文系の雑学・豆知識

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坂本龍馬の姉・坂本乙女に関する資料

 八平直足の三女、天保三年(一八三二)正月一日出生、龍馬より三歳上である。年がもっとも近いので龍馬は他の兄姉よりも乙女になついていた。脱藩後席のあたたまる暇も無い程東に西に奔走中でも、乙女にはこまめに近況を報じ、ときとしては手紙でからかったり、また甘えもしているのが現存する書翰の随所に散見されるのである。

体躯巨大で身長五尺八寸(一七六㌢)、体重三十貫(一一三㌔)に近く、それにまつわる挿話も豊富で「坂本のお仁王様」と渾名された。身体が大きいのは父譲りで、子供達はみな父に似ていたようだ。龍馬も身長六尺(一八二㌢)の大男である。母幸に死別してからは乙女が龍馬の身の回り、学問武芸の指導にあたった。器量は良くなく色白だがあばた、大へんな近目で、髪が薄かった。そういえば龍馬も近目で縮れ毛だった。仲が良いと悪いところまで似るのだろうか。男勝りで剣術は切紙の腕前、馬術弓術水泳も得意で、また経書和歌絵画はもとより琴三味線・一絃琴・舞踊・謡曲・浄瑠璃・琵琶歌などまことに多芸多趣味、特に義太夫節を好み、彼女自身時に寄席の高座で唸ったというから、その肩衣姿はさぞ偉観であったことだろう。しかし料理裁縫は苦手であったらしい。 

▲左が乙女

乙女の夫は容堂公の典医を勤める岡上新甫(樹庵)、坂本家に近い木丁筋二丁目に住んでいた。結婚の時期は明らかでないが、乙女の生んだ赦太郎が十四歳で死亡しており、その没年(明治四年)から逆算して安政五年に生まれたとすると、龍馬の江戸再遊―安政三、四年頃であると思われる。 

新甫は香美郡山北村の旧家藤田善七の次男で、兄の篤治は地下医師、天保十年一月三人扶持六石用人格・岡上卓元の女勢の婿養子に入り、後その家督を嗣いだから乙女は山北村へ行ったのではない。按摩術、本道、小児科も兼ねていた。

「高知市史上巻第二篇第八章 防災・厚生施設」の項に、山内家に仕えた医師の氏名、知行扶持、登庸年月日の表がある。その中に「岡上文益」という名があり、文化九年四月に登庸されているが、これが養父の卓元と同一人物であろう。 

岡上氏は長宗我部氏に仕え番頭を勤めた家柄であるが、岡上吉助のとき医師に転向し薊野村で開業した。仁医の評判高く、山内一豊に召されてより代々典医を勤め、新甫がその八代にあたる。身長五尺に足らぬ小男で、疳癖の強い人だったといわれる。NHKのドラマ「龍馬がゆく」では、水谷良重扮する乙女が観世栄夫扮する新南に、さげすむような口をきいているが、実生活ではその小男が大女を引き据えてなぐりつけることが度々であったそうだ。そういうとき乙女はただなすがままに任せ、ひたすら恐れ入るばかりの従順さがあった。 

乙女が岡上家から離退したのは元治二年(慶応改元)と推定されているのは平尾道雄氏の説であるが、「岡上菊栄伝」匿よれば慶応三年十一月としている。

新甫の長女岡上菊栄女史は慶応三年九月九日生まれ、新甫が赦太郎と同じ明治四年七月三日に病死したので、わずか五歳で孤児になった。妹の政は二歳で二人は山北村の伯父に養育されたが、後生活苦とたたかいながら勉学―小学校数員を志した。明治二十二年十一月二十五日付の土陽新聞に「高知市南新町士族岡上菊枝、小学校教員(裁縫科)検定に及第」とあり、それより香美郡各地や安芸町の小学校で裁縫を教えている。明治四十三年高知慈善協会博愛園の初代園母に就いたのが、薄幸な孤児達を救い、いつくしみ育てる事業に後半生を捧げた動機である。高知県慈善事業界の功労者として、今もその徳行が称えられている。 

ところで、岡上菊栄女史の伝には必ずといってよい程、乙女の子として扱われているのは疑義がある。平尾氏説の如く、慶応元年に乙女が離退したのなら、何も問題は無い。しかし女史の年譜には「生後二ケ月のとき母乙女離婚」とあり、女史が物心ついた頃から絶えず乙女を訪れて幾晩も泊ったり、乙女の武士道的教育を受けたことなどがこまごまと書いているのを見ると、或は事実であったかも知れないとも思うのである。菊栄伝の著者は、「一部の史家に異論もあるが、戸籍もなかった頃の事とて実子、庶子いづれの確認も得難いし、又大乗的見地から云えば之は大した問題ではない」と述べておられる。全くその通りである。菊栄女史が乙女の子であろうとなかろうと一般的にはどうでもよいことで、菊栄女史の偉大な功績に対する評価とは関係無いのである。しかし筆者は坂本家裔族の一員としてもう少し事の真偽を探求してみたい。それには菊栄女史の伝記にどれだけの信憑性があるかということになる。 

宮地仁氏著「おばあちゃんの一生―岡上菊栄伝」に、公文婦喜という乳母が出てくる。 

「乙女は別居に先立ち二子のために乳母を雇うた。乳母は名を富貴といゝ、安芸郡唐の浜の漁夫の娘、はやく父母に死別して……」 

「富貴は十八の娘盛りを乳母として岡上家に入り、間もなく樹庵の胤を宿してまさゑを生んだ……」 

「富貴が六十過ぎてから何かの事で立腹した時、『私はすぐ此家を出るきに十八から今までの給金をおゝせ』と云った‥…」 

ところで、たんち山の坂本家墓所の反対側、すなわち蛭ケ谷の南(永福寺裏)の山際のあぜ道を少し進むと左側田圃の直ぐ際に岡上家の墓所がある。新甫以降の方達を葬っていて、奥の右端が岡上新市(明治四未歳七月三日春秋五十六)の墓があり、その左隣が公文婦喜の墓である。銘に「明治四十五年五月十九日行年七十七歳」と刻んでいる。それで逆算すると、婦喜の生年は天保七年(一八三六)で、岡上家に奉公をはじめたのが十八歳ならば、その年は嘉永六年で乙女が結婚する以前から岡上家に居たことになる。乙女が慶応三年に離婚したと仮定すれば、婦喜は三十二歳であったわけだ。 

筆者の如き浅学者が先賢の著書の揚げ足をとるのは不本意であるが、もう一ヶ所だけ取り上げる。 

「菊栄さんの兄を赦太郎といって、かの女の五つの時病没したが、その性質は何れも似ず頗る温和であった。(中略)然し彼は決して柔弱一方ではなかった。その証拠には曽て伯父の籠馬が彼に向って『今日一つ試斬をやれ、お前の刀でその手水鉢を切ってみよ』と云ったが、彼は直ぐさま抜く手見せず切りつけた。(中略)龍馬は非常に之を賞美し、即時自分の帯びていた脇差を与えたという」 

これは作り話のように思えてならない。菊栄女史が誰からか聞いたのであろうが、龍馬が赦太郎を相手にして遊んでやったのは一体いつであったのか。龍馬が脱藩後はじめて家に帰ったのは慶応三年九月二十九日である。それはライフル銃一千挺を震天丸に積んで土佐藩に売るため浦戸へ入ったのが二十四日、用務を終ってはじめて実家の敷居をまたいで一泊したときのことで、赦太郎はこの時十歳、右の挿話があったとすればこのときをおいて外になさそうだ。三条家衛士戸田雅楽が同行しており、京阪の風雲急なとき龍馬が実家に一泊したのは寸暇を惜しんでのことであったに違いない。また武士が刀で手水鉢を切れなどと言うだろうか。試し斬なら外にもう少し適当な物があるだろう。 

乙女離婚について筆者はこう考える。乙女が岡上家に入ったとき、すでに婦喜という女中が居た。そして何時の頃か、夫と婦喜が常ならぬ関係にあるのを知り我慢出来ないで実家に戻ったのである。それは菊栄女史が生まれる以前のことであった。乙女が生後二ケ月の嬰児を乳母に預けたままで戻ったなどとは、夫に襟がみをつかまれ引き据えられて撲られても、なすがままにしていたという女大学を地で行くような乙女に出来ることであっただろうか。このような推測も可能であるという話であって、前にも述べたように菊栄女史が乙女の子であろうとなかろうと、菊栄女史の社会に尽くした功績とは何のかかわりも無い、したがって菊栄女史の名誉を傷づける意思は毛頭ないのである。 

乙女の晩年は権平の養子直寛(当時南海男)に養われ、明治十二年(一八二九)八月三十一日病没、享年四十九歳。

(坂本家系考・土居晴夫、昭和四十三年)

著者は龍馬の姉千鶴の次男の子息である。