文系の雑学・豆知識

歴史、美術、文学、言葉、文化についての雑学・うんちく・豆知識・トリビアを集めたサイトです。気になった記事や文章を個人のメモとして投稿しています

最後の斬首刑囚「高橋お伝」に関する資料集

高橋でんの最後

先ず、斬首執行人・山田一族について。
 江戸の元禄の頃から明治十四年の廃刑まで、死罪における斬首の刑を執行した山田浅右衛門一族は、七代この仕事をつづけた。しかし斬首はこの一族の正式の仕事ではなく、二世吉時の代に≪徳川家御佩刀御試御用≫という役職、いいかえれば試刀家としての最高の地位に就いて七代の間に富を築いた。試刀は徳川家にとってなくてはならない重要な仕事でありながら、浅右衛門一族は幕藩体制の内部に組みこまれることなく、終始一貫して「浪人」の地位でありつづけた。

斬首の仕事はもともと町奉行同心の業務であったが、山田家が彼らのいやがる仕事の代役をなし、その代わりに斬刑後の屍を試し切りに使用する自由と、生胆を抜き取り薬剤として売買する自由を役得として思うままにしていたのである。われわれの想像を絶した異様かつ凄絶な業務に、七代にわたり倫理とプライドを賭け、社会的屈辱に耐えながら携わってきた一族の孤独がここにあった。

 まだ十二歳の吉亮が、慶応元年(一八六五年)最初の斬首の刑を執行した。父親吉利が家職を伝えるために、まだほんの子供といってよい年齢の吉亮に、道場で鼠を斬る訓練をさせた。そしてついに十二歳の少年は、最初の日を迎え、儀式に従って堂々と罪人の首を落とす。執行後、吉利は屍体から生胆を抜き、二つ胴の試し斬りをする。

 

 

斬首の刑は吉亮の最初の刑執行の日から十七年間、明治十四年の最後の斬刑の日まで(この日をもって刑法史上に「斬」の刑罰はなくなる)続く。処刑される罪人たちも親殺しや夫殺しばかりではない。父吉利が処刑した者には吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎といった安政の大獄の志士たちがあり、維新後の吉亮の処刑者には、今度は逆の立場に立つ犯人たち、横井小楠、大村益次郎、岩倉具視を暗殺した犯人たち、国事犯としては雲井龍雄、そのほかには夜嵐お絹、高橋お伝らの名前がみられる。すなわち時代の大きな波のうねりを、この一族はもっぱら小伝馬町の囚獄から眺めていた。体制が変わっても彼らは変わらず、どんな体制下でもつねに同じ刑の執行者として振舞った。体制がいかようであれ、斬刑を執行する精密な機械に徹することが、山田浅右衛門一族に課せられたプロとしての職業モラルであった。 


職業選択の可能性の閉ざされていた封建的階級制度下では、誰かが引受けなければならないこのおぞましい家業を、ともあれ世襲として守り抜くことは一つの倫理ですらあったと思う。一族は社会的な屈辱に耐えながら、しかしプライドをもってこの仕事を守った。それは封建的体制下における一つの役割であったに違いない。役割に徹することにはなんらかの自足があり、安心がある。枠の固定した社会の中では、たとえ卑しまれた立場であれ、自分の分を守るということが、一番尊敬され、それなりの誇りを持ち得るよすがにもなりえたのである。が、やがて新しい時代が来て、この一族を支えていた精神的支柱が崩れ去る。山田家が≪徳川家御御試御用≫という役割を失い、明治に入って新政府の指示どおりに、≪東京府囚獄掛斬役≫になるほかなくなったときに、この一族に荒廃の影がしのびこむ。この荒廃は外と内の両方からやってくる。すなわち廃刀令以来しだいに斬刑が時代遅れの刑罰とみられて、絞首刑にとって代わられていく外側の変化がその一つである。これにより一族が精魂をこめて修業した、罪人に苦痛を与えない立派な斬り方という彼らの道徳はナンセンスになっていくからである。
 さらに加えて山田家の内側からひろがる荒廃は、父親の後妻となった素伝(そで)という若い女の存在によって引き起こされる。四人の兄弟はそれぞれ彼女によって感情の混乱の渦の中に置かれる。長男は不倫と放蕩に走り、次男は父に殺意をもって迫ったあげく父に殺され、四男は家出をして反政府運動の匂いのある強盗の集団に入る。一族はこうして外と内からしのびこむ荒廃の犠牲となり、運命に翻弄されて、四分五裂の状態に陥るのである。

--------------------

明治十二年一月三十日、市ヶ谷監獄署の処刑場で、三人の斬首執行があった。男一人、女二人である。 

男の名は安川巳之助、女の名は浅子なかと高橋でん。ただし巳之助となかは同じ事件の共犯者である。 


執刀者は「なか」には浜田が当り、「巳之助」と「でん」には吉亮が当った。 

市ヶ谷の処刑場は監獄署の裏手にあり、鬱蒼とした杉林の中で、方五十間ばかりの黒塀で囲まれた地域であった。その囲いのなかの一方に絞首台が聳え立ち、その台の下に首打場がある。

小伝馬町囚獄の処刑場は、広大な牢屋敷の東北隅で、塀の側に柳が五、六本植わっている程度の、割合にひろびろとした、青空も眺められる、明るい場所であったが、市ヶ谷監獄署の場合は、日も射さぬほどの杉の森の、しかも黒塀のなかであるから、見るからに暗鬱で、凄惨の気の人に迫るものがあった。 

首打場は、土壇の前に畳一畳ほどの広さで深さ一尺の血溜りが掘られ、漆喰で固められて、その周囲は頑丈な木材で框が嵌められている。しかも罪囚の据えられる土壇がわの框の縁は、首を斬った刀の勢いが余って切りつけるらしく、三日月形にえぐられている。漆喰で固められた血溜りは、首を打ち落すたびに洗うのであるが、それでも血痕が点々と黒く残って、血腥い、一種異様な臭気を漂わしていたという。

最初に刑の執行された浅子なかと安川巳之助の罪状は次のようなものであった(以下略)。

最後に引き出されたのが高橋でんであった。

当時の新聞に以下のような記事が掲載された。

 

 去る明治九年八月二十六日の夜、浅草御蔵前旅人宿大谷三四郎方にて後藤吉蔵を殺害なしし毒婦高橋お伝の事跡はその口供によって彼が履歴顛末の概略を知るにたるをもって諸新聞これに基き各記者筆を採って長談数回に及ぶといえども、彼の口供の如きは毒婦が狡才詐欺をのみ旨とし現に明々たる法庭を暗まさんとするにありて、遂にその実を告ぐるに至らず、しかれども共官の明鏡毒婦が胸裏を認定るの証をあげ、審判きわまりて同十二年一月三十一日東京裁判所にて左の如く申し渡されたり、           

群馬県下上野国利根部下牧村四拾四番地

平民 九右衛門養女               

高橋おでん  二十九年二ケ月

その方儀、後藤吉蔵の死は自死にして己の所為にあらざるおもむき申し立るといえども、第一、右吉蔵を殺害せししかじかの書置及び当所警視分署等に明治十年八月十日糺問判事においての口書き、第二、医員の診断、第三、今宮秀太郎の申し口、第四、旅店大谷三四郎等の申し口、第五、宍倉佐七郎の申し述此衆証に依れば自殺に非ざる事明白なりとす。しかして広瀬某の落胤或は異母の姉の復讐なりと云い又は姉在世の有様及び須藤為次郎等を証拠人と云うも果して姉の生れ等をも認むべきしるしなし。畢竟名を復讐に托し自ら賊名を匿さん為に出る逃げ言葉なるものとす。これによりてこれを見れば、いたずらに艶情(いろ)をもって吉蔵を欺き財を計るも遂にあたわざるより予め殺意を起し剃刀をもって殺害し財を得る者と認定す。よって右科人律謀殺第五項に照し斬罪申し付くる。

 

とあり、「被害者の死は自死にして己れの所為にあらず」などという彼女の申立ては、取調べの結果「他殺に係る証状明白と言ふべし」という結論が出、彼女が自分の実父は沼田城主土岐氏(三万五千石)の家老・広瀬半右衛門だと言い、腹違いの姉の仇討ちのため後藤吉蔵を殺したなど、いろいろなことを言っているが、その異母姉の生所身分調べなどをしてみても一つもその証の拠るべきものがないから、「畢竟名を復讐に仮り、只管賊名を掩はむ為の遁辞と言はざるべからず」、したがって彼女は艶情をもって被害者を欺き、しばしば金を奪おうとしたが意のごとくならないため、準備しておいた剃刀で殺害し、財を得たものと認められるので、当裁判所としてはこのように決定した、という報告に対して、大審院もそれを可としたのである。 


安川巳之助の顫えているのをせせら笑ったお伝であるから、自分がいよいよ面紙で眼隠しされ、土壇場の莚のうえに後ろ手に縛られてひき出されたときも落ち着いていた。木綿ながらこざっぱり、とした縦縞の袷が小股の切れ上った身体にぴったりと纏いつき、襟の黒襦子が顔の白さによく映っている。 

さすがにしたたか者だといわれただけある。大胆不敵な女だ。これなら安心して首も打ち落せよう。―そう思った安堵感がかえって吉亮の心に隙をつくっていたのかもしれない。

すべてが順調にすすんでいた。押え役の常吉と定吉が左右からお伝の肩を押え、仙吉がいつものようにうしろからお伝の足の親指を握って、吉亮の念力の盛り上りを待っている。処刑場全体が一瞬の閃光を待って寂と静まった。厳しい冬の朝で、空は曇っているがそろそろ霜も消えようとしている。全員の吐く息がわずかに白く見えた。 

吉亮が四句偈を心にとなえて、無銘ながら直江志津、刃渡り二尺三寸の愛刀を鞘走らせようとしたとき、

「待ってください」 

と突然、お伝が叫んだ。 

 

偶然とはいえ、お伝の叫びはあまりにも見事に吉亮の虚を突いた。吉亮は刀に手をかけたままグッと腰を下ろし、あやうく一瞬の差でフーッと呼吸を抜いたが、心はリズムを失った。

「どうした!」 

と常吉が叫んで肩を押えた。

「お願いがございます。市太郎さんに会わせてください」

「なにをいうか。静かにしろ」 

お伝は猛然と首を振りはじめた。

「お願い、お願ーい。市さんに会わせてー」 

叫びながらお伝はキーキーと泣き出した。評判だった髪の櫛巻もほどけ、面紙もとれた。

 「市太郎ってだれだ!」               

こんどは定吉が叫んだ。

 「うちの人です。きょう会いに来ることになっているんです。一と目、一と目だけ会わせてください。お願いします」

 「ばかをいえ、そんなことができるか」

 「観念するんだ」 

 


常吉と定吉が口々に怒鳴りながら肩を押えて、お伝の鵜首を血溜りの方へ押し出そうとした。すると、お伝は「市太郎さーん」と呼びつづけ、尺取りの虫のように全身の屈伸運動をはじめた。趾を握っていた仙吾が蹴りとばされて、あやうく転りそうになったが、すぐに真白な膝に抱きついてお伝の自由を奪おうとした。膝前はあられもなく乱れた。

 「よし、わかった。市太郎に会わせよう」 

吉亮が叫んだ。瞬間、お伝も、押え役たちも、ハッと運動を停止させた。

 「その市太郎とやらに会わせてやるから、静かにするんだ」

 「ありがとうございます。浅右衛門先生、ありがとうございます」

全身の緊張を解いたお伝が、おいおいと泣き出した。吉亮はその肩をふるわせて泣いている姿に女の哀れさを感じた。

お伝がようやく身体を起して莚の上に坐り直したとき、吉亮は仙吉たちに目くばせして、すっと傍に寄った。途端にお伝が危険を察した獣のように、

「うそつき!」 

と叫ぶと、自分から転るように横ざまに倒れた。押え役たちがまた怒鳴り声をあげて身体を起そうとした。 

吉亮は、到底これでは斬れないと、検視役の大警部で監獄署長・安村治孝の方を見て、指示を求めるように目で問いかけた。安村は首をふって、そのままやってしまえ、という合図を送ってきた。 

いまはどうしようもなくなった押え役たちは地面に膝をついて、丸太ン棒を抱えるようにお伝を抱き、その首だけが血溜りの上に突き出るように必死に頑張っていた。吉亮は心を静めるように半眼を瞑じて、「うそつき!うそつき!」と叫び狂っているお伝の首振り運動の軌跡を眺めていた。桃色に染まった皮膚の下に血管がはちきれそうに怒張したお伝の細首がちょうど血溜りの上へさしかかったとき、吉亮は刀を鞘走らせた。その瞬間、あの幻覚が、鼠の幻覚が頭の中をよぎった。 

コッ!という音が響いた。途端に「キューッ!」というお伝の悲鳴があたりの空気を引き裂いた。

斬り損じであった。吉亮の刀は手許が狂って、お伝の後頭部に当たり、骨を斬りつけたのであった。しかも押え役たちがお伝の身体を空中に抱え上げる恰好になっていたため、上から振り下ろされた刀の衝撃に対抗する下からの圧力が少なく、刀は骨に食いこむことができず、そのうえ押え役たちの両手が痺れてお伝の身体をドサと取り落す結果になった。お伝は狂ったように、いや実際にもがき狂って、後頭部から血を噴き出し、ヒーッ、ヒーッと悲鳴をあげながら、血溜りの漆喰で固めた三和土のなかに這いずりこんで、刀から逃れようとした。

当然、吉亮は心のバランスを全く失っていた。お伝を追って血溜りに入るや、吉亮は大きく刀を振りかぶった。そのとき、「助けて!」と叫んだお伝が、血に濡れた顔で吉亮をふり仰いだ。気は上ずり、目は吊り上って、凄艶な眸がこちらを凝視していた。素伝であった。そこにいるのは間違いなく素伝であった。吉亮の頭の中を尻尾の長い鼠が滅茶滅茶に走り廻った。そして素伝の眼が睨んでいた。

吉亮は文字通り顫えあがった。恐怖に戦慄した。生れてはじめての恐怖感であった。吉亮は刀を振り下ろした。これも斬り損じであった。お伝が刀を避けようと横を向いて倒れたため、顎を斬りつけただけであった。刀は流れて、切先が三和土の漆喰を跳ね飛ばした。

そのとき押え役の三人が血溜りのなかに殺到して、お伝の両肩両脚を俯伏せのまま押え込んだ。吉亮はお伝の上に屈みこむと、刀を彼女の項にあて、「母上、ご免!」と無言の絶叫をふりしぼり、全身の重みを託すように刀を向うに押しやって、押し斬りにした。 

刀が襟首にあてられたと知るや、お伝はもう逃れられないと観念したらしく、「南無阿弥陀仏」と唱えた。二度唱えたとき、首が胴から離れていた。

「斬れたか! 斬れたか!」 

はじめて口から出た吉亮の声は上ずっていた。吉亮は首が離れてからも二、三度刀をゴシゴシと三和土の上でしごいていた。 

転った首を押し流すように、お伝の胴体から血が噴出し、白い三和土の上をすべって行って、框にあたって赤い飛沫となって跳ね返った。それから血溜りのなか一帯に拡がった。 

浜田が駈け寄ってきて、「若先生!」と叫ぶや、吉亮の腕を抱えこんで血溜りの外へ引き上げた。「母上を斬った。母上を斬った」と吉亮は血刀を下げたまま呟いていた。焦点のない呟きであった。顔全体に膏汗が噴き出していた。 

浜田は咄嵯に刀を洗う手桶を持ち上げると、吉亮の頭上からザブリと水を懸けた。意識をとりもどした吉亮の手から刀が落ちて地面に突き立った。ガクッと膝を折りそうになった吉亮の腕を肩にかついだ浜田は、「しっかりしてください」と吉亮を励ましながら、処刑場を去って行った。


検視役の安村署長をはじめ、居合わせた監獄署関係の全員は、あまりに凄惨な場面を目撃して、呪縛に会ったようにしばらくはその場を立ち去りかねていた。

≪ 高橋お伝の余談二つ、三つー ≫

お伝には辞世の歌がいくつかある。


なき夫の為に待ちゐし時なれば

手向に咲きし花とこそ知れ

嬉しきも憂きも夢なり現なり

さめては獄屋看ては故里

子を思ふ親の心を汲む水に

ぬるる袂の干る隙もなし

しばらくも望みなき世にあらんより

渡し急げや三途の河守

 

後藤吉蔵の殺害現場に残されていたお伝の(書置)なるものが、折れ釘流の、しかも仮名ちがいの多い拙い文章であったのに、辞世となるとこのように流暢な歌ができるというのは、不思議というしかない。これらの辞世はすべて他人の創作である。前の三首は当時の「朝野新聞」の記者の手になるものであろうし、あとの一首は高橋でんなる女性をわが国毒婦伝中の代表的人物に祭り上げるのに多大な功績のあった元兇の一人、仮名垣魯文の作である。 

明治の犯罪史上において、犯人が嘘の自供を創作し、嘘と真実との境界線が曖昧になってかえって一般に流布される結果になった事件が三つあるという。その主人公の各々を事件の年代順にあげると、「後藤吉蔵殺害事件」の高橋でん、「相馬事件」の錦織剛清、「臀肉切り事件」の野口男三郎の三人である。(中略)。 

お伝の場合は、処刑のあった明治十二年に岡本勘造著『其名も高橋毒婦の小伝・東京奇聞』と仮名垣魯文著『高橋阿伝夜叉譚』が出版されて、当時のベストセラーになったし、同年五月には、新富町の新富座で河竹新七(黙阿弥)の構想脚色で「綴合於伝仮名書」という新狂言が上演された。このときは五代目菊五郎が玉橋お伝に扮し(初代左団次が佐藤七蔵、九代目団十郎が裁判長・民尾諭の役)、凝り性の音羽屋が狂言のなかの裁判所場面の参考として実際の裁判所公判廷の見学を願い出て許された、というようなことが新聞種となったりした。これらの物語は、お伝が嘘に嘘を積み重ねてデッチ上げた一世一代のノンフィクション(?)ともいうべき彼女の口供書を、さらに羽根を拡げ、枝葉を咲かせて創作したものであるから、事実とは無縁な物語であるが、多くの創作家の想像力をそのようにかきたてる口供書をつくったということは、お伝自身も稀代の創作家であったといえるかもしれない。 

現在、谷中天王寺境内にあるお伝の墓は、明治十四年一月、お伝の三回忌に仮名垣魯文が世話人となって建てたもので、協力者の多くは新聞社とか芝居関係者であり、いうならばお伝を飯の種にした人々の謝罪の意がこめられてあるといってよいだろう。魯文が自分の代作した辞世をこの墓に残しているのは、謝罪のつもりにしてはすこし厚かましすぎる感がないでもない。 


さて、(身首処を異に)したお伝の肉体はどうなったであろうか。 

仮名垣魯文の『夜叉譚』によれば「斯る大胆なる女なればその亡骸を浅草なる警視第五病院に差送られ本年二月一日より四日間細密に解剖検査されしに脳漿並びに脂膏多く情欲深きも知られしとぞお伝は親族ある者ながら其死体を引取者絶てなきゆゑ病院にて埋葬の義を取扱かハれ」たとある。 

この時の解剖の執刀にあたったのは小山内薫の父の小山内健であり、立会人は小泉親正、江口譲(作家・江口換の父)、高田忠良の諸氏であった。 

解剖にあたって世人がもっとも関心を寄せた一つは局部についてであったが、「小陰唇の異常肥厚及び肥大、陰挺部の発達、膣口・膣内腔の拡大」という特長を持っており、この部分は切除されてアルコール漬にして保存された。(筆者は昭和三十七年頃、東京大学法医学教室で見た記憶があるが、現在はどうなっているか?)

篠田鉱造著『明治開化綺談』によると、「昭和十一年七月、軍医学校五十年記念会に上京した現存高田忠良翁は、其実話に局部解剖は別段学術上資料といつた意義のあることではなく、多情の女ゆゑホップがあるかどうかといつた位の意味で、序に演ったに過ぎずと語ってゐた」という。 


次にお伝の首の行方であるが、篠田鉱造の同書によると、お伝の首は浄化され、髑髏となって浅草区田町一丁目の宮田清という漢方医のもとに蔵されていたという。「想ふに、これは仙吉、定吉の手で処分され、阿伝の首だから、彼等の仲間にある浄化法によって髑髏と姿を変へ、奇しくも宮田家へ購はれたものと思はれる。」 

 

▲昔のさらし首

 

お伝が処刑されて十年たった明治二十二年の三月、一人の旅僧が宮田医師を訪ねてきて、拙僧は俗名小川市太郎といい、高橋お伝が情夫のなれの果てである、御当家にあると聞くお伝の髑髏に一と目逢いたくて、はるばる越後路からやってきた、という。 

宮田医師が、当家に髑髏のあることをどうして識ったか、と問うと、拙僧はお伝と共犯ではないかと一時入牢させられたが、犯罪とは関係のないことが明かとなって放免され、その後、山岡鉄舟居士の許に参禅してお伝の後世を弔っているうちに、居士から夢幻という名をもらい、越後の鉄舟寺に参って修行をしていたとき、湯島切通の月輪瑞章という法師から貴殿のお手許にお伝の髑髏のあることを聞いた、という。 

宮田医師も、その人ならかねての知合いであると納得したが、実はお伝の首は他処に行っていて、現在手許にないので、一両日中にもう一度おいでいただきたい、というと、小川市太郎は淋しそうに帰って行った。 

お伝が最期の際までその名を呼んでいた情夫・市太郎とお伝の髑髏との対面は、その一両日後におこなわれた。 

数珠をつまぐりながらお伝の「在りし姿に似もつかぬ白骨の、眼穴陥ちて空を描ざ、艶けし毛も残らぬ頭蓋骨」と対面した市太郎は、しばらく無言で髑髏を撫でて眼に涙を浮べていたが、経を誦し終ると、お伝処刑前後の昔語りをした。 

その話によると、お伝の養父の九右衛門と市太郎とが最後の面会にお伝を訪ねたとき、お伝は近くこの世を去るだろうという覚悟はしていたが、刑場の露と消える日には必ずお二人とも一と目この世の見納めをさせてください、と涙とともに言ったので、養父も市太郎も、その日にはお上にお願いして必ず面会しようと約束してきた。ところが処刑の日取りを一日間違って、駈けつけたときは前日刑の執行があったという。がっかりして死体の引き取り方を願い出たが、それもすでに警視第五病院へ御下付後とのことであった。聞くところによると、はたして身寄りに逢わしてくれといって首斬り浅右衛門に首を打振って刃を近寄せず、初太刀は後頭部に斬付けて仕損じたとのこと。この髑髏の後頭部にある斬傷の痕こそそのときの名残りで、まごう方ないお伝のものの証拠と思うにつけ、その情の不憫さが胸板を貫く心地がする、とのことであった。 

そこで宮田医師は、世に毒婦と謳われても、遺骸は医学上に貢献し、髑髏も医術の研究に遺っているのだから、死んでの後は善良な婦人といっても恥しくない、どうか貴僧はせいぜい後世を弔ってやってください、と慰めると、夢幻法師は厚く礼を言って、再び頭陀袋を胸にかけ、別れを告げて立ち去った。
 高橋お伝後日譚の一節である。

(「斬」より)

 首斬り浅右衛門の逸話

○浅右衛門の腕の冴えはいろいろな挿話となっているが、囚人の頚に張りつけた小豆を真二つに切って、しかも皮膚にかすり傷さえ負わせなかった。しかしあるとき、正装して斬られたいと願い出て許された吉原の花魁の首を斬ったときだけは、その女の美しさに心に迷いを生じ、手許が狂ったといわれる。


○幕末から維新にかけての有名な絵師である河鍋暁斎は奇矯な振舞いが多く、卒塔婆小町のノタレ死の有様を死骸が腐ってシャレコウベになるまで克明に絵巻物に作るなど、惨たらしい変態画が好きであった。あるとき画の仕事で首斬り浅右衛門を紹介してもらい、浅右衛門と同じ扮装をして刑場に臨んで、首斬りの現場をしかと見届けた。その後、親しい人に会うと、

「名士の首や、度胸のすわった人の首を、浅右衛門が見事斬って棄てると、その血はサッと勢いよく飛び散るが、臆病な弱い奴の首を刎ねたときは、血までが跳ねないで、ドロドロとみっともない出方をする」
と、笑って話した。 


○「手前共の麹町区平河町一丁目の邸に幽霊が出ると世間での評判は道理千万、手前にしたところで齢十二歳から幕府の届出を十五歳と披露して斬り始めた、されば三百有余人の怨霊取付くものなら今日まで命が幾つあつても足りる訳のものではありますまい、(中略)、ただここに手前共へ幽霊の出る為徹夜酒興を催し騒ぐといふ世間評の起こりといふのが一つあります、ソレは手前共で手前や弟子が多くの人を斬って帰ると身体はグッタリします、おまけに血に酔ふといふものか顔がボウーとする、疲労は言ふ迄もありませんから、父より其日は徹夜で騒ぐことが許されましたので、若い弟 子達は底を抜いて騒いだものです、之を世間は曲解して朝右衛門(ママ)は怨霊が出て寝られないから夜通し騒ぐのだと申し伝へたのでありませう」(明治四十一年七月十日「報知新聞」夕刊「首斬朝右衛門」より。これは吉亮の談話である)


○ある日、浅右衛門が死罪人の首を斬ろうとすると、そこに「東照大権現」と刺青がしてあった。浅右衛門は刀を振りおろすのを止めて、牢屋奉行の石出帯刀にその旨を報告して指示を求めた。家康公の名前に斬りつけるわけにはいかない、というのである。帯刀は、憎い奴だが致し方あるまい、一命は助けてやれ、といってその囚人を遠島の刑にした。ところがこの噂を聞いて悪党どもは大喜び、われもわれもと「東照大権現」の彫り物をしだした。そこで浅右衛門は それらの首を斬るときに、彫り物のしてあるところだけ細長く皮膚を切り取って、それからゆっくり首を刎ねたので、悪党たちは首の皮をそがれるだけ痛い目をみて損だと、このブームは一遍に消えてしまった。


○「徳川家の頃、罪人の首斬で名高い浅右衛門が或時賊を処置場へ引出だせしに其賊は浅右衛門に向ひ、汝は己等の仲間の為めには仇なれば此儘死すとも怨恨は汝に祟って報ひをなさんと恨めしげに述べたるゆゑ、浅右衛門は打笑ひて其方が如き鼠賊が怨を報ふなどとは小癪なり、美事祟りをなさんと思ふほどの精神ならば今拙者が首を斬たる後笑って見せよと嘲笑せしに、かの罪人は益々憤りオゝ斬れたる後笑って見せんとゆふうち閃く電光忽ち首は落ちたるが、其首両眼を開き浅右衛門を見て笑ひし故傍に在りし者は大に驚き彼奴中々執念深さ者なれば注意すべしと告げたるに、浅右衛門は冷笑してこいつ吾を怨む事甚だしけれど斬られし後笑ふべしと云ひし一心にて最早吾を怨むの念は消滅したり、人間最後の一念により生を引くといへば吾等の如き職業は平生に心得あるべき事なり、と語りし由云々」(明治十六年十二月二十一日「開化新聞」)

絞首刑の始まり

明治五年十二月二十九日、監獄則および監獄図式が府藩県に頒布された。 

これは小原重哉がイギリスの監獄制度を参考にして作ったもので、当時としては画期的な法典であった。もっともそれはあまりにも理想に走りすぎ、たとえばヨーロッパ風の石造煉瓦塀の堂々たる監獄をただちに建造しょうとする小原の熱意はかえって当時の政府の財政に脅威を与え、大蔵省の猛反対をうけて、翌六年四月に全面的施行を停止されるにいたったが、その精神は明治三年十二月の「新律綱領」と明治六年六月の「改実律例」とを繋ぐものとして意味があるし、やがて明治八年五月、設備の悪い小伝馬町囚獄が市ヶ谷に新築された獄舎に移転する契機ともなった。

次に明治六年二月二十日、太政官布告をもって(絞罪器械)が改正されている。

これは「新律綱領」制完のさい、絞首の器械として採用された『絞柱』(絞首台)が実際に使用してみると受刑者の苦痛がはげしく、「臨刑ノ状ヲ聞クニ、囚人空ニ懸ラレ命未タ絶セサル際、腹肚起張シ血ガ耳鼻ヨリ出テ其ノ苦痛言フ可ラス」(明治五年十月・鹿児島県伺)といった状態であり、そのうえ制定後二年のうちに、二、三の蘇生事件が起きて、その不完全さが証明された結果の改正であった。

この『絞柱』の不備であったことは司法省も認め、明治五年八月、次のような何を太政官正院に提出している。

                           

新律綱領嶽具図中絞罪器械ノ儀ハ、実用ニ於テ絶命ニ至ル迄ノ時間モ掛リ、罪人ノ苦痛モ有之候ニ付、今般西洋器械ヲ模倣シ別紙ノ通り製造致シ候間、従前ノ器械ハ被廃止候様仕度此段相伺候也 

ここで「西洋器械」といっているのは、イギリス式のものである。前述した小原重哉が、明治四年、香港やシンガポールに出張してイギリスの監獄制度を視察したさい、同地で実見した図解を持ち帰って『絞柱』の改正意見を具申したからである。小原の回顧談に次のような一節がある。

「新律綱領にて定められた絞罪器械の製法が未だ充全ならず、死刑者の苦悩惨状に於て実に名状すべからず。加之、死体検査の後、其屍の下附を受けし親族の家にて蘇生せし者さえ全国にて三人許りもありたるに付、私が嘗て実物を写生し致しておきました英国器具の『絞柱』を軌範にして自ら数個の模型を造り、日本橋区鍛冶職吉田辰蔵に示し、実物六十分一に当る改正の標本を製し、絞罪器械改正の意見を奉りました。」 

こうして出来たのが『絞架』である。 

これは高さ九尺(二七二㌢・階段を八段上る)で、八尺四寸(二五五㌢)に一丈(三㍍)の広さの台を作り、その台の中央部に さらに八尺(二四二㌢)の高さで鳥居のように二本の柱を設け、その横木から絞縄がさがっている。台上中央部に八尺に六尺の踏板があって下に開くようになっていて、その開落は台の側面にあるハンドルで行う。 

この『絞架』によると、「機車ノ柄ヲ挽ケバ踏板忽チ開落シテ囚身(地ヲ離ル凡ソ一尺)空ニ懸ル時間凡ソ二分。死相ヲ験シテ解下ス」ということで、前の『絞柱』が「空二懸ル時間凡ソ三分」であったのにくらべて、一分間の時間短縮となったわけだ。

『絞架』となってから蘇生者は絶無となったかどうかは疑問の節もないではないが、その基本形式は現在もほとんど変っていないといわれる。一書によれば、「当初は絞首台上に階子段によりて登ることとせしを改め、明治十五年以来、平板上を歩むのみに止め、地平面上に於ける台の転回によりて絞首せらるることとせられたり。是れ死に当面しては、多くは恐怖或は狂乱して、従容として登段するもの極めて少く、取扱上甚しき不便ありしを以てなり」とある。また昭和二十二年、「アサヒグラフ」に紹介された広島刑務所の絞首台の写真によると、『絞架』そのものに立派な屋根が冠せられ、階段にあたる部分はゆるやかなコンクリートの道になっており、したがって台の高さは地平面からほんの少し出ているだけで、床が下方に開いて地下室に吊り下がるようになっている。

当時の司法省は「『絞架』ハ英国ノ刑具ヲ現ニ模造シ其『絞柱』ニ優ル所以ハ器械ノ施用極メテ簡便、殊ニ罪人ノ断命速疾ニシテ最モ苦悩少ク実験上其効不少」と自負している。

この司法省の自負こそ首切役の山田家にとっては最大の致命傷ともなるべきものであった。簡便な器械で囚人の苦痛を最も少くし、確実に絶命させうるなら、斬首という執行法の存続については一考を要するとなることは、自然の帰趨であろう。この『絞架』の出現はやがて山田家からその家業を奪うことになる。
 (綱淵謙錠、斬より)