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井原西鶴『世間胸算用』(現代語訳・織田作之助)全文

巻一

問屋の寛潤女

世の定めで、大晦日の闇は神代このかた知れたことなのに、人はみな渡世を油断して、毎年一度の胸算用が食い違い、節季を仕舞いかねて困る。というのも、めいめい覚悟がわるいからだ。この一日は千金に替えがたい。

銭銀のうては越されぬ冬と春との峠が大晦日、借金の山が高うては登りにくい。それも足手まといの子というものに、それぞれに相応の費用を食うからだ。差し当っては、目には見えぬが、例えば正月の破魔弓、手鞠、三月の雛、五月の菖蒲刀、おどり太鼓、八朔の綏(つくり)雀など、いずれは掃溜の中へ捨てられるのだが、年中に積れば、莫迦にはならぬ。なお、中の亥猪を祝う餅、氏神の御払団子、弟子の朔日、厄払いの包銭のほか夢違いの御礼まで買わねばならず、宝舟にも車にも積み余るほどの物入りである。

ことに近年は、どこの女房も贅沢になっている上になお、当世流行の正月小袖に浮身をやつし、羽二重半疋四十五匁の地絹も大変だが、その染賃と来てはそれ以上で金一両ずつも出すのだ。つまりは、さのみ人目につかぬことに、あたら金銀を捨てるのである。帯にしてからが、古渡りの本繻子で一幅に一丈二尺一筋につき銀二枚がものを腰にまとい、小判二両のさし櫛とは、まるで今の値段の米にして五斗俵六つを頭にいただいているも同然。腰巻も本紅の二枚がさね、白ぬめの足袋をはくなど、昔は大名の奥方も遊ばさぬこと、思えば町人の女房の分際として、冥加恐しいことである。それも金銀があり余ってのことなればともかく、夜が明ければもう利子を食う、油断のならぬ銀を借りている身代で、こんな女房の派手好みは、よくよく分別すればわれながら恥かしい筈。それとも、たとえ明日分散に会っても、女の諸道具は差押えを免れるから、新規まきなおしの世帯の種にするつもりだろうか。

すべて、女は、鼻のさきで、身代がつぶれるその宵まで、月夜の乗物に二つ提灯といった無用の見栄を張りたがる。まるで闇に錦の上着、湯を沸して水へ入れるようなもの、何の役にも立たぬ振舞い故、死んだ親仁が持仏堂の隅から見て、死んでいる身の、悔んだとて意見の仕様もあるまいが、今の商売のやり方はありゃまるで嘘だらけだ。十貫目の物か買って八貫目に売り、僅かに銀をまわしている才覚、所詮は懐が弱るばかりだ。来年の暮には、この門の戸に、売家十八間口、庭に蔵三カ所、戸建具そのまま、畳上中二百四十畳、外に廻漕船一艘、五人乗の屋形舟通い舟附けて売申候、来る正月十九日にこの町の会所で札を開くと告示され、皆人のものになってしまうのだが、それも仏の眼には見え透いて悲しい。さだめて仏具も人手に渡ることだろう。中でも唐金の三具足は、代々持ち伝えて来たもの故、なんばうにも惜しい。この七月の魂祭の送火の時、蓮の葉に包んで極楽へ持ち帰ろう。どう見ても、この家は来年限りだ。お前の思惑もきかいでか、丹波にだいぶん田地を買付けて、隠居所を拵えたのだが、かえって無分別なこと。お前自身が利口なら、銀貸す人もまたすべて抜目がないというもの、そんな田地はひとつひとつ調べ出し、結局はみな取りあげられてしまうのだ。そんなつまらぬ悪だくみをするよりは、もう一ぺん商売を仕直してくれ。死んでも子は可愛いままに、枕神に立ってこのことを知らせるのだと、ありし日の姿ありありと、こういわれた夢が覚めて、明くれは十二月二十九日の朝、この息子寝所よりもう大笑いで、さてもさても今日明日の忙しいさなかに死んだ親仁の欲の夢見、あの三具足はお寺へあげてしまえ。あの世までも欲の止まらぬ親仁だと、謗っているうちに、諸方の借金取がどっと押しよせてきた。

どうして埒を明けることかと思っていると近頃、銀なしの商人たちは、自身金銀のあるときは無利子で両替屋へ預けて置き、こんなときに借りるという要領で、小利口なのが振手形というのを発明して、手まわしはお互いに良いことだが、この亭主もそのでんで、霜月の末から銀二十五貫を懇意な両替屋へ預け、大晦日の払いには、米屋も呉服屋も味噌屋も肴屋も、観音講の出し前も茶屋遊びの銀も、掛取りに来る者にはみな、あの両替屋で請け取れとて振手形を一枚ずつ渡して、これで万事仕舞ったと年籠りの住吉参り、けれどさすがに胸の静まるひまもない。こんな人の賽銭は、神様も受けてからが心配なことだろう。

さて、その振手形は、二十五貫目のところへ八十貫目あまりも持ち込まれたので、両替屋では、金は勘定差引した上で渡そう、振手形がだいぶおまっせと、いろいろ詮議するうち、掛取の方でもその手形をよそへ廻し、それをまた次へ廻すなど、しまいにはどさくさと入り乱れ、やがては不渡りになった振手形を銀のかわりに握って、年を取るのだが、一夜明けると、もう豊かな初春である。

 


長刀はむかしの鞘


六十九年前、元旦に日蝕があった。いままたこの元禄五年壬申にもこれがあって、全く以ってめずらしい曙だ。

持統天皇の四年に儀鳳暦に改って以来、この日月の蝕を証拠に、世のひと、暦を疑うこともない。最初の一枚から見尽して、暦も最後の大晦日とはなった。

浄瑠璃小唄の声も出ず、きょう一日の暮はせわしい。ことに貧乏長屋では、喧嘩、洗濯、壁の修繕など、なにもかも一緒くたで、さて春の用意とては、全く餅一つ、小鰯一匹もないのだ。世にときめいている連中と見比べて、浅ましくも哀れなことだ。

この長屋六、七軒、どうして年をとることかと思っていたが、みな質草の心当てがあって、少しも世を歎く風情がない。日頃、世帯の持ち方が、家賃はその月末にすまし、そのほか世帯道具一切、あるいは米味噌、食酢、醤油、塩、油なども貸す人がないから、万事現金払いで毎日を送っている故、節季、節季に掛帳を下げて、案内なしに入って来る者はひとりもなく、誰におそれて言訳けする向きもなく、楽しみは貧賎にありという、古人の詞もまんざら反古ではない。請求書をもらって支払わぬのは、世にまぎれ住む昼盗人と同じだ。これを思うに、人はみな一年中の大見積だけして、月々の胸算用をせぬため、収支勘定が合わないのである。その日暮しの身なら、知れた世帯故、小遣帳ひとつ附けるまでもない。

さて、大晦日の暮方まで不断と変らぬ調子なので、正月のことなどどうして埒を明けることかと思っていたが、それぞれに質を置く覚悟があって、どうにかやりくりしているのは哀れである。

一軒からは、古傘一本に綿操車一つ、茶釜一つ、かれこれ三色で銀一匁借りてことをすませた。またその隣では、嚊不断帯を観世縒に仕替えて一すじ、それに男の木綿頭巾一つ、蓋なしの小重箱一組、七ツ半の蔵一丁、五合桝一合桝合わせて二つ、湊焼の石皿五枚、吊仏壇に仏の道具を添え、取集めて二十三種類の質ぐさで、一匁大分借りて年を取った。その東隣には辛苦舞の舞人間(かどづけ)が住んでいたが、元日より大里舞に商売替えするので、五文の面、張貫の槌一つで松の内は口過ぎできる故、この烏帽子、直垂、大口は要らぬものだと、二匁七分の質に置いて、ゆるりと年を越した。

その隣にうるさい紙子浪人がいた。武具や馬具を永年売りぐいして来たが、内職の馬の尾でしかけた鯛釣もはやりがやんで、商売にならず、今という今、細工刀のこじりがさしつまって、一夜を越すべき才覚もなく、似せ梨地の長刀の鞘を一つ、女房に質畠へ持たせてやったところ、こんなもの何の役にも立たしまへんと、碌々見もせず、投げ戻したから、浪人の女房はいきなり色を変えて『ひとの大事な道具を投げるとは、どういう所存か。質にいやなら、いやで済むこと、それを何の役にも立たぬとは、さあ、きかせて貰いましょう。これは妾の親が石田治部少輔の乱に並びなき手柄を立てられた長刀だけれど、男子がない故に妾に譲られ、世にある時の嫁入りに対の挟箱の先へ持たせたもの、役に立たぬといわれては先祖の恥。女にこそ生れたが、命は惜まぬ。相手は亭主』と武者振りついて、泣きだしたので、主人は困りはて、さまざま詫びても、きくでない。そのうちに、近所の者が集って来て、「あのつれあいの浪人ちゅうのはゆすりだっせ。ききつけて、やって来ぬうちに、話をつけてしまいなはれ」と、いずれも主人に耳打ちして、銭三百と玄米三升で、やっと話をつけた。

さすがに時世だ。この女も昔は千二百石取った人の息女で、万事派手に暮して来た身が、現在の貧のままに、無理な因縁つけて人をゆするとは、まことに残念なことだ。これを見ても、貧乏では死ねないものである。

既に話が済んで、三百と三升受けとった。

「こんな黒米を持ち帰っても、明日の用には立ちません」

というので、幸いここに唐臼があると、貸して、踏ませて帰した。俗にいう「さわり三百」とはこのことだろう。

この浪人の隣に、年の頃三十七、八の女がいた。親類も頼る子もないひとり身だったが、五、六年前に夫に死に別れたらしく髪を切り、地味な紋なしのものを着てはいるものの、ひそかに身だしなみはして、昔を捨てず、姿かたちもいやしくない。日頃は奈良芋を慰み半分にひねるのを内職みたいに日を送っていたが、はや十二月のはじめに万事手廻しよく用意して、割木も二、三月までの分は貯え、肴掛けには二番のぶり一本、小鯛五枚、鱈二本、雑煮箸、塗箸、紀州産の椀、鍋蓋までさらりと新しく取替えて、家主殿へは鰹一本、その娘へは絹緒の小雪駄、お内儀には畦足袋一足、なお七軒の長屋へは餅に牛蒡一把ずつ添えて配り、礼儀ただしく年を取った。何をして暮しているのか、内証のことは知る由もない。

その奥に二人の女が割家賃で住んでいた。一人は年も若く、耳も目鼻も世の人と変りはないのに、一生独身で暮して来て悲しく、鏡見るたびに、われながら横手を打って、これでは人も合点せぬ筈だと、身の不器量を悲観していた。

もう一人は、東海道関の地蔵近くの旅籠屋で飯盛女をしていた時、木賃泊りの抜け参りにすげなくして、米など盗んだ罪が、同じ世で報いて来たのか、いまは貰い米もすくない托鉢に落ちて、殊勝らしき顔をつくろい、心にもない空念仏、思えば心の鬼、狼に衣だ。精進は忘れて、鰯の頭も信心からとて、墨染の衣を着ているおかげで、この十四、五年も仏のお情にすがって、毎朝修行に出れば、一町に二所ずつは貰える。しかし、二十カ所集めてやっと一合、五十町駈け廻らねば、米五合にはならぬ。托鉢も達者でのうてはむずかしい。去年の夏、霍乱を煩ったので致し方なく衣を一匁八分の質に置いたが、その後うけ出すことも出来ず、渡世の種が尽きた。世間の後世信心には変りはない筈だが、衣を着た朝は五合貰われ、衣なしでは二合のお貰いもない。ことに極月坊主のたとえ、この月は忙しさに取りまざれて親の命日も忘れるほど故、施米もくれず、仕方なく銭八文だけで年を越した。

まことに、貧乏長屋の辺の小質屋ほど世の哀れさを見るものはない。気が弱くてはとてもつとまらぬ。脇から見てさえ、悲しいこと数々の年の碁だ。

 


伊勢海老は春の紅葉


神の松、山草など、昔から毎年飾りつけて来た蓬莱に伊勢海老がなくては、ありつけたこの一色で、もう正月の気がしない。年により格別値の高いことがあって、貧家または始末な家では、これを買わずに祝儀を済ませた。この前も、橙不作の年があって、一つ四、五分もしたもので、代りに九年母で埒をあけた。この方は大体色も形も似たりよったりの物だが、伊勢海老のかわりに車海老では、なんとしても借着のようだ。しかし、これも無い袖ふる人には是非もないが、世間を張って棟の高い家では、またそれだけの風が当って、北雨吹の壁に筵菰というわけにもいかぬ。やはり渋墨の色附板で包むなど、しかし奢りではなく、分相応に人間衣食住の三つを楽しむというものだ。何家業にせよ、親の老舗せたことを変えて、利を得たのは稀だ。とかく年寄の指図はきいて置くものだ。どれほど悧発で才覚があっても、若い人には、三五の十八で、ばらりと違うことが多い。

さて、大阪の大節季は、ありとあらゆる商品で賑わう。商いがないないというのは六十年この方だが、売れ残って捨てたはなしはきかない。一つ買っておけば、その身一代、子孫までも譲り伝える挽臼でさえ、日々年々には御影石の山も切り尽すだろう。まして、蓮の葉物、五月の甲、正月の祝道具などは、わずか一日、二日、三日坊主、坊主が檀家への祝扇など明けもせずに捨てて、世間の費もかまわぬありさま、人の気も江戸に続いて大まかなところだ。たとえ、銭千貫するとも、伊勢海老なしに蓬莱が飾れようかと、どの家でも調えるありさまで、極月の二十七、八日からあちらこちらの魚屋から買いあげるため、舶来物同然に次第に入手しがたくなり、はや大晦日には髭も塵もなくなった。浦の苫屋の紅葉ではないが、ありもせぬものを尋ね、『伊勢海老ないか、伊勢海老ないか』という声ばかりだ。

備後町の中程、永来という魚屋に、ただ一つあったのを、一匁五分から四匁八分まで買値を上げて行ったが、ことしは品切れものだと、なかなか売らない。傍の一存にもなり難く、急ぎ家に帰って、その旨話すと、親父は渋い顔して、「わいは一代のうちに高い物買うたことがない。薪は六月、綿は八月、米は新酒を作らぬ前、奈良晒は毎年盆過ぎにと、安い時の現金買で上手にやって来た。以前、父親が死んだ時、棺桶一つ、樽屋任せに買いかぶったのが、いまだに気になる。伊勢海老が無うて、正月が出来んということもあるまい。一つ三文の年に二つ買うて、埋め合せしたら良え。ない物食いの恵方の神など、来てくださらんでも、大事ない。四匁が四分でも、伊勢海老みたいなもんには用はない」

と、機嫌がわるかった。

しかし、内儀は息子と声を合わせて、

「世間はともかく、婿がはじめて礼に来やはるというのに、伊勢海老なしの蓬莱が出されますかいな。幾何しても構へんさかい、買うて来て」

と、重ねて人をやったところ、既に今橋筋の問屋の若い者が買い取って、もっとも値段は五匁八分(四百六十四文)だったが、正月の祝物、端した金はげんがわるいと、銭五百やって、海老を持ち帰ったあとだった。いろいろ探したが、もう絵に画いたものもなく、それにつけてもこの大阪の広いことが思い当った。

帰ってこのことを言うと、内儀は後悔めく顔したが、親父はこれを笑って、

「その問屋はあぶない。おっつけ分散ものだ。内証知らずに、そんな問屋へ金貸した人は、夢見のわるいこっちゃろ。蓬莱にぜひ海老がのうては困るというなら、後からも役立つ良え分別がある」

と、細工人に誂えると、物の見事に紅絹で張抜いた海老が、二匁五分で出来あがった。

「正月の祝儀がすんだら、子供の玩具になる。智慧は生きてる内に使うもんや。四匁五分を二匁五分で埒あけて、おまけに後々役に立つ…」

そんな親父の長談義に、だれもが道理につまり、なるほどこれほどに身代持ち固めた人の才覚は格別だ、と耳をすまして聞いているところへ、裏に隠居しているこの親父の母親が、当年九十二歳だが、目もよく、足も達者で、これが母屋へやって来た。

「聞けば伊勢海老の高い穿鑿、今日まで買うて置かなんだとは、さりとは気のつかぬ人たちじゃ。そんなことで、ようこの世帯が持たれるこっちゃ。節分のある春には、海老が高いもんやと、よう心得ときなはれ。そのわけは、伊勢の宮々、神主の家々、或は町中、在所まで、この伊勢の国は神国やよって、日本の諸神を家々にまつらはる。海老何百万と要る道理じゃ。毎年京大阪へ来るのは、この神々に供えた後の残りや。ばばはそこ考えて、この月のなかは頃に、髭も継がず、生れたままのんを四匁ずつで二つ買うときました」

と、出したので、皆々横手を打って、

「御隠居としたことが、一つで済みまんのに、二つとは、えらい奢りだんな」

そう云うと、

「あてがなんで当てのないことしまっかいな。毎年、畑牛蒡五把、太いので三把くれる人がおまんねん。その返しに、この海老で、牛蒡一匁(八十文)分を四文ですますつもりだす。いまだにその歳暮を持って来ぬのが、この家の仕合せ、しかしなんば親子のなかでも、お互いの勘定はきちんとしときまひょ。海老がほしくば、五把もたしてよこしなはれ。どの途牛蒡に換える伊勢海老や。祝の物に無うてよいとはいうてられへん。欲でいうのやないけれど、すべて五節句の取り遣りは、先方からくれた物をよう値踏みして、これと釣合うように見えて、ちょっとずつ得の行くような物を返すもんだっせ。毎年御師の大夫殿から、御祓箱に鰹節一連、白粉一箱、折本の暦、本場の青海苔五把、かれこれ細かに値踏みして、二匁八分がとこを貰い、銀三匁の初穂をあげるとしたら、銭にして二分余って、お伊勢さまも損が行かしめへん。家は三十年そないして来たのに、お前の代になってからは、銀一枚ずつあげるいうことやが、なんば神信心か知らぬが、無駄なことや。大神宮にしても、算用せずに金つかう人は、嫌いはるやろ。その証拠に、お賽銭さえ、銭一貫で実は六百しかない鳩の目というものを拾えなはって、末社めぐりにもあんまり銭が掛ら人ようにしやはもんやないか」

さても欲の世の中だ。百二十末社の中にも、賽銭の多いのは恵比須、大黒、多賀は命神、住吉の船霊、出雲は仲人の神、鏡の宮は娘の顔を美しゅうなさる神、山王は二十一人の下人を使わさっしゃる神、稲荷様は身代のしっぽが出ぬように守らっしゃる神などと、宮雀の神職が声々に商売上手な口を叩く。これみな、差し当って耳よりな神様だから、お初穂もあげるが、その外の神の前は、厳粛でさびれている。神さえ只では金儲けできぬ世の中だ、まして人間は油断してはならぬ。

伊勢の御師から、毎年諸国の旦那へ出る祝儀の手紙は、数も多い故、能筆に手間賃で書かせるが、一通一文ずつで大晦日から大晦日まで書き暮し、根気仕事に精も枯れて、二百文になる日は一年中に一日もない。神前長久民安全、御信心のため、かつ口過ぎのためである。

 


鼠の文づかい


煤払いは毎年十二月の十三日ときめて、その日は、旦那寺の笹竹を、事はじめの祝物にと、月の数の十二本も貰い、煤を払ったあとの幹は取葺屋根の押え竹に使い、枝は箒の柄にするなど、塵も埃も無駄にしないという、随分こまかい人があった。

去年は十三日がいそがしゅうて、大晦日に煤払いをしたあと、年に一度の据風呂を立てたが、五月の粽(ちまき)の殻、盆の蓮の枯葉をだんだんためて置き、湯の沸くのには変りはないと、これをたきつけにするなど、細かいことにまで気をつけて、無駄な入費なにひとつ許さぬと、眼をきょろつかせ、それがまた自慢の男だった。

同じ長屋の案に隠居所を建てて、母親が住んでいたが、この男を生んだ母親故、その吝なこと、限りがない。塗下駄の片足になったのを、据風呂の下へ焚くとき、つくづく昔を思い出して、

「ほんまにこの足駄は、私が十八でこの家に嫁入りした時、雑長持に入れて来て、それから雨にも雪にも履いて、歯がちびただけで、五十三年になる。私一代は一足で間に合わそうと思っていたのに、惜しいことだ。片足は野良犬めにくわえていかれ、はんぱになったので、是非もなく、今日、煙にするなんて」

と、四五度も愚痴った揚句、やっと竃の下へ投げ込んだが、もう一つ、なにやら未練のこともあるらしく、泪をはらはらとこぼし、

「月日の経つのは早いものだ。明日で丁度一周年になるが、思えば惜しいことをしたものじゃ」

と、暫く歎きもやまなかった。

その時、近所の医者が風呂に入っていて、

「目出たい正月が来るというのに、めそめそしなさんな。して、元日にどなたが死なれたというんじゃな」

と、訊くと、

「なんぼ私が愚かじゃと言うて、人が死んだぐらいで、これほど悲しみますかいな。去年の元旦のことでした。堺の妹が礼まいりに来て、年玉の銀を一包くれたので、なんぼうにも嬉しくて、恵方棚へ上げて置きましたところ、その晩それを盗まれました。よもや、勝手の知らぬ者が盗ったのでもありますまい。その後、色々の願を神様にかけましたがその効もありません。また、山伏に祈を頼みましたところ、その銀が七日の中に出るなら、壇の上の御幣が動きだし、御灯明がだんだんに消える、それが大願成就の験だと言いました。案の定、祈りの最中に御幣が動き、御灯明がかすかになって消えたのです。神仏も伊達には居なさらん、有難いことだと思い、お初穂を百二十も上げて、七日待てども、銀は出ず、人に言いますと、そら盗人に追い銭じゃ。この頃、仕懸山伏と言うて、いろいろ護摩の壇にからくりをして、紙人形に土佐踊をさせたりするが、あれはこの前松田という手品師がやったこと、それを人みな利口すぎて、かえって灯台下暗しになるのじゃ。その御幣の動くのは、台の上に壷があって、なかにどじょうを生けて置く。数珠をさらさらと押しもんで、東方に西方にと、独鈷錫杖で仏壇を乱暴に打てば、どじょうが驚いて、上を下へと騒ぎ、それが幣串に当るので、暫く動いて、知らぬ目には薄気味わるい。また、灯明の方は、台にちょっと仕掛けがあって、油を抜きとるのじゃと、種をきいてからは、いよいよ損の上の損をしました。私はこの年まで、銭一文落さずに暮して来たのに、今年の大晦日ばかりは、その銀が出て来ぬ故、胸算用が違って、気がかりな正月をするかと思えば、ことごとに面白くありません」

と、世間態も構わず、大声をあげて泣く始末に、家の者も興ざめがして、自分らが疑われるのは迷惑だとめいめい諸神に祈誓を懸けた。

大方煤はきも片づいて、屋根裏まで検めたところ、棟木の間から杉原紙の包が一つ出て来た。見れば、隠居の探している年玉の銀に間違いない。

「人の盗まぬものは出て来る。それにしても憎い鼠じゃ」

しかし、婆さんはなかなか合点せず、

「これほど遠歩きする鼠は、見たこともない。大方頭の黒い鼠の仕業、これからも油断はならぬ」

と、畳を叩いて、わめいたから、医者が風呂から上って来て、言った。

「こんな事は昔にも例しがある。人皇三十六代孝徳天皇の御時、大化元年十二月の晦日だった。大和の国岡本の都から、難波長柄の豊崎へお移りになると、大和の鼠も一緒に宿替えして行ったが、おかしいことに、それぞれ鼠だてらの世帯道具を運んで行った。小穴をふさぐ古綿、鳶から隠れる紙蒲団、猫除けの守袋、いたちの道をさえぎるとがり杭、桝落しのつっかい棒、油の火を消す板ぎれ、鰹節を引く挺、鼠の嫁入りののし、ごまめの頭、熊野詣りの粉米のみやげにいたるまで、二日路もあるところを、くわえて行ったというから、まして、隠居岸と母屋ではわずかな所だ、引いて行けないこともあるまい」

年代記まで引きあいに出したが、なかなか同意せず、

「うまいことおっしゃるが、目の前で見ないことは、本当に出来ませんわい」

と、言うので、何とも致方なく、やっと考えついて、長崎水右衛門仕込みの鼠を使う藤兵衛を傭いにやった。藤兵衛がきて、

「只今、あの鼠が人のいうことをきき入れて、さまざまの芸尽くし、はじまりは、若い衆に疎まれ恋の文使い」

と、言うと、鼠は封のした文をくあえて、後前を見廻し、人の袖口から文を入れた。また、銭一文投げて、

「これで餅買うて来い」

と言うと、銭を置いて、餅をくわえて戻る。

「なんと、なんと、もう我を折りなさい」

と、言うと、

「これを見れば、鼠も包み金を引かぬものでもありますまい。まずまず疑いが晴れました。けれども、こんな盗み心のある鼠を宿らしたが災難じゃ、満丸一年この銀を遊ばせて置いた利息を、きっと母屋から払うてもらいましょう」と、言いがかりをつけて、一割半の勘定で、十二月晦日の夜請取り、これで本当の正月をすると、この婆さんひとり寝をされた。

巻二

銀一匁の講中


分限者になるのを、運だというのは言葉、まことはめいめいの智慧才覚をもって稼ぎ出し、その家が栄えるというものである。福の神のえびす様にもままならぬことだ。

この大阪で裕福な連中共が、大黒講を結んで、酒宴遊興にまさる世の慰めはこれだと、諸国の大名衆への御用銀貸入れの相談に集っていた。寄合座敷も色里ちかい所をさけて生玉下寺町の客庵を借り、毎月金を貸す相手の財産調査に暮れて、命の入日傾く老人どもが、のちの世のことは忘れて、只利銀が重なり、富貴になることを楽しんでいた。

世に金銀の沢山あるほど、何かにつけて目出たいことはないというものの、それも二十五の若盛りから油断なく、三十五の男盛りに稼ぎ、五十の分別盛りに家を納めて惣領に万事を渡し、本卦がえりの前年の六十からは、楽隠居して、お寺詣りに往き来しておれば、世間体もよいのを、仏とも法とも弁えず、その年でまだ欲の世の中に住んでいる。死ねば、万貫持っていても、帽子一つのほかは皆この世に残るのだ。この寄り合いの親仁ども、二千貫目より少ない金持は一人もなかった。

また、近年僅かな身代からめいめいの働きで稼ぎ貯めた、二百貫目、三百貫目、あるいは五百貫までの金持二十八人が話し合って、一匁講というものを結んだが、毎月会場もきめず、一匁の仕出し飯を誂えるだけ、下戸も上戸も酒なしで、こうした遊びごとにも始末第一の気のつまる穿鑿だった。

朝から日の暮れるまで、ただもう身過ぎの話はかり、とりわけ、貸銀の確かな借手を吟味して、一日も銀を遊ばさぬ思案だった。この連中が身代をつくったそもそものはじめというのが、利息で太ったというからには、今の世の商売に金貸屋よりよいものはない。しかし近頃は、見せかけばかりで内証のわるい商人たちが、ずいぶん借を作ったあげく破産するので、思いも寄らぬ損をすることがある。といって、気遣って金貸さずに置くわけにも参らず、だから今後貸すときは、よくよく内証をきき合わせ、この仲間同志で互いに様子を知らせ合ってからにしよう。そうと決れば、出し抜きはなしということにし、それでは、各々心得のために、当地で定って金借る人をひとりびとり書き出し、仔細に検討しようではないか。同感。先ず北浜で何屋の誰、財宝諸式くるめて七百貫目の身代だと言い出すと、その見立ては大違い、これは八百五十貫目の借金だという。この有り無しの大違いに一座の連中胆をつぶし、ここが大事の穿鑿、両方の意見をとくと承ろう。皆々の心得のためだと、聞けば、

「先ず分限と見たところは、一昨年の霜月に、娘を堺へ縁組させたとき、嫁入道具が今宮から長町の藤の九の膏薬屋の門まで続きました。おまけに、後から銀十貫目入りの金箱五つを、青竹で身長の揃った大男に荷わせ、何のことはない、御祓のお渡りみたいでした。ほかにも大勢男の子があること故、余っ程無けれは、娘に五十貫はつけまいと思いまして、実は、嫌というのを無理矢理に、この三月過ぎに、二十貫目預けました」と、言う。

「さてさてお気の毒な。その二十貫目が一貫六百目ばかりになって戻りまっしやろ」

と、言うと、にわかに親仁の顔色が変った。箸を持ちながら、集め汁も咽喉を通らず、

「今日の寄合に、残念なことを聞いた」

と、様子をきかぬうちから、もう泪だった。

「せめて、その内証がききとおます」

「されは、その婿殿方も、よくよく困ればこそ、芝居興行並みの高利でいくらでも借りるのだ。そんな利息を払って、芝居を打つほか、何商売をして胸算用が合うと、考えなはる。十貫目箱一つは金物まで打って三匁五分ずつの値打、十七匁五分で箱五つだ。むろん、中はそこらにざらにある石瓦、人の心ほど恐しいものはござらぬ。あるように見せかけて双方ぐるの相談であろう。よしんばあけてみてほんとうの丁銀が入っているにしても、わしは真には受けぬ。あの身代の持参金なら、二百枚でも多すぎる。支度なしの五貫目というところだが、何と各々、違うかな。先ずあれには、一、二年二貫目ばかり預けてみて、それで別状なければ、また四貫目ほど五六年も貸し、いよいよたしかなことを見届けてからの二十貫目だ」

と、いうと一座は、

「なるほど」

と、異口同音だった。言われてみれば、その通りで、この親仁帰りには足腰も立たぬ嘆きで、

「わしはこの年まで人の身代見違えたことはないのに、このたびは不覚なことを致しました」

と、男泣きして、

「何とか御分別はないかないか」

と、いう始末にさっきの世智賢い人が口をひらいて、

「千日千夜御思案なされても、その銀子を無事に取返す工夫は、ただ一つしかない。この伝授料上等の紬一疋なら、たしかに取返してさし上げよう」

と、言う。

「それはもう、中綿まで添えまして、御礼いたしましょう。なにとぞ頼みます」

との返事に、

「しからば、いままでより懇意に交際うことにして、天満の舟祭がそこから見えるを幸い、浜にかけた桟敷へ家内をよこして見せたいとつたえ、二十五日にお内儀をやって先方の嬶としみじみ内輪話をさせ、一日遊ぶうちには、息子どもが接待に出るのは、知れたことじゃ。その折、二番目の器量をほめ、賢そうな眼をしていなさるが、こちら様の御子息にしては、お気になさいますな、鳶が孔雀を生んだとはこのこと、玉のような美男でござりますな。近頃押しつけがましい所望ですが、私が貰いまして婿にいたしたいと存じます。酒の上で言うのではござりません。親はこんな面でも、娘は十人並、また親仁には一人子のこと故、嫁入る時は五十貫目つけてやると、かねがねの覚悟。なお、私の臍繰り三百五十両。長堀の角屋敷は捨売りにいたしましても二十五貫目はあります。仕立てたまま、袖も通さぬ衣装六十五もござります。みな一人の娘よりほかにやるものとてはありません。これがうちの婿殿、と、思い入れよろしく、これを縁談のはじめにして、この後の交際は、少しずつ物をやれば、かえしを請け、べつに損のいくことでもない。そうこうするうち、よい頃をはからって、その婿どのに手伝いに来てもらい、銀を秤る傍に置いて、数をよませたり、極印を打たせたり、内蔵へ運はせたりなどして、一日使うて帰す。その後で、先方の身寄りの人を見立てて、ひそかに呼びにやり、あの二番目の子を、女房がどう思いこみましたのか、是非にと望みます。いそがぬ事ですが、お序でがありましたら、うちの娘を貰って下さるかどうか、尋ねて見て下され、貴方の前で取り繕ってもつまりませぬ。銀千枚はどこへやりますとも、つけるつもりと、言い渡し、先方へ通じたと思う時分に、内々の預け銀をちょっといることが出来ましてと、言ってやれば、欲から、何とか工面して返すのは、手にとるようだ。この方法よりはかあるまい」

と、言い教えて、別れた。

その年の大晦日に、かの親仁門口から笑い込み、

「お蔭お蔭、お蔭であの銀子、元利ともに二三日前うけとりました。貴方のような智慧袋は金貸仲間の重宝重宝」

と、頭を叩き、

「さて、あの時は紬一疋とは申しましたが、これでご勘弁」

と、白石の紙子二反さし出し、

「中綿は春のこと」

と、言い捨てて、帰った。

 


うそも只は聞かぬ宿


万人ともに月代剃って、髪結い、衣装着かえて出たところは、皆正月の気色である。けれど、人こそ知らね、年の取りようはまことさまざまだ。

とても遣繰つかぬ人は、掛買一切、一軒へも払わぬ胸算用をきめこみ、大晦日の朝飯を済ました途端、羽織脇差で、機嫌のわるい内儀に、

「ものには辛抱ということがある。少しは暮しが楽になれば、駕籠に乗せてやる時節もまたあろう。昨夜の鴨の残りを酒煎にして、食べろ。掛を取りに来たら、まずお前の正月の小遣を残して置いて、あとあるだけ払い、無いところは放って置き、掛取の顔を見ぬよう、こっち向きに寝ていろ」

と、口早に言い捨てて、出て行く。こんな商人は、どうして身代が続こうか。日毎に困って行くやり方を自身もわかりながら、にわかには良い分別もつかぬ。こんな者の女房になるのは、いわば世の因果で、子を持たぬうちに、老けてしまうと云うものだ。

一銭も大事な日というに、鼻紙入れに一分金二つ三つ、豆板銀三十目ばかりも入れて、借りのない茶屋へ行き、

「ここはまだ節季をよう仕舞わぬと見えて、なんと、この請求書の散らかしよう、随分とあるじゃないか。しかし、こいつらを皆一まとめにしても、二貫目か三貫目、物入りもそれぞれだな。俺の方じゃ、呉服物だけで六貫五百目、贅沢の過ぎた奥様にも困ったものだ。さっぱり離縁して、その費分で女郎狂いと行きたいものだが、追い出すわけにもいかぬのじゃよ。じつは、三月から妊娠で、日もあろうに今朝から産気づき、何しろ生れるのが今日というからね。『生れぬ前の襁褓(むつき・おしめの事)定め』という奴で、乳母を連れて来るやら、三人四人の取揚婆、出入りの山伏も来て、腹の子を男にと祈祷するやら、やれ千代の腹帯、子安貝左の手に握るという竜の落し子の才覚やら、かかりの医者は次の間に鍋を仕かけ、お産を早める薬の用意だ。何に要ることやら、松茸の石づきまで取り寄せて、姑まで来て世話を焼く。なんとも、喧しいことだが、男は家に居るものではないというを幸い、ふらふらとやって来たというわけだ。俺の身代知らぬ奴は、もしやすると掛取を逃げて来たのかと思いくさるので、気色がわるい。この土地で一銭も借りのない男だ。むろん現金、子の生れるまで、宿貸してくれぬか。おや、肴懸の鰯が小さいとは、気にくわぬ。早速買うて来て貰いましょう」

と、一分投げ出すと、

「なんと、まあ、嬉しい。亭主に内緒で、欲しいあの帯、帯」

と、愛想がよくなって、

「ことしの暮には、こんな気前のよいお客様のお越し、来年中はきっとよいことずくめです。さて、お台所とは余りのご酔狂、さあ、奥へ」

と、案内する。

「料理の好みもちと風変りだが、よいか」

と、言う。樽の酒の燗をするのも、おかしい。

やがて、女将は畳占いをやって、

「三度までしましたが、同じこと、男のお子さんにきまりました」

と、女将の当推量と、客の嘘八百とが、一つになってしまった。遊び所の気散じは、大晦日に色三絃、誰憚らぬ投節『歎きながらも月日を送り…』と騒いでも、今日一日の日の長さは、さすがに心配事があるからで、いつもは暮れるを惜しんだ日も今日は格別だ。

女は勤めゆえ、心を春に見せて、おかしくもないのに笑い顔で、

「一つ一つ年の行くのが情けない。この前は、正月の来るのを、羽根がつけると嬉しがっておりましたのに、はや十九になります。おっつけ袖口を詰めて、良い婆に成りましょう。振袖の名残りも今年ばかり」

と、言う。

この客も悪いことには物覚えが強かった。

「お前このまえ花屋にいた時は、丸袖で勤め、京で十九と言うてから、かれこれ二十年以上になるじゃないか。穿鑿すれば、三十九の振袖だ。浮世に名残りもあるものか。小柄に生れたのがせめてもの徳だ」

と、頭ごなしに昔をさらけ出すと、

「ゆるして」

と、手を合わせた。

気の詰まる年穿鑿をやめて、打ちとけて夢結ぶところへ、この女の母親らしい者が来て、そっと呼び出し、一言、二言いっていたが、「埒もない。これが顔の見納め、十四五匁の事に身投げせんならん」

その言葉に、女は泪ぐんで、今まで上に着ていた郡内縞の小袖を手廻しよく風呂敷に包み、母親に渡してやるのだった。

そのありさまを、何としても見兼ねた故、また一分やって帰し、浮々と声高に喋っていると、声ききつけた草履取めく若者が二人、さぐりあてて入って来て、

「旦郡、ここに居やはりましたか。今朝から四五度も御宅へ伺いましたが、お留守では仕方がおまへなんだ。よいところでお眼にかかりました」

と、何やら談判した挙句、あり金全部と、羽織、脇差、着物類までまき上げてしまって、「残りは正月五日までに」

と、言い捨てて帰った。

この客首尾わるく、

「頼まれれば、合力もせねばならず、とかく節季に出歩くのが悪い」

と、この期に及んでも分別顔をして、夜の明け方にそこを出た。

痴人(たわけ)というのは、もう少し脈のある人のことだと、あとで大笑いだった。

 


尤も始末の異見


遺産分配の大法は、たとえば万貫目の身代なら、惣領に四百貫目、居宅につけて渡し、二男に三百貫目ほかに家屋敷を調えて譲り、三男は百貫目つけて他家へ養子につかわし、娘があれば、三十貫目の持参金に二十貫目の諸道具をこしらえて、わが相応より軽い縁組がよい。

昔は四十貫目の支度で十貫目の持参金だったが、いまは何でも銀、塗長持に丁銀、雑長持に銭を入れて送るとよい。娘は蝋燭の火では少し見せにくい顔でも、三十貫に花が咲いて、花嫁様と持て囃し、『何しろ金持の子故、小さい時から旨いものばかりで育てられてまるまるした阿多福顔も愛くるしいやおへんか。また額のひょっと出たのも、被衣の着振りがようなります。鼻の穴の広いのは、息づかいがゆったりしてよろしおす。髪の毛の少ないのは夏涼しい。腰の太いのは、うちかけや小袖をふだん着ればよい。体格のたくましいのも、取揚婆の首筋へかじりつくのにもってこいどす』などと、十難をひとつひとつよしなに言いつくろい、ここが大事の胸算用だ。三十貫目の銀をたしかに月六厘の利子で預け、毎月百八十日ずつの利子がはいれば、これで四人のくらしは十分だ。

腰元、仲居、仕立女まで連れてくるし、亭主のものを食うわけでもないのに、機嫌はとってくれるし、嫁というものは、微塵も心に如在も欲もない留守人だ。美しいのを見たければ、色里でそれ専門にこしらえて、夜でも、夜中でもいらっしゃい。それはそれは面白うて、起き別れると、七十一匁のかねの声、これはこれは面白くない。

つくづく思うに、揚屋の酒は小盃に一杯が四分ずつの勘定、若衆宿の奈良茶飯は一杯が八分ずつにあたるという。思えは随分高いものにつくが、しかしこれも「土鍋の一杯」で、仕方がない。義理も欠き、恋もやめての、食逃大尽にあうことも多いのだ。と、いって、その分まで勘定に入れて無茶に高取りもならず、結局はその客が死んだものと思って、帳面にあっさりと棒を引き、おのれはあの世で餓鬼となって、料理ごのみして食うに煮鳥や杉焼が、かっかっと目の前に燃えあがって、おそろしいぞ。食い逃げの罰と思い知れと、亭主が火箸で火鉢をたたいて恨むありさまは、飛騨縞の羽織を貰うた時の顔付きにひきかえて、恐ろしい。

いったいに、遊興も程々で止めるべきだし、仕舞の立派なのは稀だ。これを思えば、面白からぬとも我慢して、家で気安く、夜食は冷飯に湯豆腐、干魚のありあわせで、借屋の親仁に、板倉殿の瓢箪公事の咄などさせ、誰に遠慮もない高枕で、あんまは腰元に、茶は寝ころんだままで女房に持って来させて、手も出さずに飲んだところで、それでも一家の竈将軍だ。あとに続く兵者もないから、誰も外からとがめる者もなく、これで充分の楽しみというものだ。旦那が家に居られるというので、店の若い者たちも、八坂へ出かける無分別をやめ、御池辺りの奉公人宿へ忍びの約束もしぜん思い止まり、退屈まざれに江戸よりの商売手紙など見直す。忘れていたことも見つけ出して、主人の得になることもあるのだ。不要の反古をこよりにひねり、また奥へ聞えるほど手本を読んで手習いするのは丁稚自身の得にもなる。宵寝の久七も、鰤(ぶり)を包んだ菰をほどいて、銭さしをない、たけやは朝の手廻しがわるいとて、蕪菜をそろえる。仕立女は日野絹のふしを、一日仕事ほどもとる。猫さえ眼三寸俎板を見抜き、肴かけがごとりとしても、声を出して守る。旦那一人家におられる得は、一夜にさえどれほどか。まして年中に積っては、随分のことだ。少しお内儀に気にいらぬところがあろうとも、そこを了簡なすって、色里は皆嘘と思えば、止むものだ。ここに気がつくのが二代目の収まるところですと、京都人の始末をのみこんだ仲人口で、節季の果てに長物語も、耳の役に聞いて悪くはないものである。

さて、ちかごろの女は、見よう見真似で色っぽい姿に風俗をうつしている。都の呉服屋の奥様といわれる程の人は、みな遊女と取りちがえるつくりだ。また、手代上りの内儀は、おしなべて湯女に生写し、下って横町の仕立物屋、縫箔屋の女房は、そのまま茶屋者の風儀で、それぞれに身分相応の色姿をつくって面白い。

見たところ、傾城と素人女は別に変ったこともないが、第一に気が鈍で、物がくどうていやしいところがあって、文の書きようが違うて、着附がだらしなく、起居があぶなくて、歩けば腰がふらつき、寝床で味噌、塩のことをいい出し、倹約して鼻紙は一枚ずつ使い、伽羅は飲薬だと心得るなど、万事気のつまることばかり。髪の結い方も大体似たものとはいうものの、やはり同日の論ではない。

女郎狂いするほどの者に、疎い者は一人もない。その賢い奴が、この儲けにくい金銀の利子払いにせめたてられるような借金をし、裁判に掛っている方へも払わずに、随分と物入りな女郎の松の内揚げ詰めを約束してやり、そのときの万端の費用を、事始めだとて、はや十二月の十三日には渡してやる。よよよく面白ければこそだ。ここは思案の外である。烏丸通り、歴々の兄弟に、有銀五百貫目ずつ譲り渡されたところ、弟はだんだんにふやして、やがて二千貫目の身代だと、一門の間から指さすくらいになったが、兄は貰って四年目の大晦日に、天道は人を殺し給わず、今宵月夜ならば昔を想い出して、これが売りに歩けるものか、闇夜が幸い、やれもするのだと、紙子頭巾を深々と被り、山椒の粉、胡椒の粉と売り廻って、悲しい年をとり、心うかうかと島原ちかくの丹波口まで行くうちに、夜は明け方となった。盛んな時には、この島原の一番門に乗り込んだこともあったのだがと思いだして、すごすごと帰った。

 


門柱も皆かりの世


いったいに、物に馴れると、物おじしないものだ。

都の遊び所、島原の入口、小唄にうたう朱雀の細道という野辺で、秋の田の熟る頃、諸鳥をおどすために、案山子をこしらえ、古い編笠をきせ、竹杖をつかせて置いたところ、鳶烏はふだん廓通いの焼印の大編笠を見つけている故、これも供なしの大尽かと、少しも驚かぬ。笠の上にもとまるようになって、案山子を粋人あっかいにした。さて、世に借金取りに出あうほど、恐しいことはまたとないのに、数年背負いつけた者は、大晦日にも逃げはせず、昔が今に、借金で首切られた例もない。ある物をやらずに置くのではない。やりたいけれど、無いものはないのだ。かなうものなら、今のうちに金のなる木がほしい。さても、蒔かぬ種は生えぬものだと、庭木の片隅の陽あたるところに、古延を敷き、包丁の刃を研ぎつけて、

「折角錆を落したところで、小鰯一匹切るわけではないが人の気は知れぬもの、今にもにわかに腹の立つことが出来て、自害する用にも立つまいこともなかろう。おれももう五十六だ。命の惜しい年ではない。中京の金持の腹ふくれどもが因果で若死という時、おれの掛買いをすっかりすましてくれるというなら、氏神、稲荷大明神にかけても、偽りなしに腹かき切って、身替りに立つ」

そう言ったまま、狐つきの目附きで包丁をふりまわしているところへ、鶏が嘴を鳴らして来た。

「おのれ、死出の首途に」

と、細首打ち落すと、掛取どもは見て、胆をつぶし、こんな無分別な男に言葉質を取られたら面倒だと一人一人帰りがけに、茶釜の前に立ちながら、

「あんな気の短い男に添わっしゃるお内儀が、縁とは云いながら、可哀相なことだ」

と、各々言い捨てて、帰った。

よくある手だが、質のわるい節季仕舞いだ、何の詫言もせず、さっぱりと埒を明けてしまった。

その掛取りの中に堀川の材木屋の小者がいた。まだ十八九の角前髪で、しかも弱々として女のような性質だったが、存外心に強いところもある若者だと見えて、亭主が嚇しかけの最中、平気で竹縁に腰を掛けて袂より数珠取り出して、一粒ずつ繰って口の中で称名を唱えていたあげく、やっと人もいなくなり、静まってしまうと、

「さて、狂言もすんだようですね。てまえの方の勘定をいただいて帰りましょ」

と、言った。

「男ざかりの老どもさえ了簡して帰ったのに、おのれ一人あとに残って、仔細らしく、人のすることを狂言とは何だ」

「この忙しいさなかに、死ぬの生きるのとは、無用のたわむれと思いました」

「余計な口きくな」

「とにかく、取らねば帰りません」

「何を」

「お金を」

「誰が取るんだ」

「誰がものでも取るのが、私の得手。朋輩あまたある中で、人の手に負えぬ取りにくい掛けばかり、二十七軒を私が受けもって、これこの帳面見て下さい。二十六軒はとってしまい、あとここだけで、取らずには帰れぬところですわい。この金払わぬうちは、普請なさった材木はこっちのもの、では、外して帰ろう」

と、門口の柱から大槌で打ち外しかけたので、亭主かけ出て、

「堪忍ならぬ」

と、言う。

「これこれ、おまはんの横車も今時はもう古い。当世流がわからぬと見えますな。この柱外すのが当世の掛取りのやり方だ」

と、少しもこわがる風もなかったから、亭主は致方なく、詑言して、残らず代金を払った。

「金をもらったからには、文句もありませんが、何としてもあなたの横に出ようが古い。随分と貸方を泣かせて来たあなたが、それではあきません。お内儀によくよく言いふくめて、大晦日の昼時分から夫婦喧嘩と見せかけるんです。お内儀は着物を着かえ、『ああ、出て行くとも。出て行くからには、人死が二三人あるのは、わかっているね。大ごとだよ。お前さん。それでも是非去ねというの。去なずに置くものか。去んで見せる』と、こういう時あなたが、『何とぞ借金すませて、あとあとで立派な最後だと言われるようにしたいものだ。人は一代、名は末代だ。しかし、これも是非がない。今月今日が百年目、さても口惜しいことだ』と、いいながら、何でも要らぬ反古を大事なもののような顔で、一枚一枚引き裂いて捨てるのを見れば、どんな掛取でも、長居は出来ないものです」

と、言うと、

「今までその手は出しませなんだ。お蔭によって、来年の大晦日は、女房よ、これですますことじゃ、さても、さても、あんたは若いが、思案はおれを越した、されば越した年の暮の、お互いのうち祝いに」

と、さっきの鶏の毛をむしって吸物にし、酒盛りをして帰したあと、

「来年をまつまでもない。毎年面倒な掛取りは、夜が更けてからだぞ」

と、にわかに喧嘩をこしらえて置き、万事をすました。

誰が言うともなく、後には、大宮通りの喧嘩屋とよんだ。

 

巻三

都の顔見世芝居


今日の三番叟所、繁昌を舞い納めて、京も繁昌、民も繁昌。天下の町人だから、何ぞというときには京の人もまこと気が大きくなる。日頃胸算用して、随分始末の良い故だ。

去年の秋、京都で、加賀の金春が勧進能を演った時、四日間の桟敷一軒を、銀十枚ずつと定めたのに、みな貸し切って空席なく、しかも能より先に金を渡した。

このたび重い習いのはる関寺小町を出すといえば、これ一番の見物だと、諸人勇み立って鼻をならしたが、鼓に故障があって、関寺の能組が変った。それでも、木戸口は夜の明けぬうちから見物の山だった。

中にも江戸者、自分一人の見物に、銀十枚の桟敷を二軒借りて猩々緋の敷物を敷き、道具置きの棚を釣らせ、腰屏風、枕箱、そのうしろには料理の間を作り、さまざまの魚鳥、髭籠には季節の果物を入れ、次の桟敷には茶釜を仕掛け、割蓋の杉手桶には宇治橋の水、音羽川の水と書き並べ、医者、呉服屋、儒者、唐物屋、連歌師など入りまじり、そのうしろには、島原の揚屋、四条の子供宿、郡に名高い太鼓持、按摩取、剣術使の浪人まで控えた。桟敷の下は、供駕籠、仮湯殿、仮雪隠まで、何ひとつ不自由のないようにこしらえ、全く贅沢な見物、当人もなんとなく心豊かだ。この人とて大名の子というわけではない。ただ金銀でこのように出来ること故、誰に何のえんりょもいらず、心任せの慰めをすべきだ。こんな人は、自分の身代に障らぬ分別をした上での遊びだから、その楽しみも深い。

たいして身代もない人は、節季前の金はあだに使うてはならぬ。九月の節句過ぎから年の暮まではまだ大分あると思って、誰も渡世に油断をしがちだ。

十月はじめより、日和定まらず、時雨、木枯しが烈しくなり、人の気もこれにつれて自然落ちつかず、万事来年のことだと延ばし、当座のやりくりで暮す故、贅沢品の商売や諸職人の細工も商売にならず、思案をかえてやめてしまう。だんだんに、朝霜、夕風のしみる頃となり、人みな冬籠りの火燵に宵寝して、それぞれの家業もおろそかになり、押し詰って困るのだ。

その後、法華寺の御影供、浄土宗の十夜談義、東福寺の開山忌詣、一向宗の御取越、または亥子の祝儀に夜の遊び、そして十一月にはいって、稲荷の御火焼の頃、河原の役者が入替っておめみえするのだ。あれやこれやで、同じ役者でもまた珍らしい気がして、見る人の心も浮き立ち、今日はあの座元、明日はこの太夫元、その次は誰だれの匠に大坂の若衆方が出るなどと噂して、水茶屋から前もって桟敷を取らせ、ひそかにひいきの役者に祝儀をやり、旦那いらっしゃいと言ってほしさの見栄で、無用の気を張るのだ。

提重箱の酒が頭に上って、家へは其直ぐは帰らず、石垣町の二階座敷へ切狂言の踊りを移し、辰巳上りの大声で叡山まで響くほどの騒ぎだ。京で誰知らぬ者もない、あれは誰様の御服所、どこ様出入りの両替屋と、いわれるほどの者でも、こんな悪所騒ぎは些か贅沢めく。まして、端した金の商人は、たとえ気晴らしに芝居を見るにしても、隣で煙草のまぬところを見すまし、座蒲団を借りてみて、役者若衆の名が覚えられぬというわけでもなかろう。

与次兵衛が顔見世の初日に、左方の二軒目の桟敷に、総勢五六人の若者が当世風にめかしこんで、若衆に秋波を送り、下の見物をけなるがらせていた。この連中を見知った人があって、噂するのを聞けば、

「内証はわからんもの、あれは川西の貧乏人らだ。中京の衆と同じ大きな顔が、おかしい。知らぬ人はお歴々と思うだろう。黒い羽織の男は、米屋の入婿だが、欲からの老い女房で、年の十四五も違うだろう。母親には二升入りの碓を踏ませ、弟には蚕豆を売りに歩かせて、全くあの白柄脇差はやめて貰いたい。その次の玉虫色の羽織は、牛挺(にかわ)屋をどこの牛の骨とも知らずに、人の買いかぶる衣装つきだが、家は質に入れて、借金で訴えられ、おまけに東隣へ難癖つけた境界争いのきまりもつかぬのに、遊山に出るとは、気違いの沙汰だ。三番目の、銀煤竹の羽織を着た男は、高利の金を五貫目借りて、それを持参金に、膳椀屋へ養子に行き、後家親をあなどって、養父の死後三十五日もすまぬうちに、芝居見物とは、作法にはずれた男めが。米薪はその日の現金買の身上で、酒の相手に若衆共、かわいそうに神ならぬ身の、金のある客と思っているだろうが、どうして、この四五年、掛買の払いをしたこともないのだ。あの中の染縞の羽織を着た男は、小さい銭店を出している。兄が三井寺の出家故、そこから合力をうけて、どうにかこうにかこの暮を越せるだろうか。そのほかには、一人も京の正月をする者はあるまい」

と、指さして笑った。それをけなるがっていると思ったのか、かい敷の椿、水仙花に、金柑二つ三つ、延紙に包んで、投げ寄越した。あけて見てまた笑い、

「金を払う客なら、この金柑一つが、勘定の時二分宛にもなろうが、これは皆茶屋の食われ損になるは、知れたことだ」

と、言い捨て、芝居がはねると帰っていった。

その後、毎日の芝居通いに、同じ着物に羽織の色も同じ故、色茶屋でも気づいて、金のことを持ち出したが、払いもせず、さっぱり顔も見せたくなったから、催促のかいもなく、やがて大晦日になった。一人は夜逃げも古いと、昼逃げして行方不明、また一人は、気ちがいということにして座敷牢、いま一人は自殺し損って、取調べの最中だった。あの時の連中を紹介した太鼓持は、これも盗人の証人に立ったとのことで、町内へよく取締まれときびしい掛合が来ている始末で、茶屋は取りつく島もなく、夢見の悪い宝舟だと、尻に帆をかけて逃げ帰った。かねての胸算用では、十五両の心当てだったが、預った編笠三つ残っただけ、大晦日の買被り物とはなった。

 


年の内の餅花は詠(なが)め


善は急げと、大晦日の掛取りは手ばしこく廻らせる。今月の一日は、鉄の草鞋を破り、世界を韋駄天の駈けまわるように、商人は勢一つのものだ。

数年の功者が言った。いったいに、掛けは取りよいところから集めて、埒あかず屋とわかった家へは最後にねじこんで、言葉質を取られて困らぬよう、先方から腹の立つようには向けてきても、なお風に柳でうけながし、理詰めに出て、ほかの咄はせず、居間の上り口にゆるりと腰かけ、袋持に提灯消させて、

「何の因果で、掛商人などに生れて来ました。月代剃って正月をしたこともなく、女房は銀主の人質にして、手代の機嫌まで取らせ、身過ぎはほかにもあろうにと、科もない氏神をうらみます。御内証は存じませぬが、お宅のお内儀は仏のようにお仕合せ、天井裏にお挿しの餅花にももう春が来ています。地鳥の鴨、いりこ、くしがい、何といっても、人様の家はまず肴掛が目につきます。お小袖も、もうお作りでござりましょう。今は世間で、紋所を、葉附きの牡丹と四つ銀杏の丸にするのが、御婦人方の流行ですが、ならば時々の流行にして着たいものです。おまつ〈女中〉さん、さぞお仕着せは柳煤竹に乱れ桐の中形でござんしょ。同じ奉公でも、こんなお家に居合わすのが、その身の仕合わせ、場末では、いまでも流行おくれの天人唐草の模様が目につきます」

などと、内儀に物を言わすように仕向けて、なびいて来れば、ほかの借金取の居ない間を見はからって「この暮は、何処へも払わぬのだが、だんだんと尤もなお話だ。来春、女房が参宮いたす費用だが、これだけさしあげる。残りはまた三月前に帳面を消させて、笑い顔を見せてもらいますぞ」と、百目のところを六十目は渡すものだ。昔は売掛が百目あれば、八十目は支払い、二十年ばかり前は半分たしかに払うたが、十年このかた四分払いになり、近頃は百目に三十目渡すにも、きっと悪銀二粒は交ぜて渡す。人の心もだんだんにさもしく物を借りながらこれ故、困りはするが、いやといえば、商売やめるよりはかなく、又節季の苦しさを忘れて、性懲りもなく掛帳につけて置く。すべて時世につれて変るのもおかしい。以前はならぬ断りも聞き届けて、大晦日の夜中かぎりで切りあげたものだし、しばらく前までは、元旦のまだ夜明け方までもまわって、掛取りといえば、喧嘩せぬ家は一軒もなかった。それがこの一、二年は、更けゆくまで歩きはするが、議論もなく、ひそかにかたをつけてしまうので、注意してみると、無いというと、とことんまでないのだ。内証のことが両隣へきこえるのも構わず、借金は大名もせられる浮世だ。千貫目で首切られた例しもない。有れば、やらずに置かれるものか。この大釜に一分金を一杯ほしい。そうすれば根こそぎに済ましてやるのに。金銀ほど片寄るものはない。どうしたことか、銀に憎まれましたと言い、あと、一度は栄えなどと謡うて木枕を叩いて横に寝る男には、どうにも取りつく島がない。義理外聞を思わぬからは、噂も明かぬことと諦めて、古い掛けは捨てて、当分の勘定だけにしようと、互いに了簡し、腹立てることもなしにかたをつけるようになったが、人みな賢い世の中となったものだ。

つくづく世間を考えて見るに、随分身のためになる手代よりは、愚者でも、我が子の方がましだ。つまりは自然に誠意が出て、銀が集まれば、みな自分のものと思う故、そこそこには催促せず、働きに私心がないからだ。ところが、召使の若い者など、よくよく親方大事に思い、身分をわきまえて、仕事に励むものは別として、おおよそ主のためになるのは稀だ。一日千金の色里に遊び、満足に金を受取ると、そのうち、不足の分をこしらえ、あるいは悪質小判でごまかし、または、銀子うけとった掛けを、家へは取らぬとの口実で、使うて帰ったり、親方のしかと知らぬ掛けは、死帳につけるなど、いろいろに私するのだが、如何に気のつく主人でも、そこまでは届かぬものだ。また、小商人の丁稚までも、忙しい中に布袋屋のかるたを一面買うて、道歩き歩き、「八・九・どう」の札に心覚えをするが、親方に徳はいかぬことだ、掛取りも志さまざまだが、人は盗人、火は薪の始末と、朝夕気をつけるのが、胸算用の眼目だ。

ここに、請負普請の日傭頭で、富婁那の忠六という男があった。常に軽口をたたき、町の芸人といわれ、月待、日待の遊びの日には、物真似したりして、人の気に入っていたがこの大晦日を越しかねて、さる方へ銀五百目の無心を申したところ、易いことだと承知してくれた故、夜に入って、見舞に出向き、

「ああ、楽しいこっちゃ。今宵琴の音をきけば、年のよらぬ仙家の心地、当地広しというても、このお宅ならではほかにない。金銀満々として、四方に宝蔵、隠れ蓑に腐れ笠、打出の小槌は銀秤が針口を叩く音、福々旦那」と、言って、板敷の間に座った。

「用のありそうな忠六、これだろう」

と、五百匁包を投げ出すと、かたじけなしと、祝うて、三度おしいただき、

「お蔭で年をとりが鳴く、お暇申します、ごめんなすって」

と、門口まで出たが、ちょこちょこ帰って来て、

「奥様へ、有難がっていますと、どうぞよろしく頼みます。腰元衆」

と、言うと仲居のきちが、

「なんと忠六殿、喜びの折なれは…」

「…一舞いまいましょ」

そして、目出度い尽くしを、長々とやっているうちに、北国から大番頭が帰って来て、

「これから、二百貫目御蔵屋敷へ渡すんだ。米はおっつけ上って、儲けさせてくれる銀だ。銀だ。今日は奥でも琴の、小唄のといってるほどのさわぎか。さあ、銀を穿鑿せよ」

と、いいながら、ふと見ると、忠六が揚げ口に置いた五百目包を取りあげて、

「沢山な銀子じゃないか。何のために捨てて置くのだ。乄て二百貫目要るんだ。それだけ、あるかないか。なければ、手わけして才覚しろ。銀だ。銀だ」

と、苛々しているので、忠六は不首尾にも詮方なく、長居は損だと、手ぶらで帰った。

 

小判は寝姿の夢


夢にも身すぎのことを忘るなと、これ長老の言葉である。

思うことは必ず夢にみて、嬉しいこと、悲しいこと、さまざまのなかで、金拾う夢はさもしいものだ。今の世に落す人はない。それぞれに命と思って、大事にしているのだ。万日回向のすんだ場にも、天満祭の翌日にも、銭が一文落ちてはいず、とかく、わが働きでのうては、金は出来るものではない。

ある貧乏人、商売をよそにして、一足飛びに分限になることを思い、このまえ江戸にいた時、駿河町の店に、裸銀が山とあるのを見たこと、いまだに忘れず、

「ああ、今年の暮にあの銀の塊がほしい。敷革の上に、新小判がおれの寝姿ほどもあった」

と、一心にそのことばかり思いつめて、紙袋の上に寝た。

あけて十二月晦日の曙に、女房はひとり目をさまし、今日の日なんとしてもやりくりしがたいと、所帯を案じながら、窓より東明りのさす方を見ると、何としたことか小判が一塊、これはしたり、これはしたり、天の与えだとうれしく、「こちの人、こちの人」と呼び起すと、「何だ」という声の下より、小判は消えて無くなった。

「さても口惜しい」

と、悔んで、亭主にこの旨話すと、

「江戸で見た金をほしいほしいと思い込んだおれの一念が、しばし小判にのりうつったのだ。今の暮しの辛さなら、後世では成仏しかね、地獄へおちても、小夜の中山の無間の鐘を撞いてなりと、まずこの世を助かりたい。現世は金持が極楽、貧乏人が地獄、釜の下へ焚くものも、おれにはない。さてもあわただしい年の暮だ」

と、ふと悪心を起すと、魂までが入替り、やがてうつらうつらしている中に、黒白の鬼が車を轟かしてあの世の堺を見せた。

女房はこのありさまに一層なげいて、亭主を訓し、

「百まで生きられる世でもないのに、つまらぬ願いごとなどするのは、愚かなこと、互いの心が変らねばいつかは目出度い正月も出来るでしょう。私の手前、さぞ残念たことでしょうが、なるほどこのままでは親子三人とも餓え死にするばかり、子供の将来にもよし、口のあるのを幸い、奉公いたします。どうぞ、あの子を一人前に育てて下さい。末の楽しみもあるというもの、捨てるのはむごいこと故、ひとえに頼みます」

と、泪をこぼした。これを見て、亭主も男の身ではひとしお悲しく、口も利けず、女房の顔も見れず、目をつぶっているところへ、墨染あたりに住む口人の嬶が、六十あまりの婆様を連れて来て、

「昨日も話した通り、あんたの乳のよう出るとこを見込んで、一時払いで八十五匁の給金、おまけに四度のお仕着まで下さるとは、かたじけないことと、思いなはれ。雲つくような飯炊きでも、機織りまでして半李が三十二匁、何ごとも乳のおかげじゃと、思いなはれや。嫌というなら、京町の上にもよい乳母を一人見つけて置きました。今極めて置かぬと、あとではもういけませんよ」

と、言う。

女房はきげんよく、

「何をいたしますのも、身を助けるためでございます。大事の若子様をお預りしますのに、なんの文句がござりましょう。あなた任せの御奉仕の望みでございます」

と、言ったから、口人の嬶は亭主への挨拶は抜きに、

「そんなら、少しも早く先方へ」

と、隣の硯を借りて来て、一年の奉公を証文にし、銀もみな渡して、その嬶は手早く、

「後から貰うのも同じこと。手数料はどこもこの相場だ」

と、八十五匁但し小粒銀三十七個也と書付けにあるうちから、八匁五分をちゃんと取って、

「さあ、乳母殿、身ごしらえまでもないこと」

と、連れて行く時、男は泪だった。女房も頻を染めて別れを惜しみ、

「おまんよ、さらば。母は旦那様へ行って、正月にまた会いに来るからね」

と、言葉を残して、なにやら両隣りへ頼んで、また泣くのだった。

口人屋は気丈に、

「親はなくとも、子は育つ。たたき殺しても、死なぬものは死にませぬぞ。御亭主さらば」

とばかりに、出て行く。この連れの老婆はしみじみと、

「わが孫の不便なのも同じ。人の子の乳離れするのは、可哀想なものだ」

と、見返るのだったが、嬶は、

「それも金が敵、あの娘は死に放題」

と、母親にきこえるのも構わず言って、連れ去った。

程なく大晦日の夕暮となると、この亭主の心にも闇がしのび込み、『おれは随分と遺産を譲りうけながら、胸算用がわるかったばっかりに、江戸を立退いて、この伏見の里に住んでいる、というのも、女房の情ゆえだ。せめて大福で祝うしかないにせよ、夫婦揃って新玉の春を迎えるのが、楽しみだった』と思う心もいじらしい。正月の用意に雑煮箸を二膳宛買うて置いたのが、棚の端にみえる。それを取って、

「ことしはこの一膳の要らぬ正月だ」

と、へし折って、鍋の下へくべてしまった。夜更けて、子供が泣きやまぬ故、隣の嬶達が見舞に来て、摺粉に地黄煎を入れて、たきかえし、竹の管で飲ますことを教えてくれ、

「はや、一日の間に、思いなしか、額が痩せなすった」

と、言う。亭主はしょむないことと、わが身に腹を立てて、手にもった火箸を庭へ投げた。そして、

「ほんに、御亭主はお気の毒なこっちゃ。お内儀は結局仕合わせものよ。先方の旦那様は綺麗な女を使うのが好きじゃ。それに、この間なくなられた奥様に似てる。ほんにうしろ姿のしおらしいところなどそっくり…」

と、嬶達がいうのを聞きも終らず、『最前の銀はそっくりここにある。そうときいたからには、たとえ餓え死にしょぅと、ままよ』と、駈け出して行って、女房を取りかえし、泪で歳を取った。

 

神さえ御目違い


諸国の神々が、毎年十月出雲の大社に集り給うて、民安全の御相談を遊ばし、国々へ派遣する恵方神を選定し、春の仕度など取り急がれる折、京、江戸、大阪の三都への年神は、とりわけ徳の備わったのを選び出し、奈良、堺へも老功の神達、また、長崎、大津、伏見など、それぞれに神役をわけて、続いて、一国一城の所、あるいは港町、山中の町、繁昌の里里にまでそれぞれにおつかわしになる。遠い島住まいや一軒家までも、餅ついて松立てる門に、春が来ぬということはない。けれど、年徳の神も、めいめい上方へは望まれるが、田舎の正月はお嫌いなさるものだ。いずれ、どっちをとるかということになれば、何かにつけても、都は格別だからである。

月日の暮れ行くのは、流れる水のようなものだ。やがて、年の波打ち寄せて、十二月の末となった。

さて、泉州堺は、朝夕身の上大事にかけて、胸算用に油断なく、万事の商売を内端に構え、表向きは格子作りのしもたやと見せかけて、内証は奥で、一年の収入を見積って、世帯をまかなうところである。たとえば、娘の子を持てば、疱瘡がすんだあとの容色を見極めて、十人並の当世女に育つと思えば、はや三歳、五歳より、毎年嫁入衣裳をこしらえる。また、器量の思わしからぬ娘は、男も只では貰うまいと考えて、持参金のつもりで、別にそのための利貸しや商いをしておき、嫁入の段になって、さほど苦にならぬよう心掛けのよいやり方だ。

そのため、棟に棟がだんだんに建て続いて、こけら葺の屋根も、損ぜぬうちに修繕し、柱も朽ちぬ時から石で板継ぎして置き、銅樋も、数年毎にためして見て、結局之が徳だと、それにし、手紬の不断着も同様、起居も忙しくしない故、永年保って、すり切れることもなく、しとやかに見えて、かつ、立ち働きにも便利だ。諸道具も、代々持ち伝えて来たもの故、年忘れの茶の湯ふるまいといったところで、世間へは風流に見えるけれど、それほどの物入りではない。年々世渡りの賢いところだ。

暮し向きのよい人さえ、このありさま故、まして身代の軽い家々は、算盤枕に寝た間も、伸び縮みの大節季を忘れることもなく、唐臼の赤米を、紅葉の秋と眺め、花見時の安い鯛も、見たがる京の者に見せろと、魚荷に上して、自身は客さえなければ、江鮒さえ、土臭いとの口実で、買わぬ所だ。山ばかりの京で真鰹をくい、海近いここでは、磯ものの小魚で辛抱する。

何ごとも、燈台下暗しだ。大晦日の夜、どうやら構えの良さそうな商人の家へ、年徳の神が役目故、案内もなしに正月しにはいられた。見れば、恵方棚は釣ってるが、お燈明もあげず、何となく物淋しく、気味のわるい家だったが、ここと見立ててはいった以上、改めてほかの家へ行って、先客の神と相宿も面白くない。どう祝おうかと、暫く様子を見ていたところ、門の戸の鳴るたびに、女房はびくびくして、

「まだ帰られませぬ、再三、お足を運ばせまして、すみませぬ」

と、どの掛取りにも同じことわりをして、帰している。

間もなく、夜半も過ぎ、曙になると、掛取りたちがここに集って、「亭主はまだ帰られぬか」とわめきたてるそこへ、丁稚が息せききって帰って来ていうには、

「旦那様は助松の中程で、大男四五人に松の中に引き入れられ、私は、命が惜しくばと云う声を、きき捨てにして、逃げ帰って釆ました」

内儀は驚いて、

「おのれ、主人が殺されるというのに、男と生れながら、浅ましいことだ」

と、泣き出したから、掛取りは一人一人出て行く。しらじらと明けた。この女房、人が帰ったあとでは、なになげく様子もない。時に、丁稚がふところから、袋を投げ出して、

「田舎も不景気で、やっと銀三十五匁、銭六百取って参りました」

と、まことに、こんなからくりの家で使われては、家の者までかたり同然になってしまう。亭主は納戸の隅にかくれていて、因果物語の語り本によみふけり、美濃の国不破の宿で、貧乏な浪人が年を取りかねて、妻子を刺し殺す所が、ことにあわれで悲しく、なるほど死にもしそうなところだと、わが身につまされ、人知れず泣いていたが、

「掛取はみな納得して、帰りました」

と、いう声に、少しはほっとして、ふるえながら出て来た。そして、さてさて、今日一日で年を寄らしたと、悔んでも返らぬことをなげきながら、よそでは雑煮を祝う時分に、米を買うたり、薪を調えたり、元日も常の飯をたき、ようよう二日の朝、雑煮をたいて、仏にも神にも供え、

「この家の吉例で、もう十年ばかりも、元日を二日に祝います。神の折数が古うても、勘弁して下され」

と、自分らは夕飯なしですました。

これほどの貧家とは知らなかったと、三ガ日の経つのを待ちかねて、四日にこの家を出ると、この神は今宮の恵比須様をたずねて、

「さてさて、見かけによらぬ哀れな貧家で正月をいたしました」

と、憂き物語をされたから、

「あんたも年来、年徳の神でやって来られたのに似合わぬではないか。人の家の見立ては、召合わせの戸が白くなく、内儀が下女の機嫌をとり、畳の縁のすり切れた家には、行かぬものでござる。広い堺中でも、こんな貧者は四五人もないのに、よりによって不仕合わせなことだった。幸いこれに世間の商人が志す、酒に掛鯛がある。口を直して、出雲の国へお帰りなさい」

と、御馳走して、引留められている。この内陣の物語を、十日戎の朝はやく参詣した人が、きいて帰った。

神でさえ、この通り貧福の境がある。まして、人間の身の上、さだめがたい浮世ゆえ、きまった家職に油断なく、一年一度の年徳の神に、不自由を見せぬよう、稼ぐがよい。

巻四 

闇の夜の悪口


所のならわしで、関東では大晦日に祭をするときめたところがある。なお、摂津西の官の居籠り、豊前の国早柄の和布刈のほか、丹波の奥山家にこの日婚礼をする里がある。

昔は年の幕に霊祭をして、忙しいなかに香花を調えたり、神の折敷と麻殻の箸を取交ぜるせわしなさにその頃の賢い人が、極楽へ断りなしに、七月の十四日に変えた。今考えれば、春秋の彼岸のうちに祭ればよかった。未来の世まで、どれほど得のいくことか。

大阪生玉の祭は九月九日にきめてあるが、幸いこの日は重陽の節句にあたり、家々で膾、焼物をつくる日である。世間一同の祝儀ゆえ、客人もなく、年年にこの得が積って、大分のことだ。氏子の物入りも考え、神も胸算用からこう定めて置かれたのであろう。

また、都の祇園さまでは、大晦日の夜、削懸の神事があって、諸人がお詣りする。神前の燈火が暗くて互いの顔が見えぬ時、お参りの老若男女が左右に立ちわかれて、悪口のさまざまを言い放題、それはそれは腹をかかえることである。

「おのれはな、三ガ日のうちに餅が喉に詰って、鳥部野へ葬礼するわいやい」

「おのれはまた、人売りの保証人になって、同罪に粟田口の刑場へ馬に乗って行くわいやい」

「おのれはな、火の車で連れに来て、地獄の鬼の食い物になりおるわい」

「おのれが父は、町の番太をした奴じゃ」

「おのれが嚊は、寺の梵妻のなれの果てじゃ」

「おのれが弟はな、詐欺師の手先きじゃ」

「おのれが姉は、ゆもじなしに味噌買いに行って、道で転びおるわいやい」

いずれも口達者に、滅茶苦茶な雑言、はてしがない。なかに二十七八の若い男は、ずばぬけて口拍子がよく、誰が出てもいいすくめられて、しまいには相手になるものがなかった。その時、左の方の木の蔭から、

「そこな男よ、正月布子を着たものと同じような口きくな。見れば、この寒いのに、綿人も着ずに、何を云うか」

と、当て推量で言うと、これが偶然あたったので、肝にこたえて、返す言葉もなく、こそこそ大勢のなかに隠れ、一度にどっと笑われた。

これを思うに、人の身の上に、実(まこと)ほど恥かしいものはない。とかく、大晦日の闇を、足もとの明るい中から合点して、稼ぐに追いつく貧乏はない。

さても花の都だのに、いったい金銀というものは、どこへ行ってしもうたのか。毎年、節分の鬼が取って帰るものでござろ。ことに私は近年金銀と仲違いして、箱に入った金を見ませぬなどと、本気で話をしながら、三条通りを帰って行くと、山形に三つ星の紋提灯を六つとぼして、車三台に銀箱を積み、手代らしきもの跡について、話しながら行く。きけば、

「世間に無い無いというけれど、有るものは、金銀じゃ。この銀子は隠居の祖母へやる寺詣りの小使いにと、親旦那がわけて置かれたものだが、明暦元年に蔵入りして、出たのが今夜、久し振りに世間も見て、憂さを晴らすことだろう。思えばこの銀は、美しい箱入娘を生れながら出家にしたようなものじゃ。一生人手に渡っていい目に合うこともなく、あとは寺のものになってしまうんじゃから」と、大笑いして、

「今日この銀を出す序でに、向い屋敷の内蔵を見ると、寛永年中の書付のある銀箱だけでも、山のよう。一代であんなに溜るものだろうか。いったい、世間の分限は、だいいちに、けちん坊といわれ、何か一物のうては、富貴になりにくいものだが、うちの旦那は、万事大名風で、一代を栄華に暮し、その上この仕合せ、まことに備った福人だ。今までは惣領殿のところで隠居なされていたのだが、次男が家をもたれたから、また気を変えて、そこへ隠居したいとおっしゃるので、何ごとも御心任せだと、霜月のはじめ頃から諸道具を母屋からわけ、この銀が最後。隠居附の女中一人、猫も七匹乗物で人並みに引越しだ。この二十一日に、例年の衣配りだと、一門中の下人どもをかれこれ集めて、男小袖四十八、女小袖五十一、小裁、中裁の小袖二十七、合わせて、百二十六、笹屋で調えて、みんなに下された。この小袖代だけでもあれば商の元手になるぞ。また、若旦那は、昨日もある太夫が、初芝居が出来ませんと、機嫌を見はからって、泣きついたところ、金子五百両貸してやられた。京の広いことを知らぬ故、掛取が古文をいちいち数えたりするが、この旦那兄弟、この家に奉公してこのかた金銀を手に持たれたこともない。まして、わが身代いくらあるかも知られず、九人の手代まかせだ」

と、語り続けて、大きな構えの家にはいり、

「御隠居様のお銀が参りました」

と、内蔵におさめた。

この家の年男、神々へお燈明をあげたのち、

「お銀蔵へも燈明」

と、いうと、旦那は指さして、

「さても、初心な年男殿、蔵に燈明などというのは、僅か千貫目の身代のことだ。二十五六もの内蔵に、いちいち燈明をとぼすつもりか」

と、笑われた。

随分金もあるものだと、この家を羨ましく見ていると、方々から沢山な銀箱を、広庭に積み重ね、両替臣の手代らしいものどもが手をついて、この家の大番頭に向っていろいろとご機嫌を取り、

「どうぞ、この銀子をお蔵へお預り願います」と、言うと、「例年、申し上げて御存じの通り、大晦日の七ツ刻がすぎれば、どこから銀子が参っても受取り申さぬ。かねてそう申しわたしたのに、夜になって、こんな端金受取っては店ののれんに関わること」

と、言うて請取らぬのを、いろいろ詫言、追従いって、三口合わせて六百七十貫目を渡し、受取証をおし戴いて、立ち帰った。もうお蔵はしめたからと、土間の大竃のうしろに重ねて置いたこの銀は、庭で年を取った。まことに石瓦のようだ。

 

奈良の庭竈


長いあいだ同じ顔を見るのは面白い。この二十四五年も奈良通いをする魚屋があったが、行くたびに只一色、蛸よりほかに売ることはなかった。後には、人も蛸売の八助と呼んで、見知らぬ人とてなく、それぞれに得意もついて、ゆるりと三人口をすごした。しかし、大晦日に貯えの銭五百文もって年をとったためしもついぞなく、食べるだけで、雑煮を祝うのがやっとのことであった。

この男、常々渡世に油断せず、ときに母親に頼まれて、火鉢を買うて来るのにも、ちゃんと手数料を取らずには置かぬ。まして他人のことには、産婆呼んで来てやる瀬戸際の折でも、茶漬飯をよばれて行く。如何に欲の世に住んだからとて、念仏講仲間にたのまれた経椎子の布の買物にも口銭を取るに至っては、諺通り「誰か死ねばよい。目玉くりぬいて取ってやろ」という我欲の男だった。これほど細かくしてもあの貧乏故、いわば天の咎めであろう。奈良通いのそもそもから、今でも蛸の足は日本全国八本と決っているのを一本は切って、足七本にして売っても、誰も気のつかないのをこれ偉いと、売っていた。切った足だけを松屋のある煮売屋がきまって買うた。人の心はおそろしいものだ。

しかし、物には七十五度といって、必ず露見れる時節がある。いつかの年の暮に、足二本ずつ切って、六本にしてどさくさまざれに売ったところ、それでも穿鑿する人がない。売り廻っていると、表に菱垣をした家から呼びとめられて、蛸二はい売って出ようとした途端、坊主頭の親仁がじろりと見、打ちかけの碁もそのまま出て来て、

「何だか裾の淋しい蛸だな」

と、足のたらぬのを見つけて、

「これは何処の海からとれる蛸だ。足六本だとは、神代以来どの書物にも見えてはおらぬ。気の毒に、今まで奈良中の者が一杯食うたことだろう。魚屋、顔覚えたぞ」

と、言うと、

「お宅みたいな、大晦日に碁を打つような家へ売るもんか」

と、文句を並べて帰った。

その後、誰がいい広めるともなく、世間に知れて、何しろ狭い土地の隅から隅まで足切り八助と云いふらしたので、一生の身すぎが止まったが、これも自業自得だ。

そんなふうで、奈良の大晦日の夜のありさまは、京大坂よりは一段と静かだ。勘定も現金のあるだけはすませ、この季節には払えねと断りいえば、掛取も聞届けて、二度と来ることもなく、四つ刻には、奈良中が節季をすまして、はや正月の心だ。家家に庭いろりといって、釜をかけて焼火をし、敷物を敷いて、家中旦那も下男も一緒に胡座をかき、不断の居間はあけて置き、ここの慣習で、金輪に入れた丸餅を庭火で焼いて食うのも、上品で福々しい。

さてまた、都外れの宿の者といわれる貧乏人たちが、大乗院御門跡の家来因幡という人のもとで、例によって祝い初めをして、『人々富々』といって町中を駈け廻れば、家毎に餅に銭を添えて与える。つまり、大坂などでいう厄払いと同じだ。

漸う夜も明け方の元日に、『俵迎え俵迎え』と売るのは、版で押した大黒様である。二日の曙には恵比寿迎えといって売る。三日の明け方は毘沙門迎えといって売る。毎朝三ガ日の間、福の神を売るわけだ。

さて、元日の年始廻りをあとにして、先ず春日大明神へ参詣するのだが、これには一家一門、未来の親類までも引連れて賑やかなことだ。この時、一門が広いほど、外聞がいい。何国でも、富み栄えた人は、羨ましいものだ。商売の晒布は、年中京都の呉服屋へ掛売りにして、代金は毎年大晦日に取集めて、京を大晦日の夜半までに出発して、松明を点し連ねて、南都に入り込む。その晒布の銀、何千貫と限りもない。奈良へ帰るとすでに夜明け故、金銀を一旦蔵に入れておき、正月五日から、互いに取り遣りの勘定をするのが、しきたりだ。

この銀荷に目をつけて、大和の片里に住む素浪人どもが、年取りかねる辛さに、命を捨てる覚悟で、四人しめし合わせ、追剥ぎに出たところ、皆三十貫とか五十貫とかの大口で、欲しい端た金がないものだから、あれかこれかと見比べるが、遂には酒手をともいいかね、道を変えて、くらがり峠に廻り、大坂からの帰りを待ち伏せしていると、小男が来た。担いでいる菰包を、

「心憎いぞ。重い物をわざと軽う見せかけるとは、隠し銀にきまった」

と、抑えて取って逃げ出すと、この男が声を立てて、

「明日の御用にはとても立つまい、立つまい」

と、言うので、四人であけて見れば数の子だった。これはこれは。

 

亭主の入替り


年の波が伏見の浜に打ち寄せて、水の音さえせわしい十二月二十九日の夜の下り船だった。

旅人は常より急ぐ心で乗合い、早く出せ出せと、声々にわめくと、船頭もさすがに、

「今日、明日の正月は誰しも同じこってござんす。何がさてぬかりはござらぬ」と、やがて、纜を解いて、京橋を下った。

不断の下り船では、世間の色話や、浄瑠璃に即席咄、謡に舞に役者の真似など、一人としてお喋りせぬ者はなかったが、今日にかぎって物静かで、時々思い出し念仏、または、長うもない浮世を、正月正月と待って、あげくに、死ぬのを待つばかりなどと、世間を恨んだ言い草ぐらいなもの。他の人々は寝入りもせず、皆くしゃくしゃした顔をしていたが、手代風の男がひとり色茶屋で覚えた投節を、息の根の続く限り張りあげて、相の手は調子外れの口三味線で、首まで振りまわして憎たらしい。

程なく、淀の小橋にかかって、橋の卸間の行燈日あてに、船を艦から逆さ下しにした。分別くさい男が目を覚まして、

「あれあれ、あれを見い。人間はみなあの水車みたいに、夜昼年中油断なく、稼いだら、毎年節季の胸算用がくるうこともないのに、不断は手を遊ばして置いて、足元から鳥がたつように、はたくさと働いたところで、何の甲斐があろうか」

と、われ独り智慧者のような顔をして去った。

船中の人々耳をすまして、なるほどと聞いていたが、そのなかに、兵庫の旅寓屋町の者が乗合わせていて、

「只今のお言葉で、つくづく身に思いあたりました。浦住いの一徳で、生魚のつかみ取を商売にして、世渡りを楽々としていながら、毎年の決算には少しずつ足らず、この四五年も困って来ました。大津に母方の姉がいまして、わずか七十日か八十日、百日に足らぬ無心をして来たのですが、毎年の事とて姨も愛想をつかし、ことしの暮は合力できぬと、いい切られ、置いた物をとって来るような当てがはずれ、里へ帰っても年のとりようがありません」

と語る。

また、一人の男は

「このたび、ひとりの弟を、四条の役者に近附があるを幸い、これに頼って子役に出し、前銀を借りてこの節季を仕舞おうと思っていましたところ、意外なことには、これなら、姿形人に勝れ、太夫子にもなれると思っていましたのに、耳が少し小さく、役者には仕立てにくいと、断られました故、仕方なく連れて帰るのです。さてさて、世間に人はいればいるもの、十二三の若衆下地の子供で、随分器量のよいのを、毎日二十人三十人と連れて来て、口入屋の囁くのをきけば、浪人の子もあり、医者の子もあり、家筋も賎しくない人達だが、どれもことしの暮を仕舞いかねての奉公、十年と年期を切って、一貫から三十日で好きな子をよりどりでしたが、色の白い点、賢い点、上方者にとても敵いません。路用損して帰るのです」

と、語った。また、一人の男は、「親の代から持ち伝えた日蓮上人自筆の曼多羅を、かねがね宇治に欲しいという人があっていくらでも出すといわれるのを、その場は売り惜しみましたが、この暮に手もとがつまって、はるばる売払いに行きましたところ、こんどはどういうわけか、先方の分別が変って改宗になったとて、この名号を手にとりもせず、あてがはずれて、弱りました。ほかにあてもありません故、家へ帰って、借金取にせがまれ、相手になるのもつらいので、大坂から真直ぐに高野詣りいたしました。こんな信心見通しの弘法様にはさぞおかしい事でしょう」

また、一人の男は、

「後払いの米を、京の織物仲間の問屋で、毎年暮に貸入れの周旋をして、その手数料で、いつもゆるりと節季を仕舞ぅて来ましたが、石四十五匁の相場の米を三月未日払いにして五十八匁に決め、年々商って来ましたのを、職人たちが内談して、一足飛びに十三匁の利子を三カ月も払わすのは、どう考えても、酷い。年はどのようにもとれるものだ、この米借りるなと云い合わせ、折角鳥羽まで積んで来た米を、とうとう返してしまいました」

と、言う。

船上の身の上話、どれを聞いても、心配ごとのないのは一人もない。この舟の人々は、自分の家がありながら、大晦日に家にいられるものはあるまい。常とはちがい、誰も忙しい最中ゆえ、人の所へも訪ねにくい。昼のうちは、社寺の絵馬を見て暮しもしていられようが、夜に入っては行く所がない。それで大借金を背負った人は、五節季の隠れ場所に気のおけない妾を囲って置くと云う。けれどこれも懐都合も融通もつく人のこと、貧乏人にはできぬことだ。

宵から小唄機嫌の人があった。さだめし内証ゆるりと節季を仕舞って置かれたことであろう。羨ましいことだと、訊ねてみると、この男大笑いして、

「皆の衆は、大晦日に、われも人も助かり、家に居れると云う工夫を、まだご存知なさそうだな。この二三年いろいろと工夫して、これで埒を明けて来ました。幸い懇意な亭主が入替って留守をし、借金取の来る時を見計って、お内儀、私の銀は、はかの買掛とは違います。亭主の腸をくり出しても、貰って帰ると云えば、ほかの掛取どもは、これではなかなか噂も明くまいと思い、皆帰ります」

これを大晦日の入替り男といって、近頃の新工夫である。まだ場末では知らぬこと故、この手で一杯くわせるのだ。

 

長崎の餅柱


十一月末日を限りに、唐人船が残らず港を出て行くと、長崎も次第に物淋しくなる。しかし、この土地の稼業は、唐人相手の貿易で、その時に金を儲けて、一年中の貯えを作って置き、貧福それぞれの分に応じて、ゆるりと暮し、何ごとも細かに胸算用せぬところである。たいていの買物は現金払いにして、歳末の掛取りも見られず、大晦日の近づく頃も、常と変らぬ酒を楽しみ、まったく暮しよい所だ。師走になっても、人の気はせわしくなく、上方のように節季乞食も来ぬゆえ、ただ伊勢暦を見て、春の近づくことを考え、古代の掟を守って、十二月の十三日に定まって煤をはらい、その竹を棟木にくくりつけて、又の年の床払いまでそのままにしておくのである。

餅はその家々の嘉例に任せて搗く。ことに面白いのは、柱餅といって、最後の一日を大黒柱に打ちつけて置き、正月十五日のお飾り焼きの時、この餅をあぶって祝う。何につけても所の慣習は面白いもので、草木というを庭に横渡しにして、鮒、乾海、乾飽、雁、雉子、あるいは塩鯛、塩鯖、昆布、大口魚、鰹、牛蒡、大坂など、三ガ日に使うほどの料理のものは、みなこの木に釣り下げて、竃を賑わせる。すでに大晦日の夜に入ると、物貰いどもが旗を赤くして、土で作った戎、大黒、又荒塩を台にのせ、大福神が参ったと、家々を祝いまわるのも亦港町ゆえであろう。

いったいに、年玉は、何処でも、ほんのちょっとしたものにきまっている。男は一匁で五十本も買える扇、女は煎じ茶少しずつ紙に包んで、しみったれてはいるが、これも土地一般の風習故、おかしくない。とかく住み馴れた所が、都だ。されば、諸国の商人も、手廻し早くしまい、わが故郷の正月をすることを世の楽しみとしているのだが、ここに京都の資本の細い糸商で、この二十年も長崎下りをして、万事人に勝れて賢く、京都で門出の飯を食うてから長崎まで歩行路、船路はるばるの途中、一文も無駄づかいしなかった。長崎に逗留の間もついぞ丸山の遊女町も覗かず、金山の容姿が粋やら、花鳥の首筋が白いやら、夢にも見ずに、枕に算盤、手に日記を放さず、なんとかして唐人の愚直人をだまし、ぼろい儲けをしてみたいものと明暮心にかけていたが、この頃の唐人どもは日本の言葉を使いおぼえ、持ち余す銀があるか、家屋の担保がなければ、貸しもしない。そうでなければ、歩に合う家を買うて置くが得だと、心得している故、ぼろい儲けは唐人相手にもない。まして、日本の智慧袋はこの世渡りに賢く、ぼろいことばかりはさせてはくれない。利口だけで分限になれるというものなら、まずこの男だが、時の運がうまく来て仕合わせが手伝あわねは、仕方のないものだ。

同じ頃から、長崎に下り、同じ糸商売をやる京の人で、随分と儲けたあげく、いまは手代に店を任せ、自身は都で安楽に暮して、おまけに物見、花見、女郎狂いも相当にしていた分限な人も数知れずあった。どんな工合でこうなったのかときいたところ、それは商人心というものだとのこと。つまりは世間の動きというものに注意して、儲るべきものをねらって思惑をやるから、拍子よく金銀が嵩むのだ。のるか、そるかでやらぬことには、何時も同じことだ。この男は長崎の買物を京で売る算用をしてきちんと後先きを考えて確実なことばかりに手を出していたが、算用の外の利を儲けたことは、一年もない。皆資本の利子にくわれて、結局他人のために気骨を折っている。毎年大晦日を、橋本の旅篭屋に寛いで、ここで年をとるのがわが家の吉例というもの、大節季の借金を払いかねる為なのだ。同じことなら、そんなことはやめにして、京のわが家で年をとるようにしたいものだ。

この男つくづく世間を見渡して、なるほど手狭くやっているから、怪我もない代りに、人もいう通り残ったためしもない。この男は一番、何によらず、本職以外のことを思案して、金儲けをせねばと心に決めて、長崎に下りはしたが、金で金を儲けることばかりで、只で儲かるようなことは一つもない。ともかく来春の小芝居に、何ぞ変った見世物がないだろうか。京、大坂の綿工人も、手を尽していろいろ目先を変えているが、何も珍らしくない。或いは舶来のものにもしやないかと考え、なみ大抵のものでは銭もとりにくいと、吟味したところ、きまって好いものは窮竜の子や火喰鳥で、なるほどまだ見世物にしたことはない。けれどこれは長崎にも稀故、急に手にはいりにくい。ひそかに唐人に相談して、

「何か異国に変ったものはないか」

と、きくと、

「鳳凰も雷公も、きいたばかりで見たこともない。とかく伽羅も人参も日本に稀なものは、唐にもすくない。と儲ると思えばこそ、百千万里の海を渡って、命と

銀と替える商いに来るのだが、やっぱり銀ほど人のほしがるものはないと合点なさい」

と、語った。なるほどと思い、商いに油断なく、色々の渡鳥を調えて、都に上ったが、皆人に見せてしまったあと故、一つも銭になりにくく、人の見馴れた孔雀だけが、いまもすたらず、これでやっと元金を取りかえした。これを思うにわかりきったことが良いようだ。

 

巻五

つまりての夜市


万事の商いがのうて、世間が詰ったというのは、毎年のことだが、例えば、十匁に相場が足って売買したものを、九匁八分に売るのは、瞬く間に千貫目のものも買手がある。また、十匁に買うというなら、即座に二千貫のものも売手がある。これを思うに、大都市に住んでいる商人はとりわけ度胸がいい。売るも買うも、みな人々の胸算用なのだ。

世にないものは金というのは、たっぷりあるところを見ないからである。その証拠に、諸国ともに三十年このかた世間の繁昌は目に見えて明らかだ。青草ぶきであった処は板廂となっている。月もるといえば、すぐ引合いに出る不破の関屋も、今は瓦葺に白土の軒も見え、内蔵、庭蔵、大座敷の襖にも砂粉は光るのが嫌だと、泥引きにして墨絵をかく趣好は、都と少しも変りがない。

また、灘の塩焼は、黄楊の小櫛も挿さでと詠まれたのに、今はこんなところの浦人も衣裳好みして、上方で流行るというほどのことは何でも聞合せ見覚えて、千本松の裾形も古い、今年の流行は夕日笹の模様だと、末だ京、大阪の場末では知らず、中形の忍、お小桐の衣裳など着ているうちに、はや田舎で京染めとは、酒落ている。昔流行った模様の肩先きへ染め込んだ郭公の二字、また葡萄棚の所々へ、草葉を茜で染め入れているのは面白い。

何国にいても金さえあればままにならぬものはない。殊に貧乏人の大節季は、何と分別しても、済ましにくい。無いというてからに、銭一文置かぬ棚をにらんだところで、出るわけもない。これを思えば、年中始末しなければならぬ。日に一文ずつ煙草で残せば、一年に三百六十文、十年に三貫六百目だ。この気持から算用して例えば、茶、薪、味噌、塩、万事に気を配れば貧乏でも、年に三十六匁の違いはある。十年に三百六十匁、これに利をかけてみると、三十年に積れば、八貫目あまりの銀高だ。すべてたとえ少しの入費にしろ、不断常住のことには注意していなければならない。ことに昔から食前の酒をのむのは、貧乏の花盛ということもある。

ここに、火吹く力もない、その日暮しの鍛冶屋がいた。御火焼きに稲荷へ供えた御神酒徳利の小さいのへ、八文ずつの端した酒でも、毎日三度ずつ買わないことはなく、四十五年このかた飲みくらしてきた。この酒の高は毎日二合半ずつにして、四十石五斗だ。一日二十四文の銭、つもりつもって、銭一貫を銀十二匁になおせば、四貫八百六十匁だ。下戸ならば、これほどには貧乏はしまいものに、と笑うものがあると、この鍛冶屋、すました顔で、世間に下戸の建てた蔵もないと歌って、また酒をのみつづけた。その年の大晦日に、あらまし正月の用意をして、蓬莱も飾りながら、二合半の酒を買う銭もない、もの足らぬわが家が淋しくて、四十五年このかた一日も酒を呑まぬ日はなかったのに、よりによって元日に酒が無くては年を越した甲斐はないなど、夫婦でさまざま相談したが、酒代の借所もなく、質草もなく、やっとの思案に、ことしの夏の暑さを凌いだ編笠が、まだ青々として損ねずにあるのを倖い、来年は又来年で何とかなろうと、之を売って当座の用に立てたらと思いつき、すでにせりだしている古道具の夜市にたのんで、あたりの様子を見るに、たいていは、行きどころの無い借金持の顔付きであった。

宿の亭主は、売口銭一割に調子づいて、せり出した。今宵になって売るほどのこと、よくよく差しつまって、みな哀れである。今年十二三年になる娘の正月着らしく、萌黄色の地に鹿子染めの州崎模様、裏は薄紅、中綿も惜しまず入れて、まだ袖口もくけてないのを、希望はないかないかとせったところ、裏表とも六匁三分五厘ずつに落ちた。之では裏代にもなるまい。その次に丹後の細口の鯛を、片身売に出した。之は一匹残らず、二匁二分五厘に売れた。そのあとから、二畳釣りの蚊帳を出して、八匁からこんどは二十三匁五分までせり上げたが、売らずに置いた。これは商売のならぬ筈だ。蚊帳を大晦日まで質にも置かず持って来た身代ゆえ、頼もしいところがあると、笑った。つぎに手習の手本に色々と記してあるのを売りに出してみたところが、ようよう五分まで値をつけたので、

「それは皆さんあんまりだ。紙だけでも三匁あまりはござる」

と云うと、

「如何にも、如何にも、何も書いてなければ、三匁の紙だ。無用の手本を書いたばかりに五分でも高い。たとえ、どのような人の筆にせよ、これは褌という手じゃ」

と、云う。

「それはどういうわけか」と、訊くと、

「今の世に男と生れ、これ程かかぬものは無いによって、これを褌手」と、笑った。

さて、また、「割れもの、割れもの」と、大事にかけて出したのは、南京のさしみ皿四十枚、その合紙に入れたものは京大坂の有名な女郎の文反古である。これはと、いそがしいのに読んでみると、みな十二月の手紙で、いとし可愛いの思いを去って、近ごろ申しかね候えどもと無心の文ばかりだ。恋も無常も金がなくてはままならぬ。この皿の持主もきっと大尽といわれて、この文一つが銀一枚ずつの無心にあたるだろう。してみると、皿よりもこの反古が値うちものだと、大笑い。そのあとに、不動尊一体、独鈷、花皿、鈴、錫杖、護摩の壇の処分品。

「さてさて、この不動も、自身の富貴は祈れぬものだ」

と、取沙汰した。

時に、件の編笠を出したところ、その場所に売主のいるのも構わず、「哀れや哀れや、この笠、幾夏も保たせようと古い反古の紙袋に入れて、さても始末な男の売物じゃないか」

と、三文からせりたして十四文に売れた。その銭をうけとるとき、

「これはこの五月に三十六文で買うたのだ。嘘は云わぬ、庚申参りに一べん被ったきり、そのまま」

と、言ったのも、その身の恥でおかしかった。

その夜の仕舞いに、歳暮の礼扇の箱を二十五、煙草の入った箱一つで、二匁七分に買うて帰ったところ、煙草の箱の下に小判三両はいっていたのは、思いもよらぬ仕合わせであった。

 

才覚の軸すだれ


年の碁の切なさが、身にしみて、来年松の内の三ガ日が過ぎたら、四日からは商売に油断せず、万事その時払いにして、ない時は魚も買わぬがよい、諸事を五節季決算にしようと、胸算用をきめ、借金取を怖れる心のまま、正月になった。

今年は今までの吉例を祝い改めると、十日の帳綴を二日に繰上げ、五日の初荷も三日に繰上げて、にわかに勤勉になり、とかく外へ出がちだと、どうしても金を使い、物見、物参りに誘われ、無分別に大尽暮しになるのだと、決心して、商売のことよりほかには人と物も云わず、毎日胸算用して、何かにつけ、儲けの少ない世の中ゆえ、台所に金の要らぬ思案が第一と心得、三月の奉公人の出替りから飯たきも置かず、女房に前垂させて、自身も昼間は旦那といわれて盾におり、夜は門の戸を閉めて丁稚の踏碓を助けてやり、足もたいてい汲みたての水で洗うぐらいに気をつけていたが、これが始末貧乏というのだろう。それ程の商いもなく、ますます日向に氷の例えのようだ。何としても、一升入る柄杓は、一升しか入らぬと、古人も言い伝えている。されば、熊野比丘尼が、身の一大事の地獄極楽の絵図を拝ませ、または息の根のつづく限り、流行唄をうたって、勧進しても、腰にさしている一升柄杓に一杯はもらいかねた。

さて、同じ後世の信心ごとでも、人びとの気もちにも大変な違いがあるものだ。去年の冬に、南都東大寺の大仏再建のためにと、竜松院の上人が勧進修行に出て行って、信心なき人には勧め給わず、無言で歩きまわられ、志ある者だけを受けられたが、同じ一升柄杓なのに、一足あるくと一貫、十足で十貫、あるいは銀を投げ入れ、釈迦も銭はど光らせ給う、これこそ仏教の昼である。この再建は特別の寄進から、八宗ともに奉加の志で、この上ない殊勝な事だった。町はずれの貧乏人のところでも、長老の万貫貧者の一文、これも掠れば一本十二貫日の丸柱ともなるものだ。思うに、それぞれに心して、少しのことでも貯えせねはならぬ。

分限になる者は、その生れつきが格別だ。ある人の息子、九歳より十二歳の年まで手習いにやったところ、その間に使い古した筆を集め、そのほか、人の捨てた分まで拾いためて置いて、やがて十三の春に竹細工にして軸簾をこしらえ、一つを一匁五分ずつで三つまで売り金を儲けたことを、出かしたと、親の身にしては嬉しさのあまり、手習の師匠に語ると、お師匠はこのことよしとはほめられず、この年まで数百人の子供をあずかって、指南し、見て来たが、そなたの子供のように、気の働き過ぎた子供で、分限に世を暮した例はない。といって乞食するほどの身代にもならぬもの、中ほど以下の渡世をするものだ。それにはさまざまなわけがある。そなたの子だけをかしこいというように思召すな。もっとかしこい子供がある。自身の当番の日はいうに及ばずひとの番の日も箒をとって座敷を掃き清め、大勢の子供が毎日使い捨てる反古の丸めたのを一枚一枚皺伸ばして、毎日屏風屋へ売って帰るのもある。これは筆の軸の簾の思いつきよりは、即座の用にたつことだが、これもよろしくない。また、ある子は、紙を余分に持って来て、使い過ぎて困ってる子供に、一日十割の利息で紙をかし、年中に積ると、どれぐらいの徳になるだろうという。皆それぞれ親の賢い気風を見習うもので、ひとり出せる自分自身の智慧ではない。その中でも一人の子は、父母の朝夕仰せられた手習いに精を入れよ、「成人してこれが身の為になることだ」との言葉は反古ではないと、あけくれ読み書きに油断なく、ついには兄弟子達にもすぐれて能筆になった。この心掛けなら、行く末分限になるだろうと見えた。というのは、一筋に家業に精出したからだ。いったいに、親代々続けたもののほかに、商売を変えて、続いたためしは稀だ。手習子供も、自身の役目として書を書くことは外にして、若年の時より、すばしこく、無用の欲心だ。第一に大切な手は書かず、浅ましいことだ。あんたの子だが、そんな心掛けは、よろしくない、とかく、少年の頭は、花をむしったり紙鳶をあげたりして、世間や商売のことを知る年になって、身をかためるのが道の常だ。七十のわたしがいうこと、まあ行末を見ていなさいと、いい置かれた。

お師匠の言葉に違わず、この者たちは、世帯もつ頃になると、さまざまの稼ぎをするほど成り下って、軸簾をつくった者は、小利の道のために、草履の裏に木をつぐことを工夫したが、これも長く流行らず、また紙屑を集めた者は、松脂塗りの土器を工夫して売り出したが、土竃一つの身代だ。また、手習に精出した者は、物ごとに疎く見えたが、鷹揚に生れついて、江戸送りの油が冬にも氷らぬ法を考え出し、樽に胡椒を入れることで、大分儲けて、年を取る。同じ思いつきでも、油土器と油樽とでは人の智慧ほど違うものはなかった。

 

平太郎殿


古人も「世帯仏法」、つまり仏法も衣食のためと申されたが、今もその通りだ。毎年節分の夜は、門徒寺できまって平太郎殿の故事を引いて仏をほめたたえる説教がある。きくたびに変らぬことだが、殊勝なこと故、老若男女の参詣が多い。

ある年、大晦日に節分があたり、厄払い、天秤の響き、豆まき等と大へん忙しく恐ろしい程であった。

お寺では太鼓を叩き、仏前に御燈光をあげて、参詣の人人を見守っていたところ、初夜の鐘を撞くまでにやっと三人しか来なかった。住職は勤行すまし、暫く世間のことなど考えて、

「さて、今晩は一年中の定め故、いやに暇なく、参りの衆も少ないと見えました。しかし、子孫に世を渡し隙の出来た隠居のお祖母は、大晦日だとて何の用があろうか。仏のお迎え船が来たら、それに乗るとか乗らんとか云うことは、言われまい。愚かな人心かな、あな浅ましやな。さりながら、たった三人に説教するのも益はない。いかによいことにしろ、ここが胸算用でござる。とても燈明の油銭にもならないから、折角口を叩いても、世の耗(ついえ)。めいめい銭を取り戻して、お帰り下され。渡世にしばられ、参詣もないときに、皆さんは奇特なこと、それでこそ信心じゃ。仏もいそがしいなかをおいでになられることゆえ、皆さんに、決して御損はかけさせませぬ。仏も金の大帳にお附置きになって、きっと埋め合せなさる故、無駄銭を使うたなどと思召さるな。仏は慈悲第一で、嘘も偽りもござらん。頼母しゅう思召せ」

この時、一人の祖母泊をこぼして、

「只今は有難いことを承りまして、それにつけてもわが心底が恥かしゅうござります。へい、決して、信心にて参ったのではござりません一人ある倅めが、常々身すぎに油断をしまして、借金にせめ立てられ、毎度毎度いろいろ作りごとを申して、遁れて来ましたが、この節季の言い訳に何とも思案がつかず、私にはお寺へいけ、そのあとで、ばばが行方不明になったと欺き出して、皆の衆を頼み、太鼓、鉦をたたいて探しまわり、これで夜明かしをして節季を済まそう。古い事にも大晦日の夜のお祖母さがしは、見えぬ、之は初めてだと思案しまして、いかにも此処へ参詣いたしましたものの、近所の衆が忙しい大晦日の晩に方々探しまわって下さっていると思うと、大それた罪だ」

と、欺いた。

また、一人は、

「生国は伊勢の者ですが、人の縁ほど不思議なものはありません。こちらに親類とてもありませなんだが、大坂旦那廻りのお伊勢の神官にたのまれて、荷持をいたしておりました。ここの繁昌を見まして、何をしたとても親子三人の口を食うぐらい楽なことと考え、幸い大和へ小間物の商いをして廻っていた人の死んだあと、二つになる男の子のあるその後家が、色白で体つきも立派なので、共稼ぎして世を渡り、行く末はこの子にかかれるのも願もしいと、入婿して、半年もたたぬに、勝手なれぬ行商に、少しの商品もみなふいにしました。十二月のはじめからこのかた何か良い渡世はと思案していますと、こんな子供をあやして、お前も身があるからには妾の言うことをよくお聞きよ。小男でもほんとの父さんは、利発者だったとおぼえておおき。女仕事の飯までたき、女房は早寝させて、じぶんは夜明けまでわらじ作りして、じぶんは着なくても、女房子供には正月の晴着をこしらえ、この黄柄茶の着物もその時の名残じゃぞ。何につけても馴染みほどよいものはない。もとの父様がなつかしいと、たんとお泣き、とあてつけに云うのをきくと、これもみな入婿の悲しさかと、我慢の出来ぬところでありましたが、それでも日々を重ね、故郷に少し貸しておいた銀がありましたので、これを集めて節季の払いの足しにもせんものと、遥々伊勢へ下りましたが、その甲斐もなく、貸しておいた人たちは、みなどこかへ引越していませんでした。また手ぶらでようよう今日の夕飯前に家へ帰りましたら、どう才覚したのか、餅も搗き、薪もととのえ、神の折敷にはうらじろも色めいているので、世は欺くまい、救う神もあって、留守の間に手廻しよく、内証ごしらえして置いたのかと、嬉しく、無事で帰って来た、と云いますと、女房はいつもより、機嫌もよく飯の仕度がしてありまして、皿に赤鰯の焼いたのをつけてくれました。箸をとって食いかかろうとしましたら、伊勢の銀は取ってござったか、といって、不首尾の旨聞きもあえず、あんた空手でようもようも戻られたことじゃ。この十二月の晦日払いに約束して、私の体をかたに手形に書き入れ、一斗九十五匁の勘定で買いましたよ。世間は四十匁の米を食うていたのに家では九十五匁の米を食うと云うのも、あんたが愚かなればこそ、仕合せなこっちや。持ちかえったものは褌一筋。何も損の行かぬこと、日短かなれば暗うなります。足もとの明るい中に出ていっておくれと、食いかかった膳をとりあげて追いだそうとします。そのとき、近所の者が集って、亭主には気の毒だが、入婿の因果とあきらめて出て去なっしゃるが、男の本意、またよいところもござろうと、口々に追い立てましたので、余り悲しくて泣かれもせず、明日は国元に帰る決心をしましたが今夜一晩あかすところがないので、私の宗旨は法華ですが、ここへ参りました次第」

と、身の懺悔をするのが、哀れでもあり、滑稽でもある。

また、一人の男は大笑いして、

「わが身のことは、とかく言いにくいが、家にいますれば方々より掛取りがきて、生かしておかぬとせめられる体です。誰に申して銭十文借りるあてもなく、酒は呑みたし、身は寒し。いろいろ考えたが年を越すべき才覚もなし。近頃浅ましい思いつきながら、今宵はお寺へ平太郎殿の説教参りが、集って来るだろう。その草履や雪駄を盗み取って、酒代にしようと心がけました。ところが、ここのお寺に限らず、どこのお寺でも、人の切端もなく、仏の目を抜くことも難しいものです」

と、身の上を語って、涙をこぼした。

住職も膝をたたいて、

「さてもさても身の貧からは、さまざまの悪心が起るものだ。おのおのもみな仏性をそなえた身なのに、せんかたないうき世じゃ」と、つらつら人間界を観じていると、女があわただしく走って来た。

「姪御様が只今、安々と御安産なさいました。お知らせ申します」

と、言う。

間もなく、そのあとから、

「箱屋の九歳、今さき掛取と口論なされた末、首を縊って死にました。夜半すぎに葬いをだします。御苦労様ながら、野墓へおいでくださいまし」

と、言うて来る。

吉凶とりまぜてなにやかやと喧しいところへ、仕立物屋が、

「縫いにお寄越し下さいました白小紋をちょろりと盗まれました。犯人をさがしまして、もし品物がでませんでしたら、その節はお金で弁債いたします。ご損はかけません」

と、ことわりに来る。

そのあとから一番檀家の一人息子が、金をつかいすぎて、首尾散々で立退くところを、母親の才覚で、御坊様へ、正月四日までといって、身柄を預けて寄越した。これもいやとはいえず、この世に住むからには、師走坊主も暇なしである。

 

長久の江戸店


天下泰平、国土万人、多くの人々は江戸商をあこがれ、その道その道の支店を出し、諸国から仕入れる荷物は、あるいは船路、陸路は馬で、毎日数万駄が江戸の問屋に着く。ここを見れば、金銀は随分あるものだが、この金をもうける才覚ができないのは、諸商人にうまれて口惜しいことである。

さて、十二月十五日の、江戸の日本橋通りの賑わい、世にいう宝の市とはこのことだろう。正月ものでない品を扱う店はかえりみられず、正月ものの店はといえば、京羽子板、玉ぶりぶり、細工には金銀をちりばめ、破魔弓一挺に、小判二両もはらう人がいる。というのも、諸大名の子息ばかりでなく、町人までが万事鷹揚だからである。

町筋に中店を出して、商いにいとまなく、金は水のように流れ、白銀は雪のようだ。富士山のすがたもゆたかに、日本橋をわたる人の足音は滝の音のように開かれる。本船町の魚市は、毎朝の売上帳が大へんなもの、広い海とはいえ浦浦に魚の種がよくつきぬものだと取沙汰している。神田須田町の八百屋ものは、毎日の大根が黒馬に積まれて数万駄もつづくありさま、まるで畠が歩くようだ。半切に移しならべた唐辛子は、とんだ秋たけなわの竜田山を、武蔵野に見るおもいがする。瀬戸物町、麹町は黒雲を地に見る盛況、伝馬町に綿を積んだところはまるでみよしのの曙の山々で、夕べには提灯が連なって道が明るく、大晦日の夜に入って、一夜千金の大商い、ことに足袋、雪駄は、諸所方々の買物の買い納めで、夜の明け方に買いにくる。ある年、江戸中の店に雪駄一足もないことがあった。幾万人が履くのか、こんなことになるのも日本一ひとの集る土地だからである。

宵のうちは一足七八分の雪駄が夜には一匁二三分となり、夜明方には二匁五分にもなるが、それでも買手ばかりで売る人はない。ある年、掛小鯛が二枚で十八匁もしたことがある。橙一つが金子二歩もしても高うて売れぬということはない。

京大坂では、相場違いの高値の品は、たとえ祝いのものでも、めったに買わないのが普通だが、江戸っ子のこんな性分を大名かたぎというのだ。京大坂に住みなれて、胆っ玉の小さい人も、江戸ではこのかたぎに染まって、こまかく損得勘定をすることがない。小判を厘秤にかけるようなことはしないのだ。目方不足の銀をうけとっても、そのまま取引先へ渡し、金は世間の廻りもちと、誰一人調べるでない。十七、八日までに、上方への銀飛脚の宿を見たところ、沢山な金銀が色も変えず、江戸上方間をのぼりくだりして、一年に何べん道中するものやら、この世で金銀ほどしんどい思いをするものはない。これほど世間に沢山あるものだが、それで結構、江戸にも小判一両もたずに年をとるものがいる。

さて、歳暮の御使者として、太刀目録、御小袖、樽肴、箱入りの蝋燭、なにを見ても、万代の初春めいて、町並みの門松はまさに千歳山ののぼり口、さらには常盤橋の朝日かげ、豊かに、静かに万民の身に照りそい、万々才、くもりなき泰平の新春とはなった。