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五輪書 風之巻 全文(原文・現代語訳・註解)

他の流派の事をよく知らずしては、自らの理解は成りがたい。武蔵流兵法がいかに他と違うか、それを知るためには、世間の兵法がどんなものか知るべきである。この風之巻は、一言にしていえば稀有な他流批判である。

1 風之巻前文 (兵法、他流の道を知る事)

2 他流批判1・大太刀の流儀 (他流に大なる太刀を持つ事)

3 他流批判2・強力の太刀 (他流におゐてつよみの太刀と云事)

4 他流批判3・小太刀の流儀 (他流に短き太刀を用ゆる事)

5 他流批判4・太刀数が多い (他流に太刀かず多き事)

6 他流批判5・太刀の搆え (他流に太刀の搆を用ゆる事)

7 他流批判6・目付けのこと (他流に目付と云ふ事)

8 他流批判7・足づかいのこと (他流に足つかひ有る事)

9 他流批判8・早いはよいか (他の兵法に早きを用ゆる事)

10 他流批判9・奥と表 (他流に奥表と云ふ事)

11 風之巻 後書

 

1 風之巻前文 (兵法、他流の道を知る事)

【原文】

 
兵法、他流の道を知る事。
他の兵法の流々を書付、
風之巻として、此巻に顕す所也。
他流の道をしらずしてハ、
一流の道、慥にわきまへがたし。(1)
他の兵法を尋見るに、
大きなる太刀をとつて、強き事を専にして、
其わざをなすながれも有。
或は小太刀といひて、みじかき太刀をもつて、
道を勤むるながれも有。
或ハ、太刀かずおほくたくみ、太刀の搆を以て、
表といひ奥として、道を傳ふる流も有。
これミな實の道にあらざる事也。
此巻の奥(内*)に慥に書顕し、
善悪利非をしらする也。
我一流の道理、各別の儀也。
他の流々、藝にわたつて身すぎのためにして、
色をかざり、花をさかせ、うり物に
こしらへたるによつて、實の道にあらざる事か。
又、世の中の兵法、劔術ばかりに
ちいさく見立、太刀を振ならひ、
身をきかせて、手のかるゝ所をもつて、
勝事をわきまへたる物か。
いづれもたしかなる道にあらず。
他流の不足なる所、一々此書に書顕す也。
能々吟味して、二刀一流の利を
わきまゆべきもの也。(2) 

 

 

【現代語訳】

 

 兵法、他流の道を知る事

他の兵法の諸流派(のこと)を書きとめ、風之巻として、この巻にあらわすところである。

他流派の道〔方法〕を知らずしては、我が流派の道〔方法〕をたしかに弁えることはできない。

他(流)の兵法を尋ねて見てみると、大きな太刀を取って、強きことを専〔第一〕にして、その業をなす流派もある。あるいは、小太刀といって、短い太刀をもって修行する流派もある。あるいは、太刀数を多く案出して、太刀の搆えをもって、「表」といい「奥」として、道〔流儀〕を伝える流派もある。

これらはすべて、真実の道にあらざることである。

(それを)この巻のなかに明確に書きあらわし、(諸流派の)善悪理非を教えよう。我が流派の道理は、(それらとは)まったく違うのである。

他の諸流派は、武芸で世渡りし身すぎ〔生計〕のためにして、見た目を飾り、派手にして、売物にこしらえたものであるから、真実の道ではありえないことか。また、世の中の兵法は、剣術のみに小さく見立て、太刀を振り習い、身体をうまく動かし、手を駆使するところをもって、勝つ事をわきまえたものか。

いづれにしても(それらは)たしかな(間違いのない)道ではない。

(そのような)他流派の短所を、一つひとつ(挙げて)この書に書きあらわすのである。よくよく吟味して、(我が)二刀一流の利〔長所〕をわきまえるべきである。

 

 

【註解】

 

 (1)他流の道をしらずしては、一流の道慥わきまへがたし

この巻は、全体が、一言でいえば他流批判である。

前の火之巻後書において、すでに批判は開始されていた。そこでは文の終りが唐突であり、また、この風之巻冒頭に、《兵法、他流の道を知る事》とあって、他の条々では見出しと同じようであって、これまでの各巻の冒頭とは書き出しが異なる。おそらく、この前後、完成稿ではなかったと見なしうるのである。

さて、風之巻は全体が他流批判である。しかしながら、こういう他流批判を掲載する兵法書というのも、珍しいことである。日頃、口では批判をしていながら、その言を書巻にして文字にすることは例が少なかろう。他流批判をするなという流派もある。それだけ、五輪書という書物が特異な性格を有しているということである。すでに述べたように、五輪書には状況批判がたっぷり含まれている。

なぜ、そんな他流批判は必要なのか。「他流の道を知る事」というこの節は、それを説明して、他流派のやり方を知らずしては、我が流派のやり方を確かにわきまえることはできない、とするのである。

言うならば、他者との差異を知ってはじめて、自身が知れるのである。自身を知るための批判である。これは他者を反面教師として自身を知ることである。

もう一つ言えば、こうした批判は、批判のための批判ではなく、初心者のための便宜である。武蔵流が他とどう違うのか、それを教えて修学の手引きとする、ということである。

しかしながら、こうしたことを越境して、武蔵の他流批判は、おのづから状況批判になってしまうもののようである。

――――――――――――


ここで、校異の問題に関して指摘すべきところがある。すなわちそれは、筑前系諸本に、
《他流の道をしらずしてハ、一流の道慥わきまへがたし》
として、《一流》と記すところ、肥後系諸本には、たいてい、これを《我一流》として、「我」字を入れる。つまり、「我」字の有無という相違である。

ただしこの「我」字については、肥後系諸本すべてがこれを付すわけではない。富永家本には、「我」字を付けず、《一流》とする。富永家本は、肥後系の中でも早期に派生した系統の子孫である。したがって、肥後系でも早期には、《我一流》ではなく、《一流》と記した可能性がある。

この校異については、筑前系諸本に共通して、「我」字を付さないのであるから、これまでの前例と同じく、筑前系諸本の字句を古型として採るべきである。

また、《我一流》という語句は、後文に登場する。《我一流の道理、各別の儀也》とするところである。おそらく、それとの整合で、ここに「我」字を入れたものらしい。何れにしても、肥後系でも早期には存在せず、後に発生した肥後ローカルの異変である。肥後系現存写本の多くは、この操作以後の写本の子孫である。

したがって、我々のテクストでは、「我」字を付さず、これを《一流》としている。しかるに、《一流》という語の現代語訳には、便宜上「我が流派」とするのである。  

【諸流派兵法家一覧】

以下に、武蔵所論の時代的背景として、諸流諸祖はじめ兵法に関連する人物の一覧を掲げる。ただし、各人ほとんど事蹟不明の者が多い。よって記事は確かなものではないが、いちおうの目安と心得、参考にされたい。

 

名  前 生国 生没年 事   蹟
 念阿弥慈恩
  俗名相馬四郎義元
 奥州相馬(1351~?)  念流祖。鞍馬山の異人から、鎌倉寿福寺の神僧から
 剣の秘術を授かったという伝説的人物
 飯篠長威斎家直  下総(1387~1488?)  香取神道流祖。鹿島七流中興の祖
 愛州移香斎久忠  伊勢(1452~1538)  陰流祖。日向鵜戸岩屋で神猿より伝授
 松本備前守政信  常陸(1467~1523)  鹿島(神陰)流祖。飯篠長威斎門下
 塚原卜伝 新右衛門高幹  常陸(1490~1571)  新当流祖。飯篠長威斎弟子塚原安幹養子
 山本勘助貞幸 道鬼  三河(1493?~1561)  京流。鈴木流軍学。『軍法兵法記』他著述
 竹内中務大夫久盛  美作(1503~1596)  竹内流祖。神人伝授。多種目の総合武芸
 上泉伊勢守秀綱
  のち武蔵守信綱
 上野(1508?~1577)  新陰流祖。鹿島神陰流・陰流を学ぶ。柳生
 新陰流、疋田流、神影流、タイ捨流等派生
 富田勢源 五郎左衛門  越前(1520?~1590?)  富田流祖。中條流を学ぶ。小太刀の名人
 川崎鑰之助時盛  越前(?~1555)  東軍流祖。富田勢源、叡山東軍僧正から伝授
 吉岡憲法直元
   憲法直光(直元弟)
 京都(不 明)  京流。新当流末流とも。足利将軍師範。兵法所
 宮本武蔵の相手・吉岡兄弟は直光の孫か
 宝蔵院胤栄 覚善房  大和(1521~1607)  宝蔵院流槍術祖。上泉秀綱より新陰流印可
 柳生石舟斎宗厳  大和(1529~1606)  柳生新陰流祖。新当流・中條流を学ぶ。
 上泉秀綱から新陰流印可。
 疋田豊五郎景兼  加賀(1536?~1605)  疋田流祖。上泉秀綱から新陰流印可
 奥山休賀斎公重  三河(1526~1602)  神影流祖。上泉秀綱から新陰流印可
 北畠三位具教  伊勢(1528~1576)  塚原ト伝から一太刀伝授。伊勢国司、中納言
 丸目蔵人佐長恵  肥後(1540~1629)  タイ捨流祖。上泉秀綱から新陰流印可
 林崎甚助重信  相模(1548~?)  神夢想林崎流祖。抜刀術創始者
 田宮対馬守重正  関東(不 明)  田宮流祖。林崎甚助に学ぶ。居合術開祖
 樋口又七郎定次  上野(1550?~?)  馬庭念流祖。念流中興の祖
 鐘捲自斎道家  遠江(不 明)  鐘捲流祖。富田勢源弟景政門下。中太刀
 伊藤一刀斎景久  不明(1560?~1653?)  一刀流祖。伝不明。鐘捲自斎に学ぶとも。
 門弟小野忠明以下一刀流隆盛
 東郷肥前守重位  薩摩(1562~1643)  示現流祖。タイ捨流、自顕流印可
 富田越後守重政  加賀(1564~1625)  富田流。富田勢源弟景政養子。名人越後
 小野次郎右衛門忠明
   神子上典膳
 上総(1565~1628)  一刀流。伊藤一刀斎門人。将軍秀忠師範
 小笠原源信斎長治  三河(1570~?)  真新陰流祖。奥山休賀斎印可。門下三千人
 柳生但馬守宗矩  大和(1571~1646)  江戸柳生新陰流祖。石舟斎五男。家康に仕えて旗本
 将軍秀忠・家光師範。『兵法家伝書』他
 小幡勘兵衛景憲  甲斐(1572~1663)  甲州流軍学祖。『甲陽軍鑑』補撰。弟子二千人
 沢庵宗彭  但馬(1573~1645)  禅僧。東海寺開山。著述『不動智神妙録』『大阿記』
 片山伯耆守久安  美作(1575~1650)  片山伯耆流祖。京愛宕社で神人伝授。抜刀術
 林崎甚助門人。長太刀。竹内久盛弟ともいう
 柳生兵庫助利厳  大和(1579~1650)  尾張柳生新陰流祖。石舟斎孫。尾張徳川家師範
 新免武蔵守玄信  播磨(1584~1645)  通称宮本武蔵。新免無二の家を継ぐも無師独覚
 兵書五巻(五輪書)著述。書画作品あり
 高田又兵衛吉次  伊賀(1590~1661)  宝蔵院流高田派祖。宝蔵院胤栄弟子
 針ヶ谷夕雲 五郎右衛門  上野(1593~1662)  無住心剣流祖。小笠原玄信斎より真新陰流印可
 松林左馬助 蝙也斎  常陸(1593~1667)  願立(願流)祖。仙台伊達家師範。
 荒木又右衛門保知  伊賀(1598~1638?)  柳生新陰流。伊賀上野鍵屋辻決闘で有名
 柳生十兵衛三厳  大和(1607~1650)  但馬守宗矩嫡男。『月之抄』他著述
 川崎次郎太夫宗勝  武蔵(?~1671)  東軍流中興の祖。鑰之助四世孫
 北条安房守氏長  武蔵(1609~1670)  北条流軍学祖。甲州流軍学小幡景憲に学ぶ
 旗本。大目付。『士鑑用法』他著述
 山鹿素行 子敬
   甚五左衛門高興
 奥州会津(1622~1685)  山鹿流兵学祖。林羅山、甲州流軍学小幡景憲に学ぶ
 『聖教要録』『中朝事実』等著述多数
 小田切一雲 恕庵  奥州会津(1630~1706)  無住心剣流。針ヶ谷夕雲門人。『夕雲流剣術書』著述

 

 (2)我一流の道理、各別の儀也

他流にどんな流派があるのか。それを武蔵は、代表例としてまず三つにまとめている。すなわち、
・大きな太刀を取って、強きことを第一にして、その業をなす流派
・小太刀と云って、短い太刀をもって修行する流派
・太刀数を多く案出して、太刀の搆えをもって、「表」と云い「奥」と云って、道を伝える流派

何れも慥かなる道にあらず――として、武蔵はこれから、《他流の不足あるところ、一々此書に書顯すなり》とするわけである。ここで「不足」とは現代語の「不十分」というよりも、短所、欠陥、欠点のこと、平たく言えば、ダメなところという意である。

それを関西では、今日でも「アカン」というが、これはもとは「飽かぬ」ということ、つまり、飽き足りないという意味である。そこから、「アカン」、ダメだという語意になる。つまり、武蔵のいう「不足」も、それと同じで、「アカン」、ダメだという語意である。

さて、《他流の不足なる所》と云って武蔵が、不足、「アカン」としてダメ出しをするところ、それが具体的にどの流派を指すのか、それは名を出さずとも、当時の人間なら読めばすぐに解ったことであろう。

つまり、――武蔵の意向に反して、後世の読者たる利を活用して――具体的に名を挙げれば、第一の強い太刀の流派とは、鹿島・香取両社神人に発する神道流、塚原卜伝以来の新當流のそれであろうし、第二の小太刀の流派とは富田勢源の富田流、及びその流れを汲む諸流のことであろうし、あるいは第三の太刀数の多い流派とは上泉信綱に発する新陰流諸流を指しているであろうとは、一応は言える。

しかし、武蔵が後に記すように、特定流派を批判することが問題なのではない。むしろ、諸流派に内在するさまざまな偏向を批判することが、ここでの主眼である。特定流派というよりも、武蔵にとって是非とも批判しておかねばならない偏向であり、この三つの傾向は、当時のおそらく代表的なものであろう。

これらはすべて、真実の道ではない、と武蔵は否定する。そこが面白いところである。自説を述べるのが兵法書の普通の記述であり、ここまで具体的に批判を展開しているのは稀である。

さて、我一流の道理、各別の儀也。――我が一流とは武蔵の流派のことである。そして、「道理」は、「無理が通れば道理が引っ込む」という場合の道理、正しいことの意もあるが、ここでは、「兵法の道の理」ということである。意訳すれば、ここでの「道理」は、「兵法論」といった限定された意味合いである。安易に現代語の「道理」とは読めない語句である。

かくして、我一流の道の利は、他流とはまったく違うとする。では、他の流派は、いかにと見れば、兵法を世渡り身すぎのためにして、――つまり世俗的な利益のためにして、色を飾り、花を咲かせて、――つまり、見た目を飾り、派手なものにして、売物にこしらえたものだ、云々。

これは、前にも地之巻(兵法の道と云事)で出た批判であり、ここでも反復されている。あるいは、世の中の兵法は、剣術のみに小さく見立て、――こうあるのは、剣術中心主義批判である。太刀を振り習い、身体を効かせて、手を駆使するところをもって、勝つ事をわきまえたものだ、――というのは、剣術流行の時代への批判である。

ただし、繰り返し云うが、武蔵の批判は、個別の特定流派を批判するものではない。近世初期の当時、偃武の後に、まさに戦後に、仇花のように満開するようになってきた「剣術」というものに対する批判である。

さまざまな流派があるということは、特定の戦法を得意とし、それを売り物にするさまざまな流儀があるということである。しかし、搆えあって搆えなしというのが武蔵の流儀であった。そのことからすれば、戦法においても、戦法あって戦法なし、臨機応変というのが武蔵流兵法なのである。

言い換えれば、特定の流派を批判するなど徒労なことで、それよりも、その戦法のどこがダメなのか、それをを具体的に指摘する方が生産的であろう、――というのが武蔵のスタンスなのである。そこで、欠陥の典型的なところを、九つに絞って、以下、批判が進められるわけである。

――――――――――――


ここで、校異の問題に関して指摘すべきところが若干ある。すなわちその一つは、筑前系のうち越後系諸本に、
《大きなる太刀をとつて、強き事を専として、其わざをなすながれも有》
とあり、《専として》として「と」字にするところ、あるいは《ながれも有》として「も」字を入れるところ、これが問題箇処である。

すなわち、《専として》とするところは、同じ筑前系でも異系統の吉田家本・中山文庫本には、これを《専にして》として「に」字に作る。このいづれが正しいかは、肥後系諸本を参照すればわかる。筑前系/肥後系を横断して共通する語句が古型であるからである。このケースでは、筑前系/肥後系に共通するのは、《専にして》の方である。したがって、越後系諸本の《専として》は誤記である。

また、《ながれも有》として「も」字を入れるについては、これはまず筑前系諸本に共通している。しかるに、肥後系諸本には、これを《ながれ有》として、「も」字を欠くものがある。つまり、「も」字の有無という相違である。

ただし、この「も」字については、肥後系諸本すべてがこれを付すわけではない。富永家本には、「も」字を入れて、《ながれもあり》とする。あるいは円明流系統でも、多田家本や稼堂文庫本では「も」字を入れる。富永家本などは、肥後系の中でも早期に派生した系統の子孫である。したがって、肥後系でも早期には、《ながれ有》ではなく、《ながれも有》と記した可能性がある。

この校異については、筑前系諸本に共通して、《ながれも有》とするのであるから、これまで見た例と同じく、筑前系諸本の字句を古型として採るべきである。

また、もう一つ校異箇処を挙げれば、筑前系諸本に、
《これミな実の道にあらざる事也。此巻の奥に慥(たしか)に書顕し、善悪利非をしらする也》
とあって、《あらざる事也》として、文を止めるところ、肥後系諸本には、これを《是皆、實の道にあらざる事、此巻の奥に慥に書顕し》として、「也」字を欠いて、文を次へ接続するかたちである。つまり、「也」字の有無という相違である。

ただしこの「也」字についても、肥後系諸本すべてがこれを付すわけではない。例外は稼堂文庫本であり、そこには、「也」字を入れて、《実の道に有ざること也》とする。

これを除けは、肥後系諸本は、ほぼ「也」字を欠く。これはいかにと見れば、次のようなことであろう。

すなわち、これに続く文が、《此巻の奥にたしかに書顕し、善悪利非をしらする也》とあるところからすると、此巻に書顕すのは、他流のやり方の《実の道に有ざること》である。とすれば、「也」として、文を切断するのは、文意が通らぬ。書写者はそう思って、この「也」字を衍字と見て、これを抹消したのである。

たしかに、ここに「也」字があっては、文に躓きがある。だから、「也」字を認知しないのも当然だが、テクスト分析の方ではそうは簡単には事は運ばない。というのも、筑前系諸本に厳然と「也」字が残っているからである。

こういうわけで異変発生のプロセスが知れるのだが、これが比較的早期に発生したため、肥後系ではこの語句書記が多いのである。しかしそれも、肥後で後に発生したローカルな変異であって、本来は、「也」字のあったものであろう。

ともあれ、この校異については、筑前系諸本に共通して、《あらざる事也。此巻の》として、「也」を有するのであるから、これまでの例と同じく、筑前系諸本の字句を古型として採るべきである。

ところで、以上の校異はさして難しいものではない。筑前系諸本をみれば、何れが正しいか、判明するからである。しかし、次はもう少し難題である。すなわち、上記箇処にすでに出ているところであるが、
《此巻の奥にたしかに書顕し、善悪利非をしらする也》

すなわち、この「奥」字が、筑前系/肥後系の諸本を横断して、共通して存在するのである。とすれば、最初の判断として、《此巻の奥に》として「奥に」とするのが正しいと見ることができる。

しかし、「奥」というのが通常の意味ならば、「此巻の奥」というのは、この巻の末尾ということになる。だが、他流の《實の道》にあらざることは、巻末に語られているのではなく、この巻の以後の条々全体にわたって述べられている。

とすれば、この「奥」という語が、本巻の叙述には適合しないのである。そこで、この「奥」が、外部に対する内部、つまり「内」「中」の意味だと読めないことはない。その限りにおいては、ここは「奥」でさしつかえない。

しかるに、五輪書ではしばしば登場する「奥」という語の意味は、それではない。表に対する奥である。現に、本条の直前に、《太刀かずおほくたくみ、太刀の搆をもつて、表といひ奥として、道を傳流も有》とある通りである。

したがって、そのように直前にそう書いたのだから、直後のここで、武蔵が《此巻の奥に慥に書顕し》と記したとは思えない。これはおそらく、《此巻の内に》とあったものであろう。つまり、筆写者は、直前に《表といひ奥として》とあるところから、それに引かされて、つい「内」を「奥」と誤写したのである。

しかるに他方、これが筑前系/肥後系諸本を横断して、共通に存在するところからして、この誤写は、寺尾孫之丞の段階に遡りうるのである。つまり、寺尾孫之丞が編集段階で誤写したもので、それが寺尾版の底本となって、門人に相伝した五輪書にも書かれ、そして、ついには現存写本すべてに「奥」と書かれているということになった。

かくして、この「奥/内」は、武蔵草稿の復元という問題に関わるのである。ここでの文脈からして、オリジナルは「奥」という文字ではなく「内」という文字であった、というのが我々の所見である。

というわけで、我々のテクストでは、諸本の「奥」字に付して、( )に入れた「内」字を記している。 

2 他流批判1・大太刀の流儀 (他流に大なる太刀を持つ事)

【原文】

 一 他流に大なる太刀をもつ事。
他に大なる太刀をこのむ流あり。
我兵法よりして、是を弱き流と見立る也。
其故は、他の兵法、いかさまにも人に勝と云利
をバしらずして、太刀の長きを徳として、
敵相とをき所よりかちたきとおもふに依て、
長き太刀このむ心有べし。
世の中に云、一寸手増りとて、
兵法しらぬものゝ沙汰也。
然に依て、兵法の利なくして、
長きをもつて遠くかたんとする。
夫ハ心のよはき故なるによつて、
よはき兵法と見立る也。
若、敵相ちかく、組合程の時ハ、
太刀の長きほど、打事もきかず、
太刀もとをりすくなく、太刀をににして、
小わきざし、手ぶりの人に、おとるもの也。
長き太刀このむ身にしてハ、
其いひわけは有ものなれども、
夫ハ其身ひとりの利也。
世の中の實の道より見る時ハ、
道理なき事也。
長き太刀もたずして、みじかき太刀にてハ、
かならずまくべき事か。或ハ其場により、
上下脇などのつまりたる所、
或ハ脇ざしばかりの座にても、太刀をこのむ心、
兵法のうたがひとて、悪敷心也。(1)
人により、少力なる者も有、
其身により、長かたなさす事ならざる身もあり。
昔より、大ハ小をかなゆるといヘば、
むざと長きを嫌ふにはあらず。
長きとかたよる心を嫌ふ儀也。
大分の兵法にして、長太刀ハ大人数也。
みじかきハ小人数也。小人数と大人数と、
合戦ハなるまじきものか。
小人数にて勝こそ、兵法の徳なれ。
むかしも、小人数にて大人数に勝たる例多し。
我一流におゐて、さやうにかたつきせばき心、
嫌事也。能々吟味有べし。(2)  

【現代語訳】

 

一 他流で大きな太刀をもつ事

他流で、大きな太刀を好む流派がある。我が兵法からすれば、これを弱い流派と見立てるのである。

そのゆえは、他流の兵法は、どんなことをしてでも人に勝つという利〔理〕を知らず、太刀が長いのを徳〔得、有利〕だとして、敵相〔敵との距離〕が遠いところから勝ちたいと思うから、長い太刀を好む気持があるのだろう。(これは)世の中にいう、「一寸手まさり」といって、兵法を知らぬ者の行いである。

しかるによって、兵法の利〔理〕がないのに、(太刀の)長いの利用して、遠く(離れて)勝とうとする、それは心が弱いゆえである。だから、弱い兵法と見立てるのである。

もし敵相〔敵との距離〕が近く、(互いに)組み合うほどの時は、太刀が長いほど、打つこともうまくできず、太刀が役に立つこと*は少なく、太刀(の大きさ)が邪魔になって、小脇ざしや手ぶら*〔素手無刀〕の人に(さえ)劣るものである。

長い太刀を好む身としては、(いろいろと)その弁解はあるものだろうが、それは、その身一人の利〔理屈〕である。世の中の真実の道から見るときは、道理なきことである。

長い太刀を持たずして、短かい太刀では、必ず負けるのか。あるいは、その場によっては上下や脇などに余裕がない所、あるいは脇ざししかない席であっても、(どうあっても、長い)太刀を好む心は、兵法の疑い〔不信・惑い〕といって、悪しき心である。

人によっては力の弱い者もある。その身によっては、(体が小さくて)長い刀を(腰に)差すことができない身体もある。

昔から、「大は小をかなえる」*と云うから、(太刀の)長いのをむやみに嫌うのではない。長い方がよいと偏る心を嫌うのである。

大分の兵法〔合戦〕の場合、長い太刀とは大人数のことであり、短いのは少人数のことである。小人数と大人数では、合戦は成り立たないものか。小人数で勝つことこそ、兵法の徳〔すぐれた働き〕であろう。昔も小人数で大人数に勝った例は多い。

我が流派においては、そのように偏った狭い心を嫌うのである。よくよく吟味あるべし。

 

 

【註解】

(1)我兵法よりして是を弱き流と見立る也

ここでの話は、ごく解りやすいから、余計な注釈は必要ではなかろう。ただ、以下の諸点だけ指摘しておきたい。

これは冒頭から話が皮肉である。――《他に大なる太刀をこのむ流あり。我兵法よりして、是を弱き流と見立る也》、つまり、大きな太刀を好む流派があるが、武蔵流兵法、その戦闘術からすれば、これを弱い流派と見立てる、というのである。

ふつう、大太刀を持つのは強力な者である。刃渡り三尺(90cm)の太刀もあれば、四尺(120cm)といった長大な太刀もある。あるいは伝説的な真柄十郎の七尺の大太刀をはじめ、軍記には七尺という数字もよくある。

七尺大太刀の一貫目二百匁(4.5kg)はともかくとして、長い太刀となると、かなりの重量である。通常の刀の数倍もあって、力の弱い者では振り回せない。だから、大太刀を振るう者は、たいてい見るからに大力で強そうな連中である。

ところが武蔵が言うのは、その逆なのだ。見た目にはどうかは知れないが、大太刀を持ちたがる奴ほど、本当は(心が)弱いのだ、と。

その理由は、長い太刀をもっていると、敵の太刀の届かない遠くから攻撃ができると思っているからだ。自身は安全な場所にいて、勝ちたい。――これは勇気のない証拠である。

「一寸手まさり」というのは、一寸(3cm)でも長い方が有利だということである。斬り合いでは、一寸の差が生命にかかわる。大太刀をもつ流派の中には、そう言って理由づけをしていた例があったのかもしれない。

しかし武蔵に言わせれば、それは兵法を知らぬ者の行いである。兵法の術によってではなく、太刀の長さの有利をもって「遠く勝とう」とする。それははじめから腰が引けているのであって、心が弱いゆえである。だから、弱い兵法と見立てるのである。

じっさい、有利不利というであれば、太刀が長いと逆に不利な場合がある。それは身体がぶつかるほどのせめぎ合いでは、手元に隙ができやすいし、また、かえって太刀の大きいのが負担になって、短い脇差を振るう者や、手ぶら(無刀)の者にさえ、劣ることがある。

短かい太刀より長い太刀の方が有利だという根拠はない。太刀の長きを好む気持は、兵法の「疑い」として、悪しき心である、とする。この「疑い」という語は、仏教からきた言葉だが、要するに懐疑・不信・惑いのことで、自分の兵法を確信していないことである。確信なくして勝てるわけがない。――というのが武蔵の説教である。

さて、この長大な太刀ということでは、武蔵伝説の末端に位置する現代人なら、だれしも連想してしまうのは、かの巌流島で武蔵と対戦した巌流(岩流)のことであろう。今日一般には、「佐々木小次郎」として知られているが、この人物を佐々木姓にしたのは歌舞伎・浄瑠璃等演劇界である。本来彼の姓は不詳である。

巌流島決闘の記録は、武蔵養子の宮本伊織が建碑した武蔵碑の碑文(小倉碑文)が初出である。そこには、武蔵の対戦相手・巌流が長い太刀をもって戦ったという記事がある。
《岩流、三尺の白刄を手にして來たり》
とある。この「三尺の白刄」とは、刃渡りが三尺(91cm)ということだとすれば、通常の太刀よりは、かなり長い――七寸(21cm)ほども長いということである。つまり、通常刃渡りは二尺三寸(70cm)前後であろうから、三割がた長いのである。

しかし、そうとも云えず、「三尺の白刄」という語句は、当時の常套句「三尺の長剣」と連動したものであり、長大な太刀というところを、そのように修辞したのかもしれない。ただ、それでも、「三尺の白刄」は長いのは確かである。

しかし、小倉碑文のいう武蔵の「木戟」にしても、「戟」というからには、ただの木刀ではなく、これは長尺物である。武蔵がそのときの道具を、後に復元して長岡寄之に授与した、という説のある木刀は四尺二寸(127cm)である(松井文庫蔵)。これは後世の人が伝説にもとづいて制作したものであろう。

筑前系伝記『丹治峯均筆記』には、刃の方に二寸釘を隙間なくぎっしり打ち込んだ四尺の木刀とあり、それより前の海事文書『江海風帆草』には筋鉄で補強した五尺の棒とある。巌流島決闘では武蔵は長尺の道具を用いたという伝説があったものらしい。

しかし他方、『丹治峯均筆記』に、武蔵が五尺杖を常用した話もあるし、寺尾孫之丞がその五尺杖の仕道(操法)を工夫したという話も伝えている。この五尺の長尺物は、隅に蟠る敵や取籠り者などに有効だともある。

それは伝説かと思っていたら、越後の門流では五尺木刀の術が伝承されていた。その現物を、平成二十年にはじめて越後で発掘できたのである。それによって、長五尺という武蔵の長尺道具の実際がはじめて判明した。

越後道統の伝書「五尺木刀伝来之巻」よれば、武蔵は天然の業で片手で五尺木刀を振ったが、寺尾孫之丞の段階でそれを技法化したとある。これは『丹治峯均筆記』の記事と一致する。武蔵の長尺道具の伝統は、越後で生き続けていたのである。

とすれば、これは興味深いことである。むやみに長い太刀を好む流派を批判する武蔵だが、自身はこんな五尺もある長尺物の術も残したのである。しかもそれを、この五輪書を編集した寺尾孫之丞が受継いで、凡人にも仕えように技法化したのである。

ようするに、そんな特大の道具も用いた武蔵にすれば、長い道具を好む流派の長さなど中途半端な長さなのである。ちなみに、その五尺木刀がどんなに長大なものか、それを示せば下のごとくである。

▲上から、二刀木刀大小(三尺・二尺)、五尺木刀、枕木刀(二尺)

 

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なお、語釈の問題として挙げるべきは、
《太刀もとをりすくなく、太刀をににして、小わきざし、手ぶりの人に、おとるもの也》
とするところである。この「もとをり」は「徊り」〔もとほり〕、自由自在にできる、役に立つ、という意味がある。
《もとおらぬ三味線鳴らしてゐやう程に》(傾城禁短気)
《もとをらねへことをいったっても、始まらねへ》(早変胸機関)
とあるのが語例である。前者は、「うまく弾けない三味線を鳴らして」ということであり、後者は、「役に立たぬことを言っても、はじまらない」という意である。五輪書のここでの《もとをりすくなく》というのは、もちろん、後者の意味であって、「役に立つことが少ない」という語義である。

もう一つの《小わきざし、手ぶりの人に、おとるもの也》の「手ぶり」は、今日でも「手ぶら」という語で生きている。これを当時、「てぶり」と言ったらしいことは、日葡辞書の記載例で知れる。ここでは「手ぶり」は、手ぶら、空手〔くうしゅ〕、つまり、太刀をもたぬ無刀のことである。

かくして、《小わきざし、手ぶりの人に、おとるもの也》は、長い太刀をもっていても、短い脇差や素手無刀の人にも劣るものだ、ということである。

既成現代語訳事例を見るに、このあたり、どうも難しかったらしい。戦前の石田訳は、《もとをりすくなく》を「振り廻すことも出來ず」と解した。これはまったく的外れである。ここは、太刀を振り回せないということではなく、たとえ太刀を振り回しても、懐に入り込まれては、太刀は役に立たない、という文脈なのである。それが誤りで、以後の誤訳の路線を敷いた。

戦後の岩波版注記は、これを「太刀を自由に振り回すこともできず、太刀を荷厄介にして」との語訳を示しているが、これは戦前の石田訳そのままである。

神子訳は、「もとをり」を回転と解釈し、また、「手ぶり」が、細川家本では「手振」となっているところから、そのまま字義通りに受け取り、「手で振る」ことと誤解している。しかし、細川家本の「手振」は当て字なので、そもそも誤訳の原因は細川家本にある。

戦前の石田訳が「てぶり」を訳出していたのに、戦後出たこの神子訳の誤りが、その後の大河内・鎌田訳の後二者にも継承され、「手ぶり」(素手)という語が抹殺されて、御覧の如き誤訳を呈している。そしてむろん、「もとをり」については岩波版注記が石田訳の誤りを反復しているのを、後二者がそのまま頂戴して、誤訳を再生産していることは言うまでもない。創意というものがないのか、まことに見苦しい光景である。

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次に、諸本校異の問題について、ここでは、指摘すべき箇処がいくつか存在する。それを以下にまとめて示しておく。

 


*【吉田家本】
《敵相とをき所よりかちたきと思ふに依て、長き太刀【★】このむ心有べし。(中略)若、敵相ちかく、くミ合程のときハ、太刀の長きほど、打事もきかず、太刀【★】もとをりすくなく、(中略)或ハ、脇ざし斗の座にても、太刀をこのむこゝろ、兵法のうたがひとて、悪敷こゝろ也》

 

*【渡辺家本】
《敵間とをき所よりかちたきとおもふに依て、長き太刀【★】このむ心有べし。(中略)若、敵相ちかく、組合程の時は、太刀の長きほど、打事もきかず、太刀【★】もとをりすくなく、(中略)或ハ脇指ばかりの時にても、太刀をこのむ心、兵法のうたがひとて、悪敷心也》


*【楠家本】
《敵相遠き所よりかちたきと思ふによつて、長き太刀をこのむ心有べし。(中略)若、敵相ちかく、くミやうほどの時は、太刀の長きほど、打事もきかず、太刀のもとをりすくなく、(中略)或ハ、わきざしばかりの座にても、長きをこのむ心、兵法のうたがひとて、あしき心也》

 

*【細川家本】
《敵相遠き所よりかちたきと思ふによつて、長き太刀【★】このむ心あるべし。(中略)若、敵相近く、組あふほどの時は、太刀【★】長き程、打事もきかず、太刀のもとをりすくなく、(中略)或は、脇差ばかりの座にても、長きをこのむ心、兵法のうたがひとて、あしき心也》


*【富永家本】
《敵合遠き所より勝度とおもふに依て、長き太刀を好心有べし。(中略)若、敵相近く、組合程の時ハ、太刀の長きほど、打事も聞ず、太刀【★】もとふり少なく、(中略)或ハ、脇差斗の座にても、太刀を好心、兵法の事たがひとて、悪敷心なり》

 

*【狩野文庫本】
《敵相遠所より勝度と思ふに依て、長き太刀を好心有べし。(中略)若、敵相近、付逢程の時は、太刀の長程、打事もきかず、太刀の模通少ク、(中略)或ハ脇指斗の座ニ而も、長き【★】好こゝろ、兵法の疑とて、悪キ心也》

 

まず、特異箇処の方を先に見ておけば、渡辺家本や赤見家乙本など越後系諸本に、《或ハ脇指ばかりの時にても》とあって、「時」字を記すところ、他の諸本は筑前系/肥後系を通じて、これを「座」字に記す。したがって、これは簡単に判断できる。

つまり、越後系諸本の「時」字を記すのは誤記であり、正しくは「座」字である。この誤字は、越後系写本の赤見・渡部双方の系統にみられるから、おそらく立花系固有の誤記であろう。

ではさらに、他の校異を以下順を追って見ることにするが、まず、筑前系諸本に、《長き太刀、このむ心有べし》とするところ、肥後系諸本には、《長き太刀を》として、「を」字を付すものがある。ゆえにこの相異は、「を」の有無である。

肥後系諸本のうち、細川家本では、この「を」字を付さない。あるいは円明流系統の多田家本も同前である。したがって、筑前系/肥後系を横断して共通するのは、この「を」字を付さないパターンだと言えないことはないが、そうは行かない。この二本のばあいは、爾後の偶発的な脱字の可能性もあるからである。

したがって、肥後系写本のうちには筑前系と同じパターンもあるが、「を」字の有無が筑前系/肥後系を区分するものであったかもしれない。しかし仮にそうだとしても、ここは、筑前系に共通するのが、「を」字を入れない方だということを押さえておきたい。

次には、筑前系において、《敵相ちかく、組合程の時は、太刀の長きほど》として、《太刀の》として「の」字を付すところ、肥後系諸本もたいていは同様である。ただし、参照事例では、細川家本のみ、この「の」字を落す。これは、楠家本や丸岡家本にはみられないもので、細川家本・常武堂本系統のみの脱字であり、もとより後発的な誤記である。

さらに校異の箇処を言えば、筑前系諸本には、《太刀の長きほど、打事もきかず、太刀もとをりすくなく》とあるところ、肥後系諸本には、たいてい、これを《太刀のもとをりすくなく》として、《太刀の》と記し「の」字を入れる。

しかし、肥後系のうちには富永家本のように、「の」字を入れないケースもある。したがって、肥後系にも筑前系と同じパターンが見られるのであるが、富永家本は早期に派生した系統の子孫であることから、肥後系早期にこれがあったみなしうる。それが、後にここに「の」字を入れる写本が発生したのである。

さて、ここで挙げる校異の最後は、以上のような脱字衍字の類いではなく、もうすこし難しいところである。すなわち、筑前系諸本に、
《脇ざし斗の座にても、太刀をこのむこゝろ》
とあって《太刀》とするところ、肥後系諸本にはたいてい、《長き》と記す。つまり、《太刀》と《長き》の相異である。

ところが、ここについても、肥後系のうちには富永家本のように、《太刀》と記す例もある。したがって、肥後系にも筑前系と同じパターンが見られるのであるが、上述のように、富永家本は早期に派生した系統の子孫であることから、肥後系早期にこれがあったみなしうる。それが、後にここれを《長き》と変更した写本が発生した。

この変更は、「長き太刀」というのを強調するための措辞で、たしかに《長き》とした方が文意は通りやすい。しかし、直前に《或ハ、脇差斗の座にても》とあって、続いて《太刀》とくるのだから、この《太刀》は、脇差との対比で示されたものである。大小二刀の「大」の方であるから、必ずしも「長き太刀」ということではない。そのことを見失った後世の者が、《長き》という語を付してこれを改竄したのである。

これは筑前系には見られぬ字句であるから、肥後において後に発生した改竄異変である。それに対し、肥後系のうち《太刀》という字句を保存した富永家本は、早期形態を伝えるのである。先祖が早期に派生分岐したため、もとより写し崩れのある一本だが、その一方で、しばしばこうした古型を温存しているのである。

それゆえまた、ここに《長き》と記す肥後系現存写本はすべて、改竄以後の写本の子孫である。楠家本・細川家本・丸岡家本など、従来古型を示すと見られた諸本にしても同類である。前の《太刀のもとをり》も合わせてみれば、これら諸本は書写過程をいくつか経た後の写本である。

 

 

(2)長きとかたよる心を嫌ふ儀也

武蔵は、大太刀の流派を批判するのだが、それは太刀の長いのを有利だとする誤認錯覚に対しての批判であった。

そうして、力が弱くて、あるいは背が低くて大太刀を持てない奴だっているじゃないか、というあたりは武蔵の軽いジョークである。武蔵自身は当時としては、かなり巨大な体躯の強力の者である。ただ、本書は兵法教本であるから、力が弱い、背が低いなどのために、大太刀をもつことが物理的に不可能な者の側に立って言及することもあったのである。

自分のような大男でも、大太刀を持つ必然性があるとは認めない。まして、背が小さく力の弱い者が大太刀を持つ必要はまったくないのだよ、というところである。むろん、
《昔より、大は小をかなゆるといヘば、むざと長きを嫌ふにはあらず》

この、昔から「大は小をかなえる」と云う、――とあるのは、現代語では「大は小を兼ねる」と言うようになっている。これはもとは「かなへる」(適る、叶る)であったことが、この五輪書の用例で判るというわけだ。この「かなへる」は英語なら《serve》に相当する。つまり、「大は小をかなえる」は《A large thing will serve for a small one.》と訳しうるのである。このあたりの記述は、初心者への講話といった調子である。

武蔵は言う、――だから、太刀の長いのをむやみに嫌うのではない。長い方がよいと偏る心を嫌うのだ、と。要するに、
《長きとかたよる心を嫌ふ儀也》
ということである。長大な太刀を無下に否定するのではない。太刀は長いほうがよいとする、そういう偏向する心を否定するのである。――それが、ここでの結論である。

さらに、もう一つ譬えを出して、大分の兵法〔合戦〕の場合、長い太刀とは大人数のことであり、短い太刀は少人数のことである。少人数と大人数では、合戦は成り立たないというのか。少人数で勝つことこそ、兵法の徳、その効能、すぐれた働きであろう。昔も少人数で大人数に勝ったという例は多い、とする。

これは、前巻火之巻で縷々説かれた教えとも関連する。少数でも多数の敵を撃破する兵法、いささか武蔵流の遊撃戦も含めて、小が大に勝つ兵法である。それを分別承知すれば、やはり、教えは、
《さやうにかたつきせばき心、嫌ふ事也》
ということである。この「かたつきせばき」は、「偏付き、狭き」ということである。太刀は長い方が有利である――などという道理はない。それは単なる偏向であるにすぎない。だから、初心の者らよ、そういう話に乗せられるな、ということである。

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さて、ここで校異に関して指摘するとすれば、とくに肥後系諸本における異変のことである。

すなわち、肥後系の楠家本・細川家本などに、相当量の脱落がある。これは明らかに誤写である。

下掲のごとく、楠家本には、《小人数にて》と《大人数にかちたるれいおゝし》との間に脱落がある。細川家本も同じ箇処に脱落がある。それだけではなく、細川家本では、《人により、少力なるものもあり》と《むかしより、大は小をかなへるといへば》の間に脱落がある。丸岡家本にも、他の箇処に脱字がある。

 

*【吉田家本】
《人により、少力なる者も有、其身により、長かたなさす事ならざる身も有。昔より、大ハ小をかなゆるといヘバ、むざと長きを嫌にハ非ず。長きとかたよるこゝろを、嫌儀也。大分の兵法にして、長太刀ハ大人数也。ミじかきハ少人数也。少人数と大人数と、合戦ハなるまじきものか。少人数にて勝こそ、兵法の徳なれ。むかしも、少人数にて大人数に勝たる例多し》


*【渡辺家本】
《人により少力なる者も有、其身により、長かたなさす事ならざる身もあり。昔より、大は小をかなゆるといヘバ、むざと長きを嫌ふにはあらず。長きにかたよる心を嫌ふ儀也。大分の兵法にして、長太刀ハ大人数也。みじかきハ小人数也。小人数と大人数と、合戦なるまじき物か。小人数にて勝こそ、兵法の徳なれ。むかしも、小人数にて大人数に勝たる例多し》

*【楠家本】
《人により、小力なるものも有、其身により、長かたなさす事ならざる身も有。昔より、大ハ小をかなへるといへば、むざと長きをきらふにはあらず。長きとかたよる心を、きらふ儀也。大分の兵法にして、長太刀ハ大人数也、みじかきハ小人数なり。小人数と大人数にて合戦ハなるまじきものか。小人数にて【***********】大人数にかちたるれいおゝし》


*【細川家本】
《人により、少力なるものもあり、【***************】むかしより、大は小をかなへるといへば、むざと長きをきらふにはあらず。長きとかたよる心を、きらふ儀也。大分の兵法にして、長太刀は大人数也、短きは小人数也。小人数と大人数にて合戦はなるまじきものか。少人数にて【*************】大人数にかちたる例多し》

*【丸岡家本】
《人により、少力なる者もあり。其身により、長かたなさす事ならざる身もあり。昔より、大ハ小をかなへるといへば、むざと長きを嫌ふにはあらず、長とかたよる心を、きらふ義也。大分の兵法ニして、長太刀は大人数なり、【********】小人数と大人数にて合戰ハなるまじきものか。少人数にてかつこそ、兵法の徳なれ。昔も小人数にて大人数に勝たる例多し》


*【富永家本】
《人により、少力成者も有り、其身により、長かたな差事ならざる身も有。昔より、大ハ小をかなゆるといえバ、むざと長きをきろふにハ非ず。長きとかたよる心を、きろふ儀なり。大分の兵法にして、長太刀ハ大人数なり、みじかきハ少人数なり。少人数と大人数にて合戦ハ成間敷者か。少人数にて勝こそ、兵法の徳なれ。昔も少人数にて大人数に勝たる例多し》

 


上記のうち、細川家本の脱落箇所は、同系統の常武堂本も同じである。したがって、この二箇所の脱文は、両者の祖本の段階ですでに存在していたのである。

さて、楠家本と細川家本が、同じ箇処に、他の諸本にはない脱落を有するのは、両者がある段階まで共通の先祖をもっていたということである。

また、このケースのように楠家本にはない脱落が細川家本にあり、また他に見るケースでは、逆のこともある。ということは、楠家本・細川家本両本の分岐後に写し崩れが発生した部分もあり、その点では同レベルの写本だということである。上記の箇処に関していえば、細川家本には楠家本にない脱落があるだから、両者の系統分岐後、細川家本に至るまでにこの脱落があったということである。

また、上掲例のごとく、楠家本・細川家本の両者が脱字を示すところ、丸岡家本は正しく記していることがある。これは、楠家本・細川家本の両本共通の先祖より以前に、丸岡家本の先祖が分岐したことを示す。その一方で、丸岡家本のみ脱落を示すところもある。これはむろん、丸岡家本が、楠家本・細川家本の系統とは異なる系統の写本だということである。

あるいは、楠家本・細川家本が正しく記すところを、丸岡家本と田村家本の系統に脱文があるケースがここにみられる。つまり、それは、丸岡家本系統が分岐派生した後に発生した誤写である。

以上のように、ここに偶然、三種の誤写が集中して見られるので、それに注目して整理すれば、

   (脱文A) 楠家本と細川家本に共通

   (脱文B) 細川家本・常武堂本のみの誤写

   (脱文C) 丸岡家本・田村家本・山岡鉄舟に共通

この三つの誤写により、これら諸本の系統が析出される。つまり、脱文Aは楠家本と細川家本が、系統発生上近縁関係にあることを示す。脱文Bは、楠家本と細川家本に派生系統の分化があったことを示す。そして、脱文Cは、丸岡家本の系統が、楠家本と細川家本の系統分化以前に派生した別の系統であったことを示す。

ところが、この丸岡家本の系統も、他の系統の諸本とくらべると、楠家本・細川家本に近縁のものである。というのも、同じ肥後系でも、この三本が脱落を示すところを、富永家本や円明流系諸本は、脱落のない文言を記している。ということは、富永家本や円明流系諸本の先祖の系統派生は、早期の段階にあったということである。

したがって、楠家本・細川家本・丸岡家本三本の系統発生をいえば、先に丸岡家本の先祖が派生し、その後、楠家本と細川家本のそれぞれの先祖が派生したということになる。

以上のような系統派生関係から、いかなることが知れるであろうか。まさにこれによって判明するのは、肥後系諸本の派生回数、つまり、当該写本が少なくとも何回の書写を経たものか、というプロセスである。そこで、系統発生図を模して肥後系諸本の派生関係を示せば、以下の如きものであろう。

 

 

 この系統発生のプロセスを追えば、まず、門外に流出した写本がありそれが写されていた。これは肥後系早期写本である。

そこから最初の分岐は富永家本の系統と円明流系統である。円明流系統はその後諸国に流出し派生した。この二つの系統は早期に分岐し派生したから、写し崩れがかなり多いが、楠家本・細川家本・丸岡家本などに誤記脱落があるところを、正しく書いているケースがしばしばある。それゆえまた、肥後系諸本のなかで、筑前系諸本に類似する字句があるのも、早期派生系統の子孫だからである。

その次の分岐は、丸岡家本・田村家本・山岡鉄舟本の系統で、楠家本・細川家本が脱落している箇処には脱落はなく、それら二本とは異なる箇処に脱字を示している。つまり、楠家本・細川家本の系統に対し、それより以前に派生したものである。

最後の分岐は、楠家本と細川家本の系統の分岐である。これは、楠家本にはなく、細川家本・常武堂本のみにある脱落によって知れる。また、他の箇処では、その逆のパターンもある。

以上のようにして、系統発生論からすれば、楠家本・細川家本・丸岡家本のポジションが知れるであろう。すなわち、これら三本は、寺尾孫之丞段階の写本に「直接」するものではなく、この系統発生図に示したように、門外流出後、少なくとも複数回の書写を経た段階の後発的写本である。

楠家本・細川家本・丸岡家本は、早期に分岐した系統の諸本よりも相対的に正確な写本であるが、それが何度の書写を経たものか、という点に注意すれば、そのポジションは明かであろう。したがって、楠家本はじめこの三本を、理由もなく早期の写本として思い込むのは誤りであり、この点、従来の諸説は根拠なきものである。五輪書研究に必要なのは、客観的な史料評価である。

3 他流批判2・強力の太刀 (他流におゐてつよみの太刀と云事)

【原文】

一 他流におゐてつよミの太刀と云事。
太刀に、強き太刀、よはき太刀と云事ハ、
あるべからず。強き心にて振太刀ハ、
悪敷もの也。あらき斗にてハ勝がたし。
又、強き太刀と云て、人を切時にして、
むりに強くきらんとすれバ、きられざる心也。
ためし物などきる心にも、強くきらんとする事あしゝ。
誰におゐても、かたきときりあふに、
よはくきらん、つよくきらん、と思ものなし。
たゞ人をきりころさんと思ときハ、
強き心もあらず、勿論よはき心もあらず、
敵のしぬる程とおもふ儀也。
若ハ、強みの太刀にて、人の太刀強くはれバ、
はりあまりて、かならずあしき心也。
人の太刀に強くあたれバ、
我太刀も、おれくだくる所也。
然によつて、強ミの太刀などゝ云事、なき事也。(1)
大分の兵法にしても、強き人数をもち、
合戦におゐて強くかたんと思ヘバ、
敵も強き人数を持、戦強くせんと思ふ。
夫ハ何も同じ事也。
物毎に、勝と云事、
道理なくしてハ、勝事あたはず。
我道におゐてハ、少も無理なる事を思はず、
兵法の智力をもつて、いか様にも勝所を得る心也。
能々工夫有べし。(2)  

 

 

【現代語訳】

 

一 他流において強みの太刀という事

太刀に、「強い太刀」「弱い太刀」ということは、あるはずがないことだ。強い心で振る太刀は、よくないものである。荒いばかりでは、勝つことはできない。

また、強い太刀といって、人を切るとき、無理に強く切ろうとすれば、切れないものである。試し物など切る〔試し斬り〕心持にしても、あまり強く切ろうとするのは、よくない。

誰であろうと、敵と切り合う場合に、弱く切ろう、強く切ろうと思う者はない。ただ人を切り殺そうと思う時は、強い心もなく、もちろん弱い心もなく、敵が死ぬほど(切ろう)、と思うだけである。

あるいは、強みの太刀で、相手の太刀を強く張れば、張りすぎて、必ずよくないのである。相手の太刀に強く当れば、自分の太刀も折れ砕けることがある。

そういうことであるから、強みの太刀などということは、(本来)存在しないことである。

大分の兵法〔合戦〕にしても、(我が方が)強い軍勢を持ち、合戦において強く勝とうと思えば、敵も強い軍勢をもち、戦いを強くしようと思う。それはどちらも同じことである。

どんなことでも、勝つということは、道理なくしては勝つことはできない。我が(兵法の)道においては、少しも無理なことを思わず、兵法の智力をもって、どのようにでも勝つところを得るのである。よくよく工夫あるべし。

 

 

 

【註解】

(1)あらき斗にてハ勝がたし

この強みの太刀ということは、前条の「大なる太刀を持つ事」と連続する教えである。

前条では、長い刀を持ちたがる、その心の偏向、あるいは弱い心の所在を指摘したのであるが、さて、それでも強力なる者は、大太刀も軽く振れるものであるから、とくにそれを否定するものではない。その上で、この条では、そういう者にありがちな、強い心からする強力な戦いぶりについて武蔵は論評するのである。

したがって、こんどは弱い心ではなく、それとは逆の、強い心を問題にする。自身の強力を恃んだ強い戦法は、よくない。武蔵に言わせれば、「荒い」だけのことである。大太刀を持ちたがるのが「弱い兵法」だとすれば、それとは反対の「強い兵法」であるこちらは、「荒い兵法」である。しかし、荒いだけでは勝てない、と武蔵は言う。

強い太刀とかいって、人を切るとき、無理に強く切ろうとすると、うまく切れないものである。これは太刀の軌道という合理的な法則に逆らうからである。それを武蔵は「無理」という語で語っている。

以前、水之巻「太刀の道と云事」で、太刀を早く振ろうとすると、かえって太刀の軌道が逆らって、振れないものである。太刀は振りよい程に靜かに振れ、という教えがあった。それと一連の教訓である。

「ためし物」など切る場合の心持にしても、あまり強く切ろうとするのはよくない。この「ためし物」とは、既述のように、実際に人間の身体を切って、人を切る技術を練習することである。そのとき使用された素材は、罪人である。屍体の場合もあれば、生体の場合もある。

こういう「ためし物」ができない連中は、「辻斬り」ということをやった。近世初期、武蔵の時代には、この辻斬り流行の記録がある。行き会った人間を理由もなく切るのである。理由もなく、というのは、強盗などの目的があってのことではない、ということである。単に人体を切る練習のためである。まさに荒い危ない時代だった。

ちなみに日本人は、かつて人も馬も左側通行だった。これは刀の鞘が当ってのトラブル、いわゆる鞘当てを避けるためという俗説があるが、これは間違いである。むしろ逆に、いつでも抜き打ちに相手を切るためである。そのために相手を右方向におくのである。腕試しに辻斬りなどする連中もあるのは、これがためである。辻斬りは、切られた方が悪い、油断があったという受取り方もあった。

さて、そんな荒い危ない時代の人間として、武蔵は、斬り合いで人を切るについて、強いも弱いもあるまい、と言う。目的は敵を殺すことである。弱く切ろう、強く切ろうと思う者はない。人を切り殺そうと思う時は、強い心もあらず、もちろん弱い心もあらず、ただ敵を殺すという合目的性があるだけである。

それに、できるだけ太刀を強く打てという教えにしたがって、相手の太刀を強く張れば、張りすぎて、これは決してよくない。相手の太刀に強く当れば、自分の太刀が折れ砕けることがある。

このあたりは、読者は承知しておかねばならない。岩や兜を断ち割ったりする名刀名人伝説があるが、もちろん太刀はそんなことをするために作られてはいない。つまり、太刀は、実戦において人を切るための道具であり、それゆえ、さして頑丈な武器ではなく、太刀を打ち合えば、折れたり曲がったりすることもある道具である。そういう武器で戦うとき、強く打つことは、逆に自身の道具を失うという結果になることもある。むやみに強く打っては、具合が悪い。
《然によつて、強みの太刀などゝ云事、なき事也》
と、武蔵の結論は合理的である。強みの太刀など本来存在しない、というのである。

強みの太刀ではうまく切れないし、荒いばかりの戦法では勝てない。それが武蔵の所見である。


語釈のことで云えば、いろいろあるが、ここでは以下の箇処を問題にしておく。
《若は、強みの太刀にて、人の太刀強くはれば、はりあまりて、かならずあしき心也》

ちなみに、細川家本を底本とする岩波版注記は、これに対応する文、《ハりあまりて、必あしき心なり》を、「張り余って体勢が崩れ、必ず悪い結果が生ずるものだ」とする。これは明らかに誤訳である。これでは「あしき心」とあるテクストの訳文になっていないばかりか、張り余って「体勢が崩れ」るという、原文に存在しない文言まで勝手に追加しているからだ。

《ハりあまりて》とは「張り方が強過ぎて」という意味であり、体勢が崩れるなどという話ではない。そのように強く張りすぎて具合が悪いことになるのは、続く文に明記されている。すなわち、自分の太刀が折れたり砕けたりするからである。

岩波版注記は、どうやら《ハりあまりて》を、「勢い余って」と勘違いしたもののようである。同注記にはこういう粗忽な語釈が少なくない。あるいは、原文に存在しないことを勝手に妄想してしまうのが解釈の心だとすれば、それは悪しき心なのである。あまりたるは足らざるに同じ、である。

この箇処につき、既成現代語訳を見るに右掲の如くである。大河内訳・鎌田訳は、岩波版注記のパクリで、何の工夫もない。これに比べれば、戦中の古田訳や戦後の神子訳などの方が、余計なことを盛り込まないだけ、まだ正しい。近年のものほど誤訳の度合が増して、云わば事態が悪化しているという例である。


――――――――――――――――――


ところで、この部分で校異はいくつかあるが、問題にすべきは、次の箇処であろう。すなわち、筑前系諸本には、
《強きこゝろにて振太刀ハ、悪敷もの也。あらき斗にてハ勝がたし》
とあって、《悪敷》(あしき)とする所であるが、肥後系諸本はこれを、《あらき》(荒き)とする。この字句の相違は、筑前系と肥後系を分つ指標的差異の一つである。

これも、筑前系に共通するところから、《悪敷》(あしき)が、筑前系初期の字句であったと知れる。これが古型である。

しかるに、文章の流れをみると、《あらき》とあった方が、同じ語句が重畳するリズムの効果があって滑らかである。それゆえ、この《あらき》(荒き)の方を採りたい気になるところであろうが、そうは問屋が卸さないのである。

《あらき》という仮名と《悪敷》という漢字とは、直接変換する可能性はない。云うまでもないが、筑前系において初期は、すでに《悪敷》という漢字であった。したがって、これが誤写されることはない。

ところが、肥後で門外流出後に伝写を繰り返すうちに、《悪敷》を《あしき》と仮名書きにするようになった。肥後系の伝写では、ある時期、仮名に変換する傾向があった。さらに次の段階で、「し」字が「ら」字に誤写されて、《あらき》に変化したというプロセスがあった。書字も場合によっては、「ら」と「し」は字形が近似するので、誤写を生じやすい。

そのように、誤写があったのは、直後の文に《あらき斗にてハ》と続くからである。前の文字に引かされることも、逆に後の文字に引かされるのも、誤写ではよくあることである。

肥後系では、めずらしく、円明流系統の多田家本に、《あしき》と記す例があるが、思うにこれは、底本が《あらき》と仮名であったのを、《あしき》と誤写したものであろう。その結果、誤写の円環が閉じて、原型に復帰したのである。つまり、誤りの誤りは、つまり誤謬の自乗は、――正解というわけである。

以上のことから、我々のテクストでは、筑前系諸本の《悪敷》(あしき)の方を採択したのである。

なお校異としては、他にもある。筑前系諸本に、《ためし物などきる心にも》とあるところ、肥後系諸本のなかには、《ためしものなどにきる心にも》として、「に」字を入れるケースがあり、また、筑前系諸本に、《強き心も非ず、勿論、よハき心もあらず》とあるところ、肥後系諸本は、《つよき心もあらず、勿論、よハき心にもあらず》として、これも「に」字を入れる。

これらについては、書写段階の誤記衍字とみておく。「に」字をつい入れてしまう書写者が、肥後系早期にあったものであろう。

前者の《ためしものなどに》の「に」字は、肥後系諸本のうちにも丸岡家本など「に」字を記さないものがあるが、それらは、一度発生した衍字「に」を脱字せしめてしまったものであろう。これも前例と同じく、誤りの誤りは正解、というケースである。  


(2)道理なくしてハ勝事あたはず

強いだけでは勝てない。大分の兵法〔合戦〕にしても、こちらが強く当ろうとすると、敵も強く出る。強い軍勢を持ち、合戦において強く勝とうと思えば、敵も強い軍勢をもち、戦いも強くしようと思う。こちらが強くなれば敵も強くなる。
《夫ハ何も同じ事也》

それはどちらも同じことである。戦闘の暴力的空間において、敵と我は相似の双生児であり、お互いに相手を模倣し合って無差異化する。そうして強さの競り合いは終わりがない。なぜなら、我が強くなると敵も強くなる、つまり強い敵を生産するのは、我自身であるからだ。そういう暴力性の悪無限的循環について武蔵は自覚的である。

勝つということは、強いから勝つのではない。強みの太刀ではうまく切れないし、荒い戦法では勝てない。道理なくしては勝つことはできない。武蔵のいう「道理」とは、物理法則に適った合理性のことである。
《道理なくしてハ勝事あたはず》

これが「武蔵的」というところである。道理なくしては勝つことはできない。少しも無理なことをしようとは考えず、兵法の智力をもって、どのようにでも勝つこと、その合理性(rationalism)が武蔵流なのである。

もう一つ云えば、この武蔵的な「道理」は、敵対する敵と我が無差異化し、自分自身が強力な敵を生産してしまう、といった無理(irrational)の構造から離脱したところにあるポジションである。
《我道におゐてハ、少も無理なる事を思はず》

この徹底した合理主義こそ、武蔵的なもののありかである。言い換えれば、不条理な美学へ傾斜する後世の武士道とはまったく違った、異質な精神の運動であり、それが、近世初期にいったんは芽吹いていたことを、五輪書は証言しているのである。日本の思想史において稀な合理の精神である。

――――――――――――

 

校異の問題に立ち入れば、この部分で指摘すべきは、次の箇処である。ここは、肥後系諸本しか見ていない者には、難しいところであろう。すなわち、筑前系諸本には、
《敵も強き人数をもち、戦強くせんと思ふ》
とあって、《人数》とし《戦強く》とするところ、肥後系諸本は、《人数》を《人》として「数」字を欠くものがあり、また《戦強く》を《戦も強く》と「も」字を入れるものがある。

ただし、肥後系諸本すべてがそうだというわけではない。この字句の相違は、筑前系と肥後系を分つ指標的差異ではない。

たとえば、前者の《人数》については、丸岡家本や円明流系統では、筑前系と同じく《人数》と記す。したがって、肥後系諸本また後者の《戦強く》も多田家本に見られるところである。このように肥後系にも類似事例があることからすれば、肥後系諸本を一色にみることはできない。

しかしながら、筑前系諸本に共通して同じ表記があるということは、それが筑前系初期からあったということを示す。言い換えれば、柴任美矩が寺尾孫之丞から相伝した五輪書に、そのように記されていた可能性が高い。とすれば、筑前系現存写本の当該文言は、寺尾孫之丞前期の相伝写本の表記を伝えているわけである。

したがって、肥後系諸本の《敵もつよき人を持、戦もつよくせんと》という箇処は、《人数》の「数」字の脱字があり、また逆に《戦も》とあるのは、「も」字が衍字だということである。

他に、たとえば文意の点で、積極的に肥後系の文言を採る理由もない。むしろ、《戦も》とするのは、直前の《敵も強き人数をもち》の《敵も》につられた誤記であろう。《戦もつよくせん》では、文意は弱くなるだけではなく、ここに「も」字が入るべきではない。文脈からしても、これは明らかに余計な文字、衍字である。

おそらく、肥後系において門外流出後早期にこうした文言の写本が現れたのであろう。諸本広範にこれを見るのである。それゆえ、肥後系諸本のみを見ていても、字句の正誤判断がつかない。むしろ、楠家本や細川家本を中心に据えたパースペクティヴでは、それらの書字が正しいと錯覚してしまう。しかし、筑前系諸本まで参照すれば、はじめてそれが誤りだとわかる。観の目を養うには、遠くを見て、視野を広げればよいのである。


ところで、ここには、肥後系の他の諸本にはない、丸岡家本の系統に特有の脱字箇処がある。それは、《合戦に於て強くかたんと思へバ、敵も強き人数を持》の部分の脱落である。田村家本と山岡鉄舟本も、そっくり同じ部分を落としているから、田村家本と山岡鉄舟本は、丸岡家本と同系統であり、その近縁子孫だと知れるのである。

なおまた云えば、細川家本には、一字空白にした箇処がある。それは、楠家本なら《わが道におゐてハ》と記す、その「道」字である。これは細川家本と同系統の常武堂本も同様である。したがって、この両本の祖本の段階で、この空白が発生したのである。

 

 脱字は不注意にすぎないが、このように空白にするのは、書写者がその文字を読めなかったからである。他の諸本に読めているところが、常武堂本と細川家本の系統に限って読めていないのである。それはなぜだったのか、興味深いところであるが、こうした判読不能を示す空白を有するのは、細川家本系統の祖本が、事情不通の門外者による書写本だったという徴しである。

しかし問題は、こうした明らかな非正規性の刻印をもつ後世の写本が、寺尾孫之丞が山本源介へ伝授した五輪書の「直接の写し」と誤認されたこともあった、今も一部にその誤認がある、という事実である。

こうした過去の錯誤は、しかし今日の武蔵研究のレベルを見るとき、決して嗤えたものではない。同様同種の迷蒙が支配している点では、今日も大差がないのである。それゆえ、後学の諸君は、こうした錯誤の研究史を知っておくべきであるし、それら迷蒙を乗り越えていかねばならないのである。

 

4 他流批判3・小太刀の流儀 (他流に短き太刀を用ゆる事)

【原文】

一 他流にミじかき太刀を用る事。
みじかき太刀ばかりにてかたんと
思ところ、實の道にあらず。
昔より太刀、刀と云て、
長きとみじかきと云事を顕し置也。
世の中に、強力なるものは、
大なる太刀をもかろ/\と*振なれば、
むりにみじかきをこのむ所にあらず。
其故ハ、長きを用て、鑓、長刀をも持もの也。
短き太刀をもつて、人の振太刀のすき間を、
きらん、飛入ん、つかまへん、
などゝ思ふ心、かたつきて悪し。
又、すき間をねらふ所、万事後手に見ヘて、
もつるゝと云心有て、嫌事也。
若、みじかきものにて、敵へ入、
くまん、とらんとする事、
大敵の中にて役にたゝざる心也。
ミじかきにて仕ひ得たるものハ、
大勢をもきりはらはん、自由に飛*、くるばん、
と思ふとも、みなうけ太刀と云(もの*)になりて、
とり紛るゝ心有て、
たしかなる道にて(は*)なき事也。(1)
同じくハ、我身は強く直にして、
人を追まはし、人にとびはねさせ、
人のうろめく様にしかけて、
たしかに勝所を専とする道也。
大分の兵法におゐても、其利有。
同じくハ、人数かさをもつて、
かたきを矢塲にしほし、
則時に責つぶす心、兵法の専也。
世の中の人の、物をしならふ事、
平生も、うけつ、かはいつ、
ぬけつ、くゞつゝしならへバ、
心、道にひかされて、人にまはさるゝ心有。
兵法の道、直に正しき所なれバ、
正利*をもつて、人を追廻し、
人をしたがゆる心、肝要也。
能々吟味有べし。(2)  

 

 

【現代語訳】

 

一 他流で短い太刀を用いる事

短い太刀ばかりで勝とうと思うところ、それは真実の道ではない。

昔から「太刀、刀」*と云って、長いものと短いものということを、明らかにしている。世の中に強力〔ごうりき〕なる者があり、大きな太刀でも軽々と振るので、無理に(太刀の)短いのを好むところではない。それは、(強力の者が)長い太刀を役立たせて、(また)鑓や長刀をも持つからである。

短い太刀をもって、相手の振る太刀の隙間を(狙って)切ろう、飛び込もう、つかまえよう、などと思う気持は、偏っていてよくない。また、隙間を狙うところ、すべて後手に見えて、もつれるという感じがあって、(我が流派では)嫌うことである。

もし、短いもので、敵(の懐)に入身をして、組付こう、とらえようとしても、それは、大敵〔多数の敵〕の中では役に立たない企てである。短いものを遣うのに習熟した者は、大勢(の敵)でも切り払おう、自由に飛んで、(くるくる)転がろうと思うだろうが、それはすべて、受太刀というものになって、(敵に振り回され)あわただしい気持になるだけで、たしかな道〔やり方〕ではないのである。

同じことなら、我が身は強く真っ直ぐにして、人を追廻し、人に飛びはねさせ、人のうろめくように仕懸けて、(そうして)確実に勝つ、そこを専〔せん〕とする方がよいのである。

大分の兵法〔合戦〕においても、(同じ)その利〔理〕がある。同じことなら、人数かさ〔兵員量〕で圧倒して、敵を猛烈な攻撃にさらし、即時に攻め潰す気持、それが兵法の専〔せん〕である。

世の中の人が物事を習慣にすることだが、いつも、受けたり、かわしたり、すり抜けたり、下に潜ったりするのが習慣になっていると、心がその道〔やり方〕に引きずられて、人にふり廻されるようになってしまうのである。

兵法の道とは、真っ直ぐ正しいものである。それゆえ、正利〔まちがいのない戦い方〕をもって人を追い廻し、人を従属させる気持、それが肝要である。よくよく吟味あるべし。

 

 

【註解】

 

 (1)みじかき太刀ばかりにてかたんと思ところ、実の道にあらず

長い太刀、強みの太刀、ときて、こんどは短い太刀である。

昔から、「太刀、刀」といってとあるが、地之巻の「此一流二刀と名付る事」に、《昔は、太刀、刀と云、今は、刀、脇指と云》とあったところである。今は、刀・脇指というとあるから、昔の太刀は今の刀、昔の刀は今の脇指にそれぞれ対応するということらしい。ここは長短の話だから、太刀は長い方、刀は短い方ということになる。ただし、太刀は長三尺以上とか何とか、現代の訳知り顔が説くような、細かい寸法分類を武蔵がしているわけではない。

さて、ここは短い太刀の流派である。このケースは、前に出た、大太刀、強みの太刀、といった傾向とは逆である。短い太刀、小太刀を教える流派である。

短い太刀を得意とする戦法では、間合い近く入身をして、相手の振る太刀の隙をとらえて勝つ。長い太刀で間遠に勝とうとするのでもなく、強力〔ごうりき〕、力の強いのに物をいわせて粉砕して勝つのでもない。太刀が短いから、敏捷さと、かなり勇気のいる戦法でもある。

これに対し武蔵は、そうやって相手の懐に飛び込んで、隙を捉えて勝とうなどと思う気持がよくない、隙を狙おうとするところ、すべてが「後手」になって、もつれるという心があって、よくない、とするのである。
《ねばるハ強し、もつるゝハ弱し》
という、水之巻の教えもあったところである。

あるいは、相手の懐に飛び込んで隙を捉えて勝つという短い太刀の戦法では、敵の数が多いと役には立たない。敵が多勢でも相手を切り払い、飛んだり転がったりしようとするが、すべて「受太刀」というものになって、敵に振り回され、あわただしい心になるばかり、これでは、確実に勝てる方法ではない、と武蔵は批判するのである。

これによって見れば、武蔵は、敵の懐へ飛び込んで勝つという短い太刀の戦法の勇気を、必ずしも評価していない。それが危険を冒す無茶な戦法だからダメだというのではなく、むしろ逆に、この戦法が相手の隙を狙うところから、「後手」「受太刀」といった本質的に消極的な、人にふり廻される戦法である点を指摘しているわけである。

ようするに、短い太刀をもっぱら用いる流派は、後手になって《もつるゝと云心》、受太刀になって《とり紛るゝ心》があって、先をとるものではないからよくない。

第一、短い太刀にこだわる気持がよくない。世の中に強力〔ごうりき〕なる者があり、彼らは大きな太刀でも軽々と振れるので、長い道具を十分役に立たせるし、また鑓や長刀〔なぎなた〕をも持つ。彼らにとって、長い道具をもつのを否定する理由はない。あながち太刀の短いのを好むべきではない。

ここは、武蔵自身が強力の者で、五尺木刀のような長尺の道具も用いた、戦場では長刀を使った、という伝承からすれば、短い太刀にこだわる必要がないというのは、道理である。

すわなち、勇気は大切だが、短い方がよいと拘泥して、無理なことをする必要はないというところである。かくして武蔵の教えは、短い太刀をもってする戦法への偏向を批判するものである。

――――――――――――――――――


ここでの校異の箇処のうち、以下の諸箇処が問題であろう。すなわち、筑前系写本に、
《世の中に、強力なるものハ、大なる太刀をもかろ/\と振なれバ》
とあって、《かろ/\と》とするところ、肥後系諸本には、《かろく》とする。つまり、筑前系諸本が、「軽々と」とするのに対し、肥後系では「軽く」とするのである。

これは、仮名書字の類似が原因である。ようするに、「/\と」とあったのを、仮名「く」(久)と読み違えたものであろう。これは肥後系諸本に共通するところから、肥後で早期に発生した誤記のようである。

また、楠家本・細川家本に、《其ゆへハ、長きを用て、鑓、長太刀をも持ものなり》とあって《長太刀》とするところ、同じ肥後系でも、他の諸本には《長刀》とする。

五輪書に頻出する例を見れば、「鑓、長刀」とするのであるから、これも同前とすべきである。また、筑前系諸本は、もちろん「鑓、長刀」とする。これは、楠家本・細川家本の系統のみで発生した特異な誤記である。

この誤記は、楠家本・細川家本に見られ、丸岡家本をはじめ他の諸本には見えない。ということは、既述のように、楠家本・細川家本が系統的に近接している指標である。また、とくに、丸岡家本の系統にはない誤記だという点からすると、丸岡家本系統の先祖が派生した後の、後発性の誤字発生である。

とすれば、楠家本・細川家本に至るまでの伝写回数は少なくない、ということである。いいかえれば、写本としての楠家本・細川家本のポジションは後発的なもので、早期写本から相当距離があるという事実が析出されるのである。

次に挙げるべき校異は、筑前系諸本に、
《きらん、飛入ん、つかまへんなどゝ思ふ心、かたつきて悪し》
とあって、《つかまへん》と「へ」字を入れるところ、肥後系諸本には、これを《つかまん》とする。前者は、「捕まえん」ということで、後者は「掴まん」ということである。相異は、「へ」一字の有無である。

これは文意からすると、どちらとも決しがたいところである。「捕まえん」「掴まん」、どちらでも、ありうる。したがって、ここは筑前系諸本に共通する字句というポイントを押さえておけば、これが初期性をもつかたちだということになる。

ところが、次の校異は、別種のパターンである。数箇所集中するところであるから、以下にまとめて示す。

 

*【吉田家本】
《ミじかきにて仕得たるものハ、大勢をもきりはらはん、自由に飛て、くるはんとおもふとも、ミなうけ太刀と云【★】になりて、とり紛るゝ心有て、たしかなる道にて【★】なき事也》


*【楠家本】
《みじかきにてし得たるものハ、大勢をもきりはらはん、自由ニとばん、くるばんと思ふ共、ミなうけ太刀といふものになりて、とりまぎるゝ心ありて、たしかなる道にてハなき事也》


*【丸岡家本】
《短にて為得たる者は、大勢をも切拂ハん、自由に飛ん、狂ハんとおもふとも、皆受太刀と云ものに成て、取紛るゝ心有て、たしかなる道にてはなき事也》


*【渡辺家本】
《ミじかきにて仕ひ得たるものハ、大勢をもきりはらハん、自由に飛、くるバんとおもふとも、ミなうけ太刀と云【★】になりて、とり紛るゝ心ありて、たしかなる道にて【★】なき事也》


*【細川家本】
《短きにてし得たるものハ、大勢をもきりはらハん、自由に飛ばん、くるバんと思ふとも、皆うけ太刀と云物になりて、とりまぎるゝ心有て、慥成道にてはなき事也》


*【富永家本】
《ミじかきにてし得たる者は、大勢をも切はらハん、自由にとばん、くるわんとおもふとも、皆受太刀と云者になつて、取まぎるゝ心有て、たしかなる道にてハ無事也》

 

まず、最初のものから見れば、筑前系諸本のうち、早川系に《自由に飛て、くるばん》とあるところ、越後系では、《自由に飛、くるばん》である。筑前系諸本間に相異のあるところである。

これに対し、肥後系諸本は、基本的に《自由に飛ん、くるばん》というラインである。したがって、ここでは、筑前系/肥後系を見渡せば、《飛て》と「て」字を付すか、付さぬか、あるいはそうではなく、《飛ん》と「ん」字を付すか、という諸本相異が見られるのである。

これについて検分すれば、筑前系/肥後系の相異に着目するに、《飛て》/《飛ん》の相異が目に付く。「て」/「ん」の違いだが、これは直接変換の可能性は低い。

そこで、筑前系諸本間の相異に注目すべきである。すると、どうやら最初は《飛》一字であったらしく、《飛て》と「て」字を付すのは、後になっての補足のようである。他方、肥後系諸本の《飛ん》にしても、これも後になって「ん」字を補足したものである。

したがって、《飛》一字を原型として、双方向の補足があった。つまり、筑前系のうちでも早川系では「て」字を補足して《飛て》とし、肥後系では「ん」字を補足して《飛ん》としたようである。

こうした所見から、我々のテクストでは、《飛》一字を原型とみなして、ここを《自由に飛、くるばん》としている。

なお、《くるばん》は、「転ん」、転がろうという意味だが、肥後系丸岡家本などは、これを《狂ハん》と当て字しているのは、後世の誤りである。同じく富永家本に《くるわん》としているのも「狂わん」の語意と取ったらしく、これも誤読である。また、狩野文庫本に《組ん》とするのは、おそらく「狂わん」を異として改竄したものである。これらはいづれも後期写本における誤読改竄である。

ところで、次の校異は別種のパターンである。すなわち、筑前系諸本に、
《ミなうけ太刀と云になりて、とり紛るゝ心ありて、たしかなる道にてなき事也》
とあって、《と云に》《にてなき》とするところ、肥後系諸本には、それぞれ、《と云ものに》《にてはなき》とあって、「もの」と挿み、「は」と入れる。

これについて言えば、越後系を含めた筑前系諸本に共通することから、筑前系初期にあった語句であり、すでにみた前例からすれば、これをとるべきところである。

しかるに、文章のうえでは、どちらかというと、肥後系の《と云ものに》《にてはなき》の方が妥当のようにみえるであろう。前者は、《みな受太刀と云になりて》ではなく、《みな受太刀と云ものになりて》の方がよかろうし、また後者についても、《たしかなる道にてなき事也》よりは、《たしかなる道にてはなき事也》の方が、文は明晰である。

したがって、文の上からは肥後系諸本にみえる言句がより適切である。つまり、肥後系諸本の表現では、文章が「改善」されているのである。

おそらく、これは寺尾孫之丞後期における改善であろう。寺尾は承応あたりの前期には、筑前系諸本のような字句を有する五輪書を伝授したが、後期になって、肥後系諸本が伝えるような、改善された語句表現に改めたということである。

それゆえ、我々のテクストでは、前期形態に加えて、この後期と想定される語句を( )内に入れて示している。


(2)兵法の道、直に正しき所なれば

短い太刀を得意とする戦法の、その本質的な消極性を指摘した上は、武蔵の云うところ、戦いにおいて「先」を取るべしという教えである。
《同じくは、我身は強く直にして、人を追まはし、人にとびはねさせ、人のうろめく様にしかけて、たしかに勝所を専とする道也》

この武蔵の口説は、前に何度か出てきた。ここでも、同じことなら、我が身は強く真っ直ぐにして、相手を追廻し飛びはねさせ、相手のうろめくように仕かけて、確実に勝つという戦法をとれという。

これは、短い太刀をもってする戦法とは逆のことらしい。武蔵は短い太刀の戦法の「曲」に対し、ここでは「直」なる正攻法を対置させている。「直」なる戦法で、相手を「曲」にさせて勝つのである。
《大分の兵法におゐても、其利有。同じくは、人数かさをもつて、かたきを矢塲にしほし、則時に責つぶす心、兵法の専也》

大分の兵法、つまり合戦のような多人数の戦いでも同じことだという。兵員の数でまさるのを強みにして、敵〔かたき〕を「矢塲〔やにわ〕にしほし」――つまり、こちらの攻撃にさらして、即時に攻めつぶす、そんな「直」で強い勝ち方である。これが兵法の専〔せん〕、つまり兵法において第一に重要だという。

そこで、世間一般の人の例を出す。平生の行動や人間関係において、受身になったり、かわしたり、すり抜けたり、潜ったりする。日頃そのようなパッシヴな行動パターンになっていると、心がそのやり方に引きずられて、人にふり廻されてしまうとうになる。つまり、日頃のいつも習慣になっていることが、肝心の実戦のとき、出てしまうぞ。日頃から受身になったり正面から対決しない戦法を身につけていると、戦場では、人に振り回されてしまうぞ、というのである。

このあたり、武蔵から人生訓を学ぼうとする現代の実用本とは逆である。武蔵は、世間一般の人を譬えにして、実戦現場のことを教える。それに対して、現代の武蔵実用本は、武蔵の戦術戦法から、世俗的な処世術を学ぶ。両者は、はじめから交差することはあるまい。

それはともあれ、武蔵は云う、――兵法の道とは真っ直ぐ正しいものであるから、正利〔しょうり〕、つまり、正しい真っ当な戦い方によって、人を追い廻し、人を従える心が肝要である。人に「廻される」のではなく、人を「廻す」方に心を仕立てろ、ということである。このあたりは、初心者への教えという五輪書の特徴が出ているところである。

ここで、もうそろそろ注意してよかろうと思うのは、武蔵の教えの応変なることである。

長い太刀や強い太刀の戦法を批判するに、「正」に対して「奇」を、「直」に対しては「曲」を、それぞれ対置していたのであるが、この短い太刀の戦法については、「奇」に対する「正」を、あるいは「曲」に対する「直」を、強調している。

そこで案の定、これをもって、武蔵の教えには一貫性がない、とする評言がある。武蔵は、あちらではああ言い、こちらではそれとは反対のことを述べる。それでは話に一貫性がないではないか、というわけだ。――しかし、これは誤解というより、五輪書の内容をよく読む能のない者の批評である。

武蔵の教えは、《かたつき》、それしかないという偏向を嫌っているのである。短い太刀では必ず負けると決まっているかよ、というあたりは、ようするに、《むざと長きを嫌ふにはあらず。長きとかたよる心を嫌ふ儀也》という話なのである。武蔵は何ごとでも「居つく」ことを嫌う。《かたつき》は、心の「居つき」である。

この風之巻において特にその性格が表れているが、武蔵の論理は、それじたいがクリティカルに運動しており、いわば弁証法的である。弁証法とは、一つの同一性(identity)に居つかない運動のことである。

近年の我々の発掘調査によって明らかになったことだが、越後の武蔵門流の道具には、二刀のほかに、五尺木刀という長尺物もあれば、二尺の枕木刀もある。武蔵門流では、こうした小太刀も教えたのである。したがって、五輪書に小太刀批判があるからといって、武蔵が小太刀の使用を排除したと錯覚してはならない。

要するに、武蔵流は、特定の道具や戦法に拘泥せず、どのようにしてでも勝つという流儀である。つまり、異なったシーンには異なった対応があってしかるべきだというところである。それを通常、「臨機応変」という。しかし、通俗的な意味での臨機応変ではなく、かような書巻の論説においてこそ、武蔵の教えの弁証法が際立ってくる。

そうした特徴が出た、まさにそこを、非一貫性(inconsistency)とみなすのは、必ずしも間違いではなく、半分は正しい。なぜかならば、弁証法とは、一貫性(consistency)という、同一性の幻想を破砕するものであるからだ。武蔵流の戦法とは、まさにパフォーマティヴな非一貫性において、一貫性を期待してしまう同一性の錯覚を生産し、同時にそれを粉砕するものであった。

何であれ、同一性に居つくな、というのが武蔵の教えである。そういう意味で、武蔵流の論理は本質的に弁証法的なものであり、そこを理解しないと、五輪書というこのテクストの基本的なロジック、あるいはその原理も取り逃がされてしまうであろう。

――――――――――――――――――


ここで校異の問題を補足しておく。それは一見些細な一字の問題なのだが、我々の読みのスタンスを示すためにも、ここで採り上げておきたい。それは、筑前系諸本に、
《兵法の道、直に正しき所なれバ、正利をもつて人を追廻し》
とあって、「正利」とするところ、肥後系諸本には、「正理」とする。問題はこの「正利」と「正理」の相違である。

もとより五輪書では、「理」と「利」は互換性があって、「利」とあることろでも、それは当て字であって、意味は「理」と解した方がよいケースがある。また、「正理」〔しょうり〕は、それじたい世間普通の既成語句であるから、ここは武蔵のオリジナルには、おそらく「正理」とあったものと、一応はみなしうる。

肥後系諸本は、円明流系統も含めて、すべて「正理」であるから、これは肥後系早期にすでにあった語句である。

しかし、それでも気になるのは、筑前系諸本に共通して、「正利」とあることろである。例外は、早川系後期写本の伊丹家本で、これが「正理」とする他は、越後系後期写本の猿子家本にも、「正利」とするのであってみれば、筑前系は基本的に「正利」と書くものであった。

この点に留意してみれば、一見異例とみえる「正利」という語を前に座り直す必要があろう。武蔵のオリジナルには、この「正利」とあった可能性が高いからである。

そこで、これについて見てみれば、「正」〔しょう〕と文字は、まことに何にでも付くもので、たとえば、「正倉院」「正説」「正体」はむろんのこと、能舞台の正面の前方を「正先」〔しょうさき〕という。そこで、造語かもしれないが、武蔵は、世間一般の「正理」という後を避けて、ここに「正利」〔しょうり〕と書いたかもしれない。

ただしそれも、憶測でしかない。オリジナルの「正利」はこの二文字を書いて、「正の利」と読ませたものとも考えられるからである。当時の語法では、送り仮名は必ずしもあるとは限らない。

そして、ここは、《兵法の道、直に正しき所なれば、正利をもつて人を追廻し》である。「正理」をもって敵を追い廻すというのも、妙な話である。

前には、《同じくは、我身は強く直にして、人を追まはし》とあった。ようするに、「正利」の具体的な中身は、この《我身は強く直にして》ということなのである。つまり、「奇」に対する「正」のポジションである。

そんなわけで、ここは「正利」であったとしてみるのである。それは、ようするに、ここが「正理」だと、措辞として平凡すぎて、つまらないという印象や、「正理」でもって人を追い廻すということの奇怪さ、そこから出たことである。それよりも、ここは「正の利」で、「奇はない「正」の真っ当なやり方、戦い方、勝ち方、という意味合いにみたのである。

したがって、我々のテクストでは、「理」字ではなく、筑前系諸本の「利」字に、ポジティヴな意味を認め、それを採ったということである。


――――――――――――――――――

 

となると、ここで語訳の問題に立ち入る必要があるだろう。上記の「正利」に関するところをいかに訳しているか、既成現代語訳を見るに、おもしろい現象が生じている。

というのも、戦前の石田訳「正しい道理で」をはじめとして、戦後の神子訳も、「正しい道理をもって」とするところである。つまり、細川家本(岩波版)の《正理》を直訳して、「正しい道理」としたのである。

「正しい道理」――では、正しい道理があるなら、誤った道理もあるようだな、と半畳を入れても、ここはしかたがない。直訳だから、「理」を現代語の「道理」に置き換えただけ、工夫は何もないのである。

しかし、それだけではなく、――正しい道理で、正しい道理をもって、敵を追い廻す、――これは一体何のことか、意味不明の文なのである。

こういう変な現代語訳を放置すべきではないと思っていると、その後現れた大河内訳も鎌田訳も、相変わらず、「正しい道理をもって敵を追いまわし」なのである。事態は一向改善の気配がないのである。

また、この条文でも既成現代語訳には他に多々不足なるところがあるが、ここでは、もう一つだけ挙げておきたい。それは、既成現代語訳が底本にした細川家本では、《同じくバ、人数かさをもつて、敵を矢場にしほし、即時にせめつぶす心、兵法の専也》という部分である。とくに、《敵を矢場にしほし》とあるところが問題である。

「矢場」〔やにわ〕というのは、原義は、矢を雨あられと射て攻撃しているその現場、ということである。「しほす」は、「し干す」で、晒すの意である。したがって、《敵を矢場にしほし》は、「敵を猛烈な攻撃にさらし」という意味である。

ところが、既成現代語訳を見るに、この意味がわからなかったようである。戦前の石田訳は、「即座に敵をやツつけ」と意訳でもって対処しているが、もとより、ハズレである。

戦後の神子訳になると、これを「にわかに敵をおそい」と訳した。これはどうやら、「矢場〔やにわ〕に」を、現代語「やにわに」そのままに読んだらしい。これは、例の「そのまま」と同じで、訳さないことによって誤訳するというケースである。

しかも「しほし」の意味を知らないから、「敵をおそい」と適当な措置をして逃げている。しかし、神子訳の「にわかに敵をおそい」というのが、戦後の現代語訳の支配的前例になってしまったのである。

その後出た岩波版注記では、「矢場に」について「いきなり。すぐさま」と語釈している。これは、神子訳の路線に乗ったものである。

後続の語訳二例、大河内訳と鎌田訳は、原文を訳したのではなく、神子訳と岩波版注記を翻案したものであり、いい加減なものである。両者は「大軍勢」という語を使っているが、これは岩波版注記にあるのを頂戴したのである。

ようするに、原文を訳すのではなく、神子訳と岩波版注記をそのまま頂戴するか、翻案するかしただけの安易な作物を、臆面もなく「現代語訳・五輪書」として売っているわけである。これでは事態は、改善どころか、悪化する一方である。

 

 

 

5 他流批判4・太刀数が多い (他流に太刀かず多き事)

【原文】

一 他流に太刀数多き事。
太刀かず数多にして、人に傳る事、
道をうり物にしたてゝ、太刀数多くしりたると、
初心のものに深くおもはせんためなるべし。
是、兵法に嫌ふこゝろ也。(1)
其故ハ、人をきる事色々有と
思ふ所、まよふ心也。
世の中におゐて、人をきる事、替る道なし。
しるものも、しらざるものも、
女童子迄も、打、たゝき、切と云道ハ、
多くなき所也。若、かはりてハ、
つくぞ、なぐぞ、と云より外ハなし。
先きる所の道なれバ、
かずの多かるべき子細にあらず。
されども、場により、ことに随ひ、
上脇などのつまりたる所などにてハ、
太刀のつかへざるやうに持道なれバ、
五方とて、五つの数ハ有べきもの也。
夫より外に、とりつけて、
手をねぢ、身をひねりて、
飛、ひらき、人をきる事、實の道にあらず。
人をきるに、
ねぢてきられず、ひねりてきられず、
飛てきられず、ひらいてきられず、
かつて役に立ざる事也。
我兵法におゐてハ、身なりも心も直にして、
敵をひずませ、ゆがませて、
敵の心のねぢひねる所を勝事、肝心也。
(能々吟味有べし*)(2)
 

 

 

【現代語訳】

一 他流で太刀数の多い事

太刀数*を多くして人に伝えること、これは、道を売物に仕立てて、太刀数を多く知っていると、初心の者に深く思い込ませようとするためであろう。これは、兵法において嫌う心である。

そのゆえは、人を切る方法がいろいろあると思うところ、そこが迷う心であるからだ。

世の中において、人を切ることには、(特別)変った道〔方法〕はない。(剣術を)知る者も、知らない者も、女や児童までも、打ち、叩き、切る、という方法は、(決して)多くはないのである。もし変りがあるとすれば、それは、「突くぞ」「薙ぐぞ」というより外にはない。(何より)まず敵を切る方法であるから、数が多くあるべきわけがない。

けれども、場所により事情にしたがって、上や脇などが窮屈なところでは、太刀が差支えないように持つべきであるから、「五方」といって、五つの数はあってよいのである。

それより外に、数を増やして、手をねじり、身をひねって、飛んだり、(身を)かわし*たり、(さまざまのことをして)人を切ることは、真実の道ではない。

人を切る(ため)に、(手を)ねじっては切ることができず、(身を)ひねっては切ることができず、飛んでは切ることができず、(身を)かわしては切ることができない。(そんなことは)まったく役に立たないことである。

我が兵法においては、身搆えも心も真っ直ぐにして、敵を歪ませゆがませて、敵の心のねじひねるところを勝つこと、それが肝心である。

(よくよく吟味あるべし)

 

 

 

【註解】

 

 (1)道をうり物にしたてゝ

このあたり、武蔵の当時の時代風俗の知れるところである。

兵法が実戦から乖離するとともに、とくに剣術がファッショナブルになっていったようである。プロなり、エキスパートなりが、自身の存在理由として、さまざまに高度な技術を習得していると人に思わせる、そういう、いつの時代にもある傾向ではある。さながら、スーパーマーケットのように、商品を多品種取り揃えるようになってしまったのである。

太刀数を多く見せて、それだけ有利な剣法だと錯覚させて、剣術を商売にする者がある。これは前にも言及されてきた時代風俗である。兵法の商品化のなかで、さながら、スーパーマーケットのように、商品を多品種取り揃えるようになってしまったのである。

しかしながら、武蔵の批判はそうしたファッショナブルな剣術流行に対するものばかりではなさそうである。もっと根本の、太刀数の多い伝統的主流派への批判がある。

いま、諸流伝書によって、それを確認してみるに、下記一覧表のごとく、香取神道流、新当流、新陰流、一刀流の目録を挙げてみた。長いリストだが一通り見ていただきたい。

香取神道流目録

弓、平、払、違
地薙、乱、縛
  三条

間太刀
遠山、滝落
磯波、切留
突留、冤剣
足還
延太刀
扶太刀
無生留
横竪切
横切、蜘手
竜羽
金太刀
飛鳥翔
御幣折
五月雨
村雨、手中
無一剣
不打太刀
冠搆、真剣
妙剣
絶妙剣
独妙剣
金翅鳥
中央剣
懸中待
待中懸
未、不蓮花
開敷蓮花
極意向上
横一文字
竪一文字
英傑句

 

天真正伝新当流
兵法伝脉

八箇太刀 八本
七太刀 七本
小太刀 十本口伝
判官十二ヶ条
巴相、柴隠
竜分又柳葉
蜻蛉、虎乱入
獅子奮迅
飛鳥翔
順逆
夢枕、猿飛
残心
〇七条(情)太刀
引、車斜、払
違、薙、乱、縛
○霞太刀
遠山、滝落
磯浪、鴫羽返
切留、突留
上霞
○魔太刀
天牧切
地角切
人挂切戸
〇十箇太刀
○高上七本太刀
英傑、一文字
水月、玉簾
即位縛
五月雨
剣刃上
○長刀五宛
蜻蛉返一
蜘蛛二 羊三
獅子奮迅四
臥曲五
〇長刀七宛
柄返一 行違二
逆手三 臑切四
波帰五
竜尾返六
落甲七
〇長刀懸七本
違引薙
虎勢 摧車
突 顔衝眼突
○長刀高上七本
雲勢一 雲狂二
唯援鼠穴三
八無四 横雲五
出日六、入日七

 

 

新陰流目録
上泉秀綱→柳生宗厳

〇三  学
一刀両段
斬釘截鉄
半開半合
右旋左転
左(右)旋右(左)転
長短一味
〇九  箇
必勝、逆風
十太刀、和卜
捷径、小詰
大詰、八重垣
村  雲
○天狗抄
太刀数搆八ツ
  高林坊
  風眼房
  太郎房
  栄意坊
  智羅天
  火乱房
  修徳房
  金比羅房
添截乱截
無二剣
活人剣

高  上
極  意
神妙剣

八箇必勝

〇二十七ケ条截相

上段三、中断三、下段三

折甲二、刀捧三、打合四

上段三、中断三、下段三
燕   飛
燕飛、猿廻
月影、山陰
浦波、浮舟
獅子奮忍、山霞

 

一刀流兵法割目録

  真之五点
一、妙 剣
一、絶妙剣
一、真剣
一、金翅鳥王剣
一、独妙剣
 草之五点
一、妙 剣
一、絶妙剣
一、真 剣
一、金翅鳥王剣
一、独妙剣
  十二点
 新真之五点
一、妙 剣
一、絶妙剣
一、真 剣
一、金翅鳥王剣
一、独妙剣
 *柳枝五寸*
   (*梵字)
 九太刀
一、詰 入
一、添 切
一、身之曲
一、乱 留
一、寄 切
一、真之信剣
一、左 点
一、右 点
一、真之清眼
 目付之事
一、捨目付
一、四兵剣 有口伝
一、八重之目付
 付之事
一、大 先
一、同 中
一、小 本
一、四方之太刀相
 五ケ之極意之事
一、剣之段
一、無相剣
一、矩之積
一、一之位
一、真金翅鳥王剣
 上極意之事
一、払捨刀
一、同二方一段之位
一、同八方三段之位
一、左 足
一、右 足
  四 切

 

 それぞれ名称にはなかなか面白いものがあって、眺めているだけでも飽きないという人もあろう。これもある種の「浪漫主義」だとすれば、こういう衒学的とも言える名の羅列に、それなりの文化的意味もあろう。

文学的な呼称も多いが、とくに宗教用語からの引用もある。たとえば、上記のうち、上泉秀綱から柳生宗厳へ伝授されたという新陰流目録にみえる「一刀両段、斬釘截鉄、半開半合、右旋左転」などの名称は、『碧巌録』の公案から採ったものである。そうかといえば、むしろ伝統的に――たとえば、新陰流目録の「天狗抄」にあるごとく、

 

○高林坊
乱甲とは、たがいに上段の位にて、打太刀より切かくるを、遣方同じ位にて合、右の足を出し切かくるを、打太刀ふみこみ打を、遣方左へひらき、右の足をふみこみ、こぶしを切留。口伝。

○太郎房
小村雲とは、打太刀より中の清眼にて、あやを取、ふみこみ、こぶしを切所を、遣方より身にて、うらより切とむる。口伝。

○金比羅房
陰之霞とは、打太刀より陰のかすみに搆かゝる時、同〔じ〕陰の霞にかまへ、一、二、と合上る時、たゝと打足をのばし、鞠などののべのごとく、くはしてつめ勝。口伝。
橋返とも云、又とうとう切とも申、細道の二人相とて、跡先よりはさまれたる時も、吉と申也。口伝。

といった、異相異形の鳥人たる天狗絵図と能書きがみられる。太刀とこの天狗の鼻のシンボリックな相似性については、改めて言うまでもない。それがたしかにファリック(phallic)な一物であるとしても、逆に太刀がいかにファリックなものであるかを証言する幻想対象なのである。

またたとえば、新陰流伝書図巻(寛文五年)によって、その「月影」や「山陰」のいかなるものかを見るに、これが何ゆえの「月影」「山陰」なるや、図自体からは不明であるし、「浮舟」に至っては、対戦する両人が座り込んで、しかも一方が剣を前に投げ出しているのである。後世の我々としては、こうした剣術の「文化」に対しては、それなりの応接の仕方があろうと思われる。

 

しかし、これまで五輪書を読んできた者たちの眼には、ここに何かまったく異質の、精神の運動をみるであろう。しかしながら、それを言い換えれば、これらが当時剣術の主流であったとするとき、五輪書の武蔵の方こそ、まったくの異端であったことが知れるのである。

武蔵は、太刀数を多くする流儀に否定的である。太刀数を多くして人に伝えること、これは、道を売物に仕立てて、太刀数を多く知っていると、初心の者に深く思い込ませようとするためであろう、とまで言うのである。それゆえに、武蔵の考えを聞いてみる必要がある。

 

 

 (2)かつて役に立ざる事也

太刀数多数という流派への武蔵の批判は、いわば正論である。人を切る方法がいろいろあると思うところ、そこが心迷いである、とする。

人を切ることに、特別変った方法はない。剣術を知る者も知らない者も、女性や児童までも、太刀で「打つ・叩く・切る」という方法は、決して多くはない。もし何か変りがあるとすれば、「突く・薙ぐ」という方法だけである。

注意して読むまでもなく、人を切るやり方にプロも素人もない、男も女子供もない、というこのあたり、武蔵の言説の特徴がよく出ている。同型の話は、武士の「死ぬ覚悟」という話で、地之巻の序にもあった。

しかし、人を切るやり方にプロも素人もない、男も女子供もない、と述べるような兵法書が他にあろうか。その点では、空前絶後の兵法書である。これが五輪書の格別ユニークな相貌である。

されども、――と武蔵は云う――場所により事情にしたがって、特別な方法はある。それは、上や脇などが窮屈なところで、太刀が差支えないように持つ方法だ。そこで武蔵が示すのは、前に水之巻で示した「五方の搆」である。

しかし、それより外に、とりたてて変った方法はない、と武蔵は言う。変った方法とは、手を捩じり、身をひねって、飛んだり、身をかわしたり、さまざまなアクロバティックな曲芸をして、人を切る方法である。だが、それらは真実の道ではない、と武蔵は言う。

人を切るのに、そんな変った方法があるわけがない。ねじっては切ることができず、ひねっては切ることができず、飛んでは切ることができず、躰を開いては切ることができず、――およそ、こんなことは、まったく役に立たないことである。武蔵はこうした曲芸に対して、「直」を対置する。

すなわち、我が兵法においては、身搆えも心も真っ直ぐにして、敵を歪ませ、「曲」にさせて、敵の心のねじひねったところを勝つ、それが肝要である。――という教えである。

ここでは、我が方は「直」、それに対して敵を歪曲したものにして勝つ、という戦法である。ここに来て、太刀数多数を売り物にする流派の戦法は、まさに「歪曲」として粉砕されるのである。

興味深いのは、太刀数多数を誇る流派の代表として、ここで念頭におかれているらしい新陰流シンパからは、こうした五輪書の論法がまさに「歪曲」であって、不当な批判だとされるところである。

こうなると格別興味深いのは、まさしく武蔵流の戦法が、敵を《歪ませ》、曲芸をさせて勝つ、というところまで指南していることである。すなわち、武蔵の戦法批判と戦法そのものとは境界がなくなる。言い換えれば、言葉と行為、エクリチュールとパフォーマンスの境界が消滅するわけで、そこが兵法書という実戦的テクストの極めて特異な存在たる特徴であり、武蔵の五輪書とはまさしくそのような言葉と行為の二つの次元を直に横断する、異例にして異様な書物なのである。

――――――――――――


ところで、この箇処での校異について云えば、まずは、次の箇処であろう。すなわち、筑前系諸本に、
《人をきるに、ねぢてきられず、ひねりてきられず、飛てきられず、ひらいてきられず》
とあるところ、「切るに」「切られず」ということで、この「切られず」は、受動態ではなく、「切ることはできない」という可能/不可能の意である。

ところが、この「きられず」を一部「きれず」とする写本が多い。これは、「きられず」の「ら」字の脱落である。しかも肥後系諸本をみるに、この脱字箇処がまったくまちまちである。つまり、この「きれず」は書写段階での偶発的な脱字による写し崩れである。

筑前系では諸本ほぼ、「きられず」に揃えているが、越後系猿子家本では、一ヶ所「きれず」である。肥後系では、楠家本が一ヶ所、細川家本が二ヶ所、丸岡家本だと三ヶ所になる。そうなると、「きれず」の方が多くなる。

これを見るに、いかにもこのバラツキには偶発性がある。この点について、とくに「きれず」とする有意の理由もないことから、我々のテクストでは、「きられず」の方で統一している。

次の校異の問題では、肥後系諸本のなかでも楠家本にのみある相異を挙げておく。すなわち、楠家本には、
《敵をひずませず、ゆるませて》
とあって、これは文の意味からすれば大きな差異を示している。ここは、筑前系諸本を参照するまでもなく、「ひずませ、ゆがませて」でなければならない。それに対し楠家本では、「敵をひずませず、弛ませて」となる。これでは文意不通である。

これは、第一に、「ませ」に「ませす」と、つい誤って「す」字を付したものであろうし、また「ゆがませ」の方は、おそらく「ゆるませ」の「る」字を、仮名「か」(可)と誤認して書写したものであろう。

ここは、系統的に近縁であるところの細川家本が、「ひずませ、ゆがませて」とするから、この点では、細川家本の方が正しい。しかし、細川家本の方が正しいケースもあれば、他に見るように楠家本の方が正しいこともある。両者の写し崩れは同レベルであり、とくにどちらにアドヴァンテージがあるとも云えない。

もともと両者は、肥後系早期写本からかなり隔たったところでの作物である。寺尾孫之丞から門人へ宛てた奥書があるからいって、直接の写本なのではない。奥書などは、断簡があればそれを見て付け足すことができるのである。

次にまた、校異の点で指摘すべき箇処がある。順序が後先になるが、別の諸箇処において、以下の如く筑前系/肥後系の間に相異がある。

 


*【吉田家本】
《太刀数多くしりたると、初心のものに深くおもわせんためなるべし。是、兵法に嫌こゝろ也。其故ハ、人をきる事、色々有と思ところ、まよふ心也。世の中におゐて、人をきる事、替る道なし。しるものも、しらざるものも、女童子迄も、打、たゝき、切、と云道ハ、多くなき所也。若、かわりてハ、つくぞ、なぐぞ、と云より外ハなし》


*【楠家本】
《太刀かずおゝくしりたりと、初心のものニふかくおもはせんためなるべし。【★】兵法にきらふ心也。其故ハ、人をきる事、色々あるとおもふ處、まよう心なり。世の中におゐて、人をきる事、かはる道なし。しるものも、しらざるものも、女童【★】も、打、たゝき、きる、といふ道ハ、おゝくなき所也。若、かはりては、つくぞ、なぐぞといふ【★】外ハなし》


*【富永家本】
《太刀数多く知りたると、初心の者に深くおもハせん為なるべし。【★】兵法にきらふ心なり。其故ハ、人を切る事、いろ/\有と思ふ所、まどふ心也。世の中におひて、人を切る事、替る事なし。知者も、不知者も、女童【★】も、打、たゝき、切、と云道ハ、多くなき處なり。若、替りてハ、つくぞ、なぐぞと云【★】外ハなし》


*【渡辺家本】
《太刀数おふくしりたると、初心のものに深くおもハせんためなるべし。是、兵法に嫌ふ心也。其故ハ、人をきる事色々有と思ふ所、まよふ心也。世の中におひて、人をきる事替る道なし。しるものも、しらざるものも、女童子迄も、打たゝき切といふ道ハ、多くなき所也。若、かハりてハ、つくぞ、なぐぞ、と云より外ハなし》


*【細川家本】
《太刀数おほくしりたると、初心のものに深ク思ハせん為成べし。【★】兵法にきらふ心也。其故は、人をきる事、色々あるとおもふ所、まよふ心也。世の中におゐて、人をきる事、替る道なし。しるものも、しらざるものも、女童子【★】も、打、たゝき、きる、と云道は、多くなき所也。若、かハりては、つくぞ、なぐぞと云【★】外ハなし》


*【狩野文庫本】
《太刀数多知たると、初心の者ニ深おもハせん為成べし。【★】兵法に嫌ふ心也。其故は、人を切事、色々有と思ふ所、まよふ心也。世中におゐても、人を切事、替道なし。智者も、【★】、女童【★】も、打、たゝき、切、と云道ハ、多なき所也。若、かわりてハ、突か、なぐかといふ【★】外はなし》


すなわち、この部分に関して、筑前系諸本に共通して存在する語句が肥後系にはない。このあたり、肥後系諸本には、脱字が集中して存在するということである。

それを順に拾っておけば、一つは、筑前系諸本に、《是、兵法に嫌こゝろ也》とするところ、肥後系諸本では、この《是》字を欠く。二つ目は、筑前系諸本に《しるものも、しらざるものも、女童子迄も》とあって、《女童子迄も》とするところ、肥後系諸本では、この《迄》字を脱落する。第三には、筑前系諸本に《つくぞ、なぐぞ、と云より外ハなし》とあって《云より外》とするところ、肥後系諸本では、この《より》を落す。

肥後系諸本におけるこの脱字箇処は、肥後系早期に発生した脱落である。というのも、早期に派生した系統の子孫たる富永家本や円明流系諸本に至るまで、ほぼ共通している脱字だからである。おそらく、門外流出後比較的早期に、この誤記が発生したのである。

肥後系現存写本が、共通してこの誤記を有するのであるから、これは諸本の系統派生後の偶発的な異変ではない。それら諸本の元祖となる、ある特定の一本が存在したと推測しうるのである。この元祖一本は、原本の門外流出後さして間もなく生れた海賊版写本であろう。その一本の親本もしくはその元祖一本の作成時に、これらの脱字が出揃ったのである。

現存諸写本は複数の系統に派生した写本の子孫であるが、遡れば同じ写本に行き着く。この肥後系諸本の元祖一本の存在から知れるのは、現存所写本はいづれも寺尾孫之丞段階の写本に「直接」する「子」や「孫」ではなく、距離がかなりある「末裔」だということである。つまり、系統派生の過程で少なくとも複数回伝写され、その結果生れたのが、現存所写本なのである。

このことからすれば、楠家本・細川家本・丸岡家本等、肥後系の中でも古いとされる三本についても、そのポジションについては同様である。この三本も、初期写本の「子」や「孫」ではなく、そこから距離がかなりある「末裔」だということである。

もう一つ校異の問題箇処を挙げるべきものがある。それは上記とは逆のパターンである。つまり、肥後系諸本には記されているのに、筑前系諸本にはそれを欠く、というものである。

すなわち筑前系諸本には、本条末尾の、《勝事肝心也》の後に、《能々吟味有べし》という語句がないのである。これに対し、肥後系諸本には、共通してこの字句を記載している。

風之巻各条にあるこの結語の字句が、ここに限って見えない。文章の体裁上は、ここに《能々吟味有べし》があるべきところである。とすれば、これを脱落とみなすのは容易である。

しかるに、筑前系諸本は、どれも共通して、この字句を記さない。とすれば、筑前系初期にはこの字句は存在しなかったのである。おそらく、寺尾孫之丞が柴任美矩に伝授した五輪書には、この字句はなかった。

このように結語相当文を欠くのは、ここだけの特異例だということではない。たとえば、地之巻で、「此一流二刀と名付る事」条に、《一をもつて万をしるべし。兵法の道、おこなひ得てハ、ひとつもミヘずと云事なし。能々吟味有るべき也》とあるが、次の「兵法二の字の利を知事」条には、《いづれも人間におゐて、我道々を能みがく事、肝要也》とあって、前条のような《能々吟味有るべき也》という結語はない。

また、他の事例を挙げれば、水之巻に、
《此書付ばかりにてハ、中々打得がたかるべし。教を受てハ、忽合点のゆく所也》(二のこしの拍子の事)
《此うち、ならひ得てハ、たしかにうちよきもの也。敵の位を見分事、肝要也》(流水の打と云事)
とあって、いづれも前後の他の条々のような結語に相当する文はない。したがって、ここで結語がないからと云って、異例とするわけにはいかない。

とすれば、肥後系諸本に、なぜこの字句があるのか。――これは、既出例と同じく、一つは、寺尾孫之丞の前期/後期の記載相異という可能性である。寺尾は、柴任に相伝した承応期のような前期と、後の寛文期のような後期と、まったく同じ内容の五輪書を伝授したのではない。前期には書かなかった語句が、後期には書かれることもありえないことではない。

もう一つは、やはり寺尾後期もこの語句はなかったが、後に門外流出後の写本で、前後の条々との整合性を勘案して、ここに結語の字句を付加したという可能性である。この二つの可能性は、どちらとも言えない。両方ともありうることである。

しかるに、上述のように、やはり寺尾孫之丞前期の五輪書には、ここに《能々吟味有べし》という結語がなかった。とすれば、では、武蔵草稿のオリジナルではどうだったのか?

もとより、寺尾孫之丞前期これがなかったとすれば、武蔵草稿には、ここに結語がなかった可能性が高い。上掲例のように、結語のない条々も他にはある。寺尾孫之丞は、《能々吟味有べし》なる結語を欠く武蔵の原稿そのままに、清書して柴任へ伝授したのである。

ただし、後期の寺尾が、この結語の字句を増補した可能性もなきにしもあらず。したがって、我々のテクストでは、結語の《能々吟味有べし》については、それを( )に入れて示してある。なぜこれが括弧に括ってあるか、それは如上のことがあるからである。

6 他流批判5・太刀の搆え (他流に太刀の搆を用ゆる事)

【原文】

 一 他(流*)に太刀の搆を用る事。
太刀の搆を専にする事、ひがごと也。
世の中に搆のあらんハ、
敵のなき時の事なるべし。
其子細ハ、むかしよりの例、
今の世のさた*などゝして、
法例を立る事は、勝負の道にハ有べからず。
其相手の悪敷様にたくむ事也。(1)
物毎に、搆と云事ハ、
ゆるがぬ所を用る心也。
或ハ城を搆、或ハ陳*を搆などハ、
人にしかけられても、
強くうごかぬ心、是常の儀也。
[兵法勝負の道におゐてハ、何事も先手/\と心がくる事也。かまゆるといふ心ハ、先手を待心也。能々工夫有べし]*
兵法勝負の道ハ、
人の搆をうごかせ、敵の心になき事を
しかけ、或は敵をうろめかせ、
或ハむかつかせ、又ハおびやかし、
敵のまぎるゝ所の拍子の利をうけて、
勝事なれバ、搆と云後手の心を嫌也。
然故に、我道に有搆無搆と謂て、
搆ハ有て搆ハなきと云所なり。(2)
大分の兵法にも、
敵の人数の多少を覚へ、其戦場の所をうけ、
我人数の位を知り、其徳を得て、
人数をたて、戦をはじむる事、是合戦の専也。
人に先をしかけられたる事と、
我先を*しかくる時ハ、一倍も替る心也。
太刀を能かまへ、
敵の太刀を能うけ、能はると覚るハ、
鑓長刀をもつて、さくにふりたると同じ、
敵を打ときは、又、さく木をぬきて、
鑓長刀につかふ程の心也。
能々吟味有べき也。(3) 

 

 

【現代語訳】

 

一 他流で太刀の搆えを用いる事

太刀の搆えを専〔第一〕にすることは、間違ったことである。

世の中に搆えがあるのは、敵がいないときのことであるはずだ。そのわけは、昔からの慣例、今の世の沙汰〔法令〕などとして、法例を立てることは、勝負の道にはあってはならない。(勝負の道とは)その相手の具合の悪いように企むことである。

どんなことでも、搆えということは、ゆるがぬところを用いるということである。あるいは城を搆え、あるいは陳〔陣〕を搆えるなどは、相手に攻撃を仕懸けられても、強く動かぬということ、これが通常の意味である。
[兵法勝負の道においては、何事も先手先手と心懸けるのである。搆えるというのは、先手を待つということである。よくよく工夫あるべし]
(これに対し)兵法勝負の道は、人の搆えを動揺させ、敵の予期しないことを仕懸け、あるいは敵をうろめかせ、あるいはむかつかせ、またはおびやかし、敵が混乱するところ、その拍子の利〔優位〕を受けて勝つことであるから、搆えるという後手の心を嫌うのである。

それゆえに、我が(兵法の)道では、「有搆無搆」〔うこうむこう〕といって、搆えはあって搆えはなしと云うのである。

大分の兵法〔合戦〕でも、敵の人数〔軍勢〕の多い少ないを認識し、その戦場の場所に応じて、我が人数〔軍勢〕の位〔態勢〕を知り、その長所を生かして陣立てをし、戦闘を開始すること、これが合戦の専〔せん〕である。

相手に先〔せん〕を仕懸けられたのと、こちらが先を仕懸ける時とでは、(その利・不利は)倍も違うのである。

太刀をよく搆え、敵の太刀をよく受け、よく張ろうと意識するのは、鑓・長刀を防護柵にしている*のと同じことであり、敵を攻撃する時になれば、また柵木を抜いて鑓・長刀に使おうとするようなものである。(この点)よくよく吟味あるべきである。

 

 

 

【註解】

 

 (1)太刀の搆を専にする事、ひがごと也

ここは前節の連続である。太刀数の多いのと、太刀の搆えを重視することとは、一連のことである。

さて、冒頭から、ずばり、この通り、《太刀の搆を専にする事、ひがごと也》である。太刀の搆えを第一として重視するのは間違ったことだ、というのである。

ふつう、剣術といえば、太刀の搆えを重視する。したがって、流派のなかにはさまざまな名をつけて呼ぶ搆えがある。それは前条の諸流目録においてみたところである。

ここでも、他の例として『軍法兵法記劔術之巻』(天正十五年 伝山本勘助著)から、太刀の搆え(位)をひろってみれば、以下の如きものである。

 

 上の各図の搆えの上中下段につき、電光位、寒夜聞霜位、浮船位、一葉浮水位、山月位、村雲位、閑眼位、晴眼位、偽客位、睡猫位等々の名がある。二刀まで入っているのは、この伝書が新しいことを示唆し、もとより「天正十五年、山本勘助著」は疑わしいところで、後世の偽書である。

ここで他流と言わず、武蔵に関連する流派の仕儀を見ておくことも必要であろう。たとえば、肥前佐賀の鉄人流や越後村上の時中流は、ともに二刀流であり、鉄人流は青木鉄人を流祖とし、時中流は青木休心を祖とする。

両人とも武蔵の門人だという説があるのだが、鉄人流や時中流の目録には、武蔵を元祖とする記載が無い。したがって、明確な話ではない伝説を濾過すれば、同じ二刀流でも武蔵とは異系統の流派とみるべきであろう。

時中流の伝承では、青木休心は「宮本無二」から實手兵法の伝授を受けたということであったらしい(秘伝巻)。宮本姓は武蔵の代になって用いはじめたのだから、新免無二が「宮本」を名のるわけがないので、この伝承それじたいは後世の変形を受けたものである。ただし、武蔵を経由しない新免無二の道統が、武蔵以後も各地で存続していたことは、諸書でそれが知れる。

この時中流伝書に記載された横山親安の序文によれば、無二は流名を「百戦百勝、無二亦無三實手」と名づけたという。他方、十八世紀には、尾張でも筑前でも、それが「無二流」で通っていた。今日一般に、無二の流名が「当理流」であったと錯覚されているが、むろんそれは後世の末流の名の一つにすぎない。いわば、それは無二の流名が「時中流」だったと錯覚するにひとしい誤認である。

ところで、鉄人流と時中流の伝書をみれば、伝系が異なるから双方相違があるのも当然だが、反面、興味深いのは、肥前と越後と遠く離れているにもかかわらず、双方内容がほぼ共通している目録もあることである。とすれば、鉄人流や時中流は新免無二の古流の姿を留めている可能性もある。それと比較すれば、無二の十手二刀術を、武蔵がいかに革新したか、その一端が知れようというものである。

じっさい、鉄人流や時中流の搆えは、五輪書の教えのようにシンプルなものではない。むしろ逆に、あれこれ術名が多く賑わいをみせている。

▲鉄人流絵目録

 ごらんのように、いわゆる「表」には、當合切、右鐵、左鐵、中道縛殺、陰縛殺、陽縛殺等の名がみられ、また「極意秘術」としては、陽鐵、陰鐵、總捲、飛刀劔、陽位、陰位、眞位、實手捕、光明眞劔等々の名がある。当理流伝書にも一部類似の名がみられるところである。これらを、五輪書に照らせば、それぞれの搆えはむろん、名称からしても歴然として異質であると知れよう。

それでも、これら伝書の搆えは決して多くはない。もっと多くの搆えの流派があった。これに対し、武蔵流は多くて五つ(五方)、それも、水之巻では、すべて中段へ還元できるとしていた。
《世の中に搆のあらんハ、敵のなき時の事なるべし》

武蔵はここで、面白いことを述べている。――世の中に搆えのあるのは、敵がいないときのことだ、というのである。

敵がいないから、搆えというものがある。――しかし、これは、相当シニカルな話である。というのも、敵がいるから搆えがある、敵がいないと搆えなど必要でない、というのが普通の考えである。それゆえ、搆えなどするのは、敵がいないときのことだ、という武蔵の論法には不意を衝かれるのである。

これは、搆えなどを重視するのは、実戦を知らない連中のすることだ、という含みがあって、シニカルな語り口なのである。

またこれは、伝統を誇示する流派への揶揄でもある。昔から師資相承、伝えられた奥義を各派後生大事に保守し、また伝えているが、そんなものにろくな値打ちがない、というところである。
《むかしよりの例、今の世のさたなどゝして、法例を立つる事ハ、勝負の道にハ有べからず》

つまり、昔からの慣例だ、今の世の沙汰〔法令〕などとして、「法例」を立てることは、政治の世界にあっても、勝負(軍事)の道にはあってはならない。――武蔵のこのスタンスは、当時にあっては独特なものである。どんな流派でも、流祖以来昔から伝承されてきたものだとして、それを自流の宝物にしているが、武蔵はそうした「伝統」を否定するのである。

こうした伝統破壊者としての武蔵のポジションは、むろん、近世的秩序形成以前の婆沙羅〔ばさら〕な精神構造と類縁のものである。武蔵は極めて反時代的な思想家たるスタンスにおいて一貫している者だが、ここでは兵法剣術の伝統を否定する存在として現れている。それは最も保守的なものが最も破壊的であるという見本のようなものである。
《其相手の悪敷様にたくむ事也》

兵法勝負の道とは、その相手の具合の悪いように企むことである。――そこまで云うのか、という感想もあろうが、そこまで云うのが、武蔵なのである。

ここで、相手の具合の悪いように企むことが悪だとすれば、それは正義の剣などというものではない。ここに武蔵の「悪」のテーゼは明らかである。これを剣聖武蔵というイデアル・イメージからみれば、まったく正反対の言葉なのである。

それのみならず、とくにこのあたり、柳生新陰流への批判とも見えるところである。『兵法家伝書』末尾には、有名な殺人〔せつにん〕刀・活人〔かつにん〕剣のテーゼがある。この人を殺す刀が逆に人を生かす剣であるというテーゼは、むろん、殺人刀・活人剣という語の本来の出典――すなわち、『碧巖録』その他禅家語録公案集――の意味とはまったく違う、歪曲された意味へ転化してしまっている。

すなわち、同書上巻冒頭に、「兵者不祥之器…」という兵法書『三略』の一節――『老子』にも同様の有名な一節(三十一 偃武)があるが、宗矩の依拠したのは『三略』である――を挙げて、弓矢・太刀・長刀など武器は不吉不幸の道具だというが、やむをえず武器を用いて殺すのも天道だというのであるとして、一人の悪によって、万人が苦しむ事がある、しかるに一人の悪を殺して万人を生かす、これなどまさに、人を殺す刀は、人を生かす剣でありうるのではないか――という論法を展開するのである。

言うまでもないが、「一人の悪を殺して万人を生かす」とは、悪逆な王を誅殺する反逆の大義である。しかし、それまで我が国にそのような大義の戦争など現実に存在しなかった。実際には、「万人を殺して一人の悪を生かす」のが内戦の実態であった。それゆえ、幾千万の屍を踏んで最終的に勝ち残った徳川家康に臣従した柳生宗矩だから、人から見れば、これはまことに独善のきわみ、奇怪な科白なのである。

また、殺人刀・活人剣について云うに――人を殺す刀が逆に人を生かす剣であるとは、乱世には、理由もなく人が多く死ぬのであり、そんな乱れた世を治めるために殺人刀を用いる、しかしそれがもはや治まった時は、殺人刀即ち活人剣ではないか――というわけである。

この正義の剣、治者の剣は、すなわち覇権の剣であり、その秩序形成のもたらした創始的暴力(founding violence)の合理化こそ、宗矩の殺人刀・活人剣論である。幾千万の屍を踏んで最終的に勝ち残った一人の「極悪」が、偃武を宣言し聖君に変身したのである。これに対し、《其相手の悪敷様にたくむ事也》という、まさに戦闘の本質を衝いたこの一言において、正義の秩序を樹立する剣という、柳生宗矩の『兵法家伝書』の政治的虚搆は切り崩されているのである。

まさしく、そうした文脈から、武蔵の「世の中に搆えのあることは、敵がいないときのことだ」というテーゼの外周にあるものを読取るべきであろうと思われるのである。


――――――――――――

 

この部分の校異では、指摘すべき箇所がいくつかある。まず、我々のテクストにおいて、冒頭見出しの《他(流)に太刀の搆を用る事》とするところ、諸本には、《他に》とあって、「流」字が欠落している例がある。それを、補欠して、「他(流)に」としておいたのである。

この「流」字の脱落は、筑前系諸本と、肥後系の一部(楠家本・細川家本)に見られる。したがって、筑前系だけではなく、肥後系にも共通する脱字であることから、これは寺尾孫之丞段階ですでにあった脱字であるとみなしうる。

しかるに、同じ肥後系でも、丸岡家本には、「他流に」とあり、また円明流系統写本にも「他流に」と記す。他方、富永家本では「他流」と記す。これは、「他に」と「他流に」の中間形態ともみえる。

これらは、後世になって、《他に》という字句に異をみとめ、ここに脱字誤字があろうとして、「流」字を補足したものであろう。それら諸本の補正は、今日の我々の所為と同じスタンスからするものである。

ともあれ、筑前系/肥後系を横断して所在を確認できるところから、この「流」字の脱落は、寺尾孫之丞段階に帰すべきものである。そして、柴任美矩に渡した前期の写本にも、後期の寛文時相伝の五輪書にも、この脱字があったとすれば、それは偶発的なものではない。

そうして、これが武蔵の草稿になかったとは断言できない。ただ、もしその場合なら、寺尾孫之丞がこの「流」字を補欠したはずである。したがって、これは武蔵のオリジナルにはなかったもので、寺尾孫之丞が編集する過程で作成した寺尾版において発生した脱字であろう。

五輪書全体としては、寺尾孫之丞は、きわめて忠実な書写者なのだが、ときどき誤読も誤記もある。その一例がこれである。

いづれにしても、風之巻の他条を参照すれば、ここは「他流に」とあるべきところであり、その体裁上の統一ということから、我々のテクストでは、一部写本がすでにしたように、「流」字を補足して、「他(流)に」と記しておいたのである。

さらに、もう一つ指摘しておくべき校異がある。それは、筑前系諸本に、
《太刀の搆を専にする事、ひが事也》
とあって、「事」としているが、肥後系諸本にはこれを「所」とするものがある。つまり、「事」と「所」の相異である。

しかるに、肥後系諸本がすべて「所」と記すかといえば、そうではない。富永家本や円明流系統の多田家本等には、これも「事」とあって、筑前系諸本と同じである。したがって、肥後系早期写本には、「所」ではなく「事」と記すヴァージョンがあったと知れる。

つまり、肥後系早期には「事」字を記していたが、後になって、これを「所」と改変した写本が発生した。これはたんなる誤写ではない。というのも、続く文に、《世の中に搆のあらん事ハ》とあるところから、《ひが事》もふくめて「事」字が前後三つ重なるのを異として、これを「所」へ書き換えたというところであろう。

しかるに、《世の中に搆のあらん事ハ》の「事」字は、筑前系諸本には存在しない書字である。それが筑前系諸本に共通して存在しないところから、本来はなかった語であるとみなしうる。したがって、肥後系写本に発生した異変のプロセスは、

  「専にする事、ひがごと也。世の中にかまへのあらんハ」

  →「専にする事、ひがごと也。世の中にかまへのあらん事ハ」

  →「専にする所、ひがごと也。世の中にかまへのあらん事ハ」
という順序で、遷移したものである。現存写本のうち、これを「所」と書くものは、その子孫なのである。

これに対し、筑前系諸本は共通して、これを「事」と記す。それゆえ、これは筑前系初期から存在した字句である。前の諸例と同じく、このパターンでは、これを古型とみなすべきである。

以上のことから、「専にする事」の「事」字の初期性をみとめ、我々のテクストでは「事」字を採っている。

そこで、興味深いのは、富永家本である。これは肥後系写本であるが、筑前系諸本と同じ語列を示している。つまり、《専にする事、ひがごと也。世の中にかまへのあらんハ》と記すのである。

これもまた、富永家本が古型を保存しているという一例なのである。富永家本は写し崩れの多い後期写本であるが、肥後系の中でも早期に派生した写本とみえて、このような痕跡を示すことがあるわけである。


このあたりの諸本校異で、もう一つ問題にすべきは、以下の箇処であろう。それはすなわち、筑前系諸本に、
《其子細ハ、むかしよりの例、今の世のさたなどゝして》
とあって、《さた》(沙汰)とするところ、これを肥後系諸本では、共通して、これを《法》と記している。

このケースでは、《さた》という書字が筑前系諸本に共通するところから、既出例と同じように、これを初期形態とみなしうる。

これに対し、肥後系も諸本共通して、「法」字を記すのだから、肥後系早期からこの文字があったのである。ただし、「さた」という書字が直接「法」という漢字に変ることはありないし、逆に、「法」という漢字が「さた」という仮名に直接変身することもない。そこで、問題は、「法」という漢字が寺尾孫之丞段階にまで遡りうる文字か、ということである。

もし寺尾孫之丞の段階で存在したとすれば、その後期に「法」と記したということになる。つまり、このケースは、寺尾孫之丞段階での改変であって、前期の相伝時には「さた」としていたものを、後期には「法」という漢字を記すようになった。つまり、「さた」という仮名に「法」という漢字を当て字したということである。

ただし、ここは、別のことも考えられる。それは、寺尾孫之丞段階ではなく、それより以後の伝写過程で改変があった可能性である。つまり、「さた」を誤記とみなして、「法」字に変更したという可能性である。

というのも、ここは、《其子細ハ、むかしよりの例、今の世のさたなどゝして、法例を立る事ハ》とあって、後に「法例」という語がある。前には、《むかしよりの例》とあって、「例」字が出ている。そこで、いわば一種の引き算があって、「法例」-「例」=「法」という具合に、この「さた」を「法」だと推測したものらしい。ということであれば、仮名「さた」二文字が、漢字「法」一字に変身することもある。

このケースでは、「法」字の発生は、寺尾孫之丞以降ということになる。それが門外流出後の肥後系早期写本で発生し、以後、肥後系写本で再生産されたのである。

以上のケースについては、我々は後者の所見をとっている。ともあれ、筑前系諸本に共通するということから、《さた》という語句には初期性がある。そこで、この《さた》と《法》の校異に関して、我々のテクストでは《さた》を採っているのである。

 

(2)有搆無搆

搆えるとは何か。――それは、城搆えや陣搆えの例のように、相手に攻撃を仕掛けられても、強く動かぬということだ。これが通常の意味である。

――というところで、またまた、沢庵宗彭の「不動神妙智」など連想されるのであるが、そこまで行かなくとも「不動心」といった通俗概念は想起されたのである。それも理由なき連想ではない。当時の読者なら、この部分で、武蔵が何を当てこすっているのか、よく知っていたのである。

搆えということは、《人にしかけられても、強くうごかぬ心》だと。それに対し、兵法勝負の道は、相手の構えを動かすことなのである。つまり、――人の搆えを動揺させ、敵の予期しないことを仕掛け、あるいは敵をうろめかせ、あるいはむかつかせ、またはおびやかし、敵を混乱させ、その混乱するところの機に乗じて勝つことである。したがって、搆えるという「後手」の心を嫌うのである。こうした論説において、武蔵のポジションは鮮明である。

すなわち、水之巻のテーゼが反復されて、
《然故に、我道に有搆無搆と謂て、搆ハ有て搆ハなきと云所なり》
と語る。まさしく「有搆無搆」、搆えはあって搆えなしという逆説である。

すでに述べたように、武蔵の根本的なスタンスは、

  「搆えなど、本当はどうでもいい」
ということにある。搆えとはいっても、その搆えの形式に何の意味もない。何のために搆えがあるか。ただ太刀を――其敵きりよき様に持心也。その敵を切りやすいように太刀をもつ、というだけだ、という教えである。

この点で言えば、柳生宗矩『兵法家伝書』にも、一見、これにやや似た教えがある。どんなに搆えの数は多くても、要は一つ――彼によれば、手字種利剣〔しゅじしゅりけん〕――に極まるとしている。しかし、この極意の眼目としての手字種利剣は、武蔵の言う「搆えはあって搆えなし」とはまったく違ったものである。

搆えなど、要するにどうでもいい、というのが、武蔵のスタンスであるのに対し、宗矩の方は究極唯一の極意として秘伝とするのである。百様の搆えの究極である搆えがあるとする。これに対し武蔵は、搆えという考えを捨てろ、と教える。

言わば、方向はまさに正反対である。つまり、武蔵は宗矩の教理の内容を知っていた以上、《我道に、有搆無搆と謂て、搆は有て搆はなきと云所なり》というテーゼ、これは宗矩あるいは柳生新陰流の理論言説を批判したものと言わねばならない。

少なくとも、次の点は言えるであろう。すなわち、――武蔵を客分として、三百石の滞在費を出した肥後熊本城主・細川忠利は、それ以前に、柳生新陰流の印可をうけていたし、また柳生十兵衛の『月之抄』にもその証悟を二三収録されたほど、柳生流とは親縁関係にあった。その忠利が晩年、武蔵を客分にしたのは、むしろ物好きと言わねばならぬが、それというのも、忠利は武蔵が柳生宗矩の教理に批判的であることを知っていたはずだからである。


――――――――――――


ここでは、かなり大きな校異がみられる。それは、上掲の我々のテクストでも、[ ]で括って示した部分である。この部分は、肥後系諸本にあって、筑前系諸本にはないものである。

すなわち、肥後系写本には、
《兵法勝負の道におゐてハ、何事も先手/\と心がくる事也。かまゆるといふ心ハ、先手を待心也。能々工夫有べし》
とあるところである。

この一件について云えば、まず考えられるのは、筑前系写本の早期にこの部分が脱落したということである。このあたりには「兵法勝負の道」という語がある。書写するとき、同じ語句が間をおいて現われる場合、ついその間にあった字句を落としてしまうことがある。このケースもそれがあって、脱落が生じたものであろうという、その可能性である。

これは、筑前系の立花系統も早川系統も共通している。したがって、柴任美矩→吉田実連という早い段階ですでに脱落したものと想定できないこともない。

しかるに、また、もう一つ別の見方も可能である。考えられるのは、これまでのいくつかのケースでみたように、寺尾孫之丞の段階でも、前期と後期に相伝写本に相違があることである。そのことからすれば、この一件も、脱落ということではなく、そもそも、寺尾孫之丞が柴任美矩へ伝授した五輪書には、この部分がなかったのである。この部分がなくとも、前後の文脈に不都合はないから、内容の点でも瑕疵はない。

むしろ云えば、直前に《強くうごかぬ心、是常の儀也》とあって、次には《兵法勝負の道は、人の搆をうごかせ》とあって、文章の構造はこちらの方が明確である。肥後系諸本の場合、《先手を待心也》などとあって、話がいったん脇へ流れ、しかも《能々工夫有べし》という結語に類する語句まであるから、ここで文章の流れはいったん中断してしまう。

そこで、肥後系写本の流れを汲む多田家本などは、ここで、この条文が終ったとみて、次の《兵法勝負の道、人の搆をうごかせ》以降を、新たな一つ書きを起こし、別条に仕立ててもいる。いずれにしても、内容の面でみれば、この部分は、後の増補の可能性が高い。つまり、寺尾孫之丞が入れた補注であろうと見なすこともできる。

以上、二つの見方のどちらをとるか。我々の所見は、当面は、後者の方である。この部分は、筑前系において脱落したのではなく、寺尾孫之丞後期の記事である。

寺尾孫之丞が柴任美矩へ五輪書を相伝した段階で、この部分がなかったとすれば、それが承応期の前期伝授であることから、武蔵のオリジナルにもこれが存在しなかった可能性がある。それに対し、寺尾孫之丞は、柴任以後の相伝時には、この部分を増補した五輪書を発給した。そのヴァージョンを写し伝えたのが、肥後系諸本である。

かくして、我々のテクストでは、肥後系諸本にあるこの部分を本文に入れず、括弧付きとした。それは、読者の参考に供するためである。

なお――ある種、蛇足になるが、――テクストの問題では、《陳を搆》とあるところの「陳」という語である。この「陳」は「陣」に同じ、必ずしも誤記ではない。

この「陳」は、列をなす、並べるという意味である。現代の我々が「陳列」という語を使用する通りである。この「陳」に対して、後に「陣」という字ができて、それが戦陣の専用語彙になったもののようだが、本来は「陳」が正字であり、諸本もこの字を記している。

それゆえ、我々のテクストでは、この「陳」をそのままにしている。しかるに、岩波版五輪書では、この「陳」を勝手に「陣」へ変更しているが、そうする格別の理由はないのは無論である。これでは底本にした細川家本に対して、校訂態度として誠実さに欠ける。よって、この箇処こおいて「陳」という正字が書かれていることを指摘しておきたい。

また、この部分には、まだいくつか指摘すべき校異箇処がある。一つは、筑前系諸本に、
《敵のまぎるゝ所の拍子の利をうけて勝事なれバ》
とあって、《拍子の利》とあるところ、肥後系諸本のなかには、これを《拍子の理》として、「理」字に作るものがある。もとよりこれは、拍子のことだから、文字は「利」でなければならない。拍子の「理」では文意に合わない。

文字の「利」と「理」は、当時においては互換性があって、相互に宛て字し合う。ここで肥後系諸本にみられる「理」字は、「利」の宛て字である。

したがって、肥後系諸本によって語訳するときは、これが「利」の意味だと承知しておかねばならない。そうでないと、「理」という宛て字に引き回されて、誤訳する結果になるのである。

しかるに、そこで奇妙な現象が生じた。というのも、たとえば、細川家本が、《敵のまぎるゝ所の拍子の理を受て勝事なれば》とするところを、既成現代語訳は、この《拍子の理を受て》を、いかにも訳しかねて珍訳を演じているのである。

まず、戦前の石田訳が「敵の混乱する拍子に乘じて」として、《拍子の理を受て》を意訳した。つまり「理」という語を処理しかねて、これを無視したのである。

この無視してしまう路線が戦後に継承され、神子訳は、「拍子が乱れたところにつけこんで」と、さらに「超訳」に及んだ。これで、「理」字を無視する枠組みが出来あがったようだ。爾後の二者は御覧の通り、例によって先行訳の翻案にすぎない。だが、鎌田訳の「拍子が狂ったところに乗じて」に至っては、原文《拍子の理を受て》がどうしてここまで化けるのか、珍妙の極である。それというのも、鎌田訳は、例によって原文を見ずに、神子訳を翻案しているだけだからである。

このように、《拍子の理を受て》の「理」字を無視する現代語訳の傾向は、この「理」を字義通りに受け取ってしまったから、語訳に難渋したあげく、それを無視することに決め込んだのである。しかし、それもこれも、肥後系写本である細川家本がこれを「理」と書いているからである。筑前系五輪書を知らねば、こういう「片つき、狭き」ことになるのである。

 

 

(3)さく木をぬきて、鑓長刀につかふ

ここは、本来なら順調に読めるところだが、以前から語釈にいろいろ問題がある箇処である。ともあれ、ここは順に読んでみよう。

話は、まず大分の兵法のことである。敵の軍勢の多い少ないを認識し、その戦場の場所に応じて、我が軍勢の態勢を知り、その長所を生かして陣立てをし、戦闘を開始すること、これが合戦の第一に重要なことである。――これは、かの有名な《彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず》(孫子・謀攻篇)といった類のテーゼの反復にすぎない。ここまでは、ごく一般的な教訓である。

そして続いて、「先」をとる話になる。
《人に先をしかけられたる事と、我先をしかくる時ハ、一倍も替る心也》

相手に先を仕懸けられた時と、こちらが先を仕懸ける時とでは、その利・不利は倍も違う、というのである。前にも、
《兵法勝負の道ハ、人の搆をうごかせ、敵の心になき事をしかけ、(中略)敵のまぎるゝ所の拍子の利をうけて、勝事なれば、搆と云後手の心を嫌ふ也》
とあったところである。武蔵の先攻論は、搆えを重んじる流派の後手の心、「待」〔たい〕のポジション、その本質的な待機主義に対する批判である。

そこで、武蔵は言う。――
《太刀を能かまへ、敵の太刀をよくうけ、よくはると覚るハ、鑓長刀をもつて、さくにふりたると同じ、敵を打ときハ、又、さく木をぬきて、鑓長刀につかふ程の心也》

すなわち、太刀をよく搆え、敵の太刀をよく受け、よく張ろうと意識するのは、鑓・長刀をもって、柵にふった〔防護柵に使った〕のと同じ、敵を攻撃する時になって、また柵木を抜いて鑓・長刀に使おうとするようなものである、と。

ここで、語釈が問題である。この《鑓長刀をもつて、さくにふりたると同じ》とある箇処の「ふる」は、柵・塀・垣などを設置する場合の「ふる」であろう。武蔵同時代のものでは、《二重ばかり堀をほり、柵をふり》(烏丸光広書状)、《前にさくをふり居申候》(志方半兵衛言上覚)などがその用例である。ともに寛永十四~五年有馬陳(島原の乱)に言及した当時の文書である。

また、「ふる」には、置き換える、ふり換えるの意味がある。《近江は丹波にも、行春は行歳にも、ふるべしといへり》(去来抄)がその語例である。あるいは、《人々の奏するを、前左衛門佐基俊君のもとへふるとて》(顕輔集)のように、割当てる、割付ける、配当するの語義もある。これらの意味も含めて、「ふる」という語のニュアンスを受けとるべきである。

以上のことから、《鑓長刀をもつて、さくにふる》とは、鑓・長刀を柵(防護柵)にする、という意味である。実際、鑓を柵のように陣の周囲に立て廻らすということがあった。

つまり、本来攻撃の道具である鑓長刀を、防護柵にしてしまい、戦う段になると、こんどはその柵木を抜いて鑓・長刀にして戦いはじめるようなものだ、というのである。これは「先」を仕懸ぬ「待」の心、待機主義を嗤う武蔵のシニカルな譬え話である。


ところが、興味深いことに、従来の読みはそうではない。たとえば、岩波版注記は、この箇処を、「所詮、受身というものは、鑓・長太刀のような長いものを持ち、防御にこしらえた柵木越しに振っているのと同じことで、本当に敵を討つことはできない」としている。まさに爆笑物である。

ここで「長太刀」とあるのは、後述のように「長刀」の間違いだが、それにしても、こうなると、《鑓長刀をもつて、さくにふりたると同じ》は、鑓・長刀を「柵木越しに振っている」という珍妙な光景が出現してしまう。むろんこれは完全に誤りであって、岩波版注記は、ここでも無知をさらしているのである。

この部分について既成現代語訳はいかがか。まず、戦前の石田訳を見るに、話がまったく違ってしまっている。「鎗・薙刀を振って堅固な柵に向ふのと同じで不利である。またこちらから敵を打つてかゝればこの柵の杭を拔いて鎗・薙刀として使ふやうなもので有利だ」――なんてことは、五輪書には書いていない。訳者は「ふる」の語義を知らないし、不利だ、有利だ、というようなことは、石田訳が生み出した別の文章である。まず、この訳はこの箇処をまったく読めていない。

これに対し、戦後の神子訳の「せっかくの鑓、長太刀を固定した柵にしてしまったようなものだ」の方が、読みとしてまだ救いようがある。ところが、それに続いて神子訳が、「逆に、敵を攻めるときは、柵木のようなものでも、鑓、長太刀ほどの役割を果すであろう」とするのは、これまた間違いである。この一文に、「逆に」といって逆接をさせるような文意はない。むしろ逆に、武蔵はその光景を嗤っているのである。したがって、これは誤った解釈が産んだ誤訳である。

続いて、大河内訳の方は、岩波版注記の、「鑓・長太刀を柵木越しに振る」という誤訳には、さすがに従えなかったとみえるが、「鑓、長太刀のような長いものを持って柵同様に動かせないのと同じこと」というその訳は、またまた的外れ。訳者が文の内容を理解していないのである。これに続く後半部分は、神子訳の誤訳を頂戴しているが、その「勢いが大切である」と余計な文言を付け加えて、さらに誤りを増幅している。

第三の鎌田訳はひどい。前半は岩波版注記のパクリで、「本当に敵を打つことはできない」というテクストにない余計な文まで同じ。後半は神子訳の完全なパクリ。ここも鎌田訳は、例によって独自の工夫は何もない。

――という次第で、既成現代語訳は、この部分に関して何れも誤りである。すなわち、「ふる」という言葉の語釈の間違い、そして続く一連の文を勝手に「逆に」と受け取って、誤った恣意的解釈をしてしまっていることが、それである。

ここの《又さく木をぬきて、鑓長刀につかふ》という文は、――鑓長刀を柵木にして、戦う段になると、またそれを引っこ抜いて鑓長刀に使う――というシーンを譬えとして、待機主義の何とも胡乱な振舞いが語られているのである。

言うまでもなく、ここは「先」をとる話であった。そこで、それとは対照的な「待」の振舞いとして、こういった「柵にふる」という譬えでシニカルな笑話になっているわけだ。武蔵が譬えにしている《又さく木をぬきて、鑓長刀につかふ》という光景を、諸訳のように肯定的な意味の振舞いにしてしまうのでは、話が逆さまである。

かような次第で、まさにこのくだりは、我々の読解研究が出るまで、正しく読まれたことがなかった、という箇処なのである。


――――――――――――


語釈が先になったが、諸本校異の問題をここで検討してみる。この条は、どうも校異が他の条々より多いようである。そこで、それを順に拾っていけば、一つは、筑前系諸本に、
《人数をたて、戦をはじむる事、是合戦の専也》
とあって、《是/これ》するところ、肥後系諸本にも《是》とするものがあるが、中には、細川家本のように、この「是」字のかわりに、《それ》と作るものもある。

このケースでは、筑前系/肥後系を横断して共通する「是」字を採るべきであろう。《それ》とするのは、誤写である。しかし、「是」字が草体では仮名「そ」字に似ているとしても、直接変換の可能性は少ない。むしろ《これ》とあったのを《それ》と誤写したものらしい。書写が杜撰なところである。もとよりこの誤字は、写本の後発性を示す誤写である。

二つ目は、それとは違って、筑前系/肥後系を截然と区分する指標的相異である。すなわち、筑前系諸本には、
《人に先をしかけられたる事と、我人をしかくる時ハ》
とあって、《我人を》とするところである。

ただし、同じ筑前系でも、早川系の中山文庫本や伊丹家本、あるいは越後系のうち赤見家乙本は、これを《我人数を》《我か人数を》としているが、この「人数」は後智恵で「数」字を補足したものである。また吉田家本は、《我か人を》とする。この「か」字は、「我が」(わが)と読んだものらしいが、これは他の諸本を見れば、同系の中山文庫本まで《我人数》として、「か」字を入れないから、吉田家本の「か」字は明らかに衍字だと知れる。筑前系を代表させてよいのは、むしろ、立花=越後系諸本の《我人を》という語句である。筑前系初期には、《我人を》とあったとみなしうるのである。

これに対し、肥後系諸本では、これを《我人に》とする。「を」字と「に」字の相異である。つまり、
(筑前系)  我人を
(肥後系)  我人に
というわけである。肥後系の方は、「我、人を」ではなく、「我、人に」仕懸ける、つまり自分が相手に仕懸けるという意味である。したがって、「人」の意味が違っている。《人を》のばあいは、「人」は自分の軍勢の意だが、《人に》になると、この「人」は相手ということになる。

とすれば、肥後系では、そんなふうに「人」字を解釈したので、その結果、「我、人を」では不都合だと思って、これも後智恵で《人に》へと修正したもののようである。

この《人に》は、肥後系諸本に共通して見られるところから、肥後系早期に発生した変異であろう。しかし、これが寺尾孫之丞段階にまで遡れるか、となると、それはありえないことである。というのも、《人を》と《人に》ではまるきり文意が違ってしまう。寺尾孫之丞段階でそこまで改変があるとは思えぬ。

以上のことからすれば、肥後系の《人に》は、寺尾孫之丞以後に、後になって発生した語句訂正である。それは、この「人」字を、相手、敵と読んでしまった結果、文意に不都合を感じて改変してしまったのである。

これも諸本分布からすれば、《人を》が筑前系諸本に共通してあるところから、前例と同じく、このパターンでは、この《人を》が初期形態である。これは、つまり自分が人数〔軍勢〕を仕懸けるという意味である。

しかし、筑前系の《我人を》が寺尾孫之丞段階に遡りうるとしても、それが武蔵草稿の語句であったか、となると、それは恠しい。というのも、《人を》であれ《人に》であれ、ここはどうも「人」という語ではそぐわないのである。

そこで、――これは、筑前系吉田家本に《我か人を》とあるのが、我々のヒントになったのであるが、――ここは、寺尾孫之丞が、「先」字を誤読して、「か人」二字に読んでしまったのだろう、というのが我々の所見である。

つまり、武蔵はここを、《我、先をしかくる時は》と書いていた。《人に先をしかけられたる事と、我先をしかくる時は、一倍も替る心也》という具合に、「先を」という語句を並べていたのである。

しかし寺尾孫之丞は、《我、先をしかくる時は》の《我、先を》を、《我か人を》と読んでしまった。それが筑前系では《我(が)人を》というかたちで残り、肥後系ではこれをさらに《人に》と変えたのである。ようするに、筑前系から肥後系まで横断してみれば、

  「我、先を」→「我か人を」→「我、人を」→「我、人に」
という変異過程が想定される。筑前系諸本は寺尾段階の語句を示すが、肥後系諸本の語句は、寺尾孫之丞以後、門外流出後に発生した二次的変形を示している。

かくして、我々のテクストでは、想定すべき武蔵オリジナルの復元という趣旨から、これを《我、先を》としている。この語句は現存五輪書写本のどれにも例がない。まさしく史料批判によって可能になった復元なのである。

さて、校異の第三には、筑前系諸本に、
《鑓長刀をもつて、さくにふりたると同じ》
とあって、一つには《長刀》とするところ、肥後系諸本の中には、細川家本や丸岡家本のように《長太刀》として「太」字を入れるものがある。他の肥後系諸本を見るまでもなく、これは明らかな誤写である。「鑓長刀」は五輪書の常用語句であるから、ここは《長刀》〔なぎなた〕とするのが正しい。ここで、とくに「鑓・長太刀」とするわけもない。

第一、「長太刀」とは大太刀のことである。長刀なら鑓と同じく石突もあって、地面に差して立てもできようが、太刀はそういうわけにはいかない。長太刀は柵に「ふる」ことはできない。それゆえ、これは文意を理解していない者による後世の写し崩れである。

この後で、もう一つ《長太刀》が出てくるが、これも同前である。なお、この後の方の《長太刀》は楠家本も同じである。ようするに、こういう他にはない誤記の共通するところから、楠家本・細川家本・丸岡家本の三本は系統的に近縁関係にあるとみなしうる、その一例である。しかもこれらは、他の諸本にはない誤記を共有しているのだから、その写本としての後発性は明らかである。

また、上記の同じ箇処で、筑前系諸本に《鑓長刀をもつて》とするところ、これは、長刀を以って柵にふる、ということであるが、肥後系諸本のなかには、これを《鑓長刀を持て》とするものがある。このように、鑓長刀を《持て》と漢字表記にしたところに、書写者が文意をつかめていないことが露呈している。

というのも、前に述べたように、ここは、鑓や長刀を陣の周囲に柵のように立て並べるという意味であるから、《鑓長刀を持て》という書字では文意に反する。したがって、《持て》とするのは、事情不通の者が後世に書いた文字である。肥後系諸本にこの誤記があるのは、門外流出後書写された写本の子孫だからである。

第四として挙げるのは、本条末尾の結語である。筑前系諸本には、
《能々吟味有べき也》
とあって、《有べき也》とするところ、肥後系諸本には、これを《あるべき事なり》とするものがある。「事」字を入れるのである。あるいは、そこを、細川家本のように、《可有吟味事也》と漢文表記にする例があるが、これは写本の後発性の徴しである。

肥後系諸本には、他に、これを《有べきものなり(者也)》としたり、《有べし》としたり、さまざまであるが、これらは後の写し崩れ、二次的な変形である。

肥後系ではその古い型は、《あるべき事なり》とするものであろうが、それにしても、後になって発生した誤写衍字である。寺尾孫之丞の段階までは遡れない。

というのも、筑前系では、立花=越後系も含めて諸本共通して《有べき也》であるから、前例と同じく、これが初期形態である。

したがって、その初期形態からすれば、《あるべき事なり》の「事」字は衍字誤記である。もし、かりに寺尾孫之丞の後期だと想定するにしても、脱字はありうるとしても、寺尾がこうした衍字を記すことはまずありえないから、その後期にあったという可能性はないと見るべきである。

以上、一通り我々の所見を述べたところであるが、その結果は、我々の五輪書テクストに反映されている。

7 他流批判6・目付けのこと (他流に目付と云ふ事)

【原文】

 
一 他流に目付と云事。
目付と云て、其流により、敵の太刀に
目を付るも有、又ハ手に目を付る流も有。
或ハ顔に目を付、或ハ足などに目を付るも有。
其ごとくに、とりわけて目をつけんとしてハ、
まぎるゝ心有て、兵法の病と云物になる也。
其子細ハ、鞠をける人ハ、
まりによく目をつけねども、びんずりをけ、
おひまりをしながしても、けまわりても、
ける事、物になるゝと云所あれバ、
たしかに目に見るに及ばず。
又、ほうかなどするものゝわざにも、
其道に馴てハ、戸びらを鼻にたて、
刀をいくこしもたまなどに取事、
是皆、たしかに目付ハなけれども、
不断手にふれぬれバ、
おのづからミゆる所也。(1)
兵法の道におゐても、其敵/\としなれ、
人の心の軽重を覚へ、道をおこなひ得てハ、
太刀の遠近遅速も、皆見ゆる儀也。
兵法の目付ハ、大かた
其人の心に付たる眼也。
大分の兵法に至ても、
其敵の人数の位に付たる眼也。
観見二つの見様、観の目強くして、
敵の心を見、其場の位を見、
大に目を付て、其戦の景氣を見、
そのをり節の強弱を見て、
まさしく勝事を得事、専也。
大小の兵法におゐて、
ちいさく目を付る事なし。
前にも記すごとく、こまかにちいさく目を
付るによつて、大きなる事をとりわすれ、
目まよふ心出て、たしかなる勝をぬかすもの也。
此利能々吟味して、鍛練有べき也。(2)

 

 

【現代語訳】

 


一 他流で目付という事

目付〔めつけ〕といって、その流派により、敵の太刀に目を付けるものもあり、または手に目を付ける流派もある。あるいは顔に目をつけ、あるいは足などに目を付けるものもある。そのように、とりわけて(特定の部位に)目を付けようとしては、(肝心なことを)見失う心があって、兵法の病というものになるのである。

そのわけは、鞠を蹴る人は、鞠によく目を付けないけれど、「びんずり」*を蹴り、負鞠*を(背中で)仕流しても、蹴りまわっても、(自在に蹴るのは)ものごとに慣れるというところがあるので、しっかりと目で見るまでもない。

また、ほうか*(放下、曲芸)などする者の業にも、その道に慣れると、扉を鼻先に立て、刀を何本も手玉にとる。これはすべて、しっかり目を付けることはないけれども、ふだん手にしなれているので、おのづから見えるところである。

兵法の道においても、さまざまな敵と戦い慣れ、相手の心の軽重〔気が早い、遅い〕を認識し、道〔正しい方法〕を行えるようになれば、太刀の遠い近い、遅い速いも、すべて見えるものである。

兵法の目付は、だいたいその相手の心に付けた眼である。大分の兵法〔合戦〕に至っても(事は同じで)、その敵の人数〔軍隊〕の位〔態勢〕に付けた眼である。

「観」と「見」、二つの見方(があるが)、観の目を強くして敵の心を見、その場の位〔状況〕を見、大きく目を付けて、その戦いの景気〔様相〕を見、その時々で変る強弱(の変化)を見て、確かに勝つことを得る、それが専〔せん〕である。

大小の兵法〔多数少数の集団戦〕においても、小さく目を付けることはない。前にも記すごとく、細かに小さく目を付けると、それによって、大きな事を取り忘れ、(あちこち)目迷う心が出て、確実な勝ちを取り逃がすものである。この利〔理〕をよくよく吟味して、鍛練あるべきである。

 

 

【註解】

 

 

(1)兵法の病と云物になる也

目付〔めつけ〕とは、現代日常語でも「目の付けどころ」というが、注意・注視点のことである。

この場合、もちろん太刀での戦闘であるから、相手の心の動きや身体の動き全体に注意して戦うのは言うまでもない。が、それでは教えの具体性に欠けると思われたのか、具体的にどこに注意/注視すべきかを教えた。

現代剣道でも、相手の切先と拳に注意しろと言ったり、他には相手の目の動き、肩の動きに注意しろとも言う。動作の起こり、攻撃意志の起動がどこに表出されやすいかを教えるのである。

周知の通り、縄田忠雄『剣道の理論と実際』(六盟館 昭和十三年)では、目付けを八つ提示している――「二星の目付」(二星、両目)、「谷の目付」(目の色とともに顔つき、表情)、「二つの目付」(剣の切先と拳)、「楓の目付」(切先と拳のうちでも、とくに拳を「楓の目付」という)、「蛙の目付」(肩の表情)、「遠山の目付」(遠くの山を見るがごとく、相手の搆え全体を見る)、「有無の目付」(相手の全体を見て心底を見抜く)、「観見二つの視様」(相手の動きの全体と部分が自然に目に入るように見る)。

さて、武蔵の教えに目を向ければ、――その流派により、敵の太刀に目を付けるものもあり、または手に目を付けるものもある。あるいは顔に目をつけ、あるいは足などに目を付けるものもある――という。そうしてみると、太刀(切先)、手(拳)、顔については共通するところがあるが、足については現代剣道では目付けを言わないらしい。

ともあれ、武蔵は、目付そのものに対し否定的である。つまり、そのように、目や顔や切先や手といった特定部位に、とくに目を付けようとするのは、まぎれる(大事なことを見失う)心があって、「兵法の病」というものになる、――というのである。いわば兵法の症候群である。

どうして兵法の病になるのか。そのわけは、二つの例えで示される。

一つはこうだ。――蹴鞠の上手は、鞠によく目を付けないけれど、さまざまな曲芸をして自由自在に蹴る。ものごとに慣れるというところがあるのだから、蹴り慣れていれば、しっかり鞠を見るまでもないのである、云々。この話は、現代の蹴鞠たるサッカーのことを想起すればいい。

蹴鞠は古代からの遊戯であった。蹴鞠については、難波・飛鳥井両系統や、御子左流や賀茂流の伝承がある。戦国期から武蔵の時代まで、能と並んで武将に人気があった遊戯である。

織豊期の記録として興味深いルイス・フロイス(1532~97)の「日本覚書」のなかに、「我々の間では球戯は手でする。日本人は足を使って遊ぶ」という記事がある。これは蹴鞠のことで、当時ヨーロッパではまだ蹴球技はなかったらしい。

武蔵には蹴鞠の逸話がある。それは、当流七代の丹羽信英が越後で書いた『兵法先師伝記』にみえるところである。――筑前の箱崎宮へ参詣した武蔵が、門前で鞠を借り受けて、鞠を蹴って楼門を飛び越し、武蔵は宮内にすばやく入って、拝殿の前でその鞠を片膝折って受けとめた。その話を聞いた鞠の名人が、それはすごいと感嘆した――という話。

なお、この部分について注意が必要なのは、「びんずり」「おひまり」という語である。武蔵がここで例に挙げているのは、「鬢ずり」「負鞠」という蹴鞠の技名である。おそらく飛鳥井流、御子左流、あるいは賀茂流の曲足のことであろう。江戸中期の難波宗城(1724~1805)の『蹴鞠名足類聚』でその名を確認できるところをみると、もちろんそれより早い江戸初期の武蔵の時代では、流行の技であったかもしれぬ。

ただし、武蔵の時代には、蹴鞠の曲足が大道芸になっていたふしもある。時代は下がるが、松浦静山『甲子夜話』には、浅草の蹴鞠芸人の話が出ているが、負鞠は、高く蹴上げた鞠を背中で受け止め、その鞠を背中でポンポン跳ねさせる芸である。他には、蹴り上げた鞠を体で受け、襷を掛けるように体に添わせて鞠を転がす「襷掛」、蹴り上げて落ちてくる鞠を肩で受けとめて腕の方へ流し、またこれを跳ね上げて額の上で弾ませ、さらに頭頂部でも衝いて鞠を跳ねさせる「八重桜」という業、その他、右足で鞠を蹴上げながら左足の足袋を脱ぐ「足袋脱」、鞠を蹴上げながら紙に字を書く「文字書」、鞠を蹴上げながら乱杭の上を渡る「乱杭渡」等々の曲芸を記録している。蹴鞠芸人にはこれに類似にいろいろな業があったものらしい。

武蔵が、もう一つ挙げているのは、「ほうか」(放下)という曲芸のことである。

もともと「放下」は、仏教語である。放下は「ほうげ」と読み、諸縁を捨てて執着しないことを言う。日本の仏教習俗に「放下僧」があるが、これは、曲手毬や輪鼓を操る芸人のこと、もとは諸国を回って法を説き、人寄せにさまざまな芸を見せた説教僧である。仏僧と芸能は大衆的次元では容易に混淆した。

武蔵がこの放下の例を挙げるについては、謡曲「放下僧」のことも念頭にあったと思われる。それよりも、五輪書の説き方としては、当時だれでも知っているこうした大衆芸能にことよせて、分かりやすい話をしているということである。

先の蹴鞠の例と同じく、ここでも武蔵は――曲芸などする者の術〔わざ〕でも、その道に慣れると、扉を鼻先に立て、刀を何本も手玉にとるなどするが、これはすべて、確かに目を付けることはない。ふだん手に慣れているから、おのづから見えるのである――と語る。

特定の身体部位に目付をしろと教えることに対しては、武蔵は批判的である。


この箇処に関して、語釈の問題がある。それは、やはり、
《びんずりをけ、おひまりをしながしても、けまわりても》
とある箇処である。この「びんずり」「おひまり」については、上述のごとく、蹴鞠の技名であることを知っておかねばならない。

この部分に関連することでは、――岩波版に、「おいまりをしながしてもけ、まわりてもける事」という具合に句読点を入れて読ませているが、これは不適切な作為である。

これでは、負鞠を背中で仕流しても蹴り、ということになって、何のことだか意味不明である。これは、「おいまり」を「追い鞠」と錯覚したらしく、鞠を追って蹴りまわるものと誤解釈に及んだものらしい。ただし、戦前の石田外茂一訳を見れば、同じ句切りをしており、この岩波版の句読点は、戦前からの読み方を、何の考えもなくそのまま踏襲したものと思われる。

ところで、この部分は、「びんずり」「おひまり」など、見慣れない蹴鞠用語があって、従来から問題の部分である。だれもこれまで正しい語訳をしたことがないという、いわくつきの箇所なのである。

戦後の現代語訳を見ると、案の定、神子訳は、語の意味が解らなかったとみえて、語訳から逃げ、何の断りもなしに、右掲のごとき省略訳文を出している。このように神子が翻訳から逃走してしまったので、神子訳以後の大河内訳も鎌田訳も、詮方なく、ご覧のとおり、不細工な反復を演じている。

こうした訳者の振舞いは、細川家本を底本とすると称する以上、テクストと読者に対し不誠実な仕儀である。これに対し、昔の石田訳は(間違いながら)一応、一字一句訳そうとしている点、まだ誠実な訳文であろう。

もちろん、石田訳が「追ひ鞠をし流しても蹴り、廻っても蹴る」としたのは誤訳である。ここは我々の語訳のように、「負鞠を背中で仕流しても、蹴りまわっても」とすべきところである。

この箇所もそうだが、我々の語訳を除いては、現代語訳にはまともなものがない、というありさまである。


――――――――――――

 

この部分の校異の問題についていえば、筑前系のうち、越後系諸本に前後二箇所脱文がある。これに対し、早川系の吉田家本・中山文庫本はその部分を保全しており、肥後系諸本との照合でこれを確認しうる。つまり、この脱文は、越後系諸本でのみ見られるところである。

その越後系諸本の脱文箇処は、下掲例の位置であり、脱落せしめているのは、右掲吉田家本の文章の赤字で記す箇処である。

 

 ▲越後系写本の脱文箇処 渡辺家本

 

 これが二天流が越後へ入ってから発生した脱落なのか、あるいは、それが、渡部信行の系統だけのものか、他の系統にもあるのか、写本発掘の途上だったので、何とも云えなかった。しかし、後に、村上赤見系の写本を発掘して、この脱文がそこにもあるとわかった。

越後の両系統に共にこの脱文がある。それゆえ、この脱文は、すでに丹羽信英の段階であったものである。しかるに、この脱文が、丹羽信英の師・立花増寿にまで遡れるか、それは、隨翁本風之巻が発掘できていないので、何とも確言はできない。したがって、筑前の立花系までこの脱文が遡及できるのか否か、それも今後の史料発掘次第である。

また別に、指摘しておくべき校異箇処が一つある。それは、筑前系写本に、
《其ごとくに、とりわけて目をつけんとしてハ、まぎるゝ心有て》
とあって、《其ごとくに》とするところ、肥後系諸本には、《其ごとく》として「に」字を欠くものがある。

ただし、これも肥後系諸本すべてが、というわけではなく、富永家本のように、《その如くに》として、この「に」字を付すものがある。富永家本は、早期に派生した系統の子孫であるから、他例にもあるように早期の形態を伝えている場合もある。ここもそのケースであり、したがって、肥後系早期にこの「に」字を付すものがあったとみえる。

《其ごとくに》が筑前系諸本に共通の語句であるところから、これを筑前系初期にあったかたちとみなしうるが、またこのように筑前系/肥後系を横断して存在するものであるから、これは寺尾孫之丞段階にまで遡りうる古型である。

こうしたことも、肥後系諸本ばかりを見ていてはわからぬことである。富永家本のような派生系統の校異は、従来、例外として処遇されてきた。しかしながら、筑前系諸本を視野に入れると、それは本末転倒であったことが知れるのである。

したがって、五輪書諸本校異において諸本の字句を評価をするには、まず第一に広く諸本を参照照合することが必要である。その大前提が、これまでの五輪書研究には欠けていたのである。それゆえに、嗤うべき本末転倒が生じてきたというわけである。

 

 (2)観見二つの見様、観の目強くして

武蔵は、曲芸を例にとって、これはすべて、しっかり目を付けることはないけれども、ふだん手に慣れているから、おのづから見えるのだとした。そこで、兵法の道においても、敵と戦い慣れ、相手の心の軽重、つまり気が早い相手か、遅い相手か、それを認識し、正しいやり方を実践できれば、太刀の遠い近い、遲い速いまでも、すべて見えるものだ――というわけである。

このように、何ごとも慣れである、というのは、訓練を必要とするということだ。しかし、その練習において「目付」を云々するのは、武蔵からすれば、小さきこと、瑣末なことである。

武蔵のテーゼは、それゆえ、こうだ。
《兵法の目付ハ、大かた其人の心に付たる眼也》

すなわち、相手の部位のどこに目を付けるか、ではなく、敵の「心」に目を付けるのである。大分の兵法〔合戦〕に至るも同じことで、敵の軍隊の「位」に付けた眼である、という。このばあい、「位」というのは、城構えや陣形に現われた敵の作戦のことであり、いわばその企図に注目するということである。具体的に細部を観察するというのではなく、大きく敵のとる態勢を見て取るという話である。

かくして、ここで、有名な武蔵のテーゼになる。
《観見二つの見様、観の目強くして、敵の心を見、其場の位を見、大に目を付て、其戦の景氣を見、そのをり節の強弱を見て、まさしく勝事を得事、専也》

ものの見ようには、「観」「見」、二つの見方があるが、観の目を強くして敵の心を見、その場の位を見、大きく目を付けて、その戦いの景気を見、その都度変る強弱を見て、確かに勝つことを得ること、それが専〔せん〕、第一に重要である、――という教えである。

この「観見二つの見様」というのは、水之巻「兵法の眼付と云事」にあった通りである。しかしながら、既述のごとく、なにも武蔵に独自の概念ではない。これは伝統的に言われてきたことである。

この点は誤解があってはならない。武蔵のこの説は、伝統的な観見論の枠を決して超えるものではない。言うまでもなく、真理はどの流派にとっても普遍的である。

しかるに、武蔵のユニークなところは、他流派がいわば目付の体系を樹立し、さまざまな目付を分類しその最高位あたりに「観見二つの見様」を位置づけるのに対し、武蔵の観見論は、まさしく、「観見二つの見様」以外は無益なものとするところ、そのラディカルなポジションである。

ちなみに、柳生宗矩『兵法家伝書』によれば、その観見論は以下のように説明される。すなわち――心で見るのを根本とする。心から見てこそ、目も付けることができる。されば、目にて見るのは心の次である、と。この次第段階説は、ある意味で、武蔵の言う「観の目強く、見の目弱く」というテーゼに似ているかもしれない。しかながら、両者は根本から違っているのである。

というのも、武蔵は、「心で見るのを根本とする」などは、決して言わないからである。逆に宗矩の方は、前にも瞥見したように、
《目に見るをば見と云ひ、心に見るを観と云ふ》
とするからである。むろん、これはオーソドックスな仏教の観法論からすれば、極めて通俗的な理解であると言うほかないわけだが、武蔵はそうした半可通の仏教教学は避けて、観見二つの作用を、ごくあっさり実用的に語るわけである。

そこから、蛇足ながらも、――兵法の大小はあっても、いづれも小さく目を付けることはない。前にも記すごとく、細部に小さく目を付けると、それによって、大きな事を取り忘れ、目迷う心が出て来て、確実な勝ちを取り逃がすぞ、と警告するのであるが、これもまた念のいった指導ぶりではある。

これはまた、『兵法家伝書』の「二目つかひ」という、見て見ないふりの偸眼(ぬすみ眼)の教えとは、まったく異なった目付である。この「二目つかひ」は、特定の部分に目を固定せず素早く偸み眼をすることである。敵の動きを見るに、見るようでいて見ず、見ぬようでいて見て、とあるのが偸眼だが、一つ所に目を固定せず、目を移し素早く見る。そのようにぬすみ見に見て、眼を止めないこと。

これが、武蔵の言う大きく眼をつけろ、という教えとはまったく異なっていることは言うまでなかろう。繰り返せば、《観の目強くして、敵の心を見、其場の位を見、大に目を付て、其戦の景氣を見、そのをり節の強弱を見て、まさしく勝》というのが武蔵の教えである。

かくして、武蔵は大局を見ろと主張する大局論者だと誤解されてしまうのだが、武蔵の言うのは、あくまでも「観見二つ」の見様である。「観の目強くして」とあるのを、これまた誤読して、武蔵は「見」を否定しているのだとするのは、いかにも粗忽な読みであろう。

また、それより先に出た《兵法の目付は、大かた其人の心に付たる眼也》の一文を、これも誤読して、武蔵は「心眼」で相手を見ろと言っていると読むのも、明らかな誤りである。武蔵は相手の「心」に目を付けろと言うのであって、「心眼」なんぞで見ろと言っているわけではない。

それと半ば関連することで言えば、――この五輪書を通じて一貫していることだが――とくに、武蔵は柳生宗矩流の「心法」論のスタンスに対し批判的である。言い換えれば、「心法」のロジックで五輪書を読む愚は却下されなければならない。


――――――――――――


この部分の校異の問題について、指摘しておくべき箇処がある。その一つは、筑前系諸本に、
《道をおこなひ得てハ、太刀の遠近遅速も、皆ミゆる儀也》
とあって、《遠近遅速も》とするところ、肥後系諸本は、《遠近遅速迄も》とあって「迄」字を入れる。これは、肥後系諸本に共通しているから、この校異は、筑前系/肥後系を区分する指標的相異である。

これについては、筑前系諸本はどれも共通してこの「迄」字を記さない。とすれば、筑前系初期にはこの字は存在しなかったのである。寺尾孫之丞が柴任美矩に伝授した五輪書には、この字はなかったと見るべきところである。

他方、肥後系諸本には共通して「迄」字を入れるから、これは肥後系早期にあったものとみなしうる。しかし、これが寺尾孫之丞段階にまで遡ることはありえない。こうした前期になかった文字が寺尾後期に発生することはなきしもあらずだが、文意からして、「迄」字は余計な文字である。《太刀の遠近遅速》という程度のことなら、「迄」も、とするまでもないからである。これは、遅速の「速」字に引かされて発生した衍字であろう。我々の所見では、これは後になって発生した肥後ローカルの誤記である。

また他の校異では、これとは別種のタイプがある。それは、筑前系/肥後系を截然区分する相異ではなく、肥後系諸本の一部に筑前系諸本と共通する語句があって、いわば筑前系/肥後系を横断して共通するもののあるケースである。筑前系吉田家本に、
《大小の兵法におゐて、ちいさく目を付事なし》
とあって、《大小の兵法におゐて》とするところ、越後諸本には、《におゐても》として「も」字を付す。これは筑前系/肥後系を横断して検れば、共通するのは、この「も」を欠くケースなので、越後系の語句は衍字誤記である。

それは別にして、《大小の兵法》とするところは、筑前系諸本に共通する。それに対し、肥後系諸本には、《大小兵法》とあって「の」字を欠くものがある。

これは単純な脱字であろう。もし「の」字がなければ、《大小、兵法におゐて》ではなく、《兵法、大小におゐて》とあるべきところである。したがって《大小、兵法》では、文意の点から見ても「の」字が脱けているのである。

同じ肥後系でも、円明流系統では、《大小の兵法》と記すから、肥後系でも早期にはそう記す時期があったとみえる。その後に、この「の」字を落とした写本が発生し、現存諸写本の元祖となったのである。

筑前系の方は、《大小の兵法》で共通している。したがって、これは筑前系初期に存在した字句であり、さらには寺尾孫之丞前期へ遡りうる初期形態である。したがって、これを古型とみなし、我々のテクストでは、《大小の兵法》としている。

同じタイプの校異で、もう一つ挙げておくべき箇処がある。それは、すなわち、筑前系諸本に、
《大きなる事をとりわすれ、目まよふ心出て》
とあって、《目(め)まよふ》とするところ、肥後系諸本には、《まよふ》とあって「め」(目)を欠くものがある。また、肥後系では、《まよふ心出きて》として、「き」字を付するケースもあるから、この箇処は相異が二重である。

ただし、同じ肥後系でも、富永家本には《目まよふ心出て》とあって、筑前系諸本と同じ字句が、肥後系にもあったと知れる。したがって、この「目」字の有無は、筑前系と肥後系を分つ指標ではない。むしろ、肥後系早期にあったものと見た方がよい。

この《目まよふ心出て》は、筑前系諸本に共通するところから、筑前系初期にすでにあったものである。それと同じ字句が肥後系にもあるとすれば、筑前系/肥後系を横断するゆえに、これが古型なのである。それゆえ、我々のテクストでは、《目まよふ心出て》と採用している。 

8 他流批判7・足づかいのこと (他流に足つかひ有る事)

【原文】

 一 他流に足つかひ有事。
足の踏様に、浮足、飛足、はぬる足、
踏つむる足、からす足などいひて、
いろ/\さつそくをふむ事有。
是ミな、わが兵法より見てハ、
不足に思ふ所也。(1)
浮足を嫌ふ事、其故ハ、
戦になりてハ、かならず足のうきたがるものなれバ、
いかにもたしかに踏道也。
又、飛足をこのまざる事、
飛足ハ、とぶにおこり有て、飛ていつく心有、
いくとびも飛といふ利のなきによつて、飛足悪し。
又、はぬる足、はぬるといふ心にて、
はかのゆかぬもの也。
踏つむる足ハ、待足とて、殊に嫌ふ事也。
其外からす足、いろ/\のさつそくなど有。
或ハ、沼ふけ、或ハ、山川、石原、
細道にても、敵ときり合ものなれバ、
所により、飛はぬる事もならず、
さつそくのふまれざる所有もの也。
我兵法におゐて、足に替る事なし。
常に道をあゆむがごとし。
敵のひやうしにしたがひ、
いそぐ時ハ、静なるときの身のくらゐを得て、
たらずあまらず、足のしどろになきやうに有べき也。(2)
大分の兵法にして、足をはこぶ事、肝要也。
其故ハ、敵の心をしらず、むざとはやくかゝれバ、
ひやうしちがひ、かちがたきもの也。
又、足ふみ静にてハ、敵うろめき有て
くづるゝと云所を見つけずして、
勝事をぬかして、はやく勝負付ざる*もの也。
うろめき崩るゝ場を見わけてハ、
少も敵をくつろがせざるやうに勝事、肝要也。
能々鍛錬有べし。(3) 

 

 

【現代語訳】

 

一 他流に足つかいのある事

足の踏み方に、浮き足、飛び足、跳ねる足、踏みつめる足、からす足などといって、いろいろ左足*〔さそく・特殊な足つかい〕を踏むことがある。これはすべて、我が兵法から見れば、不足に〔ダメだと〕思うところである。

浮き足を嫌うこと、そのわけは、戦いになっては、必ず足の浮きたがるものだから、できるだけ確かに足を踏む、それが道〔正しい方法〕である。また、飛び足を好まないのは、飛び足は、飛ぶときに起り*があり、飛んで居付く心があり、何回も飛ぶという利〔理〕もないのだから、飛足はよくない。また、跳ねる足は、跳ねるという(着実ではない)心があって捗の行かぬものだ。踏みつめる足は、「待つ足」といって、とくに嫌うことである。

その他、からす足、色々の左足〔さそく〕などがある。あるいは、沼、ふけ〔湿原〕、あるいは、山、川、石原、細道においても、敵と切り合うものであるから、場所によっては飛びはねることもできず、左足〔さそく〕を踏むことができない所があるものである。

我が兵法では、足(の踏み方)に変ったことはしない。常に道を歩むがごとし。敵の拍子に応じて、急ぐ時でも、静かな時の身体の位〔態勢〕になって、足らず余らず、足がしどろに(乱れ)ない、そのようにあるべきである。

大分の兵法〔集団戦〕にしても、足を運ぶ*ことは肝要である。そのゆえは、敵の心〔企図〕を知らず、むやみに早く(攻撃に)かかると、拍子がはずれて、勝てないものであるからだ。

また(逆に)、足踏みがのんびりしすぎていては、敵にうろめき〔動揺〕があって崩れるというところを見つけず、そして勝機を取り逃がして、早く勝負がつかないものだ。(敵が)うろめき崩れるところを見わけたならば、少しも敵に余裕を与えないようにして勝つこと、それが肝要である。よくよく鍛練あるべし。

 

 

【註解】

 

 (1)いろ/\さつそくをふむ事有

足遣い、足の踏み方の話である。見た通り、いろいろ見慣れない特殊な用語が出てくるから、ここはまず、語釈が必要であろう。

類似の記述ということでは、前に水之巻「足づかひの事」において、――爪先を少し浮かせて、踵〔かかと〕を強く踏むべし。足の使い方は、状況によって、大きい小さい、遅い速い(の違い)はあっても、ふだん歩くのと同じようにする。足に、飛足〔とびあし〕、浮足〔うきあし〕、踏み据える足というのがあるが、この三つは、(我が流派では)嫌う足である。――とあったところである。

この「爪先を少し浮かして踵を強く踏む」というのは、足の親指を中心に爪先を浮かせて踵を浮かさない歩き方である。下肢に力の入った歩き方で、足半〔あしなか〕など履いた当時の日常の足遣いとは違うだろう、と前に述べておいた。

ここでは、まず「浮足」〔うきあし〕である。これは、足の爪先が地面につき踵が浮いた足で、下肢に力を入れないで、ふわっと踏む足というところであろう。この点、「爪先を少し浮かして踵を強く踏む」というのとは反対である。

次に、「飛足」〔とびあし〕。これは現代剣道でも遠間から打突する「飛び込み足」ということをいうが、それだけではなく、逆に、後方へ飛び退くのも飛足である。

また、「はぬる足」。これは跳ねる足であり、ジャンプすることである。この場合は、垂直に飛び上がるのである。

あるいは、「踏つむる足」。この「つむる」は「詰める」「積もる」である。前に出た「踏すゆる足」である。腰を落として、じわっという感じで踏む足のことである。踏つむるといって、ドスドス踏みつける足ではない。

そして問題は、「さつそく」である。これは「さそく」の促音転訛。通例は「早足」とされるものである。すなわち、
《足踏も、さそくをつかふ心根を持ちて》(拾玉得花)
とある用例である。「さそく」は、急ぎ足、はや足のことである。現代語の「早速」はこの「さそく」「さつそく」から来ているものらしいという話があるが、本来「早速」は「さうそく」と読んだもので、これとは違う。

ところが、この「さそく」は「左足」のことでもある。現代剣道で「一眼二足三胆四力」というが、大正期には、「一眼二早足三胆四力」、あるいは「一眼二左足三胆四力」と言った。早足・左足ともに「さそく」と読む。左足のすばやい引き付けが肝心だという教えだとされているが、その解釈は別にしても、剣術において左右両足のうち、後に引いて軸足にする左足が重要なのである。

このように、近代へ伝承された「さそく」という語は、早足・左足いづれか不確定のままである。言い換えれば、「さそく」は、その語用においてその両義性を失っていないという用語なのである。こうした両義性については、「さそくを踏む」が成語であるだけに、必ずしも字義通りではない点を念頭におくべきである。

それはともあれ、武蔵の使った成語「さつそくを踏む」では、これは早足なのか、それとも左足なのか――それを見極めなければならない。

三橋鑑一郎は『劍道秘要』(明治42年)で、「さそく」を「左足」と校訂している。少なくとも明治の剣道家にとっては「さそくを踏む」は「左足を踏む」である。これは考慮しておいてよいであろう。

つまり、世間一般では「早足」の意味であった「さそく」は、武芸において伝統的に左足とする特殊な語義であったということである。「さそくを踏む」という成語は、一般には「早足を踏む」であるが、剣術の世界では「左足を踏む」として使用されてきたのではないか、と推量しうるのである。

しかも、武蔵の教えは、両足均等遣いが原則であるから、こうした「左足」を踏んで起動する足遣いを批判していると文脈上も読めるのである。水之巻の「足づかひの事」に、
《かへす/\、片足踏事有べからず》
とあったところである。この「片足を踏む」と「さそくを踏む」は同じ意味の別表現である。これによって、我々は兵法語彙として「さそく」を扱い、これを「左足」としたのである。ただし、それに付け加えて云えば、「左足」の「左」という語には、「変則的な」という語義のあることは、一応念頭におくべきである。というのも、武蔵は、この「さそく」を批判する側に立っているからだ。

そして、「からす足」。これはまたまた難解用語である。これまで、明確な語釈を見たことがないのである。

「からす足」については、烏が歩くように、ひたひた歩くのだという説があり、また、烏は斜めに飛ぶというところから、斜いに飛ぶのを「からす足」と云ったという説、『碧巖録』に《南北東西、烏飛び、兔走ること急なり》とあって「烏飛兔走」の言葉あるごとく、あわただしく速く踏む足という説等々あるが、本当はよくわからない。

能楽の中でも神さびて最も祭祀的な「翁」で、シテの翁が退場して後の揉みの段、三番叟(さんばそう)が「えい、えい」と声をかけて跳びはねる舞の型を「烏飛」という。これも原型は神楽舞であろう。現存神楽でも、大股で飛び跳ねて回るのを「烏飛」というのである。

ともあれ、この「からす足」、かの天狗たちの足元を見ればわかるが、烏の足とはこれかと思わせるのである。これが足の踏み方のことだとすれば、烏が飛ぶように大股で飛び跳ねるものというよりも、柳生十兵衛三厳『月之抄』(寛永十九年)が右のごとく書いているの記事を根拠として、「左足」の一種で、小足で素早く動く足遣いとしておく。一部古流伝書にある如く、それを「斜めに飛ぶ」とまではしない。

柳生十兵衛によれば、すなわち――足の運びは、いつも後の足(左足)を素早く引寄せる事が第一である。当流(柳生新陰流)においては「からす左足」というのである。これは、亡父(宗矩)の目録には何とも書いていない。また云う、左足は浮き立って軽いのがよい。足の運びは、できるだけ静かに、「小足」なのがよい。おおかた、約一尺(30cm)ほどづつ、拾い歩く感じである、云々。

これによって見るかぎりは、柳生新陰流では、さそく(左足)を用いていたばかりか、「からす足」もあったようである。とくに、左足は浮き立って軽いのがよい、足の運びは小足なのがよい、というあたりは注意すべき記事である。

そうだとすれば、ここで武蔵が批判している足遣いは、まさにこうした柳生流のそれをはじめとする諸流派の足踏みであったということになる。我々はそのことを念頭において、この箇処を読む必要がある。武蔵が言うには、
《是みな、わが兵法より見ては、不足に思ふ所也》

武蔵の兵法からみて、こういう色々な足遣いは、すべて不足だと思う。「不足」というのは、足つかいの話だから、とくに召喚された字句だが、欠陥があってダメだ、ということである。

 

(2)足に替る事なし、常に道をあゆむがごとし

前段は、《足の踏様に、浮足、飛足、はぬる足、踏つむる足、からす足などいひて、いろ/\さつそくをふむ事有。是みな、わが兵法より見ては、不足に思ふ所也》ということであった。すべて、欠陥のある足遣いである。これらを武蔵は、以下逐一批判していく。

浮足については、戦いになっては必ず足の浮きたがるものだ、という。足の浮きたがるものというのは、いわゆる「浮き足立つ」ことであろう。放っておいても浮き足立つのだから、むしろ逆に、できるだけ確かに足を踏むのが正しい方法である、というわけだ。

次に、飛びかかり飛びのく、そんな飛足については、飛足は、飛ぶに「起り」があり、飛んで居付く心があるという。起りというのは、現代剣道でも言うが、打ちにかかる起動の瞬間のことである。相手の起りの瞬間はこちらの打ちの好機だとするのは、なかなか面白いことだが、これは昔も今も変りはないようである。

もうひとつの、飛んで居付く心があるというのは、飛べば飛んだで居付く心が生じる、そこもまた打撃チャンスを提供することになる。飛足は攻撃を誘うだけだから、よくないとするのである。だから、現代剣道の飛び込み足も、武蔵からすれば、愚かな学びだということになる。

また、垂直に跳躍する跳ねる足は、「跳ねるという心」があって捗の行かぬものだという。これは、「跳ねる」というところに心がとらわれて、何の攻撃の足しにもならない、というところであろうか。要するに、効率が悪いのである。

踏つむる足は、踏み据える足、踏みしめる足ということだが、「待つ足」といって殊に嫌うという。これが腰を落としてじわっと踏む足だとすれば、先〔せん〕を仕懸けるのではなく、相手の出方を待つ体勢の足である。先制攻撃を重視する武蔵流としては、とくにこれを嫌うわけである。

その他、からす足、色々の「さそく」などがある。前述のように、「からす足」は、小足で素早く動く足、「さそく」は左足を軸足にした足遣い、「左足」である。実戦の現場では、沼・ふけ〔湿原》、あるいは山・川、石原・細道でも、敵と切合うものであるから、場所によっては飛びはねることもできず、さそく(左足)を踏むことができない場合がある。

わかりきったとことだが、実戦の現場は、道場とは違うのである。からす足、さそく(左足)ともに、そんなものを覚えても、実戦の役には立たないとするのである。

かくして、武蔵は言う。
《我兵法におゐて、足に替る事なし。常に道をあゆむがごとし》

他流派と違って、武蔵流は、足遣いとして特別変ったことはしない。いつも道を歩むのと同様である、――というのである。

ただし、水之巻では、「爪先をすこし浮かせて、踵をつよく踏べし」という教えがあった。既述のように、これは、本当は当時日常の足遣いではない。通常の足半〔あしなか〕での歩行法は踵を浮かせた歩き方である。武蔵流の足遣いは、そうした普段の歩き方より、下肢に力を入れて、踵を強く踏んで爪先をあげた、非日常的な戦闘モードの足遣いである。ここは字義通りに「常に道をあゆむが如し」とは受取れないところである。

しかしながら、それでも、他流の足遣いと比べれば、武蔵流はまったく日常の運歩に近い。足遣いに何の工夫もしない、それが武蔵流である。

これは、変ったことをせず、できるだけ確かに足を踏むのが正しい方法である、という教えである。敵の拍子にしたがって、急なる時でも、静かなる時の身体の位〔態勢〕になって、足らず余らず、足がしどろに乱れないように。――それだけを注意すればよいということだ。

このあたり、武蔵の教えは、極めてオーソドックスである。オーソドックスという意味には二つあって、一つは、正統派の考えと違わないことである。右掲の柳生十兵衛の『月之抄』の理説と比較してみればわかるが、武蔵の考えはこれと大差ない。真理は一つということからすれば、これは当然であろう。

もう一つは、実戦の戦闘において、何が有効か、無効か、というとき、武蔵が至極オーソドックスなのは、道理からする一種の合理主義があるからだ。この合理主義が、他に対し批判的なポジションとなる。十兵衛は、他流の「からす左足、ねり足」というものに言及していながら、明確に批判していない。だが、武蔵は批判する。そこが通常の正統派とは違うのである。

戦闘時には特別の足遣いがあるとして、テクニックを売物にする風潮への批判は、ここにも勿論伏在している。武蔵が何よりも嫌ったのは、技巧に走ることである。当時、実戦から乖離した剣術が花盛り、洗練という名の頽廃は、いつの世にもあることだが、武蔵が遭遇しているのも、そんな状況であった。

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この部分の校異は、さまざまある。問題にしておきたいのは、次の箇処である。すなわち、筑前系諸本に、
《はぬる足、はぬると云こゝろにて、はかのゆかぬもの也。蹈つむる足ハ、待足とて、殊に嫌事也》
とあるところ、肥後系とは種々相異がある。第一に、筑前系が、はかの《ゆかぬ》とするところ、肥後系諸本には、はかの《行かぬる》とあって「行きかねる」とする。《行かぬ》に「る」字が付いたのだが、表現が違ってしまう。これは、《ゆかぬ》を《行かぬ》と漢字表記するようになった後のことで、肥後で伝写過程で発生した誤記である。

また第二に、筑前系が《待足》とするところ、これは「待つ足」ということだが、肥後系では、《待の足》として「の」字を入れる。「待」〔たい〕という名詞とする解釈である。

この点で興味深いのは、肥後系富永家本である。そこでは、《行ぬ》と《待足》の二箇所が、筑前系諸本と共通する。肥後系にも、早期には、この字句のヴァージョンがあったと知れる。つまりは、富永家本の先祖が派生分岐した後、書写過程で生じたのが、はかの《行かぬる》や、《待の足》という語句なのである。

また、筑前系が《踏つむる足ハ》と助詞「ハ」を入れるところ、肥後系は、これを入れない。つまり、脱字である。《行ぬ》と《待足》の二箇所において正しかった富永家本も、こちらは、他の諸本と同じくこれを落としているから、肥後系早期にこの「ハ」字が脱落したものであろう。

また、次のところでは、筑前系諸本間での相異もある。早川系の吉田家本・中山文庫本・伊丹家本では、
《我兵法におゐて、足に替る事なし。常に道をあゆむがごとし。》
とするところ、ひとつには、この「道を」二字を、越後系の諸本では落としている。これは、筑前系/肥後系を横断してみれば、これが脱字だと知れる。本来は「道を」二字を入れるのが正しい。

それは筑前系諸本間の相異であるが、もう一つ、ここで筑前系では《常に》とするのに対し、肥後系では、これを《常の》とする。仮名一字の相異で、文意はやや違ってくるが、意味の相違は大したものではないから、《常に》と《常の》が相互に遷移しやすい。したがって、誤写も生じやすい。

また、次のところでは、筑前系諸本には、
《いそぐ時ハ、静なるときの身のくらゐを得て》
とあって、《いそぐ時ハ》として「ハ」字を付すところ、肥後系では、この「ハ」字を欠落せしめている。

以上の校異は、文章内容の点では、とくに甲乙つけるほどの問題はない。しかしながら、正誤是非判定をつけるとすれば、以下の点を見るべきであろう。

つまり、同じ肥後系でも富永家本が、筑前系と同じ字句を有するケースがある。つまり、筑前系/肥後系を横断して存在するケースであるが、ここは既出例と同様のパターンであり、古型とみなすことができる。しかも、その字句については、肥後系早期にもそれが存在したらしいとみることができる。その痕跡が富永家本の字句である。

そして、それ以外の語句について云えば、それらは筑前系/肥後系を区分する指標的相異である。このケースは、越後系を含む筑前系諸本に共通するところであるから、その初期性を勘案しなければならない。既述他例のように、寺尾孫之丞段階まで遡りうる語句である。肥後系諸本の上記の諸語句は、その点、後に発生したもの、後発性の変異である。

以上の諸校異について云えば、肥後系諸本の中には古型をとどめる例もあるが、他はおおむね門外流出後発生した語句変異である。これも、肥後系諸本のみを見ていては、そのことにすら気がつかない問題箇処である。問題のあることにさえ気がつかないようでは、そもそもテクスト校訂もありえない。かようなわけで、五輪書には、これまで、まともな校訂研究さえ存在しなかったのである。

 

 

(3)すこしも敵をくつろがせざるやうに勝事、肝要也

これは、大分の兵法、つまり合戦など集団戦での教えである。とくに問題なく読めるであろう。

合戦でも、「足を運ぶ」こと、運歩は肝要である。――というのは、ここでは、戦闘の運び方、攻撃の進め方にも、むやみに急ぎすぎる、逆に、遅きに失するということがあるからだ。

ここの話は、合戦において、――相手の企図を知らず、むやみに早く仕掛ける、そういう性急な運び方をすると、拍子が狂って、勝利は困難になるものだ。また、進め方が静か、つまり、緩慢でのんびりしすぎては、敵にうろめき(動揺)があり崩れるというポイントを見のがして、勝機を取り逃がしてしまい、早く勝負をつけることができないものだ。うろめき崩れるところを識別して、少しも敵に余裕を与えないようにして勝つこと、それが肝要である。――という話である。

これは、太刀での戦闘における足運びを譬えにして、合戦など大分の兵法について述べたところである。教えの要点は、「うろめかすと云事」「くづれを知ると云事」など、すでに火之巻において語られていたところである。

語釈の問題では、《足ふみ静にてハ、敵うろめき有てくづるゝと云ところを見つけずして》とあるところの、「静か」という語、これを問題にしたい。この言葉の語法は現代語とは少しニュアンスが異なるからである。
《いみじくしづかに、おほやけに御文奉り給ふ、あはてぬさま也》(竹取物語)

この「しづか」は、ゆっくりとして落ち着いているさまである。ここで武蔵が言う《足ふみ靜にては》は、もちろん否定的な意味合いである。むやみに慌てて性急な行動をしないといっても、あんまり落ち着いてのんびりしすぎていると…ということである。

現代語訳事例を見るに、右掲の如く、それらが底本にしたはずの細川家本にある《足ぶミ静にては》のこの「静か」が訳されていない。「出足がおくれれば」とした神子の意訳が最初となって、それを頂戴した岩波版注記にも「出足がおくれるようでは」と書いている。言うまでもないが、「静か」という語には、「遅れる、遅い」という語義はない。静かというのは、ここでは進行が緩慢という意味である。

些細なことではあるが、翻訳である以上、この「静か」という語の、シニカルで否定的なニュアンスを、読者に伝える必要があろう。この点、既成の語釈・現代語訳はいづれも落第である。

――――――――――――


校異の問題としては、この部分にはいくつかあろう。まず、越後系諸本には、相当の脱落がある。直前には、上記の《常に道をあゆむがごとし》の「道を」という文字の脱落があったのだが、さらにここでは、前文からの《足のしどろになきやうに有べき也。大分の兵法にして》という文字列が脱落している。これは、越後へ入って以後の変異なのかどうか。

越後系諸本の風之巻について言えば、丹羽信英門人のうち、渡部信行系統の伝書しか発掘していない段階では、何とも云えなかったが、赤見家本の発掘により、これらの脱字について、丹羽信英の段階まで遡及できることが判明した。しかし、これが筑前の立花系にまで遡る誤記であるか否か、それは未確定である。なお他の写本の発掘が必要である。

しかし、全体に言えることだが、越後系諸本は、他の諸巻は比較的正確なのだが、この風之巻に限って、その脱字・脱文が目立つ。それがいかなるわけか、それを解明するのも、五輪書研究の今後の課題である。後学の諸君には、この点につき注意を喚起しておく。

さて、ここで指摘しておくべきは、次の箇処である。すなわち、筑前系の吉田家本・中山文庫本に、
《大分の兵法にして、足をはこぶ事、肝要也》
とあって、《にして》とするところ、肥後系諸本には、これを《にしても》として、「も」字を入れるものがある。この「も」字の有無が、その相異である。

ただし、肥後系諸本のなかにも、富永家本のように、「も」字を入れない《にして》と記すものがある。このケースは、筑前系/肥後系を横断して共通するというところでは、「も」字を入れない《にして》のが古型である。したがって、これも前出例と同じパターンで、肥後系早期には、「も」字を入れず《にして》と記していた可能性がある。

このことからすると、《にして》に「も」字を付すようになったのは、富永家本系統の祖先が派生する以後のことであり、もとより後に発生した衍字誤記である。したがって、肥後系現存写本の多くは、この写本の子孫なのである。

この《にして》という語句には「も」字が付きやすい。しかも、五輪書にも《にして》《にしても》が混在している。そういう具合であるから、ここは筆写者が、つい「も」字を入れてしまったらしい。

次は、すこし難題である。すなわち、筑前系諸本に、
《敵うろめき有てくずるゝと云ところを見つけずして、勝事をぬかして、はやく勝負つけざるもの也》
とあって、《つけざる》とするところ、肥後系諸本には、これを《つけ得ざる》として、「得」字を入れる。まずは、この字の有無が問題である。

肥後系諸本を中心に見る者たちだと、その問題の解決は簡単である。これは「得」字の脱字である。《つけ得ざる》-《得》=《つけざる》。それで一件落着である。しかし、そんなことで問題が片付くのなら、五輪書研究は要らないのである。ここはもう少し迂回を必要とする。

そこで、《つけざる》《つけ得ざる》と分かれる筑前系/肥後系を横断して共通の文字「つけ」があることに注目すべきである。今日の現代語でも、「勝負つけざる」となると、勝負をつけない、決着をつけない、という意味合いである。また、「勝負が」とするなら、ここは《勝負つかざる》ということである。「つけ」ではなく「つか」とするところである。

おそらく、オリジナルは「勝負がつかない」という文意ではなかったか、という推測が可能であろう。ただし、それも、仮名ではなく、《付ざる》と書いたものである。それを仮名に開いたのが《つけざる》という字句になった。とすれば、筑前系の《つけざる》という語句は、《付ざる》を仮名に変換した結果の産物ということである。

他方、肥後系の《つけ得ざる》は、おそらくこの《つけざる》に異和を覚えて、後になってこれに「得」字を挿入したものであろう。そうすると、ここは「はやく勝負をつけることができない」となって、文意は整序される。その点、肥後系諸本は、この修正後のヴァージョンである。

これに対し、筑前系の《つけざる》は、それ以前のもので、初期形態をそのまま伝えたもののようである。しかしこれが誤写だとすれば、それはいつの段階のことか。

そこで再度、《つけざる》《つけ得ざる》と分布する筑前系/肥後系を横断して、共通の文字「つけ」があることに注目すべきである。つまり、寺尾孫之丞の段階で、「つけ」という仮名字句がすでにあったのである。

言い換えれば、そこで「つけ」が発生した。武蔵草稿に《付ざる》とあったものを仮名に開いたのは、寺尾孫之丞だったというわけである。

おそらく五輪書に仮名書きが多いのは、武蔵が和文入門書としての本書のためにそうしたのだが、寺尾孫之丞の段階で増えた仮名書きも相当あると思われる。もちろん、寺尾がこう書いたのは、《勝負つけざる》でもとくに異和を感じなかったからである。《勝負つけざる》でも文意は通るからである。

これが「つけ」になったのは、編集段階での偶発だろうが、それが後々までも伝わったのである。しかるに、肥後系では後に、《つけざる》に異を感じて、《つけ得ざる》と修正してしまったが、他方、筑前系の方は、寺尾の書字そのままの《つけざる》という字句を伝えたのである。

したがって、我々のテクストでは、寺尾孫之丞段階に遡りうるこの古型の《勝負つけざる》を認知した上で、それに止まらず、想定しうるオリジナルの形、つまり、《勝負付ざる》を復元して提示しておいた。申すまでもなく、この場合、《付ざる》は、「つけざる」ではなく、「つかざる」と読むのである。

さて、別の校異については、続く文に、筑前系諸本には、
《うろめき崩るゝ場を見わけてハ、すこしも敵をくつろがせざるやうに勝事、肝要也》
とあって、《見わけてハ》とするところ、肥後系諸本には、これを《見わけて》として、「ハ」字をつけない。また、この字の有無が問題である。

文意の相異は些細なものだが、文脈をたどれば、ここは「ハ」字があった方が文の輪郭が明確になる。つまり、足踏みがのんびりしすぎていては、敵にうろめき〔動揺〕があって崩れるというところを見つけず、そして勝機を取り逃がして、早く勝負をつけない、ということになるものだ。敵がうろめき崩れるところを見わけたら、少しも敵に余裕を与えないようにして勝つこと。――このように、「敵がうろめき崩れる」のを見分けたら、すぐさま、という文章内容の方が妥当であろう。

肥後系のように、《うろめきくづるゝ場を見わけて、少も敵をくつろがせざるやうに勝事》というように、《見わけて》で切るのは、文の脈絡が平板である。やはり、ここは、《見わけてハ》とあった方がよい。

というわけで、内容の点では、「ハ」字がある方がよろしい。しかし、ここはそういう文意で是非が決まるわけではなく、間テクスト的分析の結果による。すなわち、筑前系において諸本共通して、これを記すことが判定のポイントである。

言い換えれば、ここで「ハ」字を付すのが筑前系初期の形であり、同時に寺尾孫之丞前期にそうあった可能性が高い。したがって、我々のテクストにおいては、この《見わけてハ》という「ハ」字がある方を採るというわけである。

 

 

9 他流批判8・早いはよいか (他の兵法に早きを用ゆる事)

【原文】

 

一 他流にはやき事を用る事。
兵法のはやきと云所、実の道にあらず。
はやきといふ事ハ、
物毎のひやうしの間にあはざるによつて、
はやき遅きと云こゝろ也。
其道上手になりてハ、
はやく見ヘざるもの也。
たとへバ、人にはや道と云て、
一日に四十五十里行者も有。
是も、朝より晩迄、はやくはしるにてハなし。
道のふかんなるものハ、
一日走様なれども、はかゆかざるもの也。
乱舞の道に、上手(の*)うたふ謡に、
下手のつけてうたへバ、おくるゝこゝろ有て、
いそがしきもの也。
又、鼓太鼓に老松をうつに、静なる位なれども、
下手ハ、これもおくれ、さきだつこゝろ也。
高砂ハ、きうなる位なれども、
はやきといふ事、悪し。
はやきハこける、と云て、間にあはず。
勿論、おそきも悪し。
これ、上手のする事ハ、緩々と見ヘて、
間のぬけざる所也。
諸事しつけたるものゝする事ハ、
いそがしくみヘざるもの也。
此たとへをもつて、道の利をしるべし。(1)
殊に兵法の道におゐて、はやきと云事悪し。
是も、其子細は、所によりて、
沼ふけなどにてハ、身足ともにはやく行がたし。
太刀ハ、いよ/\はやくきる事悪し。
はやくきらんとすれバ、扇小刀の様にハあらで、
ちやくときれバ、少もきれざるもの也。
能々分別すべし。
大分の兵法にしても、はやく急ぐ心わるし。
枕を押ゆると云心にてハ、
すこしもおそき事ハなき事也。
又、人のむざとはやき事などにハ、
そむくと云て、静になり、
人につかざる所、肝要也。
此こゝろ、工夫鍛錬有べき事也。(2)

 

 

 

【現代語訳】

 


一 他流で早い事を用いる〔重視する〕事

兵法の早いというところ、(それは)真実の道ではない。

早いということは、何ごとでも、拍子の間〔ま〕に合わない〔はずれる〕ということで、そこから、早い遅いというわけである。その道の上手になると、(動作は)早く見えないものである。

たとえば、人によっては、「はや道」〔飛脚〕といって、一日に四十里五十里行く者もある。これも、朝から晩まで(一日中)早く走るのではない。道〔はや道〕の不堪〔未熟〕なる者は、一日中走るようであっても、捗が行かないものである。

乱舞*の道では、上手がうたう謡曲に下手が付けてうたうと、(下手は)遅れる心があって、急がしいものである。

また、鼓太鼓で「老松」〔おいまつ〕を打つとき、ゆっくりした曲であるのに、下手はこれも遅れ、(焦って)先立とうとするのである。「高砂」〔たかさご〕は(リズムが)急速な曲であるけれど、早いということはよくない。「早きはこける」といって、間に合わない。もちろん遅いのもよくない。

これは、上手のすることは、ゆるゆるとみえて、間が抜けないというところである。どんなことでも、手慣れた者のする事は、急がしく見えないものである。この喩えをもって、道の利〔正しいやり方〕を知るべし。

とくに、兵法の道において、早いということはよくない。これも、そのわけは、場所によって、沼、ふけ〔湿原〕などでは、身も足も共に早く進めないからである。

太刀はなおさら、早く切ることはよくない。早く切ろうとすれば、扇や小刀のようにはいかず、ちゃくと*〔素早く〕切れば、少しも切れないものである。よくよく分別すべし。

大分の兵法〔集団戦〕にしても、早く急ぐ心はよくない。「枕をおさえる」というつもりになれば、少しも遅いことはないのである。

また、相手がむやみに早くする場合などには、「背く」といって、(逆に)緩慢になって、(早い)相手につかない〔同調しない〕こと、そこが肝要である。この心、工夫、鍛練あるべきことである。

 

【註解】

 (1)兵法のはやきと云所、実の道にあらず

前節とやや連続して、こんどは、早さ、スピードを重視することに対する批判である。ここもかなり興味深い教えである。

というのも、戦国期から何ごとも、スピード、機動性というところが重視され、この行動における速度が重視されてきた。それは合戦など戦闘においてもそうであるし、また築城など工事においてもそうである。

幕藩体制の政治秩序が固定し、身分社会が安定してしまうと、運動は緩慢になってしまうが、それより以前の近世初頭、武蔵は、なかなか忙しい性急に運動する時代を生きたのである。
《兵法のはやきと云所、実の道にあらず》
という武蔵の、スピードに対するネガティヴなテーゼは、世の中がスピードを信奉するなかで、太刀使いも速度を重視するようになってしまったことへの批判である。速さへの強迫観念というものがあって、何ごとも早いのが優れているという信仰があったのである。

これに対し武蔵は、スピードだけでは勝てないぞ、あるいは、速度信奉者に勝つにはこうすればいい、という話をするわけである。

その前に武蔵は、そもそも「早い」とはどういうことか、という省察(reflection)をしてみせる。すなわち、「早い」ということは、何ごとでも、拍子の間〔ま〕に合わないということから、早い遅いということがあるわけだ、とする。

現代語では、「間に合わない」というのは、「遅れる」という一方的な意味になっているが、武蔵の時代には、字義通りの「間に合わない」、「はずれる」という意味である。つまり、早すぎるのも「間に合わない」のである。

そこで、ようするに、拍子の間に合わない、拍子外れのあることから、早い、遅いということがあるだけだ。――これが武蔵的な定義である。

これは注意されるべき思考である。なぜなら、この「早い」の定義によれば、早いということそのものが存在しない。その道の上手になると、(動作は)早く見えないものである、――と武蔵は言う。

言い換えれば、武蔵によれば、拍子の間に合わない(はずれる)のが、早い、遅いということであり、「早い」ということもまた、拍子の間に合ない、拍子の外れたことである。こうした指摘は、速度のイデオロギーのなかで、「早い」ということに絶対的な価値を置く風潮への批判であるが、武蔵の方から言えば、早くても早く見えない、それが上手のすることなのである。
《其道上手になりてハ、はやく見ヘざるもの也》

ここで武蔵は、二つ事例を挙げる。一つは「はや道」(飛脚)、もう一つは乱舞(能楽)である。いづれも、速度やリズムが肝心である。

武蔵の話では、当時「はや道」といって、一日になんと四十里五十里(160~200km)も走る者があったらしい。これは、遠距離走破であるのみならず、かなり早い。

マラソンの世界記録でも、平均時速20km程度である。五十里(200km)走るとなると、これでも十時間は走らなければならない。二時間と少し走って力が尽きるマラソン選手では、これは無理であろう。現代の通念からすれば、不可能事だが、武蔵が言うのだから、当時はそんな人間が事実居たし、そんな「はや道」という走行術があったのである。

武蔵の言うには、これも、朝から晩まで、ずっとその間、早く走るのではない。彼らがどうやって走っていたか、見たいものだが、この「はや道」の伝承者は、もういないだろう。
《是も、朝より晩迄、はやくはしるにてハなし。道のふかんなるものハ、一日走様なれとも、はかゆかざるもの也》

この道の達者は、朝から晩まで、ずっとその間、早く走るのではないが、四十里五十里を走破する。道の「ふかん」なる者は、一日中走っても、一向に捗が行かない。これが「早い」「遅い」ということである。

この「ふかん」〔不堪〕は、芸術技術の未熟なることである。語例は、
《不堪の藝をもちて堪能の坐につらなり》(徒然草)
とあるごとくである。ちなみに、古文書に見える「不堪田」〔ふかんだ〕とは、農作できない荒れ田のことである。

武蔵が挙げる事例のもう一つは、乱舞である。この「乱舞」という語は前にも出たが、必ずしも「らんぶ」ではなく「らっぷ」ともよむ。現代語の「乱舞」とは意味が違って、能の一節を謡い舞うことである。

武蔵は、上手がうたう謡いに下手が付けて謠うと、遅れる心があって急がしいものである、という。遅れまいとして、急がしくなるのである。

この「乱舞」のことで、武蔵が次に例に出しているのは、「老松」〔おいまつ〕と「高砂」〔たかさご〕、ともに世阿弥の作である。また、ともに祝言の舞曲で、正月に演じられた。ともに最も有名な謡曲であるから、武蔵はここでも、だれでも知っている分かりやすい例を出しているのである。それが五輪書の教えのスタンスである。

「老松」について、武蔵は、ゆっくりした曲であるのに、下手はこれにも遅れて焦る気持になる、と言っている。こちらは、厳粛で閑雅、緩速の曲である。

もう一つの「高砂」については、急な曲であるけれど、早いということはよくない、と評している。「高砂」は全て急な曲というわけではない。急な曲という部分は、真之神舞のところであろうか。ここは、いくら囃子が速くなっても、シテはそれに合わせなければならない、ともいうほどの急所である。

このように「老松」「高砂」の緩急二つの例を出して、いくら緩慢な曲でも下手は遅れて焦ってしまうものだし、一方でいくらでも急であってよい曲でも、早いというのはよくない、とするのである。要するに、拍子の間に合う/合わないということが問題なのである。

武蔵は云う、――「早きはこける」といって、間に合わない。この「こける」は、現代でも関西などで現存語法にあるが、転〔ころ〕ぶ、倒れることである。「こけつ、転〔まろ〕びつ」というのは、倒れたりころんだりして、そんな調子で急いで走る様子である。ただし、この《早きはこける》の「こける」のばあいは、「逸れる、外れる」の意であり、拍子が外れるということである。だから、武蔵は《間にあはず》と云うのである。
《これ、上手のする事ハ、緩々と見ヘて、間のぬけざる所也。諸事しつけたるものゝする事ハ、いそがしくみヘざるもの也》

これが、武蔵の解説ポイントである。上手のすることは、ゆるゆるとみえて、間が抜けない。「間が抜けない」とは、間に合うことである。「間抜け」というのは、阿呆、頓馬と同様、人の愚鈍を罵って云う罵倒語、「間に合わない」は現代語では遅れることをいうが、もとは拍子の間に合う/合わないという話だったのである。

なお、また語釈上の問題では、前出の《はやきハこける》の「こける」である。これは「逸れる、外れる」の意あり、拍子が外れるということである。ここは拍子の間についての成語であるから、「こける」は通常の「転ぶ、倒れる」という意味ではない。

これについて既成現代語訳を見るに、戦前の石田訳は、「早いのは倒〔こ〕ける」として、すでに「倒れる」という方向を出している。戦後の神子訳になると、「急げば転ぶ」と「間にはずれてしまう」を出しているが、転ぶと間にはずれるの食違いをそのままにして、文意不通の訳文となっている。

その後の岩波版注記では、《はやきハこける》を「はやく走れば転倒することが多い」と語釈している。これは上記の意味において誤りである。《間にあはず》には、「拍子の間にぴたりと合わず、外れてしまう」と語釈しているから、神子訳と同じく、転倒すると外れるの喰い違いをみせたままにしている。

大河内訳は、神子訳と岩波版注記の翻案であり、さして工夫はない。鎌田訳もその点同様であつが、例によって岩波版注記をそのまま転記したもので、しかも《はやきハこける》が警句であるのを無視した訳文である。

ところで、細川家本は、《此たとへをもつて、道の理をしるべし》として、道の「理」としているが、これは、筑前系諸本を参照すれば、道の「利」とすべきところである。楠家本は、肥後系の中では珍しく、道の「利」と書いているが、他はおおむね道の「理」に作る。

当時は「理」「利」二字の互換性があって、「理」を「利」に宛て字し合うことがよくあるのだが、肥後系諸本の傾向として、「利」を「理」に書き換えてしまう例が多い。この道の「理」もその一例である。

ところで、細川家本が他の諸本と同じく、道の「理」と書いたことにより、既成現代語訳に理解しがたい珍訳が生じた。

戦前の石田訳は、「道の理」として、語字通り読ませようとしているが、問題は、戦後の神子訳である。ご覧のごとく、これをなんと「道理」としてしまったのである。「道の理」だから、「道理」。しかも「この道理」である。どの道理というのか、呆れた「翻訳」である。

道理ならはじめから「道理」とあるだろうに、どうして「道の理」と書いてあるのか、それに思い至らなかったのである。もちろん、これが「道の利」であることは、訳者は知らないのである。

しかし、さらに問題は、大河内訳・鎌田訳である。両者は神子訳を頂戴して、「その道理」「この道理」としている。神子訳の創意にかかる珍訳は、かくして再生産されているわけである。

ついでに、ここでもう一つ珍訳を挙げることができる。これも、神子訳の創意によるものである。

つまり、順序は後先になったが、彼らが依拠した細川家本に、《人にはや道といひて、四十里五十里行ものもあり》とあるところ、石田訳はそのままの訳であるが、戦後になると、神子訳が「一日に」と入れた。

もちろんこの語句は、細川家本(岩波版)原文にはないものである。原文にない語句を入れるのは、直訳ではなく意訳だからだが、この「一日に」という神子訳の発明は、以後の大河内訳・鎌田訳にも引き継がれ反復されている。だから、原文を知らぬ読者は、細川家本にこの「一日に」という文字があるものと錯覚するのである。

しかし、細川家本には、「一日に」四十里五十里行くとは書いていないから、三日で行くことも、五日で行くこともあるはずである。石田訳はそういう理解であろう。したがって、細川家本に依拠するかぎりにおいて、意訳とはいえ、この「一日に」は原文に不忠実な逸脱なのである。

ところが、以下の校異に見るごとく、筑前系諸本には、《一日に四十里五十里行者も有》とあって、「一日に」と確かに書いてあるのである。もちろん神子が、筑前系五輪書まで見ているはずはないから、これは知らずに勝手に付け足したのである。つまりは原文から脱線してしまったのだが、そうした逸脱が、結果として正解を得たというわけである。これもまた、五輪書翻訳史上の珍事の一つと謂うべきであろう。

――――――――――――


この箇処に関して、少なからず校異がある。指摘しておくべきは、以下の諸点である。

まず、冒頭タイトル部分、筑前系諸本に、
《他流にはやき事を用る事》
とあって、《他流》とあるところ、肥後系諸本には、《他の兵法》とするものがある。また、同じ肥後系でも、早期派生系統の子孫、富永家本や狩野文庫本などは、《他流の兵法》としており、いわば中間形態を示す。

ここは、風之巻諸条の体裁からして、筑前系諸本のように《他流》とするのが妥当であろう。肥後では、「兵法」という語が紛れ込む写し崩れが、早期にあったものらしい。

次に、筑前系諸本に、
《物ごとのひやうしの間にあはざるによつて》
とあって、《物ごと「の」》とするところ、肥後系諸本には、細川家本のように、《物毎「に」》とするものがある。また、同じ肥後系でも、楠家本や富永家本など、これを《物毎「の」》とするものがある。

このように筑前系諸本だけではなく、肥後系にも「の」字のあるところからすると、筑前系/肥後系を横断して共通するのは、「の」字であり、それが古型である。これを「に」字に作るのは、肥後系で後に発生した誤写である。

ところで、ここに「に」字を記すのは、細川家本や丸岡家本だが、それらは従来古型を示す写本だと想定されてきたものである。しかし、明らかにこうした後発性を示す誤写を有するものである以上、細川家本や丸岡家本が古型を示す写本であるわけがない。そうした謬見は却下すべきである。

また次には、「早道」への言及箇処で、筑前系諸本に、
《たとへば、人にはや道と云て、一日に四十里五十里行者も有》
として、《一日に》とあるところ、肥後系諸本には、この語句がない。これは、筑前系と肥後系に分かれて明確に分布しているから、両者を区分する指標的相異である。

しかし、申すまでもなく、眼力のある人士でなくともすでに気づかれておることだろうが、ここに《一日に》という語句がないと、文意が曖昧である。というのも、四十里五十里行く者もあるとして、それがたとえば三日や五日のことでは、早いとは云えないからである。ここは、「一日に」四十里五十里行く者もある、という文章でなければならない。

肥後系諸本は共通して、この「一日に」という語句を脱落せしめているから、これは肥後系早期に発生した異変であろう。ただし、それも単純な脱字誤写ではなく、一日で四十里五十里行くなど、そんなことは荒唐無稽ではないかと考えた者が、これを削除したもののようである。

とすれば、肥後系諸本によるかぎり、「一日に」四十里五十里行く者もあるということ自体が抹消されているわけで、その文脈では、決して、「一日に四十里五十里行く者」など存在しないのである。

しかし、そういう抹消ができるというのも、無条件にはできない。つまり、ここに《一日に》という語句の偶発的な「脱字」ではなく、「抹消」の作為があるとすれば、それは五輪書相伝という環境ではありえないことで、門外流出後の操作とみなすべきである。

そして、もう一つ、――これは重要なポイントであるが――そうした脱落=抹消を示す箇処が、肥後系諸本に共通して存在するとすれば、それは、肥後系現存写本はすべて、門外流出後に発生した海賊版写本の子孫だということになる。この点は、肥後系諸本の史料評価における肝心である。

さて、校異箇処としては、次に、筑前系諸本間の相異のあるところ、すなわち、乱舞の道に言及したあたり、筑前系諸本のうち、早川系の吉田家本・中山文庫本に、《乱舞の道に、上手うたふ謡に、下手のつけてうたへば》とあるが、それに対し、同じ早川系でも伊丹家本には、《上手のうたふ》として「の」字を入れ、また立花=越後系諸本でも、「の」字が入るところである。

つまり、筑前系諸本間には、この「の」字の有無という相違がある。しかも、早川系の伊丹家本に「の」字があるだから、これは立花系/早川系の相異ではない。

肥後系諸本をみるに、同じく「の」字を入れるものがあるし、また、肥後系にも、富永家本のように、「の」字を欠くものがある。それゆえ、その両方が、筑前系/越後系を横断して存在するという格好である。筑前系/越後系を横断して共通するばあい、それは寺尾孫之丞の段階に遡りうる語句であるが、これはどちらもその資格があるということである。

したがって、この筑前系諸本間の相異、「の」字の有無に関しては、未決事項としておくべきである。またさらに新しい史料が発掘できれば、この問題の解決に進むこともできよう。したがって、当面、我々のテクストでは、その未決状態を示すために、《上手(の)うたふ》と記している。

ところで、まだ校異箇処がある。このあたり校異が連続しているので、以下、さらに順序を追って示しておく。

すなわち、一つは、筑前系諸本に、
《老松をうつに、静なる位なれども、下手ハ、これもおくれ、さきだつこゝろなり》
として、《これも》《こゝろなり》とあるところ、肥後系諸本には、《これにも》《心あり》として、双方相違がある。しかもこれらは、筑前系/肥後系を截然と区分する指標的差異である。

ただし、筑前系諸本には共通して存在するところから、前出例と同類のことであり、これらにある語句は、まずは初期性を有するものである。ただし、一応、個別に差異を検分しておくべきである。

このうち、《これも》/《これにも》は、「に」字の有無であるが、これは肥後系に見られる文意強調のパターンである。しかし、これが寺尾孫之丞段階に遡る可能性もある。つまり、寺尾孫之丞後期、《これにも》という語句を記した五輪書を発給したということもありうる。

ただし、その場合でも、筑前系の《これも》の初期形態たることは動かない。こちらは寺尾孫之丞前期の可能性があるからである。

次に、《こゝろなり》/《心あり》の相異であるが、これは「なり」/「あり」の相異であり、いづれかの誤記である。つまり、漢字「也」/「有」の誤記ではなく、仮名「な」字と「あ」字の類似から生じた誤写である。

これについては、筑前系の初期性からして、本来は「なり」であったとみえる。これに対し、肥後系の「あり」は、諸本共通するとはいえ、これは寺尾孫之丞段階に遡りえない。なぜなら、これは文意が変ってしまう変更なので、寺尾本人が、前期/後期で、「なり」と「あり」を書き分けることはないからである。

「心なり」と「心あり」とでは文意が異なる。「心あり」ならば、その心がある、ということである。このばあいでは、先立つ心がある、ということである。それに対し、「心なり」であれば、その心である、ということ。では、「心あり」に対して「心なり」は異例かというと、そうではない。「心なり」の語例は多い。右掲のごとく、この風之巻でも、少なからず登場している。

このうち、本例「先立つ心なり」と同じようなネガティヴな意味合いをもつのは、《きられざる心也》、《役にたゝざる心也》、《まよふ心也》などの語例である。したがって、「心なり」の語例は少なくない。

このことから、ここは本来、「なり」であって不都合はない。《さきだつこゝろなり》である。しかし、注意したいのは、上記事例において、《心也》として、仮名「なり」ではなく、漢字「也」が多いことである。とすれば、ここに誤写の要因もあるわけである。

つまり、寺尾孫之丞はここを「なり」と仮名で書いた。筑前系では、これをそのまま伝えたが、肥後系は、門外流出後に、この「なり」を「あり」と誤写した写本が発生した。そのために、後の写本はこれを伝えて、あるいは漢字「有」とも書くようになった。

この誤写は門外流出後早々のことであろう。なぜなら、早期に派生した系統の子孫たる富永家本や円明流系諸本にも、この「あり」「有」が見られるからである。

とすれば、肥後系諸本は、門外流出後早期にこの誤写をした写本の末裔である。言い換えれば、肥後系現存写本の先祖は、この誤写をした海賊版写本である。そして、誤写という偶然が同所に同時に発生することが稀だとすれば、肥後系諸本は複数の先祖を個別に有するのではなく、特定の元祖一本に帰一するものであり、その元祖が生れた後、諸系統に派生したのである。

その肥後系諸本の元祖とは、むろん、寺尾孫之丞が門人に伝授した五輪書ではない。また、この元祖一本は、門外へ流出した写しでもなく、その子か孫である。つまり、五輪書相伝とは無縁な門外者が作成した写本なのである。

かくして、肥後系写本のこの《心あり》の示すところは、決して小さくはないことが知れよう。こうしたことは、写本の一字一句を精査し照合してはじめて析出される事実である。諸本奥書の宛名しか見ていないようでは、わからないことである。

あるいは、後の別の箇処で、筑前系諸本に、
《はやきハこけると云て、間にあはず。勿論、おそきも悪し。これ、上手のする事ハ、緩々とミヘて、間のぬけざるところ也》
とあって、《これ》とするところ、肥後系は共通して、《是も》として、「是」と漢字で記し「も」字を付す。この相違もまた、筑前系と肥後系に分かれて分布しているから、両者を分つ指標である。

 

 

*【吉田家本】
《勿論、おそきも悪し。これ、上手のする事ハ、緩々とミヘて》


*【中山文庫本】
《勿論、おそきも悪し。これ、上手のする事ハ、緩々と見ヘて》


*【伊丹家本】
《勿論、遅きも悪し。これ、上手のする事ハ、緩々と見ヘて》


*【渡辺家本】
《勿論、おそきも悪し。これ、上手のする事ハ、緩々と見ヘて》


*【近藤家丙本】
《勿論、おそきも悪し。これ、上手のする事ハ、緩々と見ヘて》

 


*【楠家本】
《勿論、おそきもあしゝ。是も、上手のする事ハ、ゆる/\とみえて》


*【細川家本】
《勿論、おそきも悪シ。是も、上手のする事は、緩々と見へて》


*【丸岡家本】
《勿論、遲キもあしゝ。是も、上手のすることは、緩々と見えて》


*【富永家本】
《勿論、おそきも悪しゝ。是も、上手のする事ハ、緩/\と見て》


*【狩野文庫本】
《勿論、遲も悪し。是も、上手のする事は、緩々と見へて》

 

これについて言えば、筑前系諸本に共通するところから、前例と同様に、《これ》を初期形態とみなしうる。寺尾孫之丞段階まで遡りうる可能性がある。

それだけではなく、寺尾孫之丞が《これ》と仮名書きしたのは、漢字《是》が、ついつい「も」字を付されがちなので、ここは特に仮名書きにして、予防線を張ったものらしい。ところが、後に肥後系では、この仮名を漢字「是」に作り、そうしてその後に、案の定「も」字を付す写本が出たということである。

そうしてみると、《これ》と《是も》の間には、「是」と漢字変換する段階があったらしい。つまり、

   「これ」 → 「是」 → 「是も」
というプロセスである。門外流出後、まず「是」と漢字変換されて、その後に、「も」字を付して、文意を強調する操作がなされ、《是も》と化したのであっただろう。

この《是も》という語句も、肥後系諸本の共有するところである。前記諸例と同じく、元祖一本に帰せられるものとすれば、その元祖一本は、寺尾孫之丞の五輪書からすれば、少なくとも「孫」であって「子」ではない。言い換えれば、門外流出後に発生した写本の子か孫である。

以上のように、肥後系早期の写本は位置づけられるであろう。現存写本は、そこから派生した諸系統の末裔である。誤記という遺伝子を共有することから、それらは同祖子孫である。先祖が複数存在したわけではないのである。  


(2)殊に兵法の道におゐて、はやきと云事悪し

早いというのは、拍子の間の問題である。前段での話では、どんなことでも、その道の上手のすることは、ゆるゆるとみえて、間が抜けない。手慣れた者のする事は、急がしく見えないものである、――ということであった。

そこで、武蔵は言う。――とくに兵法の道において、早いということはよくない。そのわけは、場所によって、沼、湿原などでは、身も足も共に早く進めないからである…。これは前条「足つかい」で出た「さそく」(左足)とも関連することであろう。

これは戦う場所の条件によって、いくら急ごうとしても制約があるという話である。こんな分かりきった話をするのは、むろん武蔵のユーモアである。そんなに急いでも、沼やふけ(湿地)ではどうにもなるまい、という笑いである。

では太刀は、となると、どうか。太刀さばきは、早いに越したことはないのではないか。

願立(願流)祖、蝙也斎松林左馬之助(1593~1667)は、武蔵と同時代の人である。彼の逸話(「東藩野來」)に、その昔、源義経が柳を枝を斬って八断、なお水に落ちなかった、その伝説を聞いて蝙也斎試行するに、柳の枝が水面に落ちるまでに十三回切断した。その太刀の早きことを称賛されたという。毎日千回の抜刀を欠かさず、七十五歳で死ぬまでこれを廃さず、ともいう。

ともあれ、太刀さばきは早い方がよいのではないか?――ところが、武蔵の教えは、その反対である。

太刀となると、これはなおさら、早いのはいけない。太刀は早く切ることはよくない。早く切ろうとすれば、扇や小刀を振るようには行かず、ちゃくと(素早く)切れば、少しも切れないものである。むろん、柳枝を切るのと人を斬るのとでは、話がおのづから違う。

これと類似の話は水之巻にもあった。――太刀を早く振ろうとすると、かえって太刀の軌道が逆らって、振れないものである。太刀は振りよい程に靜かに振るという感じにする。扇や小刀などを扱うように、太刀を早く振ろうと思うのはよくない。それは「小刀きざみ」といって、人など切れないものである。――というのが、その教えである。

また、大分の兵法〔集団戦〕にしても、同じであって、早く急ぐ心はよくない。「枕をおさえる」という心になれば、少しも遅いことはない、と武蔵は云う。この「枕をおさえる」という教えは、前に火之巻で出てきたところである。

すなわち、枕をおさえるというのは、何ごとであれ敵が思うきざしを示さぬ内に、こちらはそれを察知して、敵の「打つ」というその「う」の字の頭を抑えて、その後をさせないこと、これが枕をおさえるという意味である。

有名な《敵の打と云、うの字のかしらをおさへて》という一節のあるここは、――既述のように――意図と行動の隙間ではなく、むしろ「打つ」という意図の起動する頭を抑えるという話である。敵の「行動」の頭を抑えるのではなく、その「意図」の頭を抑えてしまうのである。しかし、枕を抑えろとはいえ、敵のしようとすることを抑えよう、抑えようとすると、後手になる。意図すること自体がすでに遅いのである。まず、敵の業をしようとする頭を抑えて、何ごとも役に立たせず、敵を自在に扱う(こなす)ところ、そこが兵法の練達者の鍛練の成果である、云々。

そういう「枕をおさえる」という心になれば、急くことはないし、少しも遅いことはない、と武蔵は云うわけである。もはや遅いことすら存在しないのである。

もう一つ、武蔵の言うのは、相手の拍子を外すこと、むしろ「背く」ことである。相手のむやみと早い拍子に対しては、「背く」といって、背反することをする。つまり、こちらは逆に緩慢な拍子になる。

要するに、相手の拍子に同調追随しないところが肝要である。謡曲ではないのだから、戦闘は相手と拍子を合わせるのではなく、相手の拍子を外し、その拍子とは反対の拍子をとる。拍子の早い相手には、拍子に背いて勝つのである。

というわけで、武蔵は兵法における速さへの信仰を批判するだけではなく、これを打ち破って勝つ方法まで教える。批判は言葉の次元だけではなく、行為の次元において実証可能である。


ところで、かつて我々の長く親しんだ岩波旧版(高柳校訂)五輪書では、
《はやくときれば、少もきれざるもの也》
とあった。この「はやくと」は、「ち」を「は」と読んだ校訂ミスで、正しくは「ちやくと」である。戦後の岩波新版(日本思想大系版 昭和四七年)では、これを「ちやくと」と正しく直している。

そこまではよいが、この岩波新版の注記に、これを「小手先で」と語釈したのは誤りである。用例を挙げれば、
《忠常ちやくと思案を出し》(浄瑠璃・百日曾我)
《斯うすれば、すぐもうちやくと出来るのぢやが》(坪内逍遥『桐一葉』)

この「ちやくと」は、言うまでもなく、「素早く、ただちに」の意である。転じて、あまり性急にすぎて「無思慮に」「手軽すぎる」というニュアンスもないではない。しかし「小手先で」という語義はない。岩波版注記は典拠を示さないから、これは当て推量であろう。

現代語訳事例を見るに、戦中の石田訳と戦後の神子訳は、岩波旧版の「はやくと」の世代である。石田訳は「早く」とし、神子訳も「早く」として、これを重複と見て省略している。後二者の大河内訳と鎌田訳は、岩波版注記の「小手先で」という語釈を頂戴している。むろん、これは誤りである。

したがって、後二者が正しいテクストに依拠しているのに誤訳し、誤ったテクストに依拠した前二者の語訳の方が結果的には正しい、という皮肉な姿になっている。これも、五輪書翻訳史上の珍事の一つである。


――――――――――――

 

この箇処の校異に関して、指摘しておくべきは以下の諸点である。

まず、筑前系諸本に、
《殊に兵法の道におゐて、はやきと云事悪し。是も、其子細は、所によりて》
とあって、《是も、其子細は》と記すところ、肥後系諸本にはいろいろ異変がある。諸本によって相違がある。楠家本などは、この《是も》という字句を欠く。しかるに、細川家本は、《是も》という語句を記すが、《其子細は、是も》として語順が入れ替わっている。あるいは、狩野文庫本では、《是も》は所定の位置にあるが、《其子細は》という語句は後文の頭に移動している。

しかし、同じ肥後系の丸岡家本や富永家本には、筑前系諸本と同様に、《是も、其子細は》と記す。これらを見るに、肥後系も早期には、《是も、其子細は》と記したものらしい。それが、その後、系統派生するうちに、さまざま写し崩れがあって、現存諸写本のような様相になったものである。

もとより、《是も、其子細は》とあるのは、筑前系諸本に共通するところであり、また同時に、筑前系/肥後系を横断して存在するのであるから、これは寺尾孫之丞段階にあったとみなしうる語句である。それが、後にまで存在していたが、さらに後になって、《是も》という字句が脱字を蒙り、あるいは語順を誤写されて伝わったのである。

したがって、ことに楠家本・細川家本は、この《是も、其子細は》について脱字変異を生じている点では、後発性を示している。これに対し、写し崩れが多く写本時期が遅いとみえる富永家本は、しばしば、こうした早期の痕跡を残していることがある。それは、これまでに挙げた他の諸例によっても知れるであろう。

また続いて、次の校異では、筑前系諸本には、
《太刀ハ、弥(いよ/\)はやくきる事悪し。はやくきらんとすれバ》
とあって、《悪し》とするところ、肥後系諸本には、《なし》と記す。この字句は、肥後系に共通するところであるから、筑前系/肥後系を区分する指標的差異の一つである。

他方、筑前系諸本において、《悪し》が共通するところから、これは筑前系初期に存在した字句である。そして、これは柴任美矩が伝授された寺尾孫之丞前期に遡りうる語句である。

他方、肥後系諸本に共通して、《なし》と記すところからすれば、これが肥後系早期にすでに発生していた変異である。とすれば、これは寺尾孫之丞前期ではないにしても、その後期に遡りうるものなのか。

しかしながら、《悪し》と《なし》では、文意が違ってしまう。寺尾孫之丞が前期に《悪し》と記し、後期になって、それとは違う語の《なし》と記すことはありえない。

もちろん文脈の上でも、ここは《なし》ではなく《悪し》とあらねばならない。というのも、前出文との相関関係があるからだ。
《殊に、兵法の道におゐて、はやきと云事悪し》
《太刀は、弥(いよ/\)はやくきる事悪し》

兵法の道において、早いということは「悪し」、太刀は、なおさら、早く切ることは「悪し」、である。この「弥(いよ/\)」という措辞をみれば、この連文構成において、あるべきは《なし》ではなく、《悪し》である。

したがって、寺尾孫之丞の段階では、ありえない変異である。そうすると、この《なし》は、寺尾孫之丞以後の発生であり、しかも文意の変更にかかわる異変であるから、これは門外流出後に生じた誤写である。そのプロセスを想定してみれば、これも前例と同じく、仮名「あ」字と「な」字の類似による誤読である。

  「あしゝ」→「なし(ゝ)」→「なし」

つまり、そのプロセスは、仮名書き《あしゝ》の「あ」字を「な」と誤読して、その結果《なし》に至ったものである。

肥後系現存写本に共通して、この《なし》を記すとすれば、肥後系諸本は、門外流出後早期にこの誤写をした写本の末裔であり、肥後系現存写本の先祖は、この誤写をした海賊版写本である。そして、既述例と同じく、ここでも読み取るべきは、肥後系諸本は複数の先祖を個別に有するのではなく、特定の元祖一本に帰一するものであり、その元祖が生れた後、諸系統に派生したということである。

さて、もうひとつ、校異を指摘しておく。それは本条末尾、筑前系諸本に、
《人のむざとはやき事などにハ、そむくと云て、静になり、人につかざる所、肝要也。此こゝろ、工夫鍛練有べき事也》
とあって、《此こゝろ》とするところ、肥後系諸本には《此心の》とするものがある。あるいは、丸岡家本のように《此心、能々》とするものもある。

そのように肥後系諸本の中には、変異を示すものがあるが、他方、富永家本などのように、《此心》として、筑前系諸本と同じく「の」字その他を入れない事例もみられる。つまり、肥後系にも、筑前系と共通するケースがある。とすれば、筑前系/肥後系を横断して共通の、この《此こゝろ》《此心》が、古型であり、寺尾孫之丞段階まで遡りうる語句である。

したがって、《此心の》とするかたちは、肥後で後に発生した、肥後ローカルな衍字誤記である。この発生プロセスは、おそらく、ここに珍しく《工夫鍛練》という二語が連なるところに釣られて発生した変異であろう。

ただし、《此心》が、直接《此心の》となるわけではない。最初の変異は、他の箇処にあるように、《此心、能々工夫有べき事也》《此心、能々鍛練有べき事也》という結語のパターンに引かされて、つい《能々》と入れてしまったのかもしれない。これは、丸岡家本などが伝えるかたちである。

まず最初に、粗忽にも《能々》を入れてしまった写本があり、さらにその後、この《能》字を仮名「の」(能)に誤読して、《此心の》とするようになった。このプロセスでは、《此心の》は二次的変異である。

あるいは逆のパターンも考えられる。《此心工夫鍛練有べき事也》では、漢字が続いて読みにくかったか、《此心の工夫》と「の」字がつい入ってしまった。その写本が祖本となって、以後系統派生を経て伝わったのが、現存諸写本のかたちである。

そのうちに、丸岡家本のように、《此心、能々》とするものが生じた。この《能々》は、《此心の》の「の」(能)字を、仮名ではなく漢字に読んだもので、はじめは「此心、能工夫鍛練有べき事也」であったが、「能」一字では不足と見えて、それがさらに《能々》と化したと。

いづれにしても、これは肥後ローカルな後世の変異であり、後発的な二次的誤記である。寺尾孫之丞の段階では、「の」字も「能々」という語句もなかった。肥後系でも流出後早期には、まだ《此こゝろ》あるいは《此心》という字句であった。――それが我々の所見である。 

 

10 他流批判9・奥と表 (他流に奥表と云ふ事)

【原文】

一 他流に奥表と云事。
兵法の事におゐて、
いづれを表と云、いづれを奥といはん。
藝により、ことにふれて、
極意秘傳など云て、奥口あれども、
敵とうちあふ時の利におゐてハ、
表にて戦、奥を以てきると云事にあらず。
わが兵法のおしへ様ハ、
始て道を学ぶ人にハ、其わざのなりよき所を、
させならはせ、合点のはやくゆく利を、
さきにおしへ、心のおよびがたき事をバ、
其人の心のほどくる所を見わけて、
次第/\に、深き所の利を、
後におしゆるこゝろ也。
されども、おほかたハ、
こと*に對したる事などを、覚さするによつて、
奥口といふ所なき事也。(1)
されバ、世の中に、山の奥をたづぬるに、
猶奥へゆかんと思へバ、又、口へ出るもの也。
何事の道におゐても、
奥の出合ところも有、口を出してよき事も有。
此戦の道におゐて、
何をかかくし、いづれをか顕さん。
然によつて、我道を傳ふるに、
誓紙罸文などゝ云事をこのまず。
此道を学ぶ人の智力をうかゞひ、直なる道をおしへ、
兵法の五道六道のあしき所を捨させ、
おのづから武士の法の實の道に入、
うたがひなき心になす事、我兵法のおしへの道なり。
能々鍛錬有べし。(2)
 

 

 

【現代語訳】

 

一 他流で奥表という事

兵法の事において、どれを「表」と云い、どれを「奥」というのか。芸能によっては、事あるごとに、「極意秘伝」などといって、奥と入口はあるけれども、敵と打合うときの利〔戦い方〕においては、「表」によって戦い、「奥」をもって切るということではない。

我が兵法の教え方は、初めて道を学ぶ人には、その業の習得しやすいところを練習させ、納得の早く行く利〔理〕を先に教える。心の及ばない〔理解できない〕ことは、その人の心がほどけるところを見分けて、次第次第に深いところの利〔理〕を、後で教えるのである。

けれども、たいていの場合、こと〔状況〕に対応した(実際的な)ことなどを覚えさせるから、奥だ入口だと区別することはないのである。

されば、世の中には、山の奥を尋ねて行くに、もっと奥へ行こうと思うと、また(山の)入口ヘ出てしまうことがあるものだ。

何ごとの道においても、「奥」が役に立つ場合もあり、「口」を出してよいこともある。(しかし)この戦いの道において、何を隠し、何を表に出そうか(そんな奥も入口も本来存在しない)。

したがって、我が道を伝えるに、誓紙罸文〔せいしばつぶん、入門誓詞〕などということを好まない。

(そんなことよりも)この道を学ぶ人の智力を見抜いて、真っ直ぐな道を教え、兵法の五道六道*の悪いところ〔悪趣〕を捨てさせ、おのづから武士の法〔兵法〕の真実の道へ入り、疑いなき心にすること、これが我が兵法の教えの道である。

よくよく鍛練あるべし。

 

 

【註解】

 

 (1)兵法の事におゐて、いづれを表と云、いづれを奥といはん

ここは五輪書の一要諦とみるべき文である。この一文だけでも、五輪書を読む値打ちがある。まさしく武蔵の思想的ポジションを要約する文章である。それだけに、しっかり、きちんと読んでおきたいところである。

まず冒頭、武蔵は、
《兵法の事におゐて、いづれを表と云、いづれを奥といはん》
という。この反語法で、「表」だ「奥」だと言う剣術諸流派一切を否定するのである。

芸能によっては、事あるごとに、「極意秘伝」などといって、奥と入口を差別する風習はあるけれども、兵法の道、敵と打合うときの利においては、「表」によって戦い、「奥」をもって切る、などということはない。――と云って、たぶん武蔵は一笑するのである。

つまり、《敵とうちあふ時の利におゐてハ、表にて戦、奥を以てきると云事にあらず》。――ほほう、敵と切り合うとき、「表」で戦い、「奥」で切るとでも言うのかね?――武蔵のあからさまな皮肉である。しかし、これは単なる皮肉ではなく、相手を死に至らしめるほどの斬り方である。

奥と表(あるいは入口)を分別するのは、偽りのパースペクティヴを導入し、極意秘伝が存在するという錯覚を生産するという点で、まさしく倒錯的な振舞いである。武蔵にしてみれば、その秘密の「極意秘伝」なるもののあるところ、実は空っぽな空洞しかないのである。

ちなみに、この「表」と「奥」という言葉は、家屋の表と奥からきた隠喩である。家の「表」というのは外部のことではなく、入口に近い接客の間であり、「奥」というのは内奥の私的空間である。「大奥」などというのは、まさにそれである。

「奥」は外に秘す空間である。「私」というのは現代語ではプライヴェート(private)という意だが、もとは、秘密(secret)・内証(confidential)の意であって、「私に」という字句は「ひそかに」と読むのである。それゆえ、右掲のような陰流伝書(平沢氏家伝)に「陰之流 私」というタイトルの一書もありうるのである。

かくして、兵法の道に「表」も「奥」もないという武蔵は、それだけでも、転覆的(subversive)な思考を示すのであるが、一方で、極めてオープンな世界を、兵法の道に構想しているのである。

我が兵法の教え方は、――と武蔵は云う――初めて道を学ぶ人には、その業の習得しやすいところを練習させ、納得の早く行く利〔理〕を先に教え、心及ばず、理解できないことは、その人の心がほどけるところを見分けて、次第次第に深いところの利〔理〕を、後で教えるのである、と。

心の及び難き事とは、理解の及ばないこと、理解できないこと、その人の心がほどける所とは、その人が理解できそうなところ、というほどの意である。この「心がほどける」は、興味深い表現である。理解するためには、理解を妨げている心が解ける必要があるというわけで、現代の理解概念とはかなり違うのである。

さて、こうした教えを、教育学的(pedagogical)に読むことは可能であろうし、兵法教本という五輪書の性格からして、実際そのように読めるところである。しかし武蔵は、いわば仏教の「対機」、相手の機根に応じて教え方もさまざまある、とする伝統に沿っているにすぎない。これ自体は武蔵的とは謂えない。
《されども、おほかたハ、ことに對したる事などを、覚さするによつて、奥口と云所なき事也》

武蔵は云う、――けれども、たいていの場合、こと(事態)に対応したことなど、実際的なことを覚えさせるから、奥だ入口だと差別〔しゃべつ〕することはないのである、と。ここが武蔵のロジックの面白いところである。

というのは、教育学的な「対機」であれば、相手の機根に応じて徐々に次第を追って教えていくという順序があるわけだが、武蔵の言うのは「対機」ではなく、「対事」なのである。

ここで見逃してはならないポイントは、武蔵の実戦主義からすれば、敵と切り合うときは、たとえ初心の者であっても勝つべき方法はあって、それを教えるということなのである。

たとえば、初陣の若年であっても、戦場では、熟練の達者と遭遇して戦うことがある。そのとき、私は若年未熟ですので…と言訳をしてはおれまい。若年未熟であっても、敵を何とか打殺すことができなくてはならない。

ようするに、上達者でなくては、相手を殺せないようでは、実戦的な教えとは言えないのである。初心者でも戦場へ出る。すぐさま戦闘に参加する。そうであってみれば、そのとき、腕前の上手下手は論外である。「戦場へ出るのは十年早い」などと悠長なことは言ってはおれない。初心者でも敵に勝たねばならない。それが、兵法勝負の道、戦場の掟である。

この点では、たとえば柳生宗矩『兵法家伝書』に、――門(入口)と家を間違えるな、家は門を通ってその奥にあるものだぞ、という入口と奥の弁別とは異なっている。武蔵はそういう口と奥の区別、――偽りのパースペクティヴによる奥行き・深み――を嗤うのである。

ともあれ、ここでは武蔵は、「対機」ではなく、「対事」の教えによって、実践主義的な行為論の側に立って、いわば頓悟法門のそれに似た、プロセスなきプロセス(process without process)を示している。それが武蔵のオープンな道の具体的な姿である。と同時に、奥だ入口だと差別/区別する、そういう振舞いをもたらす錯覚の、偽りのパースペクティヴを断ち切って、その幻想を根こそぎ崩壊させるのである。

その意味で、五輪書は、平易な入門書の顔つきをしていながら、時おり、このように他に比肩するものがないほどラディカルである。もちろん、武蔵の思考が根源的だからこそ、そのように言説がラディカルなのである。


――――――――――――

この箇処の校異について、指摘しておくのは以下の諸点である。

まず、筑前系諸本に、
《こゝろのおよびがたき事をバ、其人の心のほどくる所を見わけて》
とあって、《心の》とあるところ、筑前系では渡辺家本と肥後系の狩野文庫本が、「の」字を落としている。これは単なる脱字であろう。肥後系諸本でも、「の」字の方を記している写本がある。

しかるに、問題は、肥後系写本の中には、これを《心を》として「を」に作るものがあることである。この点はいかがか。

むろん、筑前系には《心を》とする例がない。筑前系/肥後系を横断して共通するのは、《心の》の方である。したがって、肥後系でも本来は「の」字であったが、後々になって、「の」字を「を」字に誤記するものが現れたということである。これは誤写のたぐいである。

この誤写を有するのは、楠家本と細川家本である。これはいわば、孤立例であり、両者は系統発生からして近縁関係にあり、「の」字が「を」字に変異した後の写本である。したがって、この「を」という一字が明示するのは、肥後系諸本のなかでも後発性を示す楠家本・細川家本のポジションである。

校異に関して、もう一つは、筑前系諸本に、
《おほかたハ、ことに對したる事などを覚さするによつて、奥口と云所なき事也》
とあって、《ことに對したる事》として、《こと》と記すところ、肥後系諸本には、《其こと》として「其」〔その〕という字を付する。問題は、この相異に関して、どう見るか、である。

ひとつは、筑前系諸本が越後系まで共通するところから、《こと》は筑前系初期にすでにあったものとみなしうること。言い換えれば、これは寺尾孫之丞段階の前期写本にあったもので、本来はこれが古型であること。

それは、肥後系富永家本の字句をみればわかる。というのも、富永家本では、この箇処を《殊に》と記しているからである。つまり、これは「ことに」とあったものを「殊に」と当て字したものであろう。これも、《こと》という語に異を感じた者が、別の修正を試みたのである。

したがって、富永家本の《殊に》という字句は、異字に置換した後発的変異だが、他方、これは、当初の写本には、「ことに」とあった痕跡を示すものである。肥後系でも、早期には《こと》と記すヴァージョンがあったのである。

言い換えれば、ここに「其」字を付加するのは、肥後系早期にはなかった文言である。つまり、寺尾孫之丞段階以後のものであるのは勿論、既出例と同じく門外流出後しばらくあっての作為である。肥後系諸本の多くはそれを承けて、「其」字を付したものを伝えた子孫なのである。

しかし、どうしてこの「其」字を挿入するようになったのか。それは、この部分が《ことに對したる事》とあって、「こと」と「事」という字句が重複するのに異和を感じた者が、そのようにしたのである。ところが、「そのこと」とすると、それが「どのこと」なのか、かえって文意が不通になってしまう。

もとより、最初の「こと」と後の「事」では、その語の意味が違う。前の「こと」は、たとえば、「折にふれ、ことに随ひ」などという場合の「こと」である。つまり、《ことに對したる事》とは、「状況に対応した事」という意味合いである。「その事」ということではない。

したがって、武蔵草稿のオリジナルもそのような意味で書かれたものであろうし、少なくとも、寺尾孫之丞が発給した段階では、それが保全されていた。寺尾孫之丞は、ここに「事」という字句が重複するのに注意して、わざわざ前を「こと」と仮名書きにして、間違いなきことを期したのだが、これも案の定、肥後系の子孫は、肝心のところを間違ってしまったのである。しかも、そればかりか、後に、余計なことを考える者が出て、ここに「其」字を挿入するようになったのである。

ともあれ、以上のことから、我々のテクストは、むろん「其」字のないヴァージョンである。


――――――――――――


以上の解析結果をふまえて、語釈の問題を片付けておくことにする。まずは、上記の箇処――つまり、《おほかたハ、ことに對したる事などを、覚さするによつて、奥口と云所なき事也》とある部分である。

岩波版注記は、「こと」を「其こと」と記す細川家本の文字にしたがって、「其こと」とは何かを考えたらしく、これを「敵と打ち合う時の理」だと解しているが、これは誤りである。

そもそも、細川家本を頭から信仰しているから、ここに「其」字がなかったなどということに気づきもしない。だから、「其こと」とは「どのこと」かと考えたわけである。そうして、捻出したのが、「敵と打ち合う時の理」である。

しかし、本来ここには「其」字などはない。実際は「こと」であって、上述のように、状況に対応した事、つまり実際的なこと、という意味合いである。

岩波版注記は、五輪書の数多い写本を通覧比較するという必須の前提作業をしていないから、こんな誤読をすることになる。こういうことでは、岩波版が「五輪書」を称する資格はない。

さらに、この部分の現代語訳事例を見るに、それらはどれも細川家本(岩波版)しか知らないから、この「そのこと」に難渋したようである。

まず、岩波版注記以前の、戦前の石田訳と戦後の神子訳をみれば、石田訳は、「實戰に當つての事を覺えさせる」としており、これはいかにも意訳であって、「そのこと」という誤記を訳さずに、かわしている。戦後の神子訳も同様の仕儀であって、「実際に体験したことを通じて、理解させている」としている。もちろん「通じて」などという文意はここにはない。神子訳特有の超訳である。

この事例で、訳者にとって、ここがいかに難所であるか判るであろう。もともと「其」字がなくても、意味が通じる文だから、結局「其」字を無視して、石田訳や神子訳のような意訳になるしかない。

問題は、岩波版注記以後の後二者であって、大河内訳は、石田訳と神子訳からそれぞれ頂戴しているが、「敵と打ち合うときに体験したこと」と記すところをみるに、岩波版注記の誤りにかなり侵食されている。次の鎌田訳は、神子訳をパクリつつ、岩波版の誤釈も頂戴したというところである。これもまた、近年のものほど誤訳の度合が増幅されているという事例である。

また、別の問題箇処を見れば、《藝により、ことにふれて、極意秘傳など云て、奥口あれども》というくだりである。

このあたり、既成現代語訳は、いかに訳しているか。戦前の石田訳は、「奥もある」として、「口」という語を抹消している。戦前から、この「奥口」には異を感じるケースがあったとみえる。これに対し、戦後の神子訳は意訳だが、正しい。

しかるに、その後出た岩波版注記は、この「奥口」を「おくぐち」と一語に読み、「奥儀に通ずる入口」と解しているが、これも明らかな誤りである。タイトルに「他流に奥表と云ふ事」とあるように、これは、「奥と表」と同じく、「奥と口」、奥/入口という二項対置である。

岩波版注記がこのように「奥儀に通ずる入口」とするのは、上述のような、奥も口もないという武蔵の話の筋が解っていない証拠である。

続く大河内訳は、さすがに岩波版注記の明白な誤釈は採らずに、神子訳を頂戴しただけのものだが、鎌田訳は、例によって何の考えもなしに、岩波版注記の「奥儀に通ずる入口」を流用して、誤りを再生産している。

いかにも、こんな明確な文脈でも、語釈がねじひねって、意味が歪曲されるのである。ここは、武蔵の言にあるごとく、直に、つまりまっすぐに、字義通り正しく読めばよいところなのである。


(2)此戦の道におゐて、何をかかくし、いづれをか顕さん

最前は、奥だ入口だと差別する、そういう振舞いをもたらす錯覚の、偽りのパースペクティヴを根柢から切り崩す、そういうラディカルな言説が提示されるところまで話が進んだ。

されば、――と武蔵は云い――山の奥を尋ねて行くに、もっと奥へ行こうと思うと、また山の入口ヘ出てしまうことが、世間にはある、という。奥へ進入しようとして、奥のほうへ行ってみると、実はそこはもとの入口だった――。これは、山行にはしばしばある、ミステリアスな体験である。だれでも経験しそうな不思議である。そのことを前提に武蔵は語っているのである。

しかしここで武蔵が示唆しているのは、道の修行も、それと同じ構造をもっている、ということである。それは決して、奥行きのあるパースペクティヴの中のリニアなプロセスではない。奥も入口も無差別だというこの空間とは、言わばトポロジカルな平面空間である。

このようなことは、昔から言われてきたことである。とくに仏教の修行論にはこの種の教えは多くあった。武蔵と同時代の人でも、沢庵宗彭なら――あたかもフーガのごとき――右掲のような向上即反復の構造を語るであろう。同型の構造は、柳生宗矩『兵法家伝書」でも敷衍され語られている。

しかしながら、これが心法論に還元されてしまうことには、武蔵は同意しなかったに違いない。ある意味で、奥と入口の無差異・無差別を語ることは、当時すでに通俗的な紋切り型言説であった。

前に見たように、五輪書冒頭、地之巻自序部分において語られていたのは、――三十を越して我が過去を振り返ってみると、これは兵法が極まっていたので勝った、ということではなかった。自然と兵法の道の働きがあって、天の原理を離れなかったせいであろうか。あるいは、相手の他流の兵法に欠陥があったからだろうか。その後、なおも深き道理を得んとして、朝に夕に鍛練してきたが、結局、自身が兵法の道にやっと適うようになったのは、五十歳の頃であった。それより以来は、もう探究すべき道はなくなって、歳月を送ってきたのである、云々。

五輪書冒頭の文章にみえるこのループ構造は、五輪書本文末尾のここにおいて、山奥と山口のループ構造として反復されているのである。五輪書が構造的に読まれる必要がある所以である。それゆえに、この「他流に奥表と云事」の一文は、風之巻末尾の文であるが、五輪書の教え全体の末尾を締め括るにふさわしい内容となっている。
《此戦の道におゐて、何をかかくし、いづれをか顕さん》

この「戦いの道」おいて、秘匿し隠すべき何ものもない。これは極めて「武蔵的」な宣言内容である。兵法、戦いの道に、密教も顕教もない。すなわち、戦いの道の合理性は普遍的なもので、何人にも隠されてはならず、明らかにすべきだ、というのが武蔵のポジションである。

この恐るべき開き方、徹底した開放性(openness)は、それまでの剣術諸流派の密教性、その中世的な密教性を根元から切り崩すはずのものだった。
《然によつて、我道を傳ふるに、誓紙罸文などゝ云事をこのまず》

道を伝えるに、誓紙罸文〔せいし・ばつぶん〕などという事を好まない、と武蔵は云う。すなわち、これで武蔵は奥も入口もないと、本気で言っているのがわかる。

奥も入口もないというのが、当時の知的ファッションである。そう言いながら、実際には入門から奥義へ至る奥行きのあるパースペクティヴを表象演出しているものがほとんどだった。こうした言行不一致は、しばしばあるもので、まさに、行為が言葉を裏切っているのである。

もうひとつは、奥も入口もないと言いながら、伝承の秘密性を保持することである。これに対し、戦闘原理のうちに秘匿し隠すべき何ものもないという、武蔵の「秘密なし」のポジションは、転覆的(subversive)かつ革命的(revolutional)なものである。このポジションに対応して、さきほどの、誓紙罸文など好まない、という一言がある。

まさに、この「誓紙罸文」こそ、剣術諸流派の密教性の証文なのである。

入門の時、あるいは印可を受ける時、弟子は起請文(誓詞)――誓約条項を明記し、もしそれを破ったら、神罰を受けてもかまない、という内容の所定の文書――を師匠に提出する。「誓紙罰文」とあるのは、諸条項を諸神にかけて誓い、「右の條々於相背者……神罰冥罰各可罷蒙者也。仍起請文如件」と宣言する形式であるからだ。一流相伝において、とくに「奥」については秘密厳守で、親子といえども他言せざること、これが重要項目である。

右掲の徳川家康の新陰流誓紙(文禄三年五月三日 柳生但馬入道宗厳宛)を例にとれば、新陰流相伝の事、印可無き以前、親子と雖も他言すべからざる事、宗厳に対して疎意あらざる事、この三条項について、もしこの誓いが偽りであれば、日本国中の大小の神々、ことに摩利支天〔まりしてん、武芸の神〕の神罰を自分は蒙るべきである、という内容である。

この風習は、武芸にかぎらず、どんな芸能でも、あるいは学問においても、重要な儀式であったし、これは武蔵以後も、近世を通じて存続したのである。

それは、「他流」のことばかりではなかった。武蔵死後、時が経過し、武蔵流兵法が伝播し広まっていくにつれ、武蔵が嫌った誓紙罸文慣行が、武蔵流内部でも行われるようになった。たとえば、越後の二天流ではそれが行われていた。近年我々が発掘確認した史料のなかに、いくつかの事例がみられる。

▲ 二天二刀流 誓約書 元治二年

 上掲の「誓約」は、越後黒川のもので、兵法二天二刀流と称した武蔵流末葉の文書である。幕末の元治二年(1865)に、師匠の箙〔えびら〕銀平に宛て、門人六名が連名で提出した入門誓約書である。門人名の下にそれぞれ血判を押している。

この誓約の内容をみるに、相伝をかたじけなしと感謝するにはじまり、忠孝の二字を大切に守るべき事、相伝内容を他へ洩らさない事、師の免許なき内は、相弟子といえども、又伝(重伝)しない事、師に対し、いささかも廉臨(安直に接する)心得のあるまじき事、兵術の剛強をもって慢心の言動をしない事、大酒をしない事、――以上の条々にもし背く場合は、梵天帝釋、四大天王、惣じて日本国中の大小の神祇、とくに自分の氏神の御罸を蒙りますように。よって神約、件の如し。――というわけで、神に誓っての誓約である。

この中身を見るに、相伝内容を他へ洩らさない事、師の免許なき内は、相弟子といえども、又伝(重伝)しない事、師に対し、いささかも廉臨(安直に接する)心得のあるまじき事、とあるのは他流の入門誓詞と変りない。

しかも、忠孝の二字を大切に守るべき事という道徳的な条文もあれば、兵術の剛強をもって慢心の言動をしない事、大酒をしない事、という日常の行動規範もある。これは近世初期の誓詞罸文にはなかったが、幕末になるとこういうこまで盛り込むようになったらしい。

ともあれ、これは一例だが、武蔵流兵法の末裔になると、こうした事態であったことが知れる。先師武蔵は、奥も口もないとして、誓紙罸文さえ嫌ったのに、それを裏切る慣行が生じたのである。

しかし、こういう誓紙罸文は他流では普遍的慣行であって、武蔵流末裔もそれに同化したまでである。これを逆に云えば、武蔵の五輪書の言説が、いかに異例で突出したものであったか、それが知られるのである。それは武蔵流道統内部ですら維持不可能な、ラディカルな反措定であった。先ほど、武蔵流の恐るべき公開性は、中世的な密教性を根元から切り崩すはずのものだったと述べた、その「はずのものだった」とは、このことである。

つまり、武蔵はさまざまな局面で、中世と近世の間の不可能な空間を開いた、消滅する媒介者(vanishing mediator)のポジションを示す。まさにこの、中世的な密教性を根元から切り崩すはずのものだったが、その可能性の開口を封鎖して、不可能にしてしまったのが近世の歴史だった。

それゆえ、武蔵の思想を読むとは、まさしく中世と近世の間に一瞬出現した、ある可能性の、ありえざる光景を目撃することに他ならない。五輪書こそ、そうした不可能性へと封印された可能性の所在を示唆する点、比類なき史料なのである。


ここで語釈の問題をあげれば、《兵法の五道六道のあしき所を捨させ》とある「五道六道」のことである。

この「五道」とは仏教語で、衆生が生前の業因によって生死を永劫反復する迷いの諸世界、地獄・餓鬼・畜生・人間・天上の五つとなれば五道、これに阿修羅が加わって六道。五趣、六趣ともいう。これに四つの悟りの世界(声聞、縁覚、菩薩、仏界)を合わせて十界と呼ぶ。

ここでいう「五道六道」がこうした仏教的伝統を踏まえた言葉であることは明らかであるが、とくに「兵法の五道六道」とは、兵法における迷いの諸世界という意だとしても、これはなかなか意味深長なる表現である。

というのも、武蔵は前に誓紙罸文のことを記しているわけだから、誓約を破れば神仏の罰を受けようという誓詞に対して、地獄・餓鬼・畜生の三悪趣を含む業因果の「五道六道」なる語をちらつかせているからである。

「五道六道」のようなどっぷり人間の情念を含んだ歴史的民俗的伝統を背景にしたスペシフィックな語である。だから、この文脈では、「五道六道」という毒のある語は無視できない。

しかるに、既成現代語訳事例を見るに、それどころではない。逆に、肝心の「五道六道」から逃げているのである。

戦前の石田訳は、《兵法の五道六道のあしき所》を、たんに「様々な缺點」と訳して、毒抜きにかかった。これで、「五道六道」の語意を抹消する現代語訳の路線が敷設されたようである。戦後になると、神子訳は「五道六道」を、「世間のさまざまな流儀」と歪曲して誤釈した。

すると次に岩波版注記は、《兵法の五道六道のあしき所》について、「兵法を学ぶうちに身につく欠点、固癖」と解釈した。これは「五道六道」という措辞を無視した語釈で、むしろ明らかな誤訳である。もちろん、大河内訳・鎌田訳は、この岩波版注記のパクリで、神子訳よりむしろ誤りを拡幅しているのである。

――――――――――――


さて、校異について、ここで指摘しておくべきは次の点である。

すなわち、筑前系諸本に、
《此戦の道におゐて、何をかかくし、いづれをか顕さん》
とあって、《戦の道》として、「道」とあるところ、肥後系諸本には、《戦の理》として、「道」ではなく「理」(または「利」)という字を用いている。これは、筑前系と肥後系を区画する明確な一線を示す相異の一例である。

このばあい、肥後系諸本は、富永家本や円明流系諸本に至るまで、「理」または「利」という字であるから、これは肥後系早期にあったものであろう。他方、筑前系諸本も、越後系まで含めて、これを「道」とするから、筑前系初期にあった語である。しかも寺尾孫之丞が柴任美矩へ伝授した前期五輪書にあったとみなしうるところである。

したがって、この「道」と「理」の相異については、筑前系の初期性がまず先である。ただし、これが寺尾孫之丞前期と後期の相異とみなしうるか、となると、その可能性はない。それは、「理」が適切な語であるか、文脈をたどればわかる。

すなわち、ここで武蔵が云っているのは、まさに「道」の修行のことである。――この戦いの「道」において、何を隠し、何を表に出そうか(そんな奥も入口も本来存在しない)。そういうわけで、我が「道」を伝えるに、誓紙罸文などということを好まない。――ということなのである。ここには、「理」あるいは「利」という語の入る余地はない。

それゆえに、文意からしても、《戦の理》が寺尾孫之丞による後期の変更だすることはできない。むしろ寺尾以後、そして門外流出後の早期にに発生した変異である。

むろん、これは偶発的な誤写である。肥後系諸本がおしなべてそんな偶発的な誤記を受継いでいるところをみると、やはり肥後系諸本の元祖一本というものの存在を、ここでも想定せざるをえないのである。

つまり、繰り返せば、肥後系諸本は複数の先祖をもつのではなく、ある元祖に還元しうるのである。その元祖は、門外流出後早期に発生した一写本なのである。

ともあれ、ここで語釈の問題に移行すれば、細川家本をはじめ肥後系写本ばかりを見て、他の諸本との比較照合を怠っているようでは、これが《戦の道》だとは気がつかない。しかるに、そのように《戦の理》とする細川家本(岩波版)しか知らぬはずの既成現代語訳に、奇体な現象が生じているのも面白いことである。

つまり、戦前の石田訳において、《戦の理》という語句がどこかへ消えて、「兵法の道」としているのである。これはおそらく石田訳の意訳というよりも、文脈を忠実すぎたために生じた偶発的な錯誤であり、つい「兵法の道」と書いてしまったのだろう。

しかし奇体というのは、この「兵法の道」という語が、戦後の神子訳に再現されていることである。神子訳は、これも《戦の理》を意訳して「兵法の道」としたとも思われない。たんに、石田訳など戦前訳の語句を再生産したにすぎないようである。

大河内訳は、ここでは、神子訳を頂戴することはなく、岩波版テクストに沿って、「戦いの道理」とした。もちろんこれでは文意不通だが、それには一向お構いなしである。鎌田訳は、例によってこれも神子訳のパクリで、「兵法の道」とする。大河内訳のように岩波版原文を見ることさえせずに、神子訳を「底本」にして翻案しているのである。

ともあれ、細川家本の《戦の理》という語を、無視してはばからぬ、という現代語訳の傾向がある。ただし、五輪書テクストにまで遡れば、《戦の理》は誤りで《戦の道》が正しいのだから、ここでも誤訳して正しきに至るという逆説が演じられているのである。それも、まさしく五輪書翻訳史上の珍事の一つであろう。

 

 

11 風之巻 後書

【原文】

 
右、他流の兵法を九ヶ条として、
風之巻に有増書附所、
一々流々、口より奥に至迄、
さだかに書顕すべき事なれども、
わざと何流の何の大事とも名を書記さず。
其故ハ、一流々々の見立、其道々の云分、
人により心にまかせて、
夫/\の存分有物なれバ、
同じ流にも、少々心のかはるものなれバ、
後々迄のために、何流の筋とも書のせず。
他流の大躰、九つにいひ分、
世の中の人のおこなふわざを見れバ、
長きにかたつき、みじかきを利にし、
強きとかたつき、あらき、こまかなると云事、
ミなへんなる道なれバ、
他流の口奥とあらはさずとも、皆人のしるべき儀也。
我一流におゐて、太刀におくくちなし、搆に極りなし。
只心をもつて、其徳をわきまゆる、
是兵法の肝心也。(1)

 

 

【現代語訳】

 

 以上、他流の兵法を九ケ條として、風の巻にその概要を書き付けたのであるが、諸流派のそれぞれについて、入口から奥義に至るまで、定かに書いて明らかにすべきだろうが、わざと何流のどういう大事〔奥義〕とも、名を書き記さなかった。

そのわけは、流派おのおのの見方、その道それぞれの言い分は、人により、(また)心にまかせて、それぞれに考えがあるものだから、同じ流派でも少々意味が変るものである。それゆえ、後々までのために、何流の筋とも書き載せなかったのである。

他流の概略を、九つに分類して、世の中の人々の行う業を見れば、長い(道具)に偏向したり、短かい(道具)を重視したり、強いことへ偏向し、荒い細かいということ、(これらは)すべて偏った道であるから、他流の入口だ奥だと明らかにしなくとも、すべて人の知っているはずのことである。

我が流派においては、太刀に奥も入口もなく、搆えに究極はない。ただ、心をもってその徳〔太刀の効能〕をわきまえること、これが兵法の肝心である。

 

 

【註解】

 (1)我一流におゐて、太刀に奥口なし、搆に極りなし

以下は、この風之巻の後書である。ここでは、武蔵は自身の批判における視座を語っている。それが、

 《わざと何流の何の大事とも名を書記さず》
ということである。諸流派のそれぞれについて、入口から奥に至るまで、定かに書いて明らかにすべきだろうが、わざと何流のどういう大事〔奥義〕とも、その具体的な名を書き記さないのである。

これについて、武蔵に何か遠慮せざるをえないことがあって、それで名指しの批判をしないのだろう、といった臆測があるが、それは間違いである。むしろ、武蔵からすれば、名指しの他流批判など無意味であるからだ。

その理由は、――と武蔵は云う――流派おのおのの見方、その道それぞれの言い分は、人により、(また)心にまかせて、それぞれに考えがあるものであるだから、同じ流派でも少々意味が変るものである。それゆえ、後々までのために、何流の筋とも書き載せなかったのである、と。

つまり、同じ流派の内部でもさまざま異見がある、そうなると、その流派全体をこうだと批判しても、それは当っているようでいて当っていないことになる。

それは、たとえば、我々日本人に属する者でも、それぞれ考えも性格も異なっていて、まるでまちまちなのだが、「日本人はこうだ」と云って批判されると、どうも的外れな感が強いのと同じ話である。「日本人」というカテゴリーに属するのは認めるが、謂われるところの「日本人」なるものが、自分のことだとは思えないのである。この特殊と一般の差異、差額が、偏見の根源である。

となると、武蔵はどういう批判の仕方をしたのか?――特定流派を批判するのではなく、さまざまな欠陥そのものを批判するという方向を選んだわけである。

その欠陥は、武蔵によれば九項目に集約されるのであり、それはすべての流派が、それぞれ、その多少はあれ幾分かもっている欠陥である。

武蔵は云う。――他流の概略を、九つに分けて分析して、世の中の人々の行う業を見れば、長い道具に偏向したり、短かい道具を重視したり、強いことへ偏向し、荒い細かいということも、すべて偏った道であるから、他流の入口だ奥だと明らかにしなくとも、すべて周知であるはずだ、云々。

かくして、他流の欠陥とは、要するに、かたつき、偏向である。真っ直ぐな道からの逸脱であるにすぎない。それを九つに分けて分析してみれば、諸流派が自家の独自性として売り物にしている特徴それじたいが偏向でしかない。したがって、武蔵の他流批判は、他流のアイデンティティもその「名」も無化してしまうものである。そのかぎりにおいて、徹底した批判である。

そしてまた、他流の入口だ奥だと明らかにしなくとも、すべて周知であるはず、云う。とすれば、そこでは、奥だ入口だという差別は消滅してしまうのである。隠しても、周知のことであるとすれば、隠したことにはならないのである。奥儀秘伝は、まさに原理的に不可能である。――このあたりのロジックは、かなり面白いところである。

こうして見ると、他流批判において、何流の何の大事と名を挙げて、排他的に批判するというやり方を、武蔵が選ばなかったのは、武蔵の批判が内在的であり原理的であるからだ。武蔵の他流批判の「他流」は、個別の特定流派ではなく、自余の全て、いわば兵法の状況全体に対する批判、しかも九つの偏向として分析するところの、具体的で内在的な批判なのである。このスタンスは一貫している。
《同じ流にも、少々心のかわるものなれバ、後々迄のために、何流の筋とも書のせず》

この「後々迄のために」というところが、武蔵の意外な優しさである。後々迄のために、ということは、若いうちは書かない。それは老いた武蔵の、不意の素顔のような気がする。人は変りうるという将来への期待である。
《我一流におゐて、太刀におくくち(奥口)なし、搆に極りなし》

これは結語としてのテーゼである。これに武蔵の兵法思想が集約されていると云ってよかろう。

――我が流派においては、太刀に奥も入口もなく、搆えにも極りはない。ただ、心をもってその徳、つまり、太刀の効能、そのすぐれた働きをわきまえること、これが兵法の肝心である。

まさに、過不足なくぴたりと極まった文である。これに何ごとか付け加えるのは、蛇足というものであろう。


――――――――――――


さて校異の問題をあげれば、ここには指摘すべき相異箇処がある。すなわち、筑前系諸本には、
《おなじ流にも少々心のかはるものなれバ、後々迄のために、何流の筋とも書のせず。(中略)世の中の人のおこなふわざをミれバ、長きにかたつき》
とあって、《何流の筋》、《世の中の人のおこなふわざをミれバ》とするところ、肥後系諸本では、かなり字句が異なっている。つまり、肥後系では、
《同じ流にも少々心の替るものなれバ、後々迄のために、ながれ筋共書のせず。他流の大躰、九ツにいひわけて、世の中の道、人の直なる道理よりミせバ、長きにかたつき》
とあって、《ながれ筋》、《世の中の道、人の直なる道理よりミせバ》とするわけである。これは、肥後系諸本に基本的に共通するところであるから、肥後系早期にはあった字句のようである。

まず、肥後系の《ながれ筋》という語句であるが、これは、「流れ筋」ということである。しかし、つづく「共」字と連続して読めば、「流れ筋とも書きのせず」となって、いささか文意があやしくなる。前に、《わざと「何流の」何の大事とも名を書しるさず》とあるから、ここは「何流の筋」とあるのが妥当である。

ようするに、これは、脱字と誤写とが重なって、《ながれ筋》になったようである。たとえば、《何流の》という語句の「何」字が脱落し、仮名「の」(能)字を仮名「れ」(礼)に誤写して、「流れ」と化し、次に「ながれ」と仮名表記するようになった、と。

ともあれ、これは写し崩れであるから、寺尾孫之丞段階のものではない。その後の誤写である。それよりも、筑前系諸本に共通してこの語句のあること、そのことからすれば、《何流の筋》という語句は筑前系初期にすでにあった語句である。

また、次の問題箇処、《世の中の道、人の直なる道理より見せバ》と肥後系諸本にあるのも、よくわからぬ文言である。強いてこれを訳せば、「世の中の道を、人の直なる道理から見せれば」ということだが、「道理から見せる」となると、文意が通らない。《見せハ》ではなく、「見てハ」ならまだしも、なのであるが。

それよりも、これがかりに、《世の中の道、人の直なる道理より見てハ》だったとしても、ここは、「人の」という語句が無用である。つまり、《世の中の道、直なる道理より見てハ》でよかろうからである。あるいは、さらに云えば、「道」字も不要文字とみなしうる。というのも、五輪書の他の文例からすると、《世の中の直なる道理より見てハ》で、ここは意味が十分通じるからである。

肥後系のうち、富永家本は、《世の中の【★】人の直成道理より見せバ》として、「道」字がない。これを別ヴァージョンとみれば、おそらく肥後系早期には、この語列はまだ固定していなかったと思われる。

したがって、肥後系諸本に《世の中の道、人の直なる道理より見せバ》とするここは、難点が多く、そのままであったはずはない。おそらく、何らかの誤写のあった結果生じた語列と思われる。その原型は修復不可能だが、肥後系早期に、《世の中の直なる道理より見てハ》に類似する語列が発生したらしいことが推測できるのみである。

かようなことであるから、我々のテクストでは、肥後系諸本の字句は採らず、《世の中の人のおこなふわざをみれば》という筑前系諸本の語列に従う。こちらの方が文意も難なく通るのである。

あるいはまた、別の校異では、筑前系諸本に、
《長きにかたつき、ミじかきを利にし、強きとかたつき、あらき、こまかなると云事、ミなへんなる道なれバ》
として、《強きと》とするところ、肥後系諸本には、《つよきよはきと》として、「つよき」だけではなく「よはき」(弱き)という字句を入れている。

しかるに、同じ肥後系でも、富永家本では、これを《強きと片付》として、「弱き」という字句を入れない。おそらく、肥後系早期には、この字句は存在しなかったのである。したがって、これは後に発生した誤記である。

もとよりここは、「かたつき」「へん〔偏〕なる道」という偏向の話である。長い大太刀、短い小太刀、強みの太刀などに偏ることはあっても、殺し合いの戦闘に、「弱き」に偏向する者がいるわけがない。したがって、これはまさに余計な字句である。

おそらくは、その後に《あらき、こまかなると云事》とあるのに引きずられた対句なのであろう。荒いというのは、強みの太刀の事である。こまかいというのは、目付の事や、太刀数が多い事に関連する話であろう。しかし、兵法のことである、まさか、「弱き」に偏る者があるはずもない。それゆえ、強き、弱きという対句は、文脈上はありえない。ここは偏向の話なので、《つよきとかたつき》で、過不足はないのである。

以上のこのあたり、既成の語釈・語訳をあげつらうことは無用である。それらが肥後系細川家本に依拠している以上、底本そのものに欠陥がある。それを、無理やり釈義、現代語訳してはいるが、そもそもテクストが間違っている以上、論ずるに値しないのである。

こうした事態を救済するには、諸本を比較して厳密な史料批判を実行する必要があるが、そういうファンダメンタルな作業は、これまで行われたことがなかったのである。その結果、細川家本という後発的誤記の多い一本が、ほぼ野放し状態で世の中に横行してきたのである。

また、続いて別の校異にわたれば、筑前系諸本に、《あらき、こまかなると云事》とあるところ、肥後系諸本には、《云事》に「も」字を付して、《云事も》とするものがある。

これも肥後系諸本のうちには、早期派生系統の子孫たる富永家本には、その「も」字を付さない。したがって、肥後系早期には、《云事も》と記すものではなかった、そしてその後、「も」字を入れる衍字誤記が発生したのである。

これは、本条末尾、筑前系諸本に《只、心をもつて、其徳をわきまゆる、是兵法の肝心也》とするところ、肥後系諸本に《其徳をわきまゆる事》として「事」字を付することも同前であって、やはり富永家本には、その「事」字を付さない。

したがって、肥後系早期には、《わきまゆる》と記して、「事」字を付すものではなかった、そしてその後、「事」字を入れる衍字誤記が発生した。そういう偶発的な事後の異変なのだが、これが伝わり派生して、現存諸本の書記に反映されている。

これらの校異のこうした位置づけは、従来肥後系諸本ばかりを見てきた五輪書研究では、思いもよらなかったことである。というのも、肥後系諸本の多くが同じ語句を記すことから、富永家本の諸字句は例外もしくは誤記とみなされてきたのである。しかし、肥後系諸本まで広く視野を広げ、厳密に語句を照合するならば、事実はその逆だったと知れるのである。

しかるに、こうしたレベルの議論は従来の五輪書研究には存在しない。いわば、肥後系五輪書に偏向する悪弊、その「かたつき」「へん〔偏〕なる道」、とりわけ細川家本を理由もなく信仰する蒙昧、これらを、いまだに矯正し啓蒙する必要がある、というのが五輪書研究の現状なのである。