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五輪書 火之巻 全文(原文・現代語訳・註解)

水之巻が太刀の扱い方を説明したのに対し、この火之巻は実戦における戦術や掛引きを教える戦闘術応用篇。勝つためにいかにすればよいか、個人戦から集団戦を横断する兵法の要諦を具体的に指南する。内容は以下のようなものである。

 

 1 火之巻序 火之巻の前文

2 場の次第 (場の次第と云事)

3 三つの先〔せん〕 (三つの先と云事)

4 枕をおさえる (枕をおさゆると云事)

5 渡〔と〕を越す (渡を越すと云事)

6 景気を知る (景氣を知ると云事)

7 けんを踏む (けんをふむと云事)

8 崩れを知る (くづれを知ると云事)

9 敵になる (敵になると云事)

10 四手〔よつで〕を放す (四手をはなすと云事)

11 陰を動かす (かげをうごかすと云事)

12 影を抑える (影を抑ゆると云事)

13 感染させる (うつらかすと云事)

14 むかづかせる (むかづかすると云事)

15 おびやかす (おびやかすと云事)

16 まぶれる (まぶるゝと云事)

17 角にさわる (かどにさはると云事)

18 うろめかす (うろめかすと云事)

19 三つの発声 (三つの聲と云事)

20 間切る (まぎると云事)

21 押しつぶす (ひしぐと云事)

22 山海の変り (山海の變りと云事)

23 底をぬく (底をぬくと云事)

24 新たになる (新たになると云事)

25 鼠の頭、午の首 (鼠頭午首と云事)

26 我は将、敵は卒 (將卒を知ると云事)

27 束をはなす (束をはなすと云事)

28 岩石の身 (岩石の身と云事)

29 火之巻 後書

 1 火之巻序 火之巻の前文

【原文】


二刀一流の兵法、戦の事を火に思ひとつて、
戦勝負の事を、火之巻として、
此巻に書顕す也。(1)
先、世間の人毎に、兵法の利を
ちいさくおもひなして、或ハゆびさきにて、
手くび五寸三寸の利をしり、或ハ扇をとつて、
ひぢより先の先後のかちをわきまへ、
又ハしなひなどにて、わづかのはやき利を覚へ、
手をきかせならひ、足をきかせならひ、
少の利のはやき所を専とする事也。
我兵法におゐて、数度の勝負に、
一命をかけてうち合、生死二つの利をわけ、
刀の道を覚へ、敵の打太刀の強弱を知り、
刀のはむねの道をわきまへ、
敵をうちはたす所の鍛練を得るに、
ちいさき事、弱き事、思ひよらざる所也。
殊に六具かためてなどの利に、
ちいさき事、思ひいづる事にあらず。(2)
されバ、命をはかりの打あひにおゐて、
一人して五人十人ともたゝかひ、
其勝道をたしかにしる事、我道の兵法也。
然によつて、一人して十人に勝、
千人をもつて万人に勝道理、
何のしやべつあらんや。能々吟味有べし。
さりなから、常/\の稽古の時、
千人万人をあつめ、此道しならふ事、
なる事にあらず。獨太刀をとつても、
其敵/\の智略をはかり、
敵の強弱、手だてを知り、兵法の智徳をもつて、
萬人に勝所をきはめ、此道の達者となり、
我兵法の直道、世界におゐて、たれか得ん、
又いづれかきはめんと、たしかに思ひとつて、
朝鍛夕錬して、みがきおほせて後、
獨自由を得、おのづから奇特を得、
通力不思儀有所、
是兵として法をおこなふ息也。(3)  

 

 

【現代語訳】

 

 

二刀一流の兵法においては、戦いのことを火に思いとる。そこで、戦い勝負のことを火の巻としてこの巻に書きあらわすのである。

まず世間の人は、だれでも、兵法の利〔勝ち方〕を小さく考えてしまう。ある者は、指先で(わずか)手首五寸三寸の利を知り、ある者は、扇を(手に)とって、肱から先〔小手先〕の先だ後だという勝ちを心得る。または、竹刀などで、僅かばかりの早い利を覚え、手を利かせ習い、足を利かせ習い、少し(ばかり)の利の早いところを第一とするものである。

(これに対し)我が兵法では、度々の勝負において、一命を賭して(太刀を)打ち合う生死二つの利の分かれ目を知って、刀の軌道を覚え、敵の打つ太刀の強弱を知り、刀の刃棟〔はむね〕の使い方をわきまえて、敵を打ち果すための鍛練を修得する。それゆえに、些細なこと、弱いことは、思いもよらないところである。ことに、甲冑を装着して(戦場に出るばあい)の利に、些細な(相違の)事を発想することはありえない。

されば、命がけの打ち合いにおいて、一人で五人十人とも戦い、その勝つ道を確実に知ること、それが我が道の兵法である。したがって、一人で十人に勝ち、千人で万人に勝つ道理に、何の相違があろうか。(これを)よくよく吟味あるべし。

しかしながら、日常の稽古の時、千人も万人も人をあつめて、この戦法を演習するわけにはいかない。一人で太刀をとっても、その敵それぞれの智略を推測し、敵の強弱や作戦を察知し、兵法の智徳〔智恵の効能〕をもって、万人に勝つところを極め、この道の練達者となり、我が兵法の直道〔じきどう〕を、世の中で(自分以外の)だれが得るというのか、また、だれが極めるというのか、と確かに思いとって、朝にタに鍛練して、みがくこと。それをやり遂げれば、その後は、ひとりでに自由を得て、おのづから奇特〔奇跡的効験〕を得て、神通力の不思議が生じる。ここが、まさに兵法を修行する息〔精粋〕である。

 

 

【註解】

 

 (1)戦の事を火に思ひとつて

火之巻冒頭の前文である。前巻・水之巻が太刀の扱い方を説明した基本篇であるのに対し、この火之巻は、勝つためにいかにすればよいか、実戦における戦術や掛引きを教える戦闘術応用篇である。大分一分の兵法、個人戦から集団戦を横断する兵法の要諦を、具体的に指南するのである。

戦いのことを火に思いとる。――このことについては、すでに地之巻で、概要が説明してあった。

火には際立って派手なところがある。派手に燃え立ち、地獄図を現出し、一切を殲滅する。武蔵流は火のように燃えて戦う破壊的な戦闘術である。戦いを火に思いとって、とはこのことである。

水は大小自在形態自由だが、火もまたその形態は変幻自在である。火は風にしたがって、大きくなったり小さくなったりする。合戦の道において、一人と一人の戦いも、万人と万人の戦いも、同じ道である。それは火は風にしたがって、大きくなったり小さくなったりするのと同じである。こうしたアナロジーは、バシュラール流の自然学と相同だと見立ててよい。

この火之巻前文では、以下のように状況批判を演じて、まず、武蔵流の基本思想、その実戦主義のポジションを明示しているところが注目される。

――――――――――――


諸本校異の点では、ひとつ、筑前系のうち越後系諸本に特徴的な変異が見られる。それは、冒頭、《二刀一流の兵法、戦の事を火に思ひとつて》とあるところ、その《二刀一流》を《二天一流》として、「二刀」を「二天」に誤記している。

興味深いのは神田家本や石井家本の冊子本である。巻子本では、他の越後系諸本と同じく、「二天」に錯記するのだが、それに対し両家冊子本は、はじめ《二刀一流》と書いており、これが正しいのだが、その「刀」字を「天」と修正している。

これは冊子本が、誤記に気づいて訂正したというところだが、実際は、誤記が正しく、訂正が間違っているのである。

そのように(誤)訂正があったところをみると、越後系は諸本共通して「二天」と誤記したようだが、これは、立花峯均系の誤記というよりも、おそらく越後に入って以後の誤記であろう。丹羽信英の他の門人系統の五輪書が未発掘な段階では、明確なことは云えなかったが、最近、越後村上系伝書・赤見家本を発掘して、この件がようやく判明した。

すなわち、丹羽信英が赤見俊平に与えた火之巻には、正しく《二刀一流》と書いている。それゆえ、「二刀」を「二天」に誤記するようになったのは、たぶん八代渡部信行以来のものであろうというのが、当面の見当である。


(2)ちいさき事、弱き事、思ひよらざる所也

ここでの趣旨は、武蔵流の実戦主義。世間では人はみな、小さな些細な差異に拘泥するようになってしまっている、しかし武蔵流はそれとは違うということである。

些細な差異に拘泥するというのはどういうことか。武蔵は具体的に語っている。事例が具体的だから、そのままでは、現代人にはかえって解りにくいようなので、少し解説しておく。

たとえば、それは手わざの些細な違いである。《ゆびさきにて手くび五寸三寸の利をしり》というところ、「手首五寸三寸」とは、指を伸ばして五寸(15cm)拳に握って三寸(9㎝)のことである。

あるいは、《扇をとつて、ひぢより先の先後のかちをわきまへ》とあるのも、同じように小手先の早い遅いの差異である。すでに見たように、《或は扇、或は小刀などつかふ様に、はやくふらんとおもふに依て、太刀の道違ひて振がたし。夫は、小刀きざみといひて、太刀にては人のきれざるもの也》(水之巻)とあるように、「小刀きざみ」でしかない。この「小刀きざみ」とは「小刀細工」に同じ、いわゆる小細工のことである。したがって、ここは小細工で先後の勝を争って「はやくふらんとおもふ」のである。

また、《しなひなどにて、わづかのはやき利を覚へ》とあるのは、さきの「扇」と同じことで、実際の太刀ではなく、練習用の竹刀で些細な速さの差を重大視することである。

話がわき道に逸れるが、この「しなひ」は竹刀。割竹を束ねて袋に入れた模擬刀(袋しない)で、竹の柔軟性があるから撓う。そこで「しなひ」「しなへ」になったのだと謂われているが、これも甚だ心許ない語源説明である。

撓(しない)は、もともと旗指物を云った言葉らしい。「しない」の文字にしても、「撓」だけではなく、「試会」「竹蹈」「品柄」「竹袋」「皮袋」「革刀」「竹袋」「順(刀)」「指南柄」など、実にさまざまである。「しない」の語源はまだ突き止めてられはいない。

注目されるのは、ここで武蔵が竹刀に言及していることだ。なぜなら、これは歴史的に云えば、竹刀流行のほとんど最初期の証言だからである。

従来、練習用には木刀であった。これに対し、竹刀のメリットはどこにあると思われたか。

まず第一に、木刀で打ち合えば打撃の負傷はあり、死ぬこともある。そこで、竹刀を使えば重傷を負うことはない(安建正寛『兵術要訓』寛政二年)。第二に、重傷を負わせることがないから、竹刀なら思い切り打てる。木刀では思い切り打てない。実戦では躊躇なく思い切り打たねばならないから、思い切り打つ勘どころを練習するには、竹刀の方がよい(木村久甫『劍術之本識』宝暦二年)。ほぼこの二点が竹刀のメリットだと考えられたもののようである。

これに対し、こうしたことは全く実用的なものではない、竹刀は竹刀である、竹刀では実戦的訓練にはならない――という批判は根強かった。歴史的に云えば、竹刀が一般化するのは、十八世紀に入ってからのことだという話もある。とすれば、武蔵死後半世紀以上後のことである。しかし、武蔵が五輪書で竹刀に言及しているところを見れば、すでに当時無視できないほど流行していたのである。たしかに『柳生流新秘抄』など見れば、武蔵の同時代人・柳生宗矩も竹刀を使っていたようである。

竹刀では実戦的訓練にはならないとする点では、武蔵はコンサヴァティヴである。すると武蔵は木刀派なのか、というと、そうではない。上記本文のように、武蔵流は、太刀で打ち合う実戦鍛練である。すなわち、
《我兵法におゐて、数度の勝負に、一命をかけてうち合、生死二つの利をわけ、刀の道を覚へ、敵の打太刀の強弱を知り、刀のはむねの道をわきまへ、敵をうちはたす所の鍛練を得るに》
とあるところからすると、武蔵流は刀(真剣)での実戦訓練である。

あるいは逆にいえば、武蔵にとって木刀は練習道具ではない。これが真剣以上の殺傷力をもつ武器だったことは、武蔵の決闘履歴の示すところである。武蔵は木剣の一撃で相手を何人も撲殺したのである。

さて要するに、武蔵に竹刀批判があるとすれば、それは「弱い」という一言であろう。本文にある《小さき事、弱き事、思ひよらざる所なり》の「小さき事」とは先ほどの小手先のことでり、「弱き事」とは、具体的には竹刀使用のことである。「弱い」とは軟弱なこと、気の弱いことである。武蔵流は他流とは違って、タフでハードな流派だ、ということである。

――――――――――――

 


なお、語釈の点に関して若干注意をしておけば、
《殊に六具かためてなどの利に、ちいさき事、思ひいづる事にあらず》
とある部分である。この「六具かためて」というのは、甲冑装着のことである。「六具」〔りくぐ/ろくぐ〕とは六つの具足の略である。「具足」はもともと仏教用語であるが、ここでは、戦闘用防具一式のことである。

むろん、岩波版注記に「甲冑に付属する六種の武具」とあるが、これは正確ではない、というより誤りである。「六具」とは付属品のことではない。装備一式の意味である。

装具の付属品を算えればそれこそ何十となり、六つどころではないのである。本来、兜・袖・身甲(胴)の基本三点に、腕の防具である籠手〔こて〕、大腿部の佩楯〔はいだて〕、脛の脛当〔すねあて〕を合わせて、六具とする。あるいはさらに加えて顔面を防護する面具(面頬など)があり、実質七種とすべきであるが、中国流に「六」という数字で整序した言葉である。そこで「六具」といえば、完全装備の戦闘用防具一式ということになる。

甲冑は古代からあったが、こうした戦闘用防具が最も発達したのは十六世紀後期である。隙間なく身体を防護しながら、なおかつ軽くて運動性能があるという、相互に矛盾する命題を可能なかぎり解決したものである。その結果、戦闘者はさながら昆虫のような姿になったのである。

ここで《六具かためて》と武蔵がいうのは、甲冑を装着して戦場に出た場合のことである。既成現代語訳には、これを字義通りに「甲冑に身を固めた場合」とする例があるが、《六具固めて》は修辞的表現である。ここでは「実際の戦場では」という意味である。

 


(3)一人して十人に勝、千人を以万人に勝道理

かくして、タフでハードな戦闘術としての武蔵流兵法は、一人で五人十人とも戦って勝つ戦闘術である。これは五人十人だろうが十人二十人だろうが、要するに多数を敵にしての戦いに勝つということである。
《然るによつて、一人して十人に勝、千人を以万人に勝道理、何の差別あらんや》
とあって、ここでも、水之巻の序で示されたテーゼが反復されるのである。すなわち、
《兵法の利におゐては、一人と一人との勝負の様に書付たる所なりとも、万人と万人との合戦の利に心得、大に見立る所、肝要也》

この反復は水と火の対照的な形態にも関わらず、まさに一貫して変らぬ原理、繰り返していえば武蔵流のトポロジカルな発想である。

次に笑いを誘うところがある。武蔵流のハードでタフな訓練を、戦場でもないのに千人万人集めて演習するわけにはいかない。泰平の世でそんなことができるわけがないのである。こういうことを書くのは武蔵流のブラック・ユーモアと言うべきである。

そこで、武蔵は一転、一人でもそれはできるではないか、という。つまり武蔵流のトポロジカルな論理は、千人万人の合戦規模から一気に反転して独習まで縮小する。千人万人でも一人でも、これも構造原理は同じことである。

こうした伸縮自在のロジックは、あきらかに難解だから俗耳には入りにくい。逆に、武蔵の話は無茶苦茶だ、という見解が今でも存在する。要するに、そうした反撥は無教養なせいで、このあたり、武蔵という知性の背景にある禅家のロジックを十分知った上でないと、理解は難しかろうかと思われる。まさに、「能々吟味有べし」と武蔵のいうところである。

――――――――――――

 

ここで語釈上若干の説明が必要なのは、以下の部分であろうか。
《獨自由を得、おのづから奇特を得、通力不思儀有所、是兵として法をおこなふいき也》

ここでいう「自由」は、本書で随所に登場する言葉である。「獨」は「ひとり」と読み、現代語では、「ひとりでに」の意味である。

「奇特」〔きどく〕は不思議なミラクルな効験、「通力」〔つうりき〕は神通力、神的な力のことである。これらはいづれも当時の宗教的概念であり、またポピュラーな言葉であった。

ただし、そんな奇特通力不思議があると云っても、武蔵は、神仏のお蔭だと述べているのではない。武蔵流兵法は、他の呪術的流派のように神仏をたのみにしない。ただ武蔵は、修練して得る効能の不思議には、驚異的なものがあると語るのである。ここに云う、奇特通力不思議があるとは、驚異的な現象というばかりの比喩である。

つきに、《兵として法をおこなふ》とあるのは、これもレトリカルな措辞である。たんに「兵法をおこなふ」と言うところを、「兵として法をおこなふ」と云って、気どった表現にして文体を締めているというわけだ。したがって、それ自体の内容に意味はなく、修辞上の言回しである。

あるいは、《兵として法をおこなふ息也》とするところ。諸本は「息」と表記している。「息」となると、これは字義通りには呼吸のことであるが、本書で頻出する「心」という語と同じく、語の弱い意味では、「息」は「意味」と訳してよいかもしれない。ここでは、それでも文意は通じないことはない。

しかしながら、もう少し厳密にすれば話は違う。この「息」は、梵語でいう「プラーナ」(prana)、すなわち、気息のことである。ギリシア語にしても、同類の「プネウマ」 (pneuma)だが、ラテン語(spiritus)を介して英語の「スピリット」(spirit)となる。

これがまさに「火」の巻であり、また、《おのづから奇特を得、通力不思儀有所》とミラクルな効験を述べるここでの文脈から、武蔵はわざわざ「息」という語を召喚している。「プラーナ」(気息)という霊的な語義で用いているのである。それを念頭において読むことだ。

そしてこれを、さらにせり詰めてみれば、「息」(いき)は、その霊的なニュアンスに重ねて、語の強い意味では、「粋」のこと、つまり技芸の精粋、要諦、こつ、要点といった意味の語である。かくして、我々はこの後者の語意をうけて、如上の訳文に示したとおり、「精粋」としたのである。

ところで、細川家本の《兵として法をおこなふ息》を、岩波版注記は、
「武士として兵法を修行する気合、心意気」
としてしまう。これは、明白な誤りである。それは第一に、「兵として法をおこなふ」という修辞法に無知であり、「兵」を武士と訳してしまう誤訳である。第二にこれは、「息」という写本の漢字を、ナイーヴにも字義通り「呼吸」と読んでしまい、さらにその誤読を「気合、心意気」などと根性主義に誤訳して、二重に誤っているのである。

かくして、岩波版注記は、武蔵が、兵法修行の奇跡的効験をアピールするこの箇所で、「気合、心意気」などという、文脈を外れた語義をつかんで、それでも変だと気づかない。つまり、五輪書を読めていないことを露呈しているわけである。

そして既成現代語訳となると、神子訳は、岩波版注記よりマシと言えるが、その後生じた岩波版注記をパクった現代語訳(大河内訳、鎌田訳)は、右掲の如く、いづれも誤謬をそのまま複写しているのである。ようするに、既成現代語訳のレベルとはこんな程度なのである。  

 

 

2 場の次第 (場の次第と云事)

【原文】


一 場の次第と云事。
場の位を見分る所、場におゐて、
日をおふと云事有。
日をうしろになして搆る也。
若、所により、日をうしろにする事
ならざる時ハ、右の脇へ日をなす様にすべし。
座敷にても、あかりをうしろ、右わきとなす事、
同前也。うしろの場つまらざる様に、
左の場をくつろげ、右脇の場をつめて、
搆へたき事也。
よるにても、敵のミゆる所にてハ、
火をうしろにおひ、あかりを右脇にする事、
同前と心得て、搆べきもの也。
敵を見おろすと云て、
少も高き所に搆るやうに心得べし。
座敷にてハ、上座を高き所と思ふべし。(1)
さて、戦になりて、敵を追まはす事、
我左のかたへ追まハす心、
難所を敵のうしろにさせ、
何れにても難所へ追かくる事、肝要也。
難所にて、敵に場をみせず、といひて、
敵にかほをふらせず、油断なくせりつむる心也。
座敷にても、敷居、鴨居、戸障子、椽など、
又、柱などの方へ、おひつむるにも、
場をみせずと云事、同前也。
いづれも敵を追懸る方、足場のわろき所、
又ハわきにかまひの有所、何れも場の徳を用て、
場の勝を得と云心専にして、
能々吟味し、鍛錬有べきもの也。(2)  

 

【現代語訳】

一 場の次第という事

場の位*を見分けるについて、その場において「日を負う」ということがある。(つまり)太陽を背後にして搆えるのである。もし、場所によって太陽を背にすることができないときは、右の脇の方に太陽がくるようにすべし。

座敷〔屋内〕でも、あかりを背にし、右脇にすること、前に同じである。後方の場が詰まらないようにし、左の場を広くとり、右脇の場を詰めて搆えるようにしたいものである。

夜間でも、敵の見える所では、火を背にし、あかりを右脇にすること、前に同じと心得て、搆えるべきである。

「敵を見下ろす」といって、少しでも高い所に搆えるように心得ること。座敷では、上座〔かみざ〕を高い所と思えばよい。

さて、戦いになって、敵を追い廻す場合、自分の左の方へ追い廻す感じで、難所を敵の後にくるようにさせ、どんな場合でも難所へ追い込むことが肝要である。

難所では、「敵に場を見せず」といって、(それは)敵に顔を振らせず、油断なくせり詰めるという意味である。座敷でも、敷居・鴨居・戸障子・縁側など、また柱などの方へ追い詰める場合にも、「場を見せず」ということ、前に同じである。

どんな場合でも、敵を追い込む方向は、足場の悪い所、または脇にさし障りのある所、いづれにしても、その場の徳〔得、優位〕を利用して、場の勝ちを得るという心を専〔せん、第一〕にして、よくよく吟味し、鍛練あるべきものである。

【註解】

 

 (1)日をうしろになして搆る也

ここから具体的な戦術の話が始まる。まずは、場の「位」を見分けるということ。この「位」は、ポジションである。戦いの場では有利なポジションを占めろという教訓である。

その第一は、太陽を背にして戦うべし、という教訓である。太陽を背にすれば逆光になって、敵には我が方が見にくいから有利である。夜間などでも照明を背にすることも同じ話だとする。

太陽や照明など光源を背にできない場所では、これを我が右方にとるようにする。この右方に光源が来るようにするとは、これは何ゆえか。

これは、攻撃の旋回方向からくる原則である。すなわち、右から左方向へ、攻撃の流れは左手方向へ動くのが基本である。敵も同じように運動する。だから、敵にとっては攻撃方向に光源があることになり、これも見づらい。そこで、光源が右手にくるように場所取りをする方が有利である、という理屈である。
《うしろの場つまらざる様に、左の場をくつろげ、右脇の場をつめて、搆へたき事也》
とあるのは、上記と同軌のことで、攻撃は左手方向へ展開するのが基本であることから、左手に空間をとり、右手は詰めるのである。

むろん、後方が詰まらないように余裕をとるのは、追い詰められてしまわないためである。壁などを背にして戦うのは、よほど切羽詰ったときのことである。

次に、場の位置は高いところがよいというのは、これも敵を見やすい/見づらいという話であろう。位置が少しでも高い方が、相手の様子を見やすい。座敷などでも上座がよいというのは、上段の間、下段の間とか言って、フロアレベル、床高が違うからである。話はごく合理的である。

このあたり、左手に空間をとり右手は詰める、高い場所に位置取りする、等々の場の次第は、合理的であると同時に、兵法の原則であろう。

『孫子』(行軍篇)にも、位置取りを高い処にせよということに始まる教訓がある。あるいは、右背を吉、左背を凶とするのは何も兵法に限ったことではないが、『孫子』はこの伝統的な配置関係を兵法にも適用している。ここでいう「死」を前に「生」を後にするとは、前方で戦い、後方は活路とする、そんな位置取りのことである。

同じく、低い位置よりは高いところを選好すること、あるいは陽を貴んで陰を賤しむとするのは、これも位置・配置の相の吉凶がからむのであるが、いづれにしても合理性に裏づけられてのことである。易学は、蒙昧な先験主義とは限らない。

この場の優位ということに関していえば、とくに武蔵の場合、太陽を背にして戦うべし、という教訓が、ことのほか有名である。そのため、武蔵小説や映画では、必ずこの太陽を背にして戦う武蔵が登場するほどである。

しかし、太陽を背にしろという教えは、武蔵に限ったことではない。それは世界中のどこにでも教訓のあることであろう。日本でも、たとえば『日本書記』に、神武の軍が太陽を背にする敵軍と戦って敗北し、太陽に向かって攻める非を反省する場面が出てくる。

これなどは、太陽を背にして戦うべし、という教訓が古代から存在したことの証言であろうし、さらに云えば、『日本書記』の記事は、こうした戦場での基本的教訓が説話化されたものであろうと思われる。

ところが、太陽を背にして戦うべし、という教訓を武蔵の専売特許のように思いなす錯覚が以前から存在し、またそう解説するものがある。それは間違いである。これは、どこでも、大昔から、言ってきたことなのである。

したがって、この節に説く場所の優位論を、武蔵の独自説だと思うのは、贔屓の引き倒しである。むしろ、ここで武蔵は、戦闘場面での自身のポジションをどこにおくか、光源を背にあるいは右にとるべし、という極めて初歩的で基本的なことを教えている、と読むべきところである。

 


(2)敵に場をみせず

ここは、敵を追い廻し、追い詰める、その戦法の教えである。これも前記同様、ごく基本的な教訓である。その要点は、
《敵を追まはす事、我左のかたへ追まはす心》
《難所を敵のうしろにさせ、何れにても難所へ追かくる事》
ということである。敵を自分の左の方へ追廻すのは、攻撃の基本である。もう一つは、敵を追い廻すとき、どんな場合でも難所へ追い詰めるのである。

難所というのは、足場の悪いところ、障碍のあるところで、敵にとって戦うに不利な場所である。そうして、もはや後方に余裕なき場へ追い詰める。そのためには《敵に場をみせず》というのがポイントである。

この《敵に場をみせず》とは、相手が自分の周囲の状況を把握する余裕を与えない、ということである。《敵に顔をふらせず、油断なく、せりつむる》のである。このあたり説明は、懇切で明快である。


ここに関連して、語釈の点を言えば、この「油断なく」は、現代語でも使用されている言葉である。我が方が油断せず攻め詰める、という意味にはなる。しかし実はこの場合、「油断」の語義にこだわってみるのも、おもしろいのである。

現代語では、油断しないとは、「手抜かりなく慎重に注意して」という意味がある。しかし「油断なく」とは「間断なく」の意味であるという説もある。これによれば、敵に余裕を与えないほど間断なく攻め詰めるという意味になるのである。

しかし、さらに言えば、これは敵が周囲を見回すほどの余裕も与えない、必死にさせるということである。かくして、要するに、油断しないのは我か敵か、という極めて興味深い問題が浮上する。

というのも、「油断」の語源の一つとされるものに、『涅槃経』にある逸話、王がある臣に油鉢を持たせ、「それをひっくり返すなよ。もし一滴でもこぼしたら、お前の命を断つぞ」と言ったという話を出すのが通例である。この「油」をこぼしたら命を「断つ」から、「油断」という言葉ができたというわけである。これは恠しい説である。

しかし、この語源の当否は別にして、もともと油断には「必死にさせる」という意味はあったようである。ただし、右掲の『雜阿含経』の、いわゆる「四念処」の修行を述べる油鉢の譬えによって、正確に補完すべきであろう。すなわち、これは、美女の色香でさえ、殺害の恫喝の前には無力である、脇目もふらず必死になって油をこぼさないようにするであろう、という譬喩なのである。美女こそ、男性修行者の最大の障害なのである。

こういうことからすると、油断は「必死になる」というよりも「必死にさせる」という意味である。《油断なくせりつむる》のであるが、この場合必死になるのは、自分ではなく相手なのである。脇目もふらないほど必死になって戦う、そうでないと自分の命が断たれるからである。

そうだとすれば、ここでいう《敵に顔をふらせず、油断なく、せりつむる》の、「油断なく」の主語は我が方ではなく、実は「敵」なのである。要するに、我が方は、自分が油断せず追撃するのではなく、相手に油断なくさせる、必死にさせて、脇目もふらせない、つまりは「敵に顔をふらせず」ということなのである。言葉は偶然のように、真の意味を露出させる。

「油断なく」の通常の意味、「手抜かりなく慎重に注意する」というのは、いわば弱い意味であり、これに対して「脇目もふらないほど必死にさせる」という方は、強い意味である。もともと相手の「油断なく」が自分のことになり、言い換えれば「油断」は主体化されてしまったのである。「油断」の意味を相手から譲渡されてしまったというのが、この語の変遷である。

言うまでもないが、ここでの武蔵自身の「油断なく」の用法も、「手抜かりなく」という通常の意味である。こんな余談めいた話を出したのは、戦闘空間における敵我の相似性と相互移行性という問題のためである。主体が客体と入れ替わる、互換性があるというは、敵我が似てしまい、おのづから相互に相手を模倣してしまうミメーシス構造が発生するからだ。

武蔵が五輪書で一貫して説いているのは、まさにそうした敵我の相似性と無差異化の悪循環を断つ方法である。武蔵において「勝つ利」とは、畢竟、相似性と無差異化の悪循環を断つことである。五輪書読みには、このことを念頭に読み進むことが必要である。


また語釈の点で若干付け加えれば、《わきにかまひの有所》の「かまひ」というのは、構い。さしつかえ、さしさわりのあるところ、ということである。

 《此娘にはかまひ有て、嫁入はさせぬ》(五十年忌歌念仏)

現代語では、「かまわない」という否定形でこの語の用法は残っている。たとえば、「煙草を喫ってもかまわない」というように、さしつかえがない、さしさわりがないということである。

動詞形で「かまう」となると、さしつかえる、さしさわるということだが、これも、さしつかえる、さしさわるから、「気にする、気をかける」という意味があり、これは英語の《care》の意味に近い。現代語でも「そんなことは、かまっておれない」という場合の「かまう」である。

これを要するに、かまいのある所というのは、さしつかえ、さしさわりあって、敵がそれに気をとられて、戦いに専心できないような場所という意味である。一部の解説にあるように、障害物がある所と訳してしまっては、少し的外れになる。

すでに気づかれているように、ここ火之巻は、太刀の扱い方を述べた水之巻と違って、同じ戦闘術でも戦術面の教えを語るのである。

――――――――――――


なお、興味深いことに、狩野文庫本にのみ見られる特異箇条がある。これは近年、存在を無視されているようなので、それを示せば、右掲の如くである。

内容は、屋外屋内のどこであれ、自分の場の得失を認識すること、あるいは、山川の地形状況にしても、たんに眺めるのではなく、常に軍事的に認識するよう心がけること。――これは、常識的なほど、基本的な教えである。五輪書のこのあたりにあっても奇異とはみえない内容である。

しかるに、この一条は、他の諸本にはない。筑前系写本にもないところを見ると、もちろんオリジナルにはなかったもので、後世にだれかが「追加」したした条文である。つまり、どこかから降って湧いた断片を、ここに挿入したものらしい。

狩野文庫本は、「円明流覚書」と題のあるもので、写し崩れの多い派生的な一本である。ただし、他にはないこういう「特異箇条」まであるところを見ると、尾張円明流系統のものではないかと思われる。

同じ武蔵流でも、九州の筑前・肥後系と異なり、尾張系は独自の変異進化を生じた。それは派生分化が早期にあったからである。早期に分化した系統だから、武蔵晩年の五輪書などないはずだが、それがあるのは、古橋惣左衛門の流れを汲むという伝承の一派があったからである。

その一派の五輪書が、狩野文庫本である。おそらく幕末あたりの写本であろう。ただ、尾張円明流そのものは、明治まで存続した。 

 

 

3 三つの先〔せん〕 (三つの先と云事)

【原文】

 一 三つの先と云事。
三つの先、一つハ我方より敵へかゝる先、
けんの先といふ也。又一つハ、
敵より我方へかゝる時の先、
是ハたいの先と云也。
又一つハ、我もかゝり、敵も
かゝりあふときの先、躰々の先と云。
これ三つの先也。
何の戦初にも、此三つの先より外ハなし。
先の次第をもつて、はや勝事を得ものなれバ、
先と云事、兵法の第一也。
此先の子細、さま/\有といへども、
其時々*の理を先とし、敵の心を見、
我兵法の智恵をもつて勝事なれバ、
こまやかに書分る事にあらず。(1)
第一、懸の先。我懸らんとおもふ時、
静にして居、俄にはやく懸る先、
うへを強くはやくし、底を残す心の先。
又、我心をいかにも強くして、
足ハ常の足に少はやく、
敵のきハへよると、早もミたつる先。
又、心をはなつて、初中後同じ事に、
敵をひしぐ心にて、底まで強き心に勝。
是、何れも懸の先也。
第二、待の先。敵我方へかゝりくる時、
少もかまはず、よはきやうにミせて、
敵ちかくなつて、づんと強くはなれて、
とびつくやうにミせて、敵のたるミを見て、
直に強く勝事。これ一つの先。
又、敵かゝりくるとき、
我もなを強くなつて出るとき、
敵のかゝる拍子の替る間をうけ、
其まゝ勝を得事。是、待の先の理也。
第三、躰々の先。敵はやく懸るにハ、
我静につよくかゝり、敵ちかくなつて、
づんとおもひきる身にして、
敵のゆとりのミゆる時、直に強く勝。
又、敵静にかゝるとき、
我身うきやかに、少はやくかゝりて、
敵近くなつて、ひともミもみ、
敵の色にしたがひ、強く勝事。
是、躰々の先也。(2)
此儀、こまかに書分けがたし。
此書付をもつて、大かた工夫有べし。(3)
此三つの先、時にしたがひ、理にしたがひ、
いつにても我方よりかゝる事にハ
あらざるものなれども、
同じくハ、我方よりかゝりて、
敵を自由にまはしたき事也。
何れも先の事、兵法の智力をもつて、
必勝事を得る心、能々鍛錬有べし。(4) 

 

 

【現代語訳】

 

一 三つの先という事

三つの先〔せん〕、一つは我方から敵へかかっていく先、これを「懸〔けん〕の先」というのである。また一つは、敵の方から我方へかかってくる時の先、これは「待〔たい〕の先」という。もう一つは、こちらもかかっていき、敵もかかってくる仕懸け合いの時の先、これを「躰々〔たいたい〕の先」という。これが三つの先である。

どんな戦いでも、最初はこの三つの先より外はない。先の状況次第で、すでに勝つことを得るものだから、先ということが、兵法の第一である。

この先の子細には、さまざまあるとはいえ、その時々の理〔ことわり、判断〕を先とし、敵の心を見(抜き)、我が兵法の智恵をもって勝つことであるから、細かく説明することはしない。

第一、懸〔けん〕の先。こちらから仕懸けようと思う時、(まず)静かに〔急がずに〕いて、突然素早く仕懸ける先。うわべ〔表面〕は強く早くするが、底を残す心の先。また(逆に)、自分の心をできるだけ強くして、(ただし)足は平常の足より少し早い程度で、敵の間際へ寄るやいなや、猛烈に攻めたてる先。また、心を放捨して、初めも中間も最後も同じように、敵を挫ぐ〔ひしぐ・押し潰す〕気持で、底まで強い心で(出て)勝つ。これらは何れも「懸の先」である。

第二、待〔たい〕の先。敵が我が方へ仕懸けてくる時、(それには)少しもかまわず、(こちらの攻勢が)弱いように見せ(かけ)て、敵が近づくと「づん」と強く(攻勢を)変えて、飛びつくように見せ、敵の(攻勢の)弛みを見て、一気に強く出て勝つこと、これが一つの先である。また、敵が仕懸けてくる時、こちらもそれよりも強くなって出て、その時、敵の攻勢の拍子の変化する隙間をとらえて、すぐさま勝ちを得ること。これが「待の先」の理〔利、勝ち方〕である。

第三、躰々〔たいたい〕の先。敵が早く仕懸けてくる場合、こちらは静かに〔急がずに〕強く応戦し、敵が近づくと、「づん」と思い切った体勢になって、敵のゆとり〔遅滞〕が見えると、一気に強く出て勝つ。また、敵が静かに〔ゆっくりと〕かかってくる時、我身は軽く浮きやかに(なって)、少し早くかかっていき、敵が近くなると、ひと揉み争ってみて、敵の様子に応じて、強く(出て)勝つこと。これが「躰々の先」である。

以上の事は、細かく説明することはできない。ここに書いてあることから、(自分で)大かたを工夫してみなさい。

この三つの先は、時にしたがい、理〔利〕(の有無)にしたがって(行うもので)、どんな場合でもこちらから(先に)仕懸けるということではないが、同じことなら、我が方から仕懸けて、敵を廻し〔翻弄し〕たいものである。

何れにしても、先〔せん〕のことは、兵法の智力によって必ず勝ちを得るという心持、(これを)よくよく鍛練あるべし。

 

 

【註解】

 

 (1)三つの先

ここでいう「三つの先」の先〔せん〕という言葉は、特種な兵法語彙であるから、そのまま使って、とくに訳さない。

現代剣道でも「先」という語を使う。「先をとる」ともいう。要するに、敵に対しリードする、戦いのイニシアティヴをとるということである。

武蔵はこれを、三つのケースに分類しており、
(1)我方から、敵へ仕懸けていく先
(2)敵の方から、我方へ仕懸けてくる時の先
(3)敵も我も、同時に仕懸け合う時の先

ここでは、武蔵はこの三つの先に対し、それぞれ「懸〔けん〕の先」「待〔たい〕の先」「躰々〔たいたい〕の先」と呼んでいる。

ただし、五輪書諸本には表記の相違がある。「躰々」(体々)は、筑前系・肥後系共通の表記だが、その一方で、同じ肥後系でも、丸岡家本などのように、「對々」(対々)と書くものがある。また円明流系諸本のような派生系統でも、「對々」である。

筑前系は共通して「躰々」であるから、これが古型である。肥後系諸本では、「躰々」から「對々」へ変異したのである。それゆえ、「對々」という表記は、肥後系のなかでも後期写本の指標とみなしうる。

丸岡家本はこの「對々」である。とすれば、一部で早期写本とみなされてきた丸岡家本は、実際には後期写本なのである。内容分析なしに、時期を想定するから、そんな誤認も生じるのである。

しかし、この「躰々の先」は、当時一般の語法をみれば、「對々の先」と言うべきものであろう。
《此は善彼は悪と、善悪対対の善と見るゆへに》(都鄙問答 三)
という具合の用法である。あるいはまた、男女対々というのは「男と女は五分と五分」ということであるが、それとは違う意味である。ここでの対々は、両者が相対し対立していることである。

したがって、「たいたい」は一般には「對々」であったはずだが、兵法用語では「躰々」と造語して差異化したものらしい。「躰々」という語の方が、両者の肉体が激突するという場面を、より喚起するものである。

しかるに、如上の肥後系後期写本でこれを「對々」とするについては、世間一般の表記に「修正」してしまったということである。

ところで、ここに《こまやかに書分る事にあらず》とあるが、以下を読めば、そうでもないとわかる。

肥後兵法書では、同じく「三つの先」を語っても、五輪書の「懸の先」「待の先」「躰々の先」という用語もなければ、とりたてて詳しい説明はしない。どちからというと、戦法というより、心持を中心に説いている。そういう心法に偏流するのが肥後兵法書の後発的特徴である。しかし、五輪書の説明は戦法を具体的に分類説明している。

事実、五輪書の以下の解説は、何も秘すべきものはないというスタンスで、兵法理論を明解に述べる。この点でも、五輪書が初心の読者を念頭に置いたものだとわかる。

つまり、こうした「懸」〔けん〕、「待」〔たい〕という語彙は、当時も昔から使われてきた兵法用語でもあって、当時の読者なら、すぐさま理解できた言葉なのである。だれも知っている言葉を使い、またそれを改めて分類整理して解説しているという点では、五輪書は初歩からの教本として書かれているのである。

こうした「三つの先」の分類は、当時一般的なものであり、またその後も存続し、さらには近代剣道でも継承された発想であったらしく、たとえば、大日本帝国剣道形制定主査の一人、小野派一刀流の高野佐三郎(1863~1950)は、「先々の先(懸りの先)、先(先前の先もしくは對の先)、後の先(先後の先もしくは待の先)」と分類している(『剣道』剣道発行所、大正四年)。

名称はさまざまであるが、どんな場合でも「三つの先」であることには変りがないのである。

――――――――――――


なおここで、校異の点で問題があるとすれば、まず一つは、細川家本のみ特異な字句を示すところである。すなわち、他の諸本、むしろ近縁の楠家本や丸岡家本にさえ、《敵へかゝる先》として、「先」と漢字で記すところ、細川家本のみ、「せん」と仮名文字で表記している。

これは、漢字を仮名に変換したということではない。おそらく、これは、「先」という漢字を、「せん」と二文字に読み間違えたのである。というのも、「先」という漢字は、字体によっては、「せん」という仮名二文字に似たケースがあるからだ。

これは常武堂本も同じであるから、細川家本系統の特徴的誤写の一つである。それは、楠家本系の祖本と分岐した細川家本の祖本の段階で、この読み取りの誤りがあったものである。この誤写の意味するところは、細川家本の後発性である。

それよりも、他に問題とすべきは、以下の箇処である。

すなわち、筑前系の中山文庫本、あるいは筑前=越後系の赤見家甲本をはじめ諸本には、いづれも、
《先と云事、兵法の第一也。此先の子細、様々有といへども、其時々の理を先とし》
とあって、《其時々の》とするのだが、同じ筑前系の吉田家本と鈴木家本、肥後系の楠家本・細川家本をはじめ他の諸本は多く、これを《其時の》と記す。

筑前系/肥後系を横断して共通するということからすれば、ここは《其時の》が妥当となるが、実はそうではない。筑前系諸本をきちんと見る必要がある。

というのも、筑前系諸本を通覧するに、吉田家本と鈴木家本が《其時の》と記すが、同じ早川系の中山文庫本では《其時々の》である。越後系諸本は、すべて《其時々の》である。越後系諸本全体の祖本たる立花隨翁本には、前部欠損がありこの部分が確認できないが、丹羽信英による赤見家甲本以下の越後系諸本がすべて《其時々の》とするから、筑前の立花系は、《其時々の》と記していた可能性が大きい。したがって、あながち、この《其時々の》を無視することはできない。

そこで、内容分析の審問が必要となる。すなわち、五輪書のこの部分は、「この先の子細には、さまざまあるとはいえ、その時その時の理を優先して、敵の心を見(抜き)、我が兵法の智恵をもって勝つことであるから、細かく説明することはしない」という話である。要するに、状況それぞれに対応した臨機応変の判断という文脈で語られている。要するに、この場合の、「理」〔ことはり〕は状況次第でさまざまだというのである。

こうした武蔵のロジックにしたがえば、前後の文脈からして、ここは《其時の理》というよりも、状況の多様性を示す《其時々の理》としたほうが妥当であろう。よって、我々のテクストでは、この《其時々の》を採用している。

――――――――――――


語釈の点をいえば、この「三つの先」の条文では、一つ特徴的な文字使用があることに注意される。

それは上記の校異箇処にも出てきた「理」という文字である。諸本をみるに、「利」ではなく「理」に統一している。五輪書では、「理」を「利」に書くことは少なくないが、ここでは「利」という文字はなく、「理」である。筑前系/肥後系に通有の書字例であるから、これは、寺尾孫之丞段階に遡るものである。

本条では以下に「理」字が二つ出てくるところをみるに、本条にかぎって、「理」字ばかり書いてあったのである。これは、他の用例では、「利」字にしているケースでも、ここでは「理」字に書いたということである。

他の用例をみれば、《其時々の理を先とし》についても、《其時々の利を先とし》と記してあっても、とくに異とするべきではない。おそらく、武蔵の草稿には、ここを「利」字ではなく、「理」字を書いていたものであろう。

ただし、この文字使用の特徴に有意性を認めるとすれば、この「理」は本書通例の「利/理」ではなく、「ことわり」と読ませたものかもしれない。つまり、語義は「道理、真理」ではなく、「判断」の意である。

とすれば、ここは、「その時々の判断を先とし」との語訳が導かれる。これを意訳すれば、「その時々の判断を優先し」といったところであろう。これもありうるだろうということで、我々の訳文では、ここに限って、異例の語義を提示している。

この点について既成現代語訳を見るに、やや難題であったらしく、戦前の石田訳は、「其の時の形勢によつてどの先をとるかを決定し」と訳して、工夫の跡を示している。「理」という文字については、「形勢」と意訳している。ただし、これは「理」字の語義としては誤りである。

戦後の神子訳は、これを「その時々の事情によって有利なようにきめる」と意訳している。これも石田訳の工夫をうけ継いで、「理」字に腐心したもののようだが、訳文はむしろ逸脱してしまっている。他方、これが底本とする細川家本では、《其時の》であるから、これは厳密に言えば正確な語訳ではない。しかるに結果として、「その時々の」として、正しい原文と同じところに落着した、というケースである。原文を裏切ることが正解を生むこともある。

その後出た岩波版注記は、これを「その時々の理に適合するものを第一とし」と語釈している。「その時々の」は神子訳を頂戴したものである。ところが、ここでは「理」という文字をそのまま訳文に入れている。

この「理」字は、先行の石田訳も神子訳も腐心したところである。ところが、そんな先行訳の苦労を無に帰してしまったのが、この岩波版注記である。言語に対するセンスがないのである。

それは以下の箇処の語釈にも現れている。《先とし》とあるところを、この注記では、「第一とし」と意訳しているが、それは誤りである。ここがもし、《専とし》とあったなら、それで正解だが、ここはやはり《先とし》と書いているのである。「三つの先」というテーマの条だから、ここで「専」を「先」と当て字するわけがない。しかもその直前には、《先と云事、兵法の第一也》と記して、「専」と書くところをわざわざ避けて、「第一」という語を用いているのである。

岩波版注記はかように安易な誤訳を示しているが、その後の現代語訳(大河内訳、鎌田訳)はともに岩波版注記をパクっただけの、独自の工夫も何もない怠慢な訳文である。石田訳や神子訳が試みた苦心も、あるどころではない。ようするに、この点でも、近年のものほど五輪書訳が劣悪化していることは明らかであろう。


(2)懸の先・待の先・躰々の先

ここは「三つの先」の説明である。懸〔けん〕の先・待〔たい〕の先・躰々〔たいたい〕の先と名づけたものを、具体的に解説する。

まず、懸〔けん〕の先は、こちらから先に仕懸けようとする場合である。これにはいくつかあって、
(a)最初は静かにしていて、それから突然素早く仕懸ける。
(b)表面では強く早くするが、底を残す心。
(c)逆に、我が心をいかにも強くして、ただ、足は平常の足より少し早い程度で、敵の間際へ寄るやいなや、猛烈に攻めたてる。
(d)心を放捨して、初めも中間も最後も同じように、敵を押し潰す気持の、底まで強い心で攻撃に出て勝つ。

これらはいづれも「懸の先」である。肥後兵法書には、
《我かゝる時の先ハ、身ハかゝる身にして、足と心を中に殘し、たるまず、はらず、敵の心をうごかさず、是懸の先なり》
とあって、身体は攻撃態勢だが、足と心は中に「残す」というわけで、前に水之巻にあった身心分裂操法の一種である。これは上記(b)の残心の先に近いが、何とも言えない。

むしろ、五輪書では「懸の先」を具体的に分析して、さらなる分類をしているので、必ずしも肥後兵法書の記述とは符合しない。言い換えれば、肥後兵法書の記述は要約的だが、五輪書の方は、分析的に述べて、四つの懸の先があるという話である。

第二の待〔たい〕の先は、逆に、相手から先に仕懸けてくる場合の先である。これには二つあるようで、
(a)敵の方が仕掛けてくる時、それには少しも相手にならず、こちらの攻勢が弱いように見せて、そして敵が近づくと対応を一変して「づん」と強く出て、飛びつくように見せる。と、敵の攻撃の弛みが生じる、それを見て、一気に強く出て勝つ。
(b)敵が仕懸けてくると、――こんどは逆に――こちらは敵よりも強く出る。その時、敵の仕懸ける拍子の変化する隙間を捉えて、そのまま勝ちを得る。

これをみると「待の先」にも、積極的なものと消極的なものがあるようである。肥後兵法書の当該部分には、
《敵かゝり來る時の先ハ、我身に心なくして、程近き時、心を放ち、敵の動にしたがひ、其まゝ先になるべし》
とあって、これは上記の前者の方に近い内容である。しかし、後者の積極的な応戦の方の記述はない。五輪書のほうが説明が詳しいのである。

第三の躰々〔たいたい〕の先。これは、敵我双方が同時に仕懸け合いの場合である。これにも二つあるようである。
(a)敵が早く仕懸けてくるとき、こちらは静かに、つまり急がずに、強く応戦し、敵が近づくと、「づん」と思い切った体勢になって出る、そこで敵のゆとり〔遅滞〕の見えるところを、一気に強く出て勝つ。
(b)また逆に、敵が静かに、ゆっくりと懸かってくる時、我身は軽く浮いたようになって、敵より少し早く仕懸けていき、敵が間近になると、ひと揉み争ってみて、その敵の様子に応じて、強く出て勝つ。

これはまた、相手の出方の動静によって、こちらは逆の動静で応じるが、様子を見て強く出て勝つということでは同じである。

肥後兵法書の当該部分には、
《互にかゝりあふ時、我身を強く、ろくにして、太刀にてなりとも、身にてなりとも、足にてなりとも、心にてなりとも、先に成べし》
とあって、この記述は、五輪書のように具体的ではない。これではほとんど内容は不明である。

肥後兵法書はこの「三つの先」において、五輪書のような、「懸」「待」「躰々」という用語も使用しない。形式・内容ともに、記述が簡略化、悪く言えば、貧弱化しているようである。

――――――――――――


ここで、語釈の問題では、まず、《静に》という語がある。これはむろん、静かに、騒々しくなく、という意味ではない。急がずに、ゆっくりと、という意味である。動静の緩急拍子を変えるのである。

次に、第二、「待の先」のところで、《敵我方へかゝりくる時、少もかまはず、よはきやうにみせて、敵ちかくなつて、づんと強くはなれて、とびつくやうにみせて、敵のたるみを見て、直に強く勝事》とあるところ、《づんと強くはなれて》の「はなれて」というのは、敵から離れる、距離をとる、という意味ではない。

これは後の、「第三、躰々の先」のところで、《敵はやく懸るには、我静につよくかゝり、敵ちかくなつて、づんとおもひきる身にして、敵のゆとりのみゆる時、直に強く勝》とあるところの、《づんとおもひきる身にして》と平行関係にある表現である。

つまり、まず、《よはきやうにみせて》、次に、敵が接近してくると、《よはきやうにみせる》ことから「はなれて」、急に対応を一変して、思い切って強く出ることを述べているのである。ここは、字面を漫然と見ていては読めないところである。

しかるに、既成現代語訳を見るに、戦前の石田訳は、これを「ヅンと強く離れて飛び付く」と、わけの解らぬ訳を示している。「はなれて」を、敵から離れることと誤解したのである。その結果、「強く離れて飛び付く」という誤訳に至ったのである。

しかし、戦後の神子訳になると、もっとひどい誤訳になった。それは石田訳のように「強く離れて飛び付く」とすると、わけが解らぬと思ったか、「飛び付く」を「とびのく」という逆の表現に勝手に改竄してしまったのである。

神子訳が底本にした細川家本では、むろん《づんとつよくはなれて、飛付やうに見せて》とあって、ここは「飛び付く」であって、「飛びのく」ではない。神子訳は明らかに恣意的な改竄である。

ところが、以後の現代語訳を見るに、これは神子訳だけの改竄ではなかった。というのも、大河内訳・鎌田訳ともに、「飛びのく」「とびのく」としている。この両者とも神子訳をパクる例が多いが、ここはようするに、訳者が岩波版原文にすら当たっていないことを暴露している。両者の原文は、岩波版細川家本どころか、神子訳なのである。まったく恐れ入った次第であるが、目に余る劣悪な仕業である。

さて、また語釈の問題では、いまの関連箇処で、《敵ちかくなつて、づんとおもひきる身にして、敵のゆとりのみゆる時、直に強く勝》とあるところ、この「ゆとり」という語である。

この「ゆとり」は、むろん、「余裕」という現代語の意味ではない。「ゆとる」という動詞があって、意味は、「おくれる」「グズグズする」ということである。「ゆとり」はその名詞形で、「遅滞」の意である。

ここを、既成現代語訳はどう訳しているかと見れば、戦前の石田訳が、「ゆとり」を類語の「たるみ」と読み替えたのを皮切りに、神子訳以下戦後の訳に「たるみ」と読み違える傾向が生じたようである。岩波版注記もこれを頂戴し、「たるみ。ゆるみ」と書いているが、これが誤りであるのは申すまでもない。

しかし、大河内訳のように「油断」と意訳するのは、たしかに「ゆとり」を「たるみ」と読み替えるのを躊躇した模様であるが、いかんせん、まったく的外れの誤訳でしかない。鎌田訳は例によって、言わずもがな、先例を孫引きするだけである。少しは自分で努力してみせろ、と言いたい代物である。  

 


(3)此儀こまかに書分けがたし

以上、三つの先の説明である。この説明は、肥後兵法書と比較すると、かなり詳しく書いている。武蔵の説明しようという苦心のあるところである。

以下に示すのは、五輪書と肥後兵法書の説明文の対照一覧である。これによってみれば、内容の基本点は同じであるものの、五輪書では、説明が具体的で懇切なものであるか、一目瞭然であろう。

 

五 輪 書 肥後兵法書
第一、懸の先。我懸らんとおもふ時、静にして居、俄にはやく懸る先、うへを強くはやくし、底を残す心の先。又、我心をいかにも強くして、足は常の足に少はやく、敵のきはへよると早もみたつる先。又、心をはなつて、初中後同じ事に、敵をひしぐ心にて、底まで強き心に勝。是何れも懸の先也。
我掛る時の先は、身は掛る身にして、足と心を中に殘し、たるまず、張(ら)ず、敵の心を動かさず、是懸の先なり。
第二、待の先。敵我方へかゝりくる時、少もかまはず、よはきやうにみせて、敵ちかくなつて、づんと強くはなれて、とびつくやうにみせて、敵のたるみを見て、直に強く勝事。これ一つの先。又、敵かゝりくるとき、我もなを強くなつて出るとき、敵のかゝる拍子の替る間をうけ、其まゝ勝を得事。是待の先の理也。
敵かゝり來る時の先は、我身に心なくして、程近き時、心を放ち、敵の動きに隨ひ、其儘先になるべし。
第三、躰々の先。敵はやく懸るには、我静につよくかゝり、敵ちかくなつて、づんとおもひきる身にして、敵のゆとりのみゆる時、直に強く勝。又、敵静にかゝるとき、我身うきやかに、少はやくかゝりて、敵近くなつて、ひともミもみ、敵の色にしたがひ、強く勝事。これ躰々の先也。
双方一時に懸り合ふ時、我身を強く、ろくにして、太刀にてなりとも、身にてなりとも、足にてなりとも、心にてなりとも、先になるべし。

 

 このように説明が詳しくなっても、武蔵はまだ説明が足りないと感じたらしく、《此儀、こまかに書分けがたし。此書付をもつて、大かた工夫有べし》としている。

ようするに、実技は何でもそうなのだが、言葉で説明するには限界がある。それは各自それぞれが工夫すべきものなのである。ひとから与えられるのではなく、自ら把握し体得する部分が大きい。言葉はいわば中途半端な導きをするにすぎない。

なお、上記の高野佐三郎の著書(『剣道』)では、このあたりを、
(先々の先) 彼我相対し勝敗を争ふ時、敵の起りを早く機微の間に認めて、直ちに撃込み機先を制するをいふ。
(先) 隙を認めて敵より撃込み来るを、敵の先が効を奏せざる前に早く先を取りて、勝を制するをいふ。
(後の先) 隙を認めて敵より撃込み来たるを、切落し太刀を凌ぎて後に敵の気勢の痿ゆる所を見かけ、強く撃込みて勝つをいふによりて、之を待の先と称す。
というように説明している。このうち、「先々の先」が武蔵のいう「懸の先」、「先」が「躰々の先」、「後の先」が「待の先」に相当するわけである。

現代人には、おそらく高野の説明の方が解りやすいであろう。それは我々の近代言語が一定の抽象レベルにあるからである。武蔵の話のような具体的な教えになると、却ってわかりにくくなるのは当然である。

しかし、あるところまで実際に練習すると、むしろ五輪書の記述の方がしっくり身についてくる。これによってみると、五輪書は兵法教本としてなかなか優れたものはないかと気づくのである。

言うならば、五輪書は目と頭で読むものなのではなく、身体を動員しなければ読めたとは言えない書物なのである。 


(4)敵を自由にまはしたき事也

兵法の智力という言葉は、五輪書で好んで使われている言葉であるが、戦闘における戦い方の戦術的洗練については、とくにこの火之巻の随所に語られることである。

いづれにしても、この「三つの先」は、敵に対し戦いの「先」をとる、つまりイニシアティヴをとる、という教えである。したがって、同じことなら、我が方がリードする形で、敵を翻弄したいものだね、と武蔵は言うのである。

ここに出てくる「敵をまわす」という言葉は、五輪書にしばしば登場するが、敵を翻弄すること、我が方の思い通りに敵を動かすことである。猿廻しの「廻し」である。これは「先をとる」ということの効果(effect)である。

この「まわす」という語に関し、我々はこれを兵法用語として扱うから、とくに現代日常語に変換しない。まわすは、廻すである。五輪書読みなら、これを自身の語彙に加えていただきたい。

むろん、この「先をとる」「敵をまわす」テーマについて、我々は『孫子』のテーゼを思い起こすのである。それは、
《善く戦ふ者は、人を致して、人に致されず》(虚実篇)

すなわち、この「致す」も戦いのイニシアティヴを握ることであり、五輪書の「まわす」と同じく、相手を自分の思い通りすることである。それゆえ、戦さ上手は、敵を思い通りにはしても、敵の思い通りにはさせない、というのが「人を致して、人に致されず」の意味である。

――――――――――――


ここで、諸本間に校異のある点について問題を提起しておきたい。それは、我々のテクストにおいて、
《同じくは、我方よりかゝりて、敵を自由にまはしたき事也》
とするところ、これは筑前系諸本に依拠したものである。つまり、早川系の諸本、そして立花=越後系の赤見家甲本以下の諸本にも、この《自由に》という語がある。

これは筑前系諸本に共通するところから、《自由に》とあるのが古型である。筑前系初期の柴任美矩の段階にすでにあったと思われる。その想定すべき初期性から、これを我々のテクストに採用したのである。

しかるに、肥後系諸本には、《自由に》という語句が欠落している。早期派生系統の富永家本や円明流系諸本も含め、共通して、この《自由に》という語句が見当たらない。とすれば、この語句の有無は、筑前系/肥後系を截然とわける指標的相異である。

筑前系にあって肥後系に欠けている場合、既述のように、それは二通りのケースがある。寺尾孫之丞の段階では存在したが、門外流出後の伝写過程で、脱落が生じたケース。もう一つは、寺尾孫之丞前期にはあったが、後期写本では寺尾自身がこの語句を落としてしまったケース。この《自由に》という語句の有無も、その両方の可能性がある。

これは、肥後系伝写過程の早期に、この《自由に》という語句が脱落した可能性が強いが、ただし、かりに後者のケースであるとしても、柴任美矩に伝授された寺尾孫之丞前期写本には存在したのだから、武蔵のオリジナルには《自由に》という語句はあったとみるべきである。

さらにいえば、ここは、《我方よりかゝりて、敵を自由にまはしたき事也》という文言のあるのを知れば、《我方よりかゝりて、敵をまはしたき事也》では、文勢が弱い。水之巻の「将卒をしる」条でも、《敵を自由にまはさん》とあったところである。ここは《自由に》という語句がなければならない。

これも、ひろく諸本を通覧しなければ、わからなかった校異である。肥後系諸本のみを見ていては、その欠落にすら気がつかないということがある。まさにそれが、このケースである。後学の諸君の注意を喚起しておきたい。

 

 

4 枕をおさえる (枕をおさゆると云事)

【原文】

一 枕を押ると云事。
枕をおさゆるとハ、
かしらをあげさせずと云所也。
兵法勝負の道にかぎつて、
人に我身をまはされて、あとにつく事、悪し。
いかにもして、敵を自由にまはしたき事也。
然によつて、敵も左様に思ひ、
われも其心あれども、人のする事を
うけがはずしてハ、叶がたし。
兵法に、人のうつ所をとめ、つく所をおさへ、
くむ所をもぎはなしなどする事也。
枕を押ると云ハ、我実の道を得て、
敵にかゝりあふ時、敵何事にても思ふ
氣ざしを、敵のせぬうちに見しりて、
敵の打と云、うの字のかしらをおさへて、
跡をさせざる心、是枕をおさゆる心也。
たとヘバ、敵の懸ると云、かの字(のかしら*)を
おさへ、飛と云、との字のかしらをおさへ、
きると云、きの字のかしらをおさゆる事、
ミなもつておなじ心也。(1)
敵我にわざをなす事につけて、
役にたゝざる事をば敵に任せ、
役に立ほどの事をバ、おさへて、
敵にさせぬやうにする所、兵法の専也。
これも、敵のする事をおさへん/\とする心、
後手也。先、我は何事にても、
道にまかせてわざをなすうちに、
敵もわざをせんと思ふかしらをおさへて、
何事も役にたゝせず、敵をこなす所、
是、兵法の達者、鍛錬の故也。
枕をおさゆる事、能々吟味有べき也。(2)

【現代語訳】

 


一 枕をおさえるという事

枕をおさえるとは、(敵に)頭をあげさせないというところである。

兵法勝負の道に限っても、人に我が身を廻され〔翻弄され〕て、後手につくことはよくない。どうにかして、敵を自由に廻したいものである。

したがって、敵もそのように思い、こちらもそのつもりだが、相手のすることに対応することなしには、それができない。(それゆえに)兵法において、相手の打つところを止め、突くところをおさえ、組みついてくるところを、もぎ離しなどするのである。

(これに対し)枕をおさえるというのは、我が真実の道を会得して、敵にかかり合う時、何ごとであれ、敵が思うきざしを示さぬ内に、こちらはそれを察知して、敵の「打つ」というその「う」の字の頭をおさえて、その後をさせないこと、これが枕をおさえるという意味である。

たとえば、敵の「かかる」という「か」の字の頭をおさえ、「飛ぶ」という「と」の字の頭をおさえ、「切る」という「き」の字の頭をおさえる。これは、すべて同じ(枕をおさえるという)意味である。

敵がこちらに業を仕懸けてくるにつけても、役に立たない事は敵に任せて、役に立ちそうな事はこちらがおさえて、敵にさせないようにするところ、これが兵法の専〔第一に重要なこと〕である。

これも、敵のすることを、おさえよう、おさえようとするのは、後手〔ごて〕である。まず、何ごとであれ、自分は道に任せて業をするうちに、敵も業をしようと思う、その頭をおさえて、何ごとも役に立たせず、敵をこなす*〔自由に扱う〕ところ、これが兵法の達者であり、鍛練の成果である。

(この)枕をおさえること、よくよく吟味あるべきである。

 

 

【註解】

 (1)かしらをあげさせず

この「枕をおさえる」というテーゼは、有名な教えの一つである。機先を制するという一般的な作戦の、武蔵流の要諦を述べたものである。

前条「三つの先」では「先」〔せん〕をとることが語られた。ここはそれと連続する教えである。

戦闘において、人はだれでも「敵を廻す」立場を押さえたいものである。相手にわが身を廻されて、後手につきたくない。そうはしたいのだが、しかし、相手のすることに対応することなしには、それができない。敵の打つところを止め、突くところをおさえ…というように、戦闘では、敵の攻撃を受けて、それに対応するかたちになるわけである。これを我々は、戦闘の相対性、対称性と呼ぶ。

これに対し、武蔵の「枕をおさえる」というのは、そんな相対〔あいたい〕の対称性を破断する先制攻撃の方法である。ただし、機先を制するというふつうの教えとは、少し違っている。

何ごとであれ敵が思う兆候を示さぬ内に、こちらはそれを察知して、敵の「打つ」というその「う」の字の頭をおさえて、その後の何もさせないこと。――これが「枕をおさえる」という意味である。

このあたり、まさに徴候分析(symptomatic analysis)というべきものであり、武蔵流行動心理学の面目とされるところであるが、それはいかがなものか。

敵が攻撃行動に移るその瞬間を捉えて攻撃するというのは、よくある話である。行動と行動の間だけではなく、意図(intention)と行動(action)の間には必ず隙間がある。その瞬間が攻撃のチャンスである。

しかし、武蔵が「枕をおさえる」というのは、もう少し話が具体的であるし、またニュアンスもちがう。ここでは、意図と行動の隙間という話ではなく、むしろ「打つ」という意図の起動する頭をおさえるという話なのである。

言い換えれば、敵の「行動」の頭をおさえるのではなく、その「意図」の頭をおさえてしまうのである。それが――とりわけ有名な――《敵の打と云、うの字のかしらをおさへて》という一節である。

それゆえ、「枕をおさえる」とは、起動の抑止(deterrence)あるいは押収(seizure)のことだが、太刀の「手」をあげさせないのではなく、意図という「頭」をあげさせないわけで、比喩として「枕」という武蔵の措辞は、よくよく適切なものだと言うべきであろう。

――――――――――――


ここで、やはり語釈の問題につき、言うべき事どもが少なからずある。すなわち、「枕をおさえる」という、ことのほか重要なこの箇処を、まともに読めたものがなかった。それゆえ問題を明確にしておく必要がある。

そのひとつは、
《敵も左様に思ひ、われも其心あれども、人のする事をうけがはずしてハ叶がたし》
とある箇処である。一般に流布した五輪書本の底本である細川家本でも、ここは同じく、《人のする事をうけがわずしてハ叶がたし》であるが、これにつき、岩波版注記は、「相手の出方を察知することができなくては」という解釈を示している。だが、むろん「うけがふ」という語には「察知する」などという意味はない。「うけがふ」はもともと「肯う」であって、物事を受けとめることである。だから「察知する」というこの語釈は誤りである。

後文に《敵何事にても思ふ氣ざしを、敵のせぬうちに見しりて》とある。むしろ、この「見知る」が察知することである。

どうやらこの解釈は、戦前の石田訳の「見抜く」という語訳にアイディアを得たものらしい。これは、「うけがふ」を「うかがふ」と曲げて解したもののようだが、岩波版注記は、それを曖昧なかたちで、語釈を提示したものである。けれども、この「うけがふ」を「うかがふ」と変更する理由はない。

既成現代語訳をみるに、この岩波版注記以前の神子訳は、「うけがふ」を「承知する」と直訳して、ややマシかというところだが、やはりこの語訳でも誤りであることには変りはない。この点は、神子訳を踏襲した大河内訳も同じである。

しかし、それよりも、この神子訳において、大きな過誤が認められることが問題である。それは右掲訳文のごとく、敵が打とうとするのを止め、突こうとするのをおさえ…などすることが「枕をおさえる」だとしていることである。「枕をおさえる」という話が、すっかり混乱してしまっているのである。これでは、武蔵が何を述べているのか、さっぱりわからなくなるであろう。

どうしてそんな大きな間違いが生じることになったか、それはだいたい推測がつく。実はこの部分、次に続く《枕を押ると云は、我実の道を得て…》以下の一文と、対照的に配置されていることが読めなかったせいである。

武蔵のえ教えるところは、機先を制することであり、これに対し前文は「人のすることをうけがはずしては叶がたし」、つまり敵の打つところを止め、突くところをおさえ…というように、相手の攻撃を受け止めるのに終始するという境位を指している。

このコントラストが見えないから(事実、神子の訳文はここで改行していない)、前後をベタに読んでしまって、そこから前文も同趣旨の記述と錯覚し、「枕をおさえる」とは、敵が打とうとするのを止め、突こうとするのをおさえ…などすることだ、と誤解してしまったのである。とくに、「組もうとするのをもぎはなしなどすることを、枕をおさえるという」とするに至っては、ほとんど爆笑物である。

この神子訳を引き継いだ大河内訳は、原文から逸脱して勝手な文章を作文している。これは神子訳を「底本」にして、それを書き換えたものである。いわば恐るべき重訳であるが、これでは「訳文」とは云えない。

こういう神子訳の明白な誤りとは別に、「うけがふ」という語を「察知する」と曲解するのも、そう大して違いはないのである。というのも、やはり同じく前後のコントラストが見えないから、そういう誤訳になったものである。鎌田訳はこのあたりを看過している。直訳しただけのかたちで、先行者の訳文の混乱にさえ気づいていない。

いづれにしても、このあたりは五輪書のなかでも重要な箇処であるから、現代語訳には正確を期したいのだが、従来こんな訳文しか存在しなかったのである。瑕疵の大小はあれ、訂正を要するであろう。


――――――――――――


なお、ここで諸本校異につき、指摘しておくべき点がある。そのひとつは、筑前系諸本に、
《敵の打と云、うの字のかしらをおさへて、跡をさせざる心》
とあるところ、肥後系諸本の中には、これを、
《敵のうつといふ、うつのうの字のかしらをおさへて》
として、「うつの」という字句を入れるものがある。

従来の肥後系(とくに細川家本)中心主義的な見方からすれば、筑前系諸本にはここに「うつの」という文字の脱落があったということになるが、すでに各所で述べたように、肥後系諸本は門外流出後の写本の子孫なので、それを基準とするわけにはいかないのである。

筑前系諸本に共通して同じ表記があるということは、それが筑前系初期からあったということを示す。言い換えれば、柴任美矩が寺尾孫之丞から相伝した五輪書に、そのように記されていた可能性が高い。筑前系現存写本のこの文言は、寺尾孫之丞前期の相伝写本の表記を伝えているのである。

この条文の他の文例もあわせ見れば、以下のごとくであろう。

  敵のうつと云、うの字のかしらをおさへて、

  敵のかゝると云、かの字(のかしら)をおさへ、

  飛ぶと云、との字のかしらをおさへ、

  きると云、きの字のかしらを押る

こうした文字列からすると、たとえば、「飛ぶと云、とぶのとの字のかしらをおさへ」という文言はないし、「きるという、きるのきの字をかしらをおさえる」、というような文言ではない。ようするに、《敵のうつといふ、うつのうの字のかしらをおさへて》の「うつの」という字句は、武蔵のオリジナルの段階からなかったのである。

かくして、肥後系諸本にあるところの「うつの」「打の」という字句は、誤記と見なしうる。しかも、肥後系早期派生系統の子孫たる円明流系の狩野文庫本や多田家本には、《敵の打と云、うの字の頭をおさへて》とあって、「うつの」「打の」という字句はない。これは筑前系と同様である。言い換えれば、筑前系/肥後系を横断して共通するのは、「うつの」「打の」という字句がない文言であり、それが古型である。

以上のことからすれば、肥後系でも早期のある段階までは、「うつの」「打の」という文字はなかったのである。肥後系現存諸本にあるところの「うつの」「打の」という文字は、早期写本のある段階で発生した誤記である。爾後の諸写本はこの先祖の誤記を継承したものである。

また、もう一つ、校異の問題があるとすれば、それは以下の箇処であろう。すなわち、筑前系/肥後系を横断して共通するところ、つまり、
《たとへバ、敵のかゝると云、かの字をおさへ》
とあるところ、これを見るに、「かの字の」という箇処に、脱字がありそうである。つまり、以下の同様文に、
《とぶと云、との字のかしらをおさへ、きると云、きの字のかしらをおさゆる》
とあるのだから、ここに《かの字をおさへ》とあるのは、《かの字のかしらをおさへ》とすべきところであり、「のかしら」という字句の脱落があるとみなすべきである。

しかるに、これが筑前系/肥後系諸本を通じて、この脱字を示すということは、これが寺尾孫之丞段階に遡及しうる異変だということである。つまり、これが古型だとみなしうる。

他方、肥後系では一部に、この脱字を回復したものもある。一つは、丸岡家本・田村家本の系統であり、そこには、《カノ字の頭を押へ》と記す。またもう一つは、円明流系統の狩野文庫本・多田家本で、そこには同じく《かの字の頭をおさへ》として、「の頭」という字句を入れている。

このことから、肥後系諸本の中には、脱字のない写本が存在することが知れるが、ただし、これが肥後系早期から存在したとは考えられない。というのも、筑前系諸本には、これに該当するものがないからである。

ようするに、肥後系に見られるこの措置は、後世の校訂によって生じたものである。書写者がここに脱字があると考えて「修復」したものである。その限りにおいて、今日の我々の立場と大差ない写本である。

この脱字は、上述のように、寺尾孫之丞の段階に遡及しうるものである。武蔵草稿を寺尾孫之丞が書写し編集する段階で発生した脱字である。そのために、孫之丞前期後期を通じて、ここに脱字のある五輪書が発給されたというわけである。

以上のことからする帰結として、我々の五輪書テクストでは、ここに脱字があるとみなし、「のかしら」という四文字を( )に入れて、その脱字への注意を喚起しておいたのである。


(2)役にたゝざる事をば敵に任せ

ここで最初に語釈の点を一つ言えば、《敵をこなす》の「こなす」という語である。

これは要するに、「敵を廻す」と語義がほぼ近い類語である。自分の思うように敵を引き廻し処理することである。現代語でも「難題をこなす」「仕事をこなす」という形で、やや近い用法が存在する。我々の訳文では、この「こなす」という語のニュアンスを保存するために、とくに別語で置換せず、そのままにしておいた。

さてこの節は、「枕をおさえる」という教えだが、武蔵はここで重要な教訓を補足しなければならない。

枕をおさえるとはいえ、敵のしようとすることをおさえよう、抑止しようとすると、後手になる。意図すること自体が、すでに遅いのである。だから、
《先、我は何事にても、道にまかせてわざをなすうちに、敵もわざをせんと思ふかしらをおさへて、何事も役にたゝせず、敵をこなす所》
と云うのだが、これがむずかしい。道にまかせて業を為すうちに、自然と枕をおさえることができるようになるには、鍛錬あるのみである。――これは、初心者への教訓として、平凡だが、至極真っ当な話である。初心者はどこに目標とモデルをおくか、その高みと深みを望見できるのである。

このように語る五輪書に対し、肥後兵法書の方は、祖述しながら説明が要約的である。両者の違いは、むろん、前者が初心者を含めた読者を対象にした普遍的な教本たらんとしたのに対し、後者は一流の内輪での文書であることによる。肥後兵法書は、五輪書のスタンスまでは継承していない。いわば、別のスタンスで書かれた文書なのである。

ところで、武蔵の教えにあるように、ようするに、枕をおさえることの実践的効果は、役に立たない事は敵に任せて、役に立ちそうな事はこちらがおさえ、敵に何もさせないようにすることである。この「役に立たないことは、敵にまかせろ」という話は、むろん武蔵のユーモアである。

役に立たないことはしない、という話では、地之巻後書に、「我兵法を学んと思ふ人は、道をおこなふ法有り」として、九ヶ条をあげるなかに、
《第九に、役に立ぬ事をせざる事》
という有名な一文のあったことが想起されるであろう。

ところが、この「役に立ぬ事をせざる事」という武蔵テーゼ、どうやら世間で独り歩きしてしまう傾向があるらしく、とんでもない文脈のなかで説明されることもある。右掲のごとき恐るべき通俗説教はその一例であろう。

しかし武蔵は、役に立たないことはするな、というこの教えを、上のごとく、戦闘において敵の攻撃を無力化するという文脈で用いたのである。いつも武蔵のテーゼは独り歩きしてしまうが、武蔵がどのような文脈でそれを語っているか、それを承知しておかないと、とんでもない「人生論」や「精神論」に化けてしまうのである。

繰り返して言えば、「役に立たぬ事をせざる事」という武蔵テーゼは、戦闘の最中での心得を述べたものであるが、これは、「役に立たぬことは、敵にまかせろ」という指示と一対の教訓なのである。つまり、「役に立たぬことはするな」というのは、「役に立たぬことは、敵にまかせろ」という意味なのである。

 

5 渡〔と〕を越す (渡を越すと云事)

【原文】

 
一 とをこすと云事。
渡をこすと云ハ、縱ば海をわたるに、
せとゝいふ所も有、又は、四十里五十里とも
長き海をこす所を、渡と云。
人間の世をわたるにも、一代のうちにハ、
渡をこすと云所多かるべし。
舩路にして、其との所を知り、
舟の位をしり、日なミを能知りて、
たとひ友舩は出さずとも、
その時のくらゐをうけ、
或はひらきの風にたより、或は追風をもうけ、
若、風かはりても、二里三里は、
ろかひ*をもつて湊に着と心得て、
舩をのりとり、渡を越す所也。
其心を得て、人の世を渡るにも、
一大事にかけて、渡をこすと思ふ心有べし。
兵法、戦のうちに、渡をこす事肝要也。
敵の位をうけ、我身の達者をおぼへ、
其理をもつてとをこす事、
よき船頭の海路を越すと同じ。
渡を越てハ、又心安き所也。
渡を越といふ事、敵によはミをつけ、
我身先になりて、大かたはや勝所也。
大小の兵法のうへにも、とをこすと云心、肝要也。
能々吟味有べし。(1)

 

 

【現代語訳】

 

一 渡を越すという事

渡*〔と〕を越すというのは、たとえば、海を渡るに「せと」〔狭渡〕という(狭い)所もあり、または、四十里五十里という長い海を越す所を渡〔と〕という。人が世間を渡るにも、一生のうちには、渡を越すという場面が多いであろう。

船路にあっては、その渡の場所を知り、あるいは船の位〔性能〕を知り、日並〔天候〕をよく知って、たとえ連れの舟は出さなくとも、その時々の状況に応じて、あるいは開きの風〔横風〕に頼り、あるいは追風をも受け、もし風が変っても、二里三里(の距離)は、櫓や櫂を使ってでも港に着けると心得て、船を操り、渡を越すのである。

そのように心得て、人の世を渡るにも、(ここぞという)大事な場面では、渡を越すと思う心があるであろう。

兵法(においても)、戦いの最中に、渡を越すということが肝要である。敵の位に応じ、我身の達者〔技能〕を自覚し、その理〔理性〕によって渡を越すこと、これは優れた船頭が海路を越すのと同じこと。渡を越せば、再び安心できるのである。

渡を越すということは、敵には弱みを着けさせ、我が身は先〔せん〕になって、すでにほぼ勝ちおさめるというところである。

大小の兵法*の上でも、渡を越すという心持が肝要である。よくよく吟味あるべし。

 

 

【註解】

 

 (1)渡を越す

戦いというものは、起伏なく単調に推移するわけではない。戦いのなかで、ここぞ、という重大な局面がある。そこを乗り切ることを、「渡〔と〕を越す」という言葉で譬喩している。

ここは読むのに、さして問題があろうとは思わないが、ただタイトルの「渡を越す」について説明が要るかもしれない。

「渡」はふつうは「渡し」「渡り」であって、「と」とは読まない。これが当時の海事用語であったか、どうか。それは確認できない。

我々の所見では、この「渡」は宛字で、本来はたとえば「瀬戸際」の「と」の意味であろう。ようするに、「と」は境目の部分を指し、そこから生死の分れ目、運命が決まる重大な分岐点のことである。したがって、この「と」を「渡」とするのは、渡海の意味からの変色であって、必ずしも適切な当て字ではない。むしろ「と」と仮名で書いた方がよかろう。

かくして、「渡を越す」は、運命の分れ目、そのような重大なポイントを乗り切るということである。

これを武蔵は渡海の比喩で語っているわけだ。海を渡る船路がある。狭い海峡もあれば、四十里(160km)も五十里(200km)もある海路もある。そのなかでも、「渡を越す」というポイントがある。そこを巧みに切り抜ける智慧を、船頭たちはもっている。

おそらく武蔵の念頭にあったのは、子供の頃から見慣れた瀬戸内の多島の海であろう。そこには潮流の変化する複雑な急所が無数にあり、海難事故は昔から跡を絶たない。これを乗り切れるのは、その「と」のポイントを熟知している優れた船頭のみである。

そうした優れた船頭が海路を乗り切るのと同じことで、兵法においても、戦いの最中に、渡を越すということが肝要だ、というのがこの「渡を越す」の教訓である。

しかしながら、五輪書のここでの教訓は、一般的な心得にとどまり、戦闘術としては具体的な記述がない。あるとすれば、《渡を越といふ事、敵によはみをつけ、我身先になりて、大かたはや勝所也》という記事だけであって、前条「枕をおさえる」の連続であるかのような書きぶりである。つまり、役にたたぬことは敵にまかせろ、というレベルの話である。

おそらく、武蔵はここにもう少し書き足すつもりだったかもしれない。前後の条々と比較すればわかることだが、ここにかぎって戦法の記述がないからである。

これに対し、右掲肥後兵法書を見れば、別の記述がある。つまり、敵我接近して、我が方が太刀を打ちかかったとき、敵に「と」の内を越されそうになったら、思い切って入身をして、身も足も一緒に敵の身際へ密着させろ、――というのが、「渡を越す」の具体的な教えである。

この《「と」の内こされん》は、敵が主体である。敵が「と」のうちを出る、つまり我は「と」を越されてしまいそうになっている、というシリアスな不利な状況である。「と」はまさに勝敗の分れ目、そこで、思い切って入身をして、この状況を突破しろ、というのが、肥後兵法書の教説である。

これを見れば、五輪書に本来「とを越す」とあったものが、「との内を越す」へ変形しているようである。それにしたがって、《敵によはみをつけ、我身先になりて》という五輪書の趣旨が消滅して、敵に「と」の内を越されそうになったら、思い切って入身をして、身も足も一緒に敵の身際へ密着させろ、という新義に変質しているのである。

こういう教義変異が生じるというのも、そもそも五輪書に、具体的な戦法の教えが書かれていなかったからである。いわば教義の空白を埋めるかたちで、肥後兵法書の記述が発生したのである。

ところで、「渡を越す」というここでの武蔵の譬喩は、船頭をもって兵法の喩とするものである。
《敵の位をうけ、我身の達者をおぼへ、其理を以てとをこす事、よき船頭の海路を越と同じ》

これは、前例では、地之巻に、大工をもって兵法の道を述べるところがあった。大工にしろ、船頭にしろ、それを武士の職能としての武芸の譬喩にしてしまうところが、いかにも武蔵流である。

あるいはまた、ひとの人生にも、その船頭の「渡を越す」にかけて、
《人間の世をわたるにも、一代のうちには、渡をこすと云所多かるべし》
《其心を得て、人の世を渡るにも、一大事にかけて、渡をこすと思ふこゝろ有べし》
と、述べたりする。武蔵が語りかけているのは、主として若年初心の武士の子弟たちなのだが、武士にも、その渡世には波乱や一大事があって、波風が立つ時代であった。ある意味では、武蔵はここで、武士たちの切実な機微にふれて、人生の教師の振舞いをみせている。

ただし、別の箇所でも云うところだが、武蔵は、兵法に譬えて人生を語ったのではない。逆である。人生に譬えて兵法を語ったのである。それゆえ、武蔵の兵法論をもって人生論を語る、今日の杜撰な通俗武蔵本とは逆の方向が、武蔵の兵法論である。このことの意味については、よくよく吟味あるべし。

なお、語釈の点では、《大小の兵法のうへにも、とをこすといふ心、肝要也》の「大小の兵法」がある。これは、合戦のような大人数の戦闘、合戦ほどではないが小人数の集団戦、という意味である。

ただしこれは、既出の「大分一分の兵法」と同じく、武蔵の兵法用語である。異国語ならいざしらず、日本語で五輪書を読みたしと思うほどの者なら、武蔵のスペシフィックな兵法語彙を修学すべきである。したがって、我々の訳では、これを別語に置き換えず、そのままにして記している。

――――――――――――


諸本校異の問題について言えば、ここは指摘すべき箇処がいくつかあるであろう。それが複数集中しているから、以下にそれをまとめて示しておく。

 

*【吉田家本】
《渡をこすと云ハ、たとヘバ、海をわたるに、瀬とと云所も有、又ハ、四十里五十里とも長き海をこす所を、渡と云。人間の世をわたるにも、一代のうちにハ、渡をこすと云所、多かるべし。舟路にしても、其との所を知り、舟の位を知り、日なミを能知りて、たとひ友舩ハ出さずとも、其ときのくらゐをうけ、或ハひらきの風にたより、或ハおひ風をもうけ、若、風かはりても、二里三里ハ、ろかひをもつて湊に着と心得て》

*【楠家本】
《渡を越と云ハ、縦バ、海をわたるニ、瀬【★】といふ所も有、又ハ、四十里五十里とも長き海を越所を、渡といふ。人間の世をわたるにも、一代の内にハ、とをこすといふ所、多かるべし。舟路にして、其との所をしり、舟のくらゐをしり、日なミをよくしりて、【★】友船ハ出さずとも、其時のくらゐをうけ、或ハひらきの風にたより、或ハ追風をもうけ、若、風かはしりても二里三里ハ、ろかずを以て湊につくと心得て》

*【丸岡家本】
《とをこすといふは、たとへば、海を渡るに、瀬とゝいふ處も有、又ハ、四十里五十里とも長き海を越所を、渡といふ也。人間の世を渡るにも、一代の内には、度を越といふ所、多かるべし。舟路ニして、其度の處をしりて、舟のくらゐをしり、日なミを能知て、【★】友舟は出さずとも、其時のくらゐをうけ、或は開きの風にたより、或は追風をも請、若、風変りても、二里三里は、櫓の数を以も湊に着と心得て》

*【赤見家甲本】
《渡をこすといふは、縱バ海をわたるに、せとゝいふ所も有、亦【★】、四十里五十里とも長き海をこす所を、渡と云。人間の世をわたるにも、一代のうちにハ、渡をこすと云所多かるべし。舩路にして、其との所を知り、舟の位をしり、日なミを能知りて、たとひ友舩は出さずとも、その時のくらゐをうけ、或はひらきの風にたより、或は追風をもうけ、若、風かはりても、二里三里は、ろかいを以て湊に着と心得て》

*【細川家本】
《渡を越と云は、縦ば、海を渡るに、瀬戸と云所もあり、亦は、四十里五十里とも長き海を越所を、渡と云也。人間の世を渡るにも、一代の内には、とをこすと云所、多かるべし。舟路にして、其との所を知り、舟の位を知、日なミを能知りて、【★】友舟は出さず共、其時の位を受、或、ひらきの風にたより、或、追風をも受、若、かぜ替りても、二里三里ハ、ろかずをもつても湊に着と心得て》

*【富永家本】
《渡を越と云ハ、縦バ、海を渡るに、瀬【★】と云所もあり、またハ、四十里五十里とも長き海を越所を、渡と云なり。人間【★】世を渡るにも、一代の内ニハ、渡を越と云處、多かるべし。舟路にして、其渡の所を知り、舟の位を知り、日なミをよくしりて、【★】友船ハ出さずとも、其時の位を請、【★★脱字★★】、若、風替りても二里三里ハ、ろかひを以て湊に付と心得て》


まず、偶発的な脱字衍字があって誤記とみなすべきものから片付けると、次のようなことであろう。

筑前系諸本のうち、越後系の赤見家甲本以下諸本に、《亦、四十里五十里とも》とするところは、「亦ハ」とすべきもので、「ハ」字の脱字であろう。また筑前系吉田家本に、《舟路にしても、其との所を知り》とあるところ、この「も」字は錯入文字である。同じ早川系の中山文庫本や鈴木家本は、ここを《舟路にして》と正しく記している。

あるいは、肥後系楠家本で、《海をわたるニ、「瀬」といふ所も有》とするところ、この「瀬」は「瀬と」であり、「と」字の脱落があろう。これは富永家本も同前である。また、楠家本に《若、風かはしりても》とするところ、この「風かはしり」は、「風かはり」が正しく、「し」字が衍字である。他にもあるが、指摘はこれにとどめておく。

それよりも問題は、筑前系/肥後系を区別する指標的相異である。すなわち、一つは、筑前系諸本に、
《四十里五十里とも長き海をこす所を、渡と云》
とあって、《渡と云》するところ、肥後系諸本には、これを《渡と云なり》として、「なり」を付す。ただし、例外は楠家本で、これは《渡といふ》とする。

また次に、筑前系諸本に、
《日なミを能知りて、たとひ友舩ハ出さずとも》
とあって、「たとひ」という字句を入れるところ、肥後系諸本には、この字句を欠く。

まずこの二ヶ所について云えば、筑前系/肥後系において、一方はあり、他方はない、という脱字/衍字の凹凸の持ち合いである。しかるに、筑前系諸本においては、これが立花=越後系の諸本も含めて共通することから、筑前系初期にすでにこれがあり、そして、寺尾孫之丞前期にまで遡りうる字句である可能性が高い。

他方、肥後系も、早期派生系統の子孫たる富永家本や円明流系統諸本も同じであるから、肥後系早期にこの脱字/衍字があったものみなしうる。しかし、これは寺尾孫之丞段階まで遡りうるものではない。他の諸事例と同じく、門外流出後、早期に発生した写本に由来するものであろう。

したがって、上記前者の校異において、肥後系のうち楠家本が例外的に、《渡といふ》として筑前系と同じ様態を示すが、これは楠家本が古型を示すということではない。これは、衍字のさらなる脱字である。つまり、肥後系は早期に《渡と云なり》として「なり」を付す誤記を有していたが、楠家本系統はそれを脱字せしめた。それゆえ、見かけは筑前系と同じものになったにすぎない。

この「渡を越す」の条文については、肥後系諸本の特徴として、この他にも、《兵法、戦の内にも、とをこす事肝要也》、《敵によはミをつけ、わが身も先になりて、大かたはや勝所也》と、「も」字を付する傾向がある。全体に写し崩れが諸所にある。

とりわけ、次の箇処にその特徴が示されているであろう。すなわち、筑前系諸本に、
《二里三里ハ、ろかひをもつて湊に着と心得て》
とあるところ、この「ろかひ」の部分について、肥後系写本の多くは、これを「ろかす」と記している。

例外は富永家本と山岡鉄舟本である。これらは筑前系諸本と同じく、「ろかひ」「櫓カイ」と記す。富永家本は早期派生系統の子孫であるから、おそらく肥後系初期の写本は、「ろかす」ではなくこの「ろかひ」を書いたものであったと思われる。それに対して、後のある段階で、誤写が生じて、「ろかす」と記す写本が増殖して行ったのである。

これは、「ろかず」(艪数)と解釈したものだが、「ろかひ」の「ひ」(比)字を、字形類似の「す」(須)字と読み違えたもので、もとより誤写である。これは、筑前系諸本にはない語句なので、肥後で伝写される過程で発生した誤記である。

このように「ろかず」という誤記が生じて、肥後系では、細川家本のように、この「す」(須)字を、「す」(寸)字に書き換える例が出るし、さらには、丸岡家本のように、むりやり、「艪の数」としてしまうような変形が続いた。丸岡家本は、こうした誤記を有する点でも、後発写本なのである。しかるに丸岡家本と同系統の山岡鉄舟本は、「櫓カイ」と記す。これは、この系統の早期にも「ろかひ」と記していたことの痕跡を示す。

また、この箇所では、細川家本は、《ろかずをもつても》と「も」字を入れている。丸岡家本も《櫓の数を以も》と「も」字を入れる。これは、筑前系諸本はむろんのこと、肥後系の他の系統の諸本にもない文字で、これも衍字誤記である。

しかるに、従来校訂者に、《ろかず》の問題点を指摘した者がいない。諸本照合を怠るという傾向、とりわけ細川家本中心主義という悪弊の結果がそこにも現われている。他にも誤写はいろいろあるが、同様に見過ごされている。それが五輪書校訂の現状である。

それゆえまた、既成現代語訳は、この箇処において、艪のほかに櫂の文字があるとは思ってみない。そのため、「ろかず」という不可思議な語を何とかやり過ごすに終始している。

戦前の石田訳は、「ろかず」という語句に疑問をもったのか、異本を見た上で、「艪櫂をこいで」と訳した。これが我々以前では最も正しい訳である。ただし石田は、原文には「ろかず」と記した。筑前系諸本を知らなかったからである。

戦後になると、「ろかず」という語への疑念を無視するようになった。神子訳は、「ろかず」の「かず」を抹殺して、「櫓をうごかして」と訳した。これが皮切りで、岩波版注記も、「風に頼らず、艪を漕いででも」と記している。

その後の大河内訳は、神子訳と岩波版注記を頂戴したが、さすがに「風に頼らず」という語句は原文にないので入れなかった。しかし、鎌田訳は、例によって岩波版注記そのままで、念の入ったことに「風に頼らず」という解説語句まで入れ込んでしまっている。

こうして見ると、戦前の石田訳に及ぶ訳文は戦後には出なかった。それどころか、明らかに語訳は退行したのである。そして近年は、そんな退化した現代語訳しか流布していない、という始末なのである。

ようするに、これら既成現代語訳は底本たる細川家本の「ろかず」という字句を抹殺するばかりである。まことに原文に忠実ではないというスタンスでは共通している。しかしながら、もともと、「ろかず」という語句には、誤写によって生れたという因縁がある。とすれば、現代語訳によって無視されるというのも、ある意味では因果応報なのである。

 

 

6 景気を知る (景氣を知ると云事)

【原文】

 
一 けいきを知と云事。
景氣をみると云ハ、大分の兵法にしてハ、
敵のさかへ、おとろへを知り、
相手の人数の心を知り、其場の位をうけ、
敵のけいきを能見分、我人数何としかけ、
此兵法の理にてたしかに勝と云ところを
のミ込て、先の位をしつて戦所也。
又、一分の兵法も、敵のながれをわきまへ、
相手の強弱、人がらを見分け、
敵の氣色にちがふ事をしかけ、
敵のめりかりを知り、其間の拍子をよく知て、
先をしかくる所、肝要也。
物毎のけいきといふ事ハ、
我智力強けれバ、かならずミゆる所也。
兵法自由の身になりてハ、
敵の心を能斗て勝道多かるべき事也。
工夫有べし。(1)

 

 

【現代語訳】

 

一 景気を知るという事

景気*〔勢い〕を見るというのは、大分の兵法〔合戦など集団戦〕においては、敵の勢いの隆盛衰退を知り、相手の軍勢の企図を察知し、その場の位〔態勢〕に応じ、敵の景気をとく見分け、我が方の軍勢をどう仕懸け、この兵法の理〔利〕で確実に勝つというところを呑み込んで、先〔せん〕の位を知って戦うことである。

また一分の兵法〔一対一の戦闘〕でも、敵がどの流派かをわきまえ、相手の強弱やその性格を見分けて、敵の気色〔けしき〕とは違うことを仕かけ、敵の調子の抑揚高低を知り、その間〔あい〕の拍子を知って、先〔せん〕を仕懸けること、これが肝要である。

どんなものでも、景気ということは、こちらの智力が強ければ、必ず見えるものである。兵法が自由自在の身になると、敵の心をよく計量して勝つという道が多くなるのである。(この点)工夫あるべし。

 

 

【註解】

 

 (1)敵のけいきを能見分

景気の話である。といっても経済の景気(business conditions)のことではない。戦闘における景気の話である。

ここで「景気」とは、勢いというほどの意味である。現代口語でも「景気がよい」は、花火が景気よく上がるとか云うから、これは威勢がいいという意味である。

しかし、もとは眼前の情景を詠み込んだ和歌を「景気の歌」というから、これは現代語でも使う「景色」と同じである。だから景気には観察・観測される状況、という意味があったらしい。

そこで、兵法用語でも「景気を見る」というわけである。ただし何の景気を見るかというと、敵の景気を、である。敵の勢いがどんな様子か、認識するのである。

同じように、文中、《敵の氣色にちがふ事をしかけ》とある「気色」は「けしき」で、もとは「景色」と同じである。ここは、敵の景気の様子ということで、文は、そんな敵の気色に反することを仕懸て、拍子を外すことである。

もう一つ語釈上のことで言えば、ここで「めりかり」という現代語では聞き慣れない言葉が出てくるのだが、これは音曲などでいう「めりかり〔乙・甲、減・上〕」、つまり、調子の抑揚である。仕舞などやる武蔵だから、ここで音楽用語を用いたのかもしれない。

現代語でも「めりはり」という近い言葉がある。こちらは、凹凸の輪郭のことである。「めり込む」とか「かり立てる」とかいうし、ペニス亀頭部の張り出しを「かり」というなど、その痕跡は随所にある。

これに対し「めりかり」の「めり」は抑制、「かり」は高揚。かくして、ここでの「めりかり」という語の意味は、高低、強弱、浮沈という調子の抑揚のこと、景気の変動のことである。

戦いにおいては、景気観測者として相手の勢いの「めりかり」を見分けることが大事である――と、これはいわゆる「大分の兵法」、合戦の場合にしばしば云う一般的教訓である。実はこれは、それほど大した話ではない。

しかし五輪書のトポロジーは、そこから、「一分の兵法」、個人戦でも話は同じだとする。つまり、ここでは集団戦をモデルにして個人戦の教訓ともするわけだ。こうしたアナロジーには、むろん注意が必要である。

すなわち、個人であってもその主体は、意図/行動の単純なユニットではない。むしろ、多様な諸要素の組合せであり、集合体である。それゆえにその諸要素間の統合状況には景気の変動がある。言うならば、個体レベルでの景気変動論である。

集団戦の軍勢と個人戦の個人とのこのアナロジーは強力で、いわば一対一の戦いでも、個人はある種の戦闘機械として諸要素の集合的存在なのである。その諸要素の集合体だから、勢い(景気)の強弱浮沈、抑揚高低がある。

一分の兵法について武蔵が云うのは、
《又、一分の兵法も、敵のながれをわきまへ、相手の強弱、人がらを見分け、敵の氣色にちがふ事をしかけ、敵のめりかりを知り、其間の拍子をよく知て、先をしかくる所、肝要也》
ということ。「流れ」とは流派のこと、その相手の流れ(流派)をわきまえる、つまり敵の流儀、戦い方をあらかじめ知っておくこと、また相手の強い弱い、人がら(性格)を見分けること、――これは「敵を知る」という一般的教訓にすぎない。

ところが、そういう分析的な認識を前提にして、こちらがアクションを起すだけではない。相手の気色(景気)に背反することを仕かけて、その抑揚変動するところ〔めりかり〕を見てとり、「間の拍子」をよく知って、先〔せん〕を仕懸けるのである。

ここで誤解なきよう、若干説明を要すると思われるのは、「敵を知る」という一般的な教訓と、この「景気を知る」との違いである。これは根本的に異なる。

すなわち、右の肥後兵法書の教えにあるごとく、物事の尺度たる「いとかね〔糸矩〕」というのは常々の儀だが、「景気を知る」は即座のことだという。もとよりこれは、後に生じた教義の分節化(articulation)であるが、興味深い理説である。

これを敷衍して言えば、「敵を知る」ことは基本的な静態的認識だが、「景気を知る」のは戦闘中の動態的認識である。つまり、「敵を知る」の認識基準は動かない静止系だが、「景気を知る」のは基準そのものが動く運動系である。

したがって武蔵の論は、「敵を知る」という静止系の本質認識であるところの一般的教訓の境位に留まらず、さらに、「景気を知る」という、戦闘中の即座の認識、まさに運動系としての動態的認識を要求している。ようするに、前者は本質の認識、同一性(identity)の認識だが、これに対し後者は作用の認識、差異(difference)の認識である。

これを禅家流に言えば、不動智には二つあり、前者は動中の静としての不動だが、後者は動中の動としての不動である。しかし武蔵は、その不動智のレベルにはとどまらない。ほんとうは不動智など床屋談義にすぎぬ評論の談である。これに対し武蔵は具体的な日常語をあえて対置させる。すなわち、「景気」という言葉で語って、禅味を漂白脱臭している。

要点は、《物毎のけいきといふ事は、我智力強ければ、かならずみゆる所也》という兵法の智力である。智力ということは、すでに何度が登場している。では、その智力において何をどう把握するのかと言えば、この「景気を知る」ことがその一つなのである。これはまさに戦闘中の即座の認識であり、不動智ではなく運動智なのである。

そして――重要なのは――景気の変り目のその「間の拍子」を知ることである。この「間の拍子」も前に出た話である。

つまり、たんに景気の変動を知ることを言っているのではなく、まさにその変動の変り目が攻撃チャンスだ、ということである。これは他の諸条においても反復された教えである。言わば武蔵流戦闘術の共通事項である。

かくして、景気を知るというこの教えは、結局は「先〔せん〕を仕懸ける」ことである。言い換えれば、「三つの先」「枕をおさえる」そして「渡をこす」という先行諸条の連続であり、「先」をとるという主題のシリーズなのである。

――――――――――――


ここで、諸本校異の点について言えば、筑前系と肥後系の写本に相違のあるところ、すなわち、筑前系諸本に、
《敵のけいき(景氣)を能見分》
と記すのに対し、肥後系では、《敵のけいきを能見うけ》として、「見わけ」を「見うけ」としている。これは一字の相異だが、それよりもむしろ、他に語句の相異もある。つまり、筑前系諸本では、
《敵のながれをわきまへ、相手の強弱、人がらを見分、敵の氣色にちがふ事をしかけ》
と記すのに対し、肥後系では、《人がらを見うけ、人のつよきよハき所を見つけ》としている。この箇処もまた、筑前系/肥後系を截然と区別する指標である。

この相違箇処については、我々は筑前系諸本の書記を採った。それは、早川系諸本(吉田家本・中山文庫本・鈴木家本)と、赤見家甲本をはじめとする立花系=越後系諸本が同一であるから、この文言の初期性を認めてのゆえである。

ただし、これはかなり大きな相異である。したがって、寺尾孫之丞にまで遡及しうる相異かもしれないという可能性がある。つまり、寺尾は前期には、筑前系諸本にある文言を記していたが、後期には、肥後系諸本にみられるような文言を書いていた、という可能性である。

ここでは、肥後系諸本の文言は、寺尾孫之丞後期のものとみなし、我々のテクストでは、これを採らず、寺尾孫之丞前期を示す、筑前系諸本の文言に依ることにしたのである。

しかし、これがかなり大きな相異であることの反面は、相異が大きすぎるということである。それゆえ、もう一つの可能性は、肥後系早期に、書き換えが発生したのではないか、ということである。ここでは、その可能性があることを示唆するにとどめておく。
――――――――――――

ところで、既成現代語訳は、細川家本しか知らぬので、この箇処はいわずもがなである。あげつらうまでもない。ただし、他に誤訳のあるところは指摘しておかねばならぬ。

それは細川本なら《敵の氣色にちがふ事をしかけ》とあるところ、ようするに上記のように、「敵の気色(景気)に背反することを仕かけて」とある箇処である。

まず、戦前の石田訳がこれを「敵の意外な事」と誤訳した。これでは、景気・気色の話がどこかに飛んでしまっている。戦後の神子訳は、石田訳の路線で、「気色」を「思惑」と誤訳している。むろん、景気について述べるところであるから、この「気色」は「景気」と同義語である。「気色」とは、こちらが観測した相手の勢い抑揚高低の様子である。その「気色」と違ったことを仕かけて乱調させる、というのが話の趣旨である。しかるに、神子訳のこの類いの誤訳が、以後の語訳で模倣されるのである。

岩波版注記は、ここを「敵の意表をつき、全く拍子の違ったことを仕掛けること」と注釈して、まさに脱線路線を延長した。大河内訳は、神子訳の「思惑」をそのまま頂戴している。しかるに、鎌田訳は、例によって、岩波版注記の単なる転記である。「敵の意表をつき、まったく拍子のちがうように仕掛け」とするのだが、これでは、《敵の氣色にちがふ事をしかけ》の訳ではなく、別の文章の訳としかみえない。かくして、誤訳は反復模倣されるのである。

 

 

 

7 けんを踏む (けんをふむと云事)

【原文】

 一 けんをふむと云事。
劔を踏と云心ハ、兵法に専用る儀也。
先、大なる兵法にしてハ、
弓鉄炮におゐても、敵、我方へうちかけ、
何事にてもしかくる時、
敵の弓鉄炮にてもはなしかけて、
其跡にかゝるによつて、又矢をつがひ、
鉄炮にくすりをこみ合するによつて、
又新しくなつて追込がたし*。
弓鉄炮にても、
敵のはなつ内に、はやかゝる心也。
はやくかゝれバ、矢もつがひがたし、
鉄炮もうち得ざる心也。
物ごとに敵のしかくると、
其まゝ其理をうけて、
敵のする事を踏付てかつこゝろ也。(1)
又、一分の兵法も、
敵の打出す太刀の跡へうてバ、
とたん/\となりて、はかゆかざる所也。
敵のうち出す太刀ハ、
足にて踏付る心にして、打出す所を勝、
二度目を敵の打得ざる様にすべし。
踏と云ハ、足には限るべからず。
身にてもふミ、心にても蹈、
勿論太刀にてもふミ付て、
二の目を敵によくさせざる様に心得べし。
是則、物毎の先の心也。
敵と一度にと云て、ゆきあたる心にてハなし。
其まゝ跡に付心也。能々吟味有べし。(2)

 

 

【現代語訳】

 

一 けんを踏むという事

剣(懸*)を踏むという心持ちは、兵法においてもっぱら用いることである。

まず、大きな兵法〔合戦〕では、弓や鉄炮の場合でも、敵がこちらへ撃ちかかり、何ごとでも(攻撃を)仕懸けてくる時、敵が弓や鉄炮でも攻撃したその後に、こちらが攻撃しようとするから、(その間に敵は)また、弓をつがい、鉄炮に弾薬をこめて、新しい攻撃体勢をつくってしまう。そのため、こちらは敵を追い込むことができない。

(したがって)弓や鉄炮の場合でも、敵が発射するその最中に、すでに(攻撃に)かかることである。早めに攻撃すれば、(敵は)矢もつがうことができず、鉄炮も発射できないわけである。

どんなことでも、敵が仕懸けてくると、(敵の仕懸けた)その理〔利〕を、すぐさま(こちらが)活用して、敵のする事を踏みつけて勝つ、ということである。

また、一分の兵法〔個人戦〕でも、敵の打ち出す太刀の後へ打てば、「ト、たん、ト、たん」と(単調に)なって、捗が行かないものである。敵の打ち出す太刀は、足で踏みつける気持で、敵の打ち出すところを打勝ち、敵が二度目を打てないようにすべし。

踏むというのは、足に限ったことではあるまい。身体でも踏み、心でも踏み、もちろん太刀でも踏みつけて、二度と攻撃ができないようにしてやる、そのように心得ること。これがすなわち、どんな場合でも、先〔せん〕の心である。

(これは)敵と同時にといって、(正面から)ぶつかるという意味ではない。すぐさま後につく、という意味である。よくよく吟味あるべし。

 

 

【註解】

 

 (1)敵のする事を踏付てかつこゝろ也

剣を踏むという。これは字義通りの意味では、打ち合いの最中、相手の太刀を踏みつけにすることである。つまり、敵に攻撃させておいて、その攻撃を踏みにじる、蹂躙するというのが「剣を踏む」の意である。本条後出の文例では、

  《敵のうち出す太刀ハ、足にて蹈付る心にして》
とあるところである。

これはおそらく、もとは「懸(けん)を踏む」と言ったものであろう。その「懸」を、同音語「劒」に変換してシフトさせたらしい。「懸を踏む」ではなく「剣を踏む」となると、ある種のジャーゴン(符牒)であるが、語義に隠喩的ふくらみが生じている。いづれにしても、敵の攻撃(懸)を踏みつけにする、蹂躙するということ。かなりパワフルな戦法である。

まずは、《大きなる兵法》、つまり他では「大分の兵法」とも呼ばれる、合戦のような大人数集団戦の場合である。

合戦は最初、敵我の距離が遠く、弓や鉄炮といった飛び道具の応酬で始まる。そのときの心得が「けんを踏む」である。

つまり、敵が弓や鉄炮で攻撃を仕かけてくる、その時、雨あられと矢や弾丸が飛んでくるので、こちらはその攻撃がいったん終るのを待って反撃に出ようとする。そうすると、後手に回ることになる。敵はその間に、弓をつがい鉄炮に弾薬をこめ、新しい攻撃準備をして、攻撃してくるので、我が方は一向に攻め込むことができないであろう。だから、敵が弓や鉄炮を発射している最中にこそ、突進すべきである。早く攻撃すれば、敵は矢も番う暇なく、鉄炮も発射準備する時間がなく、敵は何もできないからである。――すなわち、敵の攻撃の最中こそ、攻撃のチャンス、というのが武蔵の教えである。

敵が攻撃している最中こそ、攻撃の好機というのは、逆説的に聴こえるかもしれないが、実はそうではない。それは、攻撃で防禦が手薄になっているから――ではない。攻撃の最中には、次の攻撃の準備ができないからである。ようするに、ここでの要点は、敵の次の攻撃を封じ、それによって勝機をつかむということである。

具体的な場面としては、敵が弓や鉄炮で攻撃を仕かけてくるのに対し、我が方も弓や鉄炮という同じ武器で反撃するということではない。敵が弓や鉄炮で攻撃する最中に、鑓や太刀で接近戦に突入するのである。遠い間合いから一気に接近するのは、まさに敵が攻撃する最中なのである。

この条の記述を見るかぎり、武蔵は、弓や鉄炮という飛び道具を使った攻撃は、簡単に撃破できるような書きぶりである。その点に留意することだ。すでに見たように、地之巻においてさまざまな武器について寸評を加えているが、飛び道具は合戦のいわば前座であり、真打はその後の槍や刀での戦闘のようである。

したがって、このとき、敵の攻撃に対し「反撃」するという心持ではない。また、敵の攻撃など意に介さず突撃するのが主眼でもなく、むしろ敵の攻撃を利用して、その攻撃を台無しにしてしまうのである。その結果、敵の攻撃そのものを敵の弱みへ転化してしまう。それが「けんを踏む」ということの意味である。

「踏む」という語は多義的であり、武蔵はそれをここで活用している。字義通りでは、足で押さえつける。次に、相手に損害を与えるという意味では、踏み倒すことである。また、踏みつけにする、蹂躙して台無しにしてしまうことである。「けんを踏む」という譬喩は、相手の攻撃を踏みにじって台無しにして勝つということである。
《物ごとに敵のしかくると、其まゝ其理をうけて、敵のする事を踏付てかつこゝろ也》

ようするに、敵がどんなことを仕懸けてこようとも、敵の仕懸けたその利を、すぐさま自分のものにしてしまい、敵のする事を踏みつけて、――つまり、相手のすることを蹂躙し台無しにして――勝つ、ということである。

――――――――――――


なお、ここで諸本校異の問題に立ち入っておく。とくに筑前系/肥後系諸本の間にかなり大きな相違があるので、それについて検討してみたい。

 

*【吉田家本】
《敵の弓鉄炮にてもはなしかけて、其跡にかゝるによつて、又、矢をつがひ、鉄炮にくすりをこミ合するによつて、又新敷なつて、追こミがたし。(中略)物ごとに敵のしかくると、其まゝ其理をうけて、敵のする事を踏付てかつこゝろ也》


*【楠家本】
《敵の弓鉄炮にてもはなしかけて、其あとにかゝるによつて、又、弓をつがい、又、鉄炮にくすりこミて、かゝりこむ時、こミ入がたし。(中略)物毎を敵のしかくると、そのまゝ其理をうけて、敵のする事をふミつけて勝心也》


*【富永家本】
《敵の弓鉄炮にてもはなし懸て、其跡に懸るによつて、又、弓を遣ひ、また、鉄炮に莢込て、懸り込時、込入がたし。(中略)物毎を敵の仕懸ると、其まゝ其理を受て、敵のする事を踏付て勝心なり》


*【赤見家甲本】
《敵の弓鉄炮にてもはなしかけて、其跡にかゝるによつて、亦、矢をつがひ、鉄炮にくすりをこミ合するによつて、又新しくなつて、追込がたし。(中略)物ごとに敵のしかくると、其まゝ其理をうけて、敵のする事を蹈付てかつこゝろ也》


*【細川家本】
《敵の弓鉄炮にてもはなしかけて、其あとにかゝるによつて、又、弓をつがい、亦、鉄炮にくすりこミて、かゝりこむ時、こミ入がたし。(中略)物毎を敵のしかくると、其儘其理を受て、敵のする事を蹈つけて勝心なり》


*【大瀧家本】
《敵の弓鉄炮にても放し懸て、其跡に懸るに依て、又、矢をつがひ、又、鉄炮に莢をこみて、懸り込時、又新しくなりて、込入難し。(中略)物ごとに敵の仕懸ると、其侭其理を受て、敵のする事を踏付て勝心也》

 


まず、筑前系諸本には、こうあるであろう。
《又、矢をつがひ、鉄炮にくすりをこミ合するによつて、又新しくなつて、追込がたし》

しかるに、肥後系諸本では、この「矢」を「弓」とするのはまだしも、《鉄炮にくすりこミて、かゝりこむ時、こミ入がたし》とあって、語句にかなりの相違がある。

筑前系諸本の文では、ここは、――敵が弓や鉄炮で攻撃したその後に、こちらが攻撃しようとするから、その間に、また敵は弓をつがい、鉄炮に弾薬をこめて、新しい攻撃体勢をつくってしまう。そのため、こちらは敵を追い込むことができない。――という文意である。

他方、肥後系の文では、《鉄炮にくすりこミて、かゝりこむ時、こミ入がたし》のあたりに、何やら脱落があるようである。そのため文意があやしくなっている。

そこで、興味深いのは、上掲の大瀧家本である。これは、肥後系写本を底本にして、同時に越後系写本を参照したとみえる珍しい一本である。すると、右掲の如く、「弓」ではなく「矢」とするほかに、なんと、「又新しくなりて」という筑前=越後系諸本に特徴的な一言を挿入しているのである。かくして、大瀧家本は、肥後系写本の胡乱な文章を「修正」しようとしたらしい。

肥後系諸本の文言は、早期派生系統の子孫たる富永家本でも同様である。また円明流系の多田家本なども同前であるから、これは肥後系早期からあったものである。門外流出後早々に、この文言が発生したのである。その後、この文言をもつ子孫が増殖して行った。

それに対し、筑前系は諸本共通するから、これがその最初期からあった文言だと知れる。要するに、寺尾孫之丞前期に存在した文言である。肥後系諸本の文言は、それとはかなり隔差があるので、これを寺尾孫之丞後期ともみなしがたい。寺尾自身の記事とするには、変異が大きすぎるのである。したがって、肥後系諸本の文言は、門外流出後の写し崩れを示すものである。

肥後系の語列では、「こミ」「こむ」「こミ」と三連発で不細工、まことに武蔵の文とも思えない。これだと、文意が胡乱で、敵我の区別が混乱する。不幸なことに、そうした肥後系通有の誤記を有する細川家本を底本とした解説書は、その点で最初から間違った迷路へ踏み込んでしまったようなものである。既成現代語訳も、混乱に輪をかけている。

右掲の現代語訳事例を見ると、戦前の石田訳は、敵我の分別を正しく行っている。ところが戦後になると、読解能力が退化して、話が混乱してくる。

皮切りは神子訳である。みれば、敵は「まず弓、鉄砲をうちかけておいて、そのあとからかかってこようとするのであるから、こちらも矢をつがえ、鉄砲に薬をこめなどしていては、敵にかかっていくことはできない」と、まさに敵我入り乱れた混乱の模様を呈している。

もちろん、ここで、「そのあとからかかる」のは、敵ではなく、我が方であって、「矢をつがえ、鉄炮に薬をこめる」のは、我が方ではなく、敵のすることである。ようするに、神子訳は戦後の誤読の先陣を切ったのである。後二者、大河内訳・鎌田訳もこの読みをそのまま踏襲している点で、いづれも間違いである。

こうした訳文では、敵の攻撃などかまわず、突入し、相手に次のさらなる攻撃をさせず、粉砕する、敵の攻撃を蹂躙する、というタフな「けんを踏む」の趣旨がまったく消えてしまっている。

もともと底本・細川家本に誤記があるため、文意が胡乱なのは必然だが、それを無理やり読もうとすると間違ってしまう、という事例がこれである。史料批判の智力認識がないところでは、こういう誤謬は不可避である。

また、別の校異もあって、それは、筑前系諸本に、
《物ごとに敵のしかくると、其まゝ其理をうけて、敵のする事を踏付てかつこゝろ也》
とあって、《物ごと(物毎)に》するところ、肥後系諸本はこれは《物毎を》として、「に」字を「を」字に作る。

これは「物毎」だから、どんなことであっても、という意味なら《物毎に》とあるべきところである。《物毎を》となると意味が違ってくる。そこで、丸岡家本のように、《物ごとを》と記すようになり、さらには田村家本のように、勘違いして、《物事ヲ》と書いてしまう例も出てくる。

すると、既成現代語訳はこれをどう訳しているかと見るに、石田訳は、《物毎を》という原文を無視して、《物毎に》の意味の「何でも」と訳している。これは原文の誤りを訳文が越えてしまったという珍例である。

しかるに、戦後の神子訳は、《物毎を》を本当に無視して抹消してしまっている。それは続く大河内訳も同じで、神子訳そのままである。鎌田訳は、これを無視できず、「物ごとを」と訳したが、これでは現代語の「物事を」というわけで、誤訳である。

以上のところ、戦前の石田訳以外に正解はなく、以後は語訳能力が低下してしまったということである。

しかし、続く部分の《其儘其理を受て》となると、訳者にはもっと困難があったようである。石田訳は、「直ぐ樣それに対處して道理に從つて」と、いかにも苦しい訳をしている。この「その理」というのを、「道理」と解しているのだが、これではどの理だか、話が通らない。

石田が「道理」としたのは、「理」字に幻惑されているのである。これは「利」の替字である。五輪書の他の箇処に多用されているように、「利をうけて」とあるところである。石田は「理」字に惑わされて誤訳を誤ったのである。

それでは戦後の現代語訳はいかに、と見れば、これがひどい。神子訳は、まず「そのまま」という語を、そのまま「そのまま」と誤訳している。石田訳が正しく訳しているように、これは現代語なら「すぐさま」の意である。

しかも、神子訳は、続く《其理》という文字を無視している。神子訳は、自分では解らない語句は無視して、抹消してしまう傾向があるのだが、ここでも同じようにそれを無視して、「そのまま受けて」と記す。これでは何を受けたのか、それがわからない、というひどい訳文である。

しかし、さらに状況が悪化したのは、この神子訳をそのままパクるものが続いたことである。つまり、大河内訳は神子訳そのままだし、鎌田訳は、「自然に」という語で、それに色をつけただけ。しかし、原文の《其理を受て》が、どうして「自然に受けとめ」と化けるのか、ほとんど爆笑物の誤訳であるが、五輪書からすれば笑い事ではないのである。

 


(2)二度目を敵の打得ざる様にすべし

ここは、「一分の兵法」のことに話が代わるのだが、この《二度目を敵の打得ざる様にすべし》が、「けんを踏む」ということの本旨である。

また、「剣を踏む」ということが太刀の打ち合いをモデルにしたアナロジーであるから、「一分の兵法」という個人戦の場合を語るこの部分をもって、前段の集団戦のケースの教えを読み直すことが必要であろう。

打ち合いの最中、敵の攻撃を踏みつけにして、蹂躙するというのが「けんを踏む」の趣旨である。かなりパワフルでタフな戦い方であることは、すでに述べた。

《敵の打出す太刀の跡へうてば、とたん/\となりて、はかゆかざる所也》とあるところ、前に水之巻「はりうけと云事」に、類似の記述があったのを想起されたし。敵我相互に打ち合って単調になったところを、破調してかかる「張り受け」という業の記述箇処である。

この「けんを踏む」でも、「ト、たん、ト、たん」と単調になることを嫌い、相手の攻撃を蹂躙するという挙に出る。むろんこれは、「張り受け」のように、軽く張って拍子を変えて先をとる、ということではない。逆に、きわめて強く出ることである。相手の攻撃を蹂躙し、台無しにして、《二度目を敵の打得ざる様にすべし》ということである。

これは肥後兵法書を見るかぎりでは、比喩ではなく、文字通り本当に踏みつける――左足で、とある――と思われたらしい。

剣を踏みつけると、どうなるか。剣はたやすく折れる、もしくは曲がるのである。使い物にならなくなる。実戦ではこういう「剣法」もありうるだろう。もっとも、《劔をふむ事、度々にハあらず》とあるように、そうは何回も使う手段ではない。

ただし、肥後兵法書は、五輪書の「剣を踏む」という比喩を、どうやら字義通りに受け取ってしまったらしい。それゆえ、《劔をふむ事、度々にハあらず》と、現実に剣を踏むのに制約を加えようとする。しかし、それは後人の誤解にほかならない。本来「剣を踏む」というのは、あくまでも比喩なのである。

それというのも、五輪書では、次にあるように、踏みつけにするのは、足だけとはかぎらない、とくる。《身にてもふみ、心にてもふみ、勿論太刀にてもふみ付け》にするのである。この踏み付けは、足下に敵の攻撃能力を無力化することである。

こうなると、「剣を踏む」は比喩である。しかも比喩の二重化である。「剣を踏む」という比喩で合戦を語り、そしてこんどは太刀での一分の兵法をかたる。この二重化した比喩で、《身にてもふみ、心にてもふみ》ということになり、そして最後に《勿論、太刀にてもふみ付け》と述べる。太刀で剣を踏みつけるのである。

こういういささか高度な修辞学で、五輪書の文章は運用されている。そのことは、従来指摘されたことがないので、ここでとくに注意を喚起しておく。

そうして、《二の目を敵に能させざる様に心得べし》である。「二の目」は「二度目」に同じ、次の攻撃をさせない、ということである。

ただし、これも、敵の攻撃と同時に正面から衝突するのではなく、《其まゝ跡に付心也》というのがポイントである。

この「すぐさま後につく」というのは、後手になるということではない。むしろ、敵を攻撃させて、その間に打って出る、という場面である。したがって、敵の攻撃から僅かに拍子を遅らせて取る「先」、あるいは「待の先」と呼ばれたものに近いとも言える。ただ、この「けんを踏む」は、もっとタフな、敵の「先」を踏みにじり、台無しにしてしまうような、「後につく」なのである。

 

 

8 崩れを知る (くづれを知ると云事)

【原文】

 一 くづれを知と云事。
崩と云事ハ、物毎に有もの物也。
其家の崩るゝ、身のくづるゝ、
敵の崩るゝ事も、時にあたりて、
拍子ちがひになつて、くづるゝ所也。
大分の兵法にしても、
敵の崩るゝ拍子を得て、
其間をぬかさぬやうに追立る事、肝要也。
くづるゝ所のいきをぬかしてハ、
たてかへす所有べし。
又、一分の兵法にも、戦ふ内に、
敵の拍子ちがひて、くづれめのつくもの也。
其ほどを油断すれば、又立かへり、
新しくなりて、はかゆかざる所也。
其くづれめにつき、敵のかほたてなをさゞる様に、
たしかに追かくる所、肝要也。
追かくるハ、直に強きこゝろ也。
敵立かへさゞるやうに、打はなすもの也。(1)
うちはなすと云事、能々分別有べし。
はなれざれバ、したるき心あり。
工夫すべきもの也。(2)

 

 

【現代語訳】

 

一 崩れを知るという事

崩れということは、どんなことにもあるものである。その家の崩れる、身の崩れる、敵が崩れることも、その時にあたって、拍子が狂ってしまい、崩れるのである。

大分の兵法〔合戦〕でも、敵の崩れる拍子をとらえて、その瞬間をのがさないように追撃することが肝要である。崩れるところの急所をのがすと、敵を立ち直らせることになる。

また、一分の兵法〔個人戦〕の場合でも、戦っている最中に、敵の拍子が狂って、崩れ目ができるものである。それを油断してのがすと、(敵は)また立ち直り、復活してしまう。それでは捗が行かぬのである。

その崩れ目につけ入り、敵が顔〔体勢〕を立て直さないように、徹底的に追撃する、そこが肝要である。追撃するのは、一気に強烈に、という心持である。敵が立ち直れないように、打ちはなす〔粉砕する〕のである。

(この)打ちはなすということを、よくよく吟味あるべし。(敵に対する感情を)切断しなければ、べたつく心が残る。(これは)工夫すべきものである。

 

 

【註解】

 

 (1)敵立かへさゞるやうに、打はなすもの也

前に続いて、敵の様子を知って攻撃にかかる要諦である。ここでは、「敵の崩れ」を知るということがテーマである。

崩れて逃げにかかる敵を追撃して粉砕するというのは、敵が二度と立ち直れないようにするためだ、という。これは前条「剣を踏む」と連続した話である。《二度目を敵の打得ざるやうにすべし》《二の目を敵によくさせざるやうに心得べし》とあった。

しかし、ここでの教えの調子は、それよりも強い。敵の崩れを見たら、即座に追撃にかかる。そして、徹底的に殲滅する(打はなす)。それが不十分であれば、敵は体勢を立て直し反撃に出てくる。その余地を与えないように、徹底的に粉砕するのである。

これはゲームとしての試合のように、打った、打たれたで、勝ち負けが決まるのではない。ここは実戦のケースだから、ルールはない。敵を粉砕してはじめて、勝負が決まり、戦いは終結するのである。

したがって、敵が崩れて、敗走したら終わりなのではない。敵が崩れて逃げ出したら、それを徹底的に追撃する。そして回復不可能なまでに粉砕しなければならない。

これは一分の兵法〔個人戦〕の場合でも同じだとする。このように敵の崩れを見て、追撃し、徹底的に殲滅するというのは、合戦など集団戦〔大分の兵法〕がモデルだが、それが、一対一の勝負でも、同じ戦闘原則だとするわけである。

この五輪書読解で何度も繰り返されているから、蛇足になるかもしれぬが、武蔵の教えは実戦での戦闘法、殺人術である。敵の軍勢を殲滅してはじめて戦いは終るのと同じように、一対一の個人戦でも敵を殺してはじめて戦いは終る。
《追かくるは、直に強きこゝろ也。敵立かへさゞるやうに、打はなすもの也》

およそ、ルールなき実戦の場では、「勝つ」というのは、戦いを終らせてはじめて生れる状況のことである。武蔵が「勝つ」と言うとき、読者の多くは、まるでゲームで勝つことのように思うかもしれないが、そうではない。この条に書かれている通り、敵が崩れて逃走したら、それで勝ちなのではない。そうではなく、逃げる敵を追撃して、完璧に粉砕する――武蔵の言葉では「打はなす」――ことが、「勝つ」ということなのである。

武蔵の教えでは、勝つとしたら無慈悲に勝つということである。敵の崩れを見て、それからどうすべきか――という教えには、まことにタフで無慈悲なものがある。それを見逃してはなるまい。

――――――――――――


諸本校異について言えば、この部分に若干それがある。その一つは、冒頭部分で、筑前系諸本間に相違のあるところである。すなわち越後系諸本には、
《崩を知と云事ハ、物毎に有もの也》
とあって、「を知」二字を入れるのに対し、同じ筑前系でも、早川系の吉田家本・中山文庫本・鈴木家本は、《崩と云事ハ》として、「を知」二字を入れることはしない。

他方、肥後系諸本を参照すれば、これは基本的に、《崩と云事ハ》として「を知」二字は入れない。狩野文庫本に《崩を知る事》とする例があるが、他の円明流系、稼堂文庫本では、《崩れと云事》である。したがって、筑前系/肥後系を横断して共通するのは、「を知」二字を入れない《崩と云事ハ》の方である。それゆえ、こちらが古型であり、越後系諸本の《崩を知と云事》には誤記がある。

と、そこまで結論に達していたところ、後に立花隨翁本や赤見家甲本の発見により、これが裏付けられた。すなわち、越後系諸本の祖本たる立花隨翁本には、《崩といふ事ハ》と記してあり、丹羽信英の赤見家甲本にも、やはり「を知」二字は入れないのであった。

このことより、この「を知」二字の錯入は、越後で本書が書写され派生した段階で発生した誤写だと知れたのである。我々が相遇したのは、渡部信行系統の五輪書であり、それらがどれも同様にこの誤記を示しているから、これは八代渡部信行の段階での発生だろうと見ることができる。

ところで問題は、これに次く箇処である。つまり、筑前系諸本に、
《物毎に有もの也》
とあって、《物毎(ものごと)に》として「に」字を付すのに対し、肥後系諸本のうちには、《物毎》として、「に」字を欠くものがある。また、別の箇処では、筑前系諸本に、
《時にあたりて、拍子ちがひになつて》
とあって、《時に》とするのだが、これも肥後系諸本のうちには、《時の》として、「の」字に書くにものがある。あきらかに、前者の《物毎》には脱字があり、後者の《時の》は誤字である。

この誤記を示すのは、肥後系の楠家本・細川家本である。丸岡家本では、ともに正しく記している。しかし、富永家本では、両方とも、脱字を示す。円明流系統では、狩野文庫本は、《物毎ニ》と記すが、後者は《時の》と記す。しかし同じ円明流系統でも、多田家本や稼堂文庫本は、《物毎に》《時に》と記す。

以上のように肥後系諸本はまちまちである。《物毎に》の「に」字の脱落は早期に生じたかもしれぬが、《時に》を《時の》と誤記するのは後に発生した写し崩れである。したがって、このかぎりにおいては、《時の》と記す楠家本と細川家本は、後発性を示す写本とみるべきである。

――――――――――――


さて、ここでひとつ、語釈のことで論うことがある。それは、上記の「打放す」という語のことである。

既成現代語訳は、これを難物と思ったか、あるいは岩波版注記も無視して通り過ぎているので、異例にも現代語訳せず「打ちはなす」のままにしている。語釈を付加しないとすれば、これでは不親切というものである。

現代語では、コンクリート壁のように「打放し」という用語がある。これは仕上げをしないで、コンクリートを打ったままにしていることである。そのように、「打ったままにしておく」では、むろんここでの武蔵の語義とはまったく異なる。ゆえに語釈が必要なのである。

ここで「打放す」というのは兵法語彙であり、我々もその扱いなので、語訳はしていない。ただし語釈は提示しておくべきである。

この「打放す」を現代語に訳しては意味がずれるが、要するに「粉砕する」ということである。「放す」は、弓鉄炮を「放す」というケースもあって、これは現代語では「放つ」で通じる。しかし、現代口語でも喧嘩などで「ぶっとばす」「ぶっ殺す」と言うが、ニュアンスとしてはこの「打ち放す」に近いものがある。

しかし、ここでの「放す」は、むしろ語源に近く、まとまった物をばらばらにしてしまうことである。したがって我々は「打放す」を、思い切り打ち砕く、粉砕する、という語釈にしたわけである。

これは現代語の「はなす」のセンス(感覚=意味)からは、かなり遠い語意である。そこで「放す」を「離す」と誤解してしまう読みがあり、一部解説書に、「はなす」を敵を遠ざけることと読み、敵が近くにいると反撃されるから、というような珍解釈をしている。これでは、古典を知らぬ初級の間違いであるが、それ以上に、本質的に武蔵のロジックを理解できない者の解釈である。

重ねて言えば、ここでの教えは、敵が逃げても徹底的に追撃し粉砕しろ、ということであるから、敵が逃げて遠ざかったら、それでおしまい、という甘い話ではないのである。

こういう次第なので、この「打放す」という語、これまで誰も現代語に正しく訳してくれる者がいなかったという言葉なのである。


(2)はなれざれバ、したるき心あり

この「崩れを知る」では、全体が解りやすく書いてあるので、読むのにとくに支障はない。ただ、語釈について、若干の補足をしておくべきであろう。重要なテーゼを含む以下の文にそれがある。
《うちはなすと云事、能々分別有べし。はなれざれバ、したるき心あり》

まず問題は、《したるきこゝろ》の「したるい」である。こちらの方は、現代の関東方言で「かったるい」というのに近い。「したるい」という語には、日葡辞書に《Xitarui(したるい)ヒト》の記載があり、まだるこしい、のろのろだらだらしている、まごついている、という語義のあったもののようである。

しかし「したるい」の本義の語感は、汗がべたべた、べたついているさまである。だから、「したるき心あり」とは、「べたつく心あり」なのである。まごまごしているというよりも、べたついて、すっきりしない、という意味である。武蔵のこの語の用法は、別の多用されている言葉では、「捗が行かない」の意味に類縁のものであろう。

岩波版注記は、これを「ぐずぐずしがちである」としているが、これでも誤りとは言えないが、「したるい」のニュアンスから外れている。「ぐずぐず」と「べたべた」とは違うのである。

ここの《はなれざれバ、したるき心あり》の「はなる」の方は「離れる」である。ふつう古語では、
《離れぬ御仲なれば、つひに聞きあはせたまはむこと、いと憂かるべし》(『源氏物語』浮舟)
という用法で、離れるとは、「気持が離れる」、信頼関係・情愛関係が切れる、断たれることをいう。五輪書のここでの《はなれざれバ》も、敵に対する思いを断たなければ、という意味である。

敵に対する感情を断ち切って、思い切って粉砕する。そうでないと、べたべたした心が残って、すっきりしない――という、これまたタフでワイルドな教訓、さらに言えば「無慈悲」の教えなのである。

以上は我々の語釈であるが、ここで既成現代語訳を見れば、右掲のごとく、さまざまである。誤訳がさまざまある、ということだが。

戦前の石田訳は、文脈を察して意訳で臨んでいる。戦後の諸訳と比較すると、まともな訳である。しかし、「すがりついて來ることがある」とは、敵のことをいうようだが、「したるき心」は敵ではなく、こちらのことである。語意が確実にわからないのでは、意訳しても間違うばかりである。

戦後の神子訳は、まことに杜撰なことに、《はなれざれば、したるき心有》(細川家本)の当該部分を無視している。文意不明の箇所は、勝手に削除してしまうという神子流の処理法である。次の大河内訳は、珍しく苦心の跡が見てとれ、「不徹底さを残すことになる」と意訳するが、むろん意味がずれている。そして鎌田訳は、例によって岩波版注記のパクリで、何の翻訳努力の跡も認められない代物である。

そして大河内訳と鎌田訳の二者ともに共通しているのが、《はなれざれば、したるき心有》の「はなる」を、前記の「打ち放す」とすり替えていることである。離ると打ち放すでは、まったく違う話である。これでは、武蔵のこの際立ったテーゼ、《はなれざれバ、したるき心あり》が、立ちようがない。

結局、既成現代語訳には、この無慈悲のテーゼを正しく訳した者は存在しなかったのである。――というわけで、この重要な部分につき、語釈上の問題を明らかにしてみたが、我々の読解提示によって、誤訳だらけの不運な五輪書も、少しはまともに読めるようになることであろう。

 

 

9 敵になる (敵になると云事)

【原文】

一 敵になると云事。
敵になると云ハ、我身を
敵になり替りておもふべきと云所也。
世の中を見るに、ぬすミなどして、
家のうちへとり籠るやうなるものをも、
敵を強くおもひなすもの也。
敵になりておもへバ、
世の中の人をみな相手として、
にげこミて、せんかたなき心也。
とりこもる者ハ雉子也、打はたしに入人ハ鷹也。
能々工夫有べし。
大なる兵法にしても、敵といへバ、
強くおもひて、大事にかくるもの也。
我常に*よき人数を持、兵法の道理を能知り、
敵に勝と云所を能うけてハ、
氣づかひすべき道にあらず。
一分の兵法も、敵になりて思ふべし。
兵法能心得て、道理強く、其道達者なる者に
あひてハ、かならず負ると思ふ所也。
能々吟味すべし。(1) 

 

 

【現代語訳】

 

一 敵になるという事

敵になるというのは、我が身を敵になり代って考えてみろ、ということである。

世の中を見るに、盗みなどをして、家の内へとり籠る〔籠城する〕ような者であっても、(家の外からは)相手を強いと思い込んでしまうものである。

(しかし)敵(盗賊)の身になって思えば、世の中の人をみな相手として、(家の中へ)逃げ込んでいるのであり、絶望的な気持なのである。とり籠る者は雉子〔きじ〕である。(これを外から)打ち果しに入ろうとする人は鷹である。よくよく工夫あるべし。

大きな兵法にしても、敵といえば、強いと思い込んで、大ごとにして懸るものである。(しかし)こちらが常々すぐれた軍勢をもち、兵法の道理をよく知り、敵に勝つというところを十分承知していれば、心配する必要は何もない。

一分の兵法でも、敵になって考えるべきである。兵法をよく心得て、道理が強く*、その道に練達した者に逢えば、必ず負けると思うものである。よくよく吟味すべし。

 

 

【註解】

 

 (1)我身を敵になり替りておもふべきと

ここから少し話のシリーズが変ってくる。まずは、敵の身になって考えてみろ、という教えである。

これはかなり親切な教えで、初心の者向けに平易な話になっている。したがって、とくに読むのに困難はないはずである。

敵の身になって考えてみろ、という教えの趣旨は、戦闘の恐怖から敵をつい強大な相手と考えてしまう、という心の傾向に釘を刺し、それはいわば逆の誇大妄想にすぎないと諭すことである。

恐ろしい、こわい、という恐怖はあろう。しかし、それは自分がつくり上げた幻影であり錯覚なのだ。何もこわがる必要はない。敵の身になって考えてみろ、相手の方がよほどこわがっているじゃないか、と。

あるいは、逆のことでも言える。敵の身になって考えてみろ、敵は、こちらを強い相手だと過剰に思い込んでいる。敵は負け犬の心持になってしまう。それが付け目だ。ならば、そのように振る舞えばいい。敵が負けると思い込んでいるなら勝ってやればよい――それが武蔵流の論理である。

この点では、右掲肥後兵法書は、明確に核心を衝いた語りである。まさに《敵の心の堪難きをおもひ取べし》、あるいは《敵ハ利無きを、利を取付る事あり。敵になりて、よく分別すべき事なり》とあるごとくである。肥後兵法書にも、五輪書の教えを忠実に敷衍している記述もあるという例である。

ここで五輪書の教えは、初歩的だが、実は的確な教訓であることに気づかざるをえないだろう。武蔵は戦闘心理を分析し、具体的に垂訓しているだけではない。いわば戦闘の敵我は、まさしく相互に反射し合う鏡像関係にある。互いに自身の恐怖の幻影を投影し合っている。そうである以上、その恐怖の幻影も利用して戦えばいい。

このような兵法論は、むろん極めて新しいものであったが、同時に空前にして「絶後」であったことを知っておく必要がある。

武蔵流のこの戦闘心理学は、リアルな殺し合いの現場の論理から、兵法が精神主義へ傾斜する時代の、いわば消滅した未発の戦闘論の相貌を垣間見せる。それは、一瞬出現してたちまち消えた、異質なものの束の間の登場であった。

我々は、少なくともそうしたことを念頭において、本条以下の一連の教えを読むべきであろう。


ところで、語釈の問題がひとつあろう。それは、この「敵になると云事」の条で二例出てくる「道理」という語である。《兵法の道理を能知り》と《道理強く、其道達者なる者》というこの部分に関連して、若干述べておく。

《兵法の道理を能知り、敵に勝と云所を能うけては》とある最初の「道理」は、「正しい筋道」という意味の「道理」である。ところが、《道理強く、其道達者なる者》とある第二の「道理」は同じようには読めない語である。

これを「正しい筋道」と普通いうところの意味の「道理」と読んでしまうと間違いである。意味はそうではなく、いわば仏教的な意味での「明証」、英語なら《evidence》というニュアンスのある語である。

ただし、この「道理」という語は特種なものであるから、我々はその意味を汲んだ語に置き換えて訳さず、そのままにしておく。けれども、この語が、現代語でも通じる「道理」の意味とは違う意味を有することは、強調しておかねばなるまい。

道理が強い――これは現代語のセンスでは馴染みのない表現である。この「強い」は、堅固である、ゆるぎがない、というような意味である。したがって、「道理が強い」とは、正しい筋道を通す信念が固いということではなく、むしろ、道の明証たることがゆるぎない、ということである。

したがって、《道理強く、其道達者なる者》とあるごとく、その道の達人というのは、道理が強い人である、つまり、道の明証たることがゆるぎない人なのである。

このあたり、《兵法よく心得て、道理強く、其道達者なる者》の既成現代語訳は、右掲のようなものである。

戦前の石田訳は、「道理明るく」としており、《道理強く》の訳になっていない。戦後の神子訳は、「道理にまさっており」と若干工夫を凝らしているが、それでも、《道理強く》の語意に届いていない。

岩波版注記は、これを「剣理にも明るく」としているが、上記のような《強く》の語釈上のニュアンスを知らないだけではなく、「道理」を「剣理」とするとは、きわめて蒙昧杜撰な語釈である。もちろん、剣理、術理などという近来の剣術中心主義的な用語は、武蔵流の語彙ではない。

鎌田訳はこの岩波版注記をそのまま頂戴しているが、大河内訳はさすがに「剣理」では拙いと思ったのか、「兵法の理」と変更している。だが、「兵法の理に明るい」と誤訳に及んでいる点では、岩波版注記=鎌田訳と同レベルである。

言っておけば、「道理」が、「剣理」や「兵法の理」であるわけがない。《兵法の道理》という語がすでに出ているのである。岩波版注記とそれ以後の現代語訳は、「道理」という語を無理に訳そうとして、能力不足を露呈し、自滅した格好である。それなら、石田訳や神子訳のように、「道理」という語をそのまま使った方がよいのである。

何れにしても、《道理強く》という語句は、これまで正しく訳されたことはなかったのである。


――――――――――――

 

なお、ここで諸本校異について指摘するとすれば、以下の点である。これも、筑前系/肥後系を区別する指標となる相異である。ただし、このケースでは、まず、筑前系のうち、立花=越後系の相異問題を片付けておかねばならない。

すなわち、筑前系に、《我常に能人数をもち、兵法の道理を能知り》とする例があるところ、越前系諸本には、《我常々》と記している。これは何れが正しいのか。その問題は、決済留保のままにしておいたが、立花隨翁本の発見によってカタがついたのである。

というのも、越後系諸本には《常々》とあるのだが、それらの祖本である立花隨翁本には、《常ニ》とあったからである。これにより、《常々》は越後での発生と知れた。ただ、隨翁本には、その問題の「ニ」字が小さく記されており、「々」と誤読しかねない文字であった。それゆえ、この誤写を誘引したものらしい。

この誤写はどの段階で発生したか、それは杲らかである。つまり、丹羽信英による赤見家甲本に、《常々》と記している。ということは、師の立花隨翁は《常ニ》と書いたつもりであったが、弟子の丹羽信英が、これを《常々》と読み損ねたのである。以下、越後系諸本はどれもこれを《常々》と誤記している。

そこで注目したいのは、大瀧家本である。これは、肥後系写本(ただし誤字脱字が多い)を底本にしているが、地水火の三巻については、越後系の三巻兵書の写本を参照して、随所に変更を加えている。

そして、大瀧家本がここをいかに変更しているか、それを見ると、《常に》と記している。とすれば、越後系写本にも《常に》とするものがあったということになるが、これはそういうことでもない。大瀧家本の参照本は、たぶん《常々》を《常ニ》と再度読み違えた。それを大瀧家本が平仮名にして《常に》と記したという次第のようである。


かくして、立花=越後系諸本の相異は、立花隨翁本の発掘により決着がついて、筑前系は本来《常に》と記すものであったと判明した。そこで、次の問題は、肥後系諸本との相異問題へ土俵が遷る。すなわち、肥後系諸本には、その《我常に》の三文字を欠くこと、それが注意されるポイントである。

この《我常に》の三文字の語句を欠く点では、楠家本・細川家本・丸岡家本その他も同様である。つまり、早期分岐派生写本の子孫たる富永家本や円明流系諸本もこの三文字を欠落させている。ということは、肥後系早期にすでにこの字句が失われていたのである。

というのも、筑前系諸本には共通して、この語句がある。つまり越後系諸本まで含めて、共通するところから、この「我常に」という語句が、筑前系初期に存在したのである。これに対し、肥後系諸本においては、早期にこの三文字が脱落したものとみなしうる。

その脱落は肥後系早期に生じたとして、それが寺尾孫之丞段階まで遡りうるか否かは、明言できない。つまり、寺尾孫之丞後期に、これが生じたのか、それとも、後の門外出後に発生したものか、確定は出来ない。しかし、それが何れであっても、筑前系に共通する以上、寺尾孫之丞前期には、この語句が存在したは可能性が高い。したがって、我々はこの語句を武蔵オリジナルにあったものとみなし、これを捨てずに取り込むのである。

なお、この箇処につき、諸本に《敵といへバ、強くおもひて》とあるが、肥後系諸本の中で、細川家本には、《敵をいへば、つよく思ひて》と記す。つまり、《敵と》ではなく、《敵を》とするのである。

これは、細川家本と同系統の常武堂本も同じである。したがって、細川家本・常武堂本系統の祖本の段階で、《敵と》という字句を《敵を》と記していたらしい。もとより、筑前系/肥後系を横断して諸本は《敵と》と記すのだから、これは明白な誤写である。

このあたり、肥後系諸本、楠家本・丸岡家本・富永家本などは、《敵と》と正しく記している。細川家本・常武堂本の系統でのみ、《敵を》と記す誤写が発生したのである。これは、「と」字を「を」字に読み間違えたという過誤である。その単純なエラーを細川家本・常武堂本の両本は引き継いだのである。

しかるに他方、円明流系統の狩野文庫本・多田家本には、細川家本とは別の異変を示す。すなわち、狩野文庫本には、《敵を強シといへバ》と記し、多田家本には、《敵を強きといへば》と記している。

これは単なる錯入ではなく、筆写者の一種の工夫であろう。《敵といへバ》という文言に何か不足を感じて、「を強シ」あるいは「を強き」という字句を挿入して、その「不足」を補ったものである。勿論これは、「あまりたるは、たらざるに同じ」のケースであって、余計な作為である。


また、もう一つ校異を挙げるとすれば、筑前系諸本間の相異である。すなわち、立花=越後系諸本には、
《道理強く、其道達者なる者》
とするところ、つまり、「其道達者」という語句であるが、筑前系写本の早川系、吉田家本・中山文庫本・鈴木家本には、この「道」字を欠く。これは越後系諸本の方が正しい。

ちなみに、肥後系写本を見るに、こちらも「其道達者」と記している。筑前系/肥後系を横断して共通する語句は、基本的に古型である。とすれば、「道」字を欠く吉田家本など早川系の写本は、これを脱落せしめたものである。

越後系写本の方が、吉田家本より正しいという事例は、これだけではなく、他に二十箇所ばかりある。ということは、立花峯均系写本は、吉田家本とは異系統の写本だということである。もう一つは、吉田家本の空之巻以外の諸巻は、柴任美矩→吉田実連の段階より以後の写本であるということである。

吉田家本・中山文庫本・鈴木家本が、ともに「道」字を脱落せしめていることは注意すべきである。これらは同系統の早川系写本で、たとえば、「強く」という語に「剛く」と表記したり、「油断」を「弓断」と書いたりするなど、特異な文字運用を示す。それらは立花=越後系諸本にはない特徴である。

ともあれ、立花=越後諸本の発掘により判明したのは、吉田家本の空之巻以外の諸巻は、柴任美矩→吉田実連の段階のものではなく、明かにそれより後に書写されたものであり、早川系に属するものだということである。

それは、越後系諸本の発掘によって、はじめて判明したことである。つまり、吉田家本より越後系写本の方が正しいという書記例が少なからずあるという事実から知れたのである。

五輪書研究においては、いづれにしても、可能な限り異系統の異本を発掘し、参照することが第一である。肥後系諸本のみを見ていては分からないことも、筑前系諸本を照合すれば、判明することもある。さらに、筑前系でも、中山文庫本や吉田家本だけを見ていては分からないことも、立花=越後諸本の発掘により判ってきたこともある。それにより、原五輪書へのアプローチが一歩前進したのである。それゆえ、五輪書研究においては、可能な限り広く異本を発掘し照合する努力を怠ってはならないのである。

 

 

10 四手〔よつで〕を放す (四手をはなすと云事)

【原文】

 
一 四手をはなすと云事。
四手をはなすとハ、敵も我も、同じこゝろに、
はりあふ心になつては、
戦はかゆかざるもの也。
はりあふ心になるとおもハヾ、其まゝ心を捨て、
別の利にて勝事をしる也。(1)
大分の兵法にしても、
四手の心にあれば、はかゆかず、
人も多く損ずる事也。はやく心を捨て、
敵のおもはざる利にて勝事、専也。
又、一分の兵法にても、
四手になるとおもハヾ、其まゝ心をかへて、
敵の位を得て、各別かはりたる利を以て
勝をわきまゆる事、肝要也。
能々分別すべし。(2) 

 

 

【現代語訳】

 


一 四手〔よつで〕を放すという事

四つ手を放すとは、敵もこちらも同じ心持になって、張り合う気持になってしまうと、戦いの渉が行かないものである。張り合う気持になったなと思ったら、すぐさまこの気持を捨て去って、別の利〔有利な手段〕で勝つことを知るのである。

大分の兵法にしても、四つ手の心に留まっていては、捗が行かず、人〔戦闘人員〕も多く損耗することになる。早くその気持を捨てて、敵の予想もしない利で勝つこと、これが専〔せん〕である。

また、一分の兵法の場合でも、四つ手になったと思えば、ただちに心持を変えて、敵の位〔態勢〕を把握して、まったく違う別の利を使って勝つ、それをわきまえることが肝要である。よくよく分別すべし。

 

 

 

【註解】

 

 (1)敵も我も、同じこゝろに、はりあふ心になつては

戦闘中、敵も我も張り合う心になって、膠着状態に陥ってしまうことがある。そういうときどうするか、という教えである。

敵もこちらも同じ心持になって、張う合う気持になったなと思ったら、すぐさまこの気持を捨て去って、別の有利な手を打ってみることだという。

この「四手」〔よつで〕というのは、若干説明を要するであろう。相撲の「四つにわたる」「四つ身」と同じで、敵我二本、合せて四本の腕が、がっぷり組み合うことである。

江戸時代の相撲で「四つ手投げ」とは、四つに組んで下手で相手の二の腕をつかみ上手で投げる技。現在の上手投げの一形態だが、上手投げは相手が四つに組む前に投げ、四つ手投げは四つに組み合ってからの投げであるとされる。また「四つ手の詰め」という決り手もあって、江戸時代、四つに組んで寄り進み、土俵際に相手を詰めて、相手を身動きできなくすると、勝ちとしたという。ルールも違ったのである。

俗に「四十八手」というが、これは相撲にかぎったことではない。閨房での「技」にも四十八手あり、本手(正常位)のことを「四つ手組み」「四つがらみ」とも言ったらしい。そこで、
《孝行も四つ手、不孝も四つ手なり》
という周知の有名な川柳もあるわけだ。親孝行のために色を売る身に沈む女、それを買って遊ぶ親不孝な放蕩息子、二つの肉体が「四つ手」を組むのである。

この「四つ手」について面白いのは、一枚の布を胸背中にX字形に組んで結び、汗取りの下着としたのも「四つ手」と言ったらしい。すなわち、×字形は四方に手がある形であるから、×字形をのことを四つ手というのであろう。また、同じようにして、×字形に縄を結ぶ緊縛の形態もある。

ともあれ、「四つ手」の意味は相撲の四つ身にとどまらず、俗に性交のことを四つ手とも云い、また×字のような図形上の意味、交叉・緊縛など、そのコノテーションはさまざまである。

しかしここでの「四つ手」は、相互に組み合って互角というより、むしろ要するに、戦闘の互酬性(reciprocality)にはまって、自由が利かなくなった状態である。すなわち、「敵も我も、同じ心に、はりあふこゝろに》なる状態が四つ手であり、そこから、《四手を放す》とは、そうした拮抗の膠着状態を打開することである。

相撲の四つ手が、身体を組み合った状態ではなく、お互いに手を取り合って拮抗する形を四つ手といったようでもあるから、この場合は、四つに「組む」という意味ではなく、両手をつかみ合う格好である。したがって《四手を放す》は、組み合った手を放す、振りほどくことである。

ここにも言うように、
《其まゝ心を捨て、別の利にて勝事をしる也》
とあるように、気持を切り替えてというよりも、その気持を捨て去って、まったく別の手段をとる方へ転換して、状況を打開するのである。「四つ手を放す」というテーゼは、武蔵流の臨機応変の教えの一つである。

――――――――――――


なお校異の点で言えば、指摘すべき相異箇処がある。それは、一つには、筑前系諸本に、
《はりあふ心になつてハ、戦はかゆかざるもの也》
とあって、《戦はかゆかざる》とするところ、肥後系諸本のなかには、《戦のはかゆかざる》として、「の」字を入れるものがある。

ただし、同じ肥後系でも、円明流系統の狩野文庫本・多田家本には、この「の」字を入れない。とすれば、肥後系において早期には、《戦はかゆかざる》と、「の」字を入れない写本があった可能性がある。つまり、《戦の》として「の」字を入れるのは、後に発生したケースだということである。

このことは、筑前系諸本が共通して「の」字を入れないことでも明らかである。筑前系初期の段階でも、「の」字はなかった。《戦の》として「の」字を入れるのは、肥後で後世発生した錯入誤記なのである。

この誤記を有するのは、楠家本・細川家本・丸岡家本等々であるが、これらは、《戦の》と記すことで、その後発性を示している。この《戦はかゆかざる》のような文言では、「の」字の錯入は書写過程で生じやすいエラーである。

たとえば、本条の文でいえば、《各別かわりたる利を以て、かちをわきまゆる事》とあることろ、その《各別かわりたる利》の部分に、《各別のかわりたる利》として、「の」字を錯入するケースが、越後系諸本にみられる。これは、立花隨翁本にはない誤記であり、五輪書が越後で伝写されたとき生じた後発的誤写である。ようするに、《各別かわりたる》であれ、《戦はかゆかざる》であれ、助詞「の」字の錯入は生じやすい傾向にあるということである。

また、さらに別の校異では、この《戦はかゆかざるもの也》の前後にある字句が問題である。すなわち、筑前系・肥後系を問わず、《はりあふ》という字句を記すが、それを、一部諸本に《はりやう》と口語的に記している点が、注意されるはずである。

この《はりやう》が、「はり様」ではないこと、つまり、この「やう」は、漢字「様」に対応する語ではなく、「合」の意味であることは文脈から知れる。したがって、これは「合」の《あふ》を、《やう》と記したのである。

筑前系では、立花=越後系は《はりあふ》と記すが、早川系の吉田家本・中山文庫本は、《はりあふ》と《はりやう》の両方を記している。また、それが早川系の特徴かといえば、そうではなく、同じ早川系でも、鈴木家本は、《はり合》と記している。他方、肥後系では、楠家本と細川家本が、《はりやう》と記す。他はおおむね、《はりあふ》もしくは《張合》である。ところが、円明流系統では、多田家本にこの《はりやう》が記されている。

ようするに、筑前系/肥後系を通じて、この《はりやう》が出現しているが、それは一部写本に限られる。もとより、古型ではなく、伝写過程で偶発的に生じた後発的な変異である。しかるに、問題は、この《はりやう》がいかにして生じたか、である。

すなわち、これは近世初期の音韻というよりも、九州方言であろう。とすれば、そこから、二つの推測が出てくる。一つは、この《はりやう》は、五輪書伝写過程で、「あふ」(合)を「やう」と記すローカルな口語的傾向が一部にあり、そのため発生した字句ではないか、ということ。もう一つは、伝写が、一字一句、文字を厳密忠実に写しとるというよりも、何か口音を媒介にしているような気配がある。

つまり、推測しうるのは、――このオーラルな気分は、伝写過程のある時期、伝書を直接見てではなく、読み上げを媒介にしてそれを文字に変換した、そういう伝書系統があったという痕跡なのではないか、――ということである。近世には、「読む」とは、黙読ではなく、音声に出して読み上げるという音声優位の傾向が、まだ存続していたのである。

筑前早川系の吉田家本・中山文庫本のごとく、一部写本において、《はりあふ》《はりやう》の混在という、やや気まぐれな表記のゆらぎがあるのも、そういう条件で発生したと推測しうる。このことから、五輪書のグラマトロジーは、オーラルな口語を反映した特異な伝写のプロセスを想定させるのである。


(2)はやく心を捨て、敵のおもはざる利にて勝事

この「四つ手を放す」テーゼは、集団戦(大分の兵法)にも、個人戦(一分の兵法)にも、共通して該当する原則である。

四つ手の心、張り合う心に留まっていては、膠着してうまく事が運ばず、戦闘人員も多く損耗することになる。だから、早くその気持を捨てて、敵の予想もしない手を打って勝つことが、集団戦において第一に重要なことである、と。

合戦において、敵我互いに張り合って、押し合いを繰り返す拮抗膠着状態になると、兵員の損耗が激しい。《人も多くそんずる事なり》である。この点、武蔵はきわめて合理主義的である。敵我拮抗して、兵士がどんどん戦死する状況で、もっとがんばれ、とは云わず、そんな膠着からさっさと離脱しろ、というわけである。

武蔵流兵法は、むやみな精神主義、根性主義とは違うのである。

一分の兵法の場合でも同様で、四つ手になったと思えば、ただちに自分の心を変えて、敵の位、つまりここでは敵の態勢を把握したうえで、まったく違った別の手を打って勝つこと。――これが武蔵の教えである。

この条文では、このテーゼのために、同じ趣旨の教えが三回繰返されている。
《其まゝ心を捨て、別の利にて勝事》
《はやく心を捨て、敵のおもはざる利にて勝事》
《其まゝ心をかへて、敵の位を得て、各別かはりたる利を以て勝をわきまゆる事》

ただし、これは基本的な心得であって、何をどうするかという具体的な話はない。どちらかと言えば、五輪書向けに、つまり一般向けに提示されたテーゼである。

肥後兵法書で用いられている類似の比喩は、右掲の「弦をはづすと云事」であろうか。五輪書が「張り合う」心であるのに対し、こちらは心が「引張事」、つまり引っ張り合う状態である。弦は弓の弦である。これを比喩として、引っ張り合う状態を「はずす」、解くことを教えている。

しかしこの「弦をはづす」では内輪のジャーゴンのようなもので、あまり分かりよいとは言えない。五輪書の「四つ手を放す」という話の方が、世間一般向けである。

「四つ手」のほうが解りよいというのは、連歌との関係もある。「景気」という語もそうだが、武蔵は五輪書でしばしば連歌語彙を用いている。ここでの「四つ手」には、上述の意味のほかに、連歌でいう意味合いもあろう。

――――――――――――


この部分の校異の問題では、筑前系諸本に、
《四手のこゝろにあれバ、はかゆかず、人も多くそんずる事なり》
として、「人も多く」としているところ、肥後系諸本では、ここを「人の」としており、両者に語句の相違がある。

ここは、筑前=越後系諸本に共通して、「人も多く」と記すところから、本書の初期形態は、筑前系写本の「人も多く」であったと想定しうる。肥後系の「人の」は、「多く」という語句の脱字があったあと生じた変形であろう。しかも「人の」というあたりが、やや奇態で、語呂もよくない。これは、「も」を「の」と誤写したものである。すなわち、
「人も多くそんずる」

 →「人もそんずる」(脱字)→「人のそんずる」(誤写)
というプロセスである。脱字と誤字の二段階・二重の誤記変換である。

これが、早期に派生した系統の子孫たる富永家本を含めて、肥後系諸本に共通して存在するところから、これは早期に発生した変異である。ただし、これが寺尾孫之丞段階ですでにあったかというと、そうではない。上記のように、その変換が二重であるからだ。これは門外流出後に書写されているうちに発生した誤記である。

ところで、従来の現代語訳で奇妙な現象が生じた。それは、細川家本も、肥後系写本ゆえ、《人のそんずる事也》として、「人も多く」とはしないのであるが、細川家本を底本にしたと称する戦後の現代語訳には、原文にはあるべくもない「人も多く」が出現していることである。

戦前の石田訳は、見ての通り、「軍勢を損傷する」として、細川家本に忠実な訳である。しかるに戦後になると、まず、神子訳が、「兵員を多く失う」として、何と「多く」という語句を入れたのである。

続いて、岩波版注記は、この神子訳をうけて、「味方の人員の損害が大きい」とした。もちろん、神子や岩波版編注者が、筑前系諸本の《人も多くそんずる》という語句の存在を知っていたわけではないから、これは偶然のことである。文意を強調するために、細川家本にはない、「多く」や「大きい」という語句を入れたにすぎない。

その後の大河内訳は、岩波版注記のパクりであり、鎌田訳は、神子訳と岩波版注記の両方を取り込んでいるにすぎない。しかも、《はかゆかず》とあるのを、神子訳が、「決着がつかず」と胡乱な誤訳をしたのだが、それを、両者はご丁寧にもそのまま転記しているのである。

しかし、かくして、戦後の現代語訳は、自身の底本であるはずの肥後系細川家本ではなく、筑前系諸本の文意を実現してしまった。恣意的というしかない脱線した誤訳が、結果として、正しいテクストを示すに至る。これは何とも不可思議な光景であり、五輪書翻訳史上の珍事というべきであろう。

 

 

11 陰を動かす (かげをうごかすと云事)

【原文】

 
一 かげをうごかすと云事。
かげをうごかすと云ハ、
敵の心のミへわかぬ時の事也。
大分の兵法にしても、
何とも敵の位の見わけざる時ハ、
我方より強くしかくる様にみせて、
敵の手だてを見るもの也。手だてを見てハ、
各別の利にて勝事、やすき所也。
又、一分の兵法にしても、
敵うしろに太刀を搆、脇に搆たる様なるときハ、
ふつとうたんとすれバ、
敵思ふ心を太刀にあらはすもの也。
あらはれしるゝにおゐてハ、其まゝ利をうけて、
たしかにかちをしるべきもの也。
油断すれバ、拍子ぬくるもの也。
能々吟味有べし。(1)

 

 

【現代語訳】

 

一 陰を動かすという事

陰を動かすというのは、敵の意図がよく分らない時のことである。

大分の兵法〔合戦〕にしても、何とも敵の位〔態勢〕を見分けられない時は、こちらの方から、強く(攻撃を)仕懸けるように見せて、敵の手だてを見るのである。(敵の)手だてが分れば、(それとは)まったく別の利〔戦法〕によって勝つことは容易なことである。

また、一分の兵法〔個人戦〕にしても、敵が後方に太刀を搆えたり、脇に搆えているような時は、(こちらが)「ふっ」と打つふりをすれば、敵は思っていることを(必ずその)太刀に現わすものである。(それが)現われ知れたとなれば、ただちにその利〔優位〕をうけて、たしかに勝ち〔勝機〕を知るべきものである。油断していると、その拍子が抜けることになる。よくよく吟味あるべし。

 

 

 

【註解】

(1)かげをうごかす

敵の企図がよく分らない時、どうするか、どのようにして、敵の作戦を知ることができるか。――ここでは、この問題に関する教えを述べる。

「かげ」(陰)というのは、ここでは隠れて見えない物事のことである。その隠れて見えないものを、見えるものにする。そのためには、どうするか。

これはいくら目を凝らし、視力を強化しても無駄であろう。眼力の問題ではないからである。この見えないものは、なりを潜めて動かないから見えないだけだ。であれば、隠れて見えないものを動かせばよい。――それが武蔵流のロジックである。

敵の意図を知るには、敵を動かすことである。こちらが攻撃に出たとなると、すぐさま敵は対応して出てくる。この応対ぶりに敵の意図が現れてしまう。それがわかれば、もう戦いはこっちのものだ。その優位をもって敵を打つのである。

この《かげをうごかす》テーゼは、集団戦だけではなく、個人戦でも同じように真理である。

敵が太刀を、後方や脇に搆えているというのは、「正」ではなく「奇」の搆えである。ようするに、何か変なことを、つまり奇手を、「陰で」考えているのである。しかし、敵は何を考えているのか、それをこちらが考えろ――というようなことは、武蔵は教えない。考えるより、アクションを起こせ、ということである。

こちらが仕懸けるふりをして挑発してやれば、これに対応して敵は行動を起す。そこに、敵が何を考えているかが現れる。言うならば、行動こそ心を映す鏡である。

それゆえ、意図があって行動があるとしても、その意図は、「意図せず」行動に自身を暴露してしまうのである。言い換えれば、隠された意図は、必ず行動に外在化する。意図を知るには、意図そのものを探るよりも、意図を映す行動を起さざるをえないようにしてやればよい。

したがって、これは、あれこれ試行錯誤してみろ、ということではない。むしろ、敵を挑発して、その企図を露呈させる、という挑発作戦である。

かような具合の話であるから、これも基本的な教えである。とくに高等な技法は何もない。ただ、こうしたまったく基本的なところを、武蔵は、きちんと教えているのである。

――――――――――――


語釈上の点で、少し述べれば、ここでは「利」という語に関してのことである。この「利」は利益・利得という意味があり、有利・優位という意味もあり、さらには、働き・作用とか、方法・手段の意味もある。

したがって、こういうポリフォニックな多義的概念だから、語の解釈にあたっては、文脈に応じて汲み分ける必要がある。それで一々のケースについて、訳し分ける必要がある。だが、そうなるとこの「利」という語のニュアンスが消えてしまう恨みがある。そのあたりが難しいところであるが、多義的な幅をもつと思うのは、現代語の狭いカテゴリーに無理やり閉じ込めようとするからだ。本当は「利」は「利」だ、というほかないのである。

あるいは語釈上の別のことでは、
《あらはれしるゝにおゐてハ、其まゝ利をうけて、たしかにかち(勝)をしるべきもの也》
という箇処がある。この二つの「しる」が問題である。前の「しるゝ」は、「知れる」ということである。ところが、後者の「勝をしる」の「しる」は、現代語の「知る」ではないとみえる。

それは、「領る」〔しる〕という意味の「知る」である。つまり自分のものにすることである。知行地、領知、というばあいの「知」であると。

しかし、後者の「しる」は、そのように、前者の「しる」(知る)と意味がズラしてある、という見方は正しいのか。――それは実は間違いなのである。

この行文の「しるゝ」と「しる」は、本当は同じ語なのである。武蔵は五輪書で、ワードプレイをしばしばやっているが、同じ行文で、わざわざ同じ語を使って語義をシフトさせ、語呂合わせをするようなことはしない。だから、前の「しるゝ」が「知れる」なら、後の「しる」も「知る」(know)なのである。類似例では、「勝をわきまえる」という表現もあるところである。「勝をしる」も「勝をわきまえる」も同類の運用語法である。

したがって、ここはどちらも「知」という漢字を宛行うべきところである。つまり、「勝をしる」とは、勝機を知るという意味なのである。この件については、下に述べるように、既成現代語訳との関連で、再度見ることにする。


この同じ箇処について、もう一つ指摘しておくべきは、諸本校異があることだ。それも、筑前系/肥後系を截然と区別する指標的相異である。すなわち、筑前系諸本に、
《其まゝ利をうけて、たしかにかちをしるべきもの也》
として、《勝(かち)をしるべき》とするのだが、これに対し、肥後系諸本には、《勝(かち)しるべき》として、「を」字を欠くものがある。

これは筑前系が、立花=越後系諸本も含めて共通するところからして、筑前系初期から《勝を》であったと思われる。柴任美矩が伝授された寺尾孫之丞前期の段階である。

これに対し、肥後系の方は、早期に派生した系統の子孫である富永家本には、《勝としるべき》とあって、「と」字を入れるなどして、必ずしも諸本間で一定しない。というのも、この変異が、肥後で門外流出後に生じたものだからである。

そのプロセスとして、想定されるのは、

  「勝をしるべき」→「勝としるべき」→「勝しるべき」
という漸減過程ではなく、むしろ、

  「勝をしるべき」→「勝しるべき」→「勝としるべき」
であっただろう。つまり、まず《勝を》の「を」字の脱落があった。それを異として、後に修復したのが、富永家本の系統だが、「を」字ではなく、「と」字を入れてしまった。このケースでは、「勝ちを知る」ではなく、「勝つと知る」である。

あるいは、円明流系統でも、《勝知るべき》を異として、「可勝所〔勝つべき所〕を知る」と改竄した。この場合も、《勝知るべき》(勝可知)ではおかしいと感じて、「可勝所」という語句にしたのである。

これらは何れも、写し崩れというよりも、解釈にもとづく自発的で恣意的な変更である。それというのも、肥後系の「勝しる」という語句に異和を生じたからである。しかしその前には、「勝しるべき」という「を」字の脱落があったのである。

いづれにしても、こうしたことは肥後系にのみ生じた変形である。そもそもは、「勝をしるべき」の「を」字が脱落したことに起因する。


ところで、この肥後系で生じた混乱は、既成現代語訳を見るに、現代にも尾を引くもののようである。

新しい混乱はすでに戦前に生じていた。石田訳は、この同じ行文にある「しるゝ」と「しる」の両方とも訳していない。前者は無視し、後者は「知る」ではなく、それをズラして「つかむ」と意訳している。この「つかむ」は、把握するの意で、「知る」の範疇をやや逸脱しかけている。このシフトが、戦後の現代語訳の方向を決定したと言える。

神子訳は、前の「しるゝ」を、石田訳のように無視していないが、後の「しる」については、「知る」ではなく、「しめる」と訳した。つまり、勝利を占めるというわけである。これは石田訳の「つかむ」を言い換えたものだが、その置換の結果が「占める」となると、「知る」という語意は跡形もなく抹消されたわけである。

かくして、神子訳の段階で、「知る」は「占める」に変異してしまった。戦前の石田訳の「つかむ」で逸脱しかけた語訳は、ここで完全に脱線してしまうのである。

しかも神子訳は、《しるべきもの也》を、「しめることができる」と誤訳した。しかしここは、後続文が、油断していると拍子が抜けるぞ、という警告なので、「べき」という語は、「できる」という可能態ではなく、「べきである」という指示なのである。神子訳の「しめることができる」では、二重の誤訳である。

神子訳に続く現代語訳は、何れも、神子訳をなぞる以外には何もできないという無能を曝すばかり。大河内訳は、神子訳を言い換えたにすぎず、とくに神子訳の「勝利をしめることができる」では文が固いと感じたか、「勝つことができる」と平易化したつもりである。しかし、これは原文に当たっているのではなく、神子訳が「底本」なのである。他人の現代語訳を「翻訳」しているだけである。だから、原文の「しる」という語はどこかへ行ったかという意識もない。

鎌田訳は、岩波版注記がこれについてノーコメントなので、ここでは、神子訳をパクっている。大河内訳のように「翻訳」もせず、神子訳をそのまま写しているだけ。訳文がこれほどそっくりだと、まさに盗用に等しいのだが、臆面もなくそれを隠さないのは、根性があると言うべし。

――というわけであるから、近年の五輪書現代語訳事情は低迷し惨状を呈している、という我々の所見も、読者諸君には首肯されることであろう。

 

 

 

12 影を抑える (影を抑ゆると云事)

【原文】

 一 影をおさゆると云事。
かげを押ると云ハ、敵のかたより、
しかくる心の見ヘたるときの事也。
大分の兵法にしてハ、
敵のわざをせんとする所を、おさゆると云て、
我方より其利を押る所を、敵に強く見すれば、
強きにおされて、敵の心かはる事也。
我も心をちがへて、空なる心より、
先をしかけて勝所也。
一分の兵法にしても、
敵のおこる強き氣ざしを、
利の拍子を以てやめさせ、
やみたる拍子に、我勝利をうけて、
先をしかくるもの也。能々工夫有べし。(1)

 

 

【現代語訳】

 


一 影をおさえるという事

影をおさえるというのは、敵の方から仕懸ける気持の見えた時のことである。

大分の兵法の場合では、敵が攻撃を仕懸けようとするところを「おさえる」といって、こちらの方からその利〔攻勢〕をおさえるところを、敵に強く見せる。そうすれば、その強さに(敵が)おされて、敵の心が変るということである。

(そのとき)こちらも気持を変えて、空〔くう〕なる心から、先〔せん〕を仕懸けて勝つのである。

一分の兵法にしても、敵の起こす強い気ざし〔闘志〕を、利の拍子をもって抑止し、それが止んだ拍子に、こちらの勝つ利〔優位〕をうけて、先〔せん〕を仕懸けるのである。よくよく工夫あるべし。

 

 

【註解】

 

 (1)敵のわざをせんとする所をおさゆる

ここは、前条「陰を動かす」と対照させて読むべきところである。「陰を動かす」と「影をおさえる」、それはどうちがうのか。

そもそも「陰」と「影」は同音ながら、意味が異なる。「陰」は「物陰」などというように、隠れて見えないものである。現代語でも、「陰で悪口をいう」とか「犯罪の陰に女あり」とかいう、「陰」である。他方、「影」は、「月影」「面影」、あるいは漢字で「魚影」「投影」でもよいが、目に見える光や姿形である。「影法師」というのも目に見える。「影」は、総体、可視的なものである。こういう「陰」と「影」の本質的な相違は念頭におかれるべきである。

「陰をうごかす」という前条では、隠れて見えないものを、わざと動かざるをえないようにして、見えるようにする、露呈させるという話であった。これに対し、本条の「影をおさえる」では、突出した目ざわりな敵の動きを押し込んでしまうことである。前条が、引っ張り出すのに対し、今度は、逆に、引っ込ませる。

つまり、敵の方から攻撃をしかけてくる時、こちらはそれに対応して、強く出てみせる。そうすると、その強さに敵はおされて、勢いがひるむ。そこで、その後退に乗じて、「先」〔せん〕を仕懸けて勝つ、という話である。

これも、ある意味で作戦の常識であろう。とくに際立った教えでも何でもない。ただし、そうだからといって価値の低い教えではない。何事でも基本は最後まで大切である。

しかしながら、こうした常識的な部分が、現代風の通俗解説によって汚染されている。人間関係論や人生論に応用の利く話が五輪書にあるがごとき解釈がそれである。これも、誤解の一つであろう。武蔵は戦闘術を語っているのであって、人生論を語っているのではない。

――――――――――――


ここで語釈上の問題を挙げれば、
《空〔くう〕なる心より、先〔せん〕をしかけて勝》
とある表現であろう。《空なる心より》は「心を空にして」と解してもよいが、意味合いとしては、「それまでの気持を捨て去って、新たな気持で」というほどのことである。しかし、当時一般の語法では、《空なる心より》というのが分かりよいのである。

ただし、もう少し言えば、すでに見たように、空にするのは、心を空にすることもあれば、身を空にすることもある。この「影をおさえる」では、心を空にするが、前記の「陰を動かす」では、身を空にして攻撃に出るのである。そのあたりの対比構造は、五輪書の文言では直接明確ではないが、これを読んだ武蔵流の内輪では、これだけの文言からそうした対比構造を読みとっていたはずである。

《空なる心より》を現代語に訳すのは、たいてい不始末である。ここは「虚心に」と語訳してしまうと、意味が大きくずれる。

というのも、「空にするのは、心か、身か」という一流内の文脈が消えてしまうであろうし、また、《空なる心》のポジティヴな働きという意味合いが抹消されてしまうのである。

ここは別の訳語をあてがうのではなく、以上の意味合いを汲み取った上で、「空なる心より」と、そのままにするがよかろう。語訳しないのではなく、意味を解した上で、熨斗をつけて元へ返すのである。

なお、また語釈の別の箇処について言えば、
《強きにおされて、敵の心かはる事也》
とあるところ、こちらが強く出れば、敵は気勢を挫かれて、心が変るということである。

ただし、岩波版注記に、この「つよき」を、《強気、強い態度》とするのは、意訳だろうが、誤りである。これは《強き》という名詞形でよい。その強さに気勢が圧迫されて、というほどの意味である。

――――――――――――


ところで、もうひとつ、――少し込み入った話になるが――以下の点を論うことにする。

すでに気づかれていると思うが、同じ「かげ」という言葉でも、前条では「陰」であり、こちらでは「影」である。現代語のセンスからすれば、文字で書き分けるほどの意味の差があるのかと疑われるが、実は歴然たる相異があるのである。

影は目に見えるもの、姿かたちとなって現れたものだが、陰は隠れて見えないものである。おなじ「かげ」でも、まったく対蹠的な反対物なのである。したがって「陰」と「影」は文字では書き分ける必要があるわけだ。

ところがおもしろいことに、肥後兵法書では、この「陰」と「影」が逆になっており、「影を動かす」「陰をおさえる」というタイトルなのである。これを五輪書のそれと対照させると、以下のような相違である。

 

五 輪 書 肥後兵法書
一 かげ〔陰〕をうごかすと云事。かげをうごかすと云は、敵の心のみヘわかぬ時の事也。大分の兵法にしても、何とも敵の位の見わけざる時は、我方より強くしかくる様にみせて、敵の手だてを見るもの也。手だてを見ては、各別の利にて勝事やすき所也。又、一分の兵法にしても、敵うしろに太刀を搆、脇に搆たる様なるときは、ふつとうたんとすれば、敵思ふ心を太刀にあらはすもの也。あらはれしるゝにおゐては、其まゝ利をうけて、たしかに勝をしるべきもの也。油断すれば、拍子ぬくるもの也。
一 影を動かすと云事
 影ハ陽〔よう〕のかげ也。敵太刀をひかへ、身を出して搆る時、心ハ敵の太刀をおさへ、身を空にして、敵の出たる所を、太刀にて打バ、必敵の身動き出るなり。動出れば、勝事安し。むかしハなき事なり。今は居付心をきらひて、出たる所を打なり
一 影をおさゆると云事。かげを押ると云は、敵のかたより、しかくる心の見ヘたる時の事也。大分の兵法にしては、敵のわざをせんとする所を、おさゆると云て、我方より其利を押る所を、敵に強く見すれば、強きにおされて、敵の心かはる事也。我も心をちがへて、空なる心より、先をしかけて勝所也。一分の兵法にしても、敵のおこる強き氣ざしを、利の拍子を以てやめさせ、やみたる拍子に、我勝利をうけて、先をしかくるもの也。
一 陰をおさゆると云事
 陰〔いん〕の影をおさゆると云事、敵の身の内を見るに、心のあまりたる所もあり、不足〔たらぬ〕所もあり。我太刀も、こゝろも、あまりたる所へ氣を付る様にして、足らぬ所の陰に其まゝ付ば、敵拍子まがひて、勝よきものなり。されども、我心を殘し、打所を忘れざる所肝要也。

 

 両者を対照すれば、一見形式は似ていても、「陰」と「影」の文字が入れ替わっている他にも、話の内容がずいぶん違っていると、わかる。

まず、肥後兵法書では、陰陽二つの影を語って、話は「陽の影を動かす」「陰の影をおさえる」ということである。ここで対になっている諸要素がもつのは、

   陽の影/陰の影 : 動かす/おさえる という差異の構造である。したがって、陰陽二つの影の対比であり、五輪書のように陰/影の対比ではない。

それぞれの内容をみれば、肥後兵法書は、影を「陽の影」とし、これを動かすという話である。具体的な場面としては、敵が太刀を控えて――意図を見せない――搆えをする、そのとき、敵が打って出るところを打つ。この動きが出れば、勝つことはたやすいとの教えである。

しかし、五輪書の教えは、敵の意図の見えないとき、敵を挑発して、打つと見せて、その思うところを引っ張りだすということである。敵が打って出るところを打つ、のではない。話はかなり違っている。

また、肥後兵法書では、隠れて見えない「陰の影」をおさえるといい、敵の身のうちの心の不足した所の「陰」につけ入って抑えれば、敵の拍子が狂って、これまた勝ちやすいとの教えである。 これも五輪書とは内容そのものが違っている。肥後兵法書の「陰の影」は、敵の心の不足した所、つまり盲点であって、敵自身が気づかない、見えないところである。見えないのは、こちらではなく敵自身である。これは五輪書の、敵の意図が当方には見えない場合というのとは違っている。

また「おさえる」ということにしても、陰につく、つまり敵の注意の陰、死角になっているポイントを押さえる、ということであり、五輪書の、強く出て敵の気勢を挫き、圧倒するという話とは、まるで内容が違っている。

かくして、肥後兵法書の記述を見れば、五輪書の教えから明らかに脱線している。しかも、五輪書の記述は整流され平易になっているのに、肥後兵法書では逆に混乱を生じている。「陰」と「影」と、文字が入れ替わっているのも、その一例である。新義は新義だが、五輪書の教説を理解しているとは思えない内容である。

興味深いのは、肥後兵法書に、影を動かすという事について、《むかしはなき事なり》とするところである。これは、居つく心を嫌って、敵が攻撃に出たところを打つという方法で、昔はなかったというから、新しいやり方らしい。戦闘術にも遷移があるようだが、それよりも、五輪書とは話の内容が変化してしまっている。

言い換えれば、武蔵死後、五輪書は寺尾孫之丞によって門人に伝授されるようになるが、他方、孫之丞門外に流出したものがあって、それが書写されて肥後系諸本の先祖になる。また一方では、門外流出後早々に、五輪書の内容は、摘要編集されて肥後兵法書のような別文書になる。もはや別文書だから、伝写の頚木を放たれ、解釈が加えられて、教義の内容も同時に変異したのである。これが武蔵撰述という仮託文書になるまでには、武蔵死後、それ相応の時間が必要だったと思われる。

 

 

13 感染させる (うつらかすと云事)

【原文】

一 うつらかすと云事。
うつらかすと云ハ、物ごとに有るもの也。
或ハねむりなどもうつり、或ハあくびなども
うつるもの也。時の移もあり。
大分の兵法にして、
敵うはきにして、ことをいそぐ心のミゆる時は、
少もそれにかまはざるやうにして、
いかにもゆるりとなりて見すれバ、
敵も我事にうけて、きざしたるむもの也。
其うつりたると思とき、
我方より、空の心にして、
はやく強くしかけて、勝利を得るもの也。
一分の兵法にしても、
我身も心もゆるりとして、敵のたるみの間をうけて、
強くはやく先にしかけて勝所、専也。
又、よハすると云て、是に似たる事有。
一つハ、たいくつの心、一つハ、うかつく心、
一つハ、弱くなる心。能々工夫有べし。(1)  

【現代語訳】


一 うつらかすという事

うつらかす〔感染させる〕というのは、どんなことにもあるものである。あるいは眠気などもうつり、あるいは欠伸などもうつるものである。時の移るということもある。

大分の兵法の場合で、敵が浮ついて事を急ぐ心が見える時は、少しもそれにかまわないようにして、いかにもゆるりとなって見せれば、敵もそれを我が事にうけて、闘志がたるんでしまうものである。それが感染したなと思ったとき、こちらの方から、空〔くう〕の心で、素早く強く攻撃して勝つ利を得るのである。

一分の兵法にしても、こちらは身も心もゆるりとして、(それが感染して生じる)敵のたるみの瞬間をとらえて、強く早く先に仕懸けて勝つ、ということろが専〔せん〕である。

また、よわする*といって、これに似たことがある。一つは退屈〔萎縮〕の心、一つは浮かつく心、一つは弱くなる心である。よくよく工夫あるべし。 

【註解】

 

 (1)敵も我事にうけて、きざしたるむもの也

これは伝染・感染を利用するという作戦である。伝染するといっても病気のことではなく、気の弛みが伝染するという、なかなか面白い話である。

人が何人も一緒にいて、ある人の眠気が他の人にうつり、欠伸がうつるということがある。脇の者が欠伸をすると、こちらもつい欠伸をしてしまうという具合である。

こうした気分の弛緩が伝染することもあれば、逆に緊張が伝染することもある。どうやら人間は、自分ではそういうつもりはなくとも、他人に影響されやすいものらしい。

こうした心的現象は「転移」(transference)というものだが、ここで武蔵が「うつらかす」と言っているのは、まさにこの転移という現象なのである。

人間の自我や主体性というものは、考えられているほど自立したものではない。大して独立(indendent)ではないし、自他の境界は明確ではない。他者へ容易に転移する。複数の人間が同じ幻聴をきくという幻覚の事例は多く、日常生活においても、とくに「気分」というのものは無意識のうちに相互に影響し合っている。

こうした心の現象も戦いに利用できる。こちらが弛みを見せれば、相手の気も弛む。気の弛みが感染するのである。そこで敵の弛んだところを一撃するというわけだ。

このことは、武蔵の心理作戦と解釈されている。しかし、これは古今東西どこでも言ってきたことだ。武蔵にかぎったことではない。いわば戦いの基本である。武蔵を人間心理をよく見抜いた達人とする通俗解釈があるが、武蔵はそういう「心理学」とは無縁である。武蔵の戦闘心理学は通常の心理学ではない。むしろ心理学を超えた心理学というべき境位が、武蔵のロジックにはある。

それは一つには、武蔵は心理を解釈するだけではなく、それを利用して行動するという行動のメタレベルでのリフレクションを教えているからだ。

もう一つは、こうである。――戦いの暴力的空間では、ことに人間は敵も味方も無差異化し、相互に相手を模倣し合っている。我と敵は対立し合っているが、実は本質的には同質の成分して戦闘空間を構成している。言い換えれば、戦争機械としての敵と我は、相似の双子・分身(double)としてしかありえない。

したがって、先ほどの「うつる」という心的現象にしても、まさにこの戦闘空間における敵我無差異化の一結果にほかならぬ。この境位に留まるかぎり、武蔵のいう「勝つ利」は生じない。

これに対し、武蔵の教えのポイントは、まさしく、この相互分身性のミメーシス空間を破断することである。それが、《其うつりたると思とき、我方より、空の心にして、はやく強くしかけて、勝利を得る》ということなのである。

ただし、この《空の心にして》というのは、いわゆる「無心」「虚心」ということではない。ここで「空の心にして」というのは、何の兆しもみせず、ということである。不意に攻撃することである。「空の心」とは、また一つの戦闘道具であって、うつり、うつらかすこの敵我相互分身性の戦闘空間を破断する心である。言い換えれば、敵我同質の戦闘空間にあって、異質な他者として行動するというのが、一貫して武蔵流なのである。

こうなると、もはや「心理学」でない。「戦闘思想」と我々が謂うところのものである。武蔵の教えを心理学として読むのは間違いである。ことに、この段を含む以下数条を、武蔵流心理学と読む通俗解釈があるが、この点を注意しておきたい。
――――――――――――


さて、語釈の点で注意すべきは、まず、
《よハすると云て、是に似たる事有》
とあるところ、この《よハする》は、「弱する」で、当時の口語。気持がしっかりせず、ふらふらとよろめき、ぐらつくようにさせることである。気力を後退させるのである。

これを、以下に武蔵は分析してみせる。それをみると、これも多義的な語彙である。
《一つハ、たいくつの心、一つハ、うかつく心、一つハ、弱くなる心》

まず、この《たいくつ》は、「退屈」ということだが、ただし、何もすることがなくて暇をもてあます、といった現代語の意味ではない。むしろ文字通りの「退屈」、退き屈することで、疲れて気力が萎える、いや気がさすことであり、また、怯えて後退すること、萎縮すること、不安になることである。
《間もなく病気又は悪風にたいくつして、幾たりか替りて》(武家義理物語)

第二の《うかつく心》は、闘志が高揚するのではなく、浮き足立って、足が地につかないさまである。うわついて、まともな判断ができなくなるのである。そして、第三の《弱くなる心》は、気弱になって、闘志が萎えてしまうことである。

ところで、この《よハすると云て、是に似たる事有》以下の部分について、既成現代語訳はいかがであろうか。

まず、《よハする》という語については、戦前の石田訳は誤っていない。ところが、戦後の神子訳は、これを何と、「酔わせる」と訳している。これは、もとより誤りである。以下に武蔵が、「たいくつの心」「うかつく心」「弱くなる心」と、《よハする》の内容を列挙しているのだから、わかりそうなものだが、何を勘違いしたのか、「醉わせる」なのである。

また、《たいくつ》についてはどうかと見るに、まず石田訳が「退屈な心」として誤解の先駆となった。もちろん、「退屈」が現代語の意味なら、ここでの《たいくつ》の語義ではない。《たいくつ》は、退屈にして退屈にあらず。文字は同じでも、昔と今とでは意味が違うのである。

かくして《たいくつ》の誤訳は、戦後も反復された。神子訳然り、である。岩波版注記は《たいくつ》を、「心にいや気のさすこと。だれてくること」と注釈しているが、それではこの語の意味が不足である。ここは「怯えて後退すること、萎縮すること、不安になること」といった、さらなる「退屈」の古義を示すべきところである。

岩波版注記以後の現代語訳は、いづれも見ての通りである。とくに鎌田訳は、岩波版注記の語釈を頂戴するとともに、訳文は神子訳を引き写したものとみえる。

――――――――――――


この条の校異の問題で指摘すべきは、次の箇処であろう。すなわち、筑前系諸本に、
《或ハねむりなどもうつり、或ハあくびなどもうつるもの也》
とあって、《あくびなども》とするところ、肥後系諸本の中には、これを、《あくびなどの》として、「も」字ではなく「の」字に作るものがある。

しかし、これは肥後系諸本共通のことではなく、楠家本・細川家本・丸岡家本等に限ったことである。筑前系/肥後系を横断して共通するのは、《あくびなども》と「も」字を記す方である。したがって、この「も」字を記す方が正しい。

これは、早期派生系統の子孫たる富永家本や円明流諸本も同じであるから、肥後系でも早期は「も」字を記したのである。これに対し、《あくびなどの》として「の」字を記す、楠家本・細川家本・丸岡家本等は、近縁関係にある諸本であり、しかも後発性を有する点で共通している。

もとより、これら三本を古いとみなす理由はない。この三本は、肥後系諸本の中では相対的に「正確」である。しかし、「正確」だということと、「古い」ということは、別のことである。越後系諸本のように、より新しいものでも、正確な写本が存在するのである。

《あくびなどの》と「の」字に作る、この箇処の誤字を見るに、楠家本・細川家本・丸岡家本等三本は後発性を示し、新しい段階の写本である。肥後系早期写本からの距離がある。というのも、この三本の系統は、先に丸岡家本が派生し、次に、楠家本と細川家本の派生があった。したがって、その間に複数回の書写があったということである。

こうしたことは、先入見を廃棄して、広く諸本の文言を照合してはじめて、明らかになることである。とくに肥後系諸本のみを見ていては、それが分らない。肥後系写本への偏向、それが五輪書研究の、今日まで停滞低迷してきた原因である。

 

 

14 むかづかせる (むかづかすると云事)

【原文】

 
一 むかづかすると云事。
むかづかすると云ハ、物毎にあり。
一つにハ、きはどき心、
二つにハ、むりなる心。
三つにハ、思はざる心。能吟味有べし。
大分の兵法にして、
むかづかする事、肝要也。
敵のおもはざる所へ、いきどふしくしかけて、
敵の心のきはまらざるうちに、
わが利を以て、先をしかけて勝事、肝要也。
又、一分の兵法にしても、
初ゆるりと見せて、俄に強くかゝり、
敵の心のめりかり、はたらきにしたがひ、
いきをぬかさず、其まゝ利をうけて、
かちをわきまゆる事、肝要也。
能々吟味有べし。(1)

 

 

【現代語訳】

 

一 むかづかせるという事

むかづかせる*というのは、どんなことにもある。一つには、危険な目にあっておきる心、二つには、ひどい目にあっておきる心、三つには、予期せず不意をくらっておきる心、である。(これらを)よく吟味しなさい。

大分の兵法〔合戦〕において、(敵を)むかづかせることが肝要である。敵の予期しないことろへ、息が詰まるほど(猛烈な攻撃を)仕懸けて、敵の心の定まらぬ内に、我が利〔優位〕をもって先〔せん〕を仕懸けて勝つこと、これが肝要である。

また、一分の兵法〔個人戦〕にしても、最初はゆるりとしたふりを見せて、突然強く攻撃に出て、敵の心の抑揚高低やその働きに応じて、息を抜かさず、すぐさま利〔優位〕を受けて勝つ、これをわきまえることが肝要である。よくよく吟味あるべし。

 

 

 

【註解】

 (1)むかづかする事、肝要也

この教えのキーワードは《むかづかする》、敵の心をむかづかせる、である。この「むかづく」は現代語に同じような言葉「むかつく」があって、とくに問題はなさそうにみえる。つまり、むっと腹を立てるという現代語の意味である。

ところが、この「むかづく」という語こそ、まさに語釈を必要としているのである。意外と思われるかもしれないが、これを現代語の「むかつく」、「腹を立てる」と訳しては、明らかに間違いなのである。

この「むかづく」は、文字通りの意味である。すなわち、吐きもどす、という意味のあるところ、そこから、要するに現代語流に言えば、「げっ」という気分になることが「むかづく」である――と言えば、その語感がわかるはずである。決して、腹を立てるなどいう語義ではない。

周知のごとく、「ゑづく」という類語もあって、現代でも口語に残っている。北九州方言に、「えづかァ」といえば、これは恐ろしいという意味である。

また、云うまでもないが、これは「むかづく」と濁音で読んだ語である。

こういう二語連合における濁音化、連濁については注意すべきところである。懐中を指す「ふところ」という言葉がある。今日では「ふところ」といって、それがあたりまえのようであるが、これは本来「ふどころ」、腑どころ、である。「泣き所」が今日でも「なきどころ」であって、「なきところ」でないのと同じである。

「づく」にしても、「名づく」「ぬかづく」という語例があり、現代語でも「色づく」「腕づく」といって「色つく」「腕つく」と言わない。そのような濁音化「づく」に留意すれば、上に挙げた「ゑづく」もそうだが、ここでは「むかづく」だったのが知れよう。したがって、翻刻において、句読点の他に清濁音分別までするばあいは、「むかづく」とすべきである。「むかつく」では正しいとは言えず、しかもそれを、現代語の「むかつく」と同列に扱うとすれば、誤りなのである。

「むかづく」の意味は、たとえば田村家本に、「煩嘔スルト云事」とあって、《むかづかする》に「煩嘔」という漢字を当てている。これを見ると、十九世紀前期あたりでも、人は「むかづかする」という語の本来の意味で理解しているし、上記の方言「えづかァ」と同様に、これが「立腹」の意などとは思ってもいないのである。

この「げっ」という気分は、驚愕をまじえた、直接的な情動反応である。とくに「むかづく」というのは吐き戻すという否認(disavowal)の心身反応である。武蔵が挙げる事例をみれば、
一つには、きはどき心
二つには、無理なる心
三つには、思はざる心
である。際どい心というのは、危機一髪の危険な目に逢ったときの、「げっ」という心である。無理なる心とある、「無理」はここでは、道理が立たないことではなく、もっと口語的に、ひどい、酷い、という意味合いである。これは、ひどい目にあったときの「げっ」という心である。もう一つは、思わざる心。これは、予期しないことに出くわしたときの「げっ」という心である。

我々の現代語訳では、この語釈に沿って、上掲のごとく意訳を提示している。ことに「無理なる心」は、そのまま「無理な」と現代語に訳しては誤訳になるからである。

こうして見れば、明らかなことだが、武蔵の挙げた事例を満足するのは、「腹を立てる」という語義ではない。どれもこれも、驚いて「げっ」という気分になるのが、「むかづく」である。「敵の心をむかづかせる」とは、敵を驚かせて「げっ」という気分にさせることである。


ここで他の語釈例を見るに、岩波版注記では、案の定、――「むっと腹を立てさせる、怒らせる。相手の心理硬化を狙う作戦」という珍解釈を披露している。

ただし、これを「腹を立てさせる」としたのは、すでに前例が明治期からある。たとえば『劔道秘要』(明治四十三年)の三橋鑑一郎による割注も、《むかつくとは俗にむっとする意なり立腹する氣なり》としていたのである。それゆえ、この「むかづく」という語は、少なくとも明治以来誤解されてきたのである。

文章を読めば明白なことであるが、「むかづく」を、むっとする、立腹する、と解しては、文脈内では文意が不通になる。ここで武蔵は、この「むかづかせる」について、具体的にどう云っているか。
《敵のおもはざる所へ、いきどふしくしかけて、敵の心のきはまらざるうちに、わが利を以て、先をしかけて勝事》
《初ゆるりと見せて、俄に強くかゝり、敵の心のめりかり、はたらきにしたがひ、いきをぬかさず、其まゝ利をうけて、かちをわきまゆる事》

ようするに、敵の予期せぬところを不意に仕掛けて、先をとることである。この不意の攻撃に、敵は驚いて「げっ」となる、それが「むかづく」である。

それゆえ、この不意の攻撃に敵が立腹する、――と、そんな変なことを、だれが言おうか。ところが、そんなことを武蔵が言っているという珍解釈が、今日まで延々まかり通ってきたのである。違和感があっても、そこは武蔵先生の教えである、間違いがあろうか――という具合なのであった。しかし、これは武蔵が奇体なことを言っていたのではなく、近代の、解釈する側、読み手が間違っていたのである。

この誤りを、だれも明確に指摘したものはなかった。少なからぬ者が首を傾げたはずなのに、五輪書読解史において、まさにそれが指摘されたことがなかったことが問題なのである。

さて、ここでの武蔵の教えは、前記のごとく、敵の予期せぬところを不意に仕掛けて、「げっ」というほど敵を驚かせ、先をとることである。要するに、不意打ちの効果から先〔せん〕を取る利を引き出すということである。

この教えに関して、「敵を立腹させる心理作戦」などという珍解釈が、従来支配的であったが、これはまったくの誤謬である。五輪書をきちんと読解できれば、武蔵がそんなことを決して言ってはいないことがわかるはずである。


既成現代語訳について云えば、「むかづかせる」の語釈に過誤がある伝統を受けて、まさにどれも根本的な問題を抱えている。この条の一部でさえ、右掲の通りである。

石田訳は、とくに別語で置き換えていない。神子訳は、《むかづかする》がさすがに「怒らせる」では具合が悪いと思ったものか、「怒らせる」という語訳を回避して、「心の平衡を失う」として「超訳」に救いを求めているが、よくみれば、それは、戦前の石井訳が《きわどき心》を「不安定な心になること」と誤訳したのを流用しているらしい。ただし、この「心の平衡を失う」という語訳では、むろん「むかづく」の意味は大きくはずれる。

後の大河内訳は、岩波版注記を頂戴して、これを「怒らせる」と訳すのであるが、鎌田訳は、珍しく岩波版注記をパクらず、神子の「超訳」路線を頂戴している。これは、何をかいわんや、論評外である。

また、《無理なる心》ついては、石田訳は「理に背いた心になる」と珍訳を示し、戦後の神子訳は、これを「困難な場合」とした。石田訳は、「無理」を字義通りに読み、神子訳は、これを現代口語の「無理な」と錯覚して、「困難な」と言い換えたが、そもそもそれが間違いである。

続く二者は、神子訳なら「無理な」とするの躊躇したところを、文字通り「無理な」と書いてしまった。古語も現代語も見境いなしである。彼らにとって、ここはなるほど、無理な箇処であったもののようである。

 

 

15 おびやかす (おびやかすと云事)

【原文】

 一 おびやかすと云事。
おびゆると云ハ、物毎に有事也。
思ひもよらぬ事におびゆる心也。
大分の兵法にしても、敵をおびやかす事、肝要也*。
或ハ、ものゝ聲にてもおびやかし、
或ハ、小を大にしておびやかし、
又、片脇よりふつとおびやかす事。
是おびゆる所也。
其おびゆる拍子を得て、其利を以て勝べし。
一分の兵法にしても、身を以ておびやかし、
太刀を以ておびやかし、声を以ておびやかし、
敵の心になき事、ふつとしかけて、
おびゆる所の利をうけて、其まゝ勝を得事、肝要也。
能々吟味有べし。(1)

 

 

【現代語訳】

 

一 おびやかすという事

おびえるということは、どんなことにでもあることである。思いもよらないないことにおびえる心である。

大分の兵法〔合戦〕にしても、敵をおびやかすことが肝要である。(たとえば)物の音声でもおびやかしたり、あるいは小を(急に)大にしておびやかし、また片脇から「ふっ」と(不意に出て)おびやかすこと、これがおびえるところである。そのおびえた拍子をとらえて、その利〔優位〕をもって勝つべし。

一分の兵法〔個人戦〕にしても、身体によっておびやかし、太刀によっておびやかし、声によっておびやかし、敵の予期しないことを「ふっ」と(急に)仕懸けて、(敵が)おびえたところの利を受けて、ただちに勝ちを得ること、それが肝要である。よくよく吟味あるべし。

 

 

 

【註解】

 

 (1)思ひもよらぬ事におびゆる心也

ここは前条と一連の内容であるから、とくに説明は要しないであろう。

敵を怯えさせる――それは、物の音声でも脅やかし、あるいは小を急に大にして威し、また脇から不意に飛び出して脅かす。そこで優位に立って、相手を打ち負かすのである。

敵に脅威を与え、怯えさせるという作戦である。ならば、一分の兵法〔個人戦〕の場合はどうかというと、これも脅やかしは有効である。
《身を以ておびやかし、太刀を以ておびやかし、声を以ておびやかし》
とあるごとくである。身体も太刀も声も威嚇する道具になり、敵を恐怖させるのは、優位に立つ手段である。「小」を急に「大」にして威すのも可である。もとより、
《片脇よりふつとおびやかす》
《敵の心になき事ふつとしかけて、おびゆる所の利をうけて、其まゝ勝を得》
とあるからには、この脅やかしも、前条の「むかづかせる」と同じく、敵の予期しないことを不意に仕掛けて、怯えを生産するのである。言い換えれば、このあたり武蔵は連続して、「敵の心になきことを不意に仕かける」という作戦を語っているわけである。そのかぎりにおいて、「むかづかせる」も「おびやかす」も同列である。

ここで《ふつとおびやかす》《ふつとしかけて》とある「ふつと」は、現代語にもある「ふっと」という語である。不意に、不図、という意味である。語感を保全するには、下手に語訳せずに、そのままでよい。

肥後系細川家本は、この「ふつと」を「不斗」「与風」と漢字表記しているが、これらは五輪書の他の写本に見かけない書字である。言い換えれば、こういう恣意的な漢字変換は、細川家本の写本としての後発性を示すばかりではなく、「自分は門外漢だけど、有名な宮本武蔵の兵書を書写したよ」という表徴がこれである。

――――――――――――

 

ここで諸本校異の問題を指摘すれば、とくに以下の諸点に注意を喚起しておきたい。一つ目は、本条冒頭のところ、すなわち、筑前系諸本には、
《一 おびやかすと云事。をびゆると云ハ、物毎に有事也》
とあって、《云ハ》として「ハ」字を記すところ、肥後系諸本では、《云事》として「事」に作る。つまり、「ハ」と「事」の相異である。

これの判別はさして難しいことではない。たとえば、本条前と後の条に、
《一 むかつかすると云事。むかつかすると云ハ》
《一 まぶるゝと云事。まぶるゝと云ハ》
とあるように、タイトル部分は《云事》、本文に入って《云ハ》、というスタイルである。したがって、この条においても異例である理由はなく、《をびゆると云ハ》とするのが正しい。この点、肥後系諸本の《云事》は、明らかに誤記である。

ただし、富永家本では、この箇処に写し崩れを見せるものの、《おびやかすと云ハ》として、《云ハ》に作る。富永家本は、早期に派生した系統の子孫とみなしうる写本であるから、おそらく肥後系でも早期には、《云ハ》と書いていたものらしい。

肥後系諸本は、この系統以外は、円明流系統も含めて、《云事》と記す。それに対し、筑前系諸本は、《云ハ》と記す。したがってこの誤記は、肥後で後に発生したものである。現存諸本は多くが、この誤記を有する写本の子孫である。

もちろん、楠家本・細川家本・丸岡家本の三本もその例外ではない。言い換えれば、この三本も誤記発生後の写本の子孫であって、後発性の指標を有するのである。字句の示すところは古いものではない。

あるいは同じような校異にかかわる箇処だが、筑前系/肥後系を通じて、諸本おおむね、《敵の心になき事、ふつとしかけて》とする文がある。この《ふつと》は、とくに問題なく読める箇処である。ところが、細川家本には、ここを、妙な文字で記している。

通例、ここは《ふつと》と三文字だが、それが二文字なのである。その最初の文字は、「よ」(与)と読める。次の文字は、なにやら「得」と記しているように読める。

他方、細川家本と祖本を共有する常武堂本には、これも同じように二文字で書いており、最初の文字は、「よ」(与)で同じ、次の文字は、「え」のつもりで「得」または「江」と書いているようである。

そうすると、何れにしても、ここは、《よえ》(与得・与江)と書いたものであろう。しかし、むろん、《よえしかけて》では意味不通である。ところが、書写者は、意味不通のまま、祖本の文字をそう読んで、誤記してしまった。

しかし、どうして、そんなふうに紛らわしいことになったのか。同じ肥後系でも、富永家本や楠家本などは、《ふつと》と正しく記している。つまり、肥後系早期には、筑前系諸本と同様、ここは《ふつと》と記していたのである。

この混乱は、ようするに、常武堂本と細川家本の系統の祖本の段階で、まず、《ふつと》という文字が、二文字に化けていたのである。たぶんそれは、《ふつと》の仮名三文字を、わざと、《不図》という漢字二文字に書き換えたのである。しかも、判然としない文字であったらしい。

この祖本の書写者は、恣意的に文字を書き換える性向があったようで、この同じ「おびやかすと云事」条では他に、《不斗》という文字も使用している。

その《不斗》という文字は読みやすかったと見えて、常武堂本も細川家本もこれをその通りに記している。しかし問題は、こちらの《不図》という文字が、そうとは読めない文字だったらしいことである。

まず、《不図》の「不」字が、「よ」(与)としか読めないもので、そこから筆写者を困惑させたのである。次の「図」字もそうとは読めない文字で、後に、常武堂本や細川家本の「得」という文字を生産してしまったのである。

このように、常武堂本と細川家本の系統に生じたこの混乱は、もともと祖本の段階で、《ふつと》の仮名三文字を、《不図》という漢字二字に変換したこと、そしてその文字が判読しがたい字体で書かれていたことに起因するもののようである。

これが、他の諸本にはない文字であることは云うまでもない。、常武堂本と細川家本の系統の祖本にのみ発生した異字であった。それゆえ、この特異文字はこの系統の後発性を示す。そして、その祖本の文字を読み損ねたのが、細川家本の筆写者なのである。

   「ふつと」 → 「不図」 → 「与得」(よえ)

かくして、祖本で「不図」という異字が書かれ、そしてそれをさらに、細川家本は「与得」と読み誤ったのである。最初、祖本は異字変換だけのことだったが、次の世代で誤写が生じた。言い換えれば、この系統の後発性は二段階を含むのである。

しかるに、細川家本に記されたこの紛らわしい文字をめぐって、おかしげなことが生じた。戦前の刊本、岩波文庫(高柳光壽校訂)では、ここを《風與》と記して、「ふと」とルビをふっている。しかし、上掲画像のように、どう見ても、そんな文字は細川本の当該箇処には書かれていない。これは校訂者による一種のテクスト改竄である。

まず、高柳光壽は「得」字を「風」と読み間違えた。ここを「与風」と読んだ。しかし、それはまだしも、「与風」を「ふと」と読めぬとでも思ったのか、これを「風与」と前後逆転して、「ふと」と読ませたのである。しかも、「与」字について、戦前の本だから、これをわざわざ「與」という正字に書換えてしまった。その結果、岩波版五輪書では、ここに、原本字句とは似ても似つかない《風與》という文字が出現するようになったのである。

これでは、いくら何でもひどいと見たのか、戦後版の『日本思想大系』本になると、これを訂正して「与風」と記すようになった。しかし、戦前の高柳光壽の轍を踏んで、「得」を「風」と読んでしまった。この戦後の校訂も、戦前の高柳の仕わざに影響された誤読である。要するに、戦前も戦後も、書いてある文字を読んでいないのである。

ようするに、細川家本のこの二文字は、これまでまともに読まれたためしがないという珍例である。もとより、これは、恣意的な書換えとその後の誤読に発する文字だから、あげつらう意義のないことだが、五輪書というテクストの読みには、そんなおかしな錯誤もあったということである。

これは、細川家本の系統の祖本で発生した誤読だから、楠家本はそれとは無関係である。楠家本は、とくに何の困惑もなく《ふつと》と記している。ところが、丸岡家本をみると、この箇所で、別のエラーが発生したようである。

丸岡家本は、ここを、《敵の心になき事を、風としかけて》と記して、《ふつと》を、「を風と」と読み間違えている。これはおそらく、まず「を」字の錯入があり、《ふつと》の「つ」字を、「う」字に読み違えたのであろう。したがって、これは細川家本の系統の祖本で発生した誤読とは種類が異なる。

他方、早期分岐派生の写本の子孫、つまり富永家本は、これを問題なく、《ふつと》と読んでいる。山岡鉄舟本にしても同様である。ところが、円明流系統のうち、狩野文庫本には、《敵の心ニなき事を、風と仕掛て》と記し、また稼堂文庫本には、《敵の心になき事を、ふつと仕懸て》とあるから、これは丸岡家本と同じ「を」字の錯入によるものである。そうしてみると、丸岡家本の錯誤は、諸本の陥りやすいエラーであったとみえる。

したがって、丸岡家本の錯誤パターンはありふれたものだから、それは別にして、細川家本の上記の錯誤には、独特なものがあった。言い換えれば、それが他にないユニークな錯誤であるだけに、この点でも、細川家本は後発的な写本とみるべきところである。


さて、校異のもう一つは、以上二件よりもはるかに重大な問題箇処である。これは五輪書研究史上、これまで看過され、まともに問題化されたことさえなかった点なので、とくに注意して以下を読んでいただきたい。それは、すなわち、筑前系諸本のうち早川系の吉田家本・中山文庫本・鈴木家本に、
《大分の兵法にしても、敵をおびやかす事、眼前の事也》
と記しているところであるが、それに対し、同じ筑前系でも、立花隨翁本はじめ越後系諸本には、
《大分の兵法にして、敵をおびやかす事、眼前也》
とあって、すでに筑前系諸本間でも相異を示すところである。

つまり、同じ筑前系でも、早川系の吉田家本・中山文庫本・鈴木家本は、《眼前の事也》であり、立花隨翁本をはじめ越後系の諸本には、これを《眼前也》とする。

しかし、さらなる相異が肥後系諸本にはある。肥後系では、これを《眼前の事にあらず》と、否定形で記すのである。

かくして、筑前系諸本では、《眼前(の事)也》とするのだが、それに対し、肥後系諸本では、《眼前の事にあらず》と記す。ようするに、これでは話はまったく正反対である。

では、どちらが正しいのか。

この件について、結論を先に言えば、実はどちらも誤りなのであった。この校異は、筑前系/肥後系の指標的差異なのだが、それ以前の最初に問題があったのである。

それというのも、ここで「眼前」と記されている語句こそが、実は問題なのである。そのヒントは、この諸本校異において、最もシンプルなかたちを示すところの、立花=越後系諸本の《眼前也》である。

以前は我々も、筑前系の《眼前の事也》と肥後系の《眼前の事にあらず》を、双方を区別する指標的差異とみなし、この対立フレームの中で事を考えていた。筑前系/肥後系の《…也》/《…にあらず》という背反する対立に惑わされて、《眼前の事》という字句を踏越えることができず、百尺竿頭、もう一歩を踏み出せなかったのである。しかし、越後で諸写本を発掘して、その字句《眼前也》に接するに及んで、ようやくこの問題を解く鍵を得たのである。

要するに、これは、直前条「むかづかすると云事」と対応させてみればよい。立花=越後系諸本には、こう記す。
《大分の兵法にして、むかづかする事、肝要也》
《大分の兵法にして、敵をおびやかす事、眼前也》

かくして結論を言えば、諸本の「眼前」という字句は、この「肝要」という文字の誤写だったということである。「眼前」という文字の正体は、草体では字面が似ている「肝要」という文字だったのである。

これで、五輪書では異例の「眼前」という文字は、本来の姿に復元できることになり、通らぬ文意もやっと開通した。というのも、文脈上、ここに「眼前」という文字があっては、文意不通である。そのため我々も以前から、これは誤字ではないか、という疑念を抱いていたのだが、解決には至らなかった。しかし、このようにして、はじめて「肝要」という文字に思い至ったのである。

では、この「眼前」という誤字はいつ生じたのか。それは、筑前系/肥後系を横断して「眼前」の文字があることから、寺尾孫之丞の段階まで遡りうる書字である。

おそらく寺尾孫之丞は、武蔵が書いた草体文字「肝要」を、「眼前」と誤読したのである。武蔵の能筆書字では、そうとしか読めなかったのだろう。「敵をおびやかす事は、明白である」という文意に読んだ。そして寺尾は、写本にその《眼前也》と書いて、それを門人らに伝授したのである。

しかし、《敵をおびやかす事、眼前也》では、やはり文意は通らない。かくして、迷惑したのは、つまり、迷い惑ったのは、道統末裔である。

筑前系の立花=越後系は、寺尾の書字そのままを伝えたが、同じ筑前系の早川系では、これを《眼前の事也》として「の事」二字を書き加えた。これは「眼前」という語を、「明白な」という寺尾孫之丞の意味ではなく、「目の当たり」と解釈したため、《眼前也》では意味が通らぬ、脱字があるだろうとして、「の事」二字を挿入したのである。

肥後系の方は、門外流出後のことだから、話はもっと乱妨である。《眼前の事にあらず》と書くようになった。これは、寺尾孫之丞段階の《眼前也》からすれば、複数回の誤写を経て、かようなかけ離れた文言に至ったものである。もちろん、これでは、ますます文意は通らないのだが、それもこれも、「眼前」という誤字がもたらした迷惑なのである。

ともあれ、武蔵のオリジナル原稿を復元するかぎりにおいて、ここは、寺尾が読み取った「眼前」ではなく、「肝要」という字句でなければならぬ。まさに、「眼前」のことにあらず、である。

以上の最新研究の結論から、我々のテクストでは、この復元文字「肝要」を採っている。周知の如く、我々の五輪書読解研究は、自余の諸研究と比較すれば、数段階先に進んでいる。まさに、その一例は、このような間テクスト的分析と、それによって導出される語句復元が推進されているところにある。


さて、そこで、この箇処の既成現代語訳を見る必要はあろうか。

というのも、既成現代語訳は、どれも細川家本を底本とする(と称する)ものである。肥後系諸本の例にもれず、細川家本も、これを《眼前の事にあらず》と書く。したがって、こうした明白な誤記を有するものを原文とするのだから、語訳以前に錯誤があると言うべきである。

それゆえ、訳者には原因はないのだが、この誤記をそのまま受け取る羽目になった既成現代語訳は、これをどう処理しているか、それを一通り見ておくのも、五輪書翻訳史を跡付ける意味で、無駄ではあるまい。

まず、戦前の石田訳は、《眼前の事にあらず》を、「眼に見える物によるばかりではない」と訳した。これは、「ばかり」という語を密輸した意訳であるが、もしそうであれば、原文は、《目に見ゆる物のみにあらず》と記していたはずである。ここで、どうして《眼前の事にあらず》という語句になっているか、そのことを疑うことをしないから、こういう無理やりの語訳/誤訳になる。ようするに、「眼前の事」を、可視/不可視の問題として読むのがあやまりである。

ところが、《眼前の事にあらず》を、可視ではなく不可視の問題だとして読むという、石田訳が敷設したこの路線に、戦後の現代語訳もそのまま乗ってしまった。神子訳は「目に見えることでおびやかすだけではない」とした。しかし、細川家本原文に、《小を大にしておびやかし、亦、かたわきより、不斗おびやかす事》とあるのが、どうして不可視のことになるのか、これこそ目に見えることで脅やかすことであるはずだが、訳者は自身の語釈の破綻に気づかないもののようである。

その後の岩波版注記では、神子訳を「目に見えることだけではない」というぐあいに若干修正した。しかしそれだけのことで、語釈は相変わらずであり、新しい工夫は何もない。しかも、続く現代語訳は、大河内訳・鎌田訳のように、例によって、岩波版注記の文言を、鸚鵡のように反復する始末である。

細川家本(あるいは岩波版)しか知らないから、こういう無理やりの珍訳ばかりになってしまうのである。これも、もとはと云えば、細川家本の誤記に起因することではあるが、しかしその細川家本も、先行する写本の誤記を引き継いだだけである。その先行写本もまた、それ以前の写本の誤記を引き継いでいた…というわけで、ようするに、何段階も経て、この細川家本に行き着いた誤記なのである。

かようなことは、我々の五輪書研究の進展の結果、はじめて判明したことである。肥後系諸本ばかりを見ていてはわからず、またそれに加えて、筑前系も、早川系諸本のみを見てもわからないことである。

それが、新たに越後系諸本を発掘したことにより、それら諸本を見て、ようやく、問題箇処の原型が《眼前也》という文言であったとわかった。そしてそれが、寺尾孫之丞段階で誤写されたものであり、「眼前」という文字の正体は「肝要」だったと知れたのである。我々の五輪書研究も一道一路ではなく、こういう紆余曲折を必要としたのである。

 

 

16 まぶれる (まぶるゝと云事)

【原文】

 一 まぶるゝと云事。
まぶるゝと云ハ、敵我ちかくなつて、
たがひに強くはり合て、
はかゆかざるとミれバ、
其まゝ敵とひとつにまぶれあひて、
まぶれ合たる其内の利を以て勝事、肝要也。
大分小分の兵法にも、
敵我かたわけてハ、たがひに
心はりあひて、勝のつかざるときハ、
其まゝ敵にまぶれて、
たがひにわけなくなるやうにして、
其内の徳を得て、其内の勝をしりて、
強く勝事、専也。能々吟味有べし。(1)

 

 

【現代語訳】

 

一 まぶれるという事

まぶれる*〔混り合う〕というのは、敵とこちらが接近して、互いに強く張り合って、捗が行かないと見れば、すぐさま敵と一つにまぶれ合って、まぶれ合ったその最中の利〔優位〕によって勝つこと、これが肝要である。

大分小分〔多数少数〕の兵法においても、敵と我方とを区分していては、互いに心が張り合って、(なかなか)勝ちに至らない。そのときは、すぐさま敵にまぶれて、(敵と)互いに区別できないようにして、その最中の徳〔得、有利〕を得て、その最中の勝機を把握して、しっかりと勝つこと、これが専〔せん〕である。よくよく吟味あるべし。

 

 

 

【註解】

 

 (1)其まゝ敵とひとつにまぶれあひて

ここは、混戦状態にもち込んで勝つという方法である。

むろん個人戦ではなく、多数少数の違いはあれ、集団戦の話である。武蔵が珍しく集団戦のみの話をしているのが、この段である。

武蔵の教えは、敵我互いに強く拮抗して、その膠着状態のまま決着がつかないと見れば、すぐさま「敵と一つにまぶれ合う」、つまり混戦状態にもち込め、という趣旨である。つまりは、渾沌戦法である。

この《まぶるゝ》という語は、日葡辞書に、《ドロニmabururu(まぶるる)》とあり、現代語では「泥にまみれる」とそのまま残り、また「塩をまぶす」といった表現にも残存している。要するに、「塗〔まみ〕れる」であるが、かたや「まぎれる」でもある。分別区別できないほど紛らわしくなる、の意である。いづれにしても、b音-m音-g音という子音転化があって、語義の似たこれら諸語が、ゆるい連合関係を形成しているのである。

それで、《まぶるゝ》という語は、ここで、相互に混合して区別がつかなくなるという意味で使われているから、現代語では「まぎれ合う」が最も近い語義である。我々は、それゆえ現代語と紛らわしいので、「まぶれる」とそのままにして、とくに語訳はしないのである。

《敵とひとつににまぶれあひ》というのは、自他の区別がつかなくなるほど、混じり込んだ混戦状態である。すなわち、
《其まゝ敵にまぶれて、たがひにわけなくなるやうにして》
とも云う状態、つまり、自他の区別がつかなくなるほど紛れあったかたちである。

敵我張り合って拮抗する状態になって、捗が行かない、――その事態を打開する方法として、前にあった教えは、「四つ手をはなす」の教えである。敵もこちらも同じ心持になって、張り合う気持になったなと思ったら、すぐさまこの気持を捨て去って、まったくちがう別の利で勝つ、という話であった。

しかしながら、この「まぶるゝ」で武蔵が言うのは、それとは逆の戦術である。すなわち、「はなす」のではなく、全く反対に、「敵と一つにまぶれあう」のだから。

常識的には、「四つ手をはなす」の方がわかりよい。いったん敵から離れて、体勢を立て直して攻撃する。しかも、我が方は一団となって固まっていた方が、戦いに有利なように思われる。

となると、敵我の自他明確に対立して戦う搆図である。武蔵のいう《敵とひとつにまぶれあふ》状態ではない。それゆえ、ここでの《敵にまぶれて、たがひにわけなくなるやうにして》という戦い方は、常識に反しているのではないか――というのが、おおかたの感想であろう。

ところが五輪書に一貫しているのは、そういう常識的な戦い方ではなく、敵の予想もしない奇手も使うという教えである。要するに、武蔵の戦法は基本的に、臨機応変のゲリラ的な遊撃戦である。

五輪書を書く時、武蔵の念頭にあったのは、他の兵法書の常識的な戦術教訓であろう。そうした既成兵法書の常識を構成するのが、いわば秩序意識である。そのような思考のスタティックな秩序性を批判するかたちで、こうしたゲリラ的戦法が対置されているのである。

こういう混戦へもち込む混乱戦術が、有効かどうかは知らない。また、だれも知らないだろう。

人はだれでも、戦場で実際に戦うのは、生涯に指で数えるほどしかない稀なことである。だれも大した戦闘経験はもたない。それゆえ陣形の秘法を示す兵法書が存在するのだが、その著述者自身が大した経験をもっていないのである。

それはどんな時代でもそうである。今日、経済の学者や評論家はいても、経済のプロがこの世に存在しないのと同じように、かつて戦争のプロなどこの世に存在しなかった。戦争のプロのような顔をして垂訓するのは、ようするに、詐術者(imposter)である。

武蔵をして五輪書を書かせた動因には、そういう現状批判があったものと思われる。従来一部に、武蔵は実際の合戦経験が大してないのに、合戦指導のようなことを書いている、という奇妙な批判があった。しかし、五輪書を読めば明らかなように、この書は普遍的な入門書であると同時に、批判の書である。そういう武蔵の、既存兵法書に対するクリティカルなスタンスがわからなければ、武蔵の教訓も理解できないであろう。

武蔵の批判的なポジションがよく現れているのが、この「まぶるゝ」の条の混戦の教えである。このように《敵にまぶれて、たがひにわけなくなるやうにして》というゲリラ的な戦いは、おそらくシリアスな戦況においてこそ、リアルなものである。

ここは、『孫子』(虚実篇)に、
《兵を形〔あらは〕すの極は、無形に至る》
とある、その「無形」のパラドックスを参照して語ることもできよう。しかし、ここでも武蔵の「まぶれる」渾沌戦法の方が具体的で実戦的であろう。

だれしも自他を明確にした秩序ある搆図で戦いたい。これに対し武蔵の戦法は、そうした同一性(identity)の秩序空間を破砕し、混乱にもちこむのである。まさにそのカオティックな混乱のなかから勝利をつかめ。――それが武蔵の教えである。

武蔵という思考が極めて興味深いのは、こういうところがあるからだ。このあたり、武蔵の戦闘思想の面目であるが、しかしながら、これを以上のように読みえた武蔵論を、我々は知らない。まさにそれこそ、五輪書という書物の不幸であった。


――――――――――――

 


ここで諸本校異の問題に立ち入れば、この段にはとくに指摘すべき大きな校異はなさそうにみえるが、ひとつ、筑前系/肥後系を截然と分ける校異がある。

それは、冒頭ちかく、筑前系写本には、《敵我ちかくなつて》とあるところ、肥後系諸本には、《敵我手近くなつて》と、「手」字を入れる。「手」字の有無が校異の問題である。

これは、いづれが是か、必ずしもどちらともいえないケースなのだが、筑前系諸本を通じて、「手」字を入れないのだから、従前の《inter-textual》な判断基準からして、これが古型であるとみておく。ただし、この《手近く》は、肥後系諸本に共通する字句であるから、肥後系早期にすでに存在したものであろう。

また別の校異の問題では、たとえば、筑前系諸本のうち、早川系の吉田家本・中山文庫本に、《敵我ちかくなつて、たがひ強くはりあひて》とあるところ、同じ筑前早川系でも鈴木家本は、《たがひに強くはりあひて》として、「に」字を入れる。もちろん、同じ筑前系の立花増寿本はじめ立花=越後系諸本にも、ここを《たがひに》として、「に」字を入れている。

肥後系諸本を横断してみるまでもなく、これは、《たがひに》とあるべきで、早川系の吉田家本・中山文庫本は、その「に」字を脱字せしめたのである。筑前系において、立花・早川系分岐以後の偶発的誤写である。

あるいは逆に、立花=越後系諸本が、《たがひに心はりあひて、勝事つかざるときは》として《勝事》と記すところ、この《勝事》は、《勝の》とあるべきところであり、「事」字は誤記である。これは、立花増寿本に《勝事》とするから、越後で発生した誤写ではなく、それ以前の筑前において、立花系が分岐した以後の誤写である。

これらは、早川系と立花=越後系を区分する指標的相異である。それとともに、空之巻を除く吉田家本四巻が、立花系と分岐した後の早川系に属することの証拠である。

あるいはまた、別の校異を挙げれば、肥後系諸本のうち、細川家本が、《まぶれあいたる其うちに利を以て、勝事肝要なり》として、《其うちに》するところ、これは「に」字ではなく「の」字の誤写である。

また細川家本に関して、前にもあることだが、ここでも末尾に、《克々吟味あるべし》として、《克々》という文字を記す。諸本共通の《能々》が、細川家本では、この異字《克々》に変異している。まさに特異例である。

この異字は、細川家本と同系統の常武堂本にも現れる文字であるから、細川家本・常武堂本系統の祖本において発生した異字である。もとより、比較的近縁関係にある楠家本でさえ見られない書字である。

何れにしても、これはその祖本の作成者による恣意的な異字変換である。つまり書写者は、つい、自己流に《克々》と書いてしまったのである。言い換えれば、これは伝承責任のない門外漢による筆写を示す特徴である。

細川家本に至るまで、それ以前に書写がいくつも介在したのだが、これは、細川家本の祖本、もしくは前の写本にあったものである。かような異字は恣意的操作にすぎないのであるが、それを継承したという点で、いわば、細川家本系統の後発的写本としてのポジションが露呈したところである。

 

 

17 角にさわる (かどにさはると云事)

【原文】

 一 かどにさはると云事。
角にさはると云ハ、ものごと、強き物をおすに、
其まゝ直にはおしこミがたきもの也。
大分の兵法にしても、
敵の人数を見て、はり出強き所のかどに
あたりて、其利を得べし。
かどのめるに随ひ、惣もミなめる心あり。
其める内にも、かど/\に心を付て、
勝利を得事、肝要也。
一分の兵法にしても、
敵の躰のかどにいたミを付、
其躰少も弱くなり、くづるゝ躰になりてハ、
勝事安きもの也。此事能々吟味して、
勝所をわきまゆる事、専也。(1)

 

 

【現代語訳】

 

一 角にさわるという事

角〔かど〕にさわるというのは、どんなものでも、強いものを押す場合、すぐさま真っ直ぐに押込むのは難しいものである。

大分の兵法〔合戦〕にしても、敵の人数〔軍勢〕を見て、張り出しの強い部分の角を攻めて、その利を得るべし。角がめる〔へこむ〕にしたがって、全体も皆める〔へこむ〕気分になる。そのめる〔へこむ〕うちにも、あちこち他の角に狙いをつけて、勝つ利を得ること、これが肝要である。

一分の兵法〔個人戦〕にしても、敵の体の角を痛めつけて、その体勢が少しでも弱まり崩れる格好になったら、勝つことは容易である。このことをよくよく吟味して、勝ちどころをわきまえること、それが専〔せん〕である。

 

 

【註解】

 

 (1)はり出強き所のかどにあたりて、其利を得べし

ここは、強力な敵を相手にする場合の、その攻略法である。

どんな場合でも強いものを押すとなれば、真っ直ぐに押し込む正攻法では難しい。そこで、武蔵のいうのは、《角にさはる》である。

むろん、ここにいうのは、《はり出つよき所》へあたれということではない。その角、つまり《はり出つよき所のかど》へあたれということである。

ここで語釈が必要が必要であろう。

まず、この《角にさはる》とは、角(隈)に手をつけるという意味である。《さはる》は、かるく手をつけてみて、様子を見るというニュアンスがある。

ここに書かれているのは、《はり出つよき所》へあたれということではない。その角、つまり《はり出つよき所のかど》へあたれということである。

「角」(かど)は、ここでは稜角の意の突出部分でなく、「すみ」の意味の角である。現代標準語の語感では、「かど」「すみ」の使い分けをするようだが、もとは「かど」「すみ」の語の区別はさして明確ではない。じっさい「角」という字に、「かど」「すみ」と二通りの読みが残っている次第である。英語のコーナー(corner)には、この「角」のニュアンスがある。

したがって、「角(隈)」と表記して角のこの語義を示してもよいが、むしろこの語に関しては、「角」を「かど」と読んで、「すみ」の意味をとる、という頭の使い方をすることである。要するに、ソシュール流に言えば、シーニュ(sign)は「角」で、シニフィアン(signifiant)は「かど」だが、シニフィエ(signifie)は「すみ」である。

さて、《角にさはる》とは、角(隈)に手をつける、である。強力な敵に対しては、正面や中央を攻めるのではなく、角(隈)から手をつけろ、という教えである。張り出しの強い部分の正面中央を押そうとするのではなく、その角/隅の方から攻めて行け、ということである。これも、前条「まぶるゝ」と同様に、ゲリラ的戦法であったかもしれない。

角を攻めて、その角が崩れて、へこむ。――これを武蔵は《める》と言う。この語は、前出の《めりかり》の「めり」である。勢いが減衰すること、崩れて弱り、へこむことである。現代語でも「めりこむ」とかいって、陥没することを云うから、語義はさして変らない。

そうして、敵の角を攻撃して、それが「める」につれて、全体が皆「める心」になってしまう。闘志が衰え、志気が下がるのである。角(隈)から全体へ「めり」が波及して、さらにあちこち角を狙い撃ちにして攻撃すると、さしもの強力な敵も弱り、ついには崩れる。――正攻法で正面あるいは中央を攻めるのではなく、角(隈)から手をつける戦法の要諦は、そのことにある。

この「角にさはる」戦法は、合戦のような集団戦がモデルだが、武蔵はこれを一分の兵法、つまり一人の戦いでも適用可能な戦術とする。

《敵の躰のかどにいたみを付》とは、相手の身体の中心部ではなく、手など端部を痛めつけて、ということである。今日我々が「痛めつける」と云う言葉の先祖は、この「痛みを付ける」なのである、しかし、ここは「躰」であって「身」ではない。これには「体勢」の含意もある。敵の体勢を徐々に弱らせて、最後に撃破するのである。

徐々に損傷を積み上げるこうした戦い方をするのは、強い相手のときであろう。武蔵は強力な戦闘者だが、自身がそうであるだけに、この教えはなかなかリアルで、興味深い。というのも、武蔵自身はこの戦法はとらなかっただろうに、ここは、凡人である読者を対象にした、普遍的な教えを説く五輪書のこと、むしろこういう手段、――弱き者が強い敵を倒す方法も教えたのである。

――――――――――――


ここで、語釈の点につき、若干の問題がある。岩波版注記は、「角」という語について、「強く張り出している所。重要な拠点」というのである。おそらくこれは、岩波版注記に含まれる誤釈のなかでも五指に数えうる珍解釈であろう。

要するに、細川家本の《はり出つよき所のかど〔角〕にあたりて》とあるところを読んで、「はり出つよき所=角」と誤解してしまったのである。しかしここは、張り出しの強い部隊があるとして、その陣立の角(隈)、つまり――正面中央ではなく――端部であることは言うまでもない。

そればかりか、「角」(隅)が「重要な拠点」だというのである。まったく逆さまの語釈である。この珍解釈の典拠は不明であるが、思慮の足りない粗忽ぶりからして、この《角にさはる》の教え全体の基調さえ見ていないようなのである。

武蔵の教えとは、「張り出しの強い部分の正面中央への正攻法ではなく、――重要でもなく拠点でもない――角(隈)の方から手をつけて、へこませろ。そうすれば、そのうち全体もへこんで崩れる」とするものである。重要な拠点から手をつけろとは教えていない。話は逆である。

繰り返せば、ここに書かれているのは、《はり出つよき所》へあたれということではない。その角、つまり《はり出つよき所のかど》へあたれということである。岩波版注記は、要するに文言を読んでいないのである。

とすれば、既成現代語訳はいかがであろうか――と思えば、どれもこれも同じように、この箇処をまとも読めていないのである。

まさしく語釈上の問題の焦点は、「角」という語だったらしい。神子訳は、「突出した所を攻撃する」と書いて、「かど」という語を抹消している。ここで、突出した所=角という誤訳が発生したようである。上述の岩波版注記は、不用意にもこの神子訳の路線に乗ってしまったのである。

かくして、神子訳以来、「角」は突出部分と決まったらしい。大河内訳・鎌田訳は、神子訳が消した「角」を復活させているが、《はり出つよき所のかど〔角〕》の文意がわかっていない。だから、神子訳をなぞるだけである。

ただし、神子訳は《める》という語をほどほどに訳せているが、それに対し、鎌田訳は、この《める》を「減る」と誤訳して、突出した角が減ると、全体も勢いがなくなる、と記している。大河内訳は、岩波版注記の「重要な拠点」なる珍解釈を頂戴して、《かど/\》を「要所、要所」とする。いかにもお粗末としか言いようがない。

――――――――――――


ところで、ここでは、校異の問題として指摘すべき箇所があろう。それは、筑前系諸本と肥後系諸本を截然と区分する指標的差異である。すなわち、筑前系諸本に、
《其めるうちにも、角々に心を付て、勝利を得事、肝要也》
とあって、《心を付て》《勝利を得》とするところ、肥後系諸本には、《心得て》《勝利を受る》としている。これは歴然たる相異であるが、筑前系諸本は越後系も含めて共通するところなので、筑前系初期に、《心を付て、勝利を得》とする文言がすでにあったのである。

これに対し、肥後系では、富永家本や円明流系統諸本まで、基本的に同様であるから、肥後系早期には、このように、《心得て、勝利を受る》という文言が出来上がっていたようである。

ただし、これには例外があって、丸岡家本は、後者の《勝利を受る》を、《勝利を得る》としていて、筑前系諸本と同じである。しかし、これは丸岡家本が、古型を保存しているということではなく、二次的な偶発的誤記であろう。つまり、肥後系写本ではいったん《勝利を受る》となっていたのを誤写したものであろう。

ともあれ、この筑前系/肥後系の相異については、筑前系諸本では、越後系も含めて共通するところなので、既述例のごとく、筑前系初期に、《心を付て、勝利を得》とする文言があり、それゆえ、他方、肥後系の文言は、後に生じた肥後ローカルな変異であるとみなしうる。

もちろん、文意の点で言えば、「角々に心得る」では、何を心得るのか、文意不通である。これは、「角々に心を付ける」とする筑前系の語句の方が妥当である。また、肥後系の「勝利を受ける」では不適切である。これも「勝利を得る」とする筑前系の語句の方が、文意からして正しい。

おそらく、肥後系早期写本の段階で、《心を付て》の「を付」の二字を、「得」一字に誤読したのが最初であろう。また《勝利を得》の「得」字を、「うる」と仮名書きした後に、さらに次の段階で、「うる」を「うくる」として「く」字を錯入したものらしい。これは直前に、《得て》と書いているので、重複を避けたということのようである。その段階の痕跡は、楠家本や狩野文庫本の《うくる》という仮名表記に残っている。ようするに、数段階の誤写を経て、肥後系の《心得て、勝利を受る》という文言が出来上がったのである。

したがって、肥後系のこの文言は、これが肥後系早期のものだとしても、寺尾孫之丞段階にまで遡れない変異である。というのも、数段階の誤写を経なければ、ここに至らないからである。すなわち、この語句変異は、門外流出後のことであり、それゆえ筑前系諸本のあずかり知らぬところで発生した誤記だということである。

こうしたことも、肥後系諸本ばかり見ていては解らぬ事態である。筑前系諸本まで横断してみてはじめて判明するところである。従来の肥後系諸本中心の知見に囚われていては、五輪書研究は進捗しない。武蔵流に云えば、はかが行かないのである。

 

 

18 うろめかす (うろめかすと云事)

【原文】

一 うろめかすと云事。
うろめかすと云ハ、敵にたしかなる心を
もたせざるやうにする所也。
大分の兵法にしても、
戦の場におゐて、敵の心をはかり、
我兵法の智力を以て、敵の心をそこ爰となし、
とのかうのと思はせ、おそしはやしと思はせ、
敵のうろめく心になる拍子を得て、
たしかに勝所をわきまゆる事也。
又、一分の兵法にして、
時にあたりて、色々のわざをしかけ、
或ハうつとミせ、或ハつくと見せ、
又ハ入こむと思はせ、敵のうろめく氣ざしを得て、
自由に勝所、是戦の専也。
能々吟味有べし。(1)

【現代語訳】

 

一 うろめかすという事

うろめかす*というのは、敵に確固たる心を持たせないようにする、というところである。

大分の兵法〔合戦〕にしても、戦いの場において、敵の心を推計り、こちらの兵法の智力をもって、敵の心を翻弄し、あれやこれやと思わせ、遅すぎる早すぎると思わせ、敵がうろめく心になる拍子をとらえて、確実に勝つ、そこをわきまえることである。

また、一分の兵法〔個人戦〕では、その時々に応じて、いろいろの業を仕懸け、あるいは打つと見せ、あるいは突くと見せ、または入り込むと思わせ、敵がうろめく気持になるのをとらえて、自由に〔思いのままに〕勝つところ、これが戦いの専〔せん〕である。よくよく吟味あるべし。

 

 

【註解】

 (1)敵のうろめく心になる拍子を得て

これは前にあった「むかづかする」「おびやかす」と一連の心の作戦である。敵の心を迷わせ、うろうろさせる。《うろめく》には、浮き足立ち、おろおろする、あるいは、あわてて前後の見境もなく分別のないことをする、という意味もある。
《御旗ぶぎやう衆うろめきたるを聞召けるや》(三河物語 三)
という用例もあるところである。

《うろめく》という語は、方言に「おろめく」とも云い、現代にも残る言葉である。訳さずとも、通じるであろう。これが本節のタイトルでもあり、またとくに、「うろうろ、おろおろ」という語のニュアンスを保存するため、我々の語訳では、《うろめかす》をあえて訳さない。

この語さえ片づいたら、ここでの教えは、とくに解説がなくとも読めるであろう。敵をうろめかすのは、敵に確固たる心をもたせないためである。あれこれ仕掛けて敵の心を撹乱する。そうして敵のうろめくところを捉えて、そこにつけ込んで勝つ、という次第である。

繰り返せば、要するに武蔵の教えのスタンスでは、「敵を知れ、敵の心を読め」ということはさして重要としない。むしろ逆に、解釈するよりも行動しろ、――こちらのアクションによって、敵の心の動揺を「生産」しろ、という行動のパフォーマティヴな生産性(performative productiveness)に賭けるのである。

逆に言えば、敵が何を考えているかは、どうでもいい。そんな考えなど吹っ飛ばすように、陽動作戦を仕掛けて心を撹乱し、状況を見失わせればよいのである。

このあたり、前に「ゲリラ的」と言ったが、まさに同じ路線の話である。武蔵は戦いの「王道」は語らない。教えの多くに一貫しているのは、ゲリラ的遊撃戦と陽動作戦で、敵の心を撹乱し混乱させて、その動揺を衝いて撃破する、という戦法である。

これでは「剣聖武蔵」に似合わない?――それはもっともな話である。ところが、五輪書に堂々たる戦いの王道を期待する方が間違っているのである。現実の戦争には、王道など存在しない。むしろ、リアルな戦場では、こうしたゲリラ的遊撃戦が溢れているはずである。

戦国のエトスは、勝つためにはどんな手段でもとる、ルールのない「なんでもあり」の世界である。もしゲリラ的武蔵が、剣聖武蔵を裏切るなら、それが正しいのである。戦いに王道なし、は武蔵の教えに一貫した基調のスタンスである。

武蔵が本書で再三言うのは、一人で十人二十人に勝つということ、千人で万人に勝つということである。ようするに、この桁違いの相手でも勝つ戦法を、再三強調して語るところをみれば、遊撃者のゲリラ的戦法こそ、武蔵流兵法の要であったと知れるであろう。

こうした武蔵のゲリラ的戦法の教えは、五輪書を閲かなくとも、武蔵の戦闘論として巷間に伝聞されたもののようである。その結果、さまざまな武蔵伝記のなかで登場する武蔵像が形成されたのである。とくに決闘の場にわざと遅れたり、突如として不意打ちを仕掛ける――卑怯な――武蔵がそれである。

しかし、そういう秩序性志向の武蔵論については、武蔵流兵法はゲリラ的だった、と言えば話は済む。本書の教えを見るかぎり、堂々と正面から戦えという無謀な教訓はない。むしろ兵法の智力をもって戦え、敵を撹乱する奇手を駆使せよ、といった「斜め」の教えが多い。前に述べたように、こうした傾向は、やはり既成兵法書に対するアンチテーゼとしてあるように思われる。

それゆえ、これから忽ち想起されるのは、『孫子』(兵勢篇)の、
《凡そ戰は奇を以て勝つ》
というテーゼである。すなわち、およそ戦いは奇襲作戦によって勝つものだとするのである。「奇」は「正」に対する概念だが、この「奇」について、孫子関連文書には、《形を以て形に対するは正、無形を以て形を制するは奇なり》とある。この「無形を以て形を制する」とある定義は、五輪書を読むためにも記憶しておいてよい。

しかし、さらに言えば、『孫子』のあれほど有名なテーゼ、
《兵は詭道なり》(始計篇)
《兵は詐を以て立つ》(軍争篇)
がある。これを、ここで引くのはあまりにも当然で、むしろ芸のない噺であろうが、戦いとは騙し合いである(兵は詭道なり)とは、まさしく戦いの本質の喝破道得に他ならない。

《兵は詐を以て立つ》という『孫子』(軍争篇)のこの部分の意味は、

――戦いは詐術をもってなりたち、利に従って行動し、分散集合をもって変化するものである。それゆえ、その迅速なること風のごとく、その徐やかなること林のごとく、侵略すること火のごとく、識別しがたいこと陰のごとく、動かざること山のごとく、動くこと雷鳴のごとくでなければならない。里郷を略奪しては多数に分かち、土地を占領してはその利益を分かち、よく状況を判断したうえで動く。「迂直の計」を先に知るものが勝つ、これが戦争の原則である――ということである。

この「迂直の計」とは、通常は急がば廻れと解されるが、むしろ、二点間の最短距離は直線ではないという、非ユークリッド幾何学に属する思考であるもののごとく、一種の遊撃奇襲の謀りごとである。

また、この『孫子』の部分に依拠して、《其疾如風、其徐如林、侵掠如火、知難如陰、不動如山、動如雷霆》の文言から武田信玄の「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」と記した幡があった、また「風林火山」なる四文字を書した幡は本当はなかったことも、それを言えば、やはり蛇足というものであろう。

言うなれば、『孫子』に依拠するまでもなく、古来、戦いはまさに詐術をもって勝つのであって、それ自体、反道徳的な、アモラル(amoral)な行為である。武蔵のリアリズムというが、それは特に武蔵に限ったことではなく、諸子百家の時代からそうだったのである。改めて言うまでもないことである。

しかしながら、武蔵の時代、「武」がまさに美学化し道徳化してしまおうとする徴候のあるとき、武蔵のアモラルなポジションは、やはりどうしても反時代的なものであったようだ。

このことは、たとえば『兵法家伝書』の柳生宗矩の、右掲のような《虚偽は最終的に真となる》という正当化の論理とはまったく違っている。ここで宗矩のいう「表裏」〔ひょうり〕とは策略のことである。宗矩の論理はまず、以下のようなものである。

――「表裏」〔策略〕は兵法の根本である。これは策略と思いながらも、仕掛けられるとそれに乗らずにはおれないものである。当方が策略を仕掛けると敵が乗ってくる、乗るのを乗らせて勝つ。相手が乗ってこないときにも、乗ってこないと判れば、また、こちらから仕掛ける。そうすると、敵が乗らぬ場合も、乗ったことになる。

これは策略の仕掛けと、相手を乗らせる話である。乗らせて勝つ――これが計略だが、相手が策略だと知って乗ってこない場合でも、乗ってこないという反応それ自体が、すでに当方のアクションに対するリアクションであり、すでに策略に乗っていることになる。こういう敵我関係の再帰的構造は、むろんよく知られていたことである。

ところで宗矩が言うのは、これは仏教でいう「方便」と同じことだという説明である。つまり、方便は、真実を内に匿し外には虚偽を出すが、これも最後には真実の道に引き入れるのであるから、虚偽もすべて真実となるわけだ。これを神祇(神道)では「神秘」と呼ぶ。秘密にすることによって人々の信仰を起こさせる。人を信じさせれば、その人を救えるのである。これと同じことは、武家では「武略」という。「略」とは虚偽のことであるが、この虚偽によって人命を損なわずに勝つ。そのときは、虚偽も結局は真実となるのだ。――という論理である。

この虚偽も結局は真実となるというロジックは、それ自体を執ってみれば、ほどほどに興味深いものであろう。しかしながら、これは、いわば「日和見」の論理である、孫子の《兵は詭道なり》《兵は詐を以て立つ》という戦争本来の「悪」を引き受ける覚悟がない、――というよりも、これは確信犯の論理である。

すなわち、宗矩はどこから語っているのか。宗矩はすでに兵法者=戦闘者のポジションを離脱し、覇権者に同伴する場所を占めている。覇権者は、他者の暴力を排除して、自身の暴力を正当化し、その悪を秩序の名の下に善にすり替える詭弁を弄するものである。かくして、宗矩は「武」の悪をむしろ善として正当化する、まさに偃武の論理の体現者であった。この策略の正当化の論理は、「殺人刀・活人剣」の論理と同型である。

武蔵は決してそんな正当化をしない。覇権者の場所に同化するのではなく、あくまでも戦闘者のポジションを譲らない。人を救いもしなければ、おのれが救われもしない、本質的にネガティヴな悪の場所に留まる。

あるいは、こうも言える。――分割不可能な自身の個(indivisual)の場所に、「武」という暴力本来の根源的な悪とともに留まる、と。それが武蔵の、道徳の彼岸としての倫理的ポジションである。

したがって武蔵と宗矩の比較論をすれば、こうだ。――武蔵は倫理的ゲリラとして、宗矩のような覇権者の偃武の論理――ニーチェ流に言えば、勝者の論理――の虚偽を嗤うであろうし、宗矩は武蔵ほど暴力の悪について吹っ切れていないが、自身は確信犯であることによって「大悪」の場所、すなわち権力の場所を占める、ということである。

だから、兵法書たる五輪書が、詭道や詐術といった「みもふたもない」、汚い裸の戦争の原則を繰り返し強調していることは、無視されるべきではない。すなわち、こうした武蔵の兵法論には、「あえて」する反時代的な言挙げがある。

後に発生する道徳的な武士道の精神から五輪書を読んでしまう、という倒錯が今なお終熄しないのであるが、武蔵のいう「兵法の智力」とは、《兵は詭道なり》とするこのアモラルなリアリズムを踏まえたものである。こうした詭道が、戦国の行動原理であって、天下泰平の世の道徳的な武士道の精神とはまったく異なることは、強調しておくべきであろう。

――――――――――――

 


さて、この段の諸本校異について。一つは、筑前系諸本のなかでの相異である。すなわち、吉田家本・中山文庫本・鈴木家本等の早川系では、
《我兵法の智力を以て、敵の心をそこ爰となし、とのかうのとおもハせ、おそしはやしとおもわせ、敵のうろめく心になる拍子を得て、たしかに勝所をわきまゆる事也》
とあるところ、それに対し、立花=越後系の近藤家本・石井家本・伊藤家本においては、《とのかうのとおもハせ》と《敵のうろめく心になる》の間に文字の脱落がある。つまり、《おそしはやしとおもわせ》という文言が欠けている。

これは、早川系写本の方が正しい。というのも、筑前系/肥後系を横断して共通するばあい、それを古型とみなしうるから、このケースでは、《おそしはやしとおもわせ》という文言のあるのが本来のかたちである。

越後系諸本におけるこの異変は、筑前系において早川系にはない脱字である。したがって、立花系/早川系の分岐以後の発生である。ただし、これがいつの段階のものか、つまり、筑前の立花峯均・増寿の段階ですでにあった脱字なのか、それとも越後で生じたものなのか、それが不明であった。しかし、新史料、立花隨翁本の発掘によって、そのケリがついたのである。

すなわち、立花隨翁本にもすでにこの箇所の脱字があった。ということは、これは越後で発生した誤写ではなく、筑前に遡る変異である。しかるに、早川系諸本は、これを正記するから、これは立花系固有の誤記だと知れる。それが、五代立花峯均あるいは六代立花増寿、そのいづれかの段階で発生したということである。

なお、この脱字については、興味深いことに、大瀧家本が同様に脱字を示している。この大瀧家本が、越後系諸本と同じ箇処に脱字を示していることは、これが越後系写本を参照したという証拠である。大瀧家本は他の箇処で述べたように、肥後系写本を底本として、その上で越後系写本を参照しているものであるが、その証拠の一つがこの箇処の脱字である。

以上は筑前系諸本間の相異であるが、他の校異について、上記の同じ箇処での相異を挙げれば、筑前系諸本に、
《敵のうろめく心になる拍子を得て、たしかに勝所をわきまゆる事也》
とあって、《敵の》とするところ、肥後系諸本には、この「の」字を欠く。また、これに続く文で、筑前系諸本には、
《又、一分の兵法にして、時にあたりて、色々のわざをしかけ》
とあって、《時にあたりて》とするところ、肥後系諸本には、《我時にあたりて》と、「我」字を付す。

 

筑 前 系 肥 後 系
うろめく心になる拍子
敵【】うろめく心になる拍子
】時にあたりて
時にあたりて

 

 ようするに、一方では、「の」字が有れば、「我」字無し、他方では、「の」字が無ければ、「我」字有り、という具合で、有無凹凸があるのだが、これは筑前系/肥後系を区別する指標的相異である。しかも、双方、文意を損なうほどの異変ではない。

この件について云えば、立花=越後系を含めて筑前系諸本に共通することからして、「の」字有り/「我」字無しの方は、筑前系初期からあった文言である。つまり、寺尾孫之丞前期に、すでに、「の」字有り/「我」字無し、のパターンであったと推測しうる。

これに対し、「の」字無し/「我」字有りの方は、筑前系では存在しないパターンであり、肥後において、後になって発生したかたちである。つまり、肥後ローカルの誤記である。

このように、肥後において、《敵のうろめく》の「の」字が欠け、また、《時にあたりて》の頭に衍字「我」が発生したのであるが、しかし、脱字は往々ありうることだとしても、この衍字「我」の方はいかがであろうか。どんなプロセスで発生したものか。――これは、五輪書校異研究において興味深いところなので、以下、若干これに関説してみることにする。

まず、注目したいのは、早期に派生した系統の子孫である富永家本や円明流系狩野文庫本が、その前期形態を暗示していることである。すなわち、それを見るに、
《一分の兵法にしても、我時ニ當て》
とあって、「我」字の前に、「も」字も付す。この「も、我」二字を見て、そこから推測しうるのはどういうことであろうか。

おそらく、門外流出後の肥後系早期において、まず、《にしても、時に》と記す写本が出現していたのである。この《にして》という語句には「も」字が付属しやすい。それはたとえば、筑前系の中山文庫本でも、ここに「も」字を付して、《にしても》とする通りである。このように、《にして》という語句には「も」字が付きやすいという傾向がある。そこで、肥後系写本にも早々に、それが付いてしまったのである。

その次の段階で、その「も」字が「我」字に変異した。これは、おそらく、「も」(茂)字を、類似の「我」字と誤読したのである。かくして、《にして、我時に》と記す写本が現れた。――これが、楠家本・細川家本・丸岡家本など肥後系諸本が示す、《にして、我時に》という文言である。

しかし、そこにとどまらず、次に、そこでも《にして》にやはり「も」字が付いて、《にしても、我時に》というかたちになった。――それが、富永家本や狩野文庫本に遺蹟として残る文言である。

以上のプロセスを要約すれば、以下のような変遷である。
「にして、時に」

→「にしても、時に」(衍字)→「にして、我時に」(誤写)

→「にしても、我時に」(衍字)

この経緯を見るに、衍字《も》は二度出現した、再帰したパターンである。しかし、《一分の兵法にして、我時にあたりて、色々のわざをしかけ》では、「我」字のおさまりが悪く、文意不通である。そこで、円明流系統では、この「我」字を、類似字形の「戦」字に読み違えた写本が現れた。

つまり、多田家本や稼堂文庫本のように、《一分の兵法にしても、戦時に當りて、色々の業を仕懸》と記すのである。こうすれば、文意は通るが、もとよりこれは、「我」字を、類似の「戦」字に誤読した誤記でしかない。

以上のようなわけで、肥後系諸本の成立過程において、いろいろな変形が生じた。しかし、それも最初は、《にして、時に》に「も」字を付した《にしても、時に》が、たまたま現れたにすぎない。しかしこのとき付された「も」字が仮名「茂」であったために、爾後の混乱をもたらしたのである。

再三申すことだが、これも、肥後系諸本ばかりを見ていてはわからないところである。また、肥後系諸本中心主義なる偏見があっても、見えない事実である。それゆえ、先入見を廃して広く諸本を比較照合することを、我々は後学の諸君に勧めるのである。  

 

 

19 三つの発声 (三つの聲と云事)

【原文】

 一 三つの聲と云事。
三つのこゑとハ、初中後の聲と云て、
三つにかけわくる事也。
所により、聲をかくると云事、専也。
聲ハ、いきおひなるによつて、火事などにもかけ、
風波にも聲をかけ、勢力をミする也。
大分の兵法にしても、
戦よりはじめにかくる聲ハ、
いかほどもかさを懸て聲をかけ、
又、戦間のこゑハ、調子をひきく、
底より出る聲にてかゝり、
かちて後に大きに強くかくる聲、
是三つの聲也。(1)
又、一分の兵法にしても、
敵をうごかさんため、打と見せて、
かしらより、ゑいと聲をかけ、
聲の跡より太刀を打出すもの也。
又、敵を打てあとに聲をかくる事、勝をしらする聲也。
これを先後のこゑと云。
太刀と一度に大きに聲をかくる事なし。
若、戦の中にかくるハ、
拍子に乗る聲、ひきくかくる也。
能々吟味有べし。(2) 

 

 

【現代語訳】

 

一 三つの声という事

三つの声とは、「初・中・後」の声といって、三つに(声を)かけ分けることである。その場所(の状況)によって声をかけるということ、これが専〔せん〕である。

声は勢いであるから、火事などにも声をかけ、風波にも声をかけ、(こちらの)勢力を見せるのである。

大分の兵法〔集団戦〕にしても、戦うより最初にかける声は、できるだけ大きく圧倒するようにかけ、また、戦いの最中の声は、調子を低く(下げて)、(肚の)底から出る声で(攻撃に)かかり、(そして)勝った後に大きく強くかける声、これが三つの声である。

また、一分の兵法〔個人戦〕にしても、敵を動かすため、打つと見せて、最初から「えい」と声をかけ、声のあとから太刀を打ち出すものである。また、敵を打って〔倒して〕、後に声をかけること、これは勝ちを知らせる声である。これを「先後の声」という。

(ただし)太刀(を打ち出す)と同時に大きく声をかけることはしない。もし戦いの最中に声をかけるとすれば、拍子にのる声を低くかけるのである。よくよく吟味あるべし。

 

 

【註解】

 

 (1)初中後の聲と云て、三つにかけわくる事

戦いにおいて、「初中後の声」といって、三つにかけ分ける声があるという。「初中後」は、初め・最中・事後の三つの局面である。同じく声を発するといっても、その場の状況にしたがって、発声の仕方を変えろ、という教えである。

声を発するのは勢いの表出である。声をかけるのは、人間が相手とはかぎらない。おもしろいことに、ここで武蔵は、火事に声をかけ、風波に声をかける民俗を例に挙げている。

火炎や風波に対して声をかけるのは、こちらが気後れしたり圧倒されないようにする心の効果があるものだが、本来は呪術的行為である。声をかけて、相手の勢いを鎮めるのである。

周知のごとく本居宣長は、神(迦微)について、
《何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微〔かみ〕とは云なり》
としている。この可畏(かしこ)き物は、鳥獣山川草木でもいいし、火事・風波でもいい。それら可畏き物への呼びかけ方があったのである。

しかしこの場合は、可畏き物に対する鎮撫だけではなく、発声は対抗的な行為のようである。火事や風波が相手でも、その勢いに負けないように声を発するという意味合いである。

そこで、大分の兵法〔集団戦〕の場合、三つの発声法がある。戦いの初めにかける声は、相手を圧倒するようにできるだけ大声を発する。戦いの最中は、声の調子を低くして、肚の底から出る声を発して攻撃にかかる。そして、勝った後は、大きく強くかける声、勝利を宣言する聲である。勝鬨である。

この三つの声はそれぞれ違い、発声法が異なるのである。戦いのはじめと終了後は大きな声、ただし、戦いの最中は、大声を出さず、低い、腹の底から出す声でかかる。これがポイントである。この「初中後の声」は、集団戦における発声法の基本ということで、まずは初歩的な教えあろう。

――――――――――――


ところで、諸本校異に関して云えば、ここでも、いくつか指摘すべき相異が見られる。

その一つは、筑前系諸本に、
《風波にも聲をかけ、勢力をミする也》
とあって、「風波にもこゑをかけ」とするところ、肥後系諸本では、
《風波にもかけ、聲ハ勢力を見する也》
である。語順が違い、主客もちがう。

このどちらを採るかとなると、諸写本それぞれのポジションを勘案することが、先決である。

すなわち、我々のフォーマットでは、筑前系諸本で共通するとき、言い換えれば、早川系と立花=越後系が共通のばあい、おおむねそれを初期形態とみなす。肥後系がこれと異なるとき、これは後に肥後で発生した変異形態とみる。

したがって、ここでは、筑前系諸本において共通するケースであるから、筑前系諸本の《風波にもこゑをかけ》とする方が古型である。

内容を見るに、肥後系の《聲ハ勢力を見する也》というのは、文意にやや難がある。文脈からすれば、勢力を見せるのは、声ではなく、その声をかける主体であるからだ。

したがって、語順が入れ替わったとみえるのだが、それは最初、肥後系早期写本が、《風波にも懸レ聲、勢力を》と、返り点を打って、漢文表現にしたものであろう。ところが、後の写しのさいに、その語順どおりに読んで、「聲」の後に脱字があるとみて、「ハ」字を入れた。それで、肥後では、《風波ニも懸、聲ハ勢力を》と記すようになった。一方、富永家本系統では、後に「懸」を脱字した。――これがその想定しうるプロセスであろう。

  「風波にも聲をかけ、勢力を」→「風波にも懸聲、勢力を」

   →「風波にも懸、聲、勢力を」→「風波にもかけ、聲ハ勢力を」

このコースは、逆方向はありえない一方向性のプロセスである。したがって、変異発生はこの順序で生じた。また、肥後系の《風波にもかけ、聲ハ勢力を》が実現するまでに数段階が必要であることから、これは、門外流出後少なくとも数回の伝写を経て生じたものである。

なお、別の箇処の校異では、筑前系諸本に、《かちて後に》とするところ、肥後系では、《かちて後、跡に》とするなど相違はあるが、これも同前である。つまり、筑前系諸本が共通して《かちて後に》とシンプルに記す方を採るということである。

この箇処の異変については、以下のようなプロセスが想定される。――まず、《後に》とあるところを、《後々ニ》と誤写した写本が現れ、その後、これを《後、後ニ》と読むものが出て、後の「後」字を「跡」字に変更したと。何れにしても、「後」字を衍字とは見ずに、救済したのである。

これは、筑前系/肥後系を区分する特徴的相異であるが、ここには別種の相異もある。すなわち、同じ筑前系でも諸本間に相異のある箇処のことである。

越後系諸本に、
《かちて後に、大きに強くかくる聲》
とあって、《大きに》と記すところ、後に発見した立花隨翁本には破損があって「大き」二字までは読めるが、「に」字は読めないが、それらしき字のスペースがある。赤見家甲本はじめ越後系諸本に《大きに》とあることにより、立花隨翁本の欠損部分が「に」字であったと知れるのである。つまり、越後系諸本によって、立花系では《大きに》と記したことが判明するのである。

吉田家本
立花隨翁本
赤見家甲家本

それに対し、早川系の吉田家本・中山文庫本はともに、《大き》として、「に」字を欠いている。また、同じ早川系の鈴木家本では、はじめ《大に》と書いているが、祖本と照合したらしく、その「に」字を「き」字に訂正している。ようするに、早川系写本では、ここは「に」字を欠いていたのである。

これを、筑前系/肥後系を横断して確認すれば、共通する語句は、《大きに》であり、それが古型である。このケースでは、立花=越後系諸本の方が正しい。つまり、早川系の方に脱字がみとめられるのである。

これも、立花=越後系諸本が吉田家本とは別の系統だという証拠例の一つであり、両系統の分岐は、吉田家本以前と知れるところである。

逆に云えば、吉田家本のうち、空之巻以外の地水火風四巻は、この両系統の分岐以後作成されたものである。空之巻は、柴任美矩が吉田実連に伝授したものだが、他の四巻は、吉田実連が甥の早川実寛に伝授した系統のものである。

これに対し、越後系諸本は、吉田実連から立花峯均へ相伝され、そしてさらに甥の立花増寿を経て、丹羽信英に伝授され、その丹羽信英が越後へ伝来した系統のものである。両系統の分岐は、立花峯均系統と早川実寛系統の派生したところにある。

こうした来歴の明らかな筑前系諸本に対し、肥後系諸本は、その成立事情が不明である。というのも、本来は、門外へ流出した写本が元祖であり、以後、非正規海賊版として派生伝写されて行った諸写本の末裔が、現存肥後系諸本なのである。肥後系写本には、正確なものも、写し崩れの大きいものもあるが、何れも書写時期はさして古いものではない。

したがって、筑前系/肥後系を区別する指標的な相異があるケースにおいて、我々の方式では、筑前系に共通する文言を古型として、これを採ることにしているのである。

 


(2)太刀と一度に大きに聲をかくる事なし

一分の兵法〔個人戦〕はどうかというと、これは「先後の声」という。ポイントは、発声と同時に打つ、――のではない、という点だ。発声とアクションの間に時間的なズレをおく。つまり相手の拍子を狂わせるのである。
《敵をうごかさんため、打と見せて、かしらより、ゑいと聲をかけ》

この声は、打つより先に「えい」という声をかけ、そうすると、相手は声に反応して動く、その動作に対して太刀を打ち出す――という一連のアクションのようである。これは、前に、「かげをうごかすと云事」条に、敵の意図の見えぬとき、それを露呈させるためにアクションを起すという教えがあった、

ただし、一見そのように読めるが、もう一つの読みも可能である。注意したいのは、これが敵を動かそうとするため打つと「見せる」、フェイントの声だ、ということである。

言い換えれば、これは単純なフェイントではなく、――敵を動かすための打ちと見せる――そういうみせかけのみせかけ、フェイントのフェイントである。

つまり、単純なフェイント攻撃ではなく、まず敵にこれをフェイントだと思わせて、そこへ打ち込むのである。ヘーゲル流に言えば、仮象の仮象、見かけの見かけは本質、ということだが、これを行為の次元で展開する。フェイントに騙されない人間が、まさに騙されないことによって騙されるのである。武蔵流兵法において、声という次元は、そういう駆け引きの道具なのである。

そして、「先後の声」の「後」の方は、敵を打って、後に声を発すること、これは「勝ちを知らせる声」であるというから、勝鬨の一種であろう。これを見るに、一分の兵法にも、勝鬨はあったようである。

勝鬨は、勝ったという宣言であり、アナウンスである。勝ちを知らせるというが、これは「誰に」知らせるのか――という面白い問題がある。これはキリスト教徒なら、「大文字の《神》」に、というところであろう。これに效って言えば、勝ちを知らせる声は「天」に知らせるとも思えるが、実はこの知らされるところの他者とは、世間という大文字の他者なのである。

ともあれ、ここでの発声に関する武蔵のテーゼは、
《太刀と一度に大きに聲をかくる事なし》
ということである。しかしながら、これは現代人の常識とは逆である。

ふつう、何かアクションを起すときは、気合をこめて「えい!」と声を発すると思う。じっさい時代劇の合戦場面を見ても、斬り合いを見ても、大きく発声すると同時に攻撃するのがほとんどである。発声と同時の攻撃である。それゆえ戦闘シーンは、たいてい喧しいものである。

ところが、それはまったく逆である。集団戦であれ個人戦であれ、攻撃の最中には、決して大きく高い発声はしない。このあたりは、近代剣道によって洗脳された現代人にとっては案外な、面白い話である。

戦いの最中に声を出すとすれば、調子を低く下げて腹の底から出す「うむ」というような低い声である。《拍子に乗る聲》とあるところからすれば、拍子に乗っておのづから出る声である。

我々の日常でも、ものごとに熱中して調子がよく進むとき、つい声が出ていることがある。拍子に乗っているのである。切り合いの時にも拍子に乗っていると声が出る。この発声は拍子に乗ろうとして出す声ではない。拍子に乗って、おのづから出る声である。

しかし、武蔵がここでわざわざ、《太刀と一度に大きに聲をかくる事なし》と書いているところをみると、本書著述の十七世紀半ばには、これを、ことさらに教えざるえない状況が生じていたようである。いわゆる道場剣法というものが支配的になり、実戦とはかけはなれた仕儀になりつつあった。そこでは、太刀を打ち出すと同時に「えい!」と声をかける風が流行するようになっていた。だから、武蔵はここで、実戦ではこうだ、こうしなければならない、とわざわざ教えざるをえなかったようなのである。

 

 

20 間切る (まぎると云事)

【原文】

一 まぎる*と云事。
まぎると云ハ、大分の戦にしてハ、
人数をたがひに立合、敵の強きとき、
まぎると云て、敵の一方へかゝり、
敵くづるゝとミバ、すてゝ、
又強き方々へかゝる。
大方、つゞら折にかゝる心也。(1)
一分の兵法にして、
敵を大勢よするも、此心専也。
方々へかゝり*、方々にげバ、
又強き方へかゝり、敵の拍子を得て、
よき拍子に、左、右と、
つゞら折の心に思ひて、
敵のいろを見合て、かゝるもの也。
其敵の位を得、打通るにおゐてハ、
少も引心なく、強く勝利也。
一分入身のときも、
敵の強きには、其心あり。
まぎると云事、一足も引事をしらず、
まぎり*ゆくと云心、能々分別すべし。(2)
 

 

 

【現代語訳】

 

一 まぎるという事

まぎる〔間切る〕というのは、(以下のようなことである)

大分の戦い〔合戦〕の場合では、人数〔軍勢〕を互いに立て合って、敵が強い時、まぎるといって、敵の一方へ(攻撃に)かかり、敵が崩れると見れば、(それを)放置して、また(別の)強い方々へかかる。おおよそ「つづら折り」にかかる心持である。

一分の兵法の場合、(一人で)敵を多勢引き受けるのにも、この心持が専〔せん〕である。

方々へ(攻撃に)かかり、方々で(敵が)逃げてしまうと、また別の強い方へ(攻撃に)かかり、敵の拍子を把握して、うまい拍子で、左、右と、つづら折りの感じに思い描いて、敵の様子を見ながら(攻撃に)かかるのである。

その敵の位〔態勢〕を把握し、攻撃突進して行く、その時には、少しも退く心はなく、強く勝つ(というのが)利である。一分〔個人戦〕での入身の時も、敵が強い場合には、これと同じ気持である。

まぎるということ、一足も退くことを知らず、まぎり行く〔ジクザグに前進する〕という心持、(これを)よくよく分別すべし。

 

 

 

【註解】

 

 (1)大方つゞら折にかゝる心也

ここは、かなり強い敵と戦うにはどうするか、という教えである。

前に《まぶるゝ》という話があった。それに対し、ここは、諸写本共通して《まぎるゝ》である。とすれば、これは現代語で「まぎれる」〔紛れる〕ということであり、また一見したところ、この「まぎれる」は「まぶれる」と同じ話のようにみえる。

ところが、この条文の内容をみるに、そんな「紛れる」という話ではなさそうである。武蔵の述べるところをよく見てみよう。

話の内容は、敵中に侵入して、攻撃しながらどんどん進んで行く、ということである。
《まぎるゝと云て、敵の一方へかゝり、敵くづるゝと見ばすてゝ、又強き方々へかゝる。大方、つゞら折にかゝる心也》

つまり、あちらを崩してはこちらを崩しと、敵を崩しながら前進して行くのだが、それを武蔵は、《つゞら折にかゝる心》と表現している。

「つゞら折」、つまり葛折りであり、「つづら」は葛、つるが何度も折れまがってのびているところから、幾重にもジグザグになった形状を「九十九折」と云った。

急斜面を登るには、「九十九折」に登る。現代語でも、坂道などで、右に左に幾重にもまがりくねって続くところを、つづら折りといい、「九十九坂」という地名も残っている。

《大方、つゞら折にかゝる心也》というのは、だいたいのところ、左、右とジグザグに進むイメージで、攻撃をかけろ、ということである。

一直線に進むのではなく、ジグザグに敵を粉砕しつつ、敵中に進入する。これはストレートに進めば、敵勢が前方に厚く重畳して、それを無理やり突破することになって、敵が強いばあい、それこそ捗が行かないからであろう。右に左に敵を撃破しつつ進む、九十九折りというのは、敵中を進撃するのに効果的な方法である。

しかし、これが《まぎるゝ》、「まぎれる」ということであろうか?――話はどうも違うようである。ところが、なんと、こんな疑問を提起した者は、従来の五輪書研究史において存在しない。我々はここでも未開の地を拓くことになった。

九十九折に進撃するのが、どうして「紛れる」ということなのだ?――かくして、我々の探究が始まったのだが、結論から先に云えば、この《まぎるゝ》という語が誤りなのである。この字句を、筑前系/肥後系ともに諸写本を通じて記しているのだが、この《まぎるゝ》というのがまさに誤記だったのである。

以下は、五輪書研究史においてこれまで他には出たためしのない、我々の新説なので、よく注意して読まれたし――。

《まぎるゝ》という語は、武蔵のオリジナルでは、明らかに、《まぎる》とあったものである。すなわちこれは「間切る」という語、つまり海事用語で、逆風の中、船が風上に向って進む帆走法を云う。この「間切る」は、英語では《tack》という語である。

逆風の時でも、船は風上へ前進させることができる。ただし、帆を右開き、左開きと交互に繰り返しながら、ジグザグに進むのである。「まぎり走り」という語もある。

ようするに、ここで武蔵が示しているのは、逆風の中で船を前進させる、海事用語の《まぎる》(間切る)だったのである。前に「渡を越す」の条で、航海の話が出ていた。ここでも、船の逆風帆走の《まぎる》という語を出しているのである。船が逆風にさからって進むように、ジグザクに前進していく、それが武蔵の云う《まぎる》ということなのである。

では、諸写本は筑前系・肥後系ともにすべて、《まぎるゝ》としているのは、どういうわけか。

筑前系と肥後系に共通しているばあい、それは大方、寺尾孫之丞が発給した五輪書にすでにあった字句とみなしうる。したがって、これは、寺尾孫之丞が、オリジナルの《まぎる》を《まぎるゝ》と誤写したということである。「ゝ」というだけの些細なところだが、武蔵のオリジナル草稿の文字を読み間違えて、《まぎるゝ》と書いてしまった。

そこからすべてがはじまった。それ以後、筑前系でも肥後系でも、《まぎるゝ》と伝写されていくようになったのである。

かくして、我々のこの五輪書研究において、如上の史料批判が遂行され、はじめて《まぎる》という語が復旧可能になったのである。まさに、本稿を読みつつある諸君はそれに立ち会っているわけである。

武蔵が死期に臨んで、寺尾孫之丞に兵書五巻を託したのが、正保二年(1645)である。すくなくとも、以来三百六十年、武蔵の《まぎる》は、《まぎるゝ》と誤解され、放置されたままであった。それが、まさに今ここで原状回復されたのである。

武蔵のオリジナル、「原五輪書」の復元。それが我々の五輪書研究の目的であるが、こうして一つ、前進をなしえたのである。後学の諸君は、この成果を踏まえて、さらなる前進をすべし。

 


(2)まぎると云事、一足も引事をしらず

一分の兵法〔個人戦〕の場合である。そこでも、まぎる(間切る)のである。ただし、武蔵の言うのは、一人で敵を多勢相手にするケースのようである。その場合にも、またこのつづら折りに攻め進む気持が第一であるという。すなわち、
《一分の兵法にして、敵を大勢よするも、此心専也》
というわけである。「敵を大勢よする」の「よする」は、寄せる。寄せるというのは、引き付ける、引き受けること。一人で大勢を引き受け相手にするケースである。

さて、ここで問題は、筑前系/肥後系を通じて、諸本に次のようにあるところである。
《方々をかたす、方々にげば、又強き方へかゝり》

これは、前に大分の兵法で、《敵の一方へかゝり、敵くづるゝと見ば、すてゝ、又強き方々へかゝる》とあるところに対応する。つまり、敵の一方へ攻撃にかかる、敵が崩れたら、そのままにして、深追いをせず、また強い方々へ攻撃にかかる、――という話であった。

すると、この一分の兵法も場合も同様で、方々へ攻撃にかかり、敵が逃げると、深追いをせず、また強い方へ攻撃にかかる、ということであるはずである。

すると、諸本にあるように、《方々をかたす》では、明らかに誤記のあることが知れる。筑前系/肥後系諸本に共通してあるところからすれば、これは寺尾孫之丞段階の異変である。我々のテクスト解析の結論を云えば、この《方々をかたす》は、《方々へかゝり》を誤写したものである。

つまり、一つには、「へ」(邊)字を、「を」(遠)字に読み違えた。もう一つは、「ゝり」(ゝ里)を「たす」(多寿)と読み間違えたということであろう。こういう誤読が生じたのは、他の箇処の《へかゝり》とは違う変体仮名記載が、この箇処にはあっためで、寺尾孫之丞はそれに惑わされたのである。しかし、もとはと言えば、むろん、武蔵の能筆が原因である。我々のテクストでは、その武蔵の能筆文字、「邊可ゝ里」(へかゝり)を復元しておいた。


寺尾孫之丞段階でのイニシャルな誤写という根本問題を確認したうえで、次に本文の記述内容に入る。武蔵の云うところは、こうである。

一分の兵法も大分の兵法と同じく、そうやって、あちら、こちらと、方向を変えて、敵を撃破しながら前進する。前に水之巻「多敵の位の事」というところでは、敵を一列にして撃破していく「魚つなぎ」という戦法が語られたが、こんどは「つづら折り」である。

この戦法は、一方を撃破しては、次にまた別の強い方へ攻撃をしかけ、敵の拍子を把握して、うまい拍子で左に右に、つづら折りのイメージで、敵の態勢あるいは戦法を把握しつつ「打ち通る」、攻撃しつつ前進する――という戦い方である。これも二刀でなければ、そうはうまくいかないであろう。

ここで武蔵が強調して説いているのは、一歩も引かずに強い心で前進することである。
《まぎると云事、一足も引事をしらず、まぎりゆく》
である。《まぎる》は、上述のように「間切る」であり、《まぎりゆく》は、逆風の中ジグザグに帆走するイメージである。つまり、強い敵という逆風を突破する心持である。強い敵に当って、入身をするときも、同じである。一足もひく事を知らず、前へ進むのである。

武蔵は、ある場合には、敵を欺き敵を翻弄する「斜め」の作戦を教えるが、別の場合には、このように断固たる敵中進撃を教えるのである。ただし、その突進にしても、猪武者の直進ではなく、まさにこうした「間切り」、ジグザグの「つづら折り」の進撃、という「斜線」が武蔵的なのである。

しかし、この「一足もひく事を知らず」のあたり、敢然、毅然、というよりも、何か孤独なしんと静謐の一瞬があるような書きぶりである。強敵に逢って、それでも、それに一人で立ち向かっていく戦闘者の姿、この一行が立っているところである。

それも、まぎる(間切る)という逆風帆走する船のイメージが重なっているのである。だから、ここでは、その間切り走りをする孤船という肝心なニュアンスを看過してはなるまい。

ちなみに、この《まぎりゆく》を、諸写本が《まぎれゆく》としているのは、上記のように、《まぎる》を《まぎるゝ》、つまり「紛れる」と誤伝している以上、当然の誤記である。これは、「まぎり走り」の語例があるように、我々のテクストでは、《まぎりゆく》と訂正して、武蔵草稿のオリジナルを復元しておく。

――――――――――――


さて、我々の五輪書研究において、はじめて《まぎる》という語が原状復旧されたのである。もとより、テクスト・クリティーク(史料批判)もなしえず、諸写本の《まぎるゝ》という字句を疑いもしないナイーヴな研究者ばかりだったから、「原五輪書」の復元どころではない。従来の五輪書研究は、はるかそれ以前のレベルで低迷していたのである。

かくして、《まぎる》は、今日でも《まぎるゝ》として「紛れる」と語釈されている状態である。したがって、この「まぎると云事」の条については、語釈・現代語訳ともに論評以前である。この件に関して、実際、これまでの語釈・現代語訳は、いわば全滅状態なのである。すべての研究者は、我々の研究が遂行したように、まず、武蔵オリジナルの字句を復元してから、出直すことである。

では、こうした《まぎる》の復元によって知れるのは、いかなることか。それは申すまでもなく、寺尾孫之丞が、武蔵の教義すべてを理解していたわけではなかった、という事実である。

寺尾孫之丞は、武蔵から兵書五巻の草稿を遺贈された。武蔵は予想外の病いの進行で、本書を書き上げず死ぬことになった。その死期に臨んで、寺尾孫之丞にこれを形見として譲与した。それは、他の者に太刀や書画を遺贈したのと変わりなかった。

しばしば我々が注意を喚起するところであるが、それは「相伝」という形ではなかった。相伝文書であれば、完成した文書を伝授したはずである。しかし、本書は草稿である。草稿が相伝文書になるはずがない。したがって本書は、相伝文書として寺尾孫之丞に伝授されたものではない。

それゆえ、武蔵諸伝に、これを相伝とするのは誤りであるが、そもそも、それは寺尾孫之丞が言い出したことである。寺尾孫之丞相伝証文には、《令傳受地水火風空之五卷、神免玄信公、予に相傳之所》とあって、寺尾自身が「相伝」という語を用いているのである。しかし事実は「相伝」というようなものではなかった。

寺尾孫之丞が本書草稿を武蔵から譲渡されたとき、おそらくはじめて本書のすべてを見たのである。未見の文章もかなりあったであろう。それでも、寺尾が武蔵の教義をすべて理解していたとすれば、たとえば、この《まぎる》(間切る)を《まぎるゝ》(紛るゝ)と誤解するはずがないのである。

武蔵は自身の教説を秘義化するのではなく、オープンにしていたが、寺尾ら門人にすべてを語っていたというわけでもなかった。

武蔵と門人らには距離があった。武蔵は生前すでに偉人であり、門人らには容易に近づきがたい存在でもあった。

武蔵が病に倒れて、その治療を世話したのが、主席家老の長岡興長・寄之父子だが、武蔵の死の半年ほど前の宮本伊織宛寄之書状(十一月十八日付)によれば、熊本へ呼び戻そうとしても、武蔵が言うことをきかず、困り果てるという場面もあったらしい。君主の細川光尚が再三帰れと呼びかけても、同じであった。武蔵のポジションは客分だが、細川家の殿様や家老の云うことさえ、そのままでは聞き入れないという場面、これは肥後における武蔵の処遇と地位を示すものであろう。

門人らにとっては武蔵は偉すぎた。密接なコミュニケーションがあったのでもない。親しく何でも聞くというわけにはいかない。それは寺尾孫之丞にしても同じである。

寺尾孫之丞は、武蔵から本書を遺贈されたが、その内容について、あらかじめすべてを知っていたのではない。上記のように、はじめて接する教説もあっただろう。しかしすでに武蔵は死んでいる。すでに事遅しである。

この「間切る」を「紛るゝ」と誤読した寺尾孫之丞は、本書を読んではじめてこの条文に接したのである。この「間切る」という教えについて、明らかに、寺尾孫之丞は、生前の武蔵から教えを受けてはいなかった。

おそらく、それは他の条文のいくつかについても、同じであろう。ようするに、寺尾孫之丞は、武蔵の兵法理論すべてを理解していたわけではなかった。そういう者が武蔵の相伝門人でありえないのは、云うまでもない。寺尾孫之丞は、武蔵から形見として本書草稿を遺贈されたが、相伝者ではなかった。

とはいえ、他に、武蔵が相伝者として認めた者があるのでもない。武蔵が発給した相伝証文は存在しない。武蔵には、おそらく、相伝弟子が一人もいなかったのである。というのも、本書に記すように、誓紙罸文も取らず、奥も口もない、というのが武蔵流である。他流のような免許皆伝、一流相伝というやり方を嫌って、特定の相伝弟子を残さなかったのである。それは、武蔵が弧絶した存在だったからではなく、ただ彼が、兵法をオープンで普遍的なものとして考えていたからである。

武蔵が寺尾孫之丞に本書草稿を遺贈したとしても、それは寺尾が武蔵の教義をすべて理解していたからではない。武蔵は他の者に、たとえば、細川家重臣・澤村宇右衛門友好に、愛用の太刀・大原真守作刀を遺贈した(武公伝)。だがそれは、友人沢村友好が、武蔵流兵法、その太刀の道をすべてマスターしていたからではあるまい。それと同じことである。

武蔵は本書の草稿を、教義を知悉してはいない門人、寺尾孫之丞に遺贈した。それが五輪書成立史における、そもそもの発端である。言い換えれば、そこに武蔵の諧謔を見るかどうかは別にして、案の定、寺尾孫之丞は、武蔵の手稿を誤読することになったのである。

ともあれ、この「間切る」の一条から知れる事実は、以上のようなことである。寺尾孫之丞を武蔵の高弟、五輪書を「相伝」した門人とみなす愚は、そろそろ卒業してもらいたいものである。武蔵も今頃は苦笑しているはずである。  

 

 

21 押しつぶす (ひしぐと云事)

【原文】

 一 ひしぐと云事。
ひしぐと云ハ、たとヘバ、
敵を弱くみなして、我つよめになつて、
ひしぐと云心、専也。
大分の兵法にしても、
敵小人数の位を見こなし、又は、
大勢なりとも、敵うろめきて、
よはミ付所なれバ、ひしぐと云て、
かしらよりかさをかけて、おつひしぐ心也。
ひしぐ事弱ければ、もてかへす事有。
手のうちににぎつてひしぐ心、
能々分別すべし。
又、一分の兵法の時も、
我手に不足のもの、又は、
敵の拍子ちがひ、すさりめになる時、
少もいきをくれず、めを見合ざる様になし、
真直にひしぎつくる事、肝要也。
少もおきたてさせぬ所、第一也。
能々吟味有べし。(1)

 

 

【現代語訳】

 

一 ひしぐという事

ひしぐ〔押しつぶす〕というのは、たとえば、敵を弱いものと見なして、こちらは強気になって、(相手を)ひしぐということ、これが専〔せん〕である。

大分の兵法〔合戦〕にしても、敵が小人数の位〔態勢〕で軽視できる場合、または(逆に)敵が大軍であっても、敵がうろめいて弱気になっているようであれば、頭から嵩〔かさ〕にかかって(強く出て)、押しひしぐことである。

ひしぐのが弱ければ、(敵が)もち返す〔回復する〕ことがある。(敵を)手の内に握ってひしぐ心、(これを)よくよく分別すべし。

また、一分の兵法〔個人戦〕の時も、我が手に不足の(弱い)相手、または敵の拍子が狂い、すさりめ〔後退気味〕になる時、少しも(敵に)余裕を与えず、(相手と)目を見合わないようにして、真っ直ぐにひしぎ尽すことが肝要である。

(敵が)まったく立ちあがれないようにする、そこが第一である。よくよく吟味あるべし。

 

 

 

【註解】

 

 (1)めを見合ざる様になし、真直にひしぎつくる事

これも前数条からの連続で、強く出て戦う戦法である。ただし前条のように、敵が強力で、こちらが逆風を《まぎる》ように、ジグザグに前進するほかないという状況ではない。こんどは、もっと楽な相手である。

まず、語釈のことで言えば、タイトルの「ひしぐ」というのは、現代でも方言レベルでなくとも通じる言葉であろう。口語で「ひしゃげる」「へしゃげる」という表現もある。ようするに「ひしぐ」とは、押しつぶすことである。

むかし「挫折」という言葉が流行したことがあったが、これは自分勝手に潰れるというより、もともとは押し潰される、潰されて屈することである。構造力学で「挫屈」というのは、構造物の柱などが大きな力を受けて潰れることをいうが、これも本来は、押し潰されて屈する、勢いをなくすという意味の語である。

かくして「ひしぐ」は、押し潰すことである。前出の「打ちはなす」が、ドカっという打撃で粉砕するという語感があるとすれば、この「ひしぐ」は、押し潰す、圧殺の感じのニュアンスがある。

さて、この語さえ片づけば、あとはわかりやすい話なので、とくに説明は要しないであろう。敵が弱みをみせる、その瞬間を逃さず、どっと押し潰すのである。

前に、「くづれを知ると云事」条に、徹底的に追い打ちをかけて、粉砕せよという教えがあった。そうしないと、敵が態勢を立て直して復活、逆襲するからである。
《敵立かへさゞるやうに、打はなすもの也。うちはなすと云事、能々分別有べし。はなれざれば、したるきこゝろ有》
と、そこにはあった。敵が立ち直れないように、打ちはなす〔粉砕する〕。この打はなすということ、よく理解すべきである。(敵に対する感情を)切断しなければ、べたつく心が残る――というのである。まさにそれと同じように、いまここでも、
《ひしぐ事弱ければ、もてかへす事有。手のうちににぎつてひしぐ心、能々分別すべし》
《少もいきをくれず、めを見合ざる様になし、真直にひしぎつくる事、肝要也》
との教えである。この「ひしぐ」も、まことに無情、無慈悲な教えである。

すなわち、この「目を見合ざる様になし」が、無慈悲の心である。前に出た言を借りれば、目を見合せば「したるき心あり」なのである。

こういう懇切な教えは、五輪書の特徴である。それは本書の想定読者対象に若年初心の者を含んでいるからである。武士は本質的に殺人を家業とする暴力集団である。殺人教本たる五輪書は、人を殺したことがない武家の少年に、敵の殺し方のポイントを、そこまで深切に教えているのである。

「武士の情」というものが、ある意味でナルシシズムの裏返しであったとすれば、それに対し、無情にして無慈悲なこういう五輪書の教えには、至高悪にあえて踏み込む――語の正しい意味での――倫理的(ethical)なポジションがある。まさに「目を見合ざるようにする」のこの無慈悲な心、諸君、「よくよく吟味すべし」である。

 

 

22 山海の変り (山海の變りと云事)

【原文】

 一 さんかいのかはりと云事。
山海のかはりと云ハ、敵我戦のうちに、
同じ事を度々する事、悪敷所也。
同じ事、二度ハ是非に及ばず、
三度とするにあらず。
敵にわざをしかくるに、
一度にてもちゐずバ、今一つも
せきかけて、其利に及ばずバ、
各別かはりたる事を、ぼつとしかけ、
夫にもはかゆかずバ、
又各別の事をしかくべし。
然によつて、敵、山とおもはゞ、海としかけ、
海と思はゞ、山としかくる心、兵法の道也。
能々吟味有べき事也。(1)

 

 

【現代語訳】

一 山海のかわりという事

山海〔さんかい〕の替りというのは、敵と戦っている最中に、同じ事を度々するのはよくないことである。同じことを二度するのは、しかたがないにしても、三度もしてはならない。

敵に業を仕懸けるときに、一度では成功しない場合、もう一つ(同じ)攻撃を仕懸けて、またその利に及ばない〔効果がない〕ようであれば、今度は別の変ったことを、勃と〔突然〕仕懸ける。それでも(まだ)捗が行かなければ、さらにまた、まったく別のことを仕懸けるべきである。

したがって、敵が「山」と思っていると、こちらは「海」と仕懸ける、「海」と思っていると、「山」と仕懸けること、これが兵法の道である。よくよく吟味あるべきことである。

 

【註解】

 

 (1)同じ事を度々する事、悪敷所也

この「山海」という語は、「さんかい」と音読み。「やまうみ」ではない。ただし、『山海経』〔せんがいきょう〕という書物もある。したがって、武蔵がこれを「せんがい」と呼んだ可能性もあるので、かならずしも諸本にあるごとく、「さんかい」と決まったわけではない。この点、注意されたい。

《山海のかはり》というのは、山と海ほどまったく違ったアクションの変化を展開する、という意味合いである。ネガティヴに言えば、同じ事を度々するな、ということになる。二度目までは、是非に及ばず、つまりやむをえないのだが、三度もするのは阿呆である。

これをまた、武蔵は言い換えて、一度で成功しない時は、もう一回攻撃を仕懸けて、その効果が出ないようであれば、今度は別の戦法を、突然仕懸けてみる。それでもやはり、うまく行かなければ、さらにまた、まったく別のことをしかけろ、――というのである。

ここで、《各別かはりたる事を、ぼつとしかけ》とある、《ぼつと》は「勃〔ぼつ〕と」という語で、「にわかに、突然、いきなり」という意味の副詞である。

しかるに、この《ぼつと》につき、岩波版はじめ濁点を付すはずの翻刻に、「ほつと」とするのは、この語を知らぬもののようである。ここで「ほっと」(安心)して、どうするというのかね?――濁点を付す翻刻文なら、「ぼつと」と記すべきところである。

ともあれ、このように、「山海のかわり」というのは、敵が「山」と思っていると、「海」と仕懸ける、「海」と思っていると、「山」と仕懸ける。意外なことを仕懸けるという意味である。

このような行為の意外性ということは、連歌にもあることであって、だれもが思っていない意外な付句に値打ちがある。そんな連歌の付句からくる意味合いもここにはある。

ともあれ、ここは、わかりやすい話であり、語釈上の問題もないので、読むのには苦労はないはずである。

――――――――――――

 

ここで、諸写本の異本間の相違を指摘しておく。それは冒頭の部分、筑前系諸本に、
《さんかいのかわりと云事。山海のかわりと云ハ》
とあって、共通して「山海の替り」とするところ、肥後系諸本の中には、これを「山海の心」とするものがある。つまり、楠家本・細川家本・丸岡家本の三本に、その字句を確認しうる。

しかるに、同じ肥後系でも、早期派生系統の子孫とみなしうる諸本には、「山海の替り」とする。「山海の心」という異字があるのは、肥後系のうち、楠家本・細川家本・丸岡家本などである。とすれば、これをどう見るか。

肥後系写本しか知らぬ環境では、これは、本来「山海の心」とあったものが、二次的な派生本で誤記されて「山海の替り」へ変化したと見るところである。ところが、上記のように、筑前系諸本は、立花=越後系も共通して、「山海のかわり」である。つまり、五輪書写本の初期、柴任美矩が相伝された寺尾孫之丞前期には、ここは「山海のかわり」であったということである。

また、筑前系/肥後系を横断して共通するのは、「山海の替り」の方である。したがって、肥後系諸本のうち、富永家本や狩野文庫本などが正しい語句を伝えているグループである。こうしたことが斯本の早期派生系統の子孫たることの標識である。

これに対し、肥後系のうちの諸本にみられる「山海の心」は、後になって発生した後発性の変異である。言い換えれば、肥後系も早期には、「山海の替り」であったが、後になって「山海の心」と記す写本が生じたのである。それが、伝写派生して、楠家本・細川家本・丸岡家本などの諸本になったのである。

 

 つまり、上記肥後系三本は、この二次的誤記が発生した後の写本の子孫であり、決して肥後系写本の早期に位置するものではない。少なくとも複数回の伝写を経た段階のものである。五輪書伝写過程全体の中では、後発性を示すものである。

また同様にして、別の箇処の校異がある。それは、筑前系諸本に、
《一度にてもちいずバ、今一つもせきかけて、其利に及ばずバ、各別かはりたる事を、ぼつとしかけ》
とあって、《及ばずバ》とするところ、肥後系諸本は、《及ばず》として、「ハ」字を欠いている。

これは、本文内容からして、《其利に及ばず》で切れては文意不通である。ここは《其利に及ばずバ》とあって、次に接続するのが正しい。筑前系諸本に共通するから、古型であり、それが正しいというだけではなく、文の内容分析の方からしても、その正しさが確認されるところである。

肥後系諸本の《其利に及ばず》は、《其利に及ばずバ》としなければ、後へ文が続かない。ここは、《一度にてもちゐずば、今一つもせきかけて、其利に及ばずバ、各別かはりたる事を、ぼつとしかけ》ということなので、一度で成功しない時は、もう一回攻撃をかけて、その効果が出ないようであれば、今度は別の異なったことを突然仕かけろ、という文脈なのである。

言うならば、「二度まではしかたがないが、同じことを三度もするな」というのが、ここでの教えである。「及ばず」で文が切れると、ここの文意が不明になってしまう。肥後系諸本の《及ばず》には、「ハ」字の脱字が発生しているのである。

ところで、ここで興味深いのは、肥後系のうちにも、円明流系統の諸本に、脱字のないこの《其利に及ばずバ》が見られることである。

このことから導きうるのは、肥後系でも、早期には、筑前系と同じく《其利に及ばずバ》として、まだ脱字のない段階があったということである。

これに対し、肥後系諸本にみられる《其利に及ばず》は、後になって発生した変異である。言い換えれば、肥後系も早期には、《其利に及ばずバ》であったが、後になって「ハ」「は」字が脱字して、《其利に及ばず》と記す写本が生じたのである。それが、伝写派生して、楠家本・細川家本・丸岡家本などの諸本になったのである。

つまり、この点においても、上記肥後系三本は、この誤記発生以後の写本の末裔であり、決して肥後系写本の早期に位置するものではない。少なくとも複数回の伝写を経た段階のものである。この三本とも早期写本からの距離は大きい。つまり、この脱字は、この三本の後発性を証するものである。


――――――――――――

 

さて、この箇処、既成現代語訳は、いかにと見るに、もとより細川家本を底本とするので、語訳にあたる原文そのものが誤っているのだが、訳者は細川家本(岩波版)しか知らないから、この部分を無理やり訳している。

当該部分を見れば、右掲のごとく、まず、戦前、石田訳が、「一度で駄目なら、今一度つゞけ様に仕掛けて、それでも駄目なら」とした。つまり、細川家本の脱字を、何とかしのぎかわして、ほぼ正解にもちこんだ。これは、石田訳が前後の文脈を把握していたからである。

しかし、戦後になると、肥後系細川家本の脱字効果が表に出てきた。つまり、神子訳が、「一度で成功しなければ、もう一度しかけてみても、その効果は一段とうすれてしまう」と意訳した。ここで、話は脱線してしまった。

上述のように、ここは、一度で成功しない時は、もう一回攻撃をかけて、その効果が出ないようであれば、今度はまったく異なったことを突然仕掛けろ、という教えである。要するに、「二度まではしかたがないが、同じことを三度もするな」というのが、話の基本である。《おなじ事、二度ハ是非におよばず、三度とするに非ず》、つまり「二度まではしかたがないが」と武蔵は云っているのである。

ところが、《一度にてもちいずば、今一ツもせきかけて、其利に及バず【脱字】、各別替りたる事を、ぼつとしかけ》とする細川家本のように、脱字があって「及ばず」で文が切れると、――神子訳のような話になる。ここでは、《今一ツもせきかけて》に「も」を密輸して、文を逆接する操作をしているのだが、一度仕掛けてダメなら、同じことをもう一回仕掛けても効果はない、という逆の話の筋道になってしまうのである。

その後の現代語訳は、この神子訳の翻案でしかない。大河内訳は、「もう一度攻めたてても、最初のときの効果には及ばない」とし、鎌田訳は、「もう一度攻めたてても、その効果はなくなる」とする。例によって、両者とも、五輪書翻訳どころか、神子訳の言い換えでしかない。

つまり、戦後の現代語訳では、「一度でだめなら、同じことをもう一度やっても効果はない」というわけである。まさに、これは、五輪書のどこにも書かれていない話である。それゆえ問題は、どこにも書かれていない文が、戦後になって、現代語訳のレベルで生産されてしまったことである。これは誤訳珍訳というよりも、本文趣旨の改竄である。

そして、さらなる問題は、こうした「武蔵の教えにない武蔵の教え」が、現代語訳を通じて、世間に流布されていることなのである。

 

23 底をぬく (底をぬくと云事)

【原文】

 一 そこをぬくと云事。
底を抜と云ハ、敵と戦に、
其道の利をもつて、上ハ勝と見ゆれども、
心をたへさゞるによつて、
上にてはまけ、下の心はまけぬ事有。
其儀におゐては、
我俄に替りたる心になつて、
敵の心をたやし、底よりまくる心に
敵のなる所、みる事専也。
此底をぬく事、太刀にてもぬき、
又、身にてもぬき、心にてもぬく所あり。
一道にハ、わきまふべからず。
底よりくづれたるハ、我心残すに及ばず。
さなき時は、残(す)心也。
残す心あれば、敵くづれがたき事也。
大分小分の兵法にしても、
底をぬく所、能々鍛練有べし。(1)

 

 

【現代語訳】

 

一 底を抜くという事

底を抜くというのは、敵との戦いにその道の利〔優位〕をもって(勝ったとして)、表面上は勝ったと見えても、相手は闘争心を絶やさないのだから、表面上は負けて下の心底は負けていないことがある。

その場合には、こちらが突如違った心になって、敵の(闘争)心を根絶やしにし、(敵が)心底から負けたという気になるようにしてしまうこと、これが専〔せん〕である。

この底を抜くことは、太刀でも抜き、また身体でも抜き、心でも抜くところがある。やり方は一通りしかないと思い込んではならない。

底から崩れた(敵)には、こちらは心を残す*必要はない(底まで抜け、徹底的に粉砕せよ)。そうでない(敵が崩れない)ときは、(まだ)残す心〔不徹底〕である。(逆に言えば、こちらに)残す心〔不徹底〕があるかぎり、敵は崩れがたいのである。

大分小分の兵法〔多数・少数の集団戦〕にしても、底をぬくところ、よくよく鍛練あるべし。

 

 

【註解】

 

 (1)残す心あれば、敵くづれがたき事也

ここも前条の連続で、敵を徹底的に粉砕する方法が教えの内容である。

この「底をぬく」というのは、底までぶち抜くという意味である。敵を徹底的に粉砕することである。

したがって、「底をぬく」という本条のテーマは、「底が抜けるまで徹底する」ということである。

ところが、ここで「底を抜く」というのは、心の問題である。すなわち、勝負において、表面上は負けて下の底の心は負けていない、ということがある。心底負けていなければ、いったん負けても、再び立ち直って復活し、逆襲してくるであろう。とすれば、その心の底まで粉砕すべきである――「底をぬく」という「徹底」の教えは、かくもタフで無情な無慈悲の教訓なのである。

――――――――――――


ここはさしたる校異はないが、一つ、語釈の問題がある。それは《心を残す》《残す心》という語句である。

「心を残す」と言えば、武道の心得がなくとも、残心〔ざんしん〕という言葉が思い浮かぶはずである。

この「残心」とは、ふつう剣道では、打ち込んだ後の反撃に備える心、現代剣道では、残心のない打突は、たとえ正確に打突しても有効打突としての一本とは認めない。あるいは弓道でも、残心(残身)というが、これは矢を射た後の反応を見極める体勢であり、その後に「弓倒し」という一連の動作に移る。この他、残心はさまざまなジャンルで形式化され、礼法でも礼をした後に数秒「間」をとって次の行動に移ること「残心」と呼ぶ。しかし、要するに、もともと残心は、攻撃後もそのまま警戒を解かず、用心する心の体勢のことであった。

これが特殊な語義だとすれば、一般の語法では、「残心」は、心残りや未練という意味がある。言い換えれば、物事に対してまだ十分に満足していない不発状態(frustration)のことでもある。一般と特殊では語法にかなり違いがある。

かような意味が現代語にあることから、この「心を残す」という語の解釈には、むしろ逆に、注意が必要である。語用の一般と特殊、いづれであれ、現代語法に安易に支配されていては、語句の理解を間違うのである。

語釈においては、以下の部分が問題の焦点である。つまり、これまで誰も正しく訳した者がなかったという、いわくつきの箇処である。ここは急所であるから、いささか立入って述べてみたい。
《底よりくづれたるは、我心残すに及ばず。さなき時は、残す心也。残す心あれば、敵くづれがたき事也》

問題は、この部分をどう解釈するか、である。

ここで先に、既成現代語訳を一覧してみよう。それは右掲の通りである。

これを見るに、「心を残す」というのは、戦前の石田訳の「用心する」というあたりですでに語釈が固まっていたらしい。岩波版注記もこれを踏襲して、《残す心あれば、敵くづれがたき事也》について「後に警戒心を残すような不徹底な気持では、敵を完全に打ち崩すことはできない」としている。もとよりこれでは、前文の《さなき時は、残す心也》と話が喰い違ってしまうし、ここでの「残す心」には「警戒心」などという意味はないから、これは誤訳である。

他三者の現代語訳を見るに、神子訳は、「心を残す」をそのまま使っているが、これはこの語を理解しているとは見えない訳である。とくに、「敵も、心を残していれば」として、心を残すのを敵側に転移してしまっている。これは、《さなき時は、残す心也》を「そうでないときには残しておかねばならぬ」と訳してしまったから、次の《残す心あれば、敵くづれがたき事也》と話が矛盾してしまう。そこで考えついたのが、「心を残す」のを敵側に遷すことだった。

大河内訳は、岩波版の「警戒心」なる語を頂戴しているが、鎌田訳は、神子訳と同様に「心を残す」をそのまま使っている。これも同じく、この語を理解しているとは見えない訳文である。しかも、「そうでないときには、心を残しておかねばならぬ。敵も心を残していれば、なかなか崩れないものである」とするのを見れば、神子訳のアイディアを頂戴したのであるが、とくに新味はなく、文脈を理解していないのは歴然としている。

つまり、こうである。――敵が崩れない、そこで心を残す(用心する)必要がある、ところが、心を残す(用心する)と、こんどは敵は崩れがたくなる(??)――これでは、話にならない。こんなことが書かれているはずがない。そこで、心を残すのを、敵の役に回したというわけである。

これは訳者が「心を残す」を理解しておらず、また文意を汲んでいないにもかかわらず、この文を訳したふりをしているだけである。そういう「訳したふり」は、誤りを生産することになる。

ここは、どうしても「心を残す」の語を正しくおさえておかねばなるまい。


すなわち、まず確認すべきは、この「心を残す」が「底を抜く」との対照関係で使われていることである。

    底を抜く × 心を残す

ようするに、底を抜く/心を残す――この対立図式は、「底をぬく」という見出しのこの条のコンテクストでは、徹底/不徹底という対比であり、そのことを頭に入れて読むことである。

ではまず、《底よりくづれたるは、我心残すに及ばず》の「我心残す」の解釈である。これを、既成現代語訳のように、敵に対し用心する、警戒する、というように釈義するのは、明らかに誤りである。

上記のごとく、「底を抜く」の反対語が「心を残す」である。したがって、これは警戒し用心するという意味の「心を残す」ではない。「心を残す」とは、「底を抜かない」ことである。これが語釈のポイントである。

とすれば、《我心残すに及ばず》の語訳は、「我が方は心を残す必要はない」、すなわち敵を徹底して粉砕しろ――底を抜け、ということである。こうした言説の直近類似例は、右に再掲する「ひしぐと云事」であろう。

すなわち、《ひしぐと云て、かしらよりかさをかけて、おつひしぐ心也。ひしぐ事弱けれバ、もてかへす事有。手のうちににぎつてひしぐ心、能々分別すべし》とある。また、《めを見合ざる様になし、真直にひしぎつくる事、肝要也。少もおきたてさせぬ所、第一也》とも云う。いづれにしても、無慈悲、無情に徹底する教えである。

次に、《さなき時は、残す心也》は、既成現代語訳のように「そうでないときは、警戒心を残さねばならない、用心しなければならない」といった文意にとるのは、まったくの誤釈である。これでは《残す心也》を読んでいないのである。

ここの正解は、「そうでない(敵が底から崩れない)場合は、まだ残す心〔不徹底〕がある」、つまり、逆に云えば、不徹底だから、崩れないのだ――ということである。これは「底を抜く」ということに対応する言説である。

したがって、こう読んではじめて、それに続く、《残す心あれば、敵くづれがたき事也》という文と重なって、矛盾なく接続するのである。それゆえ、これが読みの正解である。

かくして、このいわくつきの問題箇処は、――「底から崩れた敵には、こちらは心を残す必要はない(徹底的に殲滅せよ、底を抜け)。そうでない(敵が崩れない)場合は、不徹底〔残す心〕である。不徹底〔残す心〕であれば、敵は崩れがたい」と読まねばならないのである。

これを既成現代語訳――訳したふりをしているだけのものも含めて――と比較すれば、内容の相違は大きい。武蔵は徹底した無情の教えを説いているにもかかわらず、既成現代語訳では、こちらの用心あるいは警戒心を説く、まったく間抜けな言説でしかない。

まさしく、この部分は、これまで正しく読まれたためしがなかったところである。要するに、「残心」という通念からいったん解放されないかぎり、ここは正しく読めないのである。  

 

 

24 新たになる (新たになると云事)

【原文】

 一 あらたになると云事。
新に成と云ハ、敵我もつるゝ心になつて、
はかゆかざる時、我氣をふり捨て、
物毎を新しくはじむる心に思ひて、
其拍子をうけて、かちをわきまゆる所也。
あらたになる事ハ、何時も、
敵と我きしむ心になると思はゞ、
其まゝ心をかへて、
各別の利を以て勝べき也。
大分の兵法におゐても、
新になると云所、わきまゆる事、肝要也。
兵法の智力にてハ、忽見ゆる所也。
能々吟味有べし。(1)

 

 

【現代語訳】

一 新たになるという事

新たになるというのは、敵ともつれた感じになって、捗が行かないようなら、それまでの自分の気分を振り捨て、すべてを新しくはじめる気持になって、その(新たな)拍子をつかんで、勝つのをわきまえる、というところである。

新たになることは、どんなときでも、敵と我が方とがきしむ*感じになったと思ったら、すぐさま心を変えて、(それまでとは)まったく別の利〔戦い方〕によって勝つようにすべきである。

大分の兵法においても、新になるというところをわきまえることが肝要である。兵法の智力があれば、(どこで新たになるかは)たちまち見えるものである。よくよく吟味あるべし。

 

 

 

【註解】

 (1)其まゝ心をかへて、各別の利を以て勝べき也

ここはとくに迷惑させるような語句はない。難なく読めるであろう。

近い前例では「山海のかわり」をはじめ、すでにいくつか、変化の戦法が語られたが、これもそのひとつである。

ここでいう「新たになる」とは、戦いにおいて、もつれた感じになって捗が行かないようなら、それまでの自分の気分を振り捨て、すべてを新しくはじめる気持になって、その新たな拍子をつかんで勝つようにすることである。

また、別の言い方では、「新たになる」とは、敵とこちらがきしむ感じになったと思ったら、いつでも、すぐさま気持を変えて、それまでとはまったく別の手段を使って勝つようにすることである。

このようにいづれも、戦闘において、「もつれる」「きしむ」といった状態になったとき、これを打開するために、「新たになる」のである。つまり、それまでのやり方を思い切って捨てて、新たな拍子や手段で勝ちを得るようにするのである。

この「新たになる」に似たことは、この火之巻中の「四手〔よつで〕をはなすと云事」でも語られていた。すなわち、「四つ手をはなす」とは、
《はりあふ心になるとおもはゞ、其まゝ心を捨て、別の利にて勝事を知る也》
《其まゝ心を捨て、別の利にて勝事を知る也》

したがって、対抗関係のなかで膠着しそうになったら、さっさと戦術転換しろ、というのが武蔵の基本の教えである。すなわち、本条で、
《其まゝ心をかへて、各別の利を以て勝べき也》
というのと同じテーゼが、この五輪書の中で反復強調されているわけである。

ここで若干、語の説明に入れば、まず、「もつれる」というのは、前に水之巻「ねばりをかくると云事」において、
《ねばるは強し、もつるゝは弱し。此事分別有べし》
とあった「もつるゝ」である。このとき、「ねばる」というのは、自分の太刀を敵の太刀に接着させて、粘るという感じで入身するわけで、自分の太刀が敵の太刀と決して離れないという心持、あまり強くない心持で入るのだとあった。太刀を押しつけて、粘りをかけて入る時は、どれほど静かに入ってもかまわない、ともいう。粘るは、じわっと執拗な攻勢である。

だから「ねばる」は強いが、これに対し、「もつれる」は弱い。これは紛糾しているだけで、少なくとも攻める勢いではない。

また、「きしむ」〔軋む〕というのは、これも現代語でも使う言葉である。その場合、軋轢や摩擦があってスムースにいかない状態のことである。ただし、ここでいう「きしむ」には、何かじれったい感じ、イライラした感じがある。そういう語のニュアンスは感知しておかねばなるまい。

ようするに、「きしむ」というのは、ギシギシせめぎ合う状態だけではなく、その状態が膠着して、スムースに事が運ばず、じれったい、イライラした感じの状態である。

「きしむ」「もつれる」――こういう状態になったら、さっさとやり方を変えろ、というのが武蔵の教えである。このあたり、武蔵の気性が思いがけず表出されている、彼は――関西語で言えば――かなりイラチな性格のようだと言えなくもないが、そうした個人的性格というよりも、むしろ、軋轢やもつれにまきこまれて、無駄にエネルギーを消耗するな、そんな暇があったらもっと有効な別の手段を探って戦え、という合理主義なのである。

ようするに、――特定の戦法に執着するな、固執するな、という趣旨であるが、これは前出の「同じ事を度々するな」という武蔵の教訓と同じ話の筋である。むろん、「四手をはなす」という語も同様だが、ここには連歌のコノテーションがあることは看過できない。


――――――――――――

 

さて、諸本校異のことを云えば、ここで若干指摘しておくべき箇処がある。「あらたになる」ということを、説明し始める本条冒頭の文のことである。

ひとつは、敵と我とがもつれる心になって、渉〔はか〕がいかない時、というところで、筑前系諸本のうち、吉田家本と中山文庫本に、その《はかゆかざる》を、なんと《墓ゆかざる》と記していることである。

もちろん、他の筑前系諸本は、通常のごとく、ここでも《はか》と仮名である。とくに変ったことはない。これが早川系写本の特異性かとみると、そうではない。同じ早川系でも、鈴木家本は、これを《はかゆかざる》と記している。とすれば、早川系だから「墓」という異字を用いるということではない。

興味深いのは、なぜ、こうした「墓」という異字が用いられたのか、ということである。この《はかゆかざる》の「はか」という語には、細川家本等のように「果敢」という異字を書くケースもある。しかしそれは単に恣意的な漢字変換という以上の意味はない。

それに対し、吉田家本と中山文庫本に見られるこの「墓」という異字は、そうした恣意的な漢字変換にとどまらぬ様子がある。あるいはまた、流派内のジャーゴン(jargon)、隠語というわけでもなさそうである。

要するに、《墓ゆかざる》と書くのは、何も特別な字句ではなく、これは当時民間のワードプレイだったらしい。つまり、墓というものは容易に動かせない、移せない。物事がはかどらないのを、《墓ゆかぬ》というのは、そんな連想による言語遊戯である。

これがさらにシフトすると、「寺の引越し」である。寺の引越しには墓の移転もからむ。はかゆかぬ、《墓ゆかぬ》、だから「寺の引越し」というと、物事がはかどらないことをいう。

したがって、吉田家本と中山文庫本にみえる「墓」という異字も、そういう当時民間の語法であって、特別な意味はない。「渉ゆかぬ」と書くところを、「墓ゆかぬ」と書いてもとくに抵抗はなかったのである。言い換えれば、そんな当時民間の語法がここに不意に割り込んでいるのが、おもしろいところである。

ただし、筑前系の他の諸本には、《はかゆかざる》とあって、「墓」という異字を用いることはない。そうした背景からすれば、吉田家本と中山文庫本には、書写にある種のゆるみがあって、正確さが欠けていたということであろう。

さて、校異の問題としては、以上は余談である。ここで本題に入れば、右掲のごとく、筑前系/肥後系を截然とわける指標的な相異がある。それは、筑前系諸本には、だいたい、
《新になると云ハ、敵我【★】もつるゝ心になつて、はかゆかざる時》
とあるところ、肥後系諸本には、
《新になると【★】ハ、敵我戦ふ時、もつるゝ心になつて、はかゆかざる時》
とするものがあって、「云」字の欠落と、「戦ふ時」という字句の増加がある。これを検分してみよう。

まず、「云」字の有無ということでは、肥後系諸本のうち、狩野文庫本など円明流系にも「云」字はある。こちらは、肥後系早期に派生した系統の子孫である。ということは、肥後系でも早期には、筑前系写本と同じく、この「云」字があった、しかるに、途中の伝写プロセスで、これが脱落した、ということであろう。現存肥後系写本の多くは、これが脱落した写本の後の子孫である。

次に、「戦ふ時」という語句の有無であるが、筑前系には、立花=越後系諸本も含めて、これがない。これがあるのは、肥後系写本の特徴である。しかも、諸本共通するところからすると、これは肥後系早期にあったものである。

そこで、寺尾孫之丞は、その前期/後期、このように字句の異なる五輪書を相伝したという可能性もあろう。つまり、寺尾孫之丞は、柴任美矩のような早期の門人へ伝授した承応の写本では、筑前系写本のように、「戦ふ時」という字句のないものであったが、その他寛文頃の後期門人へ伝授したものでは、これを入れるようになった、ともみなしうる。

そこで、この「あらたになると云事」条の前後の条々を見るに、以下のごとくである。
《敵我戦の内に、同じ事を度々する事》(山海のかわりと云事)
《敵と戦に、其道の利をもつて》(そこをぬくと云事)
《敵と戦の内に、たがひにこまかなる所をおもひ合て》(そとうごしゆと云事)

これを見るに、前後の条々には、「戦の内に」「戦に」という語句が入っている。このことからすれば、この「あらたになると云事」条においても、この種の語句が入っても無理はない。

したがって、肥後系諸本の「敵我戦ふ時」も当然ありうる語句なのである。ただし、「戦ふ時」となると、それでは前後の条々からして異例である。最初は、「敵我戦に」であったが、それが後に、「敵我戦時」と誤写された可能性もある。それが後の写本では、「敵我戦ふ時」「敵我たゝかふ時」に変化して行ったのであろう。

ともあれ、これが寺尾孫之丞に起因するものか否か、それは確証がない。「敵我戦に」であれ「敵我戦時」であれ、寺尾以後の仕業であるという可能性もある。彼此の可能性はある。

そうした可能性をすべて勘案したとしても、他方で、筑前系諸本に共通する特徴から、その初期には「戦ふ時」という語句はなかったのは、たしかである。それゆえ、我々のテクストでは、当面の措置として、筑前系諸本を請けて、この字句「戦ふ時」は採らなかったのである。

 

 

 

25 鼠の頭、午の首 (鼠頭午首と云事)

【原文】

 一 そとうごしゆと云事。
鼠頭午首*と云ハ、敵と戦のうちに、
たがひにこまかなる所を思ひ合て、
もつるゝ心になる時、
兵法の道を、常に鼠頭午首/\とおもひて、
いかにもこまかなるうちに、
俄に大きなる心にして、
大、小に替る事、兵法一つの心だて也。
平生、人の心も、そとふごしゆと思べき所、
武士の肝心也。
兵法、大分小分にしても、此心、はなるべからず。
此事、能々吟味有べきもの也。(1) 

 

 

【現代語訳】

 

一 鼠頭午首という事

鼠頭午首*そとうごしゅ〕というのは、敵と戦っている最中、互いに細かいところに気をとられて、もつれた感じになる時、兵法の道をつねに「鼠頭午首、鼠頭午首」と思って、いかにも細かい様子でいるうちに、突然、大きな心になって、小から大へ切り替えること。これが兵法の一つの心だて〔心搆え〕である。

平生、人の心も、「鼠頭午首」と思うべきである。そこが武士の肝心である。

兵法が大分・小分〔多人数・少人数〕の場合にしても、この心持を離れてはいけない。このことは、よくよく吟味あるべきものである。

 

 

 

【註解】

 (1)俄に大きなる心にして、大小に替る事

ここは、急に戦闘モードを替えること。とくに、小を大に切り替えることを教える。

そこで、いつもこれを忘れないように、武蔵はひとつの「咒言」のようなものを伝授する。それが、「そとうごしゅ、そとうごしゅ」という文言である。これをいつも思い出して戦え、というわけである。

この「そとうごしゅ」(鼠頭午首)は、鼠の頭と午(馬)の首である。鼠の頭が「小」であり、午の首が「大」である。

この「ごしゅ」については、現存写本は、「午首」「牛首」と文字がまちまちである。それは、これまでの諸例のように、筑前系と肥後系に相違があるということではない。同じ筑前系でも、写本によって「午首」「牛首」と文字がまちまち、肥後系でも同前である。

このばあい、「ごしゅ」の「ご」が、「午」(馬)か「牛」かとなると、語例は両方いづれもありうるところである。午は、たとえば午後の「午」〔ご〕だが、牛でも、たとえば、食材のゴボウは「牛蒡」と書くように、牛は「ご」ともよむ。

ゆえに諸本には、「午首」「牛首」とまちまちである。現存写本では、オリジナルがどちらかだったか、決しがたい。武蔵の当時、一部で存在した警句であろうか。この武蔵の咒言、もし何か典拠があればと、探してみたが、いまのところ見つからない。それゆえ、「午首」「牛首」いづれか決するには、語句の内容分析が必要となる。

そこで、午(馬)か牛かとなると、まず思い浮かぶのは、牛頭天王(ごづてんのう)、これは京都の祇園社の祭神である。あるいは、祇園社の牛頭天王は、播磨の広峰神社から遷座したともいうから、「生国播磨」の武蔵にあながち無縁でもない。

しかし、五輪書のような兵書において、牛の頭だとするポジティヴな理由は見当たらない。ここは、「馬の首」としておくべきであろう。というのは、武芸の一つに馬術があるゆえ、牛より馬の方が連想しやすかろうし、また、仏教習俗では馬頭観音のこともある。

ことに「馬の首」という言葉について、柳田國男『遠野物語』に、オシラサマ起源譚として、
昔ある処に貧しき娘あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養ふ。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、つゐに馬と夫婦に成れり。ある夜父此事を知りて、其次の日娘に知らせず、馬を連出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬の居らぬより父にたづねてこの事をしり、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首にすがりて泣きゐたしを、父は之を悪みて斧を以て馬の首を切落せしに、忽ち娘はその首に乗りたるまま天に昇りて去れり。オシラサマと云ふはこの時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像をつくる。(遠野物語 六九)

切られた馬の首の説話は、さまざまな怪談の妖怪にもなって展開した。しかしこれも、もとは、馬の供犠、雨乞い儀礼の一種だったのである。『日本書紀』に皇極天皇元年(642)の大旱に、村々の咒師が牛馬の首を杜の神に祀って雨乞いしたとある。とくに馬の首を供犠して雨乞いする風習は近代まで残っていた。

余談じみた迂回になったが、ともあれ、五輪書のような戦闘法を教える兵書には、「牛」は似合わない。戦場で使用するのも、牛ではなく、馬である。武蔵が本書で主たる読者として想定している武士の子弟にしても、馴染みのあるのは、牛ではなく、馬である。したがって、武蔵のオリジナルには、「午」(馬)とあったものとして、我々のテクストでは、これを「午首」としている。

さて、ここの文意は、――敵と戦いの最中、敵我互いに細かいところに気を奪われ、もつれた感じになる時、兵法の道をつねに「鼠頭午首、鼠頭午首」と思って、いかにも細かいところにかまけているうちに、突然、大きな心になって、小から大へ切り替えること。それが兵法の一つの心だて、心得である、――という教えなのである。

――――――――――――


ここは「鼠頭午首」という、やや特異な語句を除けば、とくに難しいところはないであろう。――と思っていたら、案外そうではなかった。というのも、気持を小から大へ切り替えろ、そうしてもつれた状況を打開しろ、という文脈であるはずなのに、それとは違う読みが存在したのである。

岩波版注記では、これについて、仰天すべき解釈を提示している。
「鼠の持つ細心さと牛の持つ大胆さを兼ね備えよということ。胆大心小は、とくに武士の心搆えに肝要であると述べている」

五輪書はそんなことを述べているか?――述べていない。「鼠の持つ細心さと牛の持つ大胆さを兼ね備えよ」というような話はどこにもない。だいたい「牛の持つ大胆さ」なんてことが、この世に存在するはずもない。

しかしこの、細心大胆兼備ということは、岩波版注記の発明ではない。『劍道秘要』の三橋鑑一郎頭注に、「鼠頭午首膽大心小」とあるところからみれば、こういう解釈は少なくとも明治以来存在したのである。これが、もつれた状況を打開するにはどうするか、という武蔵の文脈から大いに外れた解釈であることは言うまでもない。

こうした解釈が明治以来あったとしても、戦後の岩波版注記の「牛の持つ大胆さ」はさらなる踏み外しである。誤りは時を追って大きくなる。誤謬のバタフライ効果である。

かくして、既成現代語訳はいかがなりや、と見るに、右掲のごとくである。

まず、戦前の石田訳は、異例である。小なるものも大なるものも兵法の眞體から見れば無差別である、という珍妙な解釈であるが、その注釈に、「膠着状態を脱却するにあたつて大即小なる觀法――つまり、空の哲理の活用を説いたのである」とあるところを見るに、これは本気らしい。戦前にはこの種の言説は例外ではなく、こうした「空の哲理」なる言葉が大いに流行したのである。

むろん、「空の哲理」とはそれ自体が空虚な言葉であって、その言説は、まさしく我知らず「空論」を実践していたのである。戦前の武蔵論にはこの手のものが少なくなかった。

しかし、この「大即小なる觀法」が、明治以来の「大膽小心兼備」という解釈の一亜種であったことは見やすい筋道である。「兼備」の心得が「即非」の哲理になるには、さして懸隔はないのである。

次に、戦後の現代語訳をみるに、神子訳は、文字づらではおおむね誤りはないが、肝心なところで誤釈を暴露している。「ねずみの頭のことから、牛の首に思いを移す」というのがその間違いで、前述のごとく、正しくは、自分の頭が鼠の頭になってしまっているのを、馬の大きな頭に切り替えることである。

次の大河内訳も、文字づらではおおむね正しい。鎌田訳は神子訳のパクリだが、「ねずみの頭から、牛の首を思うように」となると、それからもズレている。

鎌田訳と大河内訳の誤りは、それぞれの注釈に明らかである。両者とも、前出の岩波版注記の《鼠の持つ細心さと牛の持つ大胆さを兼ね備えよ》という路線をそのまま忠実に踏襲しているのである。

いづれにしても、戦後訳は文字づらではおおむね誤りはないが、テクストのどこにも書いていない「大膽小心兼備」という話を持ち出して、肝心なところで脱線している。

直訳は、ある場合には、よい結果を生む。しかし、それは、余計な解釈をしないという条件つきである。したがって、我々が注文を付けるとすれば、ここは、もっと字義通りに読め、――ということなのである。


――――――――――――

 

さて、諸本校異のことを云えば、指摘しておくべき箇処がある。その一つは、上述の《そとうごしゅ》の「午首」「牛首」の相異である。

これは下にまとめて示すように、我々が参照した諸本では、筑前系/肥後系を横断して見られるところである。

 

系統 午 首 牛 首
筑前系
中山文庫本
石井家巻子本 猿子家本
吉田家本 鈴木家本
立花隨翁本 赤見家甲本
近藤家本 石井家冊子本
伊藤家本 神田家本
肥後系
細川家本 常武堂本
富永家本
楠家本 丸岡家本
田村家本 山岡鉄舟本
円明流系統諸本

 

 これによって見るかぎりでは、筑前系/肥後系を横断して、「午首」「牛首」両方が分布している。したがって有意な差異は見出せない。

筑前系諸本に注目するに、早川系では吉田家本と鈴木家本が「牛首」、中山文庫本が「午首」と双方に分かれているが、他方、立花=越後系も「午首」「牛首」の両方がある。

とくに興味深いのは、石井家本であり、その巻子本と冊子本では違っている。これは巻子本と冊子本では世代が違うのではなく、同じ九代五十嵐正一の代のものである。同一人のものでさえ表記のゆらぎがあるということである。

したがって、全体と個別の両方のレベルで、校異によって「午首」「牛首」の何れかを決定できない。また、「そとうごしゅ」という武蔵のソースも判明しない。

上述のごとく、祇園社の「牛頭天王」や、「馬の首」という古来の習俗もある。そこで、あえてどちらかに決定するとすれば、武芸なら馬だろうということで、我々のテクストでは、当面は「午首」ということにしておいたのである。だから、さして確かな根拠があるわけではない。

もうひとつ、これとは別種の校異について、ここでの事例を挙げることにする。すなわち、それは、筑前系諸本に、
《兵法、大分小分にしても、此心、はなるべからず》
とあって、《此心》とするところ、肥後系諸本には、《此心を》として「を」字を付す。

これは、筑前系/肥後系を区分する指標的相異である。つまり、筑前系諸本は共通して、《此心》とし、肥後系諸本も共通して、《此心を》として、明確に分布しており、双方を横断する事例はない。

この件について云えば、筑前系に共通してあるところから、既述の諸事例と同様にして、「を」を付さない《此心》を古型とみなしうる。それに対し、肥後系諸本の《此心を》として「を」字を付すのは、後に肥後で発生したローカル・パターンである。

これは早期派生系統の子孫たる諸本も同じであるから、肥後系早期に発生したものである。以後、諸系統の分岐派生を経過して、この「を」字を付す語句が、現存書写本に現れているというわけである。

蛇足ながら、文の内容分析の方からすれば、この「を」字の有無によって文意に大差ないものの、文章のリズムからして、「を」字がないほうがよろしい。つまり、《此心をはなるべからず。此事、能々吟味有べきもの也》よりも、《此心、はなるべからず。此事、能々吟味有べきもの也》の方が、文体はよい。

ただし、これは文体の優劣で決めることではなく、上述のように、どの写本にどちらの語句があるか、つまりは、間テクスト的分析によって規定されるステイタスによって決まることなのである。

 

26 我は将、敵は卒 (將卒を知ると云事)

【原文】

 一 しやうそつをしると云事。
将卒を知るとハ、何も戦に及とき、
我思ふ道に至てハ、たへず此法をおこなひ、
兵法の智力を得て、わが敵たるものをバ、
ミなわが卒なりと思ひとつて、
なしたきやうになすべしと心得、
敵を自由にまはさんと思ふ所、
われハ将也、敵ハ卒也。
工夫有べし。(1) 

 

 

【現代語訳】

 

一 将は卒を知るという事

将は卒を知る*〔支配する〕とは、(こういうことだ。つまり、――)

だれでも、戦いに及ぶ時、自分が思う道に達したら、たえずこの法〔教え〕を実践し、兵法の智力を得て、敵である相手を、皆自分の兵卒だとみなして、(自分の)したい通りに扱えばよいと心得て、敵を自由に廻さん〔動かしてやろう〕と思うところ、そこでは、我は将であり、敵は卒である。(これを)工夫あるべし。

 

 

【註解】

 

 (1)われハ将也、敵ハ卒也

前条につづいて、ここも戦場での心得である。敵を全員、自分の兵卒、部下だとみなして、敵を自分のしたいように自由に動かす、そんな心持で戦闘に臨め、という教えである。

これは戦いのイニシアティヴ(主導権)をとるというよりも、ヘゲモニー(支配権)をとるという、もっと強い意味である。敵を全員、自分の兵卒、部下だとみなせとは、たしかに荒唐無稽な教えだが、それが武蔵流である。命がけの実戦の塲では、そのインパクトの強さで、釣合うのである。戦闘者は、この《われハ将也、敵ハ卒也》を、咒言のように反芻しつつ、戦場を驅け廻るのである。

語釈の点で、まず注意したいのは、ここの「将、卒を知る」の「知る」は、将たる指揮者は部下の兵士のことを知るべきだ――などと云うときの「知る」ではない。この「知る」は政治的用語であり、「支配する」と同義の語である。

初代神武天皇は、神日本磐余彦尊(かむやまといはれひこのみこと)の「ヒコ」名の他、天皇(すめらみこと)としては、「始馭天下之天皇」の名があり、これは「はつくにしらす」と読む。初めて国を統治した者という意味である。この「しらす」は「しる」の敬語用法である。

「知」は、「治」に同じく、統治する・支配するという政治的概念からきている。知行・下知などという言葉もこの一連である。それゆえ、
《遂に世中をしり給べき右のおとどの御いきほひは》(源氏物語 桐壺)
《むかし、男、津の国にしる所ありけるに》(伊勢物語 六六)
とあるところ、いづれも、現代語式に「世の中をお知りになる右大臣」とか「摂津国に知っている所があった」とか訳すと間違いなのである。源氏の方は「世の中を統治なさる」であり、伊勢の方は「摂津国に支配地(領地)があった」という意味である。

ここで武蔵がいう「知る」も、これと同様に、統治する・支配するという政治的概念からきている。「知る」は、ここでは、この路線の延長で、相手を自由に扱うという意味である。

したがって、既成現代語訳に、「将卒を知る」として、「知る」という字句を、何の注釈もなくそのまま用いているのは、誤訳である。

そのように、翻訳しないことによって誤訳する結果になるという事例は、たとえば、既出例では、《そのまゝ》という語句である。これは五輪書では、たいてい「すぐさま」の意であるが、これを現代語訳で、そのまま「そのまま」と書いてしまっては、誤訳なのである。

ようするに、「無為にして錯る」という逆説がここにある。翻訳しないことによって誤訳にいたる、何もしないのに誤ってしまうのである。今後本書を翻訳する者は皆、既成現代語訳の轍を踏まざるように、この点に注意することだ。

もう一つ、語釈で採りあげるべきは、「自由にまはす」という語であろう。これは、たとえばこの火之巻の「三つの先」の教えに、
《いつにても我方よりかゝる事にはあらざるものなれども、同じくハ、我方よりかゝりて、敵を自由にまはしたき事也》
とあったところである。「廻す」という言葉は、猿廻しの「廻し」で、我が方の思い通りに敵を動かすことである。すでに見た通り、五輪書にしばしば登場する用語である。

以上のことを踏まえて、この「将は卒を知る」という節の内容は、――我が敵である相手をすべて自分の部下の兵隊だとみなして、自分の思い通りに扱えばいいと心得て、敵を自由に廻してやろうと思うこと、そこでは、我は将であり、敵は卒である、ということである。

これと同じ教えは肥後兵法書にもある。それを見ると、タイトルが「将卒の教」となっており、「将卒を知る」とはない。また、「将卒と云ハ」とあって、「将卒」というだけで通じるようになっていたらしい。つまり、一流内部ではこれで通じるほど、周知の教訓であったものとみえる。

したがって、これは五輪書の記事を請けて書かれたものであり、もとより五輪書以後の文書である。

つまり、五輪書以後とは、武蔵死後のことであり、その段階で書かれたものである。武蔵が死後も物を書くはずがないとすれば、肥後兵法書は、むろん武蔵の述作ではない。

こうした自明のことが、実はなかなかのみ込めないのが、近年に至るも、武蔵研究者の症候の一つである。兵法三十五箇条は、寺尾求馬助が武蔵から相伝されたものだ、さらには、細川忠利の死の前に、武蔵がそれを忠利に献上したものだ、という伝説が、いまだに信じられているのである。

しかし、もう、そんな蒙昧に浸っている時ではない。三十九箇条であれ、三十五個条であれ、肥後兵法書については、とくに史料批判をきちんとなすべきである。そうすれば、この文書が、武蔵死後に書かれたもので、寛文年間の求馬助奥書以前には遡れない文書であることが知れよう。

「物毎に」そうであるが、武蔵研究においても、伝説に惑わされず、何事も虚心に先入見なしに、立ち入ってみることが必要である。

 

 

27 束をはなす (束をはなすと云事)

【原文】

 
一 つかをはなすと云事。
束をはなすと云に、色々心ある事也。
無刀にて勝心有、又、
太刀にてかたざる心あり。
さま/\心のゆく所、書つくるにあらず。
能々鍛練すべし。(1) 

 

 

【現代語訳】

 

一 束をはなすという事

束〔つか・柄〕を放すというのには、いろいろ意味がある。無刀で勝つという意味もあれば、また、太刀では勝たないという意味もある。

その意味の行くところ、さまざまであるが、それを書きつくせはしない。よくよく鍛練すべし。

 

 

【註解】

 (1)無刀にて勝心有、又、太刀にてかたざる心あり

ここは文が短いだけに、解釈が必要なところである。

束〔つか・柄〕を放すというのは、字義通りには、太刀の束を手から放すことである。太刀を抛棄することである。

――というと、へえ、剣聖武蔵はそんなことまで言っていたのか、と意外な感じがあろうが、ここはまた微妙な話なので、注意して読むべきところである。

ひとつは、無刀で勝つという意味もあれば、また、太刀では勝たないという意味もある、というところを字義通りに読んで、これを太刀遣いの応用篇と読む方向である。

言うまでもなく、無刀で勝つことは、柳生宗矩の『兵法家伝書』その他、これをテーマにする言説が多くあった。いざとなれば、刀なしでも勝つという空手〔くうしゅ〕の技である。したがって、これは取り立てて大したテーマではない。

もう一方の、太刀では勝たないという意味なら、これは太刀を放り出して、それ以外の武器で勝つということである。すでに何度も述べたごとく、剣術は武芸一般のひとつであるにすぎない。とくに具体的な場面を想定すれば、太刀は武器としては脆く、実戦ではすぐに使い物にならなくなる。そんなとき、その太刀を捨てて、別の武器を採って戦うのである。

しかし、ここは、別の武器で勝てというそんな話ではない。無刀で勝つということと、太刀では勝たないということは、同じことの両面である。その両面の相違を示唆しているのである。

ところが、第二の読みは、「束をはなす」それ自体が隠喩として使われているとして、そのレベルでここを読むことである。

これはどういうことかと言うに、前にあった「四つ手をはなす」という教えと同じような意味と捉えるのである。四つ手をはなすのは、実際に組み合った手を放すという字義通りの意味ではない。戦況が膠着してしまったら、事態を打開するために、それまでとっていた戦術からいったん離脱して、頭を切り替えてまったく別の手段をとれ、ということであった。

ここもそうした隠喩としての「束をはなす」であるとすれば、これはたんに一分の兵法のことに限らず、いわゆる大分の兵法、合戦などの集団戦を含めた戦い一般のことに拡大しての話である。

すなわち、《無刀にて勝心有》は、武器なくして勝つことであり、《太刀にてかたざる心あり》は武器では勝たないということであり、ようするにいづれも「戦わずして勝つ」という古来の戦争訓にある逆説的なポジションとなる。

おそらく、武蔵の《さま/\心のゆく所、書つくるにあらず》というのは、無数に口舌に載せられた孫子以来の「不戦勝」の、そうした兵法の根本的逆説性を念頭においてのことである。

パラドックスを説明すると、パラドックスではなくなる。言い換えれば、パラドックスは、言葉の表象的次元ではなく、まさしく行為の実践的次元にのみ、そのポジションがある。パラドックスは、イデアルなものでも、イマジナリーなものでもなく、まさにリアルな次元にのみあるからだ。

この《束をはなす》という語句が隠喩として行使されているとすれば、
《無刀にて勝心有、又、太刀にてかたざる心あり》
というテーゼの微妙さを、一応以上のようなことは念頭において読み取るべきである。ここは省略されているのでも、言葉が足らないのでもない。兵法の根本的逆説性を示唆しているこのテーゼは、この火之巻がそろそろ末尾に近づいたという徴候でもある。

しかしまた、この段は《無刀にて勝心有、又、太刀にてかたざる心あり》以上の具体的な記事はなく、武蔵が《さま/\心のゆく所、書つくるにあらず》と書いているのだから、不立文字である。水之巻末尾条々の例でいえば、これも「口伝」と付記があってよさそうなのに、寺尾孫之丞は、そうは書かなかった。

おそらく、寺尾孫之丞は、この「束をはなす」について、武蔵から何も聞いていなかったのである。寺尾は、その意味で正直な伝承者だと云える。しかし、次条の「巌の身」については、何か聞いていたらしく、「口伝」と付記している。

――――――――――――

 

さて、我々の解釈に対して従来の解釈はどうであろうか。

しばしば引き合いに出してきた岩波版注記は、この《束をはなす》を、これまた、「転心法の一つ。握っている束(太刀の柄)を放す。太刀を捨てるのではなく、刀にこだわっている、わが心を放つこと」として、これまた戦前からの古臭い心法説めいた説教を開陳するのである。

しかしながら、それだけの話なら、武蔵は「太刀にこだわるな」とストレートに言ったはずである。言外にある何かを示唆するような、ここでの物言いは、そんな単純な話ではない。また大分の兵法にたえず言及してきたこの火之巻である、そんな「刀にこだわっている、わが心を放つ」などという場違いの言説がここにあろうはずもない。

ここで、既成現代語訳を見るに、右掲の如しである。ここは、戦前の石田訳がテクストの文意に最も近接している。とくに《太刀にてかたず》について、「刀以外の物で勝つ」は意訳ながら、このテクストを、隠喩としてではなく、字義通りに読むレベルでは、これはこれで正しい。これに対し、戦後の諸訳は、いづれもこの箇処で間違っている。

神子訳は、「太刀をもちながら勝たぬ」という誤訳の路線を開き、大河内訳はこの誤謬を踏襲して、「太刀をもってしても勝ち得ない」、鎌田訳もまた「太刀をもっても勝たない」とする。これでは、刀がなくても勝つ場合もあれば、刀があっても勝てない場合がある、という凡庸きわまる意味でしかない。

ようするに、《無刀にて勝心有、太刀にてかたざる心あり》を文脈まで読み込んでいないから、こうした間違いが生じるのである。神子訳の影響は他にもあって、「刀にこだわるな」というその頭注の解釈は、岩波版注記に取り込まれ、以後の現代語訳にもその路線は踏襲されたとみえる。

もとより、武蔵の《さま/\心のゆく所、書つくるにあらず》の微妙な物言いに、こうした粗雑な読解は遠く届かない。  

 

 

 

28 岩石の身 (岩石の身と云事)

【原文】

 一 いはをの身と云事。
巖の身と云ハ、兵法を得道して、
忽巖のごとくになつて、
萬事あたらざる所、うごかざる所。(口傳*) (1) 

 

 

【現代語訳】

 一 岩石の身という事

 巌〔いわお・岩石〕の身というのは、兵法の道を会得して、たちまち岩石のようになって、どんな場合でも、当らない、動かない、というところ(である)。(口伝*)
 

【註解】

 

 (1)萬事あたらざる所、うごかざる所

これは五輪書の最も有名な教えのひとつである。それゆえ、これに言及する論も多い。しかるに、解釈そのものが間違っていたら、どんな立論も無効になろう。この教えについて語ろうとする者は、以下の註解によって、まず語の正しい意味を知るべきである。

「いわお・いはを」(巌)とは岩石の意味で、しかも巨石のイメージがある。磐坐〔いはくら〕という巨石を神体とする信仰は、今日でも随所にその痕跡を認めることができる。「巌の身」は、巨石を――神体ならぬ――我が身体とする教えである。

前条「束をはなす」に続いてこれも短文であるが、それとはちがって、ここは「口伝」とある。そうであるからには、本当は解釈に及ぶのは蛇足であろう。

ここで改めて云っておくが、五輪書が武蔵の兵法論の集大成であるとか、あるいは二天一流の奥義を明らかにした書だとか、そういう解説は後を絶たないが、それはすべて誤りである。

五輪書は決して奥義など語らず、肝心な処にくると、寺尾孫之丞は、「口伝」と付記して、不立文字の指標を立てる。五輪書は入門書であっても、決して奥義書などではないのである。

さて、ここでも「いわお(巌・岩尾)の身」がテーマだが、その内容はほとんどわからない。かろうじて、
《萬事あたらざる所、うごかざる所》
という部分で何事かが語られているのである。

寺尾孫之丞は、これについて、何ごとかを教えを受けていたらしく、ここに「口伝」と記す。すでに見たように、水之巻末尾、「打あひの利の事」「直通の位と云事」の二ヶ条について、「口伝」と記している。したがって、この「巌の身と云事」で三つの口伝が揃ったことになる。

しかし、前に述べたように、水之巻末尾三ヶ条は、他の条々と異なる体裁をもつ。これは元になる武蔵草稿に断簡があったのだが、それをそのままここに編入したのではなく、寺尾孫之丞が何らかの加工をしたうえで、そこに編入したものである。

武蔵本来の水之巻の記述は、「多敵の位」までであり、水之巻後記には、この末尾三ヶ条に関連のあることは語られていない。末尾三ヶ条は、草稿にはなく、寺尾孫之丞の編集によって生じたものである。

おそらく、それと同じく、火之巻本文は、前条「束をはなす」までであって、この「巖の身と云事」は、寺尾孫之丞による編入であろう。ただし、これは寺尾の作文なのではなく、武蔵にこの種の言説があったのを、忘れがたし、捨てがたしとして、寺尾がここに入れたのである。

寺尾孫之丞は、武蔵草稿に書かれざる一条をここに入れて、それを「口伝」(unwritten)とした。まさにそれを字義通りに受け取る必要がある。五輪書の教義すべてを知っていたわけではない寺尾だが、また逆に五輪書草稿に書かれていないことも知っていた。それは彼が長年武蔵に隨仕したからである。

したがって、寺尾が本条をここに編入したとしても、すくなくとも、《萬事あたらざる所、うごかざる所》という文言は、武蔵自身のそれであり、寺尾はそれをここに記録したのである。

しかし我々に知れるのはそこまでであって、寺尾が武蔵から、それ以上の何事を聞いたのか、推測のしようがないのである。むしろ、寺尾孫之丞は、五輪書に記したいくつかの口伝条々を資産として、自派を立ち上げた。だから、門人以外にはそれは明かされないのも当然である。

ところが、寺尾求馬助系統の肥後兵法書には、この「巌の身」に対応する一条がある。それを見るに、「口伝」という文言は付されていない。したがって、これは五輪書に「口伝」とあるのを知っている者が、いわば口伝などないと明かすかたちである。

そこで、肥後兵法書の記事を確認してみると、――岩尾の身になるというのは、動くことなく、強く大きくなる意味である。おのづから一切の理を得て尽きせぬことであるから、生ある存在は岩尾の身を避ける心があり、降る雨、吹く風にいたっても、この岩尾を避けることは同じである。岩石には精(spirit)はあっても、心(mind)はない、無心である――という話である。

これが口伝の内容かどうか、となると、何も確証がない。ちなみに、この肥後兵法書の次条「期を知ると云事」には、《一流に直通と云極意の太刀あり。此事口傳》とある。それに対し、こちらの方は、口伝が別にあるとは書いていない。むしろ、肥後兵法書を文言を見るに、これは五輪書の「巌の身と云事」を解釈したもので、もとより、肥後兵法書全体がそうであるように、武蔵死後、だれかが為した著述である。

ただし、肥後兵法書の、生ある存在は岩尾の身を避ける心があり、降る雨、吹く風にいたっても、この岩尾を避ける、というあたりが、五輪書にいう《萬事あたらざる所》の解釈であり、武蔵死後、求馬助の門流ではそう解釈していたという以上のことは知れない。

寺尾孫之丞の「口伝」は、これとは違ったものであろう。口伝とは、必ずしも秘伝奥義を意味しない。それは本来、言語レベルではなく行為レベルで、直接的な教えによってのみ可能な次元に関わるものである。

言語化できるのは抽象的なことで、具体的なものほど言語化できない。これが門外不出の排他的なものとなることによって、かろうじて実用的次元に留まりうる所以である。それはいかなるものか、という秘密を開示する「口伝」とは、実は究極的には言語ではなく、まさに行為の次元に関わる具体的なものであったからだ。とすれば、以下、その行為の具体的な次元に立ち入ってみる必要があろう。

 

ここで口伝の所在を示す《萬事あたらざる所、うごかざる所》は、攻撃を受けても、それが当らない、こちらは不動のままで、先様がよけて通るということである。こうなると、巌の身は奇跡的身体であり、このあたり神秘主義的言説に似てくる。

ところが、本当はそうではない。

――攻撃を受けても、身体は動かず、しかも当らない。
という事態は、奇蹟でも比喩でもなく、現実にありうることであった。いわゆる名人論・達人譚に、いくら打ち込んでも当らない、相手は動かないのに当らない、という話が山ほどある。

これは、一つには物理的な話で、「見切り」ということがあるからである。つまり、一尺(30cm)、五寸(15㎝)の間合いで見切るなら、身体は動く。ところが、一寸(3cm)という間合いの見切りなら、身体が動いたようには見えない。そういうことがある。

見切りという話では、右掲の『撃劍叢談』、柳生十兵衛の逸話が有名である。木刀で立合って相打ちとみえたものが、真剣では、生死の違いとなってリアルなものとなる。「すべて劍術のとゞくととゞかざるは、五分一寸の間に有る物也」というわけである。

武蔵説話の中に以下のような話もある。――宮本武蔵が人と仕合をするを見るに、相手の打込む太刀先や突出す太刀先が、ほとんど武蔵の頭に当るか腰を擦るかと思うほどであっても、一度も当ったことがない。武蔵は、身を開いて避けもしなければ、受け留めることも払うこともしない。そうして、相手が立直るところへすかさず付け込んで、勝を取るかあるいは相手を悩ますのである。

そこで、門弟中の少し出来る者たちが不思議に思って、ある日そのわけを質問すると、武蔵はにっこり笑って、こう答えた。
「それは、よいところへ気がついた。そこが、太刀先の見切と云って、仕合にも真剣勝負にも最も大切なことである。平生よく修業して置かぬと、大事の時に間に合わない。また、五躰の働きは、自由自在にすべきだが、大事の仕合等に、相手の太刀先を避けるため、あまり五躰を動かすと、その動くために五躰の備えに隙が出来て、相手につけ込まれる。だから、太刀先の見切によって無駄に五躰を動かさぬようにするのだ」という。むろん、
「初心の内は、五躰の働きを充分に修行せねばならぬ。だが、あらまし出来たらば、次には太刀先の見切を修行して、大事の時には無駄に五躰を動かさないようにするのだ」。
「そこで、この見切の仕方はいかにするかといえば、相手の太刀先と我身との間に一寸の間合を見切るのである。一寸の間合があると見切れば、相手が打ち下しても突いて来ても、決して我身に当るものではない。また一寸以上の間合があると見切れば、もとより何もする必要はない。もし一寸の間合を見切ることが出来なければ、その太刀先は我身に当ってしまうから、受けるとか脱すとか、わきまえておかねばなるまい」といって、
「しかし、はじめから、一寸の見切は出来るものでないから、まず五寸六寸ほどの見切を修業して、それが四寸になり三寸になり、次第に縮めていって、終に一寸の見切のつくようにするがよい」。
「さて、一寸の見切といえば随分細かいに相違ないが、一体剣術は大きい仕事を細かにするのが持前であるから、その心持で修業すれば、自然にその見切のつくようになるものである。これから、それを教えてやろう」。

そう言って武蔵は、門弟の中で、出来る者を教える時には、門弟の打ってくるか突いてくる太刀先を見ては、それは一寸、それは二寸、または三寸四寸、と声を掛ける。自分の方から打ったり突いたりする場合は、わざと太刀先を控えて、これは一寸、これは二寸、と声をかける。

かくして教えたので、門弟の中にも次第にこの見切のつく者ができたとのことである。武蔵の門弟中において、ある一派は、この見切の事を「色を見る」と称した。「色」とは有り余る意味で、一寸の色を見れば二寸の間合がある、という類である、云々。

以上は孫引きだが、『剣術落葉集』という書物にある話である。こういう場面が実際にあったかどうか、それは別にしても、これが「間合いを見切る」ということで、むだに身体を動かさないのが、上手のする戦闘法である。派手な立ち回りは、むろん、スペクタクルのフィクションなのである。

これに関連して、もうひとつは、身体の分裂操法ということがある。これで拍子が外されると、打ち込んでも当らない。あたかも身体の実体が消えたようで、手応えがない。これも、当らないということである。ここで、

――巌の身とは、空虚な身体である。
という逆説が不意に浮上する。

そして第三に、この「当らない」が、その都度必死になってよける、かわす、避けるという身振りのないことである。《石に精あり、心はなし》とはそれである。しかもこうなると、あたかも相手の攻撃が身体を避けて通っているかのように見える。これが、不動にして当らない、生ある存在も、雨風も避ける巌の身という比喩のイメージとなる。

これは名人達人と呼ばれる者の、アート(芸術)としての武術の極みであろう。しかし実戦の現場において、これがどれほど物の役に立つかとなると、それは極めて恠しい。こうした実用的次元から離れてはじめて、アートとしての武芸の価値がある。それは右の『丹治峰均筆記』の有名な武蔵説話によっても知れる。

しかし、「口伝」のことを再び云えば、口伝とは単なる口頭伝授のことではない。それは言語のレベルではなく、身体行為の次元に関わるものであったことは、強調しておくべきであろう。しかし、その次元での教えは、あるばあいには、致命的なものとなる。いかにしてそれが可能かという秘密を開示する「口伝」とは、実は究極的には言語ではなく、まさに行為のリアルな次元に関わるものであったからだ。

口伝と相関する行為のリアルな次元――それはたとえば、『撃劍叢談』の以下のようなエピソードによっても知れるであろう。

これは一刀流の伝説的人物、伊藤一刀斎の話だが、――東国で一人の浪人が地摺の晴眼〔ぢずりのせいがん〕という太刀を習得し、これに勝つ者はあるまいと思い込んでいた。それが一刀斎に出会って、「この地摺の晴眼を止める方法があれば、ご相伝下されたい」と申し入れた。一刀斎は、「なるほど、伝えてもよい」と応諾しながら、それをせず、また他国へ出かけてしまおうとする。そこで浪人は、「一刀斎もこの太刀を止めることができないから、逃げようとするのだ」と思って、一刀斎の出かける途中に待ちかまえ、「先日私が望んだ地摺の晴眼の止め方をご伝授ないのは、恨みに思います。今ここで、ご相伝下さい」と云うと、そのまま刀を抜いて、かの地摺の晴眼でするすると仕かけてきた。これに対し、一刀斎が抜打ちに切ると見えたとたん、かの浪人は二つになって倒れ伏していた。地摺の晴眼を止める方法は伝授されたのだが、残念なことに、教えられた方は死んでしまった。これを地獄の土産ともいうべし、との世評であった、云々。

まさに教えは致命的である。言い換えれば、教えのリアルな次元とは、たんなる「知識」ではなく、かような致命的な知にこそ関わるものである。

さて、この「巌の身」について異説がある。寺尾家記の、武蔵晩年の門弟・寺尾求馬助に関する逸話にこうある。――細川光尚があるとき武蔵に尋ねた、「巌の身とは何か」。武蔵はそれに答える代わりに、寺尾をここへ召してもらいたいと言った。そこで呼ばれてやって来た寺尾に、武蔵は、「いまお前に切腹を仰せつかった。そう心得よ」と言った。寺尾はその言をうけて、自若常の如く、動揺することもなく切腹の支度をしにかかった。そこで武蔵は光尚に言った、「これが巌の身であります」。

このパフォーマティヴな応答のシーンは、説話としてはまずまずの出來である。しかし、五輪書のいう巌の身とはすでに意味が違う。肥後兵法書の記事とも違う。武蔵通俗伝説の一種、後世発生の定型化した逸話である。同じ巌の身の解説譚として、光尚を父の忠利に、寺尾求馬助を都甲太兵衛に置き換えた、同型の逸話がある。

武蔵のいう「巌の身」を、いかなる場合にも動揺しない不動心とするのは、早期からあった誤解のようである。こうした誤解の生じるのは、禅家の通俗的「不動心」論が、世間にあまりにも大きな影響力をもっていたからである。武蔵の巌の身が、これとはまったく違った、口伝の秘法であったことは、まさに上述の通りである。

――――――――――――


この「巌の身」の節はごく短く、また難解語句もないので、語釈に間違いようはないはずである。ところが、既成現代語訳を見るに、「当たらぬ」「動かぬ」という語句が読めなくなっているのがわかる。つまりは、訳者それぞれの思い込みが投影され、色目が着いて、原文通りに読めぬものらしい。

戦前の石田訳は、「当たらぬ」というのを、「匹敵する者なく」と意訳したつもりだが、これは脱線である。また、「動かぬ」というところを「確固不動」とし、余計な語句を入れている。

戦後の神子訳は、「萬事あたらざる所」を「どのような打撃にもたえ」とした。「当たらぬ」がなぜ「打撃に耐える」ことになるのか、よくわからぬ訳文である。しかし、「動かぬ」を、「動かされない」と訳したのが神子の新機軸である。この主客転倒の受動態によって、「動かぬ」という主体のポジションが消えたのである。

ちなみに、岩波版注記は、巌の身について、「心技体一致の不動の体をいう」と、またまた半可通の珍解釈を示している。言うまでもないが、心技体一致なんてことは、五輪書のどこにも書いてない。解釈が恣意的な意味を生産してしまう例がこれである。他の解説本にも、この種の通俗解釈が多い。それについては、あまりにもバカげた歪曲なので無視してよかろう。

言うまでもなく、ここの教えは、「巌の身」であって「巌の心」ではない。こうした誤読は、身体論が精神論へ歪曲されたというよりも、むしろ実戦的テクノロジーは、その根源的暴力性ゆえに、反社会的なものであり、シンボリックな秩序――言語であれ社会であれ――の内部には決して統合・回収されない、という事実を証言している。これが、物事が口伝としてしか伝承されないことの真の意味である。

現代の恣意的な通俗的解釈を見るとき、やはり依然として、「巌の身」の教えは言説秩序には統合されないことを確認しうる。ここは、まさに不立文字で行くしかないようである。その意味では、「巌の身」の教えを口伝とした寺尾孫之丞は、今でも正しいのである。

――――――――――――


この「いはをの身と云事」のごく短い条文においても、校異がある。それは、本条見出し冒頭で、諸本に次のような字句がある。
《一 いはをのミと云事。巖の身と云事、兵法を得道して》

このように、《云事》が反復されるのは、誤記だとみなしてよい。つまり、たとえば、前出条々の例では、
《一 あらたになると云事。新になると云ハ》
《一 そとうごしゆと云事。鼠頭牛首と云ハ》
《一 しやうそつをしると云事。将卒を知るとハ》
《一 つかをはなすと云事。束をはなすと云に》
というように、見出しは、《云事》であり、本文に入ると、《云ハ》《とハ》等々と記すのが五輪書の記述スタイルである。《云事》の重複はしない。とすれば、本条のように《云事》が反復されるケースは、後の《云事》が《云ハ》の誤記である。

しかるに、興味深いことに、この誤記が筑前系/肥後系を横断しているのである。つまり、この誤記は筑前系諸本にもあり、肥後系諸本にもある。

このように、筑前系/肥後系を横断するケースでは、その語句を古型として、正しいものとして採るのが我々の通例である。しかし、問題は、これは明らかに誤記であって、正しい字句とは云えないことである。

それで、諸本を見るに、これを《云ハ》として正しく記す例もある。つまり、筑前系では越後系諸本がそれであり、また肥後系では狩野文庫本が《云は》と記すのである。

しかし、これは筑前系/肥後系を横断するケースであるが、古型とみなすことはできない。たとえば、越後系諸本のばあい、その祖本たる立花隨翁本が、すでに《云事》の重複を示している。したがって、赤見家甲本に示すがごとく、立花増寿の弟子・丹羽信英の段階で、これを異として、《いふハ》へ変更したのである。肥後系の円明流末、狩野文庫本も、同様の仕儀で《云事》を《云は》に変更した系統である。

ところで、この誤記《云事》をどう見るか。正しい字句ならともかく、誤記が筑前系/肥後系を横断して両方に存在するという事実は、両方に平行してそれぞれに偶発したものだとはみなしがたい。したがって、古型はこの誤記の方だろう、という見当がつく。

とすれば、このように筑前系/肥後系に共通することから、これは寺尾孫之丞段階にまで遡りうる誤記なのである。ただ、このばあい、寺尾孫之丞が、ついつい誤写して「事」字を書いてしまったのか、どうかという問題とは別に、武蔵草稿の想定しうるオリジナルへ遡行するとすれば、正記の方をとるべきである。

つまり、これは《云事》ではなく《云ハ》が正しい。そのことによって、オリジナル復元は、《云ハ》でなければならない。したがって、我々のテクストでは、これを《云ハ》とする方を採ったのである。

 

 

29 火之巻 後書

【原文】

 右、書付る所、一流劔術の場にして、
たへず思ひよる事のミ、書*顕し置もの也。
今始て此利を記すものなれバ、
跡先と書紛るゝ心ありて、
こまやかにハ、いひわけがたし。
さりながら、此道をまなぶべき人のためにハ、
心しるしになるべきもの也。(1)
我若年より以來、兵法の道に心をかけ、
劔術一通りの事にも、手をからし、身をからし、
いろ/\さま/\の心になり、
他の流々をも尋みるに、
或ハ口にていひかこつけ、
或ハ手にてこまかなるわざをし、
人めによき様にみすると云ても、
一つも實の心にあるべからず。
勿論、かやうの事しならひても、
身をきかせならひ、心をきかせつくる事と
思へども、皆是道のやまひとなりて、
のち/\迄もうせがたくして、
兵法の直道、世にくち、道のすたるもとゐ也。
劔術、實の道になつて、敵と戦勝事、
此法聊かはる事有べからず。
我兵法の智力を得て、
直なる所を行ふにおゐてハ、
勝事うたがひ有べからざるもの也。(2)

 

 

【現代語訳】

 

 右に書き付けたところは、我が流派の剣術の現場おいて、たえず思いあたったことのみを、書きあらわしておいたのである。

今はじめて、この利〔理論〕を書き記したので、後先が混乱して書いた感じがあって、詳細まで説明できていない。しかしながら、この道を学ぼうとする人のためには、心の道標になるはずである。

私は若年のとき以来、兵法の道に心を懸けて、剣の技術は、一通りのことなら手も身体も余すところなく徹底的に試し、いろいろさまざまな心になって、(実際に)他の諸流派をも尋ねて(やり方を)見てきたのだが、(他流の彼らは)ある者は口先で屁理屈をこね、ある者は小手先の技巧を弄して、人目に見事なように見せているとはいえ、ひとつも真実の心にはありはしない。

もちろん、このようなことを習っても、身体を利かせるのに習熟し、心を利かせつくす事だと思っても、すべて、まさに道の病いとなって、後々までも(それが)消しがたく、兵法の直道〔正しい道〕は世に朽ちて、(兵法の)道の廃れる原因になっている。

剣術が、真実の道になって、敵と戦って勝つこと。この法〔原則〕が、いささかも変ることがあってはならない。我が兵法の智力を得て、(その)真っ直ぐなところを行う、そうすれば、勝つことは疑いのありえないものである。

 

 

 

【註解】

 

 

 (1)一流劔術の場にして、たへず思ひよる事のみ…

以下、この火之巻の後書である。

この「一流剣術の場」とは、なかなか面白い言い回しである。直訳すれば、我が流派の剣術の現場、ということになるが、若干解説が必要である。

この「一流」というのは、五輪書の通例では、武蔵が自分の流儀を指すばあいに用いられている。しかし、ここでは若干ニュアンスが異なる。つまり、武蔵が振り返って見た一流の歴史が織り込まれているのである。意訳すれば、これは、武蔵が一流を立てて以来、行ってきた剣術の現場、ということである。

その剣術の場が、どのようなものかと云えば、この火之巻序文にあるところである。

つまり、――我が兵法においては、度々の勝負に一命を賭して(太刀を)打ち合い、生死二つの利の分かれ目を知り、刀の軌道を覚え、敵の打つ太刀の強弱を知り、刀の刃棟〔はむね〕の使い方をわきまえ、敵を打ち果せるよう鍛練をするものであるから、些細なこと、弱いことは、思いもよらないところである。ことに、甲冑を装着して(戦場に出るばあい)の利に、些細な(相違の)事を発想することはありえない。それゆえ、命がけの打ち合いにおいて、一人で五人十人とも戦い、その勝つ方法を確実に知ること、それが我が道〔二刀一流〕の兵法である、と。

これが、武蔵の云う「一流剣術の場」なのである。となると、「剣術」という語も、現代語の意味の剣術とは違う。ここでは剣の技術、剣の戦闘術、という意味である。しかも一流の歴史を織り込んでいるので、その剣術鍛練の過程という含みもある。したがって、ここは、武蔵が一流を立てて以来、行ってきた剣術鍛練の現場において、ということである。
《一流劔術の場にして、たへず思ひよる事のみ、書顕し置もの也》

したがって、これは、今日昨日、思いついたことを書いているのではない、ということである。長年一流鍛練の場で、たえず思いあたったこと、つまり、その鍛練の現場で得た実践的な智恵を、武蔵流にいえば「兵法の利」をここに書いておくというわけである。

しかも、ここで《たへず思ひよる事のみ》とあって、「のみ」と強調しているのを看過できない。すなわち、ここで書いているのは、そういう剣術の現場で獲得したものばかりだ、ということ。言い換えれば、自分が剣術の現場で実際に経験して得た智恵だけを書く、それ以外のことは書かないということである。

武蔵が強調しているのは、そういう現場で得た智恵だけを書いていること、すなわち長年の剣術鍛練の過程、その折々の現場で獲得し実証を得た実践的な兵法の智恵ばかりだ、ということである。他人の教えや他の兵書を読んで得た借り物の知識ではなく、自分が実証を得た兵法の智恵しか、ここに書いていない、――そう言うわけである。

主として太刀筋に話が向った水之巻と異なり、火之巻は、大分小分の集団戦に言及する点、兵書たらんとしたところである。

しかし、《今始て此利〔理〕を記すものなれば》とあるが、実際にはそうではなく、すでに述べてきたように、原型となる兵法論は五輪書に先行して存在していたはずである。というのも、《多分一分の兵法として、世に傳る所、始て書顕す事》(地之巻後書)と書いているように、五輪書以前に、武蔵は「多分一分の兵法として、世に傳る所」があったのである。

しからば何故に「今始めて記す」あるいは「始て書顕す」と書いているかと言えば、それは、武蔵が世に伝えてきたのは、いわばオーラル(口頭)の教説理論であって、書物にしたものではなかったということである。つまり、釈尊や孔子は語り教えたが、書かなかった。それと同じように、武蔵はこれまで兵法理論を語り教えて、それが世の中に伝わったが、書物(writings)は書かなかった。しかし、いまや、それを書いておく、というわけである。

本書の内容を見るに、明らかに世の中の兵法書と違う。異例異数のものである。その特徴はなにかと云えば、それまでの他の兵法書とは違う対象、つまり若年初心者までを含む広い範囲を想定して書かれた兵法教本だということである。

このため、武蔵は、かつてない書き方・説き方をする必要があった。それゆえに、後先が混乱して書いた感じがあって、詳細まで説明できていない、と武蔵が書くとしても、それは少なくとも、これを読んで解らぬ読者まで対象にしているから、そのように云うのである。一流内部に限らず、多少とも兵法論に心得のある者が相手なら、こんな科白は言わずもがなである。

言い換えれば、武蔵は本書を、兵法を学ぶふつうの読者の「心しるし」になるべし、と思って書いたのである。そのために、武蔵がこの巻を書下したということである。そのように後先が混乱して書いた感じがあって、詳細まで説明できていないけれど、――というのは、この巻がまるごと一筋に書下されたことを意味している。


――――――――――――

 

ここで、指摘すべき校異が一つある。それは、筑前系諸本間にみえるところの相異であるが、
《右、書付る所、一流劔術の場にして、たへず思ひよる事のミ、書顕し置もの也》

筑前系の立花=越後系諸本では、このように、《書顕し》とするが、それに対し、早川系写本には、《云顕し》とする。「書」字と「云」字の相異である。

これに関して、肥後系諸本を参照すれば、《云顕し》が多い。しかし、富永家本のように、《書顕し》とする例もある。

つまり、肥後系諸本にも《書顕し》と《云顕し》の両方がある。したがって、「書」字と「云」字の相異は、両方とも筑前系/肥後系を横断して存在する。となると、諸本分布状況では、是非の決しがたいことである。

もともと草体では「書」字と「云」字は紛らわしくて、双方向に誤読することがある。それゆえ、このケースでも、どちらかが誤写である。

となると、内容分析から正誤を判断することになる。結論を云えば、この文脈からして、《書顕し》の方が《云顕し》よりも妥当である。というのも、ここは火之巻後書なので、火之巻そのものについて述べている。だから、云いあらわすという「表現」(expression)ではなく、書きあらわすという「記述」(description)のことなのである。

この部分の次に、《跡先と書紛るゝ心ありて、こまやかにはいひわけがたし》とあるのは、細かに説明しがたいということだが、こちらは表現の方なので「云分けがたし」である。

五輪書の類似箇所での語用例をみるに、たとえば、この火之巻序文には、
《戦勝負の事を、火之巻として、此巻に書顕す也》
とある。あるいは、水之巻序文にも、
《水之巻として、一流の太刀筋、此書に書顕すもの也》
とあり、また、地之巻後書には、
《多分一分の兵法として、世に傳る所、始て書顕す事、地水火風空、是五巻也》
とあって、語例としては、《書顕す》とするものが多い。

したがって、内容分析からすれば、ここは、《書顕し》の方が《云顕し》よりも妥当である。したがって、我々のテクストでは、《書顕し》を採っている。

これも、肥後系諸本ばかりを見ていては分らぬことである。とくに、楠家本・細川家本・丸岡家本を中心に見ていては、物事が見えない。富永家本を例外として扱うしかない。また、これに筑前系の吉田家本を加えたとしても、それでは同じことである。同じ筑前系でも、早川系とは異系統の立花=越後系諸本と照合してはじめて、《書顕し》という語句が例外ではないことに気づくのである。

すなわち、立花隨翁本が《書顕し》と記し、さらに丹羽信英による赤見家甲本がそれを記し、以下越後系諸本に《書顕し》と作る。

このように、《書顕し》という字句が例外ではないことに気づけば、上述のように、内容分析へ進みうる。そして正解を得るのであるが、そうではないと、《書顕し》という語句を例外として却下してしまうところである。

したがって、繰り返し言うように、かような誤りに陥らぬためには、できるだけ諸本を広く参照して、先入見なき心で、字句を読むことが、五輪書研究において専〔せん〕なのである。

もう一つの校異に話を遷せば、こちらは、《書顕し》よりも、事はさして難しくはない。肥後系諸本だけではなく、筑前系諸本をよく見ればわかることだからである。すなわち、筑前系諸本には、
《今始て此利を記すものなれバ、跡先と書紛るゝ心ありて》
として、《記す》と記すところ、肥後系諸本には、これを《書記す》として、「書」字を入れる。つまり、「書」字の有無という相違であるが、これは筑前系/肥後系を截然と区分する指標的相異である。

このケースでは、筑前系諸本に共通であるから、これまでしばしば出た事例と同じく、《記す》は、筑前系初期、就中、柴任美矩が寺尾孫之丞から伝授された段階に遡りうる字句とみなしうる。

他方、「書」を付す事例は、それが肥後系諸本に共通することから、これも肥後系早期に存在したものとみなしうるが、筑前系諸本の《記す》のアドヴァンテージには及ばない。言い換えれば、それが寺尾孫之丞後期に記された字句であったとしても、前期/後期の順序からすれば、筑前系の《記す》を優先すべきであるし、また、その「書」字が、門外流出後に発生した衍字、肥後ローカルの変異である可能性も消去できない。

したがって、我々の五輪書テクストでは、筑前系諸本に準拠するかたちで、「書」字のない《記す》の方を採っている。

 

(2)兵法の直道、世にくち、道のすたるもとゐ也

ここで、まず武蔵は、自分が若年の頃から兵法者としてさまざまな経験を積んできたことを語る。ここに到るまでには、紆余曲折があったであろうと思わせる、口ぶりである。

すでに地之巻冒頭の自序部分で、武蔵が語っていたのは、二十代までの武芸の天才が、三十を越えて反省=再帰(reflexive)の過程に入り、いわば「事後の修行」を、その後、五十歳になるまで二十年も続けたということである。

このプロセスにおいて、最初の成就は――ヘーゲル流に言えば――《即自》であり、その後二十年かけてたどり着いた、第二の成就は《対自》であると言える。あるいは、こうも言える――最初の一周は裏側へ出て、次の周回でようやく元の地点に戻るというメビウスの環のように、一通りのプロセスを辿るには、二周することが必要である、と。言い換えれば、「二」は「一」であるが、それは実は「一」は「二」であるからである。「二天」とは陰陽なのであった。

ともあれ、誰しも思うのは、道が向上の一筋道で、最後には究極に到るという、リニアなプロセスである。たぶん武蔵のように、二重に折り畳まれたここまでのプロセスを歩みうる者は稀であろう。

その上で、武蔵がここで、つい、筆をすべらせてしまったかのように、状況批判がこれに続くのである。
《勿論、かやうの事しならひても、身をきかせならひ、心をきかせつくる事と思へども、皆是道のやまひとなりて、のち/\迄もうせがたくして、兵法の直道、世にくち、道のすたるもとゐ也》

なかなか武蔵の批判は手厳しい。ひとは老ゆれば角が取れて円くなる――そんな常識(あるいは期待)を裏切るのが、武蔵の老境である。

武蔵のいう「道の病」、この隠喩としての病は、我々の時代の用法と共通するから、説明は要らない。

道に病いがある。それは失せがたい病である。《兵法の直道、世にくち、道のすたるもとゐ也》――。かくして、武蔵の兵法は、まさしく道の末法である。言い換えれば、剣術興隆の真最中に、武蔵の認識によれば、末法を我が状況としていたのである。五輪書が批判の書でもあるのは、こうした状況認識のゆえである。
《劔術、實の道になつて、敵と戦勝事、此法聊かはる事有べからず》

剣の技術が真実の道になって、敵と戦って勝つこと、この原則がいささかも変ることがあってはならない。――ということは、道の末法においては、剣の技術が真実の道にならず、敵と戦って勝つという第一義すら忘れられている、ということである。そこで、武蔵は改めてこれを強調しているのである。
《我兵法の智力を得て、直なる所を行ふにおゐては、勝事うたがひ有べからざるもの也》

これが、この火之巻を要約する教訓である。「戰氣」と書いた、武蔵自筆と伝える書幅がある。その文字の堂々たる気迫たるや、巷間大いに賞揚されるところであるが、同時にこの「戰氣」、その足をすくうような状況もあったのである。それゆえに、この「戰氣」は単純なそれではなく、あえて「戰氣」、いわば反時代的な「戰氣」でもあった。

しかしながら、もう一つ付け加えるべきことがあろう。五輪書読みを何十年もやっておれば気づくことであるが、――これは、兵法を説き来たった火之巻の後書としては、どこか尋常ではない言説である。他流批判は次の風之巻で展開されるが、テクストはそれを待ちきれないかのように、いきなり話が展開するからである。

つまり、火之巻を完結する後書としては未完成で、しかも次の風之巻との区画が明確ではない。想定されるのは、おそらく、「原五輪書」には、まだ完全な形での火之巻後記はなかった、武蔵はここを書く前に絶筆した、ということである。

それに対し編集者たる寺尾孫之丞は、遺された未定稿をもとに整理せざるをえず、たまたま、現存写本のごとき、座りの悪い奇妙な後書になったのである。最後に《勝事うたがひ有べからざるもの也》とあるところ、唐突にここで文章が終っているのは、そのためである。

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なお、語釈の問題があるとすれば、
《劔術一通りの事にも、手をからし、身をからし、いろ/\さま/\の心になり、他の流々をも尋みるに》
とある部分であろう。この《手をからし身をからし》の「からす」は、前にあったように、空っぽになるまですべてを動員し消尽することであるが、ここでは「手」と「身」において余すところなく技術を徹底的に試してみた、という意味である。岩波版注記のように、《手をからし身をからし》を単に「鍛錬する意」とするだけでは、「からす」という語の意味の大半を見過ごしているわけである。

次の《いろ/\さま/\の心になり》というのは、先の「手」「身」に対して「心」である。この心の面では、いろいろさまざまな心になってみたというのである。この「いろいろさまざま」は、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、右往左往して、心が散々迷った、心の迷いを経験した、――ということではない。前に「敵になる」という教えがあったが、それと同じように、他流の心は、いろいろさまざまあるが、それもいちいち経験してみて、ということである。したがって《いろ/\さま/\の心になり》を、岩波版注記のように、「心の修行を積み重ねて」と解するのは、語句の意味が外れているばかりではなく、別の物語を創作してしまっているのである。

要するに、ここで文意は、およそありとあらゆる流派について、「手」と「身」と「心」の三つの次元で徹底的に試してみた、というわけであるから、そうしたコンテクストを外しては、誤りなのである。これは、地之巻冒頭の、諸国を廻り六十余度の勝負に勝ったという一節と呼応するものと、読むべきところである。

この箇処の既成現代語訳は、右掲のように、はなはだ問題がある。すなわち、戦前の石田訳以下、いづれも「からし」を「鍛錬する」とする誤訳において共通し、また《いろ/\さま/\の心になり》をまともに訳せていないのである。とくに近年のものほど、誤訳量が増大しているのは、まことに困った事態であると云わざるを得ない。

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ここで、校異の問題に関して指摘すべきところがある。すなわちそれは、筑前系諸本に、
《我若年より以來、兵法の道に心をかけ、劔術一通りの事にも》
として、《心をかけ》と記すところ、肥後系諸本には、これを《心をかけて》として、「て」字を入れるものがある。つまり、「て」字の有無という相違である。ついでに、もう一つ挙げれば、筑前系諸本に、
《兵法の直道、世にくち、道のすたるもとひ也》
として、《世にくち》と記すところ、肥後系諸本には、これを《世にくちて》として、「て」字を入れる。つまり、これも「て」字の有無という相違である。

前者の「て」については、肥後系諸本すべてがこれを付すわけではない。円明流系統諸本では、「て」字を付けない。したがって、肥後系でも早期には、《くちて》ではなく、《くち》と記した可能性もあると知れる。

また、後者の「て」については、前者のケースとは異なり、肥後系は諸本共通して、「て」を付す。したがって、後者の「て」字の有無は、筑前系/肥後系を区分する指標的相異である。

この件については、前者・後者とも、筑前系諸本に共通して、「て」字を付さないのであるから、これまでの前例と同じく、筑前系諸本の書記例を古型とみなして、それを採るべきである。したがって、我々のテクストでは、どちらも「て」字を付さないのである。


さて、この火之巻でも諸本に奥書を記す。既述の通り、肥後系諸本は、奥書に関して、相伝文書の体をなさぬものだが、筑前系諸本には、相伝年月日、相伝者氏名とも記す。

吉田家本は、柴任美矩から吉田実連への相伝年月日を記すが、同じ早川系の中山文庫本にはこれを欠く。これは中山文庫本には伝系記事に関して脱落があって、その点二次史料たることを示す。

これに対し、越後系諸本は伝系記事を正確に伝えている。柴任美矩から吉田実連への相伝年月日も、吉田家本と一致し、また相伝時期によって相異のある柴任の諱も正確に伝えている。

とりわけ、立花=越後系諸本の奥書に関して、重要なのは、吉田実連から立花峯均へ、五輪書諸巻がいつ伝授されたか、たとえば、この火之巻の相伝時期が知れることである。

立花峯均が吉田実連から五輪書諸巻をいつ伝授されたか、それを示すのは、従来は越後系諸本のみであったが、後に立花隨翁本の発掘により、越後系諸本の伝系記事が正しく伝えられていることが判明したのである。

したがって、現在までのところ、近年越後その他で発掘できた諸本は、五輪書研究のみならず、武蔵道統・筑前二天流、立花峯均研究においても、重要史料なのである。

 

▲立花隨翁本 火之巻奥書伝系記事 立花峯均相伝年月日「元禄十三年八月十九日」

 

▲赤見家甲本 火之巻奥書伝系記事 立花峯均相伝年月日「元禄十三年八月十九日」