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論説文(説明文)の読解方法【中学現代国語講座】

目次

論説文とは
 (1)論説文の成り立ち
 (2)“筆者の主張”とは
 (3)本文のどこが重要か
 (4)元々の論説文のどこを抜き出したかによって生こる現象
  -見解が書かれた部分がいくつかあり、それらの中に最も伝えたい事(主張)がある論説文
  -見解が書かれてある部分が複数でない論説文
  -『主張』らしいものが無い論説文

説明方法
 (1)客観的事実を示す
 (2)繰り返す
 (3)まとめる、分かりやすくする
 (4)疑問点や問題点を指摘する
 (5)具体例を挙げる
 (6)その他、2つで1つのセットになっている説明方法
  -比較 (日本と西欧、過去と現在など、色々なものを比較する)
  -逆接 (AしかしB、確かにAと言えるがB)
  -否定のち肯定 (AでなくB。AよりもBのほう。AというよりB)、
  -まとめ (AすなわちB、AつまりB、A要するにB)
  -さりげなく例を挙げる (AといったB、AのようなB、AなどのB)
  -順接 (AだからB)

最後に

論説文とは

A 「昨日の野球の試合、すごかったよなぁ。」
B 「え?何かあったん?」
A 「9回裏に5点差ひっくり返してサヨナラ勝ちやで。」
B 「へ~。」
A 「2アウトでランナー無しから逆転してんで。」
B 「ランナー無しから?すごいなぁ。」
A 「な?すごいやろ?」

・・・いきなり何の話だ?と思ったかもしれませんが、この何気ない、日常の会話。実はこれが論説文です。

論説文とは、簡単に言うと説明文。
誰かに自分の言いたいことを分かってもらうための文のことです。

この会話では、A君がB君に対し、昨日の野球の試合の展開がすごかったことを説明していますね。だから論説文と同じです。

(1)論説文の成り立ち

繰り返しになりますが、論説文とは簡単に言うと説明文。

何か伝えたいこと、言いたいことが筆者にあって、それを読者に伝えるために色々と説明をしている文章です。

そして筆者が自分の見解(ものの見方、考え方、意見)を伝えることが論説文の目的です。


『筆者の見解(伝えたいこと)』と、それを『読者に分かってもらうための説明』、この2つで論説文は成り立っています。

式で表すと、

『見解(筆者の価値観を表している部分)』+『説明』=論説文

となります。


もう少し詳しく言うと、文中で筆者が何らかの『見解』を示すと、それに対する『説明』がしばらく続き、それが終わるとまた何らかの『見解』が示され、それに対する『説明』がまたしばらく続く、というように、『見解』と『説明』が交互に来ます。


また、『見解』と『説明』とでは『説明』のほうが文章に占める割合が圧倒的に多いということも知っておきましょう。


文章の大半が『説明』ということもあり、論説文を読むときの感覚としては、今自分が読んでいるのは何についての『説明』なのか、何を説明しているのか、という発想で文章を読むと理解しやすいはずです。


読んでもよく分からない部分に出くわしても、「何かを説明している文だ」という意識を持っていると、「あぁ、そういうことか」と後々分かることもよくあることなので、この発想を持って論説文を読むと理解しやすいでしょう。

(2)“筆者の主張”とは

論説文は、筆者が思っていることや考えていることを文章にしたものなので、伝えたいこと(筆者の見解)自体は文章のアチコチに何個もありますが、それらの中でも「“最も”伝えたいこと」が、国語でいう“筆者の主張”になります。

言い方を換えると、「伝えたいこと(筆者の見解・考え・意見)」であってもそれが「最も」でないのなら、それは“筆者の主張”だとみなされません。

(3)本文のどこが重要か

本文で重要な部分は「筆者の見解」が書かれてある部分、本文で最も重要な部分は、『主張(最も伝えたい見解)』が書かれてある部分です。


また論説文では色々なことが説明されるわけですが、そういった『説明』については、その要点が書かれてある部分もそれなりに重要なポイントです。


ただし『説明』には、筆者の見解(とイコールの内容)に関する説明と、そうでない内容に関する説明の2種類があり、筆者の見解(とイコールの内容)に関する説明のほうが重要で、そうでないほうはあまり重要ではありません。


これについて詳しくはまた後で説明するので、ここでは『説明』にも重要なものとそうでないものがあるんだな、ということを知っておくだけでよいです。


論説文の中身を重要度が高い順に並べると、

『主張(最も筆者が伝えたい見解)』

『筆者の見解』

筆者の見解についての『説明』

筆者の見解でないものについての『説明』

となります。 

(4)元々の論説文のどこを抜き出したかによって起こる現象

上で説明したとおり、論説文は「筆者の見解」+「説明」で出来ています。

そして本文のアチコチに「筆者の見解」は書かれてあり、その中で最も伝えたいことが『主張』となる、これが基本なんですが、国語の読解問題で読む文章は、元々は何十ページ、何百ページもあるような文章から、ほんの一部を抜粋したものです。

そのため、抜き出す部分によっては『主張』にあたる「筆者の見解」が特に無かったり、本来なら本文のアチコチに書かれてあるはずの「筆者の見解」が、読解問題で読む文章には1箇所ぐらいにしかなかったりといったことが起こります。

 

例えば第1段落から順番に、
1:筆者の見解、2:説明、3:説明、4:筆者の見解、5:考え、6:説明、7:説明、8説明、9:筆者の主張、10:説明
という、全部で10段落で出来た論説文があったとします。


ここから、

1~4段落を読解問題の文章として使用した場合は、
「1:筆者の見解、2:説明、3:説明、4:筆者の見解」なので、『筆者の主張』がない文章を読解問題として解くことになります。

5~8段落を使用した場合は、
「5:筆者の見解、6:説明、7:説明、8説明」なので、『筆者の主張』がない上に「筆者の見解」も1つしかない文章を解くことになります。

6~8段落の場合だと、
「6:説明、7:説明、8説明」なので、もはや「筆者の見解」すらない文章を解くことになります。まぁこれはさすがに滅多にないですが。


このように、元々の文章のどこを抜粋して読解問題のための文章とするかで、『筆者の主張』があったりなかったり、「筆者の見解」が書かれた部分が1箇所しかなかったり等、色々なことが起こり得ます。

なので、そういうことも踏まえた上で、アタマを柔らかくして文章を読むようにしましょう。


読解問題で登場する論説文のタイプを、大まかですが一応まとめておいたので参考にしてみてください。

「見解」が書かれた部分がいくつかあり、それらの中に最も伝えたい事(主張)がある論説文

文章のあちこちにある「筆者の見解」のうちどれが『筆者の主張』かを見抜く、最もオーソドックスなタイプの文章。


見解が書かれてある部分が複数でない論説文

疑問点や問題点を挙げ、それに筆者が答えるなど、何か1つのことについて筆者が見解を示し、あとはそれについての説明がひたすら続くようなタイプの文章。


『主張』らしいものが無い論説文

筆者の見解が書かれてある部分が本文に複数あるものの、それらのうちどれが最も重要なのかの判別がしにくい文章。

とある事について淡々と述べるような、文章に起伏がイマイチない、盛り上がりに欠けるタイプの文章がコレです。

携帯電話などの取扱説明書を仮に論説文調で書いたとしたら、こういう文章になるでしょうね。

「このボタンを押すとメール画面になります。このボタンでカメラが起動します。」などといった説明で、どれが最も重要なのかを考えてもあまり意味がないのと同じです。


いずれにせよ、論説文が「筆者の見解」+『説明』で出来ていること自体に変わりはありません。

説明方法

論説文では、筆者が自分の見解を読者に伝えるために色々な方法を使って『説明』をしています。

その筆者が行う『説明』には次のような方法があります。

 

(1)客観的事実を示す
(2)繰り返す
(3)まとめる、分かりやすくする
(4)疑問点や問題点を指摘する
(5)具体例を挙げる
(6)その他、2つで1つのセットになっている説明方法

ここで挙げているのは私が独自で分類したものなので、人によっては分け方や言葉の言い回しがこれとは違ったりするでしょうが、多少の違いこそあれ、誰が分類してもこれと似たような感じになるはずなのでそこは気にする必要は無いでしょう。

では以下、これらを順に説明していきます。

 

(1)客観的事実を示す

客観的事実というのは、「富士山は日本で一番高い山である」や「地球は約46億年前に誕生した」のように、誰の目から見てもそうだ、そうとしかいえない、そうだと思われているもののことで、一般論、常識、社会通念、過去の出来事や歴史上の出来事、体験、経験、データなど色々あります。


論説文は筆者が読者に自分の見解を納得させるため、色々な方法で『説明』をしますが、よく使われるのがこの“客観的事実”です。


客観的事実を文中で示すことで、話に説得力を持たせることが出来るワケですね。


どのように客観的事実を使って『説明』するのかについては、この後の『(2)繰り返す』でまとめて説明しているので、詳しいことはそちらで確認してください。


なお、“客観的事実”には「筆者の見解」について述べている客観的事実と、「筆者の見解ではないもの(筆者の見解と無関係のもの)」について述べている客観的事実とがあります。


これからそれを説明していきますが、最初のうちは難しいと思うので、とりあえずザッと読んでみてください。「あ、分からんわ」と思ったら次の「(2)繰り返す」に飛んでもらっても構いません。

筆者の見解について述べている客観的事実

この“客観的事実”は、筆者が自分の見解の正しさを証明したり補強したりするために文中に用意される客観的事実です。


例えばクラスの中でC君が一番走るのが速いということを伝えたいとき、C君の足の速さを証明するデータ(100mを11秒台で走った記録がある等)を示せば、C君のことを知らない人でも「あぁC君が一番足が速いんだな」と納得することが出来ますよね。

「C君の足の速さを証明するデータ」が、ここで言う“筆者の見解について述べている客観的事実”です。


この客観的事実は、筆者が自分の見解の正しさを証明するためのものなので、その内容は「筆者の見解・考え・意見」を肯定するものであり、「筆者の見解・考え・意見」とイコールの内容となります。

先ほどの例で言うと、「C君が一番走るのが速い(見解)」と、「100mを11秒台で走った記録がある(客観的事実)」とは、内容的にイコールですよね。


このように、客観的事実を示すことで筆者は自分の考えの正しさを『説明』しているわけですが、この場合の客観的事実は『筆者の見解』を表すものでもあるので、文章を読んでいると、今自分が読んでいるのは『筆者の見解』なのか『説明』なのか、その区別がつきにくいといったことが起こります。

『見解』でもあり『説明』でもあるのがこの「筆者の見解について述べている客観的事実」です。

筆者の見解ではないもの(筆者の見解と無関係のもの)について述べている客観的事実

筆者が自分の見解を伝えるとき、なぜ自分がそういう見解を持つのかということを説明するため、自分の考えとは異なる考えを文中で示すことがわりとよくあります。自分の見解に話をつなげるための導入に使ったりするわけですね。

そういった考えについても、客観的事実を示すことがあります。

これが、“筆者の見解ではないもの(筆者の見解と無関係のもの)について述べている客観的事実”です。


「筆者の見解ではないもの(無関係のもの)」について述べている内容の“客観的事実”なので、この場合の“客観的事実”は当然、「筆者の考え・意見・見解」とイコールではない内容になります。

そのため、先ほどとは違い、『筆者の見解・考え・意見』なのか『説明』なのか、その区別はつきます。

 客観的事実の重要度

筆者の考えなどを伝えるのが論説文の目的なので、筆者の見解ではないもの(筆者の見解と無関係のもの)について述べている客観的事実(「筆者の見解」とイコールではない)よりも、筆者の見解について述べている客観的事実(「筆者の見解」とイコール)の方が重要度は上となります。

(2)繰り返す

論説文では重要なことを説明する際、何度も繰り返して説明するという方法がとられることがよくあります。(見方を変えると、重要でないことは繰り返して説明しないということでもあります。)

このとき、言葉を変えて繰り返す(重要なことを別の表現にして繰り返す)場合と、言葉を変えずに繰り返す(重要なフレーズを繰り返す)場合の2種類があり、どちらの場合も、何が繰り返されているのかを把握することが重要となります。


また繰り返す内容についてですが、筆者の見解を、それが読者に伝わるように繰り返す場合や、とある客観的事実を、それが伝わるように繰り返す場合などがあります。


具体的にどういうことか、例文を使って説明していきます。

自分の見解を言葉を変えて繰り返す + 重要なフレーズを繰り返す

 

他人の心を知ることが、いかに不可能でも、相手の心を知ることができると信ずること、けっして心の通いあいを断念しないこと、それが人間のやさしさだ。不可能でありながら、なおもそれを信じつづけることで、人間の社会はなりたっている。そしてそれは、他人に対してよりも、まずなにより自分に対するいとおしみから始まる。競争といったって、他人との関係にすぎない。自分の心を見つめるなかで、人間のやさしさは生まれてくるものだ。考えてみれば、自分というもののなんとわからないことか。他人の心がわからない以上に、自分の心もよくわからない。人間というものの弱さ、はかなさ、さびしさ、それらがからまりあっている。争われている世の底に、人間のやさしさだけは共通している。そこに目をやることが、争いのなかで忘れられがちではあるが、そこだけは別な人間はいない。

(森毅「まちがったっていいじゃないか」より引用)

上の文章で、何が繰り返されているか、分かるでしょうか?

繰り返されている部分を赤色にするとこうなります。

 他人の心を知ることが、いかに不可能でも、相手の心を知ることができると信ずること、けっして心の通いあいを断念しないこと、それが人間のやさしさだ。不可能でありながら、なおもそれを信じつづけることで、人間の社会はなりたっている。そしてそれは、他人に対してよりも、まずなにより自分に対するいとおしみから始まる。競争といったって、他人との関係にすぎない。自分の心を見つめるなかで、人間のやさしさは生まれてくるものだ。考えてみれば、自分というもののなんとわからないことか。他人の心がわからない以上に、自分の心もよくわからない。人間というものの弱さ、はかなさ、さびしさ、それらがからまりあっている。争われている世の底に、人間のやさしさだけは共通している。そこに目をやることが、争いのなかで忘れられがちではあるが、そこだけは別な人間はいない

 

まず、「人間のやさしさ」というフレーズが何度も登場していることを確認してください。

これが、“言葉を変えずに繰り返す(重要なフレーズを繰り返す)”にあたります。


読解のコツの1つに、「主語と述語に注意して読む」というのがあります。


「人間のやさしさ」というフレーズが文章のどこにあるかに注目してください。
なるほど、と思えるはずです。


“言葉を変えて繰り返す(重要なことを別の表現にして繰り返す)”のほうについてですが、まず初めの文、『相手の心を知ることができると信ずること、けっして心の通いあいを断念しないこと、それが人間のやさしさだ。』、これ文自体がすでに「言葉を変えて繰り返す」のパターンになっています。


変わっているのは言葉(表現)だけで意味合いは一緒。


また次の文、「それを信じつづけること」の部分と「相手の心を知ることができると信ずること」も内容的に一緒。

なので、イコールで結ぶとこのようになります。

 

「相手の心を知ることができると信ずること」
   ||      ||
   ||   「心の通いあいを断念しないこと」
   ||      ||
   ||   「それが人間のやさしさだ」
   ||      ||
「それを信じつづけること」 

 

 

また、「それは自分に対するいとおしみから始まる。」と「自分の心を見つめるなかで、人間のやさしさは生まれてくるものだ。」については、「自分に対するいとおしみ」の部分と「自分の心を見つめる」の部分が、表現は違えど意味合いは似たようなものですし、「それは(中略)始まる」と「人間のやさしさは生まれてくる」の部分も言葉を変えて繰り返しているといえます。


そしてこの後の文、「人間のやさしさだけは共通している」と「別な人間はいない」の部分も、言葉を変えて繰り返していると言えます。

 

 「自分に対するいとおしみ」
   ||
「自分の心を見つめる」

「それは、(中略)始まる」
   ||
「人間のやさしさは生まれてくるものだ」

「人間のやさしさだけは共通している」
   ||
「別な人間はいない」

 

ではもう1つやってみます。

 

客観的事実を言葉を変えて繰り返す 

 私が今こうして書いている文章には、句読点がある。それは当然のこととして、私にも他のほとんどすべての人にも容認されている。けれども、日本語の文章にテンやマル、カッコ、カギカッコ、ダッシュ、疑問符、感嘆符その他、実にたくさんの文章記号が入ってきたのは、明治になってからのことであって、それ以前には、これらの記号は使われなかった。もちろん例外は多少あるとしても、日本人がいっせいにテンやマルを文章につけだしたのは明治初年代からのことである。明治六年に『小学国語読本』がこれを採用したときから、文章表記における革命的変化への道も開かれたらしい。

(大岡信「『忙即閑』を生きる」より引用)

 

これも“言葉を変えて繰り返す”のパターンですが、今度は客観的事実の場合です。
繰り返しの部分をまた赤色にしてみます。

 

 私が今こうして書いている文章には、句読点がある。それは当然のこととして、私にも他のほとんどすべての人にも容認されている。けれども、日本語の文章にテンやマル、カッコ、カギカッコ、ダッシュ、疑問符、感嘆符その他、実にたくさんの文章記号が入ってきたのは、明治になってからのことであって、それ以前には、これらの記号は使われなかった。もちろん例外は多少あるとしても、日本人がいっせいにテンやマルを文章につけだしたのは明治初年代からのことである。明治六年に『小学国語読本』がこれを採用したときから、文章表記における革命的変化への道も開かれたらしい。

 

表現は違うが内容は似たようなもの(赤色の部分)をイコールで結ぶと、

 

 「句読点」
  ||
「テンやマル、カッコ、カギカッコ、ダッシュ、疑問符、感嘆符その他」
  ||
「文章記号」
  ||
「文章表記」

「文章記号が入ってきたのは、明治になってから」
  ||
「いっせいにテンやマルを文章につけだしたのは明治初年代から」
  ||
「明治六年に文章表記における革命的変化への道も開かれた」

 

要するに、「明治初期に文章記号を使うようになった」という客観的事実が言葉を変えて繰り返されているワケです。


客観的事実とは、先ほども述べたとおり、一般論、常識、社会通念、過去の出来事や歴史上の出来事、体験、経験、データなど、誰の目から見てもそうだ、そうとしかいえない、そうだと思われているもののことですが、このように、具体例として客観的事実が示されるときは、「繰り返し」がよく使われます。


論説文の『説明』では具体例として客観的事実がよく使われること、その際、重要なことは言葉を変えてあるいは変えずに繰り返すという方法がよく使われることを知っておきましょう。


何が繰り返されているのかが把握できるようになると、論説文の読解はかなりしやすくなりますが、“言葉を変えて繰り返す(重要なことを別の表現にして繰り返す)”については、それが繰り返しだとすぐに気付くには慣れが必要です。


最初のうちはなかなか繰り返しに気付けなかったり、気付くのに時間がかかりすぎたりで、「逆に読解しづらいわ!」と感じることもあると思いますが、「繰り返しにすぐに気付ける力」は、文章の難易度が高ければ高いほど役に立つ力なので、普段から意識して練習して欲しいと思います。

とはいえ、文章の難易度が低いうちはこの力が無くてもそれなりに読解できてしまうので、効果を実感しづらいかもしれませんが。

 (3)まとめる、分かりやすくする

説明などがある程度長くなったとき、それまでの内容を簡潔にまとめて、何の話をしていたのかを読者に分かるようにするという『説明』方法です。


筆者の考えについて『説明』していたのをまとめた場合は、当然その内容は筆者の考えを簡潔に表現したものとなり、他者の考え(一般論)について『説明』していたのをまとめた場合は当然、一般論を簡潔に表現したものとなります。


まとめるときは、「すなわち」、「つまり」、「要するに」、「このように」などの言葉が使われ、これらの言葉の直後にそれまでのまとめが来ます。

読解するときはこれらの言葉の直後に注意しましょう。


また、「すなわち」や「つまり」などは、単に長い説明を簡潔にまとめるだけでなく、筆者の独特の言い回しや難しい表現が文中で出たときなどにそれがどういう意味かを簡潔に説明するためにも使われます。

要するに“語句説明”ですが、分かりやすくするという意味では結局同じです。


ここで解説した「まとめる、分かりやすくする」は、上で解説した説明方法の1つ「言葉を変えて繰り返す」でもあると言えます。

「AすなわちB」という文はA=Bということであり、表現が違うだけで内容は同じ。

「言葉を変えて繰り返す」の中には、ここで説明した「まとめる、分かりやすくする」も広い意味で含まれるといえるでしょう。

 (4)疑問点や問題点を指摘する

一般的にはこう言われているけど、果たして本当にそうだろうか、というように、とあることについて疑問点や問題点を指摘し、それに対して筆者が自分の見解(解決策など)を述べていくという説明も、良く使われる方法です。


TVショッピングで、「でも(値段が)お高いんでしょう?」という疑問点、問題点を指摘し、「いえいえ、大変お求めやすい価格になっております」という答えを示すことで、商品の良さを視聴者にアピールする、という説明方法がとられることがありますが、これと同じような説明方法が論説文でも時々使われるということです。


疑問点や問題点を指摘した後すぐに筆者の見解が来ることもあればそうでないこともあるので、今自分が読んでいる文が筆者の見解についての説明なのか、あるいは他者の意見(一般論)についての説明なのか、に注意して読むことに変わりはありません。


ハッキリした解決策が示されることもあれば、ゆる~く筆者の見解が示されることもあるなど、多少の温度差はありますが、疑問点や問題点の後にはそれに対する答えが筆者の見解として述べられるのが普通なので、その点に注意して読むとよいでしょう。

 (5)具体例を挙げる

論説文では客観的事実を示したりなどして説明するわけですが、このように、論説文では説明の内容が分かりやすくなるような具体例が文中に時々入ります。

このとき、
「例えば~」のような言葉で前置きしてから具体例が挙げられるのならば、これから具体例が来るんだということがスグに分かりますが、前置き無しで具体例は挙げられることの方が多いので、その場合、今自分が読んでいる部分が具体例だということに自力で気付く必要があります。


まぁ注意して読んでいれば前置きが無くてもそこが具体例のだというのは意外と分かるものなので、あまり神経質にならなくてもよいでしょう。

読解するときに、自分で「例えば~」の言葉を補って読むと分かりやすかったりするので、そうしてみるのも一つのテです。

前置きがあるのなら当然そんな言葉を補う必要はありませんけどね。


ただし、「この文は具体例だ」と分かっても何についての具体例なのかが分からないと意味がありません。

具体例が書かれてある前後の文を見れば、何についての具体例なのか、何のことを例えているのかは分かります。注意して読みましょう。

 (6)その他、2つで1つのセットになっている説明方法

より正確な読解をするため、ここからは少し細かい部分についても述べていきます。


論説文での『説明』は、2つで1セットみたいな形で説明されることが多いというか、結果的にそういう形になっていることが多いという特徴があります。

「一般論」と「筆者の見解」の関係もそうですね。


ここではそういった、2つで1つのセットになっている説明方法を色々まとめてみました。

一部はこれまでに説明してきたことと内容がかぶりますが気にしないで下さい。

比較 (日本と西欧、過去と現在など、色々なものを比較する)

何かと何かを比較した論説文というのはよくあります。

日本の文化と西欧の文化を比較する、などはその典型例。文化以外にも、建築や芸術など、色々あります。

このテの文章を読解するときは、日本についてなのか西欧についてなのか、というように、今自分が読んでいるのがどちらのことについての説明なのかに注意して読みましょう。

逆接 (AしかしB、確かにAと言えるがB)

『逆接』とは、「彼は格好良い。しかし酒癖が悪い。」のように、前の文から予想される内容とは異なるような文が後に来る場合の接続です。

内容が逆の文をつなげるのが逆接だ、という認識でも、まぁイイでしょう。


で、その逆接の中でも特に注意すべきなのは、一般論(他者の意見)を述べた後に筆者が自分の見解を述べる場合に出てくる逆接です。

文章の流れで言うと、「一般論→(逆接)→筆者の見解」や、「一般論→(逆接)→一般論に対し筆者が問題点・疑問点を指摘→筆者の見解」、のような場合です。


どちらの場合でも逆接の後に筆者の見解が来ます。

論説文では筆者の見解の方が重要なので、「AしかしB」で言えばBのほうが重要となります。

読解するときはBのほうに注意しましょう。

否定のち肯定 (AでなくB。AよりもBのほう。AというよりB)

否定と肯定がセットになった説明方法、とでも言えばよいでしょうか。

「AでなくB」、「AよりもBのほう」のように、否定(またはそれに近い)した後に肯定するという文章の流れの説明方法です。


重要なのはB(肯定)のほうで、読解するときはA(否定)のほうは参考程度にサラっと読み、B(肯定)のほうに注意して読むのが上手い読み方です。


例えば「私が好きなのは野球ではなくサッカーだ」という文の場合なら、「私が好きなのはサッカーだ」でじゅうぶん文の内容は伝わりますよね。

A(否定)とB(肯定)とでは、B(肯定)の方が重要だということを知っておきましょう。


「主語と述語に注意して読む」のが読解のコツの1つですが、それを実践していれば自然にBのほうに注意して読むことになるはずです。

まとめ (AすなわちB、AつまりB、A要するにB)

上ですでに説明していますが、2つで1つのセットになっている説明方法の例の1つとして、改めて簡単に解説しておきます。


説明などがある程度長くなったとき、それまでの内容を簡潔にまとめて、何の話をしていたのかが読者に分かるようにします。

数式で表すとA=Bの関係ですね。


筆者の見解についての説明が続いた後に「すなわち」などの言葉が来たときは当然、筆者の見解のまとめが来ます。

一般論など他者の意見についての説明が続いた後に「すなわち」などの言葉が来たときは、当然、一般論のまとめが来ます。

何がまとめられているのかに注意しましょう。


読解するときは、簡潔にまとめられているBの方を注意して読むとよいでしょう。

さりげなく例を挙げる (AといったB、AのようなB、AなどのB)

論説文では例を挙げて説明するということがよく行われますが、上で説明した「具体例を挙げる」のように、例は、ガッツリ挙げられるよりもさりげなく挙げられることのほうが多いです。


「リンゴや桃、スイカ、バナナ、マンゴーといった果物は~」や、「リンゴや桃、スイカ、バナナ、マンゴーのような果物は~」、「リンゴや桃、スイカ、バナナ、マンゴーなどの果物は~」という文だと、『果物』には「リンゴや桃、スイカ、バナナ、マンゴー」などがあることが、例として説明されています。


「AといったB」、「AのようなB」、「AなどのB」という文では、AがBの具体例になっているということです。

論説文ではこのようにサラっと例が挙げられたりします。注意しましょう。


また、AとBはイコール(A=B)なので、そういう意味では上で説明した「まとめ」と似ているといえます。

読解するときは、Aのほうは参考程度にサラっと読み、Bのほうに注意して読むのが上手い読み方です。 

順接 (AだからB)

いわゆる原因(A)と結果(B)の関係です。

これもAとBで1つのセットになっていると考えてよいでしょう。

理由を問うなどの問題はよく出題されるので、読解するときはもちろん、問題を解くときも注意しましょう。

最後に

このように、『説明』には色々な説明方法がありますが、最初にも言ったとおり、『見解』と『説明』とが繰り返される (何らかの「見解」が示されると、それに対する「説明」がしばらく続き、また何らかの「見解」が示され、その「説明」が行われる)ことに変わりはありません。


論説文は、何かを説明している文章です。

今自分が読んでいるのは何についての『説明』なのか、何を説明しているのか、ということを意識し、その上でどういう説明方法が使われているのかに気をつけて読むと、慣れないうちは難しいかもしれませんが、論説文の読解はかなりしやすくなるはずです。