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五輪書 空之巻 全文(原文・現代語訳・註解)

   1 空を道とし、道を空と見る

【原文】

二刀一流の兵法の道、
空の卷として書顯す事。(1)
空と云心ハ、物毎のなき所、
しれざる事を、空と見たつる也。
勿論、空ハなきなり。
ある所をしりて、なき所をしる、是則、空なり。
世の中におゐて、悪く見れバ、
物をわきまへざる所を空と見る所、
実の空にはあらず。皆まよふ心なり。
此兵法の道におゐても、武士として 
道をおこなふに、士の法をしらざる所、
空にはあらずして、色々まよひありて、
せんかたなき所を、空と云なれども、
是、実の空にはあらざる也。武士ハ、
兵法の道を慥に覚、其外、武藝を能勤、
武士のをこなふ道、少もくらからず、
心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、
心意二つの心をミがき、觀見二つの眼をとぎ、
少もくもりなく、まよひのくものはれたる所こそ、
実の空と知べき也。
実の道をしらざる間は、
佛法によらず、世法によらず、
おのれ/\ハ、慥成道とおもひ、
能事とおもへども、心の直道よりして、
世の大がねにあハせて見る時は、
其身/\の心のひいき、其目/\のひずミに
よつて、実の道にハそむく物也。
其心をしつて、直成所を本とし、
実の心を道として、兵法を廣くおこなひ、
たゞしくあきらかに、大き成所を思ひとつて、
空を道とし、道を空とみる所也。(2)

  ( 空有善無惡
    智者有也
    理者有也
    道者有也
    心者空也 )(3)

 正保二年五月十二日
           新免武蔵玄信
                在判
       寺尾孫之丞殿 (4)

【現代語訳】


二刀一流の兵法の道を、空の巻として書きあらわす事。

空〔くう〕という意味は、どんな物事でも、形なきところ、知れざることを、空と見立てるのである。もちろん、空は、無いことである。有るところを知って、無きところを知る、これがすなわち空である。

世の中において、(空を)悪く見れば、物をわきまえないのを空と見るが、これは真実の空ではない。すべて迷う心である。

この兵法の道においても、武士として(兵法の)道を行うのに、士の法〔武士のやり方〕を知らないのは、空ということではない。いろいろと迷いがあって、どうしようもないところを、空というけれども、これは真実の空ではないのである。

武士は、兵法の道を確かに覚え、そのほか武芸によく励み、武士の行う道にすこしも暗からず、心の迷うところなく、毎朝、そして時々に応じて(修行を)怠らず、心意〔しんい〕二つの心を磨き、観見〔かんけん〕二つの眼を研ぎ、少しも曇り無く、迷いの雲の晴れたところこそ、それが真実の空だと知るべきである。

真実の道を知らない間は、仏の法であれ世俗の法であれ、それぞれ自分は、たしかな道と思い、善きことと思っていても、心の直道〔じきどう、真っ直ぐな道〕から、世の大きなかね〔規矩・尺度〕に合せて見れば、人それぞれの心のひいき〔偏向〕、それぞれの目の歪み〔偏見〕によって、真実の道には背いているものである。

その意味を知って、真っ直ぐなところを根本とし、真実の心を道として、兵法を広く行い、正しく明らかに、大きいところを思い取って、空を道とし、道を空と見るのである。


 ( 空は善有りて悪無し

   智は有なり

   理は有なり

   道は有なり

   心は空なり )


正保二年五月十二日

          新免武蔵玄信

               在判

      寺尾孫之丞殿

 

 

  【註 解】

 (1)空の卷として書顯す事

 空之巻はこの一段のみである。五輪書の最終巻は、まさにこれだけなのである。

先に地之巻において、空之巻について述べるところ、――すでに空という時は、何を「奥」と云い何を「入口」と云うのか、そんな区別などありはしない。道理を得てしまえば、道理を離れ自由になる。兵法の道に自然〔おのれ〕と自由があって、自然と奇特〔きどく・不思議なほど優れた働き〕を得る。時に相遇しては拍子を知り、おのづから打ち、おのづから当る事、これみな空の道である。自然〔おのれ〕と真実の道に入るということを、空の巻にして書留めるのである。――とあったのである。

これによって見るかぎり、空之巻の趣旨は、《おのれと實の道に入事を、空の巻にして書とゞむるもの也》である。時に相遇しては拍子を知り、おのづから打ち、おのづから当る事、これみな空の道である、という。空の道とは、「おのれと」の道、「おのづから」の道である。言い換えれば、武蔵は、いわゆる無為自然の老荘思想を含んだ、いわゆる三教一致の宋禅・宋儒の位相で、空を語っていることになろう。

ただし、それは、この場の文言に拠ってそう見るだけのことで、もちろんここまでの四巻の条々の具体的な教え一切を背景にしてみれば、さような要約など意味なきことと知れるのである。

「おのれと」の道、「おのづから」の道としての空の道といっても、なにも、オリエンタルな神秘主義があるわけではない。武蔵には、ごくあたりまえのことなのである。

ところで、この空之巻は、本書五巻のうちでもある意味で特別な一巻である。というのは、空之巻に武蔵の究極の奥義が述べられているというわけではない。その種のことは通俗五輪書解説本の書きそうなことだが、そういう解説はたいてい地水火風の四巻でさえまともに読めない者らの愚説である。

そういうことではなく、この空之巻が特別なのは、一つには、その空白においてである。つまり、後に見るように、空之巻は序文のみで終って、本文も後書も欠くという状態である。武蔵は、序文のみを書いただけで死んでしまい、空之巻の大半を空白のまま残した。

他の四巻が、序文・本文条々・後書というかたちであるのに対し、この空之巻はついに大半が空白のまま残されたという点で、文字通り「空」の巻なのである。

そうした本文条々の不在という点では、空之巻は際立って他の四巻とは様態を異にしている。しかるに、従来の五輪書研究は、何れもこの序文を本文と錯覚して、その不足も空白も、思いも寄らぬという有様である。要するに、これまでの研究者には五輪書が読めた者がいないのであるが、この空之巻については、その本体の欠如に気づくだけのセンスの持ち主がいなかったのである。

この空之巻が特別だということのもう一つは、そのような書かれざる本文を空虚として内包する空之巻は、寺尾孫之丞によって、特異な方式で流派伝承の重要文書と化した。その意味でまた、空之巻は特別の書巻になった。

言い換えれば、空之巻において寺尾孫之丞が設定した五輪書相伝フォーマットが、五輪書の正規版/海賊版を分ける指標となる。見るところ、寺尾孫之丞の相伝形式を有するのは、筑前系五輪書であり、それを欠如するのは肥後系五輪書である。つまりは、空之巻の体裁において、肥後系諸本は海賊版たることを露呈するのである。

その海賊版ということでは、現存写本にはないヴァージョンもあったようである。たとえば、志方半兵衛之経の『兵法二天一流相伝記』(寛保二年・1742)に、
《六十歳の頃、兵法得道書を、当国城西の霊岩洞にて書顕、五巻[序地水火風]、是則一流の伝書なり》
とあって、この割注に従えば、五輪書五巻は、序・地・水・火・風の諸巻であって、空之巻は存在しないのである。空之巻は存在せず、存在するのは「序」なのである。つまり、五輪書には「地水火風空」の五巻ではなく、「序地水火風」五巻という肥後系ヴァージョンが存在したらしいのである。

こうしてみると、空之巻をめぐっては、後世、何やら複雑な事態が生じたようである。なぜ、志方版の五輪書には空之巻が欠如しているのか。それは、寺尾孫之丞の宛名が明記され、彼の相伝証文が付属していたからである。

求馬助を唯一相伝者としたい流派には、これはまことに不都合なことで、寺尾孫之丞の宛名及び相伝証文を削除するだけではなく、空之巻そのものを抹殺してしまったのである。その代りに、出所不明の序を付すのであるが、現存写本を見るかぎり、そこまで露骨な改竄はしていないから、これは当時の特定一派の現象にとどまったようである。

とはいえ、大半の肥後系諸本空之巻には、寺尾孫之丞の宛名を欠く。この宛名の不在ということも、空之巻を語るとき不可欠の事どもを明らかにするであろう。

それやこれや、この最終巻・空之巻には、研究上の話題が多い。しかも、その多くが、従来の五輪書研究ではまったく看過されてきたのである。およそ研究は、問題を発見する、問題に気づくところから始まるのだが、これまでの研究は、そういう「問題を発見する」という初歩すら踏めなかったのである。

それゆえ、以下の論点の多くは、大半の読者にとって未聞のことであろう。というのも、五輪書研究の最先端は、まさにこの場にあって他にはないからである。

 


(2)空を道とし、道を空と見る所也

かくして、空之巻の文言を読むかぎりにおいて、「空」を語るとはいえ、さして難解な宗論をするわけでなし、武蔵はいたって平明に「空」を語っている。

というのも、初心若年の者にも解るように書くという五輪書の記述スタンスは、この空之巻にも共通しているからである。

ただし、当時の武家の少年にも解ったことが、今日の大人にも解るかというと、そうではない。教養のバックグラウンドがちがうからである。そこで、以下、若干の解説が必要となる。

巻名がそうであるように、ここで空〔くう〕ということが出てくる。この空(シュニヤータ)というのは、言うまでもなく仏教的概念である。ただし、これがなかなか難解な概念である。というか、概念として捉えようとするから、難解になるのである。

経典など不案内の者でも知っている有名なところでは、『般若心経』の、
《色不異空 空不異色 色即是空 空即是色》
という文言がある。色(ルーパ)とはもろもろの存在の物質的形態であるが、それは空にほかならず、空は色にほかならない。色はすなわち空であり、空はすなわち色である。もっと、規定的に言えば、肉体は空であり、空は肉体である。

こうした般若経典の空観のテーゼに関しては、それこそ厖大無数の思弁がなされてきた。ところが、武蔵の説くところの空は、まことに平明で単純な話である。

すなわち、空というのは、どんな物事でも、形なきところ、知れざることを、空と見立てるのである、と云う。つまり、空は無形にして不可知なものである。このことが第一。

第二は、もちろん空は、空虚(empty)、空っぽ(void)であって、無(nothing)である。有るところを知って、無きところを知る、これが空である、という話である。有無を知るのが空、空とは般若波羅密、最高の智恵である。

世間一般において、(空を)悪く見れば、物をわきまえないのを空と見るが、これは真実の空ではない。すべて迷う心である、と云う。この「空」は、日常言語の「空」〔うつろ、から〕であり、内容のないこと、空虚なことである。武蔵は「空」の読み、「くう、そら、から」について言語遊戯を演じている。

しかるに、知っていること、わきまえていることが、空であり、他方で、知っていないこと、わきまえていないことも、空である。しかしそれは真実の空ではないぞ、と。これは武蔵流の《色即是空 空即是色》というより、身をかがめるように低きについて、若年者に向って教えている風情である。

それゆえ、続いて、――この兵法の道においても、武士として道を行うに、士〔さむらい〕の法、武士としてのなすべきところを知らないのは、空ということではない。いろいろと迷いがあって、どうしようもないところを、空というけれども、これは真実の空ではないのである、と云う。

とすれば、武蔵はさしあたり、迷いの空、虚偽の空に対して真実の空、リアルな空を措定したのである。この空に真偽二つあるという説は、当時は所説一般的であって、たとえば柳生宗矩『兵法家伝書』でも、虚空と真空の二つを立てて論説しているところである。

しかしながら、この空に真偽二つあるという説は、むろん方便である。空は絶対(absolute)だから二つあるはずがない。迷いの心が空に二つあると錯覚するのである。しかし、教育の方便は、迷いの心に寄り添って説く。ゆえに、あくまでも五輪書の空は、教本の方便としての空である。

したがって――と武蔵は続ける――武士は、兵法の道をたしかに修得し、そのほか武芸によく励み、武士の行う道にも暗からず、心の迷うところなく、日々時々に怠らず、心意二つの心を磨き、観見二つの眼を研ぎ、少しも曇り無く、迷いの雲の晴れたところ、それが真実の空だと知るべきである、云々。

ここでいう「心意二つの心」とは、心(citta)と意識(manas)の二つの心的作用である。ふつう、心/意というときの、心は本体、意は作用、と解されるのであるが、ここでとくに心/意という「心」〔しん〕は、意識・無意識を包括した心の作用というよりは、むしろ大いなる心の作用、すなわち――我々の用語で言えば――脱意識(deconsciousness)としての心的作用である。したがって、ここで語られる「心」という語には、日常用語としての心〔こころ〕、それと脱意識としての心〔しん〕の区別がある。これは、「空」という語に、日常用語としての空と仏教用語としての空の区別があったのと同じである。

もうひとつの「観見二つの眼」については、すでに何度か出てきたので、説明は不要であろう。ここは仏教用語としての「観」と「見」ではなく、特定対象の認識が見であるのに対し、特定対象にかかわらない非対象性の認識が観である。すなわち、前述のように観は非対象(objectlessness)のポジションのことである。これが実戦から武蔵が導き出した戦闘用観法であることは、繰り返すまでもない。

武蔵はいう。――真実の道を知らない間は、仏法・世法によらず、それぞれ自分は正しい道と思い、善きことと思っていても、心の直道〔じきどう〕から、世の大きな尺度に合せて見る時は、その身その身の心贔屓や、その目その目の歪みによって、真実の道には背いているのである。

仏道修行であれ、世俗の修行であれ、真実の道を知らない間は、正しい、よいことだと主観的に思い込んでいても、それは偏見や歪曲をまぬがれない。この歪み(distortion)によって、真実の道に違背することになってしまう。言い換えれば、武蔵はここで、「曲」に対する「直」、あるいは「偏」に対する「正」のポジションを明示している。

そこで、真実の道のその心を知って、真っ直ぐになるところを根本とし、真実の心を道として、兵法を広く修行し、ただしく明らかに、大きいところを思い取って、空を道とし、道を空と見るのである――というわけである。したがって、武蔵的な空は、広く明らかに正しく大きくという広明正大の道である。言い換えれば、一般に神秘主義的な空は、ここでは禅仏教の宗教性を離れて、極めて倫理的に措定されている。その倫理的なポジションが武蔵的なのである。

この、《空を道とし、道を空と見る》は、真実の道の認識である。まさに兵法の道は空であり、空を兵法の道をみるところ、それが武蔵流の空観である。このかぎりおいて、「空」(empty/void)はポジティヴなものであり、「真実」(truth)の同義語である。

これに対し、柳生宗矩の『兵法家伝書』は、ある意味では、ユニークな「空」の語用法を演じている。すなわち――空とは、新陰流の「隠し言葉」で、秘伝すべしと言う。なるほど、これはこれは、と思って読めば、空とは、「敵の心」をいうのだとある。心は形もなく色もない。空なるゆえである。空ただ一つを見るとは、敵の心を見よという意味である。仏法とは、この「心は空なり」を悟ることだが、悟っている奴は稀だ、云々。

そしてまた云うに、捧心(ぼうしん)というのは、心を捧げるとよむ字。敵の心は太刀を握った手にぶら下げている。敵の握った拳の、いまだ動かざるところを直ちに打つ。その動くか動かぬかのところを見るために、一去〔いっきょ〕といって、(心の)百病を一去して、空を見外すな、というのである。空は動かない。形がなければ動かない。空を打つとは、動かないところを素早く打てという意味だ、云々。

空とは、敵の心をいうのだとする、こうした「空」の実用的言説は、まことに「偏」なる解釈で、呆れるほどの拡大解釈――もしくは歪曲解釈――の身振りを演じているわけだが、実はこれが「空」を隠し言葉として使ったものである。ここまで来ると「空」も安くなったものだと言わねばならない。あれもこれも、「空」なる語が普通に使われる日常語と交配してしまう運命にあるものの、「空」の通俗説の一端を示しているようである。

しかしながら、これは、当時の語法事例として国語学的関心以外には惹きそうにない。「空」の巻を立てながら、さすがに武蔵は、そんなバカなことは言わない。空については、宗矩のような度外れな解釈はしていないのである。言い換えれば、武蔵には一種の教養からくる節度があるわけである。

ともあれ、武蔵は五輪書の最後に空之巻を設置した。今日我々の見る文章が、武蔵の書こうとした全てではないが、ここに語られた《空を道とし、道を空と見る》ということ、この「空なる道、道なる空」こそ、武蔵の空観への導入部となるはずのものである。

この考えが、仏教諸派の理解する空と、いかほどの径庭が在るか、――そのことは論を俟たない。武蔵の空の理解が浅薄であるとするのは容易い。多少は仏教教学を知った者なら、こんなもので空と言うな、と反論したくなるであろう。なるほど、天台智顗の「空仮中」の弁証法からすれば、素朴な議論である。

しかしながら、これが五輪書なのである。アカデミックな仏教論書なのではない。前に述べたように、武蔵的な空は、広く明らかに正しく大きくという広明正大の道である。空は、極めて倫理的(ethical)に措定されている。従来、五輪書研究において看過されてきたのは、この武蔵的な空の特徴である。

言い換えれば、これは、禅仏教の宗教性から離脱したところで発生した、実践理性(practical reason)の哲学である。武蔵が「空」を語るにしても、それは、禅家ではなく儒家の色合いが着いた「空」である。

さらに踏み込んで云えば、朱子学、そして反朱子学、すなわち陽明学としてしか実現しなかった和儒(日本儒家)の道筋の、その起点において不意に一瞬出現した――しかも、爾後の何れとも似ていない――無比な実践思想なのである。その意味で、武蔵の思想的位相は、藤原惺窩(1561~1619)のそれとすり合わせることができる。

空という仏教における最も根本的な概念は、宋儒が換骨奪胎した。武蔵の空は、そうした思想的運歩を踏まえて、さらにその実践性のツボを独特なやり方で押さえている。まさにそのように、実践的に――とは、つまり倫理的(ethical)に――語りえたところが、当時の凡庸な禅家を遥かに凌いでいる。

しかし禅とは、そもそもスコラ的教学の観念論を排し、きわめて実践的・倫理的であろうとした、精神の運動ではなかったか。とすれば、そこにおいてこそ、武蔵の五輪書は、沢庵宗彭の影響下に書かれたという柳生宗矩の『兵法家伝書』よりも、禅の根本に近接しているのである。

とはいえ、武蔵はそう評されるのを嫌ったに違いない。やはりここは、禅家セクトの知的洗練からくる風流ではなく、広明正大の道という倫理的ポジションから、至極真っ当すぎるほどの空を語るのが武蔵である。

 

それゆえ、戦前流行した「剣禅一如」の発想は、武蔵的ではない。それは近代になって発生した一種のイデオロギー的解釈にすぎない。この空之巻で明らかなように、武蔵は「禅」を語ったのではなく「空」を語ったのである。「剣禅一如」とは、武蔵の戦闘思想の逆行である。せっかく武蔵が周到に脱色したのに、それを禅仏教に戻しては、五輪書の思想史的地歩が台無しである。

言い換えれば、空というこのリアルな深淵は、行為によって顕現するものであるとすれば、そこには知の彼岸としての倫理的次元が露頭していなければならない。要するに、リアルな真理、リアルなもの(the Real)としての空である。

それに対し、右掲の柳生宗矩の「空と云ふ事、仏法の眼也」の方は、どうであろうか。先に引用した部分に続いて語られた部分であるが、「空」とは、前述のごとく隠し言葉でもあって、「剣禅一如」を珍重にしたがる近代人の「心」をぶち壊しにするものである。そのかぎりにおいて、これは評価すべき文言なのである。

心のうごかぬは空也、空のうごくは心也。――とするところは、例の不動心であるが、ご本家の沢庵宗彭『不動智神妙録』においては、不動智とは、一心の動かぬところを云い、心を動転せぬことだ、動転せぬとは、物に心をとどめぬことだとする。

これは『金剛般若経』の、「応無所住而生其心」〔おうむしょじゅうじ(に)しょうごしん〕――まさに住する所無くして、その心を生ず――というテーゼの改版に他ならない。要するに、「応無所住而生其心」とは、仏教教学のスコラ哲学、またその厖大な思弁の書庫とは無縁なところでの、「心を執着から解き放て」というシンプルな教えに他ならない。これに対し沢庵は、《留ればうごき候。とまらぬ心は動かぬにて候》といった逆説を語って、洗練を示すのである。

「空」というのが究極曖昧であれば、『二入四行論』『絶観論』以来の「無心」という概念に倚って語ってもよかろう。すなわち、沢庵流に言えば、無心とは、
《どつこにも置かぬ心なり。石か木かの様にてはなし、留る所なきを無心と申すなり。留まれば心に物があり、留まる所なければ心に何も無し。心に何もなきを無心の心と申し、又は無心無念とも申し候。此の無心の心に能くなりぬれば、一事に止らず一事に欠かず、常に水の湛へたるやうにして、此の身に在りて用の向ふ時出でて叶ふなり。一所に定り留りたる心は、自由に働かぬなり》(不動智神妙録)
という次第である。無心の心とは言え、一貫して無所住の自由である。おそらくこの部分を指して、鈴木大拙は以下のように英文で書いている。いきなり異国語になってしまうが、母国語でさえも難解な概念を、異国語で紹介した大拙の意気を見てみよう。すなわち、
In this letter to the great master of sword manship, Takuan strongly emphasizes the significance of mushin, which may be regarded in a way as corresponding to the concept of the unconscious. Psychologically speaking, this state of mind gives itself up unreservedly to an unknown "power" that comes to one from nowhere and yet seems strong enough to posses the whole field of consciousness and make it work for the unknown. Hereby he becomes a kind of automaton, so to speak, as far as his own consciousness is concerned. But, as Takuan explains, it ought not to be confused with the helpless passivity of an inorganic thing, such as a piece of rock or a block of wood. He is "unconsciously conscious" or "consciously unconscious." With this preliminary remark, the following instruction of Takuan will become intelligible. (Daisetz T. Suzuki, Zen and Japanese Culture; New York, Princeton University Press 1959)

日本語訳文(北川桃雄訳)は右掲のごとくで、上記原文とはかなり違う。これは、北川訳が一九三八年の大谷大学版に拠っているためであろう。とくに「此目も昏むばかりの逆説以外に、此心的状態を敍述する道はない」といったやや大仰な表現は戦後のプリンストン大学版英文にはない。

しかし、「無意識に意識する」と逆説のかたちでしか言えないのだが、それよりも、無心を「無意識(的なもの)」(the unconscious)というものに対応させてしまうのは、いかがなものか。無意識(的なもの)という概念は、言うまでもなく通俗精神分析によって至極手垢にまみれたもので、この対応づけには難点があるはずである。

どうせ異国には見慣れぬ「無心」という概念である。直訳して《no-mind》で押し通すか、我々の用語のように、これを造語して《deconsciousness》とでもしておけばよかったのである。

ともあれ、ここで鈴木大拙を出したのは、本書の東洋神秘主義風な紹介を好んだせいではなく、また本書で宮本武蔵の名を出しているからでもなく、我々がここにある、極めて興味深い一語に注意を惹かれたからである。すなわち、それは――《automaton》という語にほかならない。

オートマトンとは、自動的に作動するものの謂である。自動人形とあるが、自動装置の意である。我々なら、大拙のいうオートマトンを、さらに「戦闘機械」(fighting machine)とするところである。無心とは、そんな自動的に作動するオートマトンになってしまうことだ。これは本来の意味からすると、一見、極めて逸脱した意味であるようだが、実はそうではない。十分「無心」を知っている者にして、はじめて述べうる説明である。

武蔵の教えから、すでに見たところから拾えば、水之巻「無念無相の打ちと云事」に、こういう話があった。すなわち、――敵も打ち出そうとし、自分も打ち出そうと思う時、身も打つ身になり心も打つ心になって、手はいつとなく空〔くう〕から遅ればせに強く打つこと。これが無念無相といって、重要な打ちである。この打ちは度々使える打ちである、云々と。

これが武蔵流のオートマトンの姿である。要するに、武蔵流の空とは何かと問われたとき、我々の応答は、この水之巻「無念無相の打ちと云事」を示して、自動的に作動する戦闘機械になることだ、とするのである。

ここまで来て、水之巻に戻っているのだから、さらにもっと初心の教えに回帰してよかろう。すなわち、同じ水之巻の初めにある教えである。
《兵法の道において、心の持ち方は、常の心と変ることがないように。常の時にも戦闘の時にも、少しも変らないようにして、心を広くまっ直ぐにし、きつく引っ張らず少しもたるまず、心の偏らぬように心をまん中に置いて、心を静かにゆるがせて、そのゆらぎの刹那も、ゆらぎやまないようにすること》(兵法心持の事)

空之巻まで読み進んで、我々が驚くべきは、要諦ともいえるこうした教えが初歩の初歩に語られていたことである。太刀の持ち方を教える以前に、この心持の事が提示されていたのである。

繰り返せば、先に地之巻で《すでに空という時は、何を「奥」と云い何を「入口」と云うのか、そんな区別などありはしない。道理を得てしまえば、道理を離れ自由になる》と述べられていたのである。

我々の読んできた五輪書のプロセスはループを描き、かくして、禅家のしばしば描くところの「一円相」――というよりも、むしろ二つのねじれた輪環を描くもののごとくである。

いわば、ここで五輪書の構造体としてのウロボロスは、二体のものとなり、あるいは太極図の陰陽二元のからみ合った「二天」一流の、そのトポロジカルな構造を現出するのである。

 

▲ Ouroboros

 

▲太極図 

 

 以上は、武蔵の言葉に沿ってそのバックグラウンドまで読んでみたところであるが、こうしてみると、空之巻のこの文章は、ここからさらに何かを言うべきことのあるかたちのものである。言い換えれば、空之巻は、この文章を序文として、実は続いて本論が書かれるはずのものであった。

他の諸巻にはそれぞれ序文を付している。それと同じように、空之巻もこの序文が書かれた。しかし、以下を書く前に、武蔵は病重くして、ついに死んでしまったのである。

すでに何度も引合いに出しているのだが、改めて、地之巻の「此兵法の書、五巻に仕立事」条の文言を読んでみる。そこでは、武蔵は空之巻の内容を予告していた。

武蔵が云うのは、まず、――空と云う以上は、何を奥といい、何を入口だというのか。つまり、空の道において、初歩と奥儀の差異などありえない、ということである。空之巻に何か深遠な奥秘極意があると錯覚するな、ということである。これは今日一般的な誤読への警告でもある。

そして、――道理を得てしまえば、道理を離れ、兵法の道におのづと自由があって、おのづから奇特〔きどく、不思議なほど優れた効験〕を得る。時に相応しては拍子を知り、おのづから打ち、おのづから当る。これみな空の道である、と。

これはまさに「おのづから」のパレードだが、武蔵がいうのは「おのづからの道」である。ただそれも、ありきたりの東洋的な自然主義ではない。おのづから打ち、おのづから当る、上述のごとく、自動的に作動する戦闘機械になるということなのである。それが武蔵の云う「空の道」なのである。

そして、そのように、おのづから真実の道に入ることを、空の巻にして書留めるのである、と云う。これが空之巻の予告内容である。

とすれば、現存空之巻は、こう予告された事柄をほとんど語っていない。つまり、これはまだ空之巻の序文にすぎないとみなす所以である。

空之巻付属の相伝証文で、寺尾孫之丞が云うには、この地水火風空の五巻のうち、空之巻については、武蔵は長く病床にあったので、その所存(考え)をあらわさなかった、という事実である。この「あらはされず」は、明らかにしなかったというだけではなく、著わさなかった、書きのこさなかったということである。

むろん、寺尾孫之丞は、口頭での「あらわし」を受けたのではない。武蔵は、空之巻に書くつもりだったことを、寺尾に話したわけではない。寺尾も、空之巻がどんな内容なのか、知らないのである。武蔵から五巻の書を授かった時はじめて、寺尾は、空之巻が序文だけで終っていることを知ったのである。

それが、寺尾の云う、《空之卷ハ、所存の程あらはされず候》ということの事情なのである。

書誌学的に云えば、この寺尾孫之丞の文言が、空之巻の事情を証言する一次史料である。我々の見るように、空之巻は序文だけで途絶している一巻である。他の諸巻のような、本文条々も、そして後書も欠如している。いうならば、武蔵は空之巻に大きな空白を残して死んだのである。

埒もない俗説の類いだが、武蔵は五輪書を完成して死んだ、ということを書く五輪書解説がある。もとより、それら解説者が、寺尾孫之丞相伝証文すら見たことのない、武蔵研究の素人なのだから、とくに目くじらを立てる必要もないことだが、そんな馬鹿げた謬説がなお再生産されているのが今日の状況であるとすれば、やはり、次の要点は強調しておくべきであろう。

五輪書は草稿、全体に書きさしの未定稿である。とくに空之巻は、序文のみで終った書かれざる一巻である。武蔵がこの空之巻で何を書くつもりあったか、その具体的な個別内容は、ついに不明である、と。

かくして、五巻の書を武蔵から遺贈された寺尾孫之丞は、空之巻に残された大きな空白も遺贈されたのである。この忠実な門人が、これをどうしたか、それは後に述べるであろう。

――――――――――――

 


ここで、校異の問題を、一つだけ述べておく。それは、我々の採択した筑前系諸本に見られるところの、いささか特異な字句である。

すなわち、それは、《武藝を能勤》、《慥成道とおもひ、能事とおもへども》、《直成所を本とし》、《大き成所を思ひとつて》というあたり、仮名ではなく、漢字で詰め書きしている箇所である。

五輪書の一般的な文体からすると、これらは、たとえば、「武藝をよく勤め」であり、「たしかなる道とおもひ、よき事とおもへども」であり、「直なる所を本とし」、そして「大きなる所を思ひとつて」とあってもよかろう。

じっさい、肥後系の楠家本や細川家本をみるに、楠家本では、《武藝をよくつとめ》、《慥なる道と思ひ、よき事とおもへども》、《直なる處を本とし》《大きなる所をおもひとつて》と記すし、また、細川家本では、《武藝を能つとめ》、《慥なる道とおもひ、よき事とおもへども》、《直なる所を本とし》、《大きなる所をおもひとつて》と書いている。

しかも、楠家本や細川家本に比して、漢字を多用する傾向のある丸岡家本でも、当該箇所は、《武藝を能つとめ》、《たしかなる道とおもひ、好事と思へども》、《直なる所を本とし》と記し、あるいは、《大に[誤字]なる所をおもひとつて》と書いている。

以上のことからして、寺尾孫之丞に遡るオリジナルでは、これらの字句は、漢字で詰め書きをする筑前系の方に近いものだったのか、それとも、仮名交じりの肥後系の方に近いものであったか、という問題が生起するであろう。

五輪書全体の文体からすると、字句に仮名が多用されている。漢字で詰め書きするのは、やや異例のように見える。とすれば、寺尾孫之丞に遡るオリジナルでは、肥後系の楠家本や細川家本が記すように、仮名まじりであった字句を、筑前系諸本では、わざわざそれを漢字で詰め書きして、いわばやや険しい文体に見せようとしたのではないか、という見方も可能であろう。

しかし、物事はそう単純には片付かないのが、五輪書研究のおもしろいところである。

というのも、同じ肥後系の他の写本、たとえば円明流系統の狩野文庫本に、筑前系諸本の字句と同じものが見出されるからである。つまり、狩野文庫本には、《武藝を能勤》、《慥成道と思ひ、能事と思へども》、《直成所を本とし》、《大き成所を思ひ取て》という文字がある。

狩野文庫本は、筑前系写本とは別系統の肥後系の写本である。しかも、全体に写し崩れが多い写本である。それゆえにこそ、この字句の一致は、偶然ではないのである。

同じ円明流系統の写本に、多田家本があるが、そこでも、《武藝を能々[衍字]勤》のほか、《慥成道と思ひ》、《直成所を本として》、《大き成所を思ひとつて》という字句が見られる。あるいはまた、円明流系統の別の異本、大瀧家本にしても同様である。

では、もう一つの肥後系早期派生系統の富永家本は如何とみるに、これも写し崩れが多い後期写本だが、そこでも、《慥成道と思ゐ、能事とおもへども》、《大き成所をおもひ取て》という字句を見い出すことができる。

すでにみた他の事例でも知れるのだが、円明流系統の狩野文庫本や多田家本、あるいは富永家本は、写し崩れが多い後期写本であるにもかかわらず、むしろ、肥後系早期の姿の痕跡を示すケースがある。それら諸本に、このように、筑前系諸本と共通する字句が見られるということは、他例と同様、肥後系早期には、これらの字句があったことを意味する。

漢字で詰め書きしたこれらの字句は、筑前系のみの特異例ではなく、むしろ、筑前系/肥後系を横断して存在する。言い換えれば、これらは、肥後系早期に存在した字句であり、楠家本、細川家本および丸岡家本の系統が共通してもつ先祖は、そうした漢字で詰め書きした字句を、読み易いように仮名交じりの字句へ書き換えた写本なのである。

かくして、この空之巻の文章について、復元テクストは、《能勤》、《慥成道》、《能事》、《直成所》、《大き成所》といったやや特異な字句を含むべきものである。それは決して、楠家本や細川家本に見られるような、《よく勤め》、《慥なる道》、《よき事》、《直なる所》、《大きなる所》という字句ではないのである。

こうした一連のことは、肥後系諸本のみを見ていては、思いもよらなかったことである。筑前系/肥後系を横断して、できるだけ多くの異本をつき合わせてはじめて、可能になったことである。いわば、この最後の空之巻においても、我々の間テクスト的分析により、如上のテクスト復元が確定されたのである。


(3)空有善無惡、智者有也、理者有也、道者有也、心者空也

空之卷の末尾に記された識語である。楠家本や細川家本をはじめ、たいていの肥後系写本にこれを記載する。しかも、今日、世の中の研究者は、この空の識語が空之巻にもともと書かれていたとして、それを疑わない。

まずはじめに言っておけば、――読者には意外のことかもしれぬが――この空の識語が武蔵のオリジナルかどうか、それが問題である。つまり、空之巻が武蔵の草稿にあったことは前提とするとしても、この識語部分は後人による加筆なのである。

それというのも、肥後系諸本にはあっても、筑前系諸本にはこれがないからである。もとより筑前系諸本の祖本たる吉田家本空之卷には、この識語を掲載しないのである。

 

▲ 細川家本 空之巻末尾 空識語あり(赤枠内)

 

▲ 楠家本 空之巻末尾 空識語あり(赤枠内)

 

▲ 吉田家本 空之巻末尾 空識語なし

 

 ご覧の通りで、この空の識語は、肥後系の細川家本や楠家本にはあって、筑前系の吉田家本には存在しない。しかも、それは吉田家本に限ったことではなく、他の筑前系諸本にも共通して、これはないのである。つまり、早川系の中山文庫本・大塚家本・伊丹家本、あるいは、立花=越後系の松井家本・赤見家本・渡辺家本・近藤家本・猿子家本その他、筑前系諸本には、空識語は存在しないのである。

ここまでの五輪書読解において、随所に見てきたところであるが、筑前系/肥後系を区分する指標的というべき相違事例は多かった。しかしながら、空之巻におけるこの空識語の有無は、云うならば、筑前系/肥後系を截然と区分する指標的相異の代表的なものである。

もとよりこのことは、従来の五輪書研究においてまさに看過されてきた重要点である。したがって、このページを読んではじめて知った人も多かろう。それもそのはずで、この件を明確に指摘したのは、まさに諸君がいま読みつつあるこの読解論攷が最初であったからだ。

この識語は、肥後系諸本にあって、筑前系諸本には存在しない。――では、そのことをどう考えるか。もともと空之卷にはこれがあったのに、筑前系諸本はそれを不注意にも脱落せしめたのか。

その可能性は、まずありえない。ご覧のように細川家本でも楠家本でも、この識語を大書している。空之卷にはじめからこれがあったなら、それが書き落とされるはずがないのである。

それに、吉田家本空之巻は、寺尾孫之丞段階の前期を示す文書である。すなわち、寺尾孫之丞は承応二年(1653)に柴任美矩に五輪書を伝授したのだが、その柴任美矩が、延宝八年(1680)に吉田実連へ相伝したのが、この吉田家本空之巻である。

これに対して、肥後系諸本には、楠家本や細川家本のように寺尾孫之丞の奥書記載のあるものがある。しかし、すでに地水火風四巻の内容を精査して判明したことだが、この両本とも、字句および誤記の特徴から、早期写本ではなく、伝写を繰り返した後の、後発性を示す写本である。しかも、その奥書は、相伝文書としての体裁をなしていない。いうならば、海賊版写本を編集して作成された様子が明らかである。楠家本や細川家本によって原型が推測されると見るのは、そもそもの前提が間違っている。

それを承知した上で、まず、問題をひとつ片付けておこう。

細川家本の奥書をみれば、寛文七年(1667)山本源介宛、楠家本奥書は、その翌年の寛文八年(1668)槇嶋甚介宛、という記事がある。これは時期としては、寺尾孫之丞後期である。寛文七、八年は、寺尾五十五、六歳、享年は六十歳である。

これに対し、吉田家本空之巻記載の相伝記事によれば、柴任美矩が寺尾孫之丞から五輪書を伝授されたのは、承応二年(1653)。細川家本や楠家本の奥書の時期よりも、十四~五年早い段階での相伝文書である。こうした前後関係からすれば、ことはおのづから明かであろう。
吉田家本 承応二年(1653)柴任美矩宛 ――識語なし
細川家本 寛文七年(1667)山本源介宛 ――識語あり
楠家本  寛文八年(1668)槇嶋甚介宛 ――識語あり

前のものにはなく、十四、五年後のものにはある。したがって、空之卷の識語は、後になって出てきたのである。

柴任は、延宝八年(1680)、播州明石の居宅で吉田実連に空之巻を授与した。それに対し、細川家本や楠家本は、いつだれが編集制作したものか不明、という由来不明の後世の編集物である。

ともあれ、承応二年(1653)に寺尾孫之丞から相伝されたものを、柴任美矩が写して吉田実連に与えたのが、吉田家本空之卷である。その吉田家本には、上記の識語はない。とすれば、承応二年に寺尾孫之丞が発給した五輪書には、識語がなかったのである。

それに対して、楠家本や細川家本の奥書によれば、それから十四、五年後の寛文七、八年の段階のことになる。この年月日を一応踏まえれば、この後期寺尾孫之丞は、空之卷末尾にこの識語を付記するようになったらしい、という推測が可能である。

ただし、それも、楠家本や細川家本がそれぞれの原本を忠実に写した写本だということが前提である。ところが、楠家本や細川家本は、その体裁をみれば明らかに知れることだが、そもそも相伝規式を知らぬ者による後世の編集物である。なるほど、その空之巻奥書は相伝文書の体をなさず、事情不通の門外者による記事である。もちろん、いつだれが写したものか不明である。

したがって、この二本にともにあるからといって、寛文年間に寺尾孫之丞が発給した空之巻に、この識語があったとはなしえないのである。それよりも、この二本以外の肥後系諸本にも共通してこの識語があることがポイントである。肥後系早期に、つまり、門外流出後間もなく、ある写本制作時に、この識語が発生したのである。

また、すでに各巻随所で確認したように、その誤記のありようからして、肥後系諸本は複数の先祖を有するものではなく、ある特定の元祖一本から派生増殖した写本群である。このことは、肥後系諸本がすべてこの空識語を記すという点とも合致する。すなわち、肥後系早期にこの空識語を書き込んだ写本が、その元祖一本に生じたのである。

これを要するに、すくなくとも、寺尾孫之丞の段階には、後にも先にも、この識語が存在しなかったということである。

もしこの空識語があったのなら、それは武蔵の空観要諦のごとき体裁のものであるから、上記の寺尾孫之丞の相伝証文にも言及があってしかるべきである。ところが、寺尾の相伝証文が引用言及しているのは、小倉武蔵碑の頭冠部に刻記されている「實相圓満逝去不絶」の遺偈なのである。ようするに、寺尾孫之丞は、肥後系諸本が記す空識語など、見たこともなかったのである。

ともあれ、吉田家本空之巻が教えるのは、武蔵死後八年の承応二年(1653)段階では、空之卷に問題の識語は存在しなかった、という事実である。とすれば、結論はどうなるか。すなわち、――この識語は、そもそも武蔵自身の五輪書草稿には存在しなかったのである。

これは五輪書研究において、きわめて重要なポイントである。それゆえ、これが従来の研究史において一貫して看過されてきたことは、まことに由々しき失態であった。

五輪書の通俗解説本は論外として、諸本校合したはずの研究書はどうか。そうした研究書でさえ、これをあっさり看過して、その解説にはこの件について自覚した言及が何もない、というありさまである。

それゆえ、世間では、武蔵が空之巻のこの識語を書いたという錯覚が訂正されえないのである。ただし、これは従来の研究者の責任であるというよりも、研究者たち自身が看過してきたのだから、事態はいかにも救いようがない。

これは肥後系写本しか知らないという悪弊の結果でしかない。五輪書のまともな研究は、我々の研究プロジェクト以前には存在しなかったとは、この五輪書読解サイトにおいて何度も指摘のあることだが、その極みは、まさにこの空之巻識語の問題認識にある。

したがってここで、後学研究者への啓蒙のためにも、この識語は武蔵自身の草稿にあったものではない点、ここでとくに注意を喚起しておく。そしてそれとともに、これを記載している肥後系諸本は、後に肥後で発生したある写本の末裔だということを確認しておくべきである。すなわち、この空識語の記載こそが、海賊版五輪書の標識なのである。


そのように、この空の識語が、武蔵が書込んだ語句ではなく、後世、何者かによって挿入された肥後ローカルな字句だ、という根本問題があるのを承知した上で、では、この識語を読んでみよう。これが武蔵草稿はむろんのこと、寺尾孫之丞段階の書込みですらないとしても、それはそれで、何者か後人の、空之卷の空意に対する応答を示すものだからである。

そこで、一応断わっておかねばならぬが、とり上げるのは、肥後系諸本に数多いこの識語のヴァージョンである。同じ肥後系でも、円明流系諸本では、右掲のごとく、誤写だけではなく、字句の増幅までみられる。いうならば、この識語は後々成長進化することもあったのである。

しかし、ここでは、それらを爾後の派生変形とみなして、基本形とみなしうるものをとり上げることにする。さて、その空の識語は、
《空は有善無悪である。智は有である、利は有である、道も有である。心は空である》
ということである。よりメリハリをつけて訳せば、「智は有にすぎず、利は有にすぎず、道も有にすぎない。しかし心こそ空なのである」というのが、その空の了解である。

これは諸本ほぼ同内容である。字句に相違があるのが、伝承のバラつきを示しているが、内容にはとくに問題はない。ただし、《利は有なり》とある「利」は、「理」という意である。「智」と「道」と、前後にあるところからすれば、概念上のレベルで整合性のあるのは「利」ではなく、「理」である。つまり、智恵も有、理も有、道も有、という話である。

また、「有善無悪」とは、善のあって悪なきことである。これは道徳的に読む必要はないし、また小乗律法風に解することではない。

空という真実には、善はあって悪なし、である。これを大乗的思考だと受取らねばならない。というのは、以下に、智・理・道のいづれも有だとするからである。有とは、有無の有、無に対する有、規定的な存在である。

これに対し、心〔しん〕は空だとする。心は、有無の差異を離れた空である。ここからすれば、智も理も道も存在しない。心は絶対の空である――と言えば、何か戦前の説教を思わせるのであるが、要するに、この《心者空也》、これもつまりは、
《心即仏》(心は即ち仏である)
とした禅家の頓悟原理のロジック――『六祖壇経』*には慧可が般若波羅密を説いたとある――その脱宗教版である。すなわち、形式は相同で内容がシフトされ、迷いの心はあるが、心は本来空なりとするのである。衆生仏性、これが大乗の論理である。

さて、明敏なる読み手ならすでに気づいているように、この識語――《空有善無悪、智者有也、利〔理〕者有也、道者有也、心者空也》――は、およそ武蔵的ではない文言である。おそらく、門外流出後のある段階で、何者かが、禅僧にでも委嘱して作文させて、ここに編入したものである。

しかし、なぜそのようなことをする必要があったのか。――もちろん、そこには、この空之巻が序文だけで終っているという特殊な事情があった。

寺尾孫之丞は五輪書を相伝ツールとし、その門流は寺尾孫之丞以下の相伝証文を付してこれを伝承した。相伝証文を付すのは、寺尾孫之丞以来の方式で、それはそもそも、空之巻が序文のみで終っていることから生じたことである。武蔵が残した空之巻の空白を、各自埋めてみよというのが、その趣旨である。

これに対し、寺尾孫之丞の門流ではない求馬助系統では、海賊版五輪書しかなく、もとより孫之丞以下の相伝証文はない。むしろ、肥後系早期に、孫之丞の宛名もその相伝証文も抹消してしまった。

しかるに、序文のみでは不足感が残るのは誰しも同じであって、寺尾孫之丞の相伝証文を抹殺してしまった裸の状態では何ともおさまりがつかない。そこで、体裁を整えるために、禅家流の識語をここに挿入したのである。

この空之巻に、空の意味を示すもっともらしい識語を付加すれば、それで、見かけは完結した体裁になる。ようするに、非正規の海賊版しかもたぬというネガティヴな条件を、一発逆転しようとしたのが、この空の識語を付すという工作であった。

改めて云えば、これは門外流出後の作為である。非正規の海賊版しかもたぬというネガティヴな条件の下で、ある意味で、必要にかられてなされた改竄とみえる。ただし、それでも、その識語がおよそ武蔵的ではない、まるで禅坊主臭い、というところに、その作為の馬脚が露呈しているのである。言い換えれば、この識語の存在そのものが、自身の海賊版たることの旗印を大きく掲げているに等しいのである。

蛇足とは本来存在しないもののことである。それゆえ、肥後系諸本のこの識語は、蛇足以外の何ものでもない。しかるに、世の中の五輪書翻刻本は、その蛇足たることに気づかず、これを堂々掲示して憚らない。

さて、我々が投じたこの啓蒙の一石の効果が、世間に行き渡るのはいつであろうか。それも興味深いことだと、我々はその後の成り行きを見守っているのである。

 


(4)正保二年五月十二日

本書の奥書、年月日・記名・宛名の記事である。諸本まちまちであるが、

   (日付) 正保二年五月十二日

   (記名) 新免武蔵玄信 [在判]

   (宛名) 寺尾孫之丞殿
と記すもののごとくである。つまり、正保二年(1645)五月十二日に、新免武蔵玄信が、寺尾孫之丞に本書を伝授したというかたちである。

武蔵の死亡日は、同年五月十九日なので、この日付は武蔵死去の七日前ということである。

武蔵伝記の『丹治峯均筆記』や『武公伝』などにも、この五月十二日に武蔵が寺尾孫之丞へ五巻の兵書を相伝したした事蹟を記す。しかし、これら武蔵伝記の記事が、五輪書の年月日を傍証するのではない。逆である。五輪書の奥書にあるこの年月日によって、後世の武蔵伝記の筆者がそのように書いたのである。

したがって、五輪書の諸写本にある年月日・記名・宛名が、この日、本書を武蔵が寺尾孫之丞へ授与したという事蹟の証拠記録なのである。

しかし問題は、肝心なこの記録の体裁が、諸本まちまち、相異がかなりあることである。

筑前系諸本は、寺尾孫之丞から柴任美矩へ伝えた系統のもので、しかも以後代々相伝し来たったので、もっとも体裁が整っている。つまり、年月日・記名・宛名が記されている。

ただし、吉田家本についていえば、風之巻までの各巻は、記名が「新免武蔵守玄信」であるが、柴任美矩が書いた空之巻は、「新免武蔵玄信」と記し、「守」字を落としている。後の写本である中山文庫本も、あるいは越後の松井家本他も同じく、この「守」字のない「新免武蔵玄信」という名を記している。したがって、この空之巻にかぎって、柴任美矩が「守」字のない「新免武蔵玄信」と記したのを、正確に伝えているのである。

柴任が空之巻に「守」字のない「新免武蔵玄信」を記したのは、おそらく、寺尾孫之丞から伝授された空之巻には、そう記されていたからであろう。寺尾が空之巻で「守」字を落としたのには、格別の理由があるわけではなく、おそらく偶発的なものであろう。

柴任美矩が承けた五輪書には、空之巻以外の各巻は「新免武蔵守玄信」、空之巻には「新免武蔵玄信」とあったのである。筑前系五輪書には、それ以外に、相異はない。

これに対し、肥後系諸本では、この奥書の年月日・記名・宛名の記事の体裁がさまざまに異なっている。

 

 


【吉田家本】

正保二年五月十二日  新免武藏玄信
  在判

 寺尾孫丞殿

 *以下に寺尾孫之丞相伝証文あり

【中山文庫本】

 新免武藏 玄信
正保二年五月十二日  在判
 

寺尾孫之允殿

 *以下に寺尾孫之丞相伝証文あり

【松井家本】

正保二年五月十二日  新免武藏玄信
  在判

 寺尾孫之亟殿

 *以下に寺尾孫之丞相伝証文あり

【楠家本】

(年月日なし)
 新免武藏守玄信

 (宛名なし)

 *以下に寺尾孫之丞相伝証文あり

【細川家本】

正保二年五月十二日  新免武藏

 寺尾孫丞殿


 *寺尾孫之丞相伝証文なし

【丸岡家本】

 正保二年五月 新免武藏
 玄信識

(宛名なし)

 *寺尾孫之丞相伝証文なし

【富永家本】

正保二年五月十二日
 新免武藏守玄信
在判

(宛名なし)

 *寺尾孫之丞相伝証文なし

【狩野文庫本】

 新免武藏守玄信
正保二年五月十二日在判

寺尾孫亟殿
古橋惣左衛門殿

 *両者の相伝証文ともになし

【稼堂文庫本】

正保二年五月十二日
 新免武藏守藤原朝臣
  玄信
  在判
(宛名なし)

 *相伝証文あり。ただし求馬助名

 

 改めて肥後系写本を順次見ておけば、まず楠家本には、年月日の記載もなければ、「寺尾孫之丞殿」という宛名もない。相伝文書としての体裁を欠いている。

楠家本は、そのように年月日、寺孫之丞宛名の二つとも記載がないのだが、その後に寺尾孫之丞の相伝証文を記載する。これは筑前系諸本の相伝文書と照合するに、かなり内容に偏差がある。後人の手になるものとみえる。しかも、寺尾孫之丞の証文なのに、「新免武蔵守玄信」と記名し連名のかたちである。これは、おそらく、「新免武蔵守玄信門人」とでもあったのを、脱字誤写したものか。何れにしても相伝文書の体をなさず、槇嶋甚介宛の奥書とともに、事情不通の後世の門外者による編集物である。しかも寺尾の印判を模すところが、笑止な作為である。

次に細川家本では、年月日・宛名ともあるが、記名が「新免武蔵」とのみあって、諱の「玄信」を落している。あるいは、相伝文書なら「在判」とあるべきだが、それも記さない。しかも、細川家本には、つづいて寺尾孫之丞名の山本源介宛名、その年月日の記載があるが、そもそも肝心の寺尾孫之丞の相伝証文を欠く。これまた、体裁上の不備があらわである。寺尾の名に花押を模写するところも、相伝文書にはあらざる格好、門外者がそれらしく体裁を作ったというところである。

丸岡家本は、期日記載が「正保二年五月」とのみあって、「十二日」という日を落としている。また、「寺尾孫之丞殿」という宛名も記載しない。そして、新免武蔵玄信の記名はあるが、そこに「識」という文字を入れている。これは相伝文書ではありえないことで、いかにも門外者の書きそうな体裁である。同系統の田村家本も同様のかたちだが、こちらはわざわざ朱印二顆を模写して付加している。これも相伝文書の形式にはない作為である。

以上の肥後系諸本は、何れも相伝書としての体裁を欠く。とくに楠家本は槇嶋甚介へ、細川家本は山本源介へ、それぞれ寺尾孫之丞が伝授したかたちの写本であるが、このように相伝書としての体裁を欠くところを見ると、上述のように、奥書そのものが後世の編集物であって、しかも門外者による捏造文書のかたちである。

他方、肥後系で早期に派生した系統の末裔たる富永家本は、奥書の体裁は筑前系諸本のそれに最も近い。これが肥後系早期形態の痕跡であろう。ところが、それでも、相伝証文を欠くうえ、「寺尾孫之丞殿」という肝心の宛名を落としている。

その反面、後の写本ではこの奥書に文字の増補もあった。円明流系統では、狩野文庫本は、年月日・宛名ともにあるが、その宛名を寺尾孫之丞と古橋惣左衛門の連名とする。これは、本来ありえない記事で、古橋系の末裔が書き入れたものである。

そして、稼堂文庫本では、記名がご丁寧にも「新免武蔵守藤原朝臣玄信」である。このように「藤原朝臣」という文字を入れるのは、龍野円明流の多田家本と同じである。多田家本とは空識語も同じである。稼堂文庫本が円明流系統の写本を参照している証拠である。

また、稼堂文庫本では、多田家本と同様に、ここには「寺尾孫之丞殿」という宛名がない。代りに、楠家本と同様の相伝証文が付されているが、写し崩れが大きいだけではなく、その名は「寺尾孫之丞」ではなく、何と「寺尾求馬助信行」なのである。

これは、肥後では後に、武蔵から相伝を受けた正統は、求馬助唯一人という主張が生じたという事情を勘案しなければならない。そこから、稼堂文庫本が依拠した写本では、「寺尾孫之丞」を誤記として、求馬助名に差し替えたのである。もとより求馬助門流の後人の仕業であろう。後世の改竄だとしても、肥後系写本はここまで変異するという事例である。

以上のように肥後系諸本は、奥書の記載がまちまちである。寺尾孫之丞が、そんなバラバラの様式で五輪書を伝授するわけはないから、現存肥後系諸本はそれぞれ、祖型から遠く離れ、かなり崩れた形式しか伝えていないのがわかる。

相伝文書としての体裁がかくも崩れるということは、肥後系諸本が、寺尾孫之丞の道統から離れたところで伝写されて行った、その過程の産物だからである。言い換えれば、肥後系諸本は、五輪書の相伝とは無縁なところで発生した海賊版写本の末裔なのである。

これに対し、筑前系諸本は、寺尾孫之丞段階の体裁を保ち伝えた。というのも、五輪書が師から弟子へ相伝されて行ったからである。相伝証文は、代を重ねるごとに順次増えていった。道統が生きていた証拠である。

以上を整理して、肥後系諸本における空之巻奥書の特徴をまとめておけば、以下の如くであろう。

 

  武蔵記名 年月日 宛 名 孫之丞相伝証文
 楠家本 新免武蔵守玄信 (なし) (なし) 記載あり
 細川本 新免武蔵 正保二年五月十二日 寺尾孫丞殿 (なし)
 丸岡本 新免武蔵玄信識 正保二年五月 (なし) (なし)
 田村家本 新免武蔵守
  藤原玄信識
正保二年五月 (なし) (なし)
 富永家本 新免武蔵守玄信在判 正保二年五月十二日 (なし) (なし)
 狩野文庫本 新免武蔵守玄信在判 正保二年五月十二日 寺尾孫丞殿
古橋惣左衛門殿
(なし)
 多田家本 新免武蔵守藤原朝臣
     玄信在判
(なし) (なし) (なし)
 稼堂文庫本 新免武蔵守藤原朝臣
     玄信在判
正保二年五月十二日 (なし) 記載あり ただし
寺尾求馬助信行名

 

 こうしてみると、寺尾孫之丞相伝証文の有無以外にも、肥後系諸本の空之巻奥書には、かなりのバラつきがみられる。

武蔵記名にしても、新免武蔵(守)玄信が、細川家本のように諱「玄信」を落したり、丸岡家本や田村家本のように「識」字を付加したり、あるいは田村家本では、空之巻以外の四巻には「藤原」玄信と記す。さらには、多田家本や稼堂文庫本のように、「藤原朝臣」とまで入れるものがある。

年月日の項目には、記載しないものがあり、それを記載しても、丸岡家本や田村家本のように、「十二日」という日の記載を欠くものがある。寺尾孫之丞という宛名にしても、記載しないものが多い。

そこで我々が注目するのは、この宛名を記すケースの方が、むしろ少ないという事実である。上掲八本のうちでは、細川家本と狩野文庫本だけが宛名を記載する。

しかも、狩野文庫本には、寺尾孫之丞だけではなく「古橋惣左衛門」の名が連名で記されている。というのも、この一本は、我等は古橋の手筋だという流派の作成物なのである。つまり、特殊な事情のある十八世紀後期の作為文書である。

それゆえ、こうした古橋系を主張する狩野文庫本を除けば、早期派生系統の子孫たる富永家本や円明流系諸本には、基本的には寺尾孫之丞の名を記さないのである。ということは、肥後系早期写本の段階では、まず、寺尾孫之丞の宛名を消した空之巻が発生していたのである。

云うまでもなく、これは不注意による脱落ではない。党派的な工作措置であり、求馬助系統の仕業である。この系統では、流祖・寺尾求馬助が武蔵正統だと主張するようになっていた。「寺尾孫之丞」という宛名が残っていては、具合が悪いのである。

したがって、肥後系諸本に寺尾孫之丞という肝心の宛名の欠落があるのは、求馬助系統が肥後武蔵流の主流になったあたりで、宛名の抹消があったためである。そして寺尾孫之丞という名とは無縁なところで、五輪書が伝写されて流通するようになったのである。

そのように肥後系早期において、上述のように、空の識語を入れるとともに、この寺尾孫之丞の宛名を消した。上記の空の識語の書込みと寺尾孫之丞の名の抹消とは、おそらく同じ措置の両面だったのである。

とすれば、細川家本に、寺尾孫之丞の名を付すのは、いかなる仕儀か。

それは、細川家本と相対的近縁関係にある楠家本や丸岡家本を見ればわかる。丸岡家本には、宛名はない。そして楠家本にもそれがない。ということは、肥後系のある段階までは、――すくなくとも、楠家本の祖本が細川家本の祖本と派生分岐する以前には、「寺尾孫丞殿」という宛名はなかった。

言い換えれば、寺尾孫之丞の宛名をもつ写本が発生したのは、まさに細川家本系統のみという例外的な事態だったのである。細川家本と同系統の常武堂本は、同じく「寺尾孫丞殿」と宛名を記す。つまり、細川家本・常武堂本の祖本の段階で、宛名が発生したのである。

上述のように、早期派生系統の子孫たる富永家本や円明流系諸本には、基本的に寺尾孫之丞の名を記さない。しかも、細川家本と比較的近縁関係にある丸岡家本系統も、宛名を記載しない。つまり、すくなくとも丸岡家本が分岐する時点までは、肥後系写本には宛名がなかったのである。

ようするに、肥後系諸本に関するかぎり、寺尾孫之丞の宛名があるのは、古型ではなく、むしろ逆に、新型の写本たる標識である。そこで、楠家本と細川家本、この近縁関係にある両本の奥書の検分である。

楠家本空之巻には、寺尾孫之丞の宛名はない。寺尾孫之丞の相伝証文を付すが、それも「新免武藏守玄信」の名が証文の後に再出するなど、混乱した様式で相伝文書の体をなしていない。これは事情不通の者が、古式を模して復元しようとしたようだが、一目で後世の捏造と知れる代物である。

ようするに、寺尾孫之丞の相伝証文だという文書と、槇嶋甚介が寛文八年何月何日に寺尾孫之丞から相伝したという伝承、この二つがあれば、この文書を拵えあげることができる。ただし楠家本は、「寛文八年五月日」と書いていて、五月の何日か記さない。どうやら、寛文八年五月とまでは聞いていたが、発給日までは知らなかったようである。

つまり、楠家本は、空之巻に寺尾孫之丞の宛名がない点では、肥後系の古型をとどめているが、相伝証文以下は、後に編集されて付加されたものである。

また、細川家本に至っては、さらに不備な体裁の文書である。寺尾孫之丞相伝証文すらもたないからである。そのうえ、肝心の武蔵の記名には「玄信」という諱さえ忘れている。この種の文書は、山本源介が寛文七年何月何日に寺尾孫之丞から相伝したという言い伝えがあれば、それだけで作成できる体裁の文書である。

しかも、肥後系諸本に共通する体裁からすれば、「寺尾孫丞殿」という宛名が後発写本の標識である。武蔵記名に「玄信」という諱を落としてしまったが、代りに「寺尾孫丞殿」という宛名が増補されたのである。

この両本は、門流内外という次元の仕業ではなく、需要があって制作された模擬文書の類いである。必ずしも肥後武蔵流の文書ではない。もっともらしく体裁を作っているが、相伝フォーマットに無知な者が制作したのが、たちどころにバレるような文書の体裁である。

ともあれ、楠家本や細川家本が、寺尾孫之丞門人への相伝を示す奥書を有するからといって、それを頭から信じてしまう者が、研究者の中にはいまだに多いのだが、肥後系諸本の系統派生と五輪書相伝事情に無知だという点では、これを制作編集した者と大差はないのである。


話は元へもどって、――では、武蔵のオリジナルはどうであったか。

武蔵は、兵書五巻を完成させて、寺尾孫之丞に伝授したのではない。というのも、武蔵は死を前にして、本書を草稿のまま、寺尾孫之丞に託したからである。

これは、後のような五輪書相伝というかたちではない。そもそも五輪書は完成していなかったのだから、これが相伝という形式をとったわけがない。寺尾孫之丞は「相伝」と書いているが、武蔵は死期に臨んで、寺尾にこれを「授けた」ということである。いわばそれは、太刀や書画を遺品として贈与したのと変わりがない。

武蔵には、他流のように門人に与えた相伝証書がない。もし武蔵が相伝証書を発行していたら、その痕跡くらいはありそうなものなのだが、それが存在しない。武蔵には、独特な考えがあって、他流の如くそんな証書を発行しなかったのである。

風之巻の「奥表」の事で述べられていたように、入門誓詞すら取らなかった武蔵である。奥も口もない武蔵流には、入門も卒業もなかった。それゆえ、特定の門人に与えた一流相伝証書も存在しないのである。

草稿の五輪書が寺尾孫之丞に託されたが、それは一流相伝を証する文書としてではない。というのも、五巻のうち、最終的な内容の空之巻について、――寺尾孫之丞自身の言によれば、――その所存をあらわさなかった、つまり具体的な内容までは書き残さなかった。上述の如く、空之巻は序文のみで頓挫した一巻なのである。

そういう未完成の文書が相伝書となることはない。ということは、寺尾孫之丞は、五巻の書を授けられたが、相伝をうけた者ではなかったのである。

五輪書を相伝したというのなら、空之巻の意味を伝授されてはじめて、相伝者と云えるものである。しかし寺尾孫之丞が証言するように、空之巻の本文条々は書き著されなかった。したがって、寺尾孫之丞でさえ、空之巻に何が書かれようとしたか、その具体的な内容はわからないのである。空之巻に関して寺尾が受け取ったのは、序文のみの、残りは書かれざるその空白であった。この点は、書誌学的にも明確に認識すべき急所である。

もとより、他の四巻の内容を見るに、これは初心者まで読者に想定した兵法教本であって、特定の者に伝授した奥義書の類いではない。この兵書五巻は、武蔵の種々の遺品の一つとして、寺尾孫之丞に贈与されたにすぎない。

しかも、それは草稿であった。この五巻の書が、武蔵著述の段階で、五巻それぞれが独立した巻物の体裁をとったか、どうかも不明である。むしろ、截紙のような紙片もあっただろう。これを書巻の体裁に整理編纂したのは、寺尾孫之丞である。

したがって、五巻すべてに奥書を付し、年月日・武蔵記名・判形・宛名があったとは想定できない。おそらく、空之巻にのみ、奥書記載があったのであろう。重病の武蔵は、ようやく印判を押すのみであったろうが、そのようにして、この草稿を自らの遺品として寺尾孫之丞に与えた。

しかし、寺尾孫之丞は、この武蔵遺品たる兵法教本を、別の意味で、そのままにはしておかなかった。いわば、大きな付加価値を生み出したのである。つまり、この兵書五巻を、一流相伝のツールに化けさせたのである。

それは、具体的に云えばどういうことであったか。

寺尾孫之丞の工夫は、第五巻・空之巻の扱いにあった。武蔵は、空之巻を序文のみ書き置いて、死んでしまった。武蔵の身近に隨仕していた寺尾孫之丞でさえも、その内容について、武蔵から口頭でも何も聞いてはいなかった。むしろ、武蔵は、誰にも空之巻の中身を明かさず、それを空白のまま残して死んだ。

寺尾孫之丞は、生真面目な人らしく、それを宿題として受け取った。そして、この課題を工夫して、柴任美矩ら門人に一流相伝のときは、武蔵の空之巻に、自身の空観、空意を付するようにした。それが相伝証文に明記するものとなって、相伝門人らにも、同様にして伝えよと言い置いた。

これはいわば、宿題の相続である。師たる者は、一流相伝にあたって、門人に自身の空意を明示しなければならぬ。以心伝心ではない。言語表現において喝破しなければならない。それによって、師としての知的な容量も露呈する。

こういう相伝方式を、寺尾孫之丞は開発した。かくして、寺尾孫之丞の門流は、武蔵の空之巻を宿題として、その空の意味を自身で工夫し、それを解いた答えを発明するという条件が課された。それゆえ本書五巻の内、空之巻は格別のものとなったのである。

武蔵はだれにも相伝証書の類を与えなかったが、寺尾孫之丞は、相伝証文を発行するようになった。ただし、他流の相伝方式と違って、それは独立した一巻の証書ではない。寺尾孫之丞の相伝証文は、武蔵の序文に続いて記す文章である。

かくして、後に以下代々空意を記す相伝証文が列記されてみれば、武蔵の序文は、あたかも以下の相伝証文群を先導し牽引する機関車のごとくである。

これはきわめてユニークな相伝文書のスタイルである。この方式を発明開発した功績は、いうまでもなく寺尾孫之丞に帰すべきものである。


言うならば、空之巻に相伝証文を列記しない五輪書は、すべて、門外に流出して派生した海賊版なのである。現存写本の体裁を通覧するかぎりにおいて、肥後系諸本はその種の非正規の海賊版が伝写を重ねたものである。

どうして、肥後系諸本にはそういう非正規版しか存在しないのか。――それは、肥後では、この寺尾孫之丞の門流が衰微し、寺尾求馬助系統が主流になったからである。

寺尾孫之丞の相伝門人は肥後に少なからず存在したが、筑前系諸本を除けば、その門人たちが自身の弟子に相伝した五輪書というものを、写本ですら我々はまだ見ない。たとえば、筑前系で云えば、三代柴任美矩が四代吉田実連に相伝した世代のものである。いわんや、寺尾孫之丞の孫弟子がその弟子に伝えたという四代→五代の段階のものもない。

これは、筑前の相伝事情と対照すれば、いささか異常な事態である。寺尾孫之丞の門流が衰微したというだけではない、何か特殊な事情があったようである。それが、たとえば孫之丞系統の駆除という事態まで及んでいたのかもしれない。

既述の『兵法二天一流相伝記』の志方之経は、求馬助系統の主流だったが、求馬助のことは語っても、肝心の孫之丞のことは一言も触れないのである。むしろ、求馬助を唯一相伝者とするのである。孫之丞という存在のこうした抹消には、いささか意図的な作為を覚える。それゆえにこそ余計に、今後、肥後の孫之丞系統の門人が発行した五輪書が発掘されるかもしれぬ、という可能性に期待する他はない。

他方、寺尾求馬助の門流は、五輪書に関して最初から難題をかかえていた。求馬助は、むろん、兄の孫之丞から五輪書を相伝されてはいない。五輪書に関するかぎり、肥後は、正統性を有しない流派が主流になったのである。

したがって、肥後系諸本には、体裁の整わぬ非正規版しか存在しないわけである。肥後系早期の段階で、寺尾孫之丞という宛名を抹消し、その存在を抹殺する作為もあった。

現存写本のうち、上述のように、楠家本と細川家本の二本は、寺尾孫之丞が門人に与えた体裁をとるものである。だが、それにしても、既述のように形式に不備があり、相伝文書としての体裁の崩れが大きい。というよりも、後世のある時期、古式を模して編集されて出来た、二次的産品なのである。現存肥後系写本をもって、「これが武蔵の五輪書だ」と言えないのは、そのためである。

かたや、そんな肥後系に対してアドヴァンテージを有する筑前系諸本にしても、柴任美矩による吉田家本の空之巻(延宝八年・1680)が史料上限である。吉田家本の地水火風四巻は、十八世紀中期あたりの写本である。柴任が吉田実連に与えた他の四巻は、まだ発見されていない。

また、筑前系諸本は、代々相伝証文を有する確かなものであり、寺尾孫之丞前期の姿を伝える貴重な資料であるが、五輪書そのものは後世の写本である。写し崩れが比較的少ないとはいえ、武蔵のオリジナル草稿に肉薄しうるだけの、これ、という決定版はない。

五輪書諸写本に関する我々の所見は、当面、以上のようなことである。近年我々が地元関係者の協力を得て発掘して回った越後系諸本も含めて、世の中には五輪書は数多い。ただ、我々の見るところ、まだまだ史料不足である。したがって、五輪書研究のリミットを痛感するのである。

しかし、そのうち、寺尾孫之丞が門人に伝授した五輪書が、どこかで出現するかもしれない。そうなると、また新しい研究の地平が開ける可能性がある。そんな未見の五輪書発掘に期待する、――というのが、現在の五輪書研究の、将来の希望とするところである。