文系の雑学・豆知識

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武市半平太の最後(三文字割腹の法に関する資料)

 三年に亘る裁判も遂に瑞山(半平太)等を服罪させることが出来ない。この上は証拠不充分の故をもって放免するか、或は証拠も服罪も無視していわゆる「御見つけ」をもつて処刑するかの二つに一つであるが、時あたかも勤皇派不振の天下であり、藩庁要路の顔振れから見ても、放免ということは到底あり得ないことである。瑞山も充分これを察していた。

 遂に最後の審判の日は来た。この日瑞山は病気で牢番二人の肩に縋って出廷した。大目付一同以下列座で、物々しく威儀を正していた。後藤良輔が申し渡した。 

「さてこれまで段々の御吟味が行われたが、いつもその方は偽りの申し開きを致すけれども、江戸表で徒党を結び、御上を軽んじ、又京都においては高貴の御方の御前に出て様々の事を申上げた事は、御隠居様の御耳に入っている。その上に御隠居様へも度々無礼な事を申上げたのは重々不届である。もはや申し開きは御取り上げに相成らぬ。この上は御見つけを以って罰を仰付けられるから、左様心得られよ。」

瑞山は腹痛が激しくて抗辯が出来ない。よしできてもお取上げ更相成らぬといふのだから致しかたもないのだ。前日、河野満壽弥等が同様の申渡しを受けたが、河野はお受けもせずに笑って居たといふ。  

『返答は如何で御座るぞ。』

と小目付が催促したけれども、瑞山はやはり無言のままで、  

『立ちませエ。』

と、外へ連れ出された。       


このやうにして、岡田以蔵、岡本等四名を除く同志は皆、当人の自白のないに拘らず、それぞれお見つけの判決を以って有罪と決定した。処刑も瑞山と前後して行はれた。

 瑞山はいよいよ死刑の日の近いのを覚悟して、盥の水に顔をうつして二枚の自画像を書き、各々詩を題して留守元へ送った。その一つは、


花は清香に依って愛せられ 人は仁義を以って栄える

幽囚何ぞ恥ずべけんや 只赤心の明かなる有り

 

 

 これに添えた手紙の一節には、
 『さてじぶん絵をかき候処、ちとちと男ぶりがよすぎてひとりをかしく候。かがみで見てみるとますますやせて、口ひげはぬ(延)びほふ(頬)はかど出て、まことにやつれはて申候、されどもこころは大丈夫に候まゝ、こればかりは御気遣被されまじく云々』 その後の手紙にも、「大分こゝろよく候(病気)まゝ、少しも気遣あるまじく候」との一節があるのは、心中期する所があるのである。かねて瑞山は牢番の門谷貫助といふ者に、 

『切腹は一文字にかき切る法だけのやうに思ふ者があるけれども、なほ外に十文子と三文字の法がある。』

と形をやって見せて、

『俺が切腹する時には、この十文字か三文字の法でやるつもりだ。ところで法を知らぬ 世間の人に、死に臨んで心臆し、切り損じたやうに思はれては心外だ。お前がよく覚えて居て、同志の者へ武市がかねてからかように申してゐたと傳へてくれ。』

と談ったことがあるが、その後病気をしてからは、 

 『かう衰弱しては、十文字や三文字の割腹はとても駄目だ。』

ともいつてゐた。しかし大分快方に向つたので、切腹の方法にも自信が出来たのを喜んだ文面である。

外部の同志が死罪決定との噂をきき出して、かくと夫人に報告した。彼女は悲歎の中にも動ずる事なく、万一を覚悟してかねて用意して居た死出の晴着を差し入れた。夫が京都勤番中につくつた思出の多い白無垢一かさねと肩衣、それに新しい下着の類一そろへである。瑞山は死装束を心まつて居た所とて、

『おお、この事、この事』

と、妻が最後の心づくしを感謝し、充分に身体を浄めてこの晴着に着替へ、悠々と死期の至るを待つた。 


時は慶應元年(1865)閏五月十一日の夜。 

南会所大広庭(今の帯屋町公設市場内側)北の隅に板を敷き、其の上に新しい薦をのべた設けの席に、導き込まれた瑞山は静かに着座する。大目付以下全係員威儀を正しての列座である。後藤良輔が声高らかに宣告文を読上げる。 

『武市半平太―去る酉年以来天下の形勢に乗じ、密かに党與を結び、人心煽動の基本を醸成し、爾来京都高貴の御方へ容易ならざる儀屡々申上げ、はた又御隠居様へ屡々不屈の儀申上候事共、総て臣下の分を失し、上威を軽蔑し、図家を紊乱し、言語道断重々不届の至り、きつと御不快に思し召され、厳科に処せらるべき筈の処、御慈悲を以て切腹仰付けらる。』

『有難くお請け仕ります。』

瑞山は軽く一礼した。下役の者が匕首を載せた三方を座の前に進める。瑞山は袴を押下げ着衣を披いて、おもむろに三方の匕首を取つた。ほのかに初夏の夜風が一陣、いささか燭台の灯がゆらめく。と見るや忽ちかすかに裂帛の声、つづいて二度、三度。見事な三文字の割腹である。鮮血縷々とほとばしり飛んで、検視の役人の袴をも染めた。そうして従容と血汐の刃を三方の上に置き、膝も崩さずうつむく所を、つと寄って小笠原忠五郎、島村壽太郎の両人が左右から刺して介錯する。忠五郎は瑞山の姉の子、憲太郎は妻の弟、ともに介錯人として呼び出されたものである。瑞山時に三十七歳であつた。 

遺骸は長棒の駕籠に移された。この駕籠も瑞山が筑後守柳川左門の仮名で勅位に随従した時の記念の品である。同志の大石弥太郎、上田楠次等が供をして田淵の自邸に帰り、翌日吸井村の累代の墓地に葬られた。

(武市瑞山先生より・昭和十七年)