹の場では旅人までが往來を禁ぜられる類いである。忠之が江戸からの歸に兵庫の宿で、世上の聞えをも憚らずに、傀儡女を呼んだこともある。

次に驕奢の跡が認められる。調度や衣服が次第に立派になって、日々の饌(ぜん)も獻立がむずかしくなった。

次に葬祭弔問のような禮がなおざりになるのが認められる。寛永三年九月十五日に大御臺所と稱さられていた前將軍秀忠の母、織田氏達子の亡くなった時、忠之は精進をせぬみか、放鷹に出た。家康の命日、孝高の命日にも精進をせず、江戸から歸っても、孝高、長政の靈屋に詣でぬようになった。

差當りこれ位の事が目に留まっているが、どれも重大と云う事ではない。尤も此形勢で押して行くうちに、物に觸れて重大な事が生ずるやも知れない。何か機會を得たら、しっかり主君に言う事にしようと、利章等三人は思っていた。

そのうち罪なくして罰せられたものが一人と、罪あって免されたものが一人と、引き續いて出來て、どちらも十太夫に連係した事件であった。一つは博多の町人が浮世又兵衞の屏風を持っているのを、十太夫が所望してもくれぬので、家來を遣って強奪させ、それを取り戻そうとする町人を入牢させたのである。今一つは志摩郡の百姓に盗をして召し取られたものがあって、それが十太夫の妾の兄と知れて放されたのである。

利章はとうとう決心して、一成、内藏允に相談し、自ら筆をとって諫書を作った。部類を分けて、經史を引いて論じたのが、通計二十五箇條になった。決心の近因になった不正裁判は、賞罰明ならずと云う部類に入れて、十太夫を弾劾することに重きを置かず、もっぱら忠之の反省を求めることにした。さて淨書して之房の道柏、利安の卜庵に被見を請うたのが、寛永三年十一月十二日である。道柏、卜庵はすぐに奥書をして、小林内匠、衣笠卜齋、岡善左衛門の三人に披露を頼んだ。

忠之は諫書を讀んで怒った。十太夫に對する妬みだと感じ、又穴搜しだと感じたのである。文章に經史が引いてあるので、利章が書いたと云うことはすぐにわかって、怒は利章一人の上に被さった。忠之は利章を呼んで叱りたかったが、利章は默って叱られておる男でないので、けぶたい思いをして、面倒な話を聞くよりは、打ち棄てて置こうと思い返した。

利章等はもとより、道柏、卜庵の二人も、忠之がなんとか沙汰をするだろうと思って待っていたが、一向そんな摸樣がない。政事の機關は舊に依って動いている。十太夫は舊に依って小ざかしげに立ち振舞っている。前日と變った事は、たゞ忠之が利章に逢う度に顏を背けるだけである。諫書にはこれだけの效果しかなかった。

忠之が強情に此冷遇を持續すれば、利章も亦強情に隱忍してこれに報いた。そのうち寛永四年に亡くなった孝高夫人櫛橋氏の喪も濟んだ。

翌五年に忠之は、參府の度毎に大阪と領國との間を航行するためだと云って、寶玉丸と云う大船を造らせた。又十太夫の組下に附けると云って、江戸へ屆けずに足輕三百人を募った。諫書に擧げてあった驕奢が、衣食調度の範圍内に止まらないで、大船の造營となり、夫卒の増員となったのである。利章はもはや坐視するに忍びないので、一成や内藏允に留められたにも拘らず、病氣を申し立てゝ家老の職を辭した。忠之は即座にこれを許した。利章は默って城下の邸を引き拂って、左右良の別邸に引き籠った。

忠之はうるさい物を除いた積りでいると、六年早々將軍家から土井大炊頭利勝を以て勸告があった。黒田家の家來栗山父子は若年の主君を輔導すべきであるのに、齡八十になんなんとする備後はともかくも、大膳が引き籠り居るは不都合である。出勤させるように取り計われたが宜しかろうと云うのである。忠之はよんどころなく利章に出勤を命じた。

利章は久し振に出勤したが、忠之は相變らず面を背けている。辭職する前の状態と少しも異なる所がない。將軍家のお聲懸りの利章を、忠之はどうすることも出來ぬが、かねて懷いていた惡感情は消えぬのみか、却って募るばかりである。

雙方のために不快な、緊張した間柄が持續せられているうちに、寛永八年八月十四日に、利章の父卜庵が左右良の別邸で眠るように亡くなった。享年八十一歳である。其頃十太夫はとうとう家老の列に加えられて、九千石を貰った。實收三萬石の采地である。利章は勿論、一成も内藏允も井上内記も、十太夫がいかに御用に立つとは云え、節目のないものを家老にせられるのは好くあるまいと云ったが、忠之は聽かなかった。

暫くして忠之は、家老の家には什寶がなくてはならぬと云って、家康が關が原の役に父長政に與えた具足を十太夫に遺った。利章はこれを聞いて、自分で、倉八の邸へ出向いて、其具足を取り上げたが、これだけの事をするのに、忠之には一言もことわらなかったのである。忠之は怒ったが、これも利章にはなんにも云わずにしまった。

かれこれするうちに寛永九年になって、前將軍秀忠が亡くなり、忠之は江戸で葬儀に列して領國へ歸った。利章が出勤するとか、せぬとか云う爭がこうじて、忠之が自分で利章の邸へ出向こうとしたのは此時の事である。元來利章も我慢強いが、忠之も我慢強い。其忠之が此時に限って、分別のなくなる程苛立ったには別に原因がある。秀忠の亡くなったのは正月二十四日で、二十六日の夜増上寺への野邊送りがあり、二月二十二日に勅使が立ち二十六日に遺物分(かたみわけ)があり、三月十一日に忠之は暇を賜わって江戸を立った。忠之が領國に著いた四月は、隣國肥後に大事件の起った月である。

四月十日に江戸永田町の室賀源七郎正俊が邸へ匿名の書を持って來たものがある。肥後國熊本の城主加藤肥後守忠廣逆心云々の文面である。正俊の舅井上新左衞門は土井利勝に懇意にしているので、それを利勝に告げた。利勝は正俊に命じて匿名の書を持って來た男を搜索させた。十四日に麹町土橋で其男を捕えて見ると、忠廣の嫡子豐後守光正が家來前田五郎八と云うものであった。將軍家光は日光へ參詣して、下野國宇都宮に泊っているので、利勝は正俊を宇都宮へ遣って訴えさせた。そこで稻葉丹後守正勝が熊本へ上使に立って、忠廣は江戸へ召し寄せられることになった。正勝は熊本へ行くのに、筑前國遠賀郡山鹿を過ぎるので、丁度下國したばかりの忠之は、福岡から迎接の使者を出した。正使は十太夫で、副使は黒田市兵衞である。十太夫の同勢は新規の足輕二百人に徒歩衆、働筒衆を併せて三百五十人、市兵衞の一行は僅に上下三十八人である。山鹿へ著いて正勝の旅館に伺候すると、正勝はこう云った。倉八十太夫とは聞きも及ばぬ姓名である、黒田市兵衞は筋目のものと聞き及ぶ、黒田を通せと云った。十太夫は正使でありながら、上使に謁見することが出來ずに引き取った。福岡博多の町人共はかねて十太夫の專横を憎んでいたので、寄ると障ると山鹿の噂話をする。それを聞いて忠之は、利章等の諫書を讀んだ時よりも烈しく怒って、山鹿の事を評判するものは見附次第討ち取れと命じた。間もなく町人が所々で斬られた。博多網場町で立話をしていた二人は、杉原平助が一人斬って、一人取り逃がした。福岡呉服町で三鼎になって話していた三人は、坂田加左衞門が一人斬って二人取り逃がした。同唐人町で話していた二人も、濱田太左衞門が一人斬って一人取り逃がした。町人共は震え上がった。加藤家の事件は光正が父を讒誣したものとは知れたが、父忠廣には徳川家へ屆けずに生れた二歳の庶子某を領國へ連れて歸った廉があるので、六月朔日に改易を仰せ附けられて落著した。

忠之が出勤せぬ利章の邸へ、自分で押し掛けようとした怒には、嬖臣十太夫の受けた辱めに報いるために、福岡博多の町人を屠った興奮が加わっていたのであった。


 寛永九年八月二十五日に、忠之のもとへ徳川家の使者が來て參府の命を傳えた。忠之は始て夢の醒めたような心持になって、一成、内藏允を連れて福岡を立った。江戸近くなって聞けば、品川口には旗本、鐵砲頭以下數十人が待ち受けていて、忠之を品川東海寺に入れようとしている。忠之はたとい身の破滅は兔れぬにしても、なるべく本邸で果てたいと云うので、内藏允が思案して、忠之の駕籠を小人數で取り卷き、素槍一本持たせて、夜子の刻に神奈川を立たせた。此一行は夜中に品川を驅け拔けて、櫻田の上邸に入った。さて夜が明けてから、一成、内藏允が黒田家の行列を立てゝ品川口に掛かると、番所から使者が來て、阿部對馬守の申付である、黒田殿には御用があるによって一先ず東海寺へ立ち寄られたいと云った。内藏允は答えて、主人右衞門佐は火急の御召によって、既に小勢を以て夜中に入府いたされたと云った。

間もなく老中の使者が櫻田邸へ來た。忠之を澁谷長谷寺に入れようと云うのである。忠之はいかなる御不審かは知らぬが、邸内に於いてともかくも相成りたいと答えた。使者は其儘引き取った。續いて尾張家附成瀬隼人正正虎、紀伊家附安藤帶刀直次並に瀧口豐後守が來て面會を求めた。此三人は平生忠之と懇意な間柄なので、忠之を説き動かして、とうとう長谷寺に遷(うつ)らせた。

上邸から早打が福岡へ立った。それが著くと、福岡城では留守の家老、物頭、諸侍が集まって評議をした。評議が濟むと、組頭はそれぞれ部下に云い渡した。諸侍の中で城を渡して退去したいものは勝手に退去するが好い。又城を枕に討死したいものは用意をせいと云うのである。然るに諸侍は一人も退去しようとは云わぬ。そこで妻子をも城内に入れて、一戰の上一同討死すると云うことになった。防戰の持場は赤間口、畝町、金出口、金出宿、宰府口、比惠の原、岩戸口、三瀬越、唐津口、生松原、船手と城内とに分けられた。赤間口には井上内記、黒田兵庫、黒田市兵衞、小河縫殿助、小河織部、久野四兵衞、小河專太夫、畝町には井上監物、吉田壹岐、伊丹藏人、高橋忠左衞門、小河長五郎、金出口には野村右京、加藤圖書、村田出羽、毛利又右衞門、久野外記、喜多村緑之丞、加藤彌三之丞、金出宿には黒田監物、黒田平吉、林掃部、村山角右衞門、野口左助、喜多村勘解由、宰府口には毛利左近、月瀬右馬允、衣笠因幡、大音六左衞門、菅勘兵衞、吉田右馬太夫、長濱九郎右衞門、比惠の原には野村市右衞門、明石四郎兵衞、黒田總兵衞、齋藤甚右衞門、野村初右衞門、岩戸口には佐谷五郎太夫、松本能登、三瀬越には大塚權兵衞、小林内匠、竹中主膳、浦上三郎兵衞、菅彌一右衞門、黒田半右衞門、岡田左衞門、郡右衞門、蒔田源右衞門、大音安太夫、唐津口には郡正太夫、齋藤忠兵衞、吉田久太夫、毛利吉右衞門、生松原には郡金右衞門、松下源助、喜多村太郎兵衞、長瀬新次郎、櫛橋七之丞、西北の船手には松本吉右衞門、松本主殿、松本善兵衞、松本治右衞門、吉田孫右衞門、城内には衣斐伊豫、花房治右衞門、竹森新右衞門、其外隱居、二男、三男等がいる。大略こう云う手筈である。

江戸では十一月十七日に、忠之が老中に呼ばれて西の丸へ出た。家來の任用、肥後表へ差し向けた使者の件等は、公儀に於いて越度と認める、追って詮議を遂げるであろうと云う申渡である。暮方に成瀬は病氣だと云って、安藤が來て慰問した。夜戌刻に忠之は成瀬を見舞いに往った。十九日に忠之は歸邸を許されたが、上邸は憚があると云うので、弟隆政のいた麻布の下邸に遷って、隆政は長屋へ入り替った。

寛永十年二月上旬になって、中二三日を隔てゝ、忠之は前後三度西の丸へ呼ばれて老中の取調を受けた。利章の訴えた叛逆の企の事も尋ねられたが、忠之の辯解は理義明白であった。取調を受ける事になってから、忠之はわざと遠慮して、又長谷寺に籠っていた。

そのうち九州から竹中采女正が利章を連れて江戸に著した。そこで二月二十四日に、土井利勝の邸で利章と十太夫等との對決があることになった。立會として井伊掃部頭直孝、酒井雅樂頭忠世、酒井讚岐守忠勝、松平下總守忠弘、永井信濃守尚政、青山大膳亮幸利、板倉周防守重宗、稻葉丹後守正勝、尾張家附成瀬隼人正、紀伊家附安藤帶刀、大目附柳生但馬守宗矩、秋山修理亮、水野河内守、加々爪民部の人々が利勝の左右に著座する。大目附席から一間隔てゝ、一方には竹中采女正に引き添って利章がすわる。其向側には一成、其次に十太夫がすわる。

其時一應の調があった。利章はたゞ此度の事はいさゝか存ずる旨があって申し上げた、先年自分が諫書に認めて出した件々、又其後に生じた似寄の件々を、しかと調べて貰いたい、そうなったら此度の事の萌芽が知れようと云ったきり、口を噤んでしまった。一成、十太夫は主人右衞門佐に逆意があるなどゝは跡形もない事で、なぜ利章がそんな訴をしたか分からぬと云った。次で二人は老中側で忠之の越度と認めた廉々に就いて、事實上の尋問を受けた。

此間に黒田監物が呼び入れられた。これは足輕増員の事を問われた。

次に内藏允が呼び入れられた。これは召されぬのに推參したものゆえ、公儀の役からは詞が掛からぬ。内藏允は役人の方に禮をした後、利章にも常のように會釋をして、さてこう云う陳述をした。右衞門佐には逆意は無い。なぜ此訴を利章が起したか不審である。利章が生れた時に先代の主人筑前守長政は守、脇差、産衣、樽肴を父利安に贈られた。自分はそれを持って栗山家へ往ったが、其時利章の父利安は跣足で門まで送って出て、禮を言った。利章も成長してから、筑前守には不便を加えられている。それがどうして此訴を起したかと云って、内藏允は涙を零した。それから萬一右衞門佐に逆意があるなら、それを之房の道柏が知らぬ筈はないと云って座を起ち、次にいた道柏を連れて役人の前に來た。

道柏は一座へ禮をした後、つと利章の面前に進んで、そこに蹲った。そして「道柏がすわるのじゃ、少し下がって貰おう」と聲を掛けた。利章は「おすわりなされい」と云って動かずにいた。道柏は重ねて「もう右衞門佐殿が御出座になろう、少し下がらぬか」と云った。此時利章は一間ばかり下がった。道柏は利章より上に著座した。

道柏も内藏允と同じ事で、きょう召されたものではない。併し利勝は面識があるので詞を懸けた。續いて直孝が、「淡路が父じゃな」と云った。道柏は「さようにござります」と答えた。直孝は道柏の嫡子を識っていたのである。

道柏は利章に、「己はお主が父卜庵の友じゃが、卜庵は生涯虚言は言わなんだ、お主は父に生れ劣ったぞ」と云った。利章は「貴殿は近頃の事を御存じないから分からぬ」と云った。

次に道柏は役人の方に向いて述べた。天下は武を以て取り、文を以て守るものである。右衞門佐が叛逆を企てるなら、場數のある侍に相談せずには置くまい。黒田家では先ず一成などが老功である。内藏允、監物も二三度は場を踏んでいる。自分も少々覺がある。相談すべき家來は先ず此二三人で、利章は軍らしい軍をせぬものである。右衞門佐の企を利章ばかりが知っていて、我々が知らぬと云うのは、其企の無い證據である。右衞門佐若年のために政事向不行屆とあって、領國を召し上げられるなら、力に及ばぬ。無實の罪だけは霽(はら)して進ぜたい。關が原陣で神君は先代の主人筑前守長政の手を取って、其方の働で本意を遂げた、黒田家へは末代まで不沙汰はせぬと云われた。此席におられる土井殿、井伊殿、酒井殿も御承知であろうと云うのである。

一成、内藏允は道柏の申立に同意を表した。これで道柏、一成、内藏允は暇を賜った。利章は、政虎が指圖して引き取らせた。

これから二三日立って、忠之は老中に西の丸へ呼ばれて宣告を受けた。不調法の廉があって筑前國を召し上げられる。去りながら祖父以來の戰功と本人の實意とを認められて、新に筑前國拜領を仰附けられると云うのである。其晩に直次から書状を以て平常の通心得られたいと云って來た。忠之は夜中に麻布邸に入った。

三月初に利章は直孝の邸へ呼ばれた。立會には利勝が來る。忠世以下は土井邸の時と同じである。利章は丸腰で著席した。さて采女正を以て申し渡された。諫書中にある政事向の件々其外は大抵相違ない。併し右衞門佐逆意云々は僞りに極った。此上はかような申立をしたわけを明白に申せと云う事である。利章は答えた。諫書其外の申立を正當と御認めになったのは難有い爲合(しあわ)せである。右衞門佐に逆意があると申し立てたのは、右衞門佐の自分に對する私の成敗を留めるためであった。もしあの儘に領國で成敗せられたら、自分の犬死は惜むに足らぬが、右衞門佐は御取調を受けずに領國を召し上げられたであろう。此取計は憚ながら武略の一端かと存ずると云うのである。役人席には感動の色が見えた。

二三日立って、利章は再び直孝の邸へ呼ばれた。立會の人人は前度と同じで、それに南部山城守重直が加わっていた。松平忠弘を以て利章にこう申し渡された。此度右衞門佐は不調法の廉を以て、一旦筑前國を召し上げられ、更に先祖の功績と本人の實意とを思召されて、新に筑前國拜領を仰附けられた。其方は南部山城守へ御預けなされると云うのである。利章は「はっ」と云って、疊三枚程するすると下がり兩眼に涙を浮べて「難有き爲合せに存じ奉ります」と云った。重直が席を進めて、貴殿は公儀から百五十石の扶持を受け、盛岡へ下向の上は二三里の間を限り、自由に歩行せしめられると告げた。利章は重ねて禮を言った。

同じ頃に麻布邸へ正虎、直次が來て、道柏、一成、内藏允、監物、十太夫に面會し、正虎が「此度は右衞門佐殿公事御勝利になられて、祝著に存ずる、去りながら萬一右衞門佐殿配所へ遣される事になったのであったら、面々はなんとなされたのであったか、しかと承って置きたい」と云った。道柏が暫く思案して進み出た。「もしさように御極めなされたら、家老一同遁世仕ったでござりましょう」と云った。正虎が「一同それに相違はないか」と云った。一成等は「相違ございませぬ」と云った。正虎は「實に殊勝な心得と存ずる、黒田家には好い家老を持っておられる」と云って座を立った。これは福岡で籠城の用意をしたのが物議の種にならぬように、家老等の言質を取ったのである。

又二三日立ってから、安藤家へ十太夫が呼ばれた。直次は正虎を立ち會わせて、十太夫に剃髮して高野山に登ることを勸めた。十太夫は恐れ入って領承した。

五月八日に忠之は家光に謁見した。それで徳川家と黒田家との交際は元に復した。忠之は五年の後、寛永十五年の島原役に功を樹て、中二年置いて十八年に長崎番を命ぜられた。此時から從來平戸に來たオランダ舟が長崎に來ることになったのである。

是より先、寛永十四年に島原の亂が起った時、十太夫は高野山を拔け出て耶蘇教徒の群に加ったが、原城の落ちた時亂軍の中で討たれた。

 

 利章が陸奧國巖手郡盛岡の城下に遷ったのは、寛永十一年三月の末であった。南部家では廣小路に立派な邸を設けてこれを迎えた。

二年前の六月十四日は利章がため恐るべき日であった。利章は福岡の邸から女房と二男吉次とを主家へ人質に出し、竹中采女正に宛てた訴状を二通書いて、一通は物馴れたものに持たせて、間道を日田へ遣り、今一通はわざと人に怪まれるような風體の百姓に持たせて、市中でそれを巡檢の役人に捕えさせた。利章は此最後の手段を取る前に、手分けをして城下の邸をも左右良の別邸をも取り片附け、大切な品はそれぞれ處分した。中には徳川家康が長政に與えた、慶長五年九月十九日附の書附がある。「今天下平均の儀、誠御忠節ゆえと存候云云、御子孫永く疎略之儀有之間敷候と云う文句のある一札である。利章はこれを梶原平十郎景尚に渡して云った。此度右衞門佐も自分も江戸に召されるからは、黒田家の浮沈に及ぶ事がないには限らぬ、さようの場合には此書附を持って江戸に出て、土井、井伊、酒井三閣老の中へ差し出されいと云った。景尚の父官藏景次は播磨國高砂の城主駿河守景則と孝高の母の姉、明石氏との間に生れた子で、此景次が尾エ氏を娶って生ませたのが景尚である。尾エ氏は父を安右衞門と云って、孝高の妹婿である。安右衞門が戰歿し、未亡人黒田氏が尼になってから、尾エ氏は孝高の夫人櫛橋氏の侍女になっているうちに、孝高の手が附いて姙娠した。景次は君命によってこれを娶って景尚を生ませた。それだから景尚は實は孝高の庶子、長政の弟、忠之の伯父である。此書附は用立たずにしまったが、後明和五年になって黒田筑前守繼高の手に梶原家から戻った。

忠之の江戸へ召された頃、利章は日田の竹中が役宅に身を寄せて、評定の始まる前に、竹中に連れられて江戸へ出た。

利章は盛岡へ立つ時、嫡男大吉利周を連れて立った。家來で隨從したのは仙石角右衞門、財津大右衞門を始として、譜代の者共數十人であった。福岡の黒田兵庫が邸に預けられた利章の妻黒田氏と二男吉次郎とには、後に五百石の扶持を賜わることになった。

利章は盛岡に往った時四十四歳で、まだ元氣盛んであったので、妾内山氏を納れた。此女の腹に、後に女子が出來た。


忠之が長崎番を命ぜられた寛永十八年の冬、盛岡に遠からぬ天領の代官井上某が利章の人柄を慕って面會したいと言い入れた。利章は「浮浪の身の上なれば、御ことわり申すべきかとも存候えども、閑居徒然の折柄、御尋に預候わば、面談可申候」と返事をした。

井上が廣小路の邸を尋ねて、一間に通った時、頭巾を被って爐に當っていた利章は顏を上げて、「御出御苦勞に存ずる」と、居直りもせずに挨拶した。歳は五十一歳であるが、血色は壯年のものに劣らない。

井上は直參の自分に對する挨拶としては、少し勝手が違うように感じて、暫く樣子を見ていたが、主人は右の挨拶の外には別に無禮な擧動もせぬ。そこで二言三言物語をして歸った。

邸を出てから井上は主人の態度を思い浮べて、どう云う心持ちであんな挨拶をしたかと考えた。家に歸ってからも、それを考え續けた。併しどうしても分からぬので、今一應尋ねて先方の腹を探ってみようと決心した。

二度目に往くと、利章は又同じ態度で挨拶した。そこで井上が先ず舌戰の火蓋を切った。自分が再度まで尋ねるのは、貴殿を非凡の人だと聞き及んで、物事を相談し、場合によっては指南を受けようと思うからである。然るに貴殿の樣子は格別凡人と異なるようにも見えぬ。いさゝか案外に存ずると云ったのである。

利章は答えた。なる程自分は凡人かも知れぬ。併し人の賢愚正邪は實のある話をした上で分かるものである。

井上は云った。然らばお尋する。自分は不肖ながら直參の身分である。それに貴殿が居直りもせずに挨拶せられるのは、どう云う御所存か承りたい。

利章は答えた。それは貴殿の考が至らぬのである。自分は筑前にいた時、左右良の城主で二萬五千石を領していた。大阪役の後に、悉く天下の端城を毀たれたので、左右良も其數には洩れなかった。併し采地は依然としておった。又黒田家の家老としては五十餘萬石の國政を與り聞き、五萬餘の士卒を支配した。黒田家程の家の去就は天下の安危に關する。現に關が原の役にも、孝高、長政を身方に附けて、徳川家は一統の業を成された。然れば自分は、三四百俵の代官たる貴殿に、手を下げ膝を屈するいわれがない。

 此答を聞いて井上は、げにもと悟って、自分の不心得を謝し、利章と親密に交って種々の事を質(たゞ)した。

井上が軍法諸流の得失を問うた時、利章は云った。政治は文武を併せ用いるものである。文は寛、武は猛である。武は兇器を用いることをのみ言うのではない。敢爲邁往の政は皆武である。軍法は武を用いる一端に過ぎぬ。流義の沙汰は無用で、七書以外に格別の物は無い。手元を丈夫にして置き、敵情を十分吟味して戰えば勝つ。軍法は常にある。戰場の人員、備立のみを軍法として心得ては、大局の利を收めることは覺束ない。

城の繩張の善惡を問うた時、利章は云った。城は亂世に妻子糧米、器具を入れる物置である。百姓町人の土藏と同じである。名將は城廓に重きを置かぬ。忠實な臣下が即城である。諸侯の身の上では天子の外に憚るものは無い。良臣を養って置いて、時勢を見合わせ、一寸なりとも領地を擴めることを心掛くるが肝要である。

武士の志を問うた時、利章は云った。志は大きくなくてはならぬ。唐土に生れたなら、天子になろうと志すが好い。日本に生れたなら、關白公方になろうと志すが好い。さてそれを爲し遂げるには身を愼み人を懷けるより外は無い。既に國郡が手に入ったら、人物を鑑識して任用しなくてはならぬ。用に立つ人物は、十人の内六人譽め四人誹(そし)るものである。十人が十人譽めるものは侫奸である。猶一つ心得て置くべきは權道である。これを見切と云う。取るは逆、守るは順であるから、これは不義だと心附いた事も、こればかりの踏違えは苦しゅうないと、強く見切って決行するものである。

 

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 利章は承應元年三月一日に六十二歳で亡くなった。江戸で徳川家光が亡くなって、家綱が嗣いだ年の翌年である。利章の墓と大きな碑とが、今陸中國巖手群米内村愛宕山法輪院址の山腹に殘っている。妾山内氏の生んだ女子には婿養子が出來て、南部家に仕えた。内山善吉と云う二百石取がそれである。栗山の名は人に故主の非を思わせるからと云って、利章がわざと外戚の苗字を冒させた。利章の家來仙石、財津も南部家に召し出されて、各五十石を受けた。嫡男利周は黒田家の聘を斥けて、處士を以て終った。

(大正三年、太陽)