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『八百屋お七』の概要・あらすじ・解説

 

概要

八百屋お七1666~1683 (寛文6年~天和3年)ほど、誰もが知っているわりに、真相が分かっていない事件も例がない。実在した十六歳の少女で、鈴ヶ森刑場(小塚原と云う説もあるが、火刑は鈴ヶ森と決まっていた)で火あぶりの刑にされたのは事実だが、その真相については恋の炎に狂った末の放火と云われているが、今もってはっきりとした証拠の文書などが発見されていない。

ただ井原西鶴の浮世草子「好色五人女」や河竹黙阿弥などが脚色し、芝居や人形浄瑠璃によって日本の津々浦々まで知れ渡っていった。

あらすじ

天和二年から三年にかけての江戸の大火を記した「天和笑委集」と云う書物があるが、お七の事件を詳しく記している。他にも「近世江都著聞集」もあるが信憑性では「天和笑委集」が幾分優る。それでも年代など誤記が多い。

従って最初に書いた通り『八百屋お七』については謎が多い。

それによると、本郷森川町の商人八百屋市兵衛(注1)は、もと駿河国富士郡の農民であったが、今は八百屋を業として裕福に暮らしていた。男子二人のほかに、今年十六で末っ子のお七は、容姿、性格ともに優れて夫婦はことのほか溺愛した。

天和二年十二月二十八日、駒込大円寺より出火した大火で、一家は檀那寺の正仙院(注2)に避難した。

この寺には寺小姓(注3)の生田庄之助なる十七になる美少年が居た。

庄之助はひと目でお七に恋慕し、文を渡すなどすると、お七も庄之助のことを憎からず想い、人目を避けながらも正月の松の内が明ける間もなく、深い契りを結ぶ仲になった。

その後、家に戻ったお七だったが、庄之助の事が忘れられず、文など送り、隠れては逢瀬を続けた。が、親の目もあり二人が思うようには会うことも出来ず、お七はいつもじれったく感じ始めていた。

そんな折、また火事があれば庄之助の居る寺に泊まる事が出来る、とはかない女心で考えたお七は三月二日の夜、近所(注4)に放火したが、たちまち見つかり未遂に終わった。お七は捕らえられ奉行所に引き立てられた。

三月十八日から十日の間、江戸市中を引き回され、二十八日(注5)鈴ケ森にて火刑に処せられた。

注1:武江年表には久兵衛とある

注2:正仙院なる寺、現在の東京都内、市部にも存在しない。320年の間には寺名も宗派も変わる例はたくさんあるが、事件から三年後の1686年の寺院名、大名名一覧のある大江戸絵図にも名前が見られないので編者の誤りか架空の寺名か、と考えられる。お七一家が避難したのは地理的には白山の円乗寺ではないかと考えられているが、これも墓があると云うだけで確証はない。千葉の長妙寺という寺にもお七の墓があると云う。

西鶴の「好色五人女」の中でお七が吉祥寺でお題目を唱える場面があるが、吉祥寺は曹洞宗の名刹、円乗寺も天台宗だからお題目はおかしい。かといって上方の西鶴の創作だから、お七の家の宗派が果たして法華日蓮宗だったかどうかは分からない。

注3:寺小姓=陰間、男色:下級武家の次男・三男は、口減らしと学問習得という理由で、寺に売られ、寺小姓として僧侶の身の回りの世話をしたり、夜の慰みの相手をした

注4:自宅に放火したと云う説が大勢

注5:円乗寺の墓石には天和三癸亥(みずのといのとし)三月二十九日没となっている。

のぞきからくりの名調子より「伊達娘恋緋鹿子 八百屋お七」

元来「お寺さんは駒込の吉祥寺、茶の湯の座敷の次の間で、学問なされし」で始まるのぞきからくりだが、ふたつご紹介する

『一』
そのころ本郷二丁目に 名高き八百屋の久兵衛は
普請成就するその間 親子三人もろともに
檀那寺なる駒込の 吉祥院に仮住まい

寺の小姓の吉三さん 学問なされし後ろから
ひざでちょっくらつっついて 眼で知らせ
わたしゃ本郷へ行くわいな たとえ本郷と駒込と
道のりいかほどへだつとも 本堂の横でしたことは
死んでも 忘れてくださるな

かわいい吉三さんにあわりょかと 娘心の一筋に
一把のわらに火をつけて ぽいと投げたが火事となる
誰知るまいと思えども 恋のかなわぬ腹立ちで
釜屋の武兵衛に訴人され まもなくお七は召し取られ
上野の白州に引き出され 一段高いお奉行さん
そちらは十四であろうがな わたしゃ十五で丙午
十四と云えば助かるに 十五というたひと言で
百日百夜は牢住まい

裸の馬に乗せられて 伝馬町から引き出され
先には制札紙のぼり 罪の次第を書きしるし

お七を見にでし見物は あれが八百屋の色娘
吉三惚れるはむりはない

田町、八つ山右に見て 品川表を越えるなら
ここが天下の仕置場で 鈴が森にと着きにける

二町四面が竹矢来 中にたてたる鉄ばしら
花のお七をしばりあげ 千ば万ばの柴かやを
山のごとくに積み上げて 下より一度に火をつける
あついわいな 吉三さん わっと泣いたる一声が
無情の煙と立ちのぼり 哀れお七やこの世の見おさめ

 

『二』
もとから先まで毛の生えた 唐もろこしを売る八百屋
唐茄子、南瓜を売る八百屋 いっそ焼いてしもうたら
可愛い吉さんと二人連れ 臍くり逢う瀬もできようと
そこが女のあさましさ 一つの俵に火をつけりゃ
パッとあがった火の煙り 誰知るまいと思うたに
長屋の武兵衛さんに見つけられ 連れて行かれた御奉行所
一段高いはお奉行さま 三尺下がってお七坊
私の生まれた年月は 七月七日の七夕で
それにちなんで名もお七 十四といえば助かるに
十五といったばっかりに 裸の馬に乗せられて
通りかかった品川の 色街女郎衆のいうことにゃ
あれが八百屋の色娘 吉さん惚れるは無理もない

 ▲お七の墓 今でも花と線香の煙が断たない

 

「吉三」って誰?

お七の処刑から三年後の1686年(貞享三年)井原西鶴が「好色五人女」の中で、寺小姓の名を十六歳になる浪人小野川吉三郎と名付けたことからお七の相手が吉三という具合に伝わった。

橋本勝三郎は「江戸の百女事典」の中で、「実説の吉三郎は、吉祥寺門前に住むならず者で、お七を騙して金品を巻き上げた上、付け火をそそのかし火事場泥棒する悪党であった」と書いている。これは矢田挿雲著の「江戸から東京へ」での八百屋お七の編に出てくる吉三をパクっただけで、何の考証もしていない。

そもそも、吉三郎なるものが実在したかどうか上方の西鶴の草子に使われた名前であって架空のものでしかない。しかも「江戸から東京へ」は報知新聞に大正年間(9年~12年)に読み物として連載されたもので、江戸時代の黄表紙などのように娯楽性が強く、読み物としては大変面白いが史実に基づいたものではなく、かなりの脚色、誇張が多い。

それでは一体、吉三とは実在したのか、もし実在したのならどんな人物がモデルだったのだろう。「武江年表」には「三月二十九日駒込片町八百屋久兵衛の娘お七火刑に行はる其の顛末世人の知る所なり」とあり、詳細は書いていない。「世人の知る所」とあるから、当時としては世間に知れ渡った事件だったに違いない。この頃の記録はないが江戸の刑罰史には四年の間に火刑はわずか10人と記されている。お七の処刑は、その時代相当の評判になったのは想像に難くない。

しかし、それ以上お七の事件は、明らかな文書もなく研究書もないので、なぜ放火したのか、本当に恋狂いが原因だったのか。その詳細さえ判然としない。いくら箱入り娘のお七でも恋した相手に逢いたいだけで死刑覚悟の放火などするだろうか。もっともお七の知能指数がそれほどのものだったら仕方ないが、「世人の知る所」とあるくらいだから、恐らく西鶴もある程度事実に基づいて著作したと思われる。ただ脚色された物語が、歌舞伎や浄瑠璃、歌祭文などで現在に伝えられ、事実として喧伝されているのは否めない。
やはり誰かに懸想して、それ故火付けの罪を犯したのだろうか。そう考えたほうが確かにロマンがあり、お七に哀切の情を感じるのは間違いない。

従って現在まで、吉三が実在したのか、実在したとしたら誰だったのかは残念ながら判別できない。八百屋お七の事件は調べれば調べるほど謎が大きく膨らんでくる。